36 近江長岡~関ヶ原(岐阜県)~大垣


・平成19年7月14日(土) 長浜

 長浜駅を出て駅前通りを歩く。梅雨は未だ終わってなくて、それに台風が近づいている。曇り空で時々雨が降り、陽が射してきたりする。雲の流れが速い。
 北国(ほっこく)街道に入り左へ曲がる。一つ目の角を右へ曲がり大手門通りアーケードを通る。米川という名前の小さな川に架かる大手橋を渡り、金屋公園を過ぎて長浜御坊表参道に入る。左へ曲がる。

 正面に、真宗大谷派長浜別院大通寺(だいつうじ)の巨大な山門が建っている。
 関ヶ原合戦後、長浜城が取り壊され、彦根に城が築かれる。それ以後、長浜は、城下町から大通寺の門前町、北国街道の宿場町として栄えた。


大通寺 山門


 山門は、文化5年(1808年)起工、33年後の天保11年(1841年)に落成した。総欅造り、二層門。市指定文化財である。 
 山門の前から左へ曲がり、なまこ壁の塀に沿って歩く。台所門が建っている。この門は、元長浜城の大手門であったと伝えられている。市文化財に指定されている。


山門




台所門


 台所門を潜って境内に入る。7,000坪の広い境内に入母屋造りの壮大な本堂が建っている。江戸時代初期に建立された。国重要文化財である。
 本堂の右手に太鼓楼と鐘楼が配置されている。いずれも市指定文化財である。


本堂


太鼓楼


 左手に本堂と渡り廊下で繋がっている大広間と附玄関(つけげんかん)が建っている。大広間は江戸時代初期建立。附玄関は江戸時代中期の宝暦10年(1760年)に建立されている。附玄関を含む大広間は国重要文化財に指定されている。


附玄関


 大広間の内部を見学する。
 玄関に豪華な駕籠が置かれている。説明書によると、駕籠は、玄関が建てられた宝暦10年当時の大通寺住職・横超院の御内室であった彦根藩主・井伊直惟の息女・数姫お輿入れの時に使われたものである。

 案内板に従って回る。
 書院造の大広間は、本堂と同様に伏見城の遺構である。床の間の花鳥図、襖に描かれた人物図は、豪華で大らかな雰囲気を表わしている。廊下で隔てられている新御座(しんござ)の襖絵は、金地に墨で老梅が描かれている。12面の襖に大きく枝を広げた雄渾な絵である。
 花や鳥を描いた杉戸絵を見ながら廊下を歩く。

 国指定名勝の含山軒(がんざんけん)庭園を廊下から見る。枯山水の庭園である。伊吹山を借景としているが、曇っていて伊吹山は見えなかった。

 大通寺は、蓮如上人御影(ごえい)道中が御上洛途上に休憩する寺である(蓮如上人御影道中については、目次28、平成17年11月27日及び目次30、平成18年5月6日参照)。

 大通寺を出て北国街道に入る。左へ曲がり1キロ程歩く。十一川(じゅういちがわ)に架かる橋を渡る。ここからは伊吹山がよく見えた。豪快で力強い山容が間近に迫ってくる。
 左へ曲がり50mほど歩き左へ曲がる。曹洞宗興福山徳勝寺(こうふくざんとくしょうじ)
に着く。

 徳勝寺の本殿の裏は墓地になっている。墓地に小谷城(おだにじょう)城主三代の墓がある。
 墓石が三基並んでいる。左から、三代・浅井長政(あざいながまさ)(1545~1573)、初代・浅井亮政(すけまさ)、二代・浅井久政と説明されている(浅井長政については、目次34、平成19年4月29日参照)。

 本堂の右横に説明板が立っていて、おおよそ次のことが書かれていた。

 「永正15年(1518年)、小谷城主であった浅井亮政が、上山田村(現・滋賀県湖北町)に創立された徳勝寺を城下の清水谷に移して、浅井家の菩提寺とした。
 小谷城が落城した後は移築が繰り返されたが、寛文12年(1672年)、彦根藩主・井伊直孝により現在の地に移された。」


同年7月15日(日) 近江長岡~関ヶ原(岐阜県)~大垣

 昨日チェックインした北ビワコホテルグラツェエを出る。2泊予約していた。
 長浜駅から電車に乗る。米原駅で東海道本線の電車に乗り換え近江長岡駅で降りる。駅を出て右へ曲がる。「奥の細道」の旅で長い距離を歩くのは今日が最後になる。

 1キロ程歩く。東海道新幹線の線路の下を潜る。1、5キロ程歩き国道365号線に入る。上り坂になる。
 台風は過ぎ去った筈だが空は曇っている。突然、雨が降り出す。増水した水が側溝から溢れて道路にまで流れてくる。湿度が高くなっている。周囲の山は濃い霧に包まれている。

 3キロ程歩く。道幅が広くなり歩きやすくなった。下り坂になる。岐阜県関ヶ原町(せきがはらちょう)に入る。「奥の細道」の旅の最後となる県に入った。
 雨は止んだが、空は依然として曇っている。時折り突風が吹く。
 右側の崖の斜面にヒメユリが群生している。赤に近い鮮やかな橙色のヒメユリは、湿って重く感じられる空気の中で生き生きと咲いている。

 2、5キロ程歩く。国道の左側に「関ヶ原決戦地」と刻まれた古い小さな石碑が立っている。国道から離れて、石碑の前の緩やかな坂を上る。一面に田畑が広がっている。坂道は農道だった。


関ヶ原古戦場



 前方左斜めの山に数本の幟旗が立っている。笹尾山の石田三成陣跡である。西軍の石田三成(いしだみつなり)(1560~1600)は、笹尾山に布陣し、6、000の兵を配した。

 坂を上り切って右へ曲がる。100m程歩く。左側に、「史跡 関ヶ原古戦場 決戦地」と刻まれた石碑が立っている。昭和13年(1938年)3月に立てられている。辺りには東軍の指揮官・徳川家康(1543~1616)と西軍の総大将・石田三成のそれぞれの幟旗が立っている。風に幟旗がはためいている。


石碑 「史跡 関ヶ原古戦場 決戦地」


 慶長5年(1600年)9月15日辰五つ時(午前8時頃)、戦の火蓋が切られた。
 石田三成率いる西軍が戦を優勢に進めていたが、当初は西軍であった
小早川秀秋(こばやかわひであき)(1582~1602)が裏切り、15、000の兵を動かして東軍に寝返った。西軍は敗北する。

 西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ)(1565~1600)は自刃する。自刃する際、小早川秀秋の陣に向かって呪詛に満ちた言葉を投げつけた、といわれている。
 捕らえられた
石田三成小西行長(こにしゆきなが)(1555~1600)は、京の六条河原で処刑される。小西行長は、キリシタン大名であったため切腹を拒否した。

 小早川秀秋の裏切りを工作し、成功させたのは、東軍の黒田長政(くろだながまさ)(1568~1623)であった。
 小早川秀秋は、若干19歳であった。
豊臣秀吉(1537~1598)の正室・ねね(北政所)(1549~1624)の甥である。2年後、21歳で早世する。

 秀吉の家臣であった石田三成は、秀吉に対して強い忠誠心を持っていた。豊臣家の安泰と秀吉の後継者である豊臣秀頼(とよとみひでより)(1593~1615)を守るために戦ったが、秀吉の正室の甥に滅ぼされたような結果となった。

 合戦後、秀吉が築いた長浜城は取り壊された(秀吉と長浜城については、目次34、平成19年3月24日参照)。東軍の井伊直政(いいなおまさ)(1561~1602)の死後、井伊家は彦根に城を築く。

 慶長19年(1614年)大坂冬の陣に次ぐ、慶長20年(1615年)大坂夏の陣において、秀頼は徳川家康と戦う。秀頼は敗北し、大坂城落城の際に自害する。22歳であった。秀吉の側室であった、秀頼の母である茶々(淀君)(1569~1615)は秀頼と共に自害する。豊臣家は滅亡した。

 緑溢れる田畑が広がり、山には霧がかかっている。静かで穏やかな風景である。
 約400年前、ここが天下分け目の決戦となった激戦地であったことを史跡の石碑が立っていなければ誰も気が付かないだろう。

 国道365号線に戻る。500m程歩く。国道から離れて旧道に入る。左側に、徳川家康最後陣跡がある。公園のように整備されている。隣に田中吉政陣跡がある。

 300m程歩く。朱塗りの門が立っている。「東首塚」と書かれた額が掛けられている。合戦後、家康が西軍の武将の首実検を行い、首を葬った場所である。
 門を入ると、左手にお堂が建てられている。説明書によると、お堂は東西両軍の戦没者の供養堂である。昭和15年(1940年)、名古屋市の護国院から移築されたものである。

 中を通って道路に出る。十字路を右へ曲がる。右側に、松平忠吉、井伊直政陣跡が見える。聳える松の木の間に幟旗が立っている。

 陸橋を渡り東海道本線の線路を越える。左へ曲がり100m程坂を下る。関ヶ原駅の前に出る。
 駅の反対側に観光案内所が建っている。関ヶ原ガイドマップをいただく。それを見ると、まだ多くの陣跡や合戦に所縁の場所がある。これを全部回っていたら半日はかかるだろう。今日はこれからまだ先が長いので合戦の史跡めぐりはこれだけにする。

 駅の前を通り国道21号線に入る。左へ曲がる。十字路の反対側の角に醤油醸造の工場が建っている。
 1、5キロ程歩く。野上(のがみ)の歩道橋の左手に旧道が伸びている。国道を離れて旧道に入る。旧道は
旧中山道である。

 松並木が現れた。旧中山道松並木として関ヶ原町の天然記念物に指定されている。しかし、昔からの松並木は少ないように思われる。関ヶ原町は、松並木の保存のために新たに松の木を植えている。


旧中山道松並木


 天気が回復し青空が広がってきた。梅雨も明けたような気配である。
 松並木は800m程続いていた。松並木がなくなり、両側に風格のある旧い屋敷が並ぶ。



 2キロ程歩く。関ヶ原町を出て垂井町(たるいちょう)に入る。500m程歩く。垂井一里塚の前に出る。
 一里塚は、江戸・日本橋から一里(約4キロ)ごとに主要街道の両側に築かれた。垂井一里塚は、江戸から112番目の塚である。南側だけが残っている。塚の頂上に榎が植えられたが、垂井一里塚には松が生えている。後年、榎から松に植え替えられたのだろうか。昭和5年(1930年)、国の史跡に指定された。

 一里塚の隣に落ち着いた佇まいの茶所が建っている。案内板によると、「明治の初め関ヶ原山中にあった秋風庵を現在の場所に移築したもので、昭和の初めまで休憩所として賑わっていた。」と説明されている。


茶所


 下り坂になっている道を300m程歩く。旧中山道は、国道21号線と東海道本線に分断されている。陸橋を渡って国道21号線を越える。次に東海道本線の線路を渡る。
 500m程歩く。途中、赤い鳥居が立ち並ぶ松島稲荷の前を通る。大谷川に架かる橋を渡る。
西の見附跡に着く。

 西の見附は、垂井宿の西の入り口である。案内板に「ここで大名等の行列を迎えたり、非常事態の時にはここを閉鎖した」と書かれている。
 通りは屈曲して、全体を見通すことが出来ないように作られている。矩折(かねおり)又は枡形(ますがた)と言われている。

 通りの左側に、壮大な本堂を持つ本龍寺が建っている。
 山門を潜って境内に入る。この山門は、脇本陣から移築されたものといわれている。宝形造りの屋根となまこ壁の建物は集古館だろうか。


本龍寺 山門


本堂


本堂



 芭蕉は、「奥の細道」の旅が終わった2年後の元禄4年(1691年)、本龍寺第8世・規外(きがい)を訪ね、冬篭りをしている。そのとき、「作り木の庭をいさめる時雨(しぐれ)かな」と詠んでいる。
 句碑を探したが見付けられなかった。

 宿場町だった頃の名残の旧い建物が建っている。油屋宇吉家は、文化元年(1817年)頃に建てられた。


油屋宇吉家


 旅籠(はたご)・長浜屋は、説明書に、「天保2年(1831年)13代将軍徳川家定に嫁ぐ有姫ら総勢3200名が垂井宿に宿泊したおりには、御輿(みこし)担ぎ23名が泊まったという記録がある」と書かれている。現在は休憩所となっているが閉まっていた。

 300m程歩く。十字路に出る。右側に、道路を跨いで南宮大社の石造の鳥居が立っている。鳥居は寛永19年(1642年)に竣工された。
 右へ曲がり鳥居を潜る。50m程歩く。
垂井の泉に着いた。


垂井の泉


 樹齢800年の欅の根元から水が湧き出ているといわれている。この欅は、県指定の天然記念物である。
 陶製の蛙の口から水が吹き出し、池に落ちている。池の水は澄み切って沢山の鯉が泳いでいる。垂井の泉は、岐阜県指定の史跡であり、水は岐阜県の名水50選に選ばれている。

 垂井の泉は、歴史が古く、「垂井」の地名の起源となっている。
 延久元年(1069年)、美濃国の国守として赴任した藤原隆経朝臣(ふじわらのたかつねあそん)(生没年不詳)は、翌年の延久2年(1070年)、歌を詠んでいる。


      昔見し たる井の水は かわらねど
      うつれる影ぞ 年をへにける


 芭蕉も句を詠んでいる。元禄4年、本龍寺にて冬篭りをしているときに詠んだものである。


      葱白く洗ひあげたる寒さかな


 十字路に戻り右へ曲がる。
 左側に建つ
旅籠・亀丸屋は、江戸時代から営業を続け、現在も旅館業を営んでいる。建物は安永6年(1777年)に建てられたものである。

 400m程歩く。東の見附跡の前を通る。相川に架かる相川橋を渡る。右へ曲がり、相川の支流となっている川に架かる橋を渡る。
 道が二つに分かれている。旧中山道と、東海道を結ぶ美濃路の分岐点である。木製の道標が立っている。ここで旧中山道と別れて右の美濃路を歩く。

 木製の道標の後に当時の道標が保存されている。宝永6年(1709年)、垂井宿の問屋・東山文左衛門が建てた垂井追分道標である。高さ1、2m、幅40cmの自然石の道標である。
 「是より 右東海道大垣みち 左木曾街道たにぐみみち」と刻まれている。垂井町指定史跡である。


垂井追分道標


 500m程歩く。美濃路の松並木が現れた。


美濃路の松並木




 松の木の数は少ないが、旧街道の当時の面影を残している。

 広い敷地のユニチカ垂井工場、ゴルフ練習場の前を通る。700m程歩く。松並木がなくなった。東海道本線の線路が近づく。線路の下を潜る。
 1キロ程歩く。美濃路と別れて国道21号線に入る。

 3キロ程歩き国道21号線と別れて右へ曲がる。500m程歩き左へ曲がる。水路が多い所為か蜻蛉をよく見る。
 3キロ程歩く。大垣駅に着く。あとは、大垣市内にある「奥の細道」の最終地点まで歩くことを残すだけになった。
 

 夜、ホテル1階のレストラン「ル・ラック」で食事をする。月替わりのコースである「月メニュー」を注文する。料理は次のとおりだった。


      たこのぶつ切り ピーマンソース
      かぼちゃのポタージュスープ
      牛フィレ肉ステーキ わさびコンポート わさびソース
      デザート マンゴープリン、かぼちゃのアイスクリーム、レモンシャーベットの盛り合わせ


・同年7月16日(月) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。


・同年11月23日(金) 近江八幡(寄り道)

 「奥の細道」の最後の旅になった。

 1ヶ月前に、東京6時26分発の「ひかり」の米原迄の指定席を駅で求めたところ既に満席になっていた。約2時間後の8時33分発の「ひかり」は空席があるということだったので、とりあえずそれを購入した。
 その後、時々、駅の自動券売機で指定席をチェックしたがキャンセルはない。
 今の時期、京都へ紅葉を見物に行く人たちが多いことが考えられる。それに、JR東海のキャンペーンが功を奏したのか「1day京都」という旅の方法が定着して、東京から京都への旅は日帰りの旅になりつつあると思われる。そのため、おおぜいの人が早朝の新幹線を利用するのだろう。

 「奥の細道」の最後の旅の1日目は、「奥の細道」に関係のない近江八幡を訪ねるが、近江八幡市内をあちらこちら数多く回ることを予定している。そのためには少しでも早く近江八幡に着く必要がある。
 期日が近づいてきて、指定席のキャンセルもなさそうなので、8時33分発の指定席を自由席特急券の切符に変更し差額を受け取った。

 東京駅の改札は、5時30分に始まる。改札口を通ってホームに行き自由席の乗り場に立つ。後から人が並び列ができる。
 11月下旬にもなると朝は寒い。その上、6時前だからホームに立っていると体が冷えてくる。

 40分ほど待った。始発だから発車の20分程前に出入り口の扉が開いた。米原で降りやすいように出入り口の近くに座る。
 定刻に発車する。6時26分発の「ひかり」は、品川に停まる。ここでほぼ席が埋まった。その後、新横浜に停まる。この駅から乗ってきた客は座れないで通路に立つことになる。その後、小田原に停まる。乗客が増えて通路が身動きできないほどになった。

 8時49分に米原駅に着く。北陸本線の新快速に乗り換える。電車が彦根駅に近づくと右手の城山に建つ彦根城の天守閣が見えた。米原駅から約20分で近江八幡駅に着く。

 駅前からバスに乗る。約20分乗り停留所「ヴォーリズ記念病院前」で降りる。左へ曲がり200m程歩く。ヴォーリズ記念病院に着く(ヴォーリズについては、目次31、平成18年8月15日参照)。

 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)は、明治38年(1905年)、キリスト教の伝道を志しアメリカから来日した。滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高校)の英語教師となるが、熱心な伝道が批判され解雇される。
 近江八幡を本拠地にして伝道を行い、同時に建築設計の仕事を始める。

 ヴォーリズは、生涯に1、600余りの作品を手がけた。現存する建物は約100棟といわれている。
 とりわけ近江八幡は、現存するヴォーリズの作品が多い。今日はできるだけヴォーリズの作品に接し、また、数多く残る歴史的建造物を見学しようと思っている。

 病院の左側から伸びているカーブのある坂道を登る。よく晴れて陽射しが暖かい。裏の八幡山は紅葉に彩られている。
 15分程登り石段の下に着く。幅1m程の石段を上る。
旧近江療養院(
現・ヴォーリズ記念病院)礼拝堂の玄関の前に立つ。


ヴォーリズ記念病院礼拝堂


 日本人の結核死亡率が高かった時代、ヴォーリズは、大正7年(1918年)5月、結核療養所である近江療養院を開いた。礼拝堂は、ヴォーリズの設計により昭和12年(1937年)に建てられた。
 近江療養院は、昭和21年(1946年)、近江サナトリウムと名前を変え、昭和41年(1966年)、ヴォーリズ記念病院となった。

 登ってきた坂道を下る。礼拝堂の下に位置する場所に旧近江療養院本館(ツッカーハウス)が建っている。アメリカ人女性メアリー・ツッカーからの寄付によりヴォーリズが設計し、大正8年(1918年)に竣工された。窓を大きくとり、風や光を室内に取り込んだ。明るく、端正な建物である。
 建物は、老朽化のために閉鎖されていた。


旧近江療養院本館


 バスの停留所に戻り近江八幡駅行きのバスに乗る。
 窓から
西の湖(にしのこ)水郷地帯が見える。水郷めぐりの乗り場があり、手漕ぎの和舟が浮かんでいる。
 暖かくなり気持ちの良い風が吹く新緑の頃に舟に乗り、ヨシが茂る水郷めぐりをするのもいいものだろうな、と思った。

 停留所「大杉町」で降りる。
 後戻りして一つ目の角を右へ曲がり「永原町通り」に入る。「永原町通り」は、八幡商人が住んだ地域である。旧い商家の醤油屋、白壁の蔵を持つ町屋が並んでいる。300m程歩き三つ目の角を右へ曲がる。「
仲屋町(すわいちょう)通り」に入る。
 右へ曲がり200m程歩く。右側に、蔵を改造した郷土料理の食事処・酒游舘(しゅゆうかん)が建っている。280年の歴史を持つ造り酒屋・西勝(にしかつ)酒造の酒蔵だった建物である。白壁の蔵の前に大きく枝を広げている美しい欅の木が立っている。

 通りの同じ並びに大正10年(1921年)ヴォーリズ設計の旧八幡郵便局が保存されている。


旧八幡郵便局



 郵便局が移転し旧八幡郵便局は荒廃していた。平成9年、有志が立ち上がり修復を行った。活動は、NPO法人「ヴォーリズ建築保存再生運動一粒の会」に継承されている。
 中に入る。ギャラリーとして利用されている。建築当時のドアノブが使われている。ガーネットのような深い赤紫色のガラスのドアノブだった。

 後戻りする。一つ目の角を右へ曲がる
 右側に、
旧近江八幡YMCA会館(現・近江兄弟社アンドリュース記念館)が建っている。明治40年(1907年)、近江八幡YMCA会館が建てられた。ヴォーリズの建築第一号の建物だった。昭和10年(1935年)、建物は12m移動し現在の建物に建て替えられた。
 細部にヴォーリズの建物でよく見る優雅で気品のあるデザインを見ることができる。国有形登録文化財に指定されている。


近江兄弟社アンドリュース記念館







 真っ直ぐ歩いて「為心町(いしんちょう)通り」に入る。通りが碁盤目状に造られて縦と横の通りの距離が一区画約100mだからわかりやすい。300m程歩きバス通りに戻る。右側に白雲館(はくうんかん)が建っている。


白雲館



 白雲館の前身は、明治10年(1877年)に建てられた八幡東学校である。近江商人が子弟の教育のために費用の殆どを寄付して建てた学校であった。
 案内板によると、学校として使用された後は、役場、郡役所、信用金庫等を経て、平成6年に建設当時の姿に復元された。国の登録有形文化財である。

 2階バルコニーの屋根は唐破風(からはふ)、瓦葺の屋根から六角形の望楼が飛び出している。洋館であるが和風の意匠があちらこちらに見られる擬洋風建築である。
 中に入る。1階は観光案内所になっている。特産品の紹介もしている。2階はギャラリーとして利用されているが2階には上がらなかった。
 円い柱が天井を支えているが、内部は殆ど旧状を留めていないように思われた。


日牟禮八幡宮


 通りの反対側に渡り日牟禮(ひむれ)八幡宮の鳥居を潜る。八幡堀に架かる白雲橋を渡ったが橋から見た風景に驚いた。江戸時代に身を置いているような気分になった。現代を感じさせるものが何もない。
 堀端には白壁と杉板の土蔵が並び、かつて商品を積み降ろすときに使われた石段が残っている。


八幡堀


 八幡堀は、時代劇のロケ地としてよく使われている。
 白雲館内の観光案内所に、その時に撮影された写真が沢山掲示されていた。『暴れん坊将軍』、『必殺仕事人』、『鬼平犯科帳』、『剣客商売』等が紹介されていた。他にも、これもここで撮影されたのか、と感嘆する映画やテレビの時代劇があった。


八幡堀


 豊臣秀吉の姉・ともの子である豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1568~1595)は、秀吉の養子になる。鶴翼山(かくよくざん)(282m)に、八幡山城(はちまんやまじょう)を築く。以後、鶴翼山は八幡山と呼ばれる。麓に城下町を造り、通りを整然とした碁盤目状に造り上げた。
 城の堀である八幡堀を、運河を建設して琵琶湖と繋ぎ、琵琶湖を往来する荷船を全て八幡堀に寄港させた。城下町は賑わい、繁栄し、多くの八幡商人が活躍した。

 日牟禮八幡宮の参道の両側には和、洋菓子の「たねや」の店舗がある。右側は和菓子、左側は洋菓子の店である。
 和菓子の店の隣に「たねや」が経営しているレストラン・
日牟禮茶屋がある。ここで昼御飯を食べる。
 席に案内される。移築した農家を改造したレストランである。

 メニューを見て、「せいろ蒸し膳 近江の里」を注文する。

 初めに熱いほうじ茶と和菓子が出る。和菓子は「蓮子(はすこ)」という名前で、蓮根(れんこん)のでんぷんで作った餅、という説明があった。きな粉をまぶしている。味と歯触りは、わらび餅に似ている。微かに甘い。
 次に錫のぐいのみに入った梅のゼリーが出された。

 料理が運ばれた。
 木の皮を曲げて作られた「輪っぱ」の大きな器二つと小ぶりの「輪っぱ」六つがお盆の上に円く置かれている。
 大きな器の一つには、「栗おこわ」が入っている。おこわは、近江の「もち米」を使用している。唯一、漆器に入っている「すまし」には、モミジの形と色の小さな「はんぺん」が浮かんでいる。

 六つの料理は、近江野菜の「おばんざい」である。時計回りに説明があった。

      近江牛のすき焼き
      牛蒡のごまあえ
      青菜のおしたし
      近江八幡特産の赤こんにゃくの田楽
      さつまいもの煮物
      近江豆腐のキノコあんかけ

 もう一つの大きな器には近江牛のステーキが入っていた。

 近江牛は柔らかく甘みがある。料理は丁寧に作られていて、みんなとてもおいしかった。値段の割には豪華な食事ができた。

 食事が終わると器が下げられお茶が入れ替えられた。それから再度和菓子が出された。「きんつば」だった。
 「蓮子」も「きんつば」も味がよく分かり作りたてのような新しさを感じた。

 充分に満足して店を出た。

 白雲橋に戻る。橋の袂の石段を下って堀端に降りる。土蔵が並ぶ堀端とは反対の方向へ堀端を歩く。


八幡堀


 対岸の紅葉を見ながら100m程歩いて、明治橋の袂から石段を上がった。

 堀端を歩いていて気が付いた。堀端の横に石垣が続いているが、左側の石垣の上に長い塀を巡らした屋敷があり、白壁の蔵が幾つも建っている。
 長い塀に沿って左へ曲がりバス通りに出る。塀の長さは80m程はあると思われた。
 塀の中に、格式の高い料亭のような美しい建物が軒を並べ、住居と対をなすかのように蔵が建っている。建物も庭木もよく手入れされているようである。いったい、これほどの規模の住いはどういう人の屋敷なのだろうか。

 屋敷は、永禄9年(1566年)に創業された「寝具の西川」西川甚五郎邸であることが後で分かった。八幡商人の隆盛を目の当たりにした思いだった


西川甚五郎邸



 創業者・西川仁右衛門の四男である二代・西川甚五郎は、寛永年間(1620代)、萌黄色の蚊帳を創案する。萌黄蚊帳と呼ばれ評判になる。萌黄蚊帳は、「寝具の西川」の事業の成功と発展の礎となる。萌黄蚊帳は、喜多川歌麿(1753~1806)の浮世絵にも描かれている。

 通りの反対側に渡る。角に、株式会社近江兄弟社の社屋とショールームが建っている。近江兄弟社は医薬品のメーカーである。ショールームは祝日のため閉まっていた。
 近江兄弟社の前身である近江セールズ株式会社は、ヴォーリズにより明治43年(1910年)に創業され、昭和19年(1944年)、現在の社名に変更された。

 創業と同じ年に、アメリカのメンソレータム社の製品を日本国内で販売する権利を取得し、「メンソレータム」を販売する。
 昭和49年(1974年)、近江兄弟社は倒産する。「メンソレータム」を販売する権利はロート製薬株式会社が取得する。その後、近江兄弟社は再建され、「メンターム」を製造、販売する。

 100m程歩き左へ曲がる。「新町通り」に入る。
 「新町通り」は、「永原町通り」と同じく八幡商人が住んだ地域である。「新町通り」、「永原町通り」、「八幡堀」界隈は、国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 下屋(げや)の庇の高さを揃えた「通り庇(とおりびさし)」の商家が並ぶ。「見越しの松」「連子(れんじ)格子」「卯建(うだつ)」を見ながら歩く(「卯建」について、目次30、平成18年5月6日参照)。


通り庇


卯建


見越しの松 連子格子


 50m程歩き右側に建つ旧西川家住宅に入る。西川家は蚊帳や畳表の商いをして財をなす。主屋は宝永3年(1706年)に建てられた。国重要文化財に指定されている。
 通り庭(土間)に立って高い天井を見上げる。太い梁が何本も組み合わされている。洗練された造りの座敷、茶室を見る。
 苔を敷き詰め、飛び石が置かれた広い庭園の一隅に天和年間1681~1683)に建てられた白壁の文庫蔵が見える。

 新町通りに戻り右へ曲がる。50m程歩いて、新町通りと交差する通りの反対側に渡る。旧伴家(ばんけ)住宅が建っている。


旧伴家住宅


 伴家は、麻布、蚊帳、畳表を商い、江戸に出店して巨富を得る。
 建物は、文政10年(1827年)から天保11年(1840年)にかけて建築されたものである。明治になって当時の八幡町に譲渡され、小学校、役場、女学校、図書館に使用された。現在は、市立資料館の一部として使われている。市指定の文化財である。
 中に入る。天井が高く、中央に幅の広い階段がある。豪商の住いだったことが分かる。他は、殆どが改修されたように思われた。

 新町通りと交差した伴家住宅の前の通りは、通称、朝鮮人街道と呼ばれていた。




朝鮮人街道


 朝鮮通信使の一行が歩いた道の中で、近江国の野洲(やす)から中山道を離れて琵琶湖の湖岸の道をとり、近江八幡、安土、能登川、彦根を経て、再び鳥居本(とりいもと)から中山道に戻る迄の約42キロの道を朝鮮人街道と呼んでいた。 



 「朝鮮人街道」の石碑が立っている。その右上に案内板がある。一部引用する。

 「江戸時代、将軍が交代するたびに、朝鮮国より国王の親書をもって来日する『朝鮮通信使』は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年の歳月を費やしたと言われている。」

 ソウルから江戸までの行程は、約2,000キロである。500人近くの行列が、笛、太鼓、ラッパ等を奏でながら通った。余程賑やかだったと思われる。


 ここで、しばらく近江八幡から離れて、朝鮮通信使の行程について一部記す。

 ソウルを出発した朝鮮通信使の一行は、釜山に出て玄界灘へ船出する。対馬、壱岐、相島(あいのしま)に寄港する。

 平成22年12月29日、相島を訪ねた。
 福岡県新宮町相島は、周囲約8キロ、人口約470人の島である。住民の殆どが漁業に携わっている。
 新宮港から町営渡船「しんぐう」に乗る。約20分で着く。


町営渡船「しんぐう」の波止場


 通信使の一行が上陸した波止場が保存されている。案内板に次のことが書かれていた。

 「朝鮮通信使を迎えるため、福岡藩が天和2年(1682年)構築したもので、島民が延べ2ヶ月かけて先波止と前波止2つを造りました。前波止は、現在町営渡船「しんぐう」の波止場で、対馬藩主や随行者が上陸しました。先波止からは、通信使の一行が上陸しました。」



通信使の一行が上陸した先波止


 先波止は、豪快な石組みで造られている。平成18年、「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選定された。

 海岸通りで猫をよく見た。あちらこちらで複数の猫が体を丸くして固まっている。どの猫も丸々と太って毛の色艶がいい。漁船が戻って来て、魚を貰うのを待っているのだろうか。


相島漁港


 下関、赤間を経て山陽地方の港や瀬戸内海に浮かぶ島々に寄港し、風を待ち、潮の流れを待つ。
 朝鮮通信使の一行は、大坂から淀川を船で遡り京に着く。三条大橋から中山道を歩く。近江国の野洲(やす)から中山道を離れて琵琶湖の湖岸を歩き近江八幡安土を通る。

 近江八幡は、新町通りと交差する伴家(ばんけ)の前の通りを歩く。八幡堀の手前を右へ曲がり東に向かう。織田信長(1534~1582)が安土城を築いた標高199mの安土山が見えてくる。
 安土、能登川、彦根を経て鳥居本から中山道に再び入る。美濃国で中山道と別れ美濃路に入る。大垣、名古屋を経て東海道を歩き江戸へ向かう。


 近江八幡に戻る。

 旧伴家住宅の前の朝鮮人街道と呼ばれていた通りを右へ歩く。十字路に小幡町の信号がある小幡町通りを渡る。
 左の角のビルの1階に、レストレン・
CAFE YAMAYA(ヤマヤ)があり、店頭に近江牛の牛丼とビーフカレーの店と表示されている。店内に入り牛丼を注文する

 近所の人たちと思われる高齢の男性5人がコーヒーを飲みながら何か打ち合わせをしている。家族連れの観光客もいる。店内は明るく、和やかな雰囲気がある。

 大きな丼に入っている牛丼が出された。食べて驚いた。とてもおいしい。近江牛の柔らかさと甘さに大ぶりに切ったタマネギから出る甘さが加わっている。
 手頃な値段にもかかわらず贅沢に作られた牛丼を頂いた。これからも近江八幡に来ることがあったら、また立ち寄って、今度は近江牛カレーを頂こうと思った。

 ご主人も明るく気さくな人だった。周辺のことを伺ったら丁寧にお話していただいた。ありがとうございました。

 CAFE YAMAYA(ヤマヤ)を出て左へ曲がり、最初の角をまた左へ曲がる。両側に旧い商家や民家が並ぶ通りを歩く。200m程歩いて二つ目の角を左へ曲がり池田町(いけだまち)通りに入る。100m程歩く。ヴォーリズが建てた4棟の建物が存在し、当時アメリカ町と呼ばれた池田町洋風住宅街の前に出た。
 英国の古典主義様式を簡略化したコロニアル・スタイルと呼ばれる住宅が赤煉瓦の塀の中に並ぶ。アメリカの植民地時代に始まったコロニアル・スタイルは、その後アメリカの郊外住宅に多く見られるようになった。

 ヴォーリズは、大正2年(1913年)から昭和10年(1935年)にかけて、ここに5棟の建物を建てた。主に近江兄弟社の社員のための住宅であった。ヴォーリズの住いであった建物は現存しないが、他の建物は塀越しに外観を見ることができる。

 初めに、大正9年(1920年)建築の旧近江兄弟社ダブルハウスを見る。
 通風を考えたのだろう。北側にも窓を多く設けている。高い煙突の一つは煉瓦を積み上げて造られている。


旧近江兄弟社ダブルハウス


 大正2年(1913年)建築の旧ウォーターハウス邸(現・ウォーターハウス記念館)は、門の扉が大きく開けられていたので敷地内に入り、建物を近くで見ることができた。木造3階建、切妻屋根の瀟洒な建物である。内部は非公開のようである。


ウォーターハウス記念館


 早稲田大学の元教授であったウォーターハウス(生没年不詳)は、ヴォーリズの伝道事業に加わった。
 ウォーターハウス邸が建てられた当時の写真が残っている。ウォーターハウス邸の当時の建物と現在の建物は殆ど変わっていない。
 写真の中央にウォーターハウス邸が写っている。右隣に、現存しない大正3年(1914年)建築の旧ヴォーリズ邸が建っている。ウォーターハウス邸の左隣には大正2年(1913年)建築の吉田邸が写っている。
 建物正面の右側は、現在玄関ホールになっているが、写真では玄関ポーチになっている。外観で変っているのはこれだけだと思われた。藤棚も同じ位置にある。

 藤棚の下に立っている男性が写真に写っている。大柄な男性だからウォーターハウス本人ではないだろうか。スーツを着てカバンを抱えている。これから出かけようとしていたのだろうか。
 家の周りに広い庭を設け、芝が植えられている。芝生の間には小径があり、それぞれの家を結んでいる。
 また、ヴォーリズ邸とウォーターハウス邸の間の奥にはテニスコートが写っている。赤煉瓦の塀の奥から聞こえるテニスのボールの乾いた軽い音と、芝刈り機で芝を刈っている光景は、アメリカ人の生活の明るさと豊かさを、塀の前を通る人たちに印象付けただろう。

 吉田邸吉田悦蔵(1890~1941)は、ヴォーリズが滋賀県立八幡商業学校で英語を教えていた頃の教え子であった。卒業後の明治40年(1907年)、八幡商業学校を解雇されたヴォーリズと共に建築設計、病院、学校、メンソレータムの製造等を運営する近江兄弟社を創建した。生涯をヴォーリズの片腕となって事業を遂行した人である。
 木造3階建ての吉田邸は、吉田悦蔵の子孫の方々が住み続けておられる。国登録有形文化財である。

 塀と樹木に遮られて建物は殆ど見えないが、辛うじて3階の腰折れ屋根が見えた。

 最後に、昭和10年(1935年)建築の旧近江家政塾校舎を見る。木造平屋建、切妻屋根の和風の建物である。この建物で吉田悦蔵の妻が婦人教育を行った。

 池田町通りを歩く。八幡小学校に突き当たるので左へ曲がり200m程歩く。小幡町通りを反対側に渡り200m程歩く。魚屋町(うわいちょう)通りに入り右へ曲がる。100m程歩く。八幡商業高校の前に出る。

 滋賀県立八幡商業高校の前身は滋賀県立商業学校である。ヴォーリズは、明治38年(1905年)アメリカから来日し、滋賀県立商業学校の英語教師となるが、熱心な伝道を批判され、2年後解雇される。
 解雇されたにも拘わらず滋賀県立商業学校の本館の建築設計がヴォーリズに依頼される。昭和13年(1938年)、現在の校舎が建てられた。


八幡商業高校本館


 当時世界中に流行していた直線を強調するアールデコのデザインを取り入れている。建物にアールデコ特有の落ち着きと堅実さがある。クリーム色の外壁の中心を青磁色にしてアクセントをつけている。クリーム色と青磁色の組み合わせが美しく、清楚な建物である。
 斬新で洗練された建物が造られたことに当時の近江八幡の隆盛を思う。

 近江八幡駅に向かって2キロ程歩く。駅の近くの予約していたホテルニューオウミにチェックインする。


・同年11月24日(土) 近江八幡 彦根城(寄り道)

 朝、ホテルを出て駅前からバスに乗る。停留所「鍛冶屋町」で降りる。少し後戻りして左へ曲がり慈恩寺(じおんじ)町通りに入る。100m程歩き左へ曲がり幅の狭い道に入る。
 ヴォーリズにより昭和6年(1931年)に建てられた
近江兄弟社学園・教育会館、ハイド記念館の前に出た。近江兄弟社学園の中では最も古い建物である。国登録有形文化財に指定されている。


教育会館とハイド記念館


 門を通って敷地内に入る。建物はL字形に建てられている。左が教育会館、右がハイド記念館である。教育会館は講堂兼体育館である。
 赤褐色の瓦、クリーム色の壁、白い枠の縦長の窓。ハイド記念館の腰板はチョコレート色である。色の組み合わせが美しい。華やかな中にミッションスクールらしい清楚なものを感じる。

 右へ曲がりハイド記念館に入る(注・ハイド記念館は、土、日、祝日のみ開館)。幅の広い玄関の上がり框(かまち)の段差は低く造られている。
 株式会社近江兄弟社が製造、販売している「メンターム」の試供品を頂いた。

 広い玄関ホールから右に幅の広い廊下が延びる。廊下の右側と突き当たりに部屋がある。全てが広々として大らかな造りである。
 階段の右手に、アメリカ人のハイド夫妻の写真が掲げられている。ハイド氏は、「メンソレータム」の発明者であり、ヴォーリズに日本国内での「メンソレータム」の販売の権利を与えた人物である。

 階段は玄関の上がり框と同じく段差が低く造られている。小さな子供や高齢者にとっても上がりやすいように配慮されたものと思われる。
 2階に暖炉を備えた部屋がある。この部屋は、清友園幼稚園の保育室であった。

 ヴォーリズは、大正8年(1919年)、子爵・一柳末徳(ひとつやなぎすえのり)の三女・満喜子(まきこ)(1884~1969)と結婚する。満喜子は、神戸女学院を卒業後アメリカの女子大で学んだ才媛であった。
 満喜子は、ハイド夫人を訪ね日本での幼児教育の事業計画を語る。その後、ハイド氏から寄付金が送られてきた。その寄付金を基に
近江兄弟社学園の教育会館、ハイド記念館が建てられ、市内池田町から清友園幼稚園が移転した。
 清友園幼稚園は、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校を擁する現在の近江兄弟社学園の母体となった。

 ハイド記念館を出て慈恩寺町通りに戻る。左へ曲がる。昭和7年(1932年)建築の旧ヴォーリズ住宅(現・ヴォーリズ記念館)に着く。ヴォーリズ夫妻が後半生を過ごした住宅である。
 木造2階建ての建物を見て意外な気がした。暖炉の煙突が見える大きな建物であるが、ヴォーリズの建築にしては質素な建物に思えた。


ヴォーリズ記念館


 ヴォーリズ記念館に入る(注・見学は予約が必要)。
 玄関から1階の広い洋風の部屋に案内される。公開しているのはこの部屋だけだった。ホールのようになっているが、かつてはリビングルームだったのだろうか。ヴォーリズの遺品、作品の写真集等が展示されている。

 この部屋もあっけないほど質素な造りだった。建築家が自邸を代表作として紹介することが珍しくないことを考えると、これは異例なことに思われた。

 ヴォーリズの作品の中でも「スパニッシュ・ミッション・スタイル」と呼ばれる様式で造られた関西学院、神戸女学院等の美しい建築群とこの建物の簡素さに大きな隔たりを感じた。
 そこで思い出した。ヴォーリズは、キリスト教を伝道することを目的として来日した。生涯をキリスト教の教えに従って生きた人であった。建築家だけの人ではなかった。
 他者のためには優雅な邸宅を建てても自身の住いは簡素なものでよかったのだろう。物質に対する執着はなかった。「メンソレータム」等の医薬品の販売で得た利益も私(わたくし)することはなかった。それらは医療、教育事業の財源となった。

 昭和16年(1941年)、太平洋戦争勃発。同年、ヴォーリズは日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名する。
 この時代、敵国人として相当辛い日々を送っただろう。それは帰化してからもそれほど変らなかったと思われる。
 昭和32年(1957年)、病に倒れる。
 同33年(1958年)、近江八幡市の名誉市民第1号となる。
 同39年(1964年)、7年間の療養生活の後、帰天する。享年83歳であった。

 同44年(1969年)、志を同じくして共に生きた満喜子夫人が帰天する。
 二人は、ヴォーリズ記念病院の近くにある近江兄弟社納骨堂・恒春園に眠っている。

 ヴォーリズの作品を見学するたびに、私は、日本と日本人を愛し、美しい作品を遺してくれたヴォーリズに対する尊敬と感謝の気持が湧き起こる。
 これからも機会あるごとにヴォーリズの作品に接していこうと思う。

 バスに乗り近江八幡駅に戻る。新快速に乗り彦根駅で降りる。
 駅前から
彦根城に向かって延びる「駅前お城通り」を500m程歩く。護国神社の鳥居の前を左へ曲がり角を右へ曲がる。

 表門橋に向かう中濠の沿道に植えられた美しい松並木に沿って歩く。
 白壁の二の丸佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)を通る。国重要文化財である。


彦根城 二の丸佐和口多聞櫓


 左へ曲がり、元禄時代に建てられ藩主の馬21頭が繋がれていた馬屋(うまや)の前を通る。これも国重要文化財である。
 表門橋を渡り表門を通る。表坂の急な石段を上る。

 琵琶湖の周囲には1、300を越える城、砦が築かれたといわれているが、現存するものは唯一彦根城だけである。

 天秤櫓(てんびんやぐら)に渡る廊下橋の下を潜る。左に大きく迂回して坂を上り廊下橋に辿り着く。天秤櫓は、橋を中心にした左右対称の美しい櫓である。国重要文化財である。
 次に、国重要文化財の太鼓櫓門(たいこやぐらもん)を潜り国宝の天守の前に立った。天守は、3層3階、幾つも組み合わされた屋根の曲線がリズミカルで美しい。


 天守


 天守の内部に入る。階段は急勾配で踏み幅が狭い。滑らないように、足を踏み外さないように気をつけながら上る。
 「鉄砲狭間」があるが板で覆われている。これは「隠し狭間(かくしざま)」と呼ばれている。説明書には、外からは見えないように外側に板を嵌め、その上から漆喰を塗りこめている。緊急のときは壁を突き破って鉄砲を撃つ、とある。


鉄砲狭間


 天守の周囲を巡りながら上って来た方とは反対の道を下る。
 鬱蒼とした樹木の下を降りて行き内濠に架かる橋を渡る。右へ曲がり最初の角を左へ曲がる。玄宮園(げんきゅうえん)に着く。
 玄宮園は、4代藩主・井伊直興(なおおき)が延宝5年(1677年)から7年にかけて中国唐代の玄宗皇帝の離宮に倣って造営したもの、という説明がされている。
 延宝7年(1679年)に建てられた水辺に建つ茅葺の家・八景亭の向こうに聳える天守が見えた。


玄宮園


 彦根駅に戻り新快速に乗る。米原で東海道本線に乗り換え大垣駅で降りる。
 駅の近くの、予約していた
ロワジールホテル大垣にチェックインする。「奥の細道」の旅の最後の宿になった。


・同年11月25日(日) 大垣

 朝食後、9時にホテルを出る。大垣駅前から延びている広い道路を歩く。800m程歩き牛屋川に架かる俵橋を渡る。右へ曲がり川沿いに歩く。
 300m程歩く。牛屋川は、水門川(すいもんがわ)に合流する。左へ曲がり水門川に沿って歩く。水門川は、かつて大垣城を守る外堀の機能を持っていた。川沿いは桜並木になっている。葉が色づいている。

 200m程歩く。船町湊(みなと)跡住吉燈台が立っている。住吉燈台は、元禄年間(1688~1704)に建造された。
 かつての船着場には丸い石が敷き詰められ、川には平たい川舟が浮かんでいる。


住吉燈台


水門川


 少し後戻り、水門川に架かる住吉橋を渡り対岸に出る。左へ曲がり川沿いに歩く。


 「露通(ろつう)もこの港まで出で迎ひて、美濃の国へと伴ふ。駒(こま)に助けられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来(きた)り合ひ、越人(ゑつじん)も馬を飛ばせて、如行(じよかう)が家に入り集まる。前先子(ぜんせんし)・荊口(けいこう)父子、その外(ほか)親しき人々、日夜訪(とぶら)ひて、蘇生の者に会ふがごとく、かつ喜びかついたはる。旅のものうさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮(せんぐう)拝まんと、また舟に乗りて、」『おくのほそ道』


      蛤(はまぐり)のふたみにわかれゆく秋ぞ


 芭蕉は、大垣に2週間ほど滞在し、船町湊から舟に乗り伊勢参りの旅に出る。舟は水門川を下り、揖斐(いび)川に入る。揖斐川は伊勢国桑名に通じている。

 80m程歩く。9時25分、「史蹟 奥の細道むすびの地」と刻まれた石碑の前に立った。
 このとき、10年間、寄り道を含めて207日間の私の「奥の細道」の旅が終わった。


石碑 「史蹟 奥の細道むすびの地」






TOPへ戻る

目次へ戻る

おわりに

ご意見・ご感想をお待ちしております。