34 今庄〜余呉(滋賀県)〜木之本〜近江長岡


・平成19年3月24日(土) 長浜

 長浜駅で電車を降りる。駅前通りを歩き北国街道に入る。左へ曲がる。左側に安藤家が建っている。


安藤家


 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)(1537〜1598)は、天正3年(1575年)、長浜に城を築き、初めて一国一城の主となった。
 城下町の整備を計画した秀吉は、城の東側に南北に長い碁盤目状の町を作る。この地割りは現在も変っていないと思われる。ほぼ同じ距離で縦と横に区切られた町の通りは真っ直ぐに延びて、斜めにカーブする道はない。
 また、経済の発展を目的として自由な取引を行えるよう楽市・楽座(らくいち・らくざ)の政策を推進した。

 その他、安藤家の説明書によると、秀吉は、町を四十九町、十組に分ける。町衆から選ばれた組を代表する町年寄役たちは十人衆と呼ばれ、長浜の自治を委ねられた。安藤家は十人衆に選ばれた。
 明治になり、安藤家は、絹糸紡績の製造と呉服屋を営む。住居として建てられた現在の建物は、明治38年(1905年)の建築である。

 虫籠窓(むしこまど)糸屋(いとや)格子が施され、浅葱色(あさぎいろ)の幕が掛けられている。糸屋格子は、格子を1本通し、2本は上までつなげずに途中で切る。この繰り返しで造られる。採光をよくするための工夫である。


糸屋格子


 安藤家に入る(注・安藤家は平成20年3月31日付で閉館となった)。
 事務室の他に六つの和室があり、廊下が巡らされている。庭園を二ヶ所に設け、各部屋から庭園を鑑賞できるようになっている。
2階は二つの和室がある。
 虫籠窓の格子の間から反対側の商家や人が往来する通りを眺めていると、通りに立って眺めている時とは異なって、同じものでもひどく古めかしい光景になる。時代が遡り、古い時代に身を置いて外を眺めている気分になってくる。

 「小蘭亭(しょうらんてい)」と名付けられた離れがある。渡り廊下で繋がっている。
 大正2年(1913年)頃、
北大路魯山人(きたおおじろさんじん)(本名・北大路房次郎)(1883〜1959)は、安藤家に逗留し、小蘭亭の天井画や襖絵を描いた。
 また、魯山人の製作になる「小蘭亭」と刻まれた篆刻(てんこく)扁額、篆刻扉が保存されているが、これらは、小蘭亭の内部とともに非公開である。年に数回、期間限定で公開しているようだが、今日は見ることはできなかった。

 公開されている1階和室の一つに、「呉服」と刻まれた魯山人製作の篆刻看板が掛けられている。伸びやかな書体は枠からはみ出さんばかりの躍動感に溢れている。

 長浜駅を降りたときから曇っていたが、雨が降り出した。
 観光案内所で観光のパンフレットを見る。チェックインの時間になったので北ビワコホテルグラツィエに入る。2泊予約していた。

 夜、ホテル1階のレストラン「ル・ラック」で食事をする。月替わりのコースである「月メニュー」を注文する。料理は次のとおりだった。


      帆立と柑橘類のシャルロット風
      コンソメのパイ包みスープ
      牛フィレ肉のストロガノフ


 シャルロットはお菓子という意味です、と説明があった。薄く切られた帆立とオレンジが交互に五段に重ねられて出された。
 デザートは色々な種類のものがワゴンに載せられて運ばれてきた。お好きなものをお好きなだけどうぞ、と言われる。チーズタルトと伊予柑のシャーベットをいただく。


・同年3月25日(日) 今庄〜栃の木峠〜余呉

 朝、ホテルを出て電車に乗る。今庄駅で降りる。7時20分だった。

 昨年11月、敦賀から柳ヶ瀬(やながせ)トンネルを通って滋賀県に入ろうと思ったところ、「トンネル内、大型車、自転車、歩行者は通行禁止」となっていたため、先へ進めず引き返した(目次33、平成18年11月26日参照)。
 今日、栃の木峠を越えて滋賀県に入る予定である。

 駅を出て左へ曲がる。200m程歩き跨線橋を渡る。橋の上から、創業元禄10年(1697年)の造り酒屋・白駒(はくこま)酒造が見える。広い敷地内に建つ赤煉瓦の倉庫、木造の工場が見渡せる。

 国道365号線を歩く。曇っていて風が冷たい。日野川沿いに歩く。 
 2キロ程歩き日野川と別れる。5キロ程歩き、下板取に着く。坂道を登る。竹林の傍を通り1キロ程歩く。上板取の集落に着く。
北国街道の旧板取(いたどり)宿である。
 板取関所跡が復元されている。また、旧板取宿は、「上板取宿場の里」として茅葺の家を保存しているが、今日はこれから長い距離を歩くことになるので立ち寄らないで通り過ぎる。それに曇っていて、今にも雨か雪が降り出しそうな空模様である。

 旧北国街道である国道365号線は山間に入る。山肌には雪が残っている。急坂になり、カーブが多い。後を振り返る。歩いてきた道が遥か下に見える。風が冷たい。

 標高538mの栃の木峠(とちのきとうげ)の頂上に着く。霧がかかっている。頂上は、福井県と滋賀県の県境になっている。
 福井県側の急斜面に峠の名前の由来であるトチノキが数多く茂っている。その中でもとりわけ大きい樹齢500年、高さ25m、幹回り7mのトチノキは、福井県の天然記念物に指定されている。 

 滋賀県余呉町(よごちょう)に入る。霧のためにはっきりとは見えないが、余呉高原スキー場がある。下にホテルが建っているが、スキー場もホテルも人が誰もいない。今年のスキーのシーズンは終わり、ホテルも一旦閉鎖したのだろう。

 栃の木峠までのカーブの多い急坂とは違って、真っ直ぐに伸びる緩やかな坂を下る。
 山の斜面の小川の水が飛沫を上げて道路の側溝に走り下る。雪解けの水が水嵩を増しているのだろう。小川の畔のあちらこちらに淡い緑色の蕗の薹(ふきのとう)が顔を出している。

 高時川に沿って6キロ程歩き、標高497mの椿坂峠(つばきざかとうげ)を越える。
 川を離れて国道は鬱蒼とした樹木の間に入っていく。余呉川が現れる。余呉川沿いに歩く。5キロ程歩き
柳ヶ瀬トンネルの滋賀県側の前を通る。福井県からトンネルを通ってきた県道140号線が国道365号線に合流する。

 雁ヶ谷、柳ケ瀬の集落を通る。雨が降り出した。風も吹いている。傘を差して歩く。

 12キロ程歩き、余呉町役場の前を通り左へ曲がる。余呉導水路に架かる橋を渡る。
 余呉駅は近くにあるのだが、田畑の間の道を歩き、それが行き止まりになったりするので30分程行ったり来たりしながらやっと駅に着いた。午後4時だった。
 今日、今庄から歩き始めたのが7時20分だった。約8時間30分歩いたことになる。約40キロ歩いただろう。 

 ホームにある待合室で電車を待っていると、年齢がさまざまな8人の男女が入って来た。山歩きの格好をしていて、靴が泥だらけになっている。雨の中、近くの賤ヶ岳(しずがたけ)に登ったのだろうか。賤ヶ岳は標高422m。天正11年(1583年)、羽柴秀吉柴田勝家(しばたかついえ)(1522〜1583)が戦った古戦場である。

 電車に乗る。右手に、周囲6、45kmの余呉湖(よごこ)が見える。長浜駅で降りてホテルに戻る。


・同年3月26日(月) (帰京)

 朝、ホテルで食事をする。焼き立てのパンもおいしいが、ご飯もおいしい。「虎姫三河産近江有機米」と表示されている。
 食後、最上階の7階にある大浴場で風呂に入る。脱衣室の窓から琵琶湖が見える。ホテルの前から出航する琵琶湖遊覧船の白い船体が湖岸に横付けされている。
 昨日と一昨日とは違って今日はいい天気になった。


・同年4月28日(土) 長浜

 長浜駅で電車を降りる。駅前通りを歩き北国街道に入る。左へ曲がり200m程歩く。
 曇って急に雨がパラパラと落ちてくる。そのうちに雲の間から陽が射してくる。それを繰り返す。不安定な天気である。

 十字路の角に、明治33年(1899年)建築の旧国立第百三十銀行長浜支店(現・黒壁ガラス館)の建物が建っている。2階建ての全館の外壁は、漆喰を思わせる黒である。当時は黒壁銀行と呼ばれていた。現在の名前は、当時の愛称が由来となっている。内部ではガラス製品の展示、販売が行われている。

 200m程歩く。ここから約200mの区間は、「武者隠れ道」と呼ばれている。街道沿いに建てられている旧い商家の建物が、一軒か二軒おきに街道から引っ込んで、でこぼことした不揃いな建て方になっている。戦のとき身を隠すためだと書かれた説明板が立っている。昔の区割りがそのまま残っている。

 更に200m程歩く。明治11年(1878年)建立の常夜灯が立っている。ここ郡上町は北国街道長浜宿の北の入口であった。旅人は、この常夜灯を目印にしたといわれている。


常夜灯


 明治4年(1871年)11月24日、この附近で日本で最後の仇討ちがあった、という説明書がある。明治6年(1873年)2月、仇討ちを禁止する法律である復讐禁止令が太政官布告として公布された。

 後戻りする。「武者隠れ道」に入り、途中、左へ曲がる。大通寺の前に出る。大通寺は、後日ゆっくり訪ねる予定である。反対側に、白壁の旧い商家と蔵が建っている。 



 駅に戻り、駅の観光案内所で観光のパンフレットを見る。チェックインの時間になったので北ビワコホテルグラツィエに入る。2泊予約していた。

 夜、ホテル1階のレストラン「ル・ラック」で食事をする。月替わりのコースである「月メニュー」を注文する。料理は次のとおりだった。


      若鶏のカルパッチョ 野菜添え
      スープ かぼちゃのポタージュ
      牛フィレ肉のグリル ジャポネソース 
      デザート 白ワインのシャーベット


・同年4月29日(日) 余呉〜木之本〜近江長岡

 朝、ホテルを出て電車に乗る。余呉駅で降りる。6時30分だった。
 駅を出て200m程歩き左へ曲がる。1キロ程歩き国道365号線に入る。右へ曲がる。昨日とは違っていい天気になった。

 2キロ程歩き北陸自動車道の下を潜る。道が上りになる。坂を上りきると平らな道が続く。
 木之本町(きのもとまち)に入る。道の両側に旧い建物が並ぶ。商家の千本格子、袖壁、虫籠窓は、北国街道の木之本宿だった頃の町並みを彷彿させる。

 左側に「木之本牛馬市跡」の案内板が立っている。おおよそ次のことが書かれていた。

 「室町時代から昭和の初期まで毎年二回、この地区二十軒ほどの民家を宿として伝統の牛馬市が開かれた。藩の保護監督もあり、地元近江を初め但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから数百頭以上の牛馬が集まり盛況を極めた。」

 通りの反対側に「馬宿 平四郎」と書かれた旧い家がある。山内一豊(やまうちかつとよ)(1545〜1605)が馬を購入した家、と説明されている。一豊が妻・千代の備えていた金子(きんす)で名馬を買い求めたといわれているが、それは事実かどうか分からないようだ。

 通りの左側に造り酒屋・山路(やまじ)酒造が建っている。天文元年(1532年)から桑酒を造り続けている。軒先に、杉の葉を球状に束ねた杉玉(すぎだま)が掛けられている。
 同じ並びに、弘化4年(1847年)建築の元庄屋・上坂五郎右衛門家が建っている。一軒おいた隣は木之本地蔵院である。


元庄屋・上坂家


 時宗浄信寺(木之本地蔵院)の境内はおおぜいの参拝人で賑わっていた。境内に高さ6mの地蔵像が立っている。
 木之本は、木之本地蔵院の門前町、北国街道の宿場町として賑わった。

 木之本地蔵院から細い道を渡り、二軒の建物の前を通る。真宗大谷派寶樹山明樂寺が建っている。
 通りから入って参道を歩く。山門を潜る。右手に太鼓堂を配し、正面に拝殿が建っている。境内は相当の樹齢と思われる数本の松の木が聳え、落ち着いた雰囲気がある。


明樂寺


太鼓堂


拝殿


 明樂寺は、蓮如上人御影(ごえい)道中が御上洛途上に宿泊する寺である(蓮如上人御影道中については、目次28、平成17年11月27日及び目次30、平成18年5月6日参照)。

 通りの反対側に、造り酒屋・冨田酒造が建っている。450年を越えて酒を造り続けている。清酒「七本槍」の蔵元である。


冨田酒造

 道が緩やかな下りになる。
 右手に
旧滋賀銀行木之本支店(現・きのもと交遊館)が建っている。
 昭和10年(1935年)、湖北銀行木之本支店として建てられた。昭和17年(1942年)、合併により滋賀銀行木之本支店となり、昭和60年(1985年)まで営業されていた。
 4本のイオニア式の柱が安定感を与える。古典主義の要素を備えた壮麗な建物である。往時の木之本の繁栄を象徴している。


旧滋賀銀行木之本支店



 30分程歩く。復元されたものと思われる道標(みちしるべ)の前に出た。
 「みぎ 京いせみち」「ひだり 江戸なごやみち」と刻まれている。ここは、北国街道と
北国脇往還(ほっこくわきおうかん)の分岐点である。北国脇往還は、ここから関が原、大垣に連絡する。左の道を選び北国脇往還を歩く。

 道標の前から左へ曲がる。500m程歩き十字路を右へ曲がる。北国脇往還は、じぐざぐに曲がっているので、中心を通る国道365号線を歩くことにする。両側は、広々とした田畑が広がる。1キロ程歩き高月町に入る。

 2キロ程歩く。右手に、枝を大きく広げ、葉を茂らせている大樹が立っていた。太い幹に注連縄が張られている。幹には瘤がいくつも出来て、ごつごつとしている。木の回りにコンクリートの杭を立て、鉄の鎖を掛けている。
 最初に見たとき、木の状態からそれが欅とは気付かなかった。欅は、姿がスラリとして美しく、全体のバランスが良いものだとばかり思っていた。この欅は、旺盛な生命力をあちらこちらに包み込んでいるが、それを押さえきれず表に溢れさせているように見える。

 横に案内板が立っていて、次のことが書かれていた。

 「名称は、『八幡神社のケヤキ』。幹回り8、4m。高さ22m。推定樹齢300年以上。滋賀県天然記念物に指定されている。『野神(のがみ)ケヤキ』として崇められている。」

 長い年月、おおぜいの旅人たちがこのケヤキの木陰で憩うたことだろう。

 2キロ程歩き湖北町に入る。気温が上がっているようで初夏を思わせるような暑さになった。陽光に輝き、新緑の萌黄色は一層鮮やかになる。田植が終わったばかりの水田が続く。小さな稲が風に揺れている。水田の背後には濃緑の杉林が見える。

 高時川に架かる阿弥陀橋を渡り5キロ程歩く。
 道路の左側に、
小谷城跡(おだにじょうせき)の案内板が立っている。左手に標高494、4mの小谷山(おだにやま)が見える。その中腹に城が築かれていた。小谷城跡は国指定史跡である。
 
小谷城(おだにじょう)が築城されたのは大永5年(1525年)頃であり、初代・浅井亮成から三代・浅井長政(あざいながまさ)(1545〜1573)まで浅井氏三代の居城であった。

 途中、草野川に架かる草野川橋を渡り7キロ程歩く。交通量が多くなり、車がひっきりなしに行き交っている。
 
姉川(あねがわ)が流れている。川幅は200m程である。河原は丈高い草が生い茂っている。姉川に架かる野村橋を渡る。

 元亀元年(1570年)6月28日、浅井長政、朝倉氏の一族である朝倉景健(あさくらかげたけ)(1536〜1575)の連合軍と、織田信長(1534〜1582)、徳川家康(1543〜1616)の連合軍が、姉川の両岸で壮絶な合戦を繰り広げた。姉川の合戦である。
 説明書によると、浅井、朝倉連合軍が18,000人、織田、徳川連合軍が29、000人、合戦は午前5時に始まり午後2時に終わった。死者は2、500人を越えた。

 織田、徳川連合軍の勝利となり、浅井、朝倉連合軍は小谷城他に撤退した。

 元は、浅井長政は信長と同盟を結んでいたが、信長が一乗谷城の城主・朝倉義景(あさくらよしかげ)(1533〜1573)を討ち取るために越前に侵攻したことから信長に叛旗を翻す。浅井長政は、盟友・朝倉義景との同盟を重んじた。
 浅井長政の妻・お市の方(おいちのかた)(1547〜1583)は信長の妹である。そのため夫と兄との板ばさみになる。

 3年後の天正元年(1573年)8月、信長は一乗谷へ侵攻する。一乗谷は焼き討ちにあい、焦土と化す。朝倉義景は、越前大野に逃れ、その地で自刃する(一乗谷侵攻、朝倉義景について、目次30、平成18年5月3日及び目次31、平成18年7月16日参照)。
 続いて8月27日、小谷城に総攻撃をかける。浅井長政は小谷城で自刃する。享年29歳であった。

 浅井長政とお市の方の間に、二男、三女が生まれたとされているが、長男・万福丸、二男・万寿丸について詳細は判明されていない。
 長政没後、お市の方は、長女・
茶々、二女・、三女・江(ごう)とともに兄・織田信包(おだのぶかね)(1543〜1614)の庇護を受ける。

 天正10年(1582年)、お市の方は、織田氏の家臣・柴田勝家(しばたかついえ)(1522〜1583)と再婚する。
 翌、天正11年(1583年)、柴田勝家は、
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)(1537〜1598)と賤ヶ岳(しずがたけ)に於いて戦い、敗北する。勝家は自害する。お市の方も夫とともに自害する。

 別箇のできごとだと思っていたことが一つに結びつき、人間関係が意外なところで繋がっていることを知ったとき、新たな興味が湧いてくる。
 小谷城跡の他、浅井長政、お市の方にゆかりの史跡をいずれ訪ねようと思う。

 山や田畑を眺め、400年前に繰り返された栄枯盛衰に思いを馳せながら歩く。
 左手斜め前方に、豪快な山容の
伊吹山(いぶきやま)が見えてきた。伊吹山は、標高1、377m、滋賀県と岐阜県の県境に位置する。

 これからは伊吹山を回り込むようにしながら岐阜県の大垣を目指して歩くことになる。「奥の細道」の旅も終わりに近づいた。

 2キロ程歩き旧山東町(さんとうちょう)に入る。3キロ程歩く。間田(はざまた)に着く。国道365号線と別れて右へ曲がる。3キロ程歩き東海道新幹線の線路の下を潜る。
 住宅街に入る。あちらこちらで空に泳いでいる鯉のぼりを見る。1キロ程歩き近江長岡駅に着く。午後1時30分だった。6時30分から歩き始めたから約30キロ歩いたことになる。


・同年4月30日(月) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





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