35 羽黒山〜旧月山登拝道 大網〜十王峠〜松根(寄り道)


・平成19年5月3日(木) 鶴岡

 上越新幹線に乗り新潟駅で降りる。羽越線に乗り換え鶴岡駅で降りる。

 駅を出て駅前通りを1キロ程歩く。日枝神社の前の十字路を右へ曲がり山王通りを500m程歩く。内川に架かる大泉橋を渡る。右へ曲がり内川沿いに川端通りを500m程歩く。
 国道112号線に出る。右へ曲がり鶴園橋を渡る。

 ここから鳥海山(2、236m)と月山(1、984m)がよく見えた。鳥海山は秀麗な姿で聳え、月山はなだらかな山容を見せる。今日は汗ばむほどの陽気になっているが、どちらも頂上付近はまだ雪が残っている。

 通りの反対側に渡る。鶴岡商工会議所1階にあるレストランに入り昼食を摂る。枝豆のご飯とカレイの煮付けを注文する。デザートは枝豆のムースだった。おいしい食事ができた。

 バスに乗り駅に戻る。観光案内所でいただいた観光のパンフレットを駅の待合室で見る。
 チェックインの時間になったので
東京第一ホテル鶴岡に入る。2泊予約していた。


・同年5月4日(金) 羽黒山〜旧月山登拝道〜月山ビジターセンター

 朝、ホテルを出て、駅前から7時52分発の「羽黒山頂行き」のバスに乗る。
 「羽黒山頂行き」のバスは、月山の山開きに合わせて7月1日から8月下旬までの毎日と、9月の限定された日は始発が6時2分発だが、今の時期は7時52分発が一番早いバスになる。

 羽黒山に平成13年10月7日に登り(目次11参照)、平成14年8月17日に月山ビジターセンターから月山8合目まで登った(目次13参照)。
 昨年の平成18年9月17日に、
月山8合目から登り、月山の頂上を越えて湯殿山へ降りた(目次32参照)。
 ところが、うっかりして羽黒山頂から月山ビジターセンターまでの間を歩いてなかったことを忘れていた。先日、そのことに気付き、急遽予定を立て、今日、羽黒山頂から月山ビジターセンターまでを歩くことにした。

 バスは、8時30分に「羽黒センター」に着く。おおぜいの観光客や参拝人がいた。 

 隋神門(ずいしんもん)を潜る。6年前と同じように三神合祭殿(さんじんごうさいでん)の参道である2、446段の石段をいったん下って、それから登って羽黒山頂へ行く。
 継子坂(ままこざか)の石段を降りる。石段の側溝にきれいな水が流れ、杉の木の根元に鮮やかな緑色の羊歯が群生している。

 祓川(はらいがわ)に架かる神橋(しんきょう)を渡る。

 五重塔の前に出た。五重塔は、杉木立に囲まれ、静寂の中に立っている。ああ、また、ここに来て、五重塔を見ることができた。荘厳な姿を再び拝観することができて喜びが湧き起こる。
 6年前に初めて拝観したとき、厳粛さに心打たれた思いは今も変らない。

 石段を登る。聳える杉並木の間や背後に立つ樹木の新緑が輝いている。緑の回廊の中、どこまでも上昇している気分になってくる。







 1時間20分程で山頂に着いた。6年前は石段の途中から右手に延びる道を歩いて、芭蕉が逗留した南谷別院跡(みなみだにべついんあと)に立ち寄った。それでも1時間程で登った。歩くのが遅くなっていることに気が付いた。

 三神合祭殿の前や鏡池(かがみいけ)の周囲にもおおぜいの観光客や参詣人が集まっていた。
 鏡池は、祈願する人たちが鏡を奉納した池である。説明書によると、

 「これまでに、平安、鎌倉、江戸時代中期までの鏡が発掘され、そのうち190面が出羽三山博物館に収蔵されて国の重要文化財に指定されている。」

 江戸時代初期の頃まで鏡は青銅の板を磨いた銅鏡が主であった。たいへん高価なものであっただろう。そのため鏡を持つ人は極めて少なかったと思われる。長い年月であったとはいえ、190枚を越える鏡が池から取り出されたということは驚くべきことである。

 鐘楼の周りにはまだ雪が残っている。

 境内を出て100m程歩く。右側にバスの発着場があり、左側はお土産屋さんが並んでいる。その間の道を真っ直ぐ歩く。
 
旧月山登拝道の細い道が杉林の中に延びている。雪が残っている。100m程歩くと道幅がやや広くなる。雪はなくなり歩きやすくなった。他に歩いている人はいない。



 杉の木が少なくなり、ブナの木が現れた。落ち葉が積もり昔の石畳が残っている道を歩く。道は上り下りを繰り返す。歩いていて気持ちが快適になってくる。ずっと歩き続けたい道である。






 平らな場所に出た。杉の大木が立っている。聳える樹と太い幹は、心を落ち着かせる。高い梢を見上げる。 



 40分ほど歩く。吹越(ふきごし)神社の社殿が建っている。宝形造りの屋根は、美しく軽やかである。社殿は、昭和62年(1987年)に改築されている。


吹越神社 社殿


 境内に吹越籠堂(ふきごしこもりどう)が建っている。説明書によると、山伏が籠り、修行をする道場である。


吹越籠堂

 ブナの森の中に入った。森はどこまでも萌黄色に輝いている。
 鶯が鳴いている。ホケキョという声の他にケキョ、ケキョ、ケキョと連続して鳴く声も鶯だろう。鶯の声は澄み切って深い森に響き渡る。何と美しい声だろう。

 このまま美しいブナの森の中に座って、鶯の声を聴いていたい、と思った。




 道は、また、上り下りを繰り返す。ブナに混じって杉の木が現れてきた。







 40分程歩くと道が下りになった。石段というより石垣といったほうがよい急な斜面を降りる。
 手向(とうげ)バイパスが横切っている。左へ曲がり、200m程歩くと月山ビジターセンターに着くが、反対側に渡り石段を上る。
荒沢寺(こうたくじ)の山門の前に出る。
 手向バイパスは、切り通しになっている。旧月山登拝道は、手向バイパスによって分断されたものと思われる。

 山門を潜る。左手に、観音堂が建っている。正面に、「是より女人きんせい」と刻まれた石碑が立っている。
 羽黒山の観光マップによると、ここからまた、旧月山登拝道が始まるが、道が分からない。案内板もない。右手に建つ本堂の辺りも見るが、やはり分からない。


荒沢寺 山門


女人禁制の碑


 しばらく歩き回っていたが、観音堂の前の杉木立の間に道らしいものがあるのを見つけた。
 地図と照合すると、方角が合っている。

 杉木立を抜ける。左へ曲がり坂を上る。鬱蒼とした樹木の間を道なりに歩く。杉林の前を通ると、人が足を踏み入れなくなって久しいと思われるような森に入る。 







 40分ほど歩く。月山高原ラインに出た。これで、歩き残した道はなくなった。
 右へ曲がると月山8合目に行くことができる。5年前に、この坂道を約4時間上って月山8合目に着いたことを思い出した。


月山高原ライン


 ここでも月山高原ラインが旧月山登拝道を分断している。
 反対側に渡ると旧月山登拝道が続いている。ここから旧月山登拝道は、月山8合目に存する高山植物が見られる湿原の
弥陀ヶ原(みだがはら)に至る。

 左に曲がり坂を下る。30分程歩いて月山ビジターセンターの前を通る。野鳥観察池となっている「二夜の池」の畔に出る。池は、杉の木に囲まれ、一周できるように自然観察路が整備されている。

 「二夜の池」の近くに建つ宿泊施設がある「休暇村羽黒」に入る。
 1階にある食堂でジンギスカン定食を食べる。特製のジンギスカンのタレをからめて肉を炒めた、という説明がある。肉が柔らかくておいしい。別のテーブルに漬物が6種類、大きな器に盛られている。いずれも羽黒町名産の漬物ということで食べ放題だった。赤蕪を沢山食べる。

 停留所「休暇村羽黒」からバスに乗り鶴岡駅前で降りる。ホテルに戻る。


・同年5月5日(土) 大網〜十王峠〜松根(寄り道)

 朝、ホテルを出て、駅前から9時17分発の「湯殿山行き」のバスに乗る。10時3分に停留所「大網」に着く。バスを降りる。
 左へ曲がり注連寺(ちゅうれんじ)へ至る道を歩く。5年前の秋、この道を歩いて注連寺を訪ねた(目次14、平成14年9月15日参照)。

 20分程歩く。六十里越街道(ろくじゅうりごえかいどう)に入る。六十里越街道は、庄内の鶴岡と内陸の山形を結び、奈良時代に開かれたと伝えられている。湯殿山への参詣の道であった。
 湯殿山が紅葉に彩られる頃、六十里越街道の宿場だった
田麦俣(たむぎまた)の集落から、湯殿山への巡礼の道であった六十里越街道を通って湯殿山まで歩きたいと思う。それに、田麦俣には「兜造り多層民家」が2棟残っている(田麦俣、「兜造り多層民家」については、目次14、平成14年9月22日及び9月23日参照)。

 道が登りになる。曇り空だったが雨がパラパラと降りだした。20分程歩き、注連寺の境内の石段下に着く。注連寺の本堂の屋根が見える。石段を上がって境内に入る。
 今日は、六十里越街道を歩き、十王峠(じゅうおうとうげ)を越えて鶴岡に出る予定である。注連寺に寄っていると遅くなるので、外側から本堂を拝観するに止める。

 森敦の『月山』の主人公である男は、月山の麓の注連寺で一冬を越す。男は、幽明の界(さかい)が判然としない時間の中で為すこともなく過ごす。
 寒さに耐えかねて祈祷簿で和紙の蚊帳を作る。


 「天井から蚊帳へと小さな穴をつくって引き入れた電球をつける。ただそれだけでも、中は和紙の柔和な照りかえしで明るさが満ち、電球のあたたかさとわたし自身のぬくもりで、寒さというほどの寒さもありません。それはもう曠野の中の小屋などという感じではなく、なにか自分で紡いだ繭の中にでもいるようで、こうして時を待つうちには、わたしもおのずと変成して、どこかへ飛び立つときが来るような気がするのです。」


 春になり、雪が融けるが、男は、眠っているのか眠っていないのか自分でも分からず、終日、うつらうつらとして過ごす。

 夕方、食事の世話をしている寺守に呼ばれて階下に降りると、男を迎えに来た友人が台所の炉ばたにあぐらをかいている。
 友人が迎えに来て、男は、幽玄な世界から現実に引き戻される。男は、眠りからはっきり目覚めたかのようになる。会話も物語の筋の運びも速くなり、現実味を帯びてくる。
 恰も、オーケストラの指揮者が終楽章を迎え、曲の速度、強弱を変えるように、作者は、文章のテンポを速め、作品に対する読者の印象に変化を与えて終章に繋ぐ。

 翌朝、男と友人は、注連寺を去る。周辺の山々は新緑が湧き立っている。十王峠を越えて鶴岡に出るために峠に至る道を登る。

 昭和49年、26歳のとき、森敦の『月山』を読み、月山と注連寺に憧れた私は、「奥の細道」を歩いて月山へ近づくことを思い続けていた。
 24年後の平成10年、50歳のときに「奥の細道」を歩くことを始めた。念願どおり平成14年9月15日、注連寺を訪ね、月山を眺めた。昨年の平成18年9月17日に月山に登った。
 『月山』に魅せられて始めた旅であるから、『月山』の主人公である男とその友人に倣って、私も十王峠を越えて鶴岡へ出ることは、旅の終わりにふさわしいことのように思えてきたのである。

 注連寺の境内の端から石段を上る。新山神社の前を通り畑の間の坂道を上る。新しく作られたと思われる六十里越街道の道標が立っている。道標に従って畑の横の道を歩く。
 ブナの森に入る。森の中は未だ雪が残っている。雪の重みで枝が折れたり木が倒れたりしたのだろう。杉の木の枝や倒木が行く手を阻む。

 湧き水が石の樋を伝わって流れ落ちている。両手に受けて飲む。冷たくておいしい。傍に小さな岩が立てかけられている。岩には小さなお地蔵さんが6体連なって彫られている。岩は苔むして、風化が進んでいる。そのため、お地蔵さんの顔も定かではない。
 横に説明板が立っている。この湧き水は、「イタヤ清水」と名付けられている。名前の由来について、「飲むとあまりにも冷たくて歯が痛むことから名付けられた」、と書かれている。
 多くの旅人が旅の途中、この水で喉を潤したことだろう。
 後日、地元の人から、「イタヤ清水」の水を飲むときは、先に六地蔵に水をかけてから飲むのが習わしになっている、というお話を伺った。

 枝や倒木を跨ぎながら20分程歩く。
 六十里越街道の道標が立っていて横に石段がある。石段を上る。舗装された道路に出た。上り坂になっている。カーブの多い道を20分程登る。
 赤い衣装を着せられたお地蔵さんが立っている。十王峠の頂上に着いた。案内板に次のことが書かれていた。

 「この峠には閻魔大王など十体の木彫りの仏像があったことから十王峠と呼ばれた。この峠道は湯殿山へお参りする人たちでたいへん賑わった。」

 雨は止んだが空は曇っている。それでも庄内平野を一望することができた。
 道は下り坂になる。新緑の山や濃緑の杉林を見ながら下る。モミジの木が枝を伸ばし、頭上を覆う。枝は淡い緑色の若葉を茂らせている。

 右側に川が現れる。川沿いに下る。「田の頭林道」に出る。右へ曲がり川に架かる橋を渡る。左へ曲がり坂を下る。追分石、湯殿山碑を見ながら歩く。
 坂道が終わり平らな場所に出た。民家の間の道を歩く。途中、半壊している「兜造り多層民家」
を見た。昔はこの辺りもこのような様式の建物が数多く建っていたのだろう。

 松根(まつね)の集落に入る。静かで落ち着いている。

 赤川が流れている。赤川は大河の風格を漂わせて滔々と流れている。赤川に架かる櫛引橋を渡る。午後3時だった。十王峠からここまで約3時間かかった。
 バスの停留所がある。鶴岡駅行きのバスが通っている。停留所に置かれているベンチに座ってバスを待つ。

 夜、駅の構内にある食堂で、鶴岡の郷土料理である孟宗汁を食べる。大ぶりに切った竹の子に厚揚げと椎茸を加え、濃い味噌に酒粕を加えて煮込んでいる。大きな器で出される。豪快でおいしい料理だった。


・同年5月6日(日) 新潟

 早朝、ホテルを出る。鶴岡駅を6時2分に発車する羽越線の特急に乗る。新潟駅に7時49分に着く。
 駅を出て駅前の
新潟東急インに入り、朝食のバイキングで食事をする。

 食後、ホテルを出て駅前の通りを1キロ程歩く。信濃川に架かる、昭和4年(1929年)竣工、長さ307mの萬代橋(ばんだいばし)を渡る。
 右へ曲がり2キロ程歩く
新潟市歴史博物館に着く。

 旧新潟税関庁舎が保存されているこの場所は、旧新潟税関庁舎の建物を新潟市郷土資料館として一般に開放されていた。
 平成15年から1年間閉鎖され、新潟市歴史博物館が建設された。博物館は、鉄骨鉄筋コンクリート造り3階建て。外観は、明治44年(1911年)建築の2代目新潟市庁舎のデザインを取り入れている。

 正面に旧新潟税関庁舎が建っている。明治2年(1869年)10月、新潟運上所として完成。明治6年(1873年)1月、新潟税関と改称。昭和41年(1966年)5月まで使用されていた。
 昭和44年(1969年)6月、建物が国重要文化財に、敷地が史跡に指定された。


旧新潟税関庁舎



 アーチ状の通路は洋風だが、監視塔、なまこ壁、紅殻(べんがら)塗り等和風の意匠が施されている擬洋風建築である。
 通路を通って敷地に入る。なまこ壁と紅殻塗りの色の対比が美しい。破損した箇所も見当たらず、大事に保存されていたことが窺える。
 
新潟県政記念館目次21、平成16年7月19日参照)と同じように歴史的に価値のある美しい建物が、移築されることなく建設された場所で保存されていることは嬉しいことである。











 敷地の中ほどに信濃川旧河道が復元され、荷揚げ場と石段が復元されている。旧税関庁舎から現在の信濃川岸までの距離は約80mであるから、信濃川は埋め立てられて川幅が約80m狭まったことになる。

 石庫(いしぐら)が昭和57年(1982年)10月、復元された石庫は、明治2年(1869年)、旧税関庁舎と共に建築されたが、昭和38年(1963年)、解体された。現在、民具等を収めた資料庫として使われている。石庫の裏に早川堀が復元されている。

 旧第四(だいし)銀行住吉町支店が移築、復原されている。
 昭和2年(1927年)10月、新潟市住吉町に建築され、平成14年3月まで営業が行われていた。その後、解体、移築、平成15年12月、復原が完了した。


旧第四銀行住吉町支店





 鉄筋コンクリート造、一部3階の2階建。外壁は花崗岩。イオニア式列柱が重厚さと安定感を与える。イオニア式列柱はギリシャ神殿を彷彿させ、銀行の永遠性、堅実、安定を表わしている。
 営業室は吹き抜けになっていて、2階部分にギャラリーをめぐらせている。漆喰天井飾りが施され、カウンターは大理石で出来ている。





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