7 田麦俣〜湯殿山(山形県)


・平成24年10月6日(土) 田麦俣

 上越新幹線に乗り、新潟駅で羽越線の特急に乗り換える。鶴岡駅に10時19分に着く。
 駅の観光案内所で、田麦俣、六十里越街道、湯殿山の観光パンフレットをいただき、バスを待つ間、駅の待合所で見る。

 11時37分発「湯殿山行き」のバスに乗る。

 今日、田麦俣の民宿・「かやぶき屋」に泊まり、明朝早く田麦俣(たむぎまた)を出発して湯殿山まで六十里越街道(ろくじゅうりごえかいどう)を歩く予定である。
 田麦俣も湯殿山もこれまでに訪れて、六十里越街道も部分的に歩いたが、田麦俣から六十里越街道を歩いて湯殿山へ行くのは今回が初めてである。

 六十里越街道は、1200年前、奈良時代に開削された湯殿山参詣の巡礼の道であった。最盛期には年間3万人が通ったといわれている。また、庄内の鶴岡から内陸の山形を結ぶ産業道路でもあった。
 田麦俣は、六十里越街道の宿場町であった。
 明治30年代に新道が開通して六十里越街道は寂れたが、近年、歴史的な街道として見直されてきた。長年に亘る地元の住民による継続的で地道な街道の整備等が実を結んだものと思われる。
 現在も、定期的に整備や清掃が行われている。

 田麦俣、兜造り多層民家については、目次1、平成23年10月9日、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月22日及び9月23日参照。
 湯殿山については、目次1、平成23年10月9日、「奥の細道旅日記」目次15、平成14年10月13日参照。
 六十里越街道については、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月15日、同目次35、平成19年5月5日参照。

 12時33分に、停留所「田麦俣」に着く。バスを降りる。


田麦俣 兜造り多層民家


 兜造り多層民家が2棟並んでいる。左側の建物が今日泊まる民宿・「かやぶき屋」である。
 右側の建物は、県有形文化財指定の
旧遠藤家住宅である。江戸時代後期の文化文政年間に建てられたと推定されている。いずれも築200年を越える建物である。
 豪雪地帯に適した多層民家が、明治になって養蚕が盛んになり、通風と採光の必要から妻側の屋根を切り上げ、兜を載せたような形に改造された。2棟とも明治10年代に兜造りに改造された。旧遠藤家住宅は一般公開されている。

 「かやぶき屋」に入るには時間が早いので、その間、田麦俣を散策する。
 坂を上り、「かやぶき屋」の前を通る。旧遠藤家住宅は、茅の葺き替えが行われていた。


旧遠藤家住宅


旧遠藤家住宅


民宿・「かやぶき屋」


「かやぶき屋」


 更に坂を上り、六十里越街道へ入る。急坂になる。20分ほど上ると、六十里越街道の蟻腰坂の入り口の前に出た。その前を通り、坂を上がる。
 10分程で「七ツ滝公園」に着いた。七ツ滝沢の対岸に、
七ツ滝が見える。


七ツ滝


 高さ90mの断崖を上下二段に分かれて流れ落ちる。白糸を広げたように幾筋にも分かれた流れが、次に絞られて一筋になる。優美な滝である。「日本百名滝」に選定されている。
 しばらく美しい滝を眺めていた。

 坂を下る。3時になったので「かやぶき屋」へ入る。
 宿泊は私だけだった。風呂の用意がされていた。早速、風呂に入る。浴室は明るく、広い。浴槽も一度に6人は入れるくらいに大きい。

 予約の電話をして話しているときに感じたとおり、ご主人は、明るく、気さくな人だった。
 話がしやすいので、色々なことを尋ね、教えていただいた。

 田麦俣は、昭和20年代に、60棟の兜造り多層民家が存在していた。その当時の写真が壁に掛けられている。多数の兜造りの茅葺の民家が山間に美しく調和している。
 昔は、積雪が5mほどあった。最近は、昔ほどではないが、それでも3mほどは積もる。冬も毎朝、5時に起きて、雪下ろしをやっているというお話があった。

 田麦俣の人口は、現在100人を切っているそうである。

 お話を伺いながら、田麦俣の住民は、歴史の遺産である六十里越街道を大切に考え、愛しておられることが感じられた。
 定期的に、皆で、六十里越街道を歩きやすいように清掃や整備を行っている。街道の半分辺りまで来たときに、持参した弁当を開き、休憩した後に、残りの部分の作業を始めるというお話を伺った。

 六十里越街道沿いに、昔、「笹小屋」という山小屋が建っていた。現在は、「笹小屋跡」として、跡地が保存されている。
 笹小屋跡から、六十里越街道と別れて湯殿山参籠所(さんろうじょ)
へ行く道が存在する。「豆腐道」と名付けられている。
 この道を通ることを予定しているが、仙人沢という流れを渡らなければならない。橋は架かってないから飛び石づたいに沢を渡ることになる。
 今日も曇っているが、明日もいい天気は望めそうにない。しかも、庄内地方は雷注意報が出ている。

 雨で川が増水しても渡れるかどうか伺ったら、増水すると、膝に達するくらいまでの水嵩になる、というお話だった。
 靴と靴下を脱いで川を渡っていて、滑ったり、怪我をしたりする虞がある。

 ご主人の話では、それよりも、「豆腐道」は止めて、更に「笹小屋跡」から六十里越街道を先へ進むと「一本橋跡」があり、そこには橋が架かっているから、そこを通ったほうがいい、ということであった。
 橋を渡ると、案内板が立っているので湯殿山参籠所へ通じる道も分かる、というお話だった。ご主人が仰る通りに予定を変更する。

 森敦(1912〜1989)も、ここへ泊まりに来ていた、というお話も伺った。
 昭和56年(1981年)、
注連寺の境内に「月山文学碑」が建立されたことを記念して、月山祭が毎年行われるようになった。
 その日は、県内外から200人以上の人たちが注連寺に集まる。注連寺は宿坊もあるが、夜通し酒宴が続くので、森敦は、夜、ここへ来て寝ていたそうである。
 今年9月8日、注連寺で、森敦生誕百年祭が行われた。
 (森敦、注連寺については、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月15日、同目次35、平成19年5月5日参照)

 魚が焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
 囲炉裏に熾した炭火の熱で、串に刺したイワナを焼いている。オレンジ色の火が炭を曙に染めていく美しさに見惚れる。
 囲炉裏を切っている部屋の天井は高いが、囲炉裏の炭火で部屋全体が暖かくなる。

 夕食は、囲炉裏の傍でいただいた。
 イワナの塩焼きの他、山の幸の料理だった。栗ご飯、味噌を詰めて焼いたアケビの実、キノコ入りの濃い味噌汁。他に、山菜やキノコを使った様々な料理がテーブルに並べられた。
 どれもおいしかった。栗ご飯はお替りをした。

 予約したときに、早朝出発したい、と話し、朝食は6時にしてもらった。弁当をお願いしたら、「おにぎり」でいいでしょう、と言われ、それもお願いしておいた。
 朝、5時半に起きるので、夜、9時半頃に寝た。
 山から引いた水が落ちる音が聞こえる。他には何も聞こえない。静かな夜だった。


・同年10月7日(日) 田麦俣〜湯殿山

 朝5時半に起きる。気が付かなかったが、夜中に雨が降ったようだ。道路が濡れている。やはり、「豆腐道」を歩くのは止めることにする。

 6時に朝食をいただく。豆腐と茗荷がたっぷり入った熱い味噌汁がおいしい。
 食事をしているときに、紙袋に入った弁当をいただいた。山歩きするときは飴を舐めるのもいいですよ、と言って、キャンディーもいただいた。

 6時20分に民宿を出た。ご主人が外へ出て見送ってくれた。ありがとうございました。


(田麦俣〜蟻腰坂〜弘法茶屋跡)

 昨日歩いた坂道を上る。振り返ってみると、周囲の山は霧がかかっている。


「かやぶき屋」



 20分程上ると、昨日、前を通った蟻腰坂(ありこしざか)の入り口に着く。六十里越街道は、ここから山間に入っていく。
 霧の中、九十九折の急な坂を上っていく。


蟻腰坂





 50分程上って、弘法茶屋跡(こうぼうちゃやあと)に着いた。
 弘法茶屋跡は、真言宗の開祖である
弘法大師(法名・空海)(744〜835)が休憩したと伝えられる茶屋跡である。石碑と灯籠が残っている。


弘法茶屋跡


 歌人・斉藤茂吉(1882〜1953)の歌碑が立っている(斉藤茂吉については、「奥の細道旅日記」目次9、平成13年6月3日参照)。


斉藤茂吉歌碑


      田麦俣を眼下(まなした)に見る峠にて餅(もちひ)をくひぬわが子と共に


  樹木の間から田麦俣が見えたが、靄がかかっていた。


(弘法茶屋跡〜馬立〜花ノ木坂)

 弘法茶屋跡から道が平坦になり、歩きやすくなった。ブナの林の中に入って行く。



 20分程歩き、馬立(うまたて)に着く。蟻腰坂の急坂を上って来た馬の荷物を積み直したり、反対側から来たときは、蟻腰坂を下るのに備えて馬の荷物を調整したりする所だったといわれている。 


馬立


 ブナは、まだ黄葉していないが、深い樹林を見ながら歩いていると快適な気分になってくる。



 道が急な下りになる。
 六十里越街道を分断している国道112号線へ出る。反対側に渡らなければならないが、横断歩道がない。
 車がスピードを上げて、左右から走ってくる。左右をよく確認してから渡り、右へ曲がる。石垣の下の細い道を歩き、花ノ木坂の入り口に着く。


(花ノ木坂〜独鈷茶屋跡〜護身仏茶屋跡)

 花ノ木坂は、蟻腰坂のように急坂だった。周囲はブナの林になっている。落ち葉が濡れている。昨日の雨は、この辺りがよく降ったのだろう。滑らないように気を付けて歩く。

 30分程上って独鈷茶屋跡(どっこちゃやあと)に着く。
 弘法大師が独鈷(仏具)で地面を突くと、清水が湧き出したという独鈷清水が、独鈷茶屋跡から脇道に入った所にあるが、それは見に行かなかった。

 坂を上りながら脇道に入り、「千手ブナ」を見に行った。
 樹齢約250年の古木で、千手観音のように多数の枝を広げている姿から「千手ブナ」と呼ばれている。「千手ブナ」は、辺りを覆い、悠然と立っている。この街道の主のようである。


千手ブナ


 元の道に戻り10分程歩く。護摩壇石(ごまだんいし)の前に出る。
 弘法大師がここで火を焚いて祈祷したといわれている。


護摩壇石(奥に置かれている石))


 左側が断崖になっている「座頭まくり」と名づけられた場所に着く。最近、崩落があったのだろうか、通行禁止のロープが張られていた。右側に新しく道ができている。

 30分程歩く。護身仏茶屋跡(ごしんぶつちゃやあと)に着く。少し開けた平らな場所に杉の木が聳えている。


(護身仏茶屋跡〜大掘抜〜細腰峠)



 茂吉の歌碑が立っている。


斉藤茂吉歌碑


      山の雨晴れゆかむとして白雲が立ちのぼるごと動きてやまず


 小掘抜(こほのぎ)に着く。山をV字形に掘り抜いて造られた道である。
 小掘抜を過ぎて、300m程歩くと、大掘抜(おほのぎ)が現れる。やはり、山をV字形に掘り抜いて造られた道であるが、幅2m、長さ数10mに及び、小掘抜より規模が大きい。
 春には、ブナの新緑のトンネルになるだろう。


大掘抜


 大掘抜を過ぎると、一の坂、二の坂、三の坂の急坂が2キロ程続く。道幅が狭くなり、道に石や岩が露出して歩きにくい。

 二の坂を過ぎた場所に、茂吉の歌碑が立っている。


斉藤茂吉歌碑


      雨あとの滑べる山路を四人(よたり)して田麦俣まで直(ただ)にあゆめる





 三の坂を上りきった平らな場所にも茂吉の歌碑が立っている。


斉藤茂吉歌碑


      人おとも遂に絶えたるこの山はぶなしげりたりひる暗きまで


 細越峠(ほそごえとうげ)に着いた。夏茶屋があったといわれている。
 湯殿山の方向から風が吹いてくる。さわさわと葉擦れの音が聞こえる。曇って湿度が高くなっている中、坂を上ってきて汗ばんでいたので風が気持ちがいい。


 

細越峠


(細越峠〜湯殿山遥拝所〜笹小屋跡)

 街道から離れて、湯殿山遥拝所(ようはいじょ)がある。
 脇道を300m程上る。遥か遠くに、周囲を山に囲まれて谷底に立っているような朱色の大鳥居と湯殿山参籠所が見えた。


湯殿山遥拝所


 雪が深くて進めない時や時間がない時に、ここで拝んだといわれている。また、昔、湯殿山は女人禁制であったため女性もここから遥拝したといわれている。

 街道に戻る。ここで、20代後半くらいの3人の男性に出会った。私と同じ田麦俣から来たと言う。ニコニコしながら、お先に失礼します、気を付けて行って下さい、と丁寧に言って、若者らしく軽い足取りで坂を下って行った。3人の姿はすぐに見えなくなった。

 下り坂が続く。
 左側に、湧水と思われる流れが現れた。水量が多く、きれいな水である。傍に柄杓があったので、柄杓にすくって水を飲む。冷たくておいしい。5杯飲んだ。

 下りの道が急坂になる。
 坂の途中の左側に、開けた平らな所がある。戊辰戦争時に庄内藩によって造られた
砲台跡である。


砲台跡


 更に下って行くと、右側の脇道を50m程進んだ所に、同じく戊辰戦争時に庄内藩によって造られた塹壕(ざんごう)跡が残されていた。


塹壕跡


 戊辰(ぼしん)戦争は、明治元年(1868)から明治2年(1869)の間、明治政府を樹立した薩摩藩、長州藩を中心とした新政府軍と、旧幕府勢と奥州各藩の同盟軍が戦った内戦である。
 六十里越街道も激しい戦闘が行われた。

 20分程下る。笹小屋跡に着く。


(笹小屋跡)

 ここに、昔、笹小屋(ささごや)という名前の山小屋があった。
 縦1m、横50cm程の長方形の穴がある。中に水が溜まっているので分からないが、深さは1mもないと思われる。何の跡なのか分からない。


笹小屋跡


 茂吉の歌碑が立っている。



斉藤茂吉歌碑


      峪ぞこの笹小屋といふ一つ家(や)に足をちぢめて共にねむりぬ


 ここまで、茂吉の歌碑が五つ立っていた。
 これらの歌は、歌集
『たかはら』に収められている歌の一部である。

 山形県上山町金瓶(かなかめ)(現在の上山市金瓶)出身の茂吉は、生涯に何度も出羽三山に登拝している。

 『たかはら』に、次のような「三山参拝初途」の詞書がある。

 「昭和5年7月20日、長男茂太15歳になりたるゆゑ、出羽三山に初詣せしめむとて出發す。上山にて高橋四郎兵衛加はり、岩根澤口にむかふ」

 長男茂太は斉藤茂太(1916〜2006)であり、高橋四郎兵衛は茂吉の実弟である。上山で旅館を営んでいた。

 茂吉の二男である作家・北杜夫(本名・斉藤宗吉)(1927〜2011)は、『茂吉彷徨』の中で、「三山参拝初途」について、次のように書いている。


 「東北の出羽地方の山村では出羽三山を崇(うやま)い、男の子が15歳に達すると御山参りをするのが習慣となっていた。
 茂吉も父熊次郎に連れられて湯殿山へ登った。出発の前には毎朝水を浴び、魚介虫類のようなものまで殺さぬようにして精進をする。多くの一厘銭をひとつひとつ塩で磨いて賽銭の用意をする。このようなことから御山信仰が並々ならぬものであったことが推察される。」


 茂吉らは、月山から湯殿山へ下り、笹小屋に泊まっている。
 『たかはら』に、「笹小屋より羽黒」の詞書として、次のように記している。

 「7月23日午前6時笹小屋を立ちて間道を行く。8時40分田麦俣著」

 私は、茂吉とは逆の方から歩いて来た。それにしても、当時、六十里越街道は今とは比べものにならないほど歩きにくかったと思うが、笹小屋と田麦俣の間を2時間40分で歩いたことは、たいへんな健脚ぶりである。

 現在、田麦俣から湯殿山参籠所まで、歩く時間は、途中休憩を入れないで標準で約4時間半といわれている。
 今、時間は12時半だから、私は田麦俣から笹小屋跡まで6時間かかっている。写真を撮ったり、脇道へ入ったりしたことを時間に入れても非常に時間がかかっている。体力と脚力の衰えを痛感した。

 『たかはら』に、歌碑に刻まれた5首の歌を含めて、笹小屋から田麦俣までの間に茂吉が詠んだ歌19首が収められている。
 5首の歌の他に、私の好きな歌2首を載せる。


      湯殿峪に飲食物(のみくひもの)をはこぶ馬がこの山道を通ふさびしさ

      この道も古(いにし)へ人はむらがりて行きしか弘法(こうぼふ)の遺跡もとどむ


 幕末の志士・清河八郎(本名・斉藤正明(1830〜1863)も故郷を出奔し江戸へ向かう途中、笹小屋に泊まった(清河八郎については、「奥の細道旅日記」目次11、平成13年9月22日参照)。

 藤沢周平(1927〜1997)の『回天の門』に、清河八郎の生涯が記されている(藤沢周平については、「奥の細道旅日記」目次16、平成14年11月24日参照)。

 新庄藩清川村の造り酒屋・斉藤家の長男として生まれた清河八郎は家業を継ぐことを約束されていた。八郎は江戸に出て、勉学に励み、急激な時代の変化を自分の目で見ることを熱望する。このまま家督を譲り受けても自分の人生は放蕩無頼のもので終わるだろうという思いがあった。
 親の反対を受けることは分かっていたから、置手紙をして家を出る。弘化4年(1847年)5月2日未明のことであった。八郎は16歳だった。

 八郎は、清川から山道を歩き、添川村に降り、手向村を経て、松根村から大網の関所に出る。
 大網の関所では、役人に、家出をしてきた、と言って、紙に包んだお金を渡して関所を通過する。大網から六十里越街道を歩いて笹小屋に泊まる。

 1日の行程としてはたいへん長い距離である。

 私も、清川から狩川へ出て、添川を通り、羽黒町の手向(とうげ)まで歩いた。添川は、黄金(きん)色の稲田が広がり、刈り入れが近づいていた(「奥の細道旅日記」目次11、平成13年9月22日及び9月23日参照)。
 また、清河八郎とは逆になるが、大網から新緑に輝くブナの森を抜けて十王峠を越え、松根の集落を経て赤川の櫛引橋まで六十里越街道を歩いた(「奥の細道旅日記」目次35、平成19年5月5日参照)

 湯殿山神社大鳥居の前から出る、16時35分発の鶴岡行き最終のバスに間に合えばいいのだから、ここで休んで弁当を食べようかと思ったが、朝から曇っていた空が一層曇ってきている。雨が降り出しそうな気配がするので、弁当を食べるのは止めて、先を急ぐことにする。


(笹小屋跡〜ザンゲ坂〜湯殿山神社大鳥居)

 笹小屋跡を下って行くと、水溜りができていて、ぬかるみの道になる。雨の所為もあるのだろうが、元々ここは湿地帯ではないかと思う。木道が設置されている。
 案内板に従って、六十里越街道と別れて
仙人沢(せんにんざわ)に下りて行く。幅5m程の沢の岸に着いた。


仙人沢


 「一本橋跡」とはいっても、現在は通常の橋が架かっていると思っていたが、H形鋼(エッチがたこう)が2本づつ重なって架けられているだけだった。幅は25cm程である。手すりとして、片方にだけチェーンが掛けられている。


 仙人沢に架かるH形鋼


 渡り始めるときは、それほど気にならなかった。ところが、沢の真ん中辺りまで来たときに急に怖くなった。チェーンがだらんと下がって動き、頼りないのである。
 両手でチェーンを持って、足を踏み外さないように足元に気持ちを集中させて少しづつ体を移動する。足元を見るが、水の流れは見ないようにする。

 渡り終わって、ほっとした。
 沢に沿った高台に、巨大な湯殿山碑が立っている。その下に案内板があった。湯殿山碑の前を通って真っ直ぐ歩く。
 道がY字形に別れた所に出た。昨日、民宿のご主人に教えられたように左側の道を行く。急坂になる。

 10分程上ると、薬師小屋跡(やくしごやあと)に出た。
 このとき、辺りが暗くなり、雨が降り出した。頭上は、樹木が鬱蒼としているからそれほど濡れないが、急いで坂を上る。
 「湯殿山本宮参道」と書かれた標識が立っている。これを見たとき、ほっとした。また、雨が降る前に橋を渡り終えて良かったと思った。10分程坂を上ると、道が平らになり、広くなった。湯殿山有料道路に出た。

 雨は止んだ。通り雨だったのだろう。
 左右から走ってくる車に気を付けながら、有料道路の反対側へ渡る。ザンゲ坂の入り口がある。

 ザンゲ坂を上る。案内板に、「修験者が懺悔しながら上った急坂です。最後の坂です。」と書いてある。
 確かに、今日、幾つも急坂を上ってきたが、これまでで一番急な坂である。這うようにして上る。15分程上り、坂の頂上に着く。


ザンゲ坂


 下りも急坂で、道幅が狭く、道に露出している石が先ほどの雨に濡れているので、滑らないように慎重に歩く。両側から苔むした岩が飛び出している。両手で岩をつかんでゆっくり下りる。岩も濡れている。

 15分程で坂を下り終わった。目の前に湯殿山神社大鳥居が立っていた。
 時間を見ると、1時25分だった。1時30分発の鶴岡行きのバスに乗ろうと思った。これに乗らないと、次のバスは4時35分発になる。急いで大鳥居の写真を撮って、既に停まっていたバスに飛び乗った。


湯殿山神社大鳥居


 バスはすぐに発車した。
 笹小屋跡からここまでは1時間で来たが、田麦俣からここまでは7時間もかかっている。
 バスの乗客は、鶴岡市の市街地まで私だけだった。
 運転手さんに、今日、田麦俣から六十里越街道を歩いて来たが7時間もかかった、と話したら、運転手さんも、普通はそんなにかかりませんよ、と驚いたように言う。
 それから少し話しをした。運転手さんは50代くらいの人だった。毎年お正月に、長い石段を上って羽黒山の神社へ初詣に行く、と言っていた。雪が降り積もった杉林の中に立つ羽黒山の五重塔は、荘厳なものだろうなと思った。

 約1時間20分で鶴岡駅に着いた。予約していた駅前のホテルにチェックインする。

 部屋へ入り、民宿で作ってくれた弁当を紙袋から出した。遅い昼食になった。キャンディーもそのまま持ってきた。

 銀紙に包まれている「おにぎり」2個、漬物2種類、焼き海苔、紙パックに入っているココアが入っていた。「おにぎり」の中にはそれぞれ、焼いたタラコと小女子(こうなご)の佃煮が入っている。漬物の一つは、鶴岡特産の小粒の「民田(みんでん)なす」だった。芥子風味にしている。
 「おにぎり」は、銀紙を開いて手にとると、大きくて、重い。焼き海苔を巻いて食べる。大きくておいしいので、2個だったが3個食べたような満腹感があった。
 飲み物を添えてくれていたことに細やかな心遣いを感じた。民宿のご主人の暖かい人柄が伝わってくる弁当だった。



 今回は天候に恵まれず、眺望も良くなかった。ブナは、まだ色づいてなかった。
 今度は、春、雪が融けて、梅雨になるまでの間に、もう一度同じ道を歩こうと思った。その頃、ブナの新緑は萌黄色に輝き、鶯は美しい声で鳴いているだろう。


・同年10月8日(月) (帰京)

 朝食の後、ホテルの大浴場で風呂に入り、ホテルを出る。





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