16 あつみ温泉〜勝木(新潟県) 村上〜金屋


・平成14年11月23日(土) あつみ温泉(寄り道)

 陸羽西線の電車を余目駅で降り、羽越線の特急に乗る。あつみ温泉駅で降りる。
 駅を出て坂を下る。国道7号線に出て200m程歩き左へ曲がる。標高736mの温海岳(あつみだけ)へ向かって、温海川沿いの左岸を歩く。温海川は川幅が広く静かな流れである。

 30分程歩き月見橋を渡り温泉街に入る。河畔は桜並木になっている。

 共同浴場の「正面湯」に入る。無人の小さな共同浴場で、入り口に設けられている料金箱にお金を入れる。改装されてからそれほど日が経ってないようで浴室も脱衣所も新しい。泉質は塩化物、硫黄泉でやや熱い。他に誰もいない。ゆっくり入って温まる。

 外に出て静かな通りを歩きバスの停留所へ行く。鶴岡行きのバスが来たので乗る。

 バスは、海岸通りの国道7号線を走る。20日前の11月3日、みぞれと強い風の中、この国道を歩いたが、今日はいい天気になった。暖かい陽がバスの窓から入り眠くなってくる。静かに広がる日本海が見える。海岸の岩場で磯釣りをしている人たちがいる。

 1時間程バスに乗り鶴岡駅に着く。予約していた東京第一ホテル鶴岡にチェックインする。


・同年11月24日(日) 鶴岡

 朝、ホテルの大浴場で風呂に入る。

 ホテルを出て右へ曲がり2キロ程歩く。鶴岡公園(鶴ヶ岡城址)の横を通り、道路を反対側に渡る。藩校致道館(ちどうかん)に着く。

 致道館は、庄内藩9代藩主酒井忠徳(ただあり)が文化2年(1805年)に創立した藩校である。文化13年(1816年)、10代藩主忠器(ただかた)により鶴ヶ岡城三の丸内の現在地に移された。
 明治6年(1873年)廃校、昭和26年国の史跡に指定された。

 現在残っている建築物は、孔子の霊を祀る「聖廟(せいびょう)」、「講堂」、藩主がお成りのときに入られた「御入間(おいりのま)」他三つの門である。
 木造瓦葺平屋建ての講堂に入る。学制の説明、致道館で編集、印刷され教科書として使われていた刷り本、印刷に使った版木等が展示されている。


致道館 講堂

 致道館を出て右へ曲がる。十字路を右へ曲がり200m程歩く。内川に架かる鶴園橋を渡り、内川を左に見ながら川端通りを歩く。内川は、かつて城を守る外堀の機能を持っていた。

 山形県東田川郡黄金村(現在の鶴岡市)出身の藤沢周平(1927〜1997)は、海坂(うなさか)藩という架空の藩を舞台にした多数の作品を発表した。内川は、作品に登場する五間川のモチーフになっている。
 藤沢周平は説教をしない。登場する人物に人生や生き方を語らせることもしない。読む人がそれぞれ考えるべきことである。 

 川端通りを1キロ程歩き大泉橋を渡る。山王通りを500m程歩き十字路を左へ曲がる。日枝神社の前を通り1キロ程歩く。鶴岡駅に着く。


・平成15年3月21日(金) あつみ温泉〜府屋〜勝木

 陸羽西線の電車を余目駅で降り、羽越線の特急に乗る。あつみ温泉駅で降りる。
 駅を出て坂を下り、国道7号線に出る。右手に日本海を見ながら歩く。日本海は美しい青い色を湛えている。水平線まではっきり見える。海岸に奇岩が並ぶ。

 岩川漁協、小岩川を通り、6キロ程歩く。「道の駅 あつみ」に着く。食堂で、めばるの煮付けと鰆の照り焼きを食べる。

 1キロ程歩く。鼠(念珠)ヶ関跡(ねずがせきあと)の前に出る。関所の門を復元している。
 右手に鼠ヶ関マリーナが見える。数多くのヨットが繋留されている。帆柱が林立する。

 羽越線の線路の下を潜り2キロ程歩く。山形県を出て新潟県山北町(さんぽくまち)に入る。
 山形県に入ったのは平成13年6月1日(目次9参照)だった。その日は東京を出てから寄り道を含めて47日目だった。今日は東京を出てから寄り道を含めて88日目になった。

 中浜を通る。製塩、販売の看板を出している建物が並んでいる。海水を使った昔ながらの塩づくりが行われている。

 府屋(ふや)を通る。途中、トンネルの中を歩く。暖かい日差しの中を歩いてきたが、夕方に近くなって日差しが弱まり寒くなってくる。
 7キロ程歩いて勝木(がつぎ)駅に着く。

 電車が来るまで1時間半程待たなければならないので、10分程歩いた所にある公共の温泉施設ゆり花会館に行く。浴室は明るく、清潔である。微かに硫黄の匂いがするが、お湯は無色透明である。

 羽越線の下りの電車に乗る。鶴岡駅に着く。東京第一ホテル鶴岡にチェックインする。2泊予約していた。


・同年3月22日(土) 村上〜瀬波温泉〜金屋

 朝、羽越線の特急に乗り村上駅で降りる。
 勝木から先は山の中を歩くことになる。山の中はまだ相当寒いと思われるので勝木と村上の間を歩くのは5月を予定している。今日は、村上から先を歩く。

 駅を出て左へ曲がる。500m程歩き跨線橋を渡る。右側に、朱漆で仕上げる堆朱(ついしゅ)の村上堆朱工芸館が建っている。村上中央自動車学校の横を歩く。

 2キロ程歩く。田畑の向こうに瀬波温泉の温泉街が広がる。湯煙が上がる源泉の櫓が見える。坂道になり、通りの両側に旅館やホテルが並ぶ。
 坂を登りきった所で日本海が見えた。

 道は平坦になる。右手に日本海を見ながら歩く。
 サケの塩引きを尻尾(しっぽ)を上にして、軒下に並べて吊るしている旅館がある。
 東日本旅客鉄道株式会社発行、2006年9月号の『トランヴェール』に「塩引きは、丹念に塩をすり込んだサケを5〜7日間ほど置き、流水で塩抜きして、風通しのよい場所につるして干す。2〜3週間目から食べごろになる。」また、「酒びたしは、塩引きをさらに半年以上も熟成させたもので、夏場から秋にかけて食べる」と書いてある。

 岩船港鮮魚センターの前を通る。2、5キロ程歩く。石船(いわふね)神社に着く。

 石船神社は、漁業や航海の安全を護る神社である。
 鳥居を潜り長い参道を歩く。坂と石段を登る。広い境内に入る。明治32年に再建された社殿が建っている。


石船神社 社殿

 神社を出て、石川に架かる明神橋を渡る。石川の河口に岩船港があり、粟島行きの船が出ている。明神橋からも停泊している船が見える。

 旧い家並みの通りを2キロ程歩く。国道345号線に入る。
 2キロ程歩く。国道から離れて右手に、赤松の林に囲まれた
お幕場(まくば)大池公園がある。飛来した白鳥の群れが公園の池で泳ぎ、上空を飛翔している。他の水鳥も泳いでいる。コオー、コオーと賑やかな鳴き声や水音が聞える。あと1ヶ月もしないうちに飛び立っていくだろう。明るい日差しに池の水面が光る。池の周りに人が集まり、餌を与えている。

 左側に畑が広がる。もうすぐ土が掘り起こされ、新しく畝が造られるだろう。
 ピールル、ピールルと鳴いているのはヒバリだろうか。姿が見えないほどの高い空で鳴いている。



 3キロ程歩く。荒川に架かる旭橋を渡る。道が二つに分かれる。右は桃崎浜の海岸に出る。左を選ぶ。1、5キロ程歩く。金屋に着く。左へ曲がり2キロ程歩く。坂町駅に着く。羽越線の下りの特急に乗り鶴岡に戻る。


・同年3月23日(日) 村上

 朝、羽越線の特急に乗り村上駅で降りる。

 駅を出て100m程歩き左へ曲がる。400m程歩き、「肴町上」の信号を右へ曲がる。両側は商店が並んでいるが、酒屋、染物屋、漆器店、堆朱の店、鮭加工食品の店、菓子舗、茶舗等の町屋(まちや)の建物が多く残っている。
 3月の1ヶ月間、町屋人形めぐり、という催しが町屋を中心に行われている。家代々受け継がれてきた人形を店先や玄関先、茶の間に展示している。

 先に城跡を訪ねることにする。
 肴町から鍛冶町、小国町、安良町を通って、大町まで1キロ程歩く。商家の建物が建っているのはここまでである。ここから先は、武家屋敷が建っていたものと思われる。

 大町の十字路を渡る。村上体育館の前を通り左へ曲がる。市役所の前を通り裁判所を右へ曲がる。1キロ程歩いて国指定史跡の村上城跡の登り口に着く。

 村上城は、慶長3年(1598年)標高135mの臥牛山(がぎゅうさん)の山頂に築かれ、明治元年(1868年)焼失した。
 九十九折の急傾斜の山道を登る。冬枯れの中を歩く。樹木の根元に雪が残っている所がある。あと1ヶ月もたったら山全体が美しい新緑に変わるだろう。

 10分程登ったころ、城の遺構である石垣が次々と現れる。説明板があり、石垣の配置が分かりやすい。


四つ門跡附近


冠木門跡附近

 更に10分程登り、頂上の天主台跡に着く。
 眼下に、鮭が遡上する
三面川(みおもてがわ)と、その流れが注ぎ込む日本海が見える。

 地元の人たちが軽い足取りで登ってきて、挨拶を交わし、屈伸運動をしたり、深呼吸をしたりした後下っていく。頂上まで登るのを日課にしていると思われる。季節の微妙な変化に気がつくだろうなと思う。

 山を下る。裁判所の前に戻り右へ曲がる。100m程歩いて若林家住宅に着く。

 若林家住宅は、村上藩士若林家の住まいだった建物であり、中級武家屋敷として、昭和52年、国重要文化財に指定された。1800年頃の建築と推定されている。茅葺、曲屋(まがりや)造りの平屋建。部屋割りが細かく、玄関、土間が狭いので慎ましい印象を受ける建物である。

 若林家住宅を出て裁判所の前に戻る。右へ曲がり、公民館と市役所の間の道路を歩く。
 ここで道路が鍵形に曲がっていることに気が付いた。長い直線道路を無くし、行き止まりのように見せる。侵入した敵に見誤らせ、見通しを悪くして迷わせ、侵攻を遅らせるための区画である。城下町だった頃の区割が見られる。

 突き当たって右曲へがる。少し歩いて左へ曲がる。道路の縦と横が碁盤の目のように並ばず、ずらして造られている。もう一度、右と左に曲がることを繰り返して、安善小路(あんぜんこうじ)に入る。

 左手に昭和11年(1936年)建築、木造2階建、風格のある第四銀行村上支店支店長旧社宅が建っている。外壁は黒の板壁になっている。
 真宗大谷派安善寺(あんぜんじ)の前に出る。二層の楼門が建ち、黒の板塀を巡らしている。隣接して、慶応3年(1867年)創業、割烹「新多久(しんたく)」が建っている。広い庭園を持ち、黒塀を設けている。
 浄念寺(じょうねんじ)の黒の板塀が長く続く。浄念寺の本堂は、文化15年(1818年)建築の土蔵造りである。平成3年、国重要文化財に指定された。板塀の上から白漆喰の土蔵が見える。土蔵の横には欅の木が聳えている。
 浄念寺の黒塀と「新多久」の黒塀の間は、だらだら坂になっている。

 黒塀通りと呼ばれているこの辺りは、子供の頃に見た風景に似て懐かしく、しばらく立って眺めていた。

 安善小路も区割りが鍵形になっている。浄念寺の黒塀に添って歩き、寺が並ぶ寺町に出る。
 道路を隔てて割烹「吉源(よしげん)」が建っている。昭和4年(1929年)建築、入母屋造りの木造2階建、国登録有形文化財の建物である。玄関を上がった板の間の奥に豪華な雛人形が飾られていた。

 最初に駅から城跡まで歩いた道路に戻る。
 小国町の九重園(ここのええん)は、文化文政に始まる創業250年の茶舗である。日本北限の銘茶と言われる村上茶を販売している。


九重園

 駅に戻りながら町屋や商店に展示されている人形を見る。雛人形が多い。雛人形には江戸時代のものもある。他に武者人形、土人形が展示されている。

 町屋だった建物を「コミュニティデイホーム」という名称にして、観光客の休憩所としても利用できるようにした建物がある。町屋の内部が分かる。
 間口の広さに対して課税されたために間口は狭く、奥行きを深くする。
 玄関に入る。右側に店舗部分、茶の間、座敷が並ぶ。左側に通り庭(土間)を設ける。通り庭は建物の裏側まで続く。中庭や座敷の前に庭園を持つ町屋もある。

 隣家との間は人が通り抜けられない程の狭さなので、建物の横に窓を設けても採光、通風は望めない。そこで、光りと風を取り込むために店舗部分と茶の間を2階吹き抜けにして、道路に面した正面の高い場所に窓を造り、また天窓を造る。通り庭にも天窓を造る。窓の開閉は、長い棒の先で行う。
 天井を見上げる。釘を使わないで組まれている太い梁と束柱(つかばしら)の列が美しい。


 最後に入った村上茶を販売している店では、屋根が設(しつら)えられた御殿に納まる雛人形が飾られていた。製作されたのは明治20年頃という説明があった。顔はもちろん衣装の色合いが現代のものとは違う。丁寧に扱われ、大切にしまわれていたようで傷みが殆どない。
 雛人形は、この家を100年以上に亘って見続けてきたのだろう。


雛 (製作年明治20年頃)





TOPへ戻る

目次へ戻る

17へ進む

ご意見・ご感想をお待ちしております。