8 名建築を訪ねるー4


・平成24年11月3日(土) 求道会館ー2


求道会館


 今年も「東京文化財ウィーク」が始まった。毎年、文化の日を中心にして約1週間、都内の文化財に指定されたものについて、通常、公開していないものも、この期間に一般公開される。
 昨年と同じく今年も文化の日に
求道会館(きゅうどうかいかん)を訪ねた(目次2、平成23年11月3日参照)。
 求道会館は現在、仏教講話、講演会、結婚式、コンサート等に使用されている。毎月、第四土曜日の午後、一般公開されているが、毎年、文化の日にも特別に一般公開される。

 求道会館は、外観はキリスト教の会堂に見えるが、内部正面に、銅板葺、白木(しらき)造りの六角堂を配している。六角堂には阿弥陀如来が安置されている。このことから仏教の施設であることが分かるが、内部はキリスト教会か学校の講堂のような造りである。
 レンガ造2階建、建築面積307、47u、延床面積508、03uである。


館内正面 (平成23年11月3日撮影)


 求道会館は、大正4年(1915年)竣工、施主は真宗大谷派の僧侶・近角常観(ちかずみじょうかん)(1870〜1941)。設計は建築家・武田五一(たけだごいち)(1872〜1938)である。

 中へ入って、今日1回目の建物の説明を伺った。
 ご説明くださった方は、昨年と同じく、建築家であり、大学の講師を務めておられる近角(ちかずみ)真一先生であった。近角先生は、近角常観のお孫さんである。

 説明の主な内容を記す。昨年伺えなかったお話も多く伺うことができた。

 近角常観は、東京帝大哲学科卒業後2年間、ヨーロッパ、アメリカをまわり、宗教事情の視察をする。帰国後、学生寮である求道学舎を設立し、仏の教えを語り、寝食を共にして青年学生を育成する。
 キリスト教の日曜礼拝に倣って日曜講話を始めたところ、一般の人たちも大勢集まってくる。そこで、大きな建物を建て、大勢の人たちに説教を聴いてもらいたいと考え、建築を武田五一に依頼する。明治36年(1903年)のことであった。

 武田五一も、東京帝大卒業後、明治34年(1901年)から明治36年(1903年)まで2年間、ヨーロッパ、アメリカに留学して帰国したばかりであった。
 武田五一は、留学中、様式にとらわれることなく目的に適った建築をする近代建築を始めとして、当時、ヨーロッパに流行していたフランスのアール・ヌーヴォー、ドイツのユーゲントシュティール、イギリスのアーツアンドクラフツ、ウィーンのゼツェッション等の建築と美術を学んだ。

 依頼を受けた武田五一は設計に12年を費やし、求道会館は大正4年に完成する。

 近角先生の建築の専門的なお話を交えた丁寧な分かりやすいご説明を受けながら、求道会館の全容と、正確で美しいディテール(細部)を見学する。

 正面の六角堂の裏側に当たる2階部分に、床の間付きの畳敷きの小礼拝堂がある。今回初めて、小礼拝堂を見学することができた。
 求道会館は外観と内部は洋風でありながら仏教の施設である不思議な建物であるが、小礼拝堂も不思議な部屋である。床の間の床の高さが日本家屋の通常のものよりも高い。しかし、この高さが軽快な感じを与えている。
 畳敷きの部屋であるのに暖炉が設置されている。暖炉の炉を囲むマントルピースは、今までに見たこともない形のものだった。マントルピースの両側の上部のみに、奥行き、縦、横いずれも30cm程の幅の、棚と言っていいと思われるものが張り出している。それぞれに扉が付いている。

 イギリスから帰国した、近角先生の友人の建築家が、このマントルピースをご覧になって、「グラスゴーの博物館で、これと同じデザインの家具を見た。『KIMONO』と名付けられていた。」と語ったというお話があった。
 正(まさ)しく、このマントルピースは、衣桁(いこう)に掛けられた小袖の姿である。

 先生のご説明が続く。
 明治になって、日本は、造船業等の技術を習得するために、グラスゴーとの間で盛んに交流していた。そのときに、日本の美術がグラスゴーに流入していた。ジャポニスム(日本趣味)に影響を受けた船大工付きの家具職人が作品を製作したのだろう、と仰った。

 武田五一は留学中に、『KIMONO』と名付けられていた家具を目にしていたのだろう。

 後日、図書館で、アーツアンドクラフツの推進者であり、グラスゴーに生まれたチャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868〜1928)の作品集を閲覧していたところ、おもちゃ箱用の大きな家具が載っていた。上段が左右に張り出している。これも『KIMONO』と名付けられている。
 当時、このようなデザインの家具が複数の職人や、複数の工房によって造られ、『KIMONO』と名付けられた家具が、特にグラスゴーに多く存在していたのではないかと考えた。
 いずれ、グラスゴーに生まれた「『KIMONO』と呼ばれた家具」について調べてみようと思った。

 説明が終わった後も、先生のご説明を念頭において、もう一度ディテールを詳細に拝見する。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで流行していたデザインを見ることができる。

 2階会衆席の手すりの装飾は、「卍」の幾何学的なデザインである。1903年に創立されたウィーン工房の封筒や便箋に印刷されたエンブレム(標章)に似ている。この図案化された幾何学的なデザインは、アール・デコに引き継がれる。


2階会衆席 手すり


 1階会衆席の長椅子を初めて見たとき、ウィーン工房の創立メンバーだったデザイナーのコロマン・モーザー(1868〜1918)が1904年に製作した肘掛け椅子を思い出した。
 コロマン・モーザー製作の肘掛け椅子も、肘掛と背もたれの三方に、細い角材が格子のように縦に取り付けられている。

 やはりウィーン工房の創立メンバーだった建築家であり、デザイナーであったヨーゼフ・ホフマン(1870〜1956)が設計した病院のロビーのために製作された椅子である。


1階会衆席 長椅子


 建築家であったヨーゼフ・ホフマンは、ウィーン工房では建築の他に家具、食器、装身具等も製作していた。それらは、建築もそうであるが、ほぼ直線で構成され、あるいは直線が交差している。作品の中には、市松模様の物入れ、煙草盆のようなバスケット、行灯のような銀製の、花瓶のカバーがある。
 日本の家屋の柱、障子、格子、梁、束柱(つかばしら)等の直線の美しさに魅せられたと思う。

 ヨーゼフ・ホフマンもコロマン・モーザーもジャポニスムに影響された作品を製作し、それを留学中の武田五一が学んだのであろう。
 武田五一が、ヨーロッパから遠く離れた日本で、ヨーロッパの高名な芸術家と同じデザインの作品を、ほぼ同じ時期に製作したことは、ヨーロッパと日本の芸術が互いに影響を与え合った成果であると考える。

 正面の、光背(こうはい)を表しているアーチ状の山吹色の地に、かたどりされた石膏で曲線が描かれている。これは、植物の蔓を図案化して描いたものと思われる。アール・ヌーヴォーである。
 アール・ヌーヴォーもジャポニスムの影響を受けたといわれているが、日本国内のアール・ヌーヴォーの作品は非常に少ない。その少ないアール・ヌーヴォーの作品もアール・デコに近いデザインのものが殆どである。
 求道会館のアール・ヌーヴォーは、世紀末のパリを華やかに彩った時代のアール・ヌーヴォーである。

 戦後、求道会館は使用されることなく閉鎖され、朽廃の道を辿っていた。
 平成6年、東京都文化財に指定される。指定を受け、平成8年、修復工事を開始する。平成14年、工事が完了する。求道会館は再生し、往時の姿を取り戻した。

 戦前の求道会館を訪れたことのある人が中に入って、内部の光景が戦前に見たものと同じであることに呆然として佇んでいた、というお話があった。
 求道会館が文化財の指定を受け、6年の修復工事の後、戦前の求道会館をご存知の方が感嘆のあまり呆然となるほど往時の姿を甦らせたことを思うと、深い感動を覚える。

 理想を語った近角常観と、それを可能にした武田五一の二人の幸福な出会いがあった。
 その後、近角常観と武田五一の遺したものを、ディテールに至るまで正確に甦らせたことは、近角真一先生が建築の専門家であったから実現できたことと思う。


 東京都文京区本郷6−20−5
 地下鉄南北線東大前駅 地下鉄丸の内線本郷三丁目駅 都営地下鉄春日駅下車


・同年11月4日(日) 駒澤大学耕雲館(禅文化歴史博物館)


駒澤大学耕雲館


 駒澤大学耕雲館(こううんかん)は、通常は平日のみ開館しているが、「東京文化財ウィーク」の期間は、文化の日を含めて、土、日曜日も開館する。

 耕雲館は、昭和3年(1928年)、図書館として建設された。設計者は、建築家・菅原榮蔵(1892〜1968)である。
 昭和48年(1973年)、現在の図書館が完成する。平成11年、耕雲館が東京都歴史的建造物に選定される。平成14年、耕雲館は禅文化歴史博物館を開設する。

 駒澤大学は、文禄元年(1592年)、駿河台の吉祥寺境内に創設された曹洞宗の学寮・「学林」を起源とする。

 鉄筋コンクリート造り地下1階付き地上2階建、延べ床面積約1、900u。八角形の建物である。外壁を一部スクラッチタイルで覆い、スクラッチタイルの間にテラコッタ(陶板)を使っている。
 漆喰の白と、スクラッチタイルの朽葉色(くちばいろ)の組み合わせが美しい。

 スクラッチタイルは、タイルに焼く前に、粘土の表面を竹の櫛で引っ掻いて縦の筋を付けたものである。
 スクラッチタイルの前身であるスクラッチ煉瓦をアメリカ人建築家・
フランク・ロイド・ライト(1867〜1959)が帝国ホテル建築の際に使用した。以後、スクラッチ煉瓦は日本中に流行した。
 ライトは、平面を平らなままに終わらせず凹凸を付けてメリハリのある壁面を造る。耕雲館は、ライトの建築様式である「ライト式」の建物である。

 (フランク・ロイド・ライト、帝国ホテルについては、目次6、平成24年5月19日、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。

 館内へ入って知ったが、館内の資料に、「菅原榮蔵は、『折板構造(せつばんこうぞう)』という稲妻型の構造を設計している。大正12年(1923年)9月の関東大震災後の建物ということが考慮され、耐震性を考えて設計に取り入れたものであろう。」と説明されている。
 耕雲館の「折板構造」は、建物を八角形にして、屏風を立てたような形を示しているのだろう。

 東玄関のポーチは、2本のモールディングが白い壁を引き締めている。これも「ライト式」である。瀟洒な雰囲気が漂っている。


東玄関


東玄関 ポーチ


 北側へ回り、中央玄関から入る。



 館内の写真撮影は禁止されている。
 1階ホールのロビーに、菅原榮蔵が製作した衝立、長椅子が置かれて、現在も使用されている。

 扉を開けてホールへ入る。2階吹き抜けになって、2階部分に回廊を巡らせている。高さ10mの天井のステンドグラスを透して柔らかい光が降り注ぐ。天井が八角形であるから、ステンドグラスも八角形である。ステンドグラスは、幾何学的な模様を美しいブルーの濃淡で描いている。
 建物の外観もそうであるが、内部も全て幾何学的な造りである。ホールの周囲の部屋も三角形や五角形の部屋が並んでいる。

 館内は、1階ホールと周囲の部屋は禅の文化と歴史をテーマとする「常設展示室」、2階の部屋は「企画展示室」と、学寮時代から今日までの大学の歴史を展望する「大学史展示室」で構成されている。

 2階の「企画展示室」で、期間限定で特別展示されていた貴重な品を拝見した。
 曹洞宗の開祖・
道元禅師(どうげんぜんじ)(1200〜1253)が著した
『正法眼蔵詞書(しょうぼうげんぞうししょ)』の原本の冒頭のページが開かれていた。

 次のように説明されていた。大要を記す。


「『正法眼蔵』は、曹洞宗の開祖・道元禅師の代表的著作であるが、禅師直筆の原本は殆ど残っていない。当大学所蔵の『正法眼蔵詞書』一巻一冊は、数少ない原本の一つである。
 道元禅師が仁治2年(1241年)に著した草案本を寛元元年(1243年)に推敲、改訂した、いわゆる修訂本『詞書』は、現存する真筆『正法眼蔵』のうち、冒頭から末尾まで欠落のない唯一の完本である。本文冒頭を展示する。
 経典類に使用することの多い雁皮紙(がんぴし)に書かれている。」


 古文書にありがちな紙の染みはなく、絹のように滑らかで光沢のある綺麗な紙に、細い美しい文字で綴られている。

 雁皮紙について『広辞苑』で調べる。次のように説明されている。

 「雁皮は、ジンチョウゲ科の落葉低木である。雁皮紙は、ガンピの樹皮の繊維を原料とし、ノリウツギの内皮の液、またはトロロアオイの粘液を用いて漉き、表面を柔らかな刷毛でこすり、滑らかにした薄い上品な和紙。緻密で光沢があり、虫害に強く、防湿性にもすぐれる。」

 (道元禅師、『正法眼蔵』については、目次5、平成24年5月5日参照。曹洞宗大本山・永平寺については、「奥の細道旅日記」目次29、平成18年1月8日参照。)


 東京都世田谷区駒沢1−23−1
 東急田園都市線駒沢大学駅下車


・同年11月10日(土) 三鷹市山本有三記念館


玉川上水沿いの御殿山通り


 三鷹駅南口を出て、左へ曲がる。玉川上水を挟んで通りが二つに分かれる。右側の道幅の広い「御殿山通り」を歩く。左側の鬱蒼とした樹木が並んでいるのは、玉川上水の川岸である。左右の川岸の間隔は約8mである。
 「御殿山通り」は、玉川上水と平行して真っ直ぐに延びる。1キロ程先に
井の頭公園がある。

 200m程歩く。右側に、太宰治(本名・津島修治(1909〜1948)が三鷹の下連雀に居住していたことを記念するプレートが立っている。プレートには太宰治が玉川上水の土手に、しゃがんで座っている写真がプリントされている。

 太宰治は、昭和14年(1939年)1月、石原美知子と結婚する。その年の9月に東京府北多摩郡三鷹町下連雀113(現在の三鷹市下連雀2丁目)の借家に転居する。
 昭和20年(1945年)7月、生家のある青森県北津軽郡金木町(現在の五所川原市金木町)に疎開する。
 翌21年(1946年)11月、疎開生活を切り上げ、三鷹の旧宅に戻る。
 昭和23年(1948年)6月13日の夜半、愛人の山崎富栄(1919〜1948)と玉川上水に入水(じゅすい)する。

 このプレートが立っている場所に近い土手から入水したといわれている。
 写真を見て、現在と変わっているのは、現在は川岸に鉄柵が立っているが、当時は柵等はなく土手になっていて、桜の木が疎らに立っているだけである。それに、流れの幅が広い。普段でも相当水嵩はあったと思われる。現在は、鉄柵から身を乗り出して、やっと水が見える程度の少量の水しか流れていない。
 当時、玉川上水は、水量が多く、水の流れが速かったといわれている。
 太宰治と山崎富栄を捜索している古い映像を見たことがある。雨の中、蓑笠を付けた男が筏に乗って竹竿で川底
を捜索しているものだった。

 300m程歩く。右側に、三鷹市山本有三記念館が建っている。
 記念館の門柱と塀の一部は、白漆喰を塗り込めて、石を埋め込んでいる。



 椎や松の木が聳える広い前庭の向こうに記念館が建っている。


三鷹市山本有三記念館


 地下1階付き2階建、屋根裏部屋もある。敷地面積3864、88u、延床面積450、87u。鉄筋コンクリートと木造の混合造りで、マンサード屋根(腰折れ屋根)とハーフティンバー様式の建物である。
 大正15年(1926年)頃に、実業家が別荘として建てたといわれている。作家・
山本有三(1887〜1974)は昭和11年(1936年)4月、この建物に家族とともに移り住む。

 基礎部分と暖炉の煙突の下半分は大谷石、1階部分と暖炉の煙突の上半分はスクラッチタイル、2階部分は白漆喰で仕上げている。
 白漆喰の外壁に木材が水平に回り、出隅(ですみ)には木材による格子状の装飾が施されている。窓の桟は幾何学的なデザインである。

 スクラッチタイル、木材の装飾、窓の桟を見て、この建物も「ライト式」であることが分かる。窓の桟のデザインは、ライトの弟子であった遠藤新(あらた)(1889〜1951)のデザインに似ている。



 (遠藤新については、目次2、平成23年11月5日、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。)

 裏へ回る。裏から見る記念館は表とは印象が大きく変わる。しかし、2階バルコニーの装飾も加わって、「ライト式」が一層明瞭になってくる。





 テラスの前には雑木林に囲まれた広い庭園がある。庭園は「有三記念公園」として、記念館開館中、前庭とともに一般に開放されている。

 表に戻り、館内へ入る。小さな玄関である。内開きの扉は開けられていた。もう一つ扉がある。扉はゴシック式の尖頭アーチ型である。
 扉の前の「風除け室」の天井は、美しい交差ヴォールトの天井である。


玄関





 館内へ入ると、右側に、部屋とも言えない程の小さなスペースがある。煉瓦造りの暖炉が設置されていて、両側に造り付けの長椅子がある。待合室であり、家族の団欒の場でもあったのだろう。

 1階応接室の床は、矢の上端の、弓の弦を受ける部分である矢筈(やはず)の寄木模様である。矢筈の模様は暖炉の煉瓦にも使われている。


応接室


 真紅の階段を上り、階段と踊り場の天井を支える梁と「持ち送り」の連続する美しい形を見たとき、英国の貴族の館のようだなと思った。





 2階には、洋室と和室の二つの書斎がある。山本有三の資料が展示されている。山本有三は、ここで名作『路傍の石』を書いた。
 様々な建築様式を取り入れた美しい建物であるが、誰が設計したのか判明していない。

 昭和21年(1946年)11月、建物が進駐軍により接収される。
 昭和26年(1951年)12月、接収が解除されるが、山本有三はここに戻らなかった。
 昭和31年(1956年)9月、土地と建物を東京都へ寄贈する。
 昭和60年(1985年)、三鷹市へ移管される。
 平成6年、三鷹市文化財に指定される。
 平成8年11月、三鷹市山本有三記念館を開館する。

 玄関の上部のスクラッチタイルの壁に、鳥をレリーフしたテラコッタが嵌め込まれている。



 小学生の頃、学校の図書室から「岩波少年文庫」をよく借りて読んでいた。他に借りていた本に、山本有三編集の「日本少国民文庫」があった。
 後に分かったのだが、「日本少国民文庫」は全16巻で、第1回配本は昭和10年(1935年)11月であった。戦後も2度、改訂されている。私が読んだのは改訂版だったのだろう。
 レリーフされているこの鳥のマークが、「日本少国民文庫」の裏表紙の中央に印刷されていたような記憶がある。それで、レリーフを見たとき、その頃のことが懐かしく思い出された。

 「日本少国民文庫」の中に載っていた、「心に太陽を持て、くちびるに歌を持て」という詩句を憶えている。
 これも後に分かったことであるが、この詩句は、ドイツの詩人・ツェーザル・フライシュレン(1864〜1920)の詩の一節であった。


 東京都三鷹市下連雀2−12−27
 JR中央線三鷹駅下車


 記念館を出て左へ曲がり、三鷹駅の方に戻る。三鷹駅の手前を左へ曲がり、「本町通り」へ入る。道幅は5m程である。
 100m程歩く。左側に、太宰治とともに入水した山崎富栄の下宿跡を示すプレートが立っている。富栄は2階建ての2階の6畳間に下宿していた。1階は葬儀社が営業していた。現在、建物は建て替えられているが、1階の葬儀社は今も営業を続けている。

 更に100m程歩く。左側の、太宰が利用していた「伊勢元酒店」の跡地に、平成20年3月、「太宰治文学サロン」が開設された。
 中へ入る。太宰の直筆原稿の複製や初版本、初出雑誌、三鷹に住んでいた頃の太宰の写真等が展示されている。また、太宰が最初に結婚した小山初代と所帯を持ったときに使っていた火鉢が展示されていた。昭和5年(1930年)12月に結婚したが、太宰は小山初代を入籍しなかった。

 山崎富栄の下宿跡の、通りを隔てた斜向かいに、小料理屋「千草(ちぐさ)」跡を示すプレートが立っている。「千草」は太宰がよく利用していた。時には「千草」の2階を仕事場にすることもあった。現在は跡地にビルが建っている。
 太宰の借家があった下連雀は、山崎富栄の下宿と、同じ並びに建っていた「伊勢元酒店」の背後に広がる町である。
 約1キロ四方の狭い町で、太宰は、妻と
3人の子供が暮らす家と、愛人の下宿の間を行ったり来たりしていたのである。

 昭和22年(1947年)3月末頃に、太宰は山崎富栄と知り合う。富栄の友人の紹介によるものだった。富栄は戦争未亡人だった。駅に近い美容院で美容師の仕事をしていた。
 太宰は、山崎富栄の下宿で仕事をしたり、泊まったりしていた。2人で「千草」で飲み、外出して遠くへ行くこともあった。
 狭い町の中で、太宰、太宰の妻、山崎富栄の3人は近所の人たちの好奇の目に晒されていただろう。

 出版社に勤務していた野原一夫(1922〜1999)の『回想 太宰治』に拠ると、山崎富栄は、当時、滋賀県神崎郡八日市町(現在の滋賀県東近江市)に住んでいた両親に宛てて手紙を書き、太宰とのことを打ち明けた。富栄の父は、妻子ある男との恋愛を厳しく叱責し、すぐに自分のもとへ帰ってくるよう書き送った。
 富栄の勤め先の美容院の女性の店主も富栄にきつく注意した。店主も戦争未亡人で子供を育てていた。

 山崎富栄を叱責したのはこの2人だけだったようである。太宰の友人も、2人の周囲の人たちも、出版社の編集者、出版社の社長も、太宰と、時には富栄も加わって一緒に飲み歩くことはしても、妻子ある太宰との恋愛は無論、太宰の妻子が住んでいる近くでの2人の非道な振る舞いを窘(たしな)め、苦言を呈した者はいなかった。売れる作品を書いてもらえばそれでいい、と思って見て見ぬ振りをしていたのだろうか。

 太宰の作品の中で私の好きなものがある。『津軽』である。昭和19年(1944年)、太宰は津軽を旅行する。『津軽』は、その旅の印象の記である。
 青森、蟹田(かにた)、外ヶ浜、今別(いまべつ)、三厩(みんまや)、竜飛(たっぴ)岬と旅をする。行く先々で旧友や旧知の人たちが歓迎してくれる。酒を呑み、気持ち良く酔い、土地のおいしい料理をご馳走になる。旧友の中には、1日、2日と旅に同行してくれる者もいる。文章は明るく軽やかでユーモアに満ちている。

 ところが、長兄が当主になっている金木町の生家を訪れると、楽しかった雰囲気が変わる。
 嫂が迎えてくれる。仏間に入り、仏壇の中の両親の写真に頭を下げる。嫂に手をひかれて88歳の祖母が出てきて、来てくれたことを喜んでくれる。
 ここまではいいのだが、これから先が太宰にとって居心地の悪いものになる。

 「『どうしますか』と嫂は私に向かって、『ごはんは、ここで食べますか。2階に、みんないるんですけど』
 陽子のお婿(むこ)さんを中心に、長兄や次兄が2階で飲みはじめている様子である。」

 陽子は長兄の長女である。婿さんは弘前の近くの地主の息子である。ちょうど2人が遊びに来ていたのである。
 それにしても嫂の言葉が変である。常識では、ごはんをどこで食べるかを聞くまでもなく、直ぐに2階へ連れて行って、長兄と次兄に会わせ、太宰の姪の婿さんに紹介するべきだと思うが、そうはしない。この嫂の言葉で、太宰の帰郷を、長兄と次兄は歓迎していないことが窺われる。

 「『お差支(さしつか)えなかったら、2階へ行きましょうか』ここでひとりで、ビールなど飲んでいるのも、いじけているみたいで、いやらしい事だと思った。
 『どちらだって、かまいませんよ』嫂は笑いながら、『それじゃ、2階へお膳(ぜん)を』と光ちゃんたちに言いつけた。」

 太宰は2階へ上がる。金襖(きんぶすま)の一番いい日本間で兄たちは酒を飲んでいた。

 「『修治です。はじめて』と言って、まずお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫(わ)びをした。長兄も次兄も、あ、と言って、ちょっと首肯(うなず)いたきりだった。」

 婿さんは床柱を背にして座っている。長兄は婿さんに対して丁寧な言葉で話している。
 太宰のことを誰も紹介しないから、婿さんが太宰に向かって、「失礼ですが、どなたです」と聞く始末である。

 翌朝、2階の長兄の応接間へ行ってみると、長兄が婿さんに金屏風を見せていた。太宰が何か言っても、長兄はそれには気乗りのしないような返事をして、婿さんに、やはり丁寧な口調で絵の説明を続ける。


 「金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業(しゅくごう)を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮(しょせん)、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。」


 太宰は、この程度の記述で済ませているが、太宰の長兄と次兄は、これまでに何度も太宰に辛酸を舐めさせられてきたのである。
 太宰は過去に自殺未遂を2回起こし、心中も2回企てている。心中の1回目は相手の女性が亡くなっている。2回目の相手は最初の結婚相手の小山初代であった。このときは未遂に終わっている。
 心中で相手の女性が亡くなったとき、太宰は警察署に留置され自殺幇助罪での取調べを受ける。これは予審で起訴猶予とされた。パピナール(鎮痛剤)中毒の治療のために1ヶ月入院したこともある。酒に溺れ、遊蕩の所為(せい)で多額な借金が出来る。
 太宰が事件を起こすたびに、長兄と次兄は奔走し、後始末をしてきた。

 長兄と次兄は、できることなら太宰とは兄弟の縁を切りたいと思ったこともあっただろうと推測する。

 金木町を後にして、五所川原から木造(きづくり)、深浦へ行く。深浦に一泊し、翌日、鯵ヶ沢(あじがさわ)に寄り、五所川原に戻る。五所川原で叔母の家に泊まる。

 翌朝、一番の汽車に乗り、バスに乗り継いで昼少し前に小泊(こどまり)港に着く。
 太宰は、この旅で是非逢いたい人がいた。その人は小泊に住んでいる。逢いたい人は、太宰が3歳の頃に太宰の子守として津島家に雇われた「たけ」である。「たけ」は津島家に奉公に来たとき14歳だった。「たけ」は太宰が8歳のときに嫁に行った。1年後に「たけ」に逢うが、その後、30年近く逢っていない。

 人に尋ねて、「たけ」の家に着いたが、錠がかかっている。再度、人に尋ねると、運動会に行ったんだろうと言う。
 運動会をやっている場所を尋ね、教えられたとおりに行くと国民学校が建っていて、運動会が行われていた。しかし、運動場の回りに筵で囲んだ掛小屋が百近く立っている。運動場を二周して「たけ」を
捜したが見付けることができない。諦めて学校を後にしたが、やはり諦めきれず、もう一度「たけ」の家に寄ってみた。

 今度は、戸の入り口が2、3寸開いている。戸を押しあけて声を掛ける。少女が出てくる。少女の顔を見たとき「たけ」の顔をはっきり思い出した。
 「金木の津島です」と名乗ると、少女が笑った。「たけ」は自分の娘に、金木町の津島家に奉公に行ったことを話していたのだろう。それから、少女に「たけ」の掛小屋に連れて行ってもらう。


 「また、畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
『修治だ』私は笑って帽子をとった。
『あらあ』それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、『さ、はいって運動会を』と言って、たけの小屋に連れて行き、『ここさお坐(すわ)りになりせえ』とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝(ひざ)にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私は、この時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵(あんど)感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。」


 優しくて温かい文章である。

 2人とも黙っていたが、「たけ」が話しかけ、立ち上がって掛小屋を出て、砂山を登り切って桜を見に行く。
 それから、「たけ」は、自分を訪ねて来てくれたことがありがたく、嬉しく、悲しくもなったりして、口がきけなくなったことを堰を切ったように話し始めた。子供たちが走っているのを見ていたが、本当は何も目に入っていなかった。
 様々な感情が胸に迫っても、それを表現する術(すべ)を知らない。感情を露(あらわ)にしない昔の人である。
 この場面は何度読んでも感動し、戦前の日本人の美しい姿を思った。

 その後、この感動に水をさされたような太宰の評伝を読んだ。
 昭和53年(1978年)に刊行された太宰の妻・津島美知子(1912〜1997)の
『回想の太宰治』である。
 太宰の一家が金木町に疎開していた昭和21年(1946年)4月、「たけ」が金木町に来た。太宰の長兄・文治の衆議院議員当選のお祝いの挨拶、太宰の祖母の見舞い、そして、疎開中の太宰に会いに来たのである。太宰の妻・美知子は、この時、初めて「たけ」に会った。


 「たけさんと私とが廊下で立ったまま挨拶していると、傍の障子をあけて、書斎にいた太宰が出てきた。そして私にほんの二ことか三こと言葉をかけると、怱々(そうそう)に母屋の方に立ち去った。たけさんに、『よくきたな』ともいわず、笑顔も見せず。意外に思っていると、たけさんは太宰のうしろ姿を目で追いながら、『修治さんは心の狭いのが欠点だ』と、これまた突拍子もないことを言い、それから中庭におりる階段に腰をおろした。」


 太宰はそれきり姿を見せなかった。
 2年前の感動的な再会の場面は何だったのか。優しくて温かい文章は多分に脚色されていたのだろうか。妻の前で、昔の使用人と親しく話すことが自分の沽券に関わるとでも思ったのだろうか。

 昭和22年(1947年)12月、新潮社から『斜陽』が刊行された。
 日本国憲法が施行された昭和22年5月3日の同日、皇室典範が施行され、三直宮(じきみや)を残し皇籍離脱があり、華族制度が廃止された。同年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導の下、日本政府によって農地改革が行われた。
 このような社会の変革の中で、貴族の没落を描き、滅び行く悲しさと美しさを描いた『斜陽』はベストセラーになり、増刷された。

 三島由紀夫(1925〜1970)も『斜陽』を読む。以下は、昭和39年(1964年)4月に刊行された『私の遍歴時代』の中の一部である。


 「私も早速目をとおしたが、第一章でつまづいてしまった。作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の『まことらしさ』は必要なわけで、言葉づかいといい、生活習慣といい、私の見聞きしていた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を『お勝手』などという。『お母さまのお食事のいただき方』などという。これは当然『お母さまの食事の召し上がり方』でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さえつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、
 『かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん』などという。」


 三島由紀夫が指摘したような誤りがあったのは、太宰が自分の小説の愛読者であった女性の日記の大部分を書き写したものだからである。
 貴族の日記などではなく、医者の未亡人と、離婚して実家に戻ってきた娘の生活の日記であった。『斜陽』の前半は、女性の日記の小さな出来事までも引き写している。三島由紀夫が指摘する『まことらしさ』は研究されていなかった。

 一般の読者は勿論、編集者、作家、文芸評論家も気付かなかった『まことらしさ』に対する不勉強を、優れた言語感覚を持つ三島由紀夫は22歳にして鋭く見抜いていたのである。

 過去に自殺未遂を2回、心中を2回試みた太宰は、死ぬことに本気で向き合っていたのだろうか。
 『斜陽』が読者の日記を借りて書いたものであることがいずれ世間に公表されるという不安はあっただろうが、『斜陽』を刊行する1年程前から出版社の原稿依頼が増えていた。
 作家が書けなくなって才能の枯渇を自覚し、自死することはありそうな気がするが、旺盛な創作力を発揮し、まして、まだ38歳という若さである。そのような者が死を選ぶだろうかと疑問に思うのである。

 一方、山崎富栄は死ぬことの決意を固めていた。
 猪瀬直樹氏の
『ピカレスク 太宰治伝』に拠ると、富栄の多額の貯金は太宰の呑み代や来客の接待のために使い果たされていた。勤めていた美容院も半年前に辞めていた。富栄は、「親も兄弟も棄てて、世間も狭く歩いている私」と日記に書いている。
 心中する6月に入ってから、太宰は富栄の部屋に幽閉されたようになった。来客が来ても富栄が会わせない。出版社の編集者も社長も、この時点で初めて尋常ならざる事態が出来(しゅったい)したことに気が付いた。
 社長が、太宰を甲府に近い保養地で静養させることを理由にして、富栄の下宿から太宰を連れ出すことを提案する。当時、米を持参しないと旅館には宿泊できなかった。社長は自分の郷里の信州に出かけて、リュックサックに米を詰めて三鷹に戻って来た。しかし、その日は、太宰と富栄が入水した日の翌日の6月14日だった。

 6月13日の夜半に入水し、6月19日に2人の遺体が発見された。入水した地点から1キロ程下流の、玉川上水が井の頭公園の横に流れを変える途中で発見された。発見された6月19日は奇しくも太宰の39歳の誕生日だった。
 2人の遺体は土手に引き上げられた。この日、東京は遅れていた梅雨に入った。

 野原一夫の『回想 太宰治』から引用する。


 「やんでいた雨が、また落ちてきた。かなりはげしい降りになった。検視医はまだ現場に到着していなかった。相談のすえ、検視は屋内で、千草の土間を借りてやることになった。私たちはまず太宰さんの遺体を抱きあげて棺に入れた。そのとき富栄さんの遺体は、すこし離れた道端におかれてあった。その富栄さんの遺体の頭のところに、遺体に傘をさしかけてたたずんでいる半白の老人がいた。黒い背広を着た小柄な老人で、眼鏡の奥の目を弱々しく遺体にそそいでいた。遺体には、その老人がかけてやったのか、雨合羽が着せかけてあった。一目で、富栄さんの御父君とわかった。もう70に手がとどこうかというその老人は、人があわただしく行き交っている周囲の騒がしさのなかで、身じろぎもせずに遺体に目をやっていた。」


・同年11月18日(日) 浴恩館 空林荘


浴恩館


 JR中央線の東小金井駅を出て30分程歩くと、広さ14、000uの浴恩館公園に着く。公園の赤松、橡(くぬぎ)、桜、約3、000本の樹林に囲まれて浴恩館(よくおんかん)が建っている。簡素で、気品のある建物である。

 昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位式にあたる御大典が京都御所で行われた。その際に、神官の更衣所として建てられたのが浴恩館の前身である。昭和5年(1930年)、この更衣所の建物が大日本連合青年団に下賜され、解体の後、日本青年館分館として現在地に移築された。その恩に浴するというのが名称のいわれである。

 敷地は元は26、000uであったが、戦後、大日本連合青年団の財政難から小金井市に切り売りされた。昭和48年(1973年)、残った敷地14,000uとともに建物が小金井市に売却された。
 小金井市は、敷地を浴恩館公園として整備すると伴に
浴恩館の建物は青少年センターとして開館した。その後、室内を改装し、平成5年に文化財センターとして新たに開館した。

 建物を右へ回り、玄関の前へ出る。
 正面に、縦約50cm、横約3mの檜(ひのき)の一枚板に「浴恩館」と書かれた看板が掛かっている。開設当時の宮内大臣・一木喜徳郎(いちき きとくろう)(1867〜1944)が揮毫したものである。


浴恩館 玄関


 教育家であり、政治家であった佐賀県出身の田澤義輔(たざわよしはる)(1885〜1944)は、学校教育とは無縁の勤労青年に教育と自己修練の場を与えるために、大正14年(1925年)、大日本連合青年団を結成し、同年10月、日本青年館を建設した(現在の日本青年館の建物は昭和54年に完成した2代目である)。

 田澤は、昭和6年(1931年)2月、日本青年館の分館である浴恩館に「青年団指導者養成所」を設置した。
 田澤は、以前から、青年団に独自の教育を試みたいという希望を持っていた。その教育は、学校の教育とは違った友情に基づいたものであり、そのために外部から指導するのではなく、内部から生まれる指導力を大切にして、その指導力を育てるというものだった。
 全国から選ばれた約50名の青年の講習が始まった。講習は年数回行われ、1回の講習の期間は60日であった。

 田澤は、青年たちと寝食を共にして自ら指導にあたった。昭和6年と7年に、それぞれ4回の講習を行ったが、田澤は政治家としても多忙な身であった。
 そこで、専任の所長を置くことになり、同郷の畏友であり、作家、教育家の
下村湖人(しもむらこじん)(本名・下村虎六郎)(しもむらころくろう)(1884〜1955)に依頼する。湖人は快諾し、田澤を助けて青年の指導に専念することを決意する。

 湖人は、昭和8年(1932年)から、所長として青年の指導にあたった。この年から「青年団指導者養成所」という名称は、「青年団講習所」とあらためられた。
 田澤は、自費で浴恩館の前に所長の宿舎を建てた。木造平屋建て、面積36u、6畳2間の質素な建物だった。
空林荘(くうりんそう)と名付けられた。
講習の期間中、湖人は新宿区百人町の自宅から空林荘に移り、独り起居した。講習の間は起床してから就寝まで、講習所で講習生と生活の一切を共にしていた。


空林荘


 空林荘は浴恩館の真向かいに建つが、40m程離れている。樹林の中にひっそりと立っている。こじんまりとして慎ましい印象を与える建物である。私が子供の頃、空林荘のように玄関のすぐ横に縁側がある家が多かったので、空林荘の前に立っていると、懐かしくなり、子供の頃のことが思い出された。
 空林荘は昭和55年(1980年)、小金井市の文化財に指定された。

 昭和11年(1936年)2月26日から2月29日にかけて起こった陸軍青年将校らのクーデター未遂事件である二・二六事件以後、軍部の圧力が加わってきた。「青年団講習所」は、講習生が自由に発言し、議論することを標榜していたからである。
 その後も軍部の干渉が強くなり、昭和12年(1937年)、湖人は所長の職を辞任する。昭和13年(1938年)、「青年団講習所」は閉鎖する。

 湖人は所長の職務の傍ら、昭和11年(1936年)1月、『次郎物語』の執筆に着手し、雑誌『青年』に連載を開始する。『次郎物語1部』は昭和16年(1941年)に出版された。『次郎物語』は書き続けられ、2部、3部、4部と出版された。『次郎物語5部』は昭和29年(1954年)に出版された。
 翌年の昭和30年(1955年)4月20日、下村湖人が亡くなった。享年71歳であった。『次郎物語』は未完に終わった。

 『次郎物語5部』は、浴恩館と、その周囲の林が舞台となって、「青年団講習所」のことが詳細に書かれている。「青年団講習所」と「空林荘」は、小説では、それぞれ「友愛塾」、「空林庵」の名称で登場する。

 しかし、小説と現実が大きく違っている箇所がある。『次郎物語』では、友愛塾の場所が「東京の郊外で、東上線の下赤塚(しもあかつか)駅から徒歩10分内外の、赤松(あかまつ)と橡(くぬぎ)の森にかこまれた閑静(かんせい)なところである。」となっている。
 なぜ場所を、東上線の下赤塚駅から徒歩10分内外、としたのだろうか。

 『次郎物語5部』では、中学校を退職した元教師が所長であり、その妻が講習生の世話をする、という構成になっている。
 湖人の妻は昭和20年(1945年)9月に亡くなった。下赤塚駅の近くに妻が眠っている墓地がある。
 『次郎物語』の中で、「空林庵」に住んで講習生の指導をする夫と、講習生の世話をする妻の夫婦の生活は、せめて、妻が眠る墓地の近くに設定することで、湖人自身も妻と共に在ることを思い、妻を亡くした悲しみを和(やわ)らげていたのではないかと考える。

 浴恩館の玄関の斜向かいに、「稗倉(ひえぐら)」が建っている。


稗倉


 これは、「青年団講習所」とは無関係なものである。文化財センターの目的に適うものとして移築、保存されていると思われる。
 説明板に、大要、次のように説明されている。


 「飢餓に備えた稗などの備蓄倉庫である。この稗倉は貫井村(ぬくいむら)(現在の貫井南町)の名主であった大沢家が村人のために作ったもので、建築年代は、内部の墨書きから天明元年(1781年)と推定されている。
 昭和61年に大沢家から寄贈を受け、ここに移築し、復元したものである。規模は、間口約3、6m、奥行き1、8m、高さ2、3mである。
 穀物などは、天井の蓋を開けて入れ、下の小さい口からかき出すようになっている。」


 木造平屋建て、1120uの浴恩館へ入る。
 全体の5分の4程の広さが文化財センターとして利用されている。小金井市内から発掘された旧石器時代の石器、縄文時代の土器、市内から発見された江戸時代の古文書、江戸時代以降の民具等の文化財を保存、展示している。

 渡り廊下を歩く。「青年団講習所」当時の部屋が唯一保存されている南寮と呼ばれていた合宿室へ行く。和室2間が保存されていた。

 『次郎物語5部』は、友愛塾の第10回目の塾生活から始まる。
 所長の朝倉先生は、次郎が通う佐賀県の中学校の教師であった。講演会において、昭和7年(1932年)5月15日に起きた海軍の青年将校を中心とする反乱事件である
五・一五事件をきっかけにして台頭してきた軍部を批判する。その後、県が朝倉先生に辞表を提出することを要求する。
 朝倉先生を慕う次郎は、同士を募り、次郎が中心になって朝倉先生の留任運動を始める。次郎は、教練を指導する配属将校に連日のように詰問され、憲兵にも尾行される事態となる。
 朝倉先生は教職を辞任し、夫人とともに上京する。同郷の政治家が計画している塾の思想に共鳴し、塾の所長に専念することを決意する。
 次郎も退学し、朝倉先生の後を追って上京する。東京の中学校に転校し、朝倉先生の助手となって塾の世話をする。次郎は
中学校を卒業する。

 『次郎物語5部』では、主人公の次郎の影が薄くなるほどの素晴らしい人物が登場する。
 27歳の大河無門である。京都大学の哲学科を卒業後、母校である千葉県の中学校の教師をしている。


 「(次郎と朝倉夫人の)二人は、その時めいめいに、背のひくい、肩(かた)はばの広い、頬(ほお)ひげを剃(そ)ったあとの真青(まっさお)な、五分刈(が)りの、そして度の強い近眼鏡をかけた丸顔の男が、のっそりと玄関にはいって来たときの光景を思いうかべていた。かれは黒の背広に黒の外套(がいとう)を重ねていたが、まず肩にかけていた雑嚢(ざつのう)をはずし、それからゆっくりと外套をぬいで、ていねいに頭をさげ、次郎に向かって、いくぶんさびのある、ひくい、しかし、底力(そこぢから)のこもった声で、『千葉県の大河無門ですが』と言い、それから次郎にわたされた塾生名簿をすぐその場でひらいて、自分の名前のところを念入りに見たあと、紹介(しょうかい)された朝倉夫人のほうにおもむろに眼を転じたのであった。」


 大河無門という名前もさることながら、無駄のない動きから禅の修行僧を彷彿させる。また、彼の落ち着いた態度が侍を連想させ、恰も時代小説を読んでいるような気分になる。

 大河無門は、入塾を希望して、入塾する1ヶ月前に友愛塾を訪ねて朝倉先生と話をする。


 「朝倉先生は、話しているうちに、かれの決意がなみなみならぬものであることを見てとった。同時にかれの人物に一種の重量感を覚えた。その重量感は、決してかれの言葉つきや態度から来るものではなかった。そうした表面にあらわれる言動の点では、かれはむしろ率直(そっちょく)にすぎ、どこやらにおかしみさえ感じられるほどであった。しかし、それにもかかわらず、かれの人がら全体には、何とはなしに、どっしりとしたものが感じられたのである。朝倉先生は、それを大河の人間愛の深さや思索(しさく)の深さがそのまま実践力の強さになっているからであろう、というふうに判断したのだった。」


 朝倉先生と次郎のモデルは下村湖人自身である。大河無門も実在のモデルがいた。昭和8年(1932年)に京都大学哲学科を卒業した大河平聖雄(おこびらとしお)(生没年不詳)である。

 下村湖人に長年、師事した教育家・永杉喜輔の『下村湖人 その人と作品』の中に、大河平聖雄についての記述がある。
 それに拠ると、大河平は、塾生として入ったのではなく、社会教育研究生として入った。
 昭和7年(1931年)、大日本連合青年団に社会教育研究生というものが置かれた。研究生は大学卒業生の中から採用された。1年間の研究が終わると府県の社会教育研究課またはそれに類する現場に出て働くことが義務づけられていた。僅かだが研究費が出た。
 4名採用のところ大勢の応募者があった。大学を出ても就職難の時代であった。
 

 大河平は、大学を卒業した昭和8年の、第2回の社会教育研究生4人の内の1人であった。
 研究生は1年後、青年団を去るべきところ、大河平は湖人の助手を務め、2年間居た。2年後、福島県の県立修練農場に教務主任として就職した。

 ところが、大河平は、時流にのって軍事教練に力を入れる農場長と折り合いが悪くなる。大河平から悩みの手紙が湖人に送られてくるようになった。
 農場長も県の命令には従わざるを得ないこともあっただろう。それに大河平は、大学卒業後すぐに研究生となり、青年団の自由主義の思想を学んでいた。
 湖人は大河平を引き取りたいと思ったが、彼に給料を支払う経済的な余裕はなかった。

 湖人は大河平に転職を勧め、湖人も転職先をあたったりするが、大河平の考えが定まらない。仏教の教えを思索し、人間関係が円滑に行くように努力するが、成果はない。

 『下村湖人 その人と作品』から引用する。


 「大河平は、場長とのあいだには気まずい思いをしつづけたが、農業の勉強は怠らなかった。年中、作業服一着で、ひまさえあれば、近所の農家にはいりこみ、牛や馬や作物のことなど、なっとくのいくまで、根ほり葉ほりたずねるのだった。ぼそぼそと落葉をふむような調子で、ニコリともしないできくものだから、はじめはとっつきにくいが、みじんもハッタリがないので、村の人たちにもしだいに親しまれるようになった。大河平をふみとどまらせたのは、その村人たちであった。」


 大河平は湖人の著書を読み、自分の無能さを自覚し、努力を続けるが、遂に、小学校の教員になろうかと思う、としたためた手紙を湖人に送る。しかし、大河平は、その後も模索しながら修練農場に3年間勤めた。


 「昭和8年(1933年)日本は国際連盟を脱退して満州国をつくっていらい、満州移民を国策として強力におしすすめていたが、そのころ、大量移民の方法として、村の一部をわけてごっそり満州にもっていく分村移民が政府からすすめられていた。その一つが大河平のつとめていた修練農場のある村にわりあてられた。食いつめていた村人たちもそれにうごかされたが、先祖代々の土地をすてることは農民にとってたえがたいことでもあり、満州にうつれば政府のいうとおり将来がひらけるかどうかも半信半疑であった。そのうち、大河平先生を団長にかつごうという話が村人のあいだにもちあがり、村人たちの考えが急速に満州へとなびいていった。
 その話をもちこまれた大河平は、責任の重大さに急にはふみ切れなかったが、村人たちの信頼に感激してひきうけ、渡満の準備にうちこんだ。」


 昭和13年(1938年)、大河平は満州に渡った。まず満蒙開拓ハルビン訓練所で幹部としての訓練を受けた。
 その訓練所の様子を湖人に手紙で報告する。
 手紙には、移民幹部の素質が低級で困る、これでは新農村の建設はとてもできない、もっと品のよい移民幹部の養成をするためには、さらに研究をせねばならない、ということが書かれてあった。


 「その後、村人たちを迎えて大河平は、開拓地にのりこんだが、運わるく病気になり、内地にはこばれた。入院中、見舞いに行った湖人の顔を見るなり大河平は、
『軽率でした!』
 と、ひとこといって、ふとんをかぶって泣いた。
 大河平は、まもなく死んだ。」


 昭和16年(1941年)6月、永杉喜輔は、湖人からの手紙を受け取る。


 「大河平君を失ったことは、われわれの大きな不幸でした。『日本にとって』というような大げさな言葉はなるべく避けるべきですが、やはり大河平君の場合には、そういってもさしつかえないように思います。機会があったら、一度満州にいって、同君の仕事のあとをたずね、何か書いてみたいとさえ思っています。」


 永杉喜輔は、「『次郎物語』第5部は、大河平聖雄への弔辞でもあった。」と述べている。

 湖人が満州へ行くことは実現しなかった。湖人がもう少し若く、もっと元気であったら、大河平聖雄の生涯を著していたと思う。

 近角常観は長年に亘って青年学生の育成を行った。田澤義輔と下村湖人も一時期ではあったが、良き青年を育てるために尽力した。大河平聖雄が存命であったら、彼もまた他人のために生きる人となっていただろう。
 戦前には、自分のことよりも他者のために力を尽くした崇高な人たちがいたのである。    

 当時、南寮と呼ばれていた合宿室の和室2間の壁に、写真が掲げられている。
 大河平の写真がある。眼鏡はかけていないが、丸顔で、講習生に混じって明るい笑顔を見せている。

 講習生の写真が並んでいる。ストーブを囲んで、湖人を中心にして談笑している。皆で机や椅子の修理をしている。風呂に大勢が一緒に入り、狭くなった浴槽に体をくっ付けて入っている。弾ける笑い声が聞こえてきそうな写真である。雨天体操場で剣道の試合が行われている。
 雑木林を背景にして、前列の中央に座っている湖人の回りに塾生が立ったり座ったりしているところを撮った記念写真もある。皆、屈託のない朗らかな笑い顔である。「青年団講習所」の自由な雰囲気が窺える。

 戦前、敷地が26、000uであった頃、農場や運動場も備えられていた。
 20代と思われる30名ほどの講習生が運動場で体操をしている写真がある。両足を広げて、両手を左斜め上に上げている。ラジオ体操だろう。

 体操は軍隊式の一糸乱れぬというものではなく、皆、服装はまちまちで、雑木林に囲まれた広い運動場を贅沢に使って、楽に、伸び伸びと体を動かしている様子が伝わってくる。
 子供の頃に戻って、夏休みの早朝、老杉に囲まれた神社の境内でラジオ体操を行っているような明るさがある。

 昭和12年(1937年)、日中戦争が始まり、昭和16年(1941年)、太平洋戦争が勃発した。
 講習が終わって帰郷した数年後には、講習生全員に召集令状が来たことを思う。戦地で、また、軍隊の生活の中で、武蔵野の森と浴恩館で過ごした日々は僅か60日であったけれども、幸福な日々であったことを思い出した者もいただろう。


 


 東京都小金井市緑町3−2−57
 JR中央線東小金井駅下車





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