5 大安禅寺 平泉寺 吉峰寺(福井県)


・平成24年5月3日(木) 大安禅寺

 北陸から関東地方にかけて荒れた空模様という天気予報だったが、福井は5日(土)は晴れ、となっていたので、ともかく予定通り福井へ行くことにした。
 正午前にJR福井駅に着く。空は黒い雲に覆われているが雨は降っていない。

 駅前のユアーズホテルフクイで昼食を摂る。ユアーズホテルフクイは食事がおいしいので、福井へ行くときはいつも宿泊する。今回も3泊予約している。

 ランチはバイキングだった。牛肉とナッツのテリーヌ、小鉢に入っている桜海老と浅蜊のローヤル(洋風卵とじ)、生ハム、キッシュ、トマトとオリーブのオレキエッテ(パスタ)等おいしいものが沢山ある。グリンピースのスープ、ジャガイモのスープもおいしい。
 手頃な値段で豪華な食事ができた。

 食後、ホテルの近くからバスに乗る。バスは東本願寺福井別院の巨大な建物の前を通り市街地を抜ける
 20分程乗って停留所「大安寺門前」で降りる。少し先へ進み左へ曲がる。山に向かって緩やかな坂を上る。左側に側溝があり、山からの水が走り下りている。
 20分程で山門に着く。山門の右側から車が通行できる道が延びている。


大安禅寺 参道


 山門を潜って苔むした参道の石段を上る。両側は杉の木が鬱蒼としている。
 10分程上ると参道の石段が迂回してきた道路に分断される。道路の反対側に参道の石段がまた始まるが、ここから先の石段は立ち入り禁止になっている。
 急坂になっている道路を歩く。

 10分程上り、臨済宗妙心寺派萬松山大安禅寺(だいあんぜんじ)に着く。

 大安禅寺は、万治元年(1658年)、第4代福井藩主・松平光通(まつだいらみつみち)(1636~1674)が福井藩歴代の廟所として建立したものである。
 松平光通は、福井藩初代藩主・
結城秀康(ゆうきひでやす)(1574~1607)の直孫にあたる。結城秀康は、徳川家康(1543~1616)の次男であるから、松平光通は、徳川家康の曾孫になる。

 境内は、綺麗に掃き清められ、新芽が赤くなる楓と新緑が重なって美しい。
 本堂の暗い内部で燈明が揺れている。本堂は、万治2年(1659年)に建立され、国重要文化財に指定されている。


本堂


 もう少し上に上がると、松平家歴代廟所、通称「千畳敷」を見ることが出来たが、雨が降ってきたので下る。
 境内の下に、広い駐車場がある。その隣の一段高くなった場所に、広大な「花しょうぶ園」があり、花が咲き始めていた。


・同年5月4日(金) 平泉寺

 昨日チェックインしたユアーズホテルフクイで朝食の後、ホテルを出る。
 JR福井駅に隣接する、えちぜん鉄道福井駅に行く。土、日、祝日、年末年始に使用できる1日フリー切符を買う。同一区間を往復するだけでも得な切符である。

 勝山永平寺線の7時35分発の電車に乗る。終点の勝山駅に8時32分に着く。電車と連絡して駅前に停まっているバスに乗り換える。バスは、8時34分に発車する。
 8時47分に、停留所「勝山城前(平泉寺荘)」
に着く。バスを降りる。小雨が降っている。

 菩提林(ぼだいりん)と呼ばれている杉林が雨に煙っている。周囲の山の頂上付近は霧に隠れている。
 菩提林の中を
平泉寺(へいせんじ)の参道が通っている。参道は車も通れるようになっている。バスは菩提林の手前を右折する。


菩提林


 菩提林の中に入り、参道を歩く。参道は、白山登拝の禅定道(ぜんじょうどう)でもある。菩提林の杉の最高樹齢は約600年である。
 ここからは、
白山国立公園国史跡平泉寺白山神社に指定されている。


平泉寺 参道


 15分程歩くと、右側に、500年前の石畳の旧参道が始まる。現在の参道と区別して保存している。
 河原石を敷き詰めた石畳は苔むしている。石は、当時の修行僧たちが
九頭竜川の河原から運んだといわれている。


旧参道



 旧参道に敷き詰められた石が、丸い河原石から鉄平石(てっぺいせき)のように板状に削がれたような黒ずんだ石に変わる。



 聳える杉の木の下を歩く。深い樹林の奥から時おり鳥の声が聞こえる。静かな道が続く。この道は、「日本の道百選」に選定されている。



 30分程歩く。1キロ以上続いた旧参道がなくなった。
 500年前の参道が、これほど長い距離に亘って良好な状態で残っていることは珍しいのではないかと思う。

 平泉寺は、泰澄大師(たいちょうだいし)(682~767)によって養老元年(717年)に創建された。
 天台宗大本山
比叡山延暦寺の傘下に入るも、白山神(はくさんしん)への崇敬もあった。
 明治元年(1868年)、
神仏分離令が布告される。明治政府は、天皇の神権的権威を確立するために神道を保護し、仏教を抑圧した。
 神仏習合してきた日本の仏教界は混乱し、明治8年(1876年)まで全国の仏教寺院に
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。

 平泉寺は寺号を捨て、廃止され、白山神社となった。
 平泉寺は現在は存在しない寺である。しかし、観光の雑誌やパンフレットには、いまだに「平泉寺」として紹介され、「平泉寺白山神社」と列記されたりしている。
 存在しない寺を現実に存在するかのように捨て去った名称で引き続き呼んだり、寺と神社の名称を列記している寺や神社が他にあるだろうか。なぜ、こういうことが行われているのだろうか。

 私も疑問に思いながら、これまで「平泉寺」と明記した。

 思うに、現在使われている「平泉寺」という名称には宗教上の意味はない。平泉寺の歴史と観光を語るときに必要な便宜上の名称ではないかと考える。
 また、「平泉寺白山神社」と列記してあることについては次のように考える。白山神社は全国に数多く存在するために他の白山神社と区別する必要がある。「平泉寺町に存在する白山神社」という意味で列記するのだろう。
 因みに、平泉寺の所在地は、勝山市平泉寺町平泉寺56-63である。

 平泉寺の歴史を調べるにつれて、平泉寺が他の仏教寺院と比べて極めて特異な寺であったことを知る。しかし、平泉寺の異常な存在は、わが国仏教界の歴史を明瞭に語っているのである。

 平泉寺は、室町時代、9万石の寺領を所有していた。48社、36堂、6千坊の伽藍が甍を競い、僧兵8千人を擁する巨大な宗教都市が形成されていた。
 比叡山延暦寺の末寺に過ぎない寺が、なぜ、これほど巨大なものになり得たのか。

 司馬遼太郎(1923~1996)の『街道をゆく 18 越前の諸道』から抜粋して引用する。


 「中世、平泉寺は悪僧の巣窟であった。
 貴族たちから寄進された所領が多く、寺は富裕であった。その米塩にあつまる者は、農村の次男、三男といった、田地を相続できない者が多かったであろう。平泉寺衆徒としてあつまってくる者のなかには、向学心のつよい者や求道心のある者もいたかと思われるが、それより心が猛々しく腕力もつよいといった者のほうが、寺領の防衛や管理の上で役に立った。記録にあらわれる平泉寺の歴史から、知的な栄光を感じさせるものをさがすのが、困難である。」

 「平泉寺など、白山権現の系統の寺々は、天台宗(叡山)の傘下に入るのである。
 平安末期、『叡山』
 というのは、そういう農地獲得という政治的・経済的方面での大ボスであった。南都(奈良)の興福寺・東大寺とならび、むしろそれ以上に律令貴族に食いこんでいる宗教勢力だけに、叡山の傘下に入り、その保護をうければ、どこからも文句が出なかった。平安期における天台宗の隆盛、叡山の勢力というのは、決して宗教的なものではなく、律令制の抜け穴としての荘園制の上に立つものであり、その証拠に、律令制が否定された鎌倉以後の封建時代になると、没落するのである。」

 「いずれにせよ、白山が叡山・天台宗の子分になると、加賀あたりの小さな墾田地主は、その墾田を受領(ずりょう)にまきあげられぬように、その墾田を白山に寄進したという形態をとった。叡山の後押(あとお)しがある以上、墾田は安全であった。小さな墾田地主はみなあらそってそのようにし、かれら自身が僧名を名乗り、子分の農民をひきい、白山修験者になり、この世界の大小の幹部になった。
 白山の勢力が中世に大いに膨(ふく)れあがったのも、宗教的魅力によるところより、以上のような政治・経済的事情によるところのほうがはるかに大きかった。つまりは、越(こし)の小叡山になった。」
 

 「南北朝時代、平泉寺の名で代表される白山勢力は、
『日本国一番ノ法師大名』(『朝倉始末記』)
 といわれ、最盛期をむかえた。その領地は五万石以上といわれたが、動員力は二十万石ぐらいに相当しただろう。
『平泉寺にゆけば食える』
 というので、諸国から浮浪のひとびとがあつまって僧になったであろう。同時代の紀州根来寺(ねごろでら)に拠る根来衆も同様である。
 当時の平泉寺は僧兵八千といわれ、つねに北陸路の武力騒動の一中心だった。そのころ山中に一大宗教都市が現出し、社(やしろ)や堂、院坊をあわせると、その建物の数は、三千とも六千ともいわれた。」

 「いま、平泉寺は、勝山市の市域に入っている。
 当然なことで、歴史的には平泉寺が中心で、勝山の町はその門前町としてー平泉寺六千坊の用を足すための商工業者の町としてー発達した。門前町とはいえ、他の社寺の場合とちがい、勝山の町は平泉寺から3キロほど離れている。
 むしろ離されていたといったほうがいい。中世以来、平泉寺の僧たちの昂(たかぶ)り方は尋常なものではなかった。結局、戦国の天正2年(1574)、一向宗によって結束した農民たちによって焼き払われるのだが、それまでーあるいは江戸期でさえー土民の住居などを『浄域』に近づけようとはしなかった。
 平泉寺衆徒たちは、町民とか村民というものを、露骨に不浄なものと見ていたふしがあった。」

 「南北朝時代というのは、一部の公家(くげ)に宋学(そうがく)的なイデオロギーがあったが、武家にはほぼなかった。かれらは、みずからの利益のためにどちらかに属した。武装集団としての平泉寺も例外ではなかった。というより、武家よりも露骨だったといえる。
 北朝を擁する足利尊氏の人気が高くなり、南朝ー後醍醐天皇派ーが衰弱しつつあったとき、平泉寺は、南朝に味方した。理由は、寺が武力で押領した荘園の領有権を、尊氏が認めそうになかったためである。延元元年(1336)、越前に入った南朝派の新田義貞の軍に、平泉寺衆徒(白山衆徒)は従軍し、尊氏方の斯波高経(しばたかつね)とはげしくたたかい、両軍の勝敗のつかぬままに年を越した。斯波高経は、敵方の平泉寺を寝返らせるべく、
 -藤島庄(ふじしまのしょう)を寄進しましょう。
 という利を食(くら)わせた。この単純な欲望刺激によって平泉寺衆徒がたちまち寝返り、北朝方についた。きのうまでの味方に矢をむけたばかりか、衆徒のうちの名だたる僧ども五十人が壇(だん)を築き、怨敵調伏(おんてきちょうぶく)の大祈祷をおこなった。」

 「平泉寺衆徒の裏切りによって、新田義貞はあっけなく敗死してしまう。裏切りの代償として平泉寺はいよいよ所領がふえ、
『僧兵八千』
 とさえいわれた。かれらを収容する僧坊は白山山麓だけではなく、現在の勝山市内にも多数設けられ、『法師大名』などといわれた。利にさといがためにかれらは膨張した。何を理想として膨張したかという形而上性などは、すこしもない。」


 司馬遼太郎は、続けて、平泉寺について、次のように結論を出す。


 「平泉寺の法師どもにとって、その領内の農民とは、救うべき存在ではなく、搾りあげるべき奴隷であり、かつ不浄の者たちであった。上代の律令社会そのままに、農民を、奴(やっこ)としてあつかい、夫役(ぶえき)と称して、無報酬の労働にこきつかった。

 『平泉寺』というのは、何のために日本の社会に存在したのであろう。仏教がここで深まったということもなく、学問が興ったということもなく、人民のくらしがよくなったということもない。単に暴力装置としてのみ存在したかに思われる。里人(さとびと)にとっては、いわば魔物の巣窟のようなものであった。平泉寺は新田義貞を裏切ることで大利を得、最盛期をむかえたが、その全盛の二百数十年の幕切れは、あっけなかった。農民によって焼打ちされて亡ぶのである。」


 15分程歩く。「精進坂」と名付けられた緩やかな坂の石段を上る。


精進坂


 仏教は、当初は貴族と武士階級のためのものであった。
 新潮社発行1998年4月号『芸術新潮』で、宗教学者・山折哲雄
は、平安末期から鎌倉時代にかけて、法然、親鸞、日蓮、道元、一遍などの偉大な祖師たちが輩出したけれども、日本の宗教改革は、15世紀から16世紀にかけて、蓮如と織田信長によってなし遂げられた、と述べている。

 蓮如(れんにょ)(1415~1499)については、「奥の細道旅日記」目次28、平成17年11月27日参照。

 長禄元年(1457年)、蓮如は43歳にして本願寺8世を継ぐ。寛正6年(1465年)、比叡山延暦寺の宗徒に大谷本願寺を破壊される。蓮如は近江に逃れる。
 その後も蓮如に対する比叡山の圧力は強まり、文明3年(1471年)、蓮如は越前国吉崎に移る。57歳であった。
 この地に坊舎を建て、4年後に吉崎を去るまで北陸布教の拠点とする。
 吉崎は、蓮如が浄土真宗の礎を築いた場所であり、信徒にとっては聖地となっている。

 司馬遼太郎の『街道をゆく 18 越前の諸道』に戻る。


 「加賀国の大きな沖積平野は、排水などの困難さから、上代では多くが荒蕪(こうぶ)のまま放置され、鎌倉期ぐらいから大いに水田化がすすみ、小規模の地主・自作農が多く、活力にあふれていた。かれらは、自分の拓(ひら)いた地の租税を古い守護大名である富樫(とがし)氏からとられることにばからしさを感じていたのであろう。
 -富樫どのにとられるくらいなら、自分の後生(ごしょう)を保証してくれる真宗(一向宗)の寺にあげるほうがいい。
 という気分が、かれらを結束させた。
 もともと蓮如の方針で、真宗の門徒は講(こう)組織という横のつながりを組んだ。講は自然、村々の講と連繋し、この連繋は地頭ごとの支配の境いを乗りこえて一国におよび、さらに隣国に及んだ。地頭ごとの支配のなかで身をかがめてきた農民が、はじめて横につらなる多数の仲間をもったのである。ついには地頭も農民たちに迎合して同信の門徒にならざるをえず、それが政治化し、軍事化して、長享2年(1488年)富樫氏を倒してしまった。
『加賀は百姓の持(もち)たる国』
 といわれる一種の共和制が、織田信長の北陸路遠征まで百年つづいた。信じがたいほどの現象である。
 それが、遅れて越前に及ぶ。」


 文明6年(1474年)に起こった吉崎の一向一揆について、山折哲雄氏は、1998年4月号『芸術新潮』で、そのときの蓮如の判断を、次のように分析している。


 「吉崎の一向一揆の時、門徒は武闘派と和平派のふたつに分かれていました。蓮如は何とかバランスをとってできるだけ平穏に乗り切ろうとするのですが、ついに抑えきれずとみて、武闘派の巨頭だった高弟の下間蓮崇(しもつまれんそう)を破門に処します。その上で、自分は畿内へ帰ってしまう。この時に蓮如が打ち出したのは、守護・地頭たちとの対立をやめろ、諸神諸仏に対する批判もやめろ。王法(おうぼう)・世間の仁義を先として、仏法を内心に隠せという二重基準(ダブルスタンダード)です。これは近現代において、歴史学の方でも、本願寺内部でも評判が悪かった。特に戦後の歴史学者たちは、一向一揆は民衆解放運動の先駆的形態であると規定しましたから、それを見捨てた蓮如に、政治権力と妥協した、非進歩的な反動的な奴だという批判を浴びせたわけです。しかし、私は蓮如のこの二重基準(ダブルスタンダード)は、政教分離を彼なりに実行したのだと思います。真宗の信仰は信仰、世俗の政治は政治と分けてしまう。
 そうしなければ大変なことになる。自分たちの信仰は政治権力によって潰されてしまうというのが、蓮如の直観だったと思います。」


 「平泉寺攻め」の最後の場面を、司馬遼太郎は、『街道をゆく 18 越前の諸道」の中で、次のように記している。


 「『平泉寺攻め』
 というのは、この時期におこなわれた。天正2年2月から2ヶ月にわたり、一揆と平泉寺衆八千三百が、勝山盆地ではげしく戦った。一揆方には、平泉寺領の農民が多く、歴史的な鬱屈と宗教感情上の憎悪があって、かれらがもっともはげしく戦った。
 一揆方は、いまの勝山市中にある村岡山(むらこやま)に塞(さい)を築き、4月、これを討つべく山を駆けおりてきた平泉寺軍およびその同盟軍を相手どり、三日三晩のあいだ、はげしく戦った。3日目の夜、一揆方は決死隊七百人をえらんだ。
 かれらは間道をつたい、平泉寺の背後にまわり、林間を奔(はし)りくるって放火し、六千坊を一夜にして灰にしてしまった。
 火を見て衆徒は一時に力をおとし、四散した。平泉寺は、この天正2年4月13日夜をもって滅亡した。このとき農民たちは信じがたいほどの遠い過去から自分たちを支配してきた平泉寺を目のあたりにほろぼすことができたのをよろこび、自分たちの城塞のある村岡山を『勝山』とあらためた。勝山という地名は、それ以後のことである。」


 「精進坂」の石段を上って、一の鳥居を潜る。
 左側に、芭蕉の句碑が立っている。句碑の傍に近づけないので、横に立つ案内板に書かれた句を読む。「うらやまし浮世の北の山桜」と詠んでいる。

 先へ進むと、左手に、安永7年(1778年)建立の旧玄成院(げんじょういん)が建っている。白山の別当(長官)がいたところである。室町末期に作庭されたと伝えられている庭園があるので拝観したかったが、入り口の扉が閉まっていて、人の気配がなかった。庭園は、昭和5年(1930年)、国指定名勝となっている。

 参道の両側は杉の木が立ち、根元は苔に覆われている。
 左手に石段がある。降りると、池があった。
御手洗池(みたらしのいけ)である。
 
白山(標高2、702m)は、古来、神々の宿る山として山岳信仰の対象となっていた。泰澄大師が白山登拝を目指して、この地を訪れた際、水が湧き出ているこの池を見付ける。そこへ白山の神が現れた、と伝えられている。
 そこで、泰澄大師は、この地に平泉寺を創建する。平泉寺の名前の由来にもなった池である。


御手洗池


 参道に戻る。

 平泉寺が滅亡したとき四散した衆徒のうち、当時の平泉寺の最高指導者・長吏(ちょうり)であった顕海(けんかい)僧正は美濃国に潜んでいた。
 10年後、この地に戻り、平泉寺を再興する。福井藩と勝山藩の寄進を受け、400石を領する。六つの坊と二つの寺を所有するが、往時の勢力とは比べ物にならなかった。

 二の鳥居を潜る。
 参道の正面に、安政6年(1859年)建立の拝殿が建っている。簡素な建物である。


拝殿


 広い境内に、樹齢数百年の杉の木が聳え、美しい苔が一面に広がっている。
 ここは、「美しい日本の歴史的風土百選」に選定されている。



 木立の間から拝殿が見える。その手前に、旧拝殿の礎石が残っている。礎石跡から推量して、旧拝殿は、間口45間(約83m)、奥行7間以上あったといわれているから、旧拝殿は、現在の拝殿の7倍の大きさであった。

 

旧拝殿跡


 巨大な宗教都市が築かれていた平泉寺の発掘作業が平成元年から始まった。既に20年を越えたが、発掘は当時の規模を考えると、未だ一部のようである。これから何十年かかるのか、あるいは一端打ち切るのかは分からないが、全容が解明されるまでは途方もない年月がかかるだろう。
 しばらく止んでいた雨がまた降り出した。本降りになる気配があったので発掘現場へ行くことは中止する。

 鳥居が立っている。
 鳥居を潜った参道の先には、境内の一番奥に位置する奥の院・三之宮(さんのみや)が建っている。
三之宮の裏から白山への登拝口がある。参道を進んで白山への登拝口を見たかったが、これも雨のために中止する。
 平泉寺は、また訪れて、発掘現場を見学し、そのとき、白山への登拝口まで上ろうと思っている。
 この参道は、
白山登拝の越前禅定道である。「歴史の道百選」に選定されている。


白山登拝越前禅定道

 

・同年5月5日(土) 吉峰寺

 朝食後、ホテルを出る。えちぜん鉄道福井駅に行き、昨日と同じ勝山永平寺線の7時35分発の電車に乗る。
 8時18分に、無人の越前竹原駅に着く。駅を出て右に曲がる。

 昨日までの雨や曇り空から一転して、やっと天気が回復した。よく晴れて、毎年の5月の連休らしい陽気になった。

 200m程歩く。案内板に従って右へ曲がる。100m程歩いて無人の踏み切りを渡る。
 右へ曲がり真っ直ぐ歩く。急坂になる。坂の途中に、浄土真宗本願寺派興行寺が建っている。壮大な建物である。

 道が平らになる。丸い石を積み上げた石垣の上に黒塀を巡らせた広壮な屋敷がある。旧家と思われる風格のある家も建っている。



 20分程歩き三叉路に出る。案内板に従って左へ曲がる。
 両側に田畑が広がっている間の道を歩く。麦の穂が真っ直ぐに伸びている。田植に備えて、トラクターを運転して田起こしをやっている人がいる。
田植が終わったばかりの水田では小さな稲の苗が風に震えている

 20分程歩く。吉峰川(よしみねがわ)が現れる。仏心橋という名前の橋が架かっている。車は、ここから橋を渡って、上に上がるようになっている。
 吉峰川に沿って歩く。川の反対側は、民家が並び、道幅は狭くなってくる。川幅はそれほど広くはないが、昨日までの雨の所為か水量が多く、水は大きな音をたてて流れている。

 15分程歩く。曹洞宗老梅山吉峰寺(きっぽうじ)の参道入り口に着く。
 先ほどの、車が通行する道はここへ続いている。ここから左側に道が延びて、吉峰寺まで車で上がれるようになっている。


吉峰寺 参道


 参道入り口の左手に案内板が立っていて、吉峰寺について、次のように説明されている。


 「貞応2年(1222年)宋に渡り、安貞元年(11227年)天童山景徳寺において如浄禅師のもとで悟りを開かれた道元禅師は、帰国後、京・深草の興聖寺において弘法救世のため曹洞宗の教えを民衆に布教されていた。
 寛元元年(1243年)越前守護・波多野義重公の懇請により、この吉峰寺に掛錫され、翌年、永平寺に移錫されるまで、この地において『正法眼蔵』の多くの巻を著された。」


 因みに、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』95巻の内、道元禅師(どうげんぜんじ)(1200~1253)は、その3分の1を吉峰寺で著したと伝えられている。
 (
永平寺については、「奥の細道旅日記」目次29、平成18年1月8日参照)

 参道を上る。九十九折の急坂になっている。昨夜までの雨で、露出した木の根や石段が濡れている。滑らないように気を付けて、ゆっくり歩く。石段は、摩滅し、崩れている箇所も多い。残っている石段も、現在のものの二段分くらいの高さがある。
 杉林と新緑の中を上って行く。木漏れ日が下草を明るく照らす。石仏(せきぶつ)に迎えられる。鶯が鳴いている。
 新緑の中、鶯の美しい声を聞きながら歩くのは、何と素晴らしいことだろう。






 50分程登り、山の中腹に建つ吉峰寺に着いた。
 境内は、鬱蒼とした杉の木に囲まれ、清浄なものに満たされている。正面に
法堂(はっとう)が建っている。


法堂


 石段を上がって法堂の正面に立つ。左へ曲がって石段を上る。開山堂が建っている。
 開山堂の裏に回り上へ上がる。法堂の裏になる。

 開けた場所に出た。「高祖坐禅石」と刻まれた石碑が立ち、玉垣の内に、道元禅師が、この上で坐禅を組んだと伝えられている坐禅石(ざぜんせき)が安置されていた。


「高祖坐禅石」


坐禅石


 ここから更に上へ上がる道がある。道元禅師が吉峰寺と永平寺を往復した道と伝えられ、「祖跡コース」と呼ばれている。

 案内板に、次のように説明されていた。


 「曹洞宗開祖道元禅師は、鎌倉時代、宋から帰国後、越前に移り、上志比の吉峰寺を開山し、その後、大佛寺(後の永平寺)を建立した。吉峰寺から大佛寺跡を経て永平寺に至る12キロの稜線伝いの登山道は、開祖・道元禅師が通られた道として、祖跡コースと呼ばれている。」


祖跡コース入り口


 稜線伝いの道は、周囲の景色が素晴らしいだろうなと思う。

 鐘楼の鐘が鳴った。それから、読経の声が聞こえてきた。お勤めが始まったのだろう。

 下へ下りて、境内をあちらこちら見ていたら、20分程経って、読経の声が止んだ。
 境内の右手に建っている庫裏の廊下を、6人の皆若い20代くらいの修行僧が一列になって歩いて来た。雲水の衣である黒い直裰(じきとつ)を着けている。
 私を見て、6人の修行僧が、明るく、「今日は!」と挨拶してくれた。私も、慌てて挨拶した。
 修行僧に対しては、話しかけることは勿論、挨拶も控えた方がいいのではないかと漠然と思っていたので、屈託のない朗らかな声に少し驚いた。
 合掌して、頭を下げてくれた修行僧もおられた。

 ありがたいことだと思うと共に胸に暖かいものが満ちてきた。ありがとうございました。

 帰りは、車が通行する坂道を下った。
 参道の入り口から吉峰川に沿って歩く。どの家の庭や周囲にも、ツツジの花が美しく咲いている。



・同年5月6日(日) (帰京)

 昨日も一昨日も、朝、慌しく食事をしていたので、今日は、ゆっくりと食事をする。
 米は、福井県産のコシヒカリ。卵がおいしいので、卵ご飯にして、二杯食べる。いつも楽しみにしている鯖の味噌煮はなかったが、福井らしく、ソースカツ、おろし蕎麦がある。小鯛のささ漬けがあったので、ご飯に載せて食べる。
 おいしいものを腹一杯食べて、ホテルを出る。 





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