9 錦帯橋(山口県) 鞆の浦 厳島神社(広島県) 小西儀助商店(大阪市) ヨドコウ迎賓館(兵庫県)


・平成24年12月29日(土) 錦帯橋 宇野千代生家(山口県岩国市)

 東京駅6時発の新幹線「のぞみ1号」に乗る。9時52分に広島駅に着く予定だったが、新幹線が遅れ、広島駅に着いたときは10時を過ぎていた。広島駅10時15分発の山陽本線「下り」の電車に乗り換える。
 30分程乗って宮島口駅を過ぎると、左手の車窓から瀬戸内海が見えてきた。よく晴れて、海面に陽光が煌いている。穏やかな海に島が点在し、船が行き交っている。

 11時6分に岩国駅に着く。駅前からバスに乗る。15分程乗って停留所「錦帯橋」に着く。


錦帯橋


 大正11年(1922年)、国の名勝に指定された錦帯橋(きんたいきょう)は、清流の錦川(にしきがわ)に架かる木造五連の太鼓橋である。
 延宝元年(1673年)、周防岩国領3代領主・吉川広嘉(きっかわひろよし)(1621〜1679)により創建された。錦帯橋の長さは193、3m、幅は5mである。アーチ間の橋台は石垣で強固にされている。錦川の川幅は200mである。
 橋の向こうの城山の頂上に、再建された岩国城が見える。

 300円の「入橋料」を払ってチケットを受け取る。このチケットで橋を往復できる。
 橋を渡る。思っていたよりも上り、下りの傾斜が急である。


錦帯橋


 橋を渡り終えて振り返る。錦帯橋が、川を渡っている龍の姿に見えた。



 戻らないで左へ曲がり、錦川沿いに歩く。桜並木になっている。

 30分程歩く。大通りから離れて右へ曲がり、幅の狭い道に入る。右側に、浄土真宗本願寺派教蓮寺(きょうれんじ)が建っている。境内へ入る。本堂の左手に、作家・宇野千代(1897〜1996)の墓所がある。教蓮寺は宇野家の菩提寺である。

 境内を出て右へ曲がる。旧道らしく蛇行して、両側に旧い民家や商家が並ぶ通りを15分程歩く。通りに面して建つ、宇野千代の生家の前に出る。100年を越えた、格子戸の玄関と紅殻(べんがら)塗りの千本格子の家である。
 この家は、宇野千代の父が、庄屋だった人の家を買い取ったものであった。平成19年、国の登録有形文化財に指定された。


宇野千代生家


 年末年始の休館が今日から始まり、内部を見学することはできなかったが、家の前に立って、様々なことを思った。
 宇野千代は、この家に生まれ、この玄関を通って、小学校、女学校に通い、女学校卒業後は小学校の代用教員になった。同僚の男性教師との恋愛が原因で校長から退職を勧告され、諭旨免職になった。村に住めなくなり、朝鮮に渡るまでこの家に起居していた。

 宇野千代の生母は、千代が生まれて1年半のときに亡くなった。千代の父は、千代がまだ小さい頃に後妻を迎えた。

 宇野千代の『生きて行く私』から引用する。


 「あとで年齢を考えると、母は17歳のときに父の後妻に来たのであったが、来るとすぐに、私の弟になる薫が生まれ、次の弟の鴻(ひろし)が生まれ、それから妹の勝子が生まれた。それからまた、弟の光雄が生まれ、最後に弟の文雄が生まれたのであるが、この5人の弟妹たちに対してとった母の態度と、ただ1人の継子である私に対してとった母の態度とを比較すると、誰の眼にも明らかに見受けられる違いがあった。

 たとえば、到来物のおはぎを見ると、弟妹たちは早く食べたいと言って、母にせがむ。このとき、私がその場に居合わせなかったときなど、『まァお待ちい。姉さまがお戻りてから分けて上げるけえ』と言って、弟妹たちを待たせる。あの、芝居などで見る継子いじめの反対なのであった。

 この母の育て方は、私たち兄妹に思わぬ影響を与えたものであった。私と私の5人の弟妹たちとは、世にも仲の好い兄妹になったからである。」

 「私はあの母が自分にとっては生母でないと知りながら、そのままの母を愛していたのであった。」


 千代が女学校に通う16歳のときに父が亡くなる。
 母は、臥龍橋を渡ったところにあった義済堂という、糸とり工場へ出るようになった。


 「ここへ通うために、母は朝くらい中に起き、弁当箱に前の晩の冷たくなった飯を詰めて、子供たちは寝かせたまま、そそくさと草履の音をさせて、走って行くのであった。後年、私はこのときの母の労苦を偲(しの)んで、母に向かってこう言ったものである。『お母(かか)、ほんにあのときは、辛い思いをさせて、済まんことじゃったのう。大概、わしの女学校行きの費用を賄うために、義済堂へお行きたんじゃろうがの』。しかし、このときの母の答えは意外であった。

 『何の、お前の学校のためかいの。わしゃあ、唄を歌うのが好きでのう。いつでも糸をとりながら、声を上げて唄を歌うたもんじゃが、みんなが、わしの声に聞き惚れてのう、それが自慢で、糸とりに行ったんでよ』と笑って言ったのをいまでも忘れない。

 母は、この言葉を、半分は私のためにわざと取り繕って言ったのであったろうか。そうではない。しん底、自分の唄が自慢で、それで義済堂へ通ったのに違いない、と、いまでも私は信じている。人は、自分の好きなことのためにする少しばかりの労苦は、心にかけぬものだからである。」


 宇野千代は、言葉の裏を考えて、言外の意味を知ろうとしたり、語られない言葉を推測したりすることはなかった。相手の言葉をそのまま受け入れ、自分の言葉も他意はなく、率直に相手に語った。
 それは、次の文章でも窺われる。女学校の代用教員になった千代は、月給袋をそのまま母に渡す。


 「月給はまるまる残った。その月給袋を手つかずのまま、母の前に出したとき、『ありゃ、こんとに、みな、わしが貰うてもええかいの』と言ったときの母の眼に、きらりと涙が浮かんだのを、私は見たのであった。

 ああ、母がこんなに喜んだ、と言う思いは、私もまた、有頂天にさせた。しかし、この有頂天な思いは、ほんとうに親孝行をした、と言う、真の喜びとは少し違っていた。私は母に月給を渡すことが嬉しいから、それをしただけのことであった。月給を渡すことが愉しいから、それをしただけのことであった。」


 策を弄しない、余計な気を回さない、屈折のない千代の真っ直ぐな性格は、千代の生い立ちと周囲の環境から育まれたものであることが分る。

 千代の父は、若いときから放埓な生き方をして、生涯、仕事をしなかった。分家するとき、本家から応分の田畑を貰ったが、結婚して、子供ができても放蕩は改まらず、田畑を売り払い、それまで入ってきた田畑の賃料がなくなった。
 千代が住む川西の家から4里程離れた高森という所に本家があった。本家は酒の醸造元だった。父の兄が家督を譲り受けてから本家は益々栄えた。
 本家から毎月2回、千代の家に生活費が届けられるようになった。

 『残ってゐる話』から引用する。


 「兄の代で、宇野の家運は益々隆盛になつて、近在に聞えた分限者、と言はれるやうになつた。『高森の宇野』と言ふのは、この近在では、分限者と言ふことの代名詞でもあつた。」

 「どこの家の子供でも、『何々さん』と呼ばれるのに、私はさうではなく、『千代さま』と呼ばれた。私はそれを当然と思つて聞いた。貧窮のどん底にあつたにも拘らず、私は『千代さま』であった。それは『高森の宇野』の分家の娘であるから、それで私は『千代さま』なのであつた。かう言う環境の中で、私は何の疑ひもなく育つたのであつた。」


 金持ちや物持ちを、分限者(ぶげんしゃ)と呼んでいた。
 分限者の分家の娘であるから『千代さま』と呼ばれ、
貧乏だけれども最低の生活は保証されていた。貧しいことを恥ずかしいとは思わない。何かに心を囚われることはなかった。
 千代の大らかで、自由な思考と、自由な行動力が子供時代に培われたことが分る。

 千代の真っ直ぐな性格は、男性に対しても向けられた。
 千代が代用教員になった後に、新任の男の教員が赴任してきた。師範学校出の訓導であった。はじめて教員室で、校長から紹介されたとき、最初の一瞥(いちべつ)で、千代はその男に心を奪われた。
 男が一人で暮している住居へ、千代は通うようになった。
 ある夜、ふいに雨になり、千代は男の家に泊まった。翌朝、自分の家へ帰る途中、村人の一人に声を掛けられた。千代と男とのことは、村中に知れ渡った。

 千代は、校長室に呼ばれ、校長に退職を勧告され、諭旨免職になった。
 千代は村に住めなくなった。女学校の頃、世話になっていた女の先生が朝鮮の京城(ソウル)の女学校で教師をしていることを思い出し、朝鮮へ行くことを決める。千代は18歳であった。

 『生きて行く私』から引用する。


 「『千代さん、お前、馬関(ばかん)まで汽車でお行きる積もりかいの』と母は訊いた。馬関と言うのは、下関のことである。『汽車じゃなうて、新港から汽船に乗ってお行きた方がええでよ。新港から、夜の明けしなにお出ると、誰も知った人はおらんけえのう』と言うではないか。そのときの母の思いがどんなであったか、いまでも私は思い知ることが出来る。まだ夜の明けない頃、汽船で出て行けば、この不幸な娘の出奔は、誰の眼にも触れることがないだろう、とそう思ったに違いなかった。

 明けの朝、2人は暗い中に家を出た。新港と言うのは、川西の家から2里(約8キロメートル)ほど離れた、瀬戸内海の小さな港であった。ぽお、ぽお、と汽笛が鳴った。『お母(かか)、行くでよ』『風邪をお引きなよ』。港には、人っ子1人いなかった。」


 宇野千代の波瀾に富んだ人生の始まりであった。

 母は、この家にずっと住んでいた。後年、母が胃癌の末期と言われ、千代は、母を東京の青山の自宅に引き取った。千代の妹が看病し、母は、青山の家で亡くなった。

 「青山の家に寝ている間、母はよく田舎の家のことを話した。『川西の往還を通ると、うちの家が一番ひどうなっとる、と人がみなお言いるげな』。たびたび、そう言った。」

 母が亡くなった後、千代は家を見に行って吃驚した。家は今にも倒れかかりそうなほど傾いていた。それから、千代は、地元の旧知の者に相談して、兼森という大工さんを紹介してもらい、家の修復を頼んだ。


 「兼森には、その私の注文がよく分った。使ってある木材は、腐蝕していて、どうにもならないもののほかは、そのままにしておくこと。屋根の瓦も、同じ時代の古いものにしたいと言うので、岩国近在の村々を探し歩いて、古瓦を集めた。しかし、いまどき、古瓦をとっておく家はなかった。新しい、見栄(みば)えの好い瓦が、いくらでも出廻っているのであるから、明治以前の古瓦など、残している家はどもにもなかった。それでも兼森は、それを探し廻った。」

 「やがて、工事が始まった。いまにも倒れそうな家を、まず、起すのが大変であった。裏手の庭の方に、何本も何本も、つっかい棒をした。『全部、新しう建てた方が、何ぼう、安上がりか分かりゃせんのう』と兼森も笑って言った。しかし、二人とも、それを止めようとはしなかった。

 7、8ヶ月もかかったであろうか。ようやく、形が出来上がり、障子に真っ白な紙が張られ、往還ぞいの高い木の囲いに続いて、9尺(2、7メートル)の高さの格子が出来上がったとき、私は、「お母(かか)、見ておくれえ。これで、うちの家は、川西で一番ひどい家では、のうなったでよ』と、あの、家のことを気にかけながら死んで行った母に、言いかけたいような気持ちであった。」


 昭和45年(1970年)に修復が終わった。家はそっくりそのまま残すことで修復したが、その後、千代は、約300坪の広さの庭は作り直した。庭に植えられていた様々な木を全て取り払い、紅葉の木だけを100本程植えた。
 同じ時期に一斉に同じ色に色づく、同じ種類の紅葉の木を植えた、と宇野千代が語っていた文章を読んだことがある。作家の卓抜な美意識に感嘆した。


・同年12月30日(日) 鞆の浦(広島県)

 昨日チェックインした広島駅に近いホテルを早朝に出る。3泊予約していた。

 雨が降っている。広島駅5時53分発の山陽本線「上り」の電車に乗る。7時14分に終点の糸里駅に着く。ホームの反対側に停まっていて、1分後に発車する岡山行きの電車に乗り換える。7時42分に福山駅に着く。

 相変わらず雨が降っているので、駅の構内にある喫茶室でコーヒーを飲みながら雨の様子を見る。
 40分程待ったが、雨の降り方は変わらない。いつまで待っていても仕方がないので、駅前から、「鞆港(ともこう)行き」のバスに乗る。

 約35分で終点の「鞆港」に着く。雨が降っているが、停泊している漁船の上をカモメが飛んでいる。傘をさして、岸壁に沿って歩く。


鞆港



 旧い商家や白壁の蔵が並ぶ石畳の道に入る。路地のような幅の狭い道を抜けると、岸壁に、常夜灯が立っていた。常夜灯は、安政6年(1859年)に建てられた。





 後戻りする。停留所「鞆港」を通り過ぎる。

 鞆の浦(とものうら)は、朝鮮通信使の船が寄港して、風を待ち、潮の流れを待った(朝鮮通信使については、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照)。
 朝鮮通信使は、江戸時代、将軍が交代するたびに、朝鮮国より国王の親書をもって来日した。
 ソウルを出発した一行は、釜山から玄界灘へ船出する。対馬、壱岐、相島(あいのしま)に寄港する。下関を経て、山陽地方の港や瀬戸内海に浮かぶ島々に寄港する。

 道路の左側から坂を上る。高台の、石垣を築いた上に、真言宗大覚寺派福禅寺が建っている。
 福禅寺の本堂に隣接する客殿は、元禄年間(1690年頃)に朝鮮通信使の迎賓館として建てられ、対潮楼(たいちょうろう)と名付けられた。国の史跡に指定されている。


対潮楼


 対潮楼の大広間から美しい風景を眺めることができた。
 左から、仙酔島(せんすいじま)、正面の多宝塔のある島は弁天島、右側の半円形の島は皇后島である。いずれも雨に煙って水墨画を見るような思いだった。


仙酔島


弁天島


皇后島


 正徳元年(1711年)、朝鮮通信使の従事官・李邦彦は、朝鮮より東で最も美しい景勝地という意味で、「日東第一形勝」と称え、ここからの眺めを賞賛した。
 延享5年(1748年)、朝鮮通信使の正使・洪啓禮は、この客殿を「対潮楼」と名付けた。




・同年12月31日(月) 宮島 厳島神社

 ホテルを早朝に出る。広島駅5時53分発の山陽本線「下り」の電車に乗る。
 6時20分、宮島口駅に着く。駅前から10分程歩いて宮島桟橋へ行く。6時25分発の宮島行きのフェリーが桟橋を離れたところだった。次のフェリーは、7時5分である。それまで桟橋の待合室で待つ。
 まだ辺りは暗い。暗い海上に雪が舞っているのが微かに見える。   

 作家・竹西寛子氏は、昭和4年(1929年)、広島市に生まれる。昭和17年(1942年)、高等女学校に入学する。戦争末期の頃は学校の授業はなくなり、学徒動員により軍需工場での勤労奉仕に従事する。
 昭和20年(1945年)8月になり、足を傷めて3日から工場を休んでいた。6日も工場を休んだ。
 8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下された。その時、爆心地から2、5キロの自宅に居たために大きな被害は免れたが、多くの級友が被爆して亡くなった。

 竹西寛子氏が昭和53年(1978年)に発表した『管弦祭』は、彼女の自伝的な要素の強い小説であると思われる。

 広島市出身の村川有紀子を中心にして、有紀子の周辺にいた、原子爆弾投下により孤児になった少女たち、その他、大勢の人物が登場し、昭和20年8月6日を境にして過酷な人生を生きてきたことを静かに語る。
 村川有紀子は東京の広告代理店に勤めている。40代半ばで独身である。20年程前に、母・セキを広島から呼び寄せた。結婚している兄が2人いて東京に住んでいるが、セキは有紀子と暮していた。

 有紀子の父・庄蔵は材木商として隆盛を極めていたが、昭和20年の始めに急病で亡くなる。
 有紀子は女学校に通っていた。昭和19年の夏に通年学徒動員令が下りて、授業はなくなり、工場で勤労奉仕に従事する。
 昭和20年8月、毒虫に刺されたあとの傷が化膿して発熱し、足の淋巴腺まで腫らせてしまった。そのため、8月3日から工場を休んでいた。6日になり、いくらか歩けるようになったが、空襲警報が出てみんなと一緒に走れなかったらどうしよう、と思っていたところ、セキ
から、もう1日休むように言われ、この日も工場を休んだ。
 午前8時15分、広島に原子爆弾が投下された。

 『管弦祭』は、癌で亡くなったセキの通夜の場面から始まるが、時代が前後して物語が展開する。

 有紀子の友人が広島に住む仙吉という老人を訪ねて、有紀子の母が亡くなったことを知らせる。仙吉は、出征まで、村川家の敷地内の別棟に妻と住み、村川家の屋敷の雑用を夫婦で引き受けていた。
 仙吉は、村川の奥様の死を知らせてくれた有紀子の友人に、当時の広島を語る。


 「何せ広島は第五師団の駐屯地でしょう。城のまわりには、護国神社、もとの招魂社、ね。師団長官舎、憲兵隊本部、偕行社、幼年学校、陸軍病院、それから練兵場。いちばん東の洲の南端にあるのが宇品(うじな)港で、戦時中は、輸送船が出入りしました。江田島には海軍兵学校があったし、町はいたるところ陸海軍の軍服ですよ。
 日本勝った日本勝った支那敗けた。そう言っていられるうちはまだよかった。市中の小学生や国防婦人会の人達が、宇品の埠頭に並んで、紙の日の丸を振って出征兵士を見送ったもんです。町角には、白い布と赤い糸の針を持った婦人が立って、千人針をお願いします、千人針をお願いします。今の、赤い羽根の人みたいに。
 徐州が落ちた。花火を打ち上げて提灯行列。武漢三鎮攻略。提灯行列。焼け崩れた黒い町も広島なら、提灯行列で目抜の電車通りが火縄みたいに揺れていたのも広島、血のついた日章旗や軍服、青龍刀に便衣隊服、手榴弾まで陳列した大東亜博覧会が開かれたのも同じ広島です。

 あの戦艦大和が、呉の海軍工廠で出来上がったのが昭和16年の暮なんじゃそうですが、私が外地に向ったのは、同じ年の春でした。召集令状を受けるといったん福山で入隊して、宇品から出ました。海に突き出た堤防の先端まで歩いて行って、そこからはしけに乗り、沖に錨を下ろして待っている輸送船に乗り換える。ご承知のように、瀬戸内海は小さな島が多いでしょう。よく業者仲間で遊びの島巡りをしたり、村川の旦那さんのお伴で釣舟に乗ったりしましたが、大きさも形も似たり寄ったりの島と島が重なり合っていて、水平線なんか見えやしません。

 輸送船の舷から、兵隊たちはみんな黙って島や海を見とりました。私もこの船に乗せられてしもうたからには、瀬戸内海ももうこれが見おさめかもしれん。はっきりそう思いました。すると妙なもので、似たり寄ったりのはずだった島の一つ一つが、みんな違う生きものになってこっちをじっと見つめ、何か言いたげにしとるように思われるんです。こっちを見て。あんたはこれまで、私の何を見ていなさったか。この音をよく聞いて。あんたは私の何を聞いていなさったか。
 島だけじゃありません。海の色、波の音、あんなにはっきり見えたり聞えたりしたことはありませんでしたね。ああそうか、これが瀬戸内海か。私はこういう所に暮しておったのか。はじめてまともに見ようとした時には、しかしもうそこには居させてもらえない。」


 7時5分発のフェリーに乗る。少し明るくなってきた。
 フェリーが
宮島に近付く。薄明かりの中、厳島神社大鳥居と、壮麗な寝殿造りの社殿が現れる。

 厳島神社は、古代、周囲約30キロの宮島の中央に聳える弥山(みせん)を、ご神体として信仰したことに始まる。主祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三柱。航海の安全を守る女神の宗像三女神である。
 宮島は神の島である。標高530mの弥山も手を入れることは許されず、原始林のままである。
 平成8年、社殿を中心とする厳島神社、前面の海、背後の弥山原始林が世界遺産に登録された。

 約10分で、宮島桟橋に着く。
 石造の鳥居を潜る。右手に海を見ながら、松の並木と石灯籠が並んでいる岸壁を歩く。

 鹿の姿が見える。約800年前から弥山の山中に野生の鹿が棲む。朝になり、塒(ねぐら)から山道を下って来たのだろう。

 石垣の岸壁から、足元が少し海水に浸っている大鳥居が見える。
 現在の大鳥居は、
平清盛(1118〜1181)が造営した時のものから8代目で明治8年(1875年)の建立。高さ16m、横幅24mである。砂の中に埋めることなく、自らの重みで立っている。
 これは社殿も同じである。木製の柱は砂に埋まっているのではなく、土台となる石に載っているだけである。やはり自らの重みで立っている。
 社殿と大鳥居の距離は196mである。

 今日の満潮は、11時34分である。
 『管弦祭』では、潮が満ちることを「さし潮」と著わしている。「さし潮」が、入り江に建つ社殿に向って後から後から波紋を広げるように砂浜を浸していく。

 社殿は、朝、6時半から昇殿することができる。今、8時前だから、まだ人の数は疎らである。今日は昨日とは打って変わって、晴れてよい天気になったので観光客が多いと思われる。今の時間に、ゆっくりと社殿と回廊を拝観しようと思う。
 昇殿料300円を払いチケットを受け取る。このチケットで何度でも昇殿できる。

 厳島神社は、推古天皇元年(593年)に創建された。久安2年(1146年)、安芸の守(あきのかみ)に任命された平清盛は、仁安3年(1168年)、現在の壮麗な社殿を造営した。

 朱塗りの長い回廊を巡る。各社殿は、総長262mの回廊で結ばれている。華麗な社殿と回廊は雅やかさを湛え、平家の栄華が偲ばれる。


厳島神社 回廊








 客(まろうど)神社本殿の前を通って東回廊を歩く。右へ2回曲がり、左へ1回曲がる。御本社拝殿の前に出る。奥に御本社本殿が建っている。
 御本社祓殿があり、その前に、海に面した平舞台があり、更に幅1、5m、長さ10m程の板張りの突堤のようなものが大鳥居に向って延びている。平舞台の中央に、舞楽を奉納する高(たか)舞台が設けられている。

 左へ曲がる。大国社の右側を右へ曲がり西回廊に入る。右手に能舞台が建っている。左手に天神社があり、反橋(そりはし)が見える。
 右へ曲がって歩き、左へ曲がる。

 出口を出る。弥山からの山水が流れる御手洗川(みたらしがわ)に架かる橋を渡る。
 川の土手の砂地に、鹿の親子がいる。仔鹿は好奇心が旺盛なようでしきりに動き回っているが、母親から離れず、遠くには行かない。母親は悠然と坐っている。



 坂を上り、丘に建つ、大永3年(1523年)建築の多宝塔を見に行く。眼下に、海に立つ大鳥居と、航行している連絡船が見えた。

 坂を下る。社殿の裏を流れる御手洗川に沿って歩く。「さし潮」が岸壁の石垣に当たる大きな音が聞える。

 塔の岡(とうのおか)に、巨大な建築物が見える。天正15年(1587年)、豊臣秀吉(1537〜1598)が戦没将兵の供養のために建立に着手したが、秀吉の死去により工事が中断されたため、未完成の建物となった。
 857枚の畳が敷けることから
千畳閣(せんじょうかく)と呼ばれる。昭和23年(1948年)、国重要文化財に指定された。


千畳閣


 説明書に、主要寸法が次のように説明されている。

 「縁を含む正面の長さ 46、6m  縁を含む側面の長さ 28、2m  棟瓦頂上までの高さ 17、4m  縁を含む建物の面積 1314、3u  屋根全体の面積 2009、6u」      

 石段を上がって、千畳閣の前に立つ。巨大な建物に驚く。


千畳閣


 内部を見学する。建物の壮大さと豪快さに圧倒される。整然と並んだ太い柱は重厚で、重量感があり、アテネのアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿の列柱と比べても遜色がないと思うほどである。







側廊


 隣に、応永14年(1407年)に建立された五重塔が建っている。国重要文化財に指定されている。

 石段を下り、社殿の裏にある食堂「水羽」に入る。「あなごめし」を注文する。
 タレをつけて焼いたアナゴを斜めに削いで、熱いご飯の上に載せている。丁寧に作られていて、あっさりとした上品な味だった。


あなごめし


 時間は11時近くになった。数時間の間に、観光客の数が増えていた。
 満潮の時間に近くなり、大鳥居が海中に立つ姿に変わった。



 自然の、正確で壮大な営みを巧みに取り入れて、砂浜だった参道と境内が、海の中の参道と境内に変わる。
 もう一度、社殿へ入る。水に浸された社殿と回廊は、砂浜に立っているときとは違った印象を与える。
 幾度も左右に折れる回廊が水の流れを思わせる。真上に近い太陽の光りが水に煌き、その煌きが回廊の柱や天井に反射して、揺蕩(たゆた)う水に伴って揺れる。




 


 結婚する前の若い頃から宮島で暮らし、漁師だった老人が『管弦祭』の中で語る。日中戦争の頃に、錆び釘での傷がもとになって、右腕の肘から先を切断した。漁師の仕事はできなくなったが、出船、入船の時刻になると、入り江に出て行った。
 息子と娘がいた。息子は戦死し、娘は女子徴用工であった。娘は被爆して亡くなり、妻も終戦後1年も経たないうちに亡くなった。


 「被爆した娘は、いっとき行方知れずのままだった。やっと大勢の怪我人と一緒に似島(にのしま)に収容されていることがわかり、娘の着替えや食べ物を持てるだけ持って似島に渡った老人夫婦は、火傷で変わり果てたわが娘の姿に呆然とした。着替えも食べ物も、まったく無駄であった。
 夫婦が替る替る団扇で煽いで、傷の膿に寄る蠅を追った。痛い、痛いという声は、もう口先だけの、力の抜けてしまった声だったが、あいだで囈言(うわごと)のように、お宮の、笛が、聞える、と言った。しばらくして、もう一度繰り返した。お宮の、笛が、聞える・・・・・・」


 毎年、陰暦6月17日の夕刻から深夜にかけて厳島神社の最大の祭りである管弦祭(かんげんさい)が行われる。
 満ち潮のときでなければならないので、現在の暦では7月中旬から8月初旬の間に行われる。


 「鳳輦(ほうれん)に移した神社の御霊代(みたましろ)を、高張提灯や雪洞(ぼんぼり)、幟、幔幕で美しく飾った御座船(ござぶね)に安置し、夕刻から深夜にかけて、三艘の漕ぎ船が曳船となって摂社末社めぐりをするこの海上の祭を、有紀子たちは、幼い頃からずっと『オカゲサン』と呼んでいた。」

 「祭当日の夕刻、大鳥居前の儀式が終わって、いよいよ御座船の巡航が始まると、祭見物の船もいっせいに動き出して日没の海で場所を争った。三艘の和船を縦に組み並べて一艘ふうに仕立て、上に座を張って屋形を拵(こしら)えた御座船には、神官、楽人のほか、大勢の水主(かこ)も乗り込んでいる。
 巡航は、約4キロメートル離れた対岸の地御前(じごぜん)神社に向って始まるが、そこで神事を終え、再び宮島に引き返して長浜神社、大元神社と巡り、御座船が大鳥居下から厳島神社本殿に向う頃には、大てい、本殿背後の山上に月が高くのぼっていた。それぞれの社前海上で、神事の都度管弦の演奏が行われるところから管弦祭の名がついたと有紀子は聞かされていたが、祭の起源については、安芸の守だった平清盛の始めた船管弦らしいということのほかは、ほとんど知らないのも同じだった。」

 「やがて巡航を終えた御座船が、再び丹塗(にぬ)りの鳥居下を潜って本殿に向う頃、本殿の背後の山上にはちょうど月が高くのぼっている、それが管弦祭の終幕である。」


 セキが亡くなって2度目の夏が巡ってきた。有紀子は1人で「オカゲサン」を見に行く。


 「迎え火を焚いて、白衣の神官が出迎えに立っている長浜神社の、岸の鳥居前に御座船が着いた時には、もう9時半を過ぎていた。神事のあと、雅楽『越天楽』が始まった。山上の月を見ながら海上で聞く音楽には、音が、片端から攫(さら)われてゆくような哀れもあるけれど、それだけに、一つ一つの楽器の音色にかえって強く追い縋りたくなるような愛着も、有紀子は唆(そそ)られている。その、海上の音楽の中で繰り返される箏の閑掻(しずがき)を聞いているうちに、有紀子は、箏を弾く白衣の楽人の背に、ふと母のセキの後ろ姿を見た。はっとしてよく見直すと、セキの隣に坐っている人も、又向い合っている人たちも、生前みんな有紀子の親しかった広島の死者である。彼等は例外なく経帷子(きょうかたびら)を身につけ、目を閉じて坐ったまま、かすかに微笑んでいるかのように見える。えも言われぬ名香と優雅な管弦の音につつまれて、確かに彼等は微笑んでいるようにも、しかし、又涙しているようにも見えた。

 奏楽の切れ目に我に返った有紀子は、海の上に目を移すと思わず『お母さん』と心の中で呼び、『お父さん』と呟いた。父といわず母といわず、火に追われ、火に焼かれた友達といわず、この世に生を享けた者誰一人として逃れることのできなかった死が自分にも訪れる時を、有紀子は、この管弦祭のはなやぎにいて、いまだかつておぼえのない切実さで思い描いていた。」


 死者が有紀子の前に現れたのか、有紀子が一瞬、死者が住む国を垣間(かいま)見たのか。或いは、生きている者と、死者の間の距離は近いということを作者は語っているのだろうか。


・平成25年1月4日(金) 小西儀助商店(大阪市)

 大阪市営地下鉄堺筋線の北浜駅を降りて、地上へ出る。
 商業ビルが乱立する間に、黒漆喰の衣装蔵が建っている。伏見町通に沿って、衣装蔵の左に、二階蔵、三階蔵が並ぶ。堺筋に沿った、衣装蔵の右側は主屋である。主屋の角を左へ曲がる。道修町通に面して門口がある。白漆喰の門口には
卯建(うだつ)が上げられている。


小西儀助商店 衣装蔵


主家


門口


卯建


 (「卯建」については、「奥の細道旅日記」目次30、平成18年5月6日、同目次36、平成19年11月23日参照)

 大阪市中央区道修町1−6−9に建つ小西儀助商店(現・コニシ株式会社)である。アルコールを商っていた。
 間口26、5m、奥行き40、1m、1062、65u(約322坪)の敷地面積に、延べ床面積約612u(約185坪)の広大な建物が甍を並べている。明治36年(1903年)、竣工。平成13年、国重要文化財に指定された。
 現在、ボンドを扱っているコニシ株式会社の事務所として使用されているため、内部は非公開である。

 豊臣秀吉(1537〜1598)は大坂城を築くとき、船場(せんば)に、堺、京、伏見から商人を強制的に移住させた。
 船場は、東西1キロ、南北2キロの地域で、当時、河川と人口の堀によって区切られていた。戦前まで
大阪の経済、流通の中心地であった。
 船場の中の
道修町(どしょうまち)は、当時から多くの薬問屋、薬種商が軒を並べていた。現在も、製薬会社が集中し、武田薬品、塩野義製薬、小林製薬等の製薬会社が本社を構えている。小西儀助商店の周りにも、小野薬品、扶桑薬品、大鵬薬品の看板を掲げたビルが建っている。

 小西儀助商店は、店舗と、主家の住居が一体となった、当時の船場の商家を知ることができる唯一の建物である。

 堺、京、伏見の商人が移住したことから、大坂の言葉に柔らかい京言葉が合わせられて、商人の言葉としてふさわしい丁寧で、上品な「船場言葉」が生まれた。
 船場では、主人の家族、使用人が次のような言葉を使っていた。
 主人を「旦(だん)さん」、主人の妻を「御寮人(ごりょん)さん」、息子を「ぼんぼん」、娘を「いとさん」又は「とうはん」、末娘を「小(こ)いさん」、番頭を「ばんとはん」、丁稚を「でっちさん」。


・平成25年1月5日(土) ヨドコウ迎賓館(兵庫県芦屋市)

 阪急梅田駅から阪急電鉄神戸線に乗る。阪急電車の車体は臙脂色、座席は苔のような黄緑色の布張りで豪華な雰囲気がある。
 それに、武庫之荘(むこのそう)、夙川(しゅくがわ)、芦屋川、御影(みかげ)、六甲、と何と美しい駅名だろうか。

 約30分乗り、芦屋川駅で降りる。改札口を出て、六甲山へ向って、芦屋川沿いに緩やかな坂を上る。

 「阪神間(はんしんかん)」という言葉がある。「阪神間」は、兵庫県神戸市中央区、灘区、東灘区、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市、尼崎市、三田(さんだ)市、川西市を中心とする地域を指す。
 明治末期から大正にかけて、六甲山南麓の地が、阪神電鉄、阪急電鉄によって宅地造成化され、鉄道が敷かれた。
 気候温暖、大阪湾を望む風光明媚で、空気のきれいな「阪神間」に、関西の財閥の当主、船場の豪商が豪邸を建て、移り住んだ。店舗と主家の住居が一体となっていた船場の商家は、職、住分離となった。

 ウイリアム・メレル・ヴォーりズ(1880〜1964)も依頼を受けて、個人の邸宅を設計した。ヴォーりズの作品の中でも「スパニッシュ・ミッション・スタイル」と呼ばれる様式の関西学院、神戸女学院の美しい校舎が西宮市に建てられた。

 (ヴォーりズについては、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日、同目次36、平成19年11月23日及び11月24日参照。)

 また、国際貿易港神戸に近いことから、流行の先端に触れることができた。欲しいものの殆どが手に入り、新しいものを吸収することができた。神戸では、西洋料理、中国料理を食べることができた。ロシア人が作るモロゾフのチョコレート、ドイツ人の菓子職人製作のユーハイムのバウムクーヘンも味わえる。六甲山へのハイキングも気軽にできる。海水浴場にも近い。

 魅力に溢れた「阪神間」は、富裕層だけではなく、作家、詩人、画家、音楽家、建築家、写真家、デザイナー、映画製作者等も引きつけた。彼ら、知識人、芸術家、文化人の多数が「阪神間」に移って来た。

 元大阪産業大学大学院教授・竹村民郎(たけむらたみお)氏は、「『阪神間モダニズム』の社会的基調」と題する文章の中で、実業家たちや酒蔵の旦那衆たちは、「禁欲」、「勤勉」、「自立」、「互助」、「実利」といった価値観をもって地域革新を主導した、と述べ、次のように記述している。


 「彼等は世俗的生き方や財産本位の考えをほとんど持たない代わりに、『陰徳あれば陽報あり』の考え方と結びついた実業精神と地域コミュニティーへの奉仕を信念としていた。彼等は単なる欧米の翻訳思想ではない、上方商人の伝統的な学芸、文化尊重の系譜に連なる『自由人』として振舞った。『自由人』として振舞うとはどういうことか。結論的に言うならば、彼等が新しい国際性と情報空間の創造が都市の基本的性格であるということを認識していたということである。」


 商人としての価値観を持った富裕層と、知識人、芸術家、文化人が交わり、奢侈に流れず、華美に陥ることなく、節度のある質の高い文化が開花した。これは、昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まる頃まで続いた。
 近年、「阪神間」の、この時代の状況を
「阪神間モダニズム」と呼ぶようになった。 

 富裕層だけが住む町、芸術家が多く集まった町、大学の教師が多く住み、学者町と呼ばれた町は、かつて日本国内にあったが、「阪神間」のように、富裕層と、知識人、芸術家、文化人が交わって高い文化を育んでいた地域は、日本国内の他の地域はもとより外国にも存在しなかっただろうと考える。

 谷崎潤一郎(1886〜1965)の『細雪』『卍』『蓼喰う虫』は、当時の「阪神間」を主な舞台としている。
 『細雪』は、船場の没落した蒔岡商店の4人姉妹の物語である。二女・幸子は、婿養子の貞之助、小学校に通う娘と芦屋川に住んでいる。姉妹の間で話すときは、「船場言葉」を使う。

 『卍』の徳光光子は、船場の羅紗問屋の「嬢(とう)はん」である。やはり芦屋川に住まいがある。光子の美しさに翻弄され、破滅する柿内孝太郎と妻・園子の夫婦は、夙川駅を最寄の駅とする香櫨園(こうろえん)に住んでいる。

 『蓼喰う虫』の斯波要(しばかなめ)は、妻・美佐子、小学校4年の息子と豊中に住んでいる。
 大阪府豊中市は、「阪神間」ではないけれども、大正3年(1914年)に阪急電鉄が開発した大阪北西部の分譲住宅地である。

 要は、資産があり、名義だけだが会社の重役の地位にある。有閑階級の一員である。
 結婚して2年目頃から妻を疎ましく思うようになり、夫婦の関係は冷えていた。夫婦が共に行動することは少なく、それぞれ自分の交際範囲を持ち、自由に行動していた。要は、時々神戸で遊ぶ。
 美佐子は、退屈しのぎに神戸へフランス語を習いに行き、そこで知り合った男を好きになる。要に打ち明けるが、要は、それを止めろとも言わないし、止めたりもしない。要は、妻は冷たい夫の元にいるより、妻を愛してくれる男と一緒になった方が妻の幸福になる、と考え、離婚に向けて準備することを話す。

 要に打ち明けてから、妻は、「神戸へ買い物に行く」とか「須磨へ行く」とか言って、毎日のように男に会いに行き、帰りも遅くなる。
 要は、妻が出掛けた後、家の中が森閑として、1人取り残されたような静けさに淋しさを感じる。堪え難い寂しさではあるけれども、妻が、いずれこの家を出て行くことを思い、それまでの日々を静かに過ごす。

 谷崎の作品は、真面目なものと、遊びの境がはっきりしないものが多い。谷崎が深刻な内容を綿密に書けば書くほどおかしみを感じる。上に挙げた三つの作品も、登場人物の心理が定まらず、享楽的な面もあり、明るくなったり、暗くなったりして気持ちが絶えず揺れ動く。

 谷崎は、当時、神戸市東灘区岡本や芦屋市に居住し、執筆していた。
 明るい陽光と、停滞せず常に新しいものを展開していた「阪神間」の雰囲気が、作品に影響を与え、登場人物の性格にも投影されたものと思う。

 10分程坂を上がり、芦屋川に架かる開森橋を渡る。左へ曲がり、急な坂を上る。5分程上ると、ヨドコウ迎賓館の建物の一部が見えてきた。
 更に急坂を上り、アメリカ人建築家・フランク・ロイド・ライト(1867〜1959)設計のヨドコウ迎賓館の「車寄せ」の前に立った。


ヨドコウ迎賓館 車寄せ


 私は、20年以上前から、ヨドコウ迎賓館を見学することを希望していた。開館日が土、日、水、祝日のみで、年末年始は休館のため、なかなか訪ねることができなかった。今日、長年の念願を叶えることができた。
 ライトが多用した大谷石の「車寄せ」の前に立ったとき、ああ、やっとここへ来ることができた、現役だった頃の
帝国ホテルの雰囲気を、ヨドコウ迎賓館で僅かでも感じられるのではないかと思うと、嬉しさで胸がいっぱいになった。

 ヨドコウ迎賓館は、高台の斜面を利用して、階段状にずれて重なって建てられている。鉄筋コンクリート造り、4階建。延べ床面積は566、6uである。

 帝国ホテルの設計のため、大正4年(1915年)に来日していたライトは、灘の酒造家・櫻正宗の8代目当主・山邑太左衛門(やまむらたざえもん)、別邸の設計を依頼される。
 大正7年(1918年)、設計は終了した。しかし、大正10年(1921年)7月にライトは帰国する。帝国ホテルの工事が着工時の予算の6倍になったことと、工事の遅延の責を負わされたのである。
 工事は、弟子の
遠藤新(えんどうあらた)(1889〜1951)と南信(みなみまこと)(1892〜1951)が行うことになり、大正12年(1923年)に着工し、大正13年(1924年)、竣工する。

 ライトは、帝国ホテル旧山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館)、自由学園明日館(みょうにちかん)の設計をしたが、いずれも、完成した姿の写真は見ただろうけれども実物を見ることはなかった。

 フランク・ロイド・ライト、帝国ホテル、自由学園明日館については、目次6、平成24年5月19日、目次8、平成24年11月4日、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。
 遠藤新については、目次2、平成23年11月5日、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。

 その後、旧山邑邸は所有者が変わり、昭和22年(1947年)、淀川製鋼所の所有となった。
 昭和49年(1974年)、国重要文化財に指定される。
 平成元年、淀川製鋼所の迎賓館として、一般公開された。

 「車寄せ」の大谷石は彫刻が施されている。小さな窓の桟に、飾り銅板が嵌め込まれている。銅板は、植物の葉をモチーフにしていると思われる。緑青(ろくしょう)が発生して、鮮やかな緑色を呈している。



 玄関の前に、大谷石の水盤が設けられている。竣工当時は、雨水が屋上から水盤に流れるようになっていた、と説明されている。
 ライトは、開口部の高さを抑えて、庇を水平に深く張り出し、水平線を強調した。


玄関


 玄関を入り、大谷石の階段を上がり、2階の応接室へ入る。



2階 応接室



 南側のバルコニーに向って、飾り銅板付きの扉がある。大谷石の柱は彫刻が施されている。窓の下に、作り付けの長椅子が配置され、両側には、マホガニーによる飾り棚が設えられている。
 壁の上に、通風口が作られ、それぞれに扉が付いている。
 ライトの作品に見られる、モールディングと呼ばれる縁取りや枠取りによって、瀟洒で端正な部屋が造られた。

 大谷石の暖炉が設けられている。大谷石は暖かみがあり、心が落ち着く。

 三角形のテーブル、幾何学的な形の椅子、電気スタンドは、ライトのデザインを模して、淀川製鋼所が製作したものである。

 3階へ上がる。階段も廊下も大谷石で造られている。現在は、階段や廊下に絨毯が敷かれているが、一般公開されるまでは、大谷石はむき出しのままであったと思う。


3階 廊下


 館内を歩いていると、部屋の中にいて、同時に外にいるような不思議な感覚を覚える。これは、自由学園明日館を見学したときにも覚えた感覚である。表面が自然の状態に近い凸凹のある大谷石を多用しているためと思われる。
 暖かく、柔らかい大谷石に囲まれていると、気持ちも柔らかく解きほぐされていく。

 3階の廊下の西側は、大きなガラス窓になっている。幾何学的な桟に飾り銅板を使用している。



 反対側の3段の階段を上がると、三間の畳敷きの和室になっている。和室は、ライトの設計にはなかったが、施主の要望で実現されたといわれている。
 欄間の装飾
や、下地窓(したじまど)を模した小窓にも飾り銅板を用いている。和室だけれども和風のデザインに囚われないことに、「阪神間モダニズム」を感じる。



 4階は食堂である。天井に通風口として三角形の小窓が設えられている。
 この部屋は、縁取りや枠取りの役割から解き放たれたラインが、壁から天井に伸びて、美しいラインを描く。モールディングによって、部屋は、美しく、清潔で、清々しい雰囲気に満ちている。


4階 食堂





 ライトのデザインの美しさに感動し、美しい建物を遺してくれたライトに感謝の気持ちが湧き起こる。





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