10 名建築を訪ねるー5  伊東忠太の作品


・平成25年1月6日(日) 西本願寺伝道院 祇園閣(京都市)

 明治、大正、昭和の三代に亘って活躍した建築家・伊東忠太(いとうちゅうた)(1867〜1954)の作品は多い。その中から伊東忠太が、浄土真宗本願寺派第22世法主・大谷光瑞(おおたにこうずい)(1876〜1948)と実業家・大倉喜八郎(おおくらきはちろう)(1837〜1928)の依頼を受けて設計した作品4ヶ所を訪ねる。

 JR京都駅烏丸(からすま)中央口を出て20分程歩く。堀川七条に建つ西本願寺の巨大な御影堂(ごえいどう)が見えてくる。
 その前を走る交通量の多い堀川通りから東側に入ると、堀川通りと平行して道幅の狭い油小路通りがある。油小路通りは、両側に、仏壇、仏具の店が並ぶ静かな通りである。歩いていると、右側に並んでいる店の向こうに、忽然とドーム屋根が見えてきた。辺りに異彩を放っている。近づくに連れて赤煉瓦の建物が現れた.。油小路通りと、やはり仏壇、仏具の店が並ぶ正面通りが交差する十字路の角に建っている。西本願寺伝道院である。


西本願寺伝道院(旧・真宗信徒生命保険会社) 明治45年(1912年)竣工 国重要文化財


西本願寺伝道院


油小路通りから見た伝道院


 煉瓦造り2階建ての建物は、西本願寺の信徒のための保険会社の社屋であった。現在は、西本願寺の僧侶の研修施設として使用されている。内部は非公開である。

 一つの建物に様々な国の建築様式を取り入れた不思議な建物である。
 通りの角に出入り口を設けるのは、まだ当時は珍しかったと思われ、斬新なものを感じる。しかし、出入り口から立ち上がって頂いている銅板葺のドーム屋根はイスラム寺院のようである。
 赤煉瓦の壁面に白い石のバンドを巡らせているのは英国式である。ドーム屋根の花頭窓(かとうまど)、軒周りの石造のブラケット(持ち送り)は、日本の建築様式である。
 建物の東側を正面通りから眺めると塔屋が見える。イギリス植民地時代のインドの邸宅を彷彿させる。


正面通りから見た伝道院


 玄関の階段の左右の親柱の上に、阿(あ)、吽(うん)の獅子像が置かれている。しかし、獅子には違いないのだが、一対の獅子はどちらも頭が押しつぶされたような形であり、阿の形の獅子は舌が垂れている。


阿吽の獅子


 建物の周りに立つ石柱に、実在しない鳥や動物の石像が載っている。象に似ている動物も翼が生えている。みんな可愛い。
 霊獣や怪獣が建物を護っている。
 これらは、伊東忠太が作り上げた空想上の鳥や動物である。伊東忠太は、妖怪や空想動物を好み、『怪異図案集』を著している。
 建物のあちらこちらに配置されている妖怪や空想上の鳥や動物を見るのも、伊東忠太の作品を見学する楽しみである。


油小路通り




 施工は竹中工務店が請け負った。
 竣工から長い年月が経ち、建物の内外に傷みが生じてきた。再度、竹中工務店が請け負って、大規模な耐震及び保存修復工事を行った。工事は長期間に及び、平成23年(2011年)に完了した。

 昨年平成24年(2012年)に、宗祖親鸞聖人(1173〜1262)の750回大遠忌法要が行われた。伝道院は、竣工当時の甦った姿で法要を迎えることができた。また、伝道院は、昨年、竣工から100年目を迎えた。


 京都市下京区正面通油小路玉本町196
 JR京都駅下車
 

 いったん京都駅に戻り、地下鉄烏丸線の京都駅から地下鉄に乗り、四条駅で降りる。地下街を20分程歩いて地上へ上がる。四条河原町交差点に出る。
 四条通りは、沢山の車や人で溢れていた。
鴨川に架かる四条大橋を渡る。南座の横を通り、400m程歩く。八坂神社の前に着く。
 八坂神社の石段は、おおぜいの人が上がったり、下りたりして行き交っている。石段は上がらないで右へ曲がり、最初の角を左へ曲がる。

 大雲院の駐車場の横の緩やかな坂を上る。右手に、大雲院の敷地内に建つ祇園閣が見えてきた。


祇園閣 昭和2年(1927年)竣工 国登録有形文化財


祇園閣


 大倉喜八郎は、京都別邸の設計を伊東忠太に依頼した。本館の「真葛荘(まくずそう)」と祇園閣が完成する。
 祇園閣は望楼として建てられた。鉄骨鉄筋コンクリート造り三層建。高さ36mである。銅板葺の屋根は祇園祭の山鉾を模している。大倉喜八郎がこのデザインを依頼したといわれている。
 鉾の先には、羽ばたく鶴を載せている。喜八郎の雅号・鶴彦に由る。意表をつく建物であるが、周囲の景観に不思議によくとけこんでいる。

 現在、当時の大倉家の敷地と、「真葛荘」と祇園閣は、大雲院の所有となっている。
 龍池山
大雲院(だいうんいん)は、天正15年(1587年)創建の浄土宗系単立寺院である。
 大雲寺の寺内は通常は非公開である。今日も、山門の扉は開いているが、柵が立っていて境内にも入れない。そこで、駐車場に入らせてもらって、祇園閣は、遠くから望むことになった。

 寺域には、織田信長(1534〜1582)、信忠(1557〜1582)親子の墓所がある。また、石川五右衛門(?〜1594)の墓所もある。稀に、一般公開しているようである。祇園閣の内部と、現在は大雲寺の書院となっている国登録有形文化財の「真葛荘」を拝観したいと思う。


 京都市東山区祇園町南側594−1 大雲寺内
 地下鉄烏丸線四条駅 京阪電車祇園四条駅 阪急電鉄河原町駅下車


・同年2月23日(土) 大倉集古館


大倉集古館


 大倉集古館は、鉄骨鉄筋コンクリート造り2階建、昭和3年(1928年)の竣工。ホテルオークラ東京本館と向かい合って建っている。平成10年、国登録有形文化財に指定された。 

 大倉喜八郎は、明治維新以来の日本の文化財の海外流出を憂えて、50年以上に亘って文化財を蒐集した。海外流出は、廃仏毀釈に因ることが多かった。仏像、仏画、経典等の寺宝と文化財の収蔵、陳列のために、大正6年(1917年)、初代の大倉集古館を建設した。わが国最初の私立美術館である(廃仏毀釈については、目次5、平成24年5月4日参照)。
 しかし、大正12年(1923年)、関東大震災により、建物と陳列中の収蔵品を失った。

 喜八郎は、新しい大倉集古館の設計を伊東忠太に依頼し、耐震耐火の建物を建築した。
 喜八郎没後も、長男・
喜七郎(1882〜1963)がその遺志を継いで、自ら蒐集した名品、特に近代絵画を多数寄付して収蔵品の充実を計った。

 現在、国宝3件、重要文化財13件、重要美術品44件を含めて、アジア各地域からも蒐集したものを合わせて約2500件の美術、工芸品及び約1000部の漢籍を収蔵している。収蔵品は順次公開されている。 

 伊東忠太が設計した大倉集古館の外観は、中国の古い宮殿の建築様式で建てられた。
 緑青(ろくしょう)が発生した銅板葺の屋根は、翡翠のような美しい碧(みどり)色の屋根である。大棟(おおむね)から下った隅棟(すみむね)は、先端が反り上がって優美な姿を見せている。

 大棟の両端に、日本の鯱(しゃちほこ)の原型である、中国の「吻(ふん)」が載っている。獰猛な顔付きをした空想上の魚である。「吻」が両端から棟を吐き出している。また、棟を咥(くわ)えているようにも見える。
 隅棟にも、それぞれ「吻」が載っている。四つの「吻」は、「気(き)」を吐いている。吐き出された「気」は、屋根の先端から宙に巻き上がる。
 屋根の先端の、巻き上がった「気」の下に「吻」が載っている。更に、その下にも「吻」が潜んでいる。








 屋根に載っている空想上の魚は、火災のときに水を吹き上げ、火災から家を守ると伝えられている。
 大倉集古館は、多くの「吻」に護られている。

 開館時間の10時になって、扉が開いた。
 江戸時代の製作になる一対の仁王像が立っている。他に、銅製の仏像が並んでいる。右へ曲がり、館内に入る。
 「画の東西 近世近代絵画による美の競演・西から東から」と題して、収蔵作品の中から絵画の展示が行われていた。
 

 1階展示室の中央に近い場所に、国宝「普賢菩薩騎象像」が、ガラス張りの陳列台に納められている。12世紀の平安時代後期の作品であると推定されている。これは常時陳列されている。
 聖獣の象の背に乗って、蓮華座に結跏趺坐の姿勢で合掌している普賢菩薩の木像である。
 説明書によると、全体の高さ140cm、像の高さ55cmである。

 端正で気品がある。普賢菩薩は慈悲を表すといわれているが、やや伏目にしている優しい顔である。
 デフォルメされたところがない。作者が何も主張せずに無心になって製作したことが窺われる。

 どの角度から見ても神々しい姿は、静謐であり、温かさを湛えている。見ていると胸に温かいものが満ちてくる。いつまでも拝観していたい気持ちになった。

 石造りの階段を上がる。階段の親柱の上に、一対の狛犬が座っている。

 2階展示室は、太い柱が並び高い天井を支えている。柱頭にも「吻」が見える。館内の「吻」も奇怪な顔と胴体を持つ怪魚である。天井のあちらこちらから、怖い顔をした龍が睨みつけている。

 横山大観(1868〜1958)の屏風画「夜桜」が展示されていた。
 月は山の端(は)から少し顔を出している。篝火に照らされて満開の桜の花が浮かび上がっている。花見の人々のざわめきが聞えてくるような明るい絵である。

 展示室を出て、2階テラスに入る。大倉集古館が竣工した当時は周囲に高い建物がなかったので、テラスから東京湾が見えたといわれている。
 大倉集古館は、2階テラスを除いて館内の写真撮影は禁止されている。

 テラスに立っていると、中国の王朝時代、宮廷に出仕する高官の屋敷の内に立っているような気分になる。


2階テラス





 外に出て建物の裏にまわる。芝生の上に、高さ6、48m、朝鮮・高麗時代(918年〜1392年)初期の製作と推定されている五層の石塔他が展示されている。


石塔


 大倉財閥の設立者であった大倉喜八郎は、帝国ホテルも所有していた。
 
帝国ホテルを新しく建設するについて、アメリカの建築界に知悉していた当時の帝国ホテルの支配人・林愛作(1873〜1951)の推薦があったアメリカ人建築家・フランク・ロイド・ライト(1867〜1959)に設計を依頼する。
 ライトは、大正4年(1915年)に来日し、設計に執りかかった。設計が終わり、工事が始まったが、
大正10年(1921年)7月にライトは帰国する。帝国ホテルの工事費が着工時の予算の6倍になったことと工事の遅延の責を負わされたのである。

 帝国ホテルの工事は、ライトの弟子の遠藤新(えんどうあらた)(1889〜1951)が引き継いだ。
 帝国ホテルは、ライトが離日してから2年後の大正12年(1923年)に完成する。9月1日、落成記念披露宴の準備をしている最中に、関東大震災が起こった。

 ライトは、ロス・アンジェルスで関東大震災のニュースを聞いた。ニュースは、東京と横浜は壊滅したと報じている。帝国ホテルについての報道はなかった。
 ライトは、関東大震災のニュースを聞いて以来、帝国ホテルのことが心配で、夜、眠れなくなっていた。
 地震発生から10日目に、大倉喜八郎が発信した電報を受け取る。
 電報には、次のように記されていた。

 「ホテルはあなたの天才の記念碑として損傷なく立ち、罹災者数百人を完全に維持された設備により介護。祝す。大倉、帝国ホテル。」

 ライトは、日本が地震国であることを熟知していた。帝国ホテルの設計にあたって、耐震の様々な技術と工法が研究されていた。
 また、ライトは、地震に伴う火災の発生を予測して、防火に備えて水を溜めておくことが必要であることを考慮し、ホテルの前庭に大きな貯水槽の池を設計した。池には屋根の雨水を溜めることとした。
 帝国ホテルの中庭、テラス、池の水が大勢の人たちを救助したのである。

 喜八郎の自邸と美術館は倒壊し、美術館に陳列中の収蔵品は失われた。また、喜八郎は多くの事業に関与していたから、莫大な損害を蒙ったものと思われる。混乱と失意の中にあってもやるべきことが山積していたことであろう。
 それにも拘らず、大変な慌しさの中から電報を発信したと思われる。
 簡にして要を得た電文は、ライトが心配していることを察し早く安心させようとする配慮が窺え、ライトへの尊敬と温かさに溢れている。
 大倉喜八郎の偉大さに深い感動を覚える。

 フランク・ロイド・ライト、帝国ホテルについては、目次6、平成24年5月19日、目次8、同年11月4日、目次9、平成25年1月5日、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。
 遠藤新については、目次2、平成23年11月5日、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。


 東京都港区虎ノ門2−10−3
 地下鉄南北線六本木一丁目駅 地下鉄日比谷線神谷町駅 地下鉄銀座線溜池山王駅下車


・同年3月9日(土) 築地本願寺


築地本願寺


 築地本願寺が建つ光景は、日本ではなくインドの街の光景のようである。
 建物は、インド仏教建築の特徴であるアジャンター式の円形のドームを中心に、左右に仏舎利塔(ストゥーパ)を配している。
 円形のドーム屋根の妻側は、菩提樹の葉をモチーフにした輪郭であり、中央は蓮の花を表している。

 昭和9年(1934年)竣工。鉄骨鉄筋コンクリート造り、地下1階、地上2階建て。約20、000uの境内に建つ、間口87m、奥行き50m、建築面積6、500uの巨大な寺院である。

 本堂へ上がる階段の親柱に一対の獅子が載っている。獅子には翼が生えている。


 

 


 階段を上がる。本堂の扉は鉄とガラスの二重になっている。扉の上に、三つの花頭窓が並んでいる。いずれもステンドクラスが嵌め込まれている。

 扉を開けて本堂に入る。金箔が張られ、金色に燦然と輝く正面に阿弥陀如来が安置されている。黒漆塗りの床である。
 本堂は広く、天井が高い。巨大な白亜の列柱が高い天井を支えている。800人収容することができる外陣は畳がない。戦後、畳を撤去し、椅子席にした。

 本堂背面の上に、パイプオルガンが設置されている。寺院の外陣が椅子席であるのも珍しいが、パイプオルガンが設置されているのも初めて見る光景である。昭和45年(1970年)、寄進されたもので、旧西ドイツのワルカー社製で、3mから1cmまで、大小2、000本のパイプで構成されている、と説明されている。
 参拝や法要のときに演奏されるのだろうか。広い空間に響きわたるパイプオルガンの音色は荘厳なものだろう。

 築地本願寺の外観はインド仏教建築であり、本堂の外陣はキリスト教会のように椅子席で、パイプオルガンが設置されている。
 しかし、内部のその他は、和風の寺院建築の様式である。柱頭や梁には、様々な装飾が施されている。
 施工は松井組(現・松井建設株式会社)が請け負った。松井組の初代は井波の大工だった。柱頭や梁の装飾も井波の木工の彫師が行った。

 富山県東礪波郡井波町(いなみまち)は、現在も木工業が盛んな町である(井波町については、「奥の細道旅日記」目次27、平成17年10月29日参照)。 

 本堂の扉の外側の左右に、1階へ下りる大理石の階段がある。
 左右の階段の親柱に動物の彫刻が載っている。左側の階段を、動物を見ながら下りる。鳩、牛、獅子、馬が載っている。



馬と獅子


 階段の「持ち送り」に2匹の猿が隠れている。


 1階に下りると、象が載っていた。



 築地本願寺の写真を見たとき、2頭の象が鼻を振り上げて咆哮しているような石像の写真があったが、その石像が見当たらない。辺りを見ながら、階段を上がり、2階の本堂の前に戻った。ちょうど本堂の前に職員がおられたので、2頭の象のことを尋ねた。
 職員は、「裏側の車寄せにあります。普段、一般の方は入れない所ですので、ご案内します」と言って、先に立って歩いた。正面の階段の下が「車寄せ」だと思っていたが、境内に多くの車や観光バスが入って来るので、現在、「車寄せ」は裏側に変えたのだろうか。
 いったん本堂に入り、本堂の横の出入り口から向う。

 2頭の象が、「持ち送り」を持ち上げているような石像だった。 



 浄土真宗本願寺派第22世法主・大谷光瑞は、明治32年(1899年)1月から5月まで清国を旅行した。同年12月からスリランカ、インドを経て明治33年(1900年)2月、ロンドンに着く。その後、ヨーロッパ各国を訪問し、各国の宗教事情と慈善事業等を視察した。

 ロンドン滞在中に、光瑞は、ヨーロッパ列強の各国の探検家が中央アジアの砂漠の秘境を調査、発掘し、大きな成果を挙げていることを知った。しかし、光瑞は、未知の秘境を探るだけの探検に疑問を持つ。
 光瑞は宗教家として、次の5項目を目的にして自身も西域を探検することを決意する。

 1、仏教東漸の経路の解明
 2、仏教遺跡の巡歴
 3、イスラム教徒による仏教弾圧の状況の研究
 4、西域における経典、仏像、仏具等の蒐集、それによる仏教教義の研究及び考古学上の研鑽
 5、地理学、地質学、気象学的研究 

 明治35年(1902年)、光瑞他4名の同行者はロンドンを出発した。日本への帰途を利用して中央アジアを探検する旅だった。同行者4名は西本願寺の信徒である。大谷探検隊の第一次であった。この後、第二次、第三次と続いた。
 第一次、明治35年(1902年)〜同38年(1905年)、第二次、同41年(1908年)〜同42年(1909年)、第三次、同43年(1910年)〜大正3年(1914年)である。光瑞は、第一次のみ参加した。

 現地に着いて調査を始めたが、先に発掘した探検家たちによって多くが荒らされていた。
 イギリスとフランスの探検家は、古文書を保管し、管理している男を脅しと懐柔によって従わせ、僅かの金額で略奪同然に膨大な漢文書、チベット語文書、古写本、絵画、古美術品を持ち帰った。
 ロシアとアメリカの探検家は、壁画を剥ぎ取って持ち帰った。

 大谷探検隊は、長期間、幾多の危険と困難に遭いながらも発掘作業を続けて、仏像や経典を買い求め、資料としての貴重な品々を多数蒐集した。

 大谷探検隊第一次と同じ明治35年(1902年)、伊東忠太はアジア、欧米に留学し、各地の建造物を視察していた。明治36年(1903年)、中国貴州省の駅で大谷探検隊の隊員と出会う。大谷光瑞と伊東忠太を結ぶ幸運な出会いであった。

 平凡社発行1991年6月号『太陽』に、巨大な建物の写真が載っている。
 西本願寺伝道院と同じように多くの国の建築様式を一つの建物に取り入れている。ヨーロッパの建物に、インド、イスラム寺院のドームや塔屋を取り込んでいる。
 各国の建築様式を、そのまま組み合わせたような建物であるから奇異な印象を与える。
 建物の下の段にあるテニスコートで、少年たちがテニスをしている。しかし、学校の制服を着てテニスをしている少年たちに動きが感じられない。
 不思議な建物と、不思議な少年たちが写っている写真は、図像学の資料を見ているようであり、夢の中のできごとのようでもある。モノクロの写真ということもあるのだろうが、初めてこの写真を見たとき、非現実的な感じがした。

 建物は、明治42年(1909年)、六甲山の中腹に建てられた、地下1階付き木造2階建ての大谷光瑞の別邸であった。二楽荘(にらくそう)と名付けられた。
 当初、設計は西本願寺の営繕担当の鵜飼長三郎であり、伊東忠太は顧問であると公表されていた。忠太は、二楽荘を「本邦無二の珍建築」と評していた。
 ところが、昭和16年(1941年)発行の『伊東忠太建築作品集』には、二楽荘は伊東忠太の作品であることが明記されている。

 光瑞は、二楽荘に、アラビア室、イギリス室、印度室、支那室を造り、それぞれの国で買い求めた家具、調度を置き、美術品を飾った。
 ヨーロッパ式の庭園を造り、温室、果樹園、天候観測所等も併設された。果樹園でメロンを作り、温室で蘭を栽培した。
 テニスコートにいた少年たちは武庫(むこ)中学の生徒と思われる。武庫中学は文部省認可の中学校ではなく、光瑞の私塾であった。光瑞は、武庫中学で英才教育を行った。大谷探検隊の隊員には武庫中学出身の者も加わっていた。

 二楽荘を訪れる人は、六甲山の麓と二楽荘の間に道がないので、そのために敷設されたケーブルカーを使うしかなかった。
 下界から隔絶された天上の館といった趣であっただろう。

 光瑞は、日露戦争の戦費調達に協力し、500万円の国債募集に応じた。
 巨額の国債に加えて、三次に亘る大谷探検隊の費用、二楽荘の建築と、それを維持する費用のために西本願寺の財政は逼迫していた。

 光瑞は、責任を取って、大正3年(1914年)5月、西本願寺法主を引退する。光瑞に子がなかったため、次の法主は弟の光明(こうみょう)が継職すべきところ、光明が固辞した。光明の長男・光照(こうしょう)(1911〜2002)は僅か4歳であったため、昭和2年(1927年)、16歳になって、光照が第23世法主を継職した。

 二楽荘の土地と建物、付属施設、家具、調度、美術品は、売却された。大谷探検隊の将来品の一部も売却された。武庫中学は廃校となった。その後、大谷探検隊の将来品の大部分は一括売却された。
 二楽荘は、昭和7年(1932年)10月、不審火により焼失する。

 光瑞は、ヨーロッパ、アジア歴訪の旅に出た。アジアへの布教活動を積極的に行い、布教の拠点としてアジア各地に西本願寺の別院や別荘を建てた。
 光瑞が滞在する地に、大谷探検隊の将来品の残りの一部が送られた。それらは、当時の朝鮮総督府博物館や旅順の関東軍博物館に収蔵された。布教の一環として多くの人の展覧に供するという目的があったのだろうか。
 これらの収蔵品は、戦争終結と同時に凍結された。現在、韓国国立中央博物館と旅順博物館の収蔵品となっている。
 日本政府や西本願寺は、韓国と中国に収蔵品の返還を要求したことがあるのだろうか。

 現在、国内では、大谷探検隊の将来品は、国立博物館と龍谷大学が収蔵している。

 太平洋戦争末期に唱えられた大東亜共栄圏は、東アジアに日本を盟主とした共同体を樹立するという構想であった。
 これとは異なり、光瑞は、「アジアはひとつ」という理念を持っていた。この理念を具現化した建築が、二楽荘、西本願寺伝道院、築地本願寺であった。
 築地本願寺は、インドの仏教建築の様式であるが、インドに存在する寺院と同じものではない。光瑞の理念を忠太が理解し、2人の思いが最後に到達した建物であると考える。


本堂のガラス窓


 東京都中央区築地3−15−1
 地下鉄日比谷線築地駅 都営地下鉄浅草線東銀座駅 都営地下鉄大江戸線築地市場駅下車






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