27 山中温泉 井波(寄り道) 山代温泉


・平成17年9月23日(金) 金沢


      ふるさとは遠きにありて思ふもの
      そして悲しくうたふもの
      よしや
      うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
      帰るところにあるまじや
      ひとり都のゆふぐれに
      ふるさとおもひ涙ぐむ
      そのこころもて
      遠きみやこにかへらばや
      遠きみやこにかへらばや


 室生犀星(むろうさいせい)(1889〜1962)が大正7年(1918年)に発表した詩集『抒情小曲集』に収められている「小景異情 その二」である。

 犀星は、明治22年、金沢に生まれる。父64歳、母32歳であった。生後すぐに他家に預けられ、7歳で真言宗高野山雨宝院(うほういん)の住職の養子となる。
 9歳のとき実父が亡くなる。入籍されていなかった実母は、犀星に別れを告げることなく犀星の前から姿を消す。実母は亡くなったと聞かされ、以後、犀星は二度と母に会えなかった、といわれている。

 『幼年時代』にその頃のことが書かれている。

 「私はどこかで母にあいはせぬかと、小さい心をいためながら、あるときはずっと遠くの町まで歩きまわるのであった。母と同じい年頃の女にあうと、私は走って行って顔をのぞき込むのであった。私のこの空しい努力はいつも果たされなかった。」

 犀星は、20歳まで雨宝院に住み、21歳のとき上京する。
 犀星の生い立ちを知ると、上記の詩が望郷の思いを歌っただけのものではなく故郷に対する複雑な感情も込められていることを思う。

 今日は、犀星が13年間起居した、犀川の河畔に建つ雨宝院を訪ねる。

 金沢駅に着き、金沢全日空ホテルで昼食を摂り、金沢都ホテルにチェックインする。2泊予約していた。
 駅前からバスに乗り停留所「片町」で降りる。犀川に架かる
犀川大橋を渡り右へ曲がる。雨宝院が建っている。


犀川と雨宝院


 雨宝院は、狭い土地に建っていた。雨宝院で過ごした日々が書かれている『幼年時代』『性に目覚める頃』を読むと、広い境内の描写があるが、その後、道路が拡張されて境内の敷地が削られたのだろうか。

 住職である養父が茶を点てる日は、井戸水はきめが荒くていけないということで、養父に頼まれて犀星は犀川の水を汲む。
 
『性に目覚める頃』から引用する。


 「東京では隅田川ほどあるこの犀川は、Pに砥がれたきめのこまかな柔らかい質に富んでゐて、茶の日には必要缺くことのできないものであった。私はそんなとき、手桶をもつて、すぐ磧へ出てゆくのであった。庭からPへ出られる石段があつて、そこから川へ出られた。
 この犀川の上流は、大日山といふ白山の峯つづきで、水は四季ともに澄み透つて、Pにはことに美しい音があるといわれてゐた。私は手桶を澄んだPにつき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。上流の山山の峯のうしろに、どつしりと聳えてゐる飛騨の連峯を靄の中に眺めながら、新しい手桶の水を幾度となく汲み換へたりした。汲んでしまつてからも、新しい見事な水がどんどん流れてゐるのを見ると、いま汲んだ分よりも最(も)つと鮮やかな綺麗な水が流れてゐるように思つて、私は~經質にいくたびも汲みかへたりした。」


 雨宝院の横の石段を下り川岸に降りる。犀川は、大都市の市街地を流れる川とは思えないほどきれいな水が流れている。

 『抒情小曲集』に「犀川」と題する美しい詩が収められている。


      うつくしき川は流れたり
      そのほとりに我は住みぬ
      春は春、なつはなつの
      花つける堤に坐りて
      こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
      いまもその川のながれ
      美しき微風ととも
      蒼き波たたへたり



・同年9月24日(土) 山中温泉 大聖寺

 金沢駅から特急に乗り加賀温泉駅で降りる。駅前からバスに乗る。約30分で山中温泉のバスターミナルに着く。
 バスを降りて、両側に旧い木造の建物が建つ道路を10分程歩く。北國銀行の角を右へ曲がる。共同湯である男性専用の
「総湯・菊の湯」ある。


総湯・菊の湯


 「総湯・菊の湯」は、瓦葺、白壁の風格のある建物である。50m程離れて、女性専用の「菊の湯」と、山中節の唄と踊りが観賞できる「山中座」が並んで建っている。
 「総湯・菊の湯」に入る。風呂場は広く、深さは90cmあり、立って入る。カルシウム・ナトリウム硫酸塩泉のお湯は熱い。


      山中(やまなか)や菊はたを(お)らぬ湯の匂ひ(い)


 江戸から同行していた曾良は、金沢で体調を崩し、その後回復しなかった。そこで先に旅立つことにする。以後は、金沢から案内して来た芭蕉の弟子の一人である立花北枝(たちばなほくし)が同行する。


 「曾良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、

      行き行きて倒れ伏すとも萩の原   曾良

と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の憾(うら)み、隻鳧(せきふ)の別れて雲に迷うがごとし」『おくのほそ道』


      今日よりや書き付け消さん笠の露


 両側に土産物屋、飲食店、山中漆器、九谷焼の店等が並ぶ賑やかな通りを歩く。500m程歩き左へ曲がり、鬱蒼とした樹木の間の坂道を下る。鶴仙渓(かくせんけい)に着く。大聖寺川(だいしょうじがわ)の流れによって作られた渓谷である。

 大聖寺川に総檜造りの「こおろぎ橋(ばし)」が架かっている。橋の上から鶴仙渓の、水の流れに削られた奇岩、巨石や深い淵を眺める。


こおろぎ橋




鶴仙渓


 橋を渡り左へ曲がり川岸へ下る。杉林を横切り川岸に出る。「こおろぎ橋」を下から見る。新緑や紅葉の頃は、一段と美しい光景を見ることが出来るだろうなと思う。


こおろぎ橋



 木立の間から見える水の流れに沿って川岸の遊歩道を歩く。




遊歩道


 30分程歩く。高い場所に架かる朱色の「あやとりはし」が見えてきた。
 「あやとりはし」を渡る。S字形に大きくカーブして、上り下りの高低がある。橋の中ほどから下を見る。濃緑の樹木の間を流れる大聖寺川が遥か下に見える。反対側に渡って、戻る。左へ曲がる。
 平成3年竣工の「あやとりはし」は、草月流前家元、映画監督・
勅使河原宏(てしがわらひろし)(1927〜2001)のデザインによる。


あやとりはし




あやとりはし



 川幅が広くなってくる。30分程歩く。明治43年(1910年)建築、昭和29年(1954年)にこの場所に移築された芭蕉堂が建っている。芭蕉を祀る宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根を持つ小さな建物である。

 遊歩道が終わる。坂を上り道路に出る。昭和10年(1935年)竣工の黒谷橋(くろたにはし)が架かっている。橋の欄干の装飾は、幾何学的なデザインのアールデコである。


黒谷橋



 バスターミナルに戻り大聖寺行きのバスに乗る。20分程乗り停留所「大聖寺駅」で降りる。
 1キロ程歩く。曹洞宗熊谷山
全昌寺(ぜんしょうじ)に着く。
 この辺りは、他に六つの寺院、一つの神社が並び、「山の下寺院群」と呼ばれている。「山の下寺院群」の「山」は、背後の錦城山(標高67m)を示していると思われる。錦城山は、かつて大聖寺城があった所である。

 全昌寺に芭蕉と曾良は、一日違いでそれぞれ一泊している。
 山門の前を通り通用門から入る。拝観の受付の後、50代位の住職と思(おぼ)しき男性から「秋海棠(しゅうかいどう)の花が今日ギリギリ見られますから花も見て行ってください。」と声を掛けられた。花も見て行ってください、とは何と優しい言葉だろう、と思いながら境内に入る。


全昌寺 本堂


 「大聖寺(だいしやうじ)の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)といふ寺に泊まる。なほ加賀の地なり。曾良も前の夜この寺に泊まりて、よもすがら秋風聞くや裏の山、と残す。一夜の隔て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮(しゆれう)に臥(ふ)せば、あけぼのの空近う、読経(どきやう)声澄むままに、鐘板(しようばん)鳴りて食堂(じきだう)に入(い)る。」『おくのほそ道』


      庭掃きて出(い)でばや寺に散る柳


 芭蕉と曾良の句碑が立っている。芭蕉の句碑には「庭掃きて」、曾良の句碑には「よもすがら」の句が刻まれている。

芭蕉句碑 曾良句碑

 五百羅漢堂に入る。彩色された釈迦三尊、四天王、十大弟子、五百羅漢の総計五百十七体の仏像が安置されている。京都の仏工により製作され、慶応3年(1867年)に完成されたものである。
 本堂に入る。部屋も廊下もよく清掃され整然としている。芭蕉の弟子・杉山杉風(さんぷう)(1647〜1732)製作の芭蕉の木像がある。

 廊下を回り裏から外に出る。境内から裏山の斜面にかけて秋海棠が群生していた。明るい緑色の大きな葉を持ち、長い柄の先端に淡紅色の小さな花を付けている。


秋海棠


・同年9月25日(日) (帰京)

 ホテルで朝食後すぐ帰る。


・同年10月29日(土) 井波(寄り道)

 上越新幹線に乗り越後湯沢駅で降りる。ほくほく線に乗り換え高岡駅で降りる。
 駅前から加越能バスに乗る。50分程乗り停留所「井波」で降りる。

 寺院と見紛う風格のある建物が建っている。入母屋造りに高欄をめぐらせた宝形造りの楼閣をのせている。昭和9年(1934年)建築の旧加越線の旧井波駅である。昭和47年(1972年)加越線は廃線となる。現在、駅舎は井波物産展示館として利用されている。
 総檜造りの建物に入る。待合室だった部屋の高い天井は折上格天井である。平成8年、国登録有形文化財に指定された。

旧井波駅舎(現・井波物産展示館)





 瑞泉寺(ずいせんじ)に至る緩やかな坂を上る。
 井波は、瑞泉寺の門前町として発展し、木彫りの技術が伝えられた町である。通りの両側に木工彫刻を商う店や職人の仕事場が並ぶ。

 バスの停留所に干支の木彫りが施されている。それを見ながらゆっくり歩く。





 20分程歩く。石畳が敷かれた八日町通りに入る。瑞泉寺の参道になる。造り酒屋、袖壁を持つ旧い家等が並ぶ。表札も看板も全て木彫りである。









 木彫りの干支は、その家の主人の干支を彫っている、と説明されている。一つ一つ見ながら歩くと面白い。







 真宗大谷派井波別院瑞泉寺に着く。城壁のような石垣の間の石段を上る。


瑞泉寺 石垣


 巨大な山門に圧倒される。総檜の重層伽藍造り。24年の歳月をかけて文化6年(1809年)に完成した。山門に施された膨大な彫刻は、井波彫刻の技術の粋を集めたものである。


山門


 山門を潜る。正面の本堂と、左手に位置する太子堂の並外れて大きな建物に驚く。
 本堂は明治18年(1885年)、太子堂は大正7年(1918年)にそれぞれ再建された。太子堂も精緻な彫刻が施されている。


本堂






太子堂


 富山県に入ってから巨大な伽藍に圧倒されることが多かった。八尾の聞名寺(もんみょうじ)目次21、平成16年5月29日参照)、高岡の瑞龍寺(ずいりゅうじ)目次21、平成16年5月30日参照)、城端の善徳寺目次23、平成16年9月25日参照)等である。

 寛政4年(1792年)再建の勅使門、昭和8年(1933年)再建の鐘楼堂を拝観する。
 相当な樹齢と思われる松を見る。「昇竜の松」と名付けられている。


昇竜の松


 瑞泉寺を出て高岡に戻る。特急に乗り金沢駅で降りる。金沢都ホテルにチェックインする。2泊予約していた。


・同年10月30日(日) 山代温泉 那谷寺

 金沢駅から特急に乗り加賀温泉駅で降りる。バスに乗る。10分程で停留所「山代東口」に着く。バスを降りて10分程歩く。共同湯「山代温泉浴殿(よくでん)」に入る。
 広い浴室に直径6mの丸い大きな浴槽が二つある。泉質は、ナトリウム・カルシウム、硫酸塩泉となっている。ゆっくり入って温まる。

 共同湯を出てバスに乗る。10分程で停留所「那谷寺」に着く。バスを降りて300m程歩く。高野山真言宗那谷寺(なたでら)に着く。
 那谷寺は、養老元年(717年)開山、寛和2年(986年)、名称が那谷寺となった。芭蕉は、元禄2年(1689年)8月5日(太陽暦9月18日)那谷寺を訪れた。


那谷寺 山門


 山門を潜って参道に入る。すぐ左へ曲がる。平成2年に再建された金堂華王殿(こんどうけおうでん)を拝観する。金堂の左側から回り、寛永14年(1637年)に改築された国重要文化財の庫裏書院と寛永17年(1640年)に作られた庭園を見る。

 金堂に戻り、金堂の裏に広がる三尊石琉美園(さんぞんせきりゅうびえん)を見る。岩壁の前に池を配し、苔に覆われた庭園である。
 金堂の裏を回り、弘化4年(1847年)に移築された宝物館である普門閣(ふもんかく)に入る。休憩所になっているので少し休む。

 参道に戻り左へ曲がる。両側は杉林になっている。杉の根元は、ビロードのような美しい緑色の苔に覆われている。



 80m程歩く。左手に、「奇岩遊仙境」と呼ばれている白い奇岩、巨岩の岩山が現れる。岩山は、穴が開き、縦に割れ、洞窟がある。前には池が広がる。

奇岩遊仙境


 20m程歩き左へ曲がり石段を上る。岩窟中腹に建てられた舞台造りの大悲閣(だいひかく)拝殿に着く。拝殿の前を通り、岩窟入口の唐門(からもん)を潜る。本殿は岩窟内にある。拝殿、唐門、本殿は、国重要文化財である。


大悲閣拝殿


 岩に穿たれた穴を通り抜ける「胎内くぐり」を行い外に出る。反対側の坂道を下る。右へ曲がる。左手に広がる大きな池を見ながら歩く。ここまで来て、境内の広大さに気がついた。
 寛永19年(1642年)建立の三重塔が建っている。国重要文化財である。

 三重塔の前を通り展望台に出た。「奇岩遊仙境」のほぼ全景が見えた。那谷寺は、紅葉の名所であるが、紅葉には早かった。


奇岩遊仙境


      石山の石より白し秋の風


 季節を色で表わす言葉がある。青春、朱夏、白秋、玄冬である。青春、朱夏は解る。玄冬の「玄」は、「黒」の意味である。雪が降り積み、夜は長い。色のないモノトーンの世界を表わしているのだろうか。
 白秋の「白」は、霜、雪を示しているのではないかと思う。晩秋の初霜、初雪は、世界を薄っすらと白くする。

 これは人の一生についてもあてはまる。人生の盛りを過ぎて、頭に霜が降りるようになる。

 芭蕉は、旅も半ばを過ぎたことと、人生における「白秋」の時代とを重ね合わせたのではないかと思う。


・同年10月31日(月) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





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