11 近江八幡 木之本~内保町(滋賀県)


・平成25年5月1日(水) 近江八幡

 東京駅6時26分発の「ひかり」に乗る。米原駅に8時48分に着く。琵琶湖線に乗り換える。約20分で近江八幡駅に着く。
 駅前からバスに乗る。6年前に初めて近江八幡を訪れたことを思い出す。バスの窓から見える風景が懐かしい。10分程乗って停留所「大杉町」で降りる。
 (近江八幡については、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日及び同24日参照)
 

 停留所から少し後戻りして、日牟禮(ひむれ)八幡宮の鳥居を潜る。八幡堀に架かる白雲橋を渡る。やはり今度も橋から見た風景に驚いた。江戸時代の町に入り込んだような気分になった。


八幡堀


 橋の東側は白壁と杉板の土蔵が並び、かつて商品を積み降ろすときに使われた石段が残っている。西側は八幡堀川となって琵琶湖に通じる。
 八幡堀は、映画やテレビの時代劇のロケ地としてよく使われている。

 豊臣秀吉(1537~1598)の姉・ともの子である豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1568~1595)は、秀吉の養子になる。天正13年(1585年)、鶴翼山(かくよくざん)(272m)に八幡山城(はちまんやまじょう)を築く。以後、鶴翼山は八幡山と呼ばれる。麓に城下町を造り、通りを整然とした碁盤目状に造り上げた。
 城の堀である八幡堀を運河を建設して琵琶湖と繋ぎ、琵琶湖を往来する荷船を全て八幡堀に寄港させた。城下町は賑わい、繁栄した。
 また、秀吉が長浜城を築いたときに造った城下町に倣ったのか、規制を緩和した楽市・楽座(らくいち・らくざ)を施行し、自由商業都市として発展させた(秀吉、長浜城については、「奥の細道旅日記」目次34、平成19年3月24日参照)。

 日牟禮八幡宮の参道の両側には和、洋菓子の「たねや」の店舗がある。右側は和菓子、左側は洋菓子の店である。
 和菓子の店の隣に「たねや」が経営しているレストラン・
日牟禮茶屋がある。6年前の11月に来たときと同じ、このレストランで昼御飯を食べる。移築した農家を改造したレストランである。

 メニューを見て、「近江の里」を注文する

 初めに熱いほうじ茶と和菓子が出る。和菓子は、蓮根(れんこん)のでんぷんで作った餅である「蓮子(はすこ)」で、こしあんを包んでいる。味と歯触りは、わらび餅に似ている。
 次に錫のぐいのみに入った梅のゼリーが出された。

 料理が運ばれた。
 木の皮を曲げて作られた「輪っぱ」の大きな器二つと小ぶりの「輪っぱ」五つがお盆の上に円く置かれている。中央に、小鉢が載っている。
 大きな器の一つには、「竹の子のおこわ」が入っている。他に「湯葉入りのすまし」がある。

 五つの料理は、近江野菜を使った料理である。時計回りに説明があった。

      近江八幡特産の赤こんにゃくと近江牛のすき焼き。
      竹の子の、おかかまぶし
      厚揚げと小松菜の煮浸し
      丁子麩の芥子酢味噌和え
      蕗の山椒煮

 中央の小鉢には、鮎の稚魚である氷魚(ひお)の旨煮が入っている。
 もう一つの大きな器には近江牛のステーキが入っていた。 

 食事が終わると器が下げられ、お茶が入れ替えられた。それから再度和菓子が出された。小豆入りの葛餅だった。 

 前回にも感じたが、値段の割には豪華な食事ができた。今回も充分に満足する。

 八幡山は新緑が湧き立っている。


八幡山


 山上へロープウェーで上ることができる。日牟禮八幡宮の前を通って乗り場へ行く。
 ロープウェーが上がるに連れて、眼下に近江八幡の町が見えてきた。整然とした碁盤目状の町並みが残る旧市街の民家や寺の屋根は、上品で落ち着いた銀灰色(ぎんかいしょく)の八幡瓦で葺かれ、陽に輝いている。約5分で山上に着く。

 八幡山城跡(じょうせき)は、石垣が残っているだけである。


八幡山城跡 石垣



 山上を一周しながら、ゆっくりと出丸跡、西の丸跡、北の丸跡を回る。

 西の丸跡から琵琶湖が見えた。琵琶湖は美しい青い色を湛えている。対岸の山は比良山系で、頂上付近は雲に覆われていた。


琵琶湖


 北の丸跡からは重なる山が見える。手前の低い山は、織田信長(1534~1582)が天正4年(1576年)、安土城を築いた標高199mの安土山である。
 左手の湖は、琵琶湖最大の内湖である
西の湖(にしのこ)である。一番手前に、西の湖に通じる水郷地帯が見える。


安土山と水郷地帯


 山頂の本丸跡に、村雲御所瑞龍寺(むらくもごしょずいりゅうじ)が建っている。
 秀次没後、秀次の母・とも(1534~1625)は出家し、法名を日秀(にっしゅう)とした。京・嵯峨野の村雲に瑞龍寺を建立し、秀次の菩提を弔った。
 
昭和36年(1961年)、村雲からこの地に移築された。

 天正17年(1589年)、秀吉と側室・茶々(淀殿)(1569~1615)の間に男子が生まれる。秀吉は、自分には子ができないと思っていたので驚喜する。鶴松と名付けられるが、2年後の天正19年(1591年)に亡くなる。
 茶々は、2年後の元禄2年(1593年)、再び男子を産む。
秀頼(ひでより)と名付けられる。秀頼は順調に育つ。

 秀吉は、秀頼を後継者とすることに決める。それについて、甥の秀次を養子にしたことを後悔し、秀次の存在が邪魔になってくる。
 秀吉は、家臣に命じて、秀次の行状を調べさせ、罪状を積み重ねる。秀次の行動を針小棒大に暴き立てた面もあった。元禄4年(1595年)7月8日、謀反の嫌疑により秀次を高野山へ追放し、出家させる。
 秀頼の後継者としての地位を磐石なものにするために、同年7月15日、秀次に切腹を命じる。享年28歳であった。

 更に、将来に禍根を残さないことを理由に、同年8月2日、秀次の遺児・4男1女、正室、側室、それぞれの侍女、総数39名を三条河原の刑場で処刑した。

 ロープウェーで降りる。白雲橋を渡って右へ曲がる。150m程歩いて左へ曲がり、「新町通り」に入る。
 「新町通り」の両側は、往時の八幡商人の住居が並ぶ。国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。


新町通り


 豪商の屋敷を見ながら100m程歩く。直角に交差する通りに出る。朝鮮通信使が通った道であり、朝鮮人街道と呼ばれた京街道である。
 (朝鮮通信使、朝鮮人街道については、目次9、平成24年12月30日、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照)

 右へ曲がり100m程歩く。十字路に小幡町の信号がある小幡町通りを渡る。
 左の角のビルの1階に、以前にも食事したレストラン・
CAFE YAMAYA(ヤマヤ)がある。近江牛の牛丼とビーフカレーの店である。

 ここで初めて近江牛の牛丼を食べたとき、そのおいしさに驚いた。
近江牛の柔らかさと甘さに大ぶりに切ったタマネギから出る甘さが加わっている。手頃な値段にもかかわらず贅沢に作られた牛丼だった。

 今日は、近江牛と地元野菜を使った「贅沢カレー」をいただく。
 近江牛のカレーの他に、湯掻いた南瓜、ニンジン、グリーンアスパラガス、ブロッコリー、オクラがライスの上に載っている。近江牛は柔らかく、カレーも深い味わいがあり、牛丼と同じく、とてもおいしいカレーだった。

 初めて伺ったときに感じたが、ご主人は明るく気さくな人である。たまたま他の客が途切れたので、少しお話しすることができた。
 琵琶湖の西の
朽木(くつき)海津(かいづ)もいい所ですよ、と仰った。琵琶湖の周囲を巡りながら、いずれ訪ねたいと思った。

 店を出て、停留所「小幡町資料館前」からバスに乗り、終点の近江八幡駅で降りる。
 新快速に乗り、彦根駅で降りる。駅の近くの
ホテルサンルート彦根にチェックインする。3泊予約していた。


・同年5月2日(木) 木之本~内保町

 早朝、ホテルを出て、彦根駅始発6時31分の電車に乗る。終点の米原駅に6時37分に着く。米原駅始発6時50分敦賀駅行きの電車に乗り換える。木ノ本(きのもと)駅に7時15分に着く。

 木ノ本駅を出て右へ曲がる。少し歩いて左へ曲がり、地蔵坂と名付けられた緩やかな坂を300m程上る。北国(ほっこく)街道に入る。

 通りの反対側に、時宗浄信寺(木之本地蔵院)が建っている。木之本地蔵院は、眼の仏様、延命の仏様として霊験あらたかという木之本地蔵菩薩をご本尊とする。ご本尊は秘仏のため拝観できないが、その姿を写したといわれている地蔵菩薩大銅像が境内に立っている。地蔵菩薩大銅像は高さ6m。地蔵像では日本一の高さである。


地蔵菩薩大銅像


 木之本は、木之本地蔵院の門前町、北国街道の宿場町として賑わった。
 通りは、造り酒屋が建ち、千本格子、袖壁、虫籠窓の商家の旧い建物が並ぶ。北国街道の木之本宿だった頃の町並みが残っている。

 奥の細道を歩いていたとき、6年前の平成19年4月29日に北国街道のこの道を歩いた(「奥の細道旅日記」目次34参照)。
 その日は、余呉(よご)駅を朝6時30分に出発して、木之本を通り、近江長岡まで約30キロ歩いた。

 木之本地蔵院の境内を出て左へ曲がる。道が緩やかな下りになる。
 400m程歩く。
復元されたものと思われる道標(みちしるべ)の前に出た。
 「みぎ 京いせみち」「ひだり 江戸なごやみち」と刻まれている。ここは、北国街道と
北国脇往還(ほっこくわきおうかん)の分岐点である。北国脇往還は北国街道の脇道であり、木之本宿と関ヶ原宿を結んでいた。関ヶ原から先は大垣に通じている。左の道を選び北国脇往還を歩く。


分岐点(右、北国街道  左、北国脇往還)


北国街道


北国脇往還


 6年前も北国脇往還を歩く予定だった。ところが、北国脇往還は、じぐざぐに曲がり、近江長岡まで歩くには時間がかかりそうだったので、中心を通る国道365号線を歩いた。
 北国脇往還は、国道365号線と重なる所もあるが、芭蕉が歩いたと思われる北国脇往還を歩かないで近道をしたことに内心忸怩たるものがあった。
 奥の細道を歩き終わっても、それが気になっていた。また、北国脇往還は、
柴田勝家(1522~1583)が整備したと伝えられ、戦国時代の重要な道であったので、いずれ、木之本から関ヶ原まで歩き直そうと思っていた。

 しかし、北国脇往還のじぐざぐに曲がる道は分かりにくく、分りやすい本はなかった。
 その後、長浜市役所観光振興課で発行している
『北国脇往還ウォーキングマップ』が優れたマップであることを知った。
 長浜市役所観光振興課に電話して、マップのことを尋ねると、まだ在庫はあります、ということだった。そこで、返信用封筒を送りますので送っていただけませんか、とお願いすると、いいですよ、こちらから送ります、他にも観光案内のパンフレットを入れておきます、と親切に仰った。

 『北国脇往還ウォーキングマップ』は、すぐに届いた。他にも、沿道の名所、旧跡の案内書を沢山同封してくださっていた。ありがとうございました。
 マップは、確かに良く作られている。何度も繰り返される曲がり角を、詳細に図示し、説明している。懇切丁寧なマップである。実際に歩いて作成したものと思われる。これで、間違ったり、迷ったりしないで北国脇往還を歩くことができると思い、歩く日が待ち遠しくなってきた。

 今日は、この『北国脇往還ウォーキングマップ』を手に持って歩く。先を急ぐ旅ではないから、歴史の道である北国脇往還に沿った名所、旧跡をゆっくり楽しもうと思う。今日一日で関ヶ原までは歩けないから、歩き残してもそれはいずれ歩こうと思っている。

 分岐点から左へ曲がり北国脇往還を歩く。100m程歩いて右へ曲がり、100m程歩く。左へ曲がり、また100m程歩く。国道365号線に入る。800m程歩き、田部の信号を左へ曲がり、国道365号線と別れる。「持寺」の集落に入る。200m程歩き、右へ曲がる。両側は田畑が広がり、田植えを待つ水田は満々と水を湛えている。



 600m程歩き、「井口」の集落に入る。左へ曲がり200m程歩き、右へ曲がる。蛇行する道を歩く。両側は用水路が設けられ、余呉湖から引水した水が音を立てて流れている。


用水路


 風格のある旧い屋敷が建っている。



 天正11年(1583年)4月、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、2万の軍勢を引き連れて、この道を走った。

 標高421mの賎ヶ岳(しずがたけ)を挟んで、秀吉と柴田勝家は対峙していた。秀吉は一旦近江を離れ、美濃国に戻る。賎ヶ岳の北側で先鋒を務めていた勝家の甥・佐久間盛政(1554~1583)は、これを好機と捉え、大岩山の砦を攻略し、賎ヶ岳に近付いた。賎ヶ岳を陥落することは間近に思われた。
 動きがあったことを知った秀吉は、大垣から木之本まで13里(約50キロ)の道を5時間で駆け抜けた。申(さる)の刻(午後4時)に出発し、戌(いぬ)の下刻(午後9時)に木之本に到着した。「秀吉の大返し」、「美濃大返し」といわれている。

 秀吉は、先発隊80名を2組に分け、40名を長浜を通って木之本へ走らせ、途中の村から松明(たいまつ)を供出させた。もう1組の40名は、大垣から木之本までの街道筋の村に立ち寄らせ、戦が終わったら2倍の代金を払うことを村人に約束し、炊き出しと馬の糧秣を調達させた。

 午後9時に木之本に着いた秀吉は、木之本の町民にも松明を持たせた。美濃国に戻った秀吉が引き返してくるのは3日後と予測していた盛政は、夥しい松明の灯りに驚愕し、大軍が集結したと見誤り、退却した。
 谷崎潤一郎(1886~1965)は、『盲目物語』の中で、この時の様子を次のように著している。


 「江北の方ではその夜中(やちゆう)に美濃路よりつづく海道すぢや峰々山々にたいまつのひかりがあらはれて廿日の月しろをくらますほどに空をこがし、しだいに萬燈會(まんどうゑ)のごとくおびただしい數になりまして、ひでよし公が大柹(おほがき)より夜どほしでお馬をかへされたらしく、廿一日の暁天(げうてん)にあたつて餘吾(よご)のみづうみのかなたがにはかにさわがしく相成、玄蕃どのの御陣もあやふいと申してまゐりました。」


 盛政は、退却の途中、秀吉方に捕らえられ、京の市中を引き回され、斬首された。

 盛政の後方に布陣していた勝家は、負け戦になることは判っていたが、秀吉と戦い、討ち死にする覚悟であった。しかし、ここで戦死するのではなく、城に戻り、武士としての最期を遂げるべきであると、家老たちに諭される。
 勝家は、越前北ノ庄の城に戻る。

 城に戻った勝家は、浅井長政(あざいながまさ)(1545~1573)の遺児であり、妻・お市の方(おいちのかた)(1547~1583)の連れ子であった茶々江(ごう)の三姉妹を、秀吉を通して前田利家(1538~1599)に託し、三姉妹の安全を確保する。
 大勢の家臣たちの中から希望する者は、城から脱出させた。
 城に残った者たちは、城に収蔵されていた酒と食料で最後の酒宴を開いた。

 翌日、秀吉方の総攻撃があった。城に火を放ち、猛火に包まれた天守で勝家は切腹する。お市の方も共に自害した。

 織田信長の重臣であった柴田勝家を滅ぼしたことで、秀吉は、晴れて天下人(てんかびと)となった。
 北国脇往還は、「秀吉の出世街道」と呼ばれた。

 秀吉方で功名をあげた兵のうち、次の七人は、「賎ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」と呼ばれた。

   福島正則  加藤清正  加藤嘉明  脇坂安治  平野長泰  糟屋武則  片桐且元

 七人のうち、片桐且元(かたぎりかつもと)(1556~1615)は、秀吉没後、秀吉の子・秀頼(1593~1615)と徳川家康(1543~1616)が戦った慶長19年(1614年)の大坂冬の陣のとき、豊臣方を裏切って、徳川方に付いた。

 500m程歩く。井口郵便局がある。雨森芳洲庵を訪ねるが、北国脇往還から離れるので、郵便局に入って職員に道を尋ねる。職員は地図を広げて、丁寧に教えてくれた。ありがとうございました。
 100m程歩いて左へ曲がる。円満寺跡の美しい庭園を見る。200m程歩いて北国脇往還を離れる。「雨森(あめのもり)」の集落に入る。
 きれいな水が流れる用水路に鯉が泳ぎ、大きな水車が回っている。雨森芳洲庵に着く。



 江戸時代中期の儒学者・雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(1668~1755)は、寛文8年、現在の高月町雨森地区に生まれる。朝鮮語に堪能なことから長崎・対馬藩に仕え、朝鮮との外交交渉や貿易に携わった。
 江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書を持って来日した
朝鮮通信使に同行して、江戸へ赴いた。

 昭和59年(1984年)、雨森芳洲庵が建てられた。内部は、雨森芳洲の著作や朝鮮通信使の資料が展示されているが、中には入らなかった。建物の横を通り、清々しい庭園と簡素な建物を鑑賞した。

 門の傍に、亭々と若葉を茂らせている欅の木が聳えている。説明板があり、次のようなことが説明されていた。
 「槻(つき)の木十選」とあり、十選の中に、この木も選定されている。
 槻(つき)は、欅(けやき)の古名であり、高槻が改まって高月となったという高月町の名前の由来も書かれてあった。

 北国脇往還に戻る。左へ曲がり600m程歩く。左手に高時川が現れる。


高時川


 水の流れを見ながら堤防の上を歩く。300m程歩く。桜並木が始まる。堤防の右側の土手を降りて、真っ直ぐ歩く。国道365号線が走っている。反対側に渡る。

 八幡神社の前に、巨大な欅が立っている。この欅は、6年前の平成19年4月29日にも見た。「槻の木十選」に選定されている。


八幡神社のケヤキ


 横に案内板が立っていて、次のことが書かれている。

 「名称は、『八幡神社のケヤキ』。幹回り8、4m。高さ22m。推定樹齢300年以上。滋賀県天然記念物に指定されている。『野神(のがみ)ケヤキ』として崇められている。」

 田圃の間を歩いて、向源寺へ向う。
 15分程歩いて、高月町渡岸寺(どうがんじ)の真宗大谷派
向源寺(こうげんじ)に着く。山門の前にも欅が聳えていた。この欅も「槻の木十選」に選定され、神木(しんぼく)として大切に保存されている。


渡岸寺のケヤキ


 向源寺は、国宝・十一面観音像をご本尊としていることから渡岸寺観音堂と呼ばれて親しまれている。
 緑溢れる広い境内を歩く。正面に拝殿が建っている。その左隣に、十一面観音像を安置している収蔵庫が建っている。


向源寺


境内


 収蔵庫の中に入る。右手に、重要文化財の大日如来坐像が安置されている。
 左手に、十一面観音像が立っていた。一木(いちぼく)造り、像の高さ177、3cm。9世紀の平安時代前期の作と推定されている。
 像の周囲を回りながら拝観できるようになっている。

 左手に水瓶(すいびょう)を持つ。豊満な姿態に薄物を纏い、やや腰をひねっている官能的な観音像である。インドや西域の影響を受けているといわれている。
 目を伏せて、静謐に満ち、全てを受け容れるような大らかな表情である。
 白洲正子(1910~1998)は、
『かくれ里(ざと)』の中で、渡岸寺の観音像は、「近江で一番美しい仏像」と述べている。
 

 天正元年(1573年)8月、織田信長は越前・一乗谷へ侵攻する。一乗谷は焼き討ちにあい、焦土と化す。一乗谷城の城主・朝倉義景(あさくらよしかげ)(1533~1573)は、越前大野に逃れ、その地で自刃する。
 (一乗谷侵攻、朝倉義景について、「奥の細道旅日記」目次30、平成18年5月3日及び同目次31、平成18年7月16日参照)
 続いて8月27日、朝倉義景の盟友・浅井長政が城主である
小谷城に総攻撃をかける。浅井長政は小谷城で自刃する。享年29歳であった。 

 十一面観音像を安置していた寺院の住職と近在の住民たちは、小谷城の城下が信長によって一乗谷のように焼き尽くされることを恐れ、十一面観音像を搬出し土中に埋めて災禍を免れたと伝えられている。

 1200年もの長い間、あらゆる方向に顔を向け、衆生の苦しみを救わんとしている観音像の前に立ったとき、深い感動を覚えた。

 向源寺を出て左へ曲がり600m程歩く。国道365号線を渡って桜並木が続く堤防に戻る。右へ曲がり700m程歩く。阿弥陀橋の信号で、また国道365号線と合流する。高時川に架かる阿弥陀橋を渡る。
 6年前に阿弥陀橋を渡ったことは憶えていた。6年前は、阿弥陀橋を渡って、右にカーブする国道365号線を歩いた。
 今日は、橋を渡って、国道365号線と別れて400m程真っ直ぐ歩く。「馬上(まけ)」の集落に入る。

 馬上の道標が立っている。用水路は、大量の水が音を立てて流れている。


馬上の道標


 用水路を流れる水音を聞きながら歩く。
 用水路に沿って建つ民家は、用水路に降りる2、3段の石段を造り、用水路の流れを洗い場にしている。

 500m程歩き、山田川に架かる小さな本堂橋を渡る。300m程歩き右曲へがる。ここから真っ直ぐ1、6キロ程歩く。北国脇往還が国道365号線と合流する。反対側に渡らなければならないが、信号がなく、横断歩道もないので、そのまま400m程歩き、郡上の信号で渡る。200m程歩き、北国脇往還に入る。

 通りの角に、高札場(こうさつば)跡の小さな石碑が立っている。高札は、法令を板面に記して、通りに掲示して住民に周知させるためのものであった。明治時代初期まで行われた。
 隣接する建物は、紅葉屋という屋号を持つ速水家である。江戸時代の建物である。


高札場跡 速水家


 200m程歩く。三叉路に出る。小谷城城下の大谷市場跡である。ここでも用水路の流れに水車が回っていた。以前は、用水路の水を水車が田圃に汲み上げていたのだろう。


大谷市場跡 


 左へ曲がり150m程歩く。右へ曲がり、田畑の間に真っ直ぐに延びている道を歩く。
 豪快な山容の
伊吹山(いぶきやま)(標高1、377m)が見えてきた。


伊吹山


 700m程歩く。一面、緑色の麦畑の向こうに、標高495mの小谷山(おだにやま)が見えた。小谷山の中腹に小谷城が築かれていた(小谷山、小谷城については、「奥の細道旅日記」目次34、平成19年4月29日参照)。


小谷山(中央)


 この道は、織田信長の妹・お市の方(おいちのかた)が、永禄10年(1567年)、小谷城城主・浅井長政にお輿入れのときに通った道である。

 谷崎潤一郎の『盲目物語』は、昭和6年(1931年)に発表された。浅井長政に仕えた盲目の按摩・彌市が、お市の方の美しさを語ることで構成されている。
 古風な文体であるから、恰も戦国時代に生きた人の語りを聞いている思いがする。


 「わたくし生國(しやうごく)は近江のくに長濱在でござりまして、たんじやう(誕生)は天文にじふ一ねん、みづのえねのとしでござりますから、當年は幾つになりまするやら。左樣、左樣、六十五さい、いえ、六さい、に相成りませうか。左樣でござります。兩眼をうしなひましたのは四つのときと申すことでござります。はじめは物のかたちなどほのぼの見えてをりまして、あふみの湖(うみ)の水の色が晴れた日などにひとみに明(あか)う映(うつ)りましたのを今に覺えてをりますくらゐ。なれどもそののち一ねんとたたぬあひだにまつたくめしひになりまして、かみしんじんもいたしましたが何んのききめもござりませなんだ。おやは百姓でござりましたが、十のとしに父をうしなひ、十三のとしに母をうしなうてしまひまして、もうそれからと申すものは所の衆(しゆう)のなさけにすがり、人のあしこしを揉むすべをおぼえて、かつかつ世過ぎをいたしてをりました。とかうするうち、たしか十八か九のとしでござりました。ふとしたことから小谷(をだに)のお城へ御奉公を取り持つてくれるお人がござりまして、そのおかたの肝(きも)いりであの御城中へ住み込むやうになつたのでござります。」


 正字と旧仮名遣いの美しい文章で綴られている。漢字に仮名を振るだけではなく、仮名に漢字を振っているのも珍しい。
 仮名の多い流麗な文体が、お市の方の美しさを表している。

 弥市は、毎日、お市の方の肩や腰を揉む。お市の方の肌に触れる弥市の手の感触、さらさらと衣(きぬ)にすれて広がる絹糸のような髪、きゃしゃな骨ぐみ、城中の女たちの話などで、見えないながらもお市の方の美しさを知る。
 盲目であるから、このような高貴な女性の体に触れることができることを思い、盲目であることをありがたいと感じる。できることなら、一生、お市の方に仕えていたい、と思う。

 谷崎の生涯のテーマであった美しい女人崇拝の物語である。美しい女性に奉仕して、それが自身の喜びであることがこの作品でも描かれる。

 左へ曲がり350m程歩き、右へ曲がる。250m程歩く。伊部(いべ)本陣跡の前に出る。本陣を務めた肥田家の建物は当時のままである。

 200m程歩き、田川に架かる小さな橋を渡り100m程歩く。「山ノ前」の集落に入る。北国脇往還は左へ曲がるのだが、現在、田圃が出来て、北国脇往還が200m程消滅している。そこで、縦100m、横200m程の田圃を回り込むようにして歩く。

 田圃の間の道を何度か左右へ曲がりながら800m程歩く。「尊勝寺」の集落に入る。400m程歩き左へ曲がり、400m程歩く。「八島」の集落に入る。両側に、沢山の道標や、お地蔵様が並んでいる蛇行する道を1キロ程歩く。国道365号線に入る。

 300m程歩き、長浜市内保町に入る。午後4時になっていた。800m程歩き、内保東の信号を右へ曲がる。100m程歩くとバスの停留所「プラザふくらの森前」がある。この停留所に、長浜駅行きのバスが4時44分に来る。北国脇往還を歩くのは今日はここで止めて、停留所でバスを待つ。
 北国脇往還の残りは、いずれまた歩くことにする。


・同年5月3日(金) 近江八幡

 早朝、ホテルを出て、彦根発6時3分の電車に乗る。6時24分、近江八幡駅に着く。駅前からバスに乗る。
 一昨日、バスを降りた停留所「大杉町」を過ぎて更に5分程乗る。停留所「豊年橋」で降りる。「豊年橋」は、
水郷めぐりの手漕ぎ舟の発着所になっている。

 一昨日、八幡山から眺めた水郷の周囲の一部を、舟には乗らないで歩く予定である。
 水郷めぐりに使われる和船が幾艘も繋留されている光景を見ながら300m程歩き、右へ曲がる。水郷地帯に入る。細い水路から広々と開けた「北の庄沢」の横を歩く。枯れたヨシの間から春になって芽吹いた緑色のヨシが見える。



北の庄沢


 姿は見えないが、ヨシ原のあちらこちらから聞える鳥の大きな鳴き声は、子育てをしているオオヨシキリの声だろうか。突然、水鳥が水音を立てて飛び上がる。

 橋を渡って左へ曲がり、桜並木の「さくら堀」に沿って400m程歩く。右へ曲がり橋を渡る。西の湖園地(にしのこえんち)に入る。
 周囲を水郷に囲まれた島のような所である。西の湖に通じる水路を見ながら起伏のある遊歩道をゆっくり歩く。鶯が鳴いている。今年も鶯の声を聞くことができた。


西の湖園地


 後戻りする。水郷めぐりの舟が動き出す時間になったようで、船頭さんが漕ぐ舟が続いて現れた。



 細い水路の「さくら堀」を通る舟は、菜の花、タンポポが咲いている土手の横を通る。片側の桜並木の桜が満開の頃は、水郷めぐりの客は、桜の花の下を舟に揺られて行くのだろう。


さくら堀



・同年5月4日(土) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





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