12 福井 南今庄~杉津 平泉寺(福井県)


・平成25年9月16日(月) 福井

 天気予報は、今日、台風18号が東海地方に上陸すると報じていた
 東京駅6時26分発の「ひかり501号」は定刻に出発したが、新横浜駅を過ぎた頃から運行の速度が落ち、徐行運転を繰り返しながら進み、停車駅で長い時間停車し、停車駅でない駅で臨時停車したりして2時間半遅れで米原駅に着いた。

 米原駅に着いたものの、北陸本線が全線、運行を中止し、復旧はいつになるかわからない、と言われた。駅から見る空は晴れて、台風は通り過ぎたと思われるが、川の水位が上昇しているから運行できないのだろう。仕方ないので、駅の待合室でテレビの台風のニュースを見ながら復旧するのを待った。

 4時間半待ち、ようやく、一部の在来線の電車が動き出したので、その電車に乗り、その後、2回電車を乗り継いで、福井駅に着いたのは夜7時だった。
 東京から福井までは、いつもは3時間半で着くが、今日は12時間半もかかってしまった。米原から福井までは特急で1時間で行くが、これも今日は3時間もかかった。

 駅で特急料金の払い戻しを受け、駅前のユアーズホテルフクイにチェックインする。3泊予約していた。ユアーズホテルフクイは食事がおいしいので、福井を旅行するときはいつも宿泊することにしている。 

 明日は、今庄(いまじょう)と敦賀間の北陸本線旧線の廃線跡地の一部を歩く予定である。
 そこで、明日の準備のために、今日、今庄駅の近くに保存、展示されている、北陸本線旧線を走っていたD51(デゴイチ)と、今庄駅の構内の今庄機関区跡に残る、北陸本線旧線の遺構である煉瓦造の給水塔を見学する予定であったが、それができなかった。

 次回、福井へ旅行するとき見学しようと思っているが、それまで給水塔が保存されていることを願う(今庄については、「奥の細道旅日記」目次30、平成18年5月6日参照)。


・同年9月17日(火) 南今庄~杉津

 朝食後、ホテルを出る。福井駅8時4分発の敦賀行の電車に乗る。今庄駅に8時40分に着く。今庄駅を過ぎて、電車は築堤を走る。次の南今庄駅に8時43分に着く。南今庄駅は無人の駅である。


南今庄駅前


 ホームの石段を下りて、線路に平行して走る県道207号線へ入る。県道207号線は北陸本線旧線の廃線跡地である。鹿蒜川(かひるがわ)に沿った築堤の旧線は県道に転用された

 左へ曲がり、右手に流れている鹿蒜川と線路の間の県道を歩く。500m程歩く。北陸本線の電車は左にカーブして、一旦、小さなトンネルを潜り、次に、長さ13、870mの北陸トンネルに入る。
 北陸本線の線路と別れ、500m程歩く。下新道の集落に入る。右手に、鎮守の杜に囲まれた田口神社が建っている。長い参道は県道(旧築堤)によって分断されている。

 真っ直ぐに延びる道を歩く。この道を蒸気機関車が走っていた。
 台風一過の空は晴れ渡り、美しい青い空が広がっている。日射しの強さは夏と変わらないが、風は冷たい。昨日の強い雨と風で、黄金(きん)色に色づいた稲がなぎ倒されている。


県道207号線(北陸本線旧線廃線跡地)


 500m程歩き、上新道の集落に入る。ここで県道から離れて、右側の坂を下り集落の旧道を歩く。道は旧道らしく緩やかに蛇行している。両側には、風格のある広壮な屋敷や蔵が建っている。


上新道集落




 500m程歩く。T字路に出る。左へ曲がり県道に戻る。ここは北陸道の追分(分岐点)だった地点である。説明板が立っていて次のようなことが説明されていた。

 「奈良時代、都から越の国(北陸)に入る旅人は、必ずこの上新道を通った。敦賀から杉津(すいづ)を通って山中峠を越える。また、敦賀から木ノ芽峠を越えて、二ツ屋集落を経て、いずれもここへ出る。ここは追分口にあたる。」


分岐点(右、山中峠  左、木ノ芽峠)


木ノ芽峠へ向かう道


山中峠へ向かう道


 県道を左へ曲がると木ノ芽峠へ向かい、県道を真っ直ぐに進むと山中峠へ至る。
 7年前の平成18年10月8日にも南今庄駅からここまで歩いた。その日は、県道を左へ曲がり、二ツ屋集落を通って木ノ芽峠を越えて敦賀まで歩いた(「奥の細道旅日記」目次32参照)。

 今日は、山中峠へ至る道であり、北陸本線旧線の廃線跡地である県道を歩く。
 500m程歩き、北陸自動車道の下を潜る。左手眼下に蕎麦畑が見える。一面に白い蕎麦の花が咲いている。



 明治29年(1896年)、福井~今庄~敦賀間に列車の運行が開始された。
 この区間内の今庄~敦賀間26、4キロは、
1、000m進む間に25mの高さを増す25パーミルの急勾配の峠越えがあり、北陸本線最大の難所と言われた。
 昭和37年(1962年)、北陸トンネルの開通と同時に、今庄~敦賀間の峠越えの線路は廃止となり、66年の歴史に幕を下ろした。
 今庄~敦賀間26、4キロは、北陸トンネルの開通により、19、2キロに短縮された。

 今、手許に、昭和19年12月1日、財團法人東亞交通公社発行の『時刻表 5號』の復刻版がある。12月号ではなく5號と表示されている。敗戦の色が濃くなり、資源確保のために紙の統制が行われ毎月発行できなくなったと思われる。
 この復刻版と現在の時刻表を見て、今庄と敦賀間の時間が、どの程度短縮されたか調べてみる。

 旧線の頃は、今庄駅と敦賀駅の間には、大桐(おおぎり)駅、杉津(すいづ)駅、新保(しんぼ)駅の三つの駅があった。
 今庄駅を8時1分に出た汽車は、大桐駅8時9分、杉津駅8時24分、新保駅8時36分に着き、敦賀駅に8時46分に着く。今庄駅から敦賀駅まで45分かかっている。

 現在は、今朝、福井駅から乗った電車は今庄駅を8時40分に発つ。南今庄駅に8時43分に着き、敦賀駅に8時56分に着く。16分で着いている。旧線と比べると、29分短縮されている。

 しかし、旧線は現在と比べると距離が長い上に、杉津駅は海抜200mの位置にあった。後部にも補助機関車を連結したD51が旅客列車や貨物列車を牽引して、スイッチバックを繰り返しながら25パーミルの急勾配の坂を登り、それでも29分の遅れだけというのは、D51が驚異的な機動力を有していたことを証している。

 1キロ程歩く。県道の左側に、大桐駅跡の記念碑が立っている。一段高くなっている所はホームの跡である。


大桐駅跡記念碑


 記念碑の横に、「大桐駅の経歴」を述べた説明板が立っている。全文を記す。


 「明治41年3月1日、北陸線の難所といわれ、山中トンネルを頂点とした1000分の25の勾配を有し、列車運転の緩和とスイッチバックの拠点として大桐信号場が開設された。
 その後地元の要望に応え同年6月1日停車場に昇格し、旅客、貨物の取扱営業を開始した。
 当時、旅客7本、貨物6本、計13往復の列車が運行された。昭和37年6月9日、北陸本線の複線電化の近代化により、新線開業と共に廃止となる。
 その間54年の永きに渡り、生活物資の輸送等住民のシンボルとして大きい役割を果たした。」


大桐集落

 道が上り坂になる。3キロ程歩く。

 豪雪からレールを守るために建てられたスノーシェットを潜る。北陸本線旧線の遺構である。天井にD51の煤のが残っている。


スノーシェット




 左手から登る山中峠の登り口に着いた。山中峠についての説明板が立っている。説明の一部を記す。


 「古くから奈良、京から北陸、東北に入る北陸道は、この山中峠(標高389m)を越えた。奈良時代には近江から野坂山地を越えて松原駅(現・敦賀市)に達した北陸官道は、樫曲(かしまがり)、越坂(おつざか)、ウツロギ峠へと小坂を上り降りし、五幡(いつはた)、杉津を経て、大比田(おおひだ)、元比田(もとひだ)へとすすみ、山中峠を越えて鹿蒜(かひる)駅に達した。(中略)
 平安初期の天長7年(830年)、木の芽
峠越えの新道が開かれた。この道は国府(こくふ)(現・越前市)への直線に近い峠であったので、このコースに北陸道は移ったものの、山中峠越えはその後も引き続き利用された。」


 予め、南越前町の観光課へ電話をして山中峠について尋ねたところ、山中峠は途中で道が無くなっている、というお話であった。そのため山中峠には寄らないで先へ進む。

 「山中信号場 待避線跡地」の広い場所に出た。山中信号場の記念碑が立っている。
 横に説明板が立っていて、概ね、次のことが説明されていた。


 「当時の北陸線であった敦賀ー今庄間は、海抜8mの敦賀駅から、南条山地の山中峠の下をくぐり、海抜265mの山中信号所まで前後14㎞にわたって1000分の25の上り勾配が連続し、しかも曲折が激しかった。
 山中信号所からは、これまた1000分の25の急勾配で大桐駅まで一気に駆け下りるという、現在の鉄道設計では考えられない過酷な線路であった。また、列車の停車や通過列車の退避は、急勾配の線路上では不可能で、水平な折り返し線や退避線路を
使わない停車や発車はできなかった。
 このため、敦賀ー今庄間では、敦賀市の新保
、葉原ならびに南越前町の山中に、列車の折り返し線と退避線路を併せ持った施設としてスイッチバックが設けられた。
 この方式は単線列車往来の一つの退避方法
として、初期の鉄道敷設時代に考え出されたシステムである。」


 200m程歩く。最初のトンネルである山中トンネルが現れた。


山中トンネル


山中トンネル


 明治29年の北陸本線開通時に竣工された山中トンネルは、長さ1194、5m。煉瓦造である。トンネルと言うより隧道(ずいどう)と呼んだ方がふさわしい。
 トンネルの左側に、折り返し線と待避線路の跡地と思われるスペースがあるが、草が丈高く生い茂っている。

 トンネル内を歩行者が通ってもいいのかどうか、やはり予め、南越前町の観光課に電話で確認した。観光課の話では、通ることは構わないが、懐中電灯を用意するように、と言われた。

 懐中電灯を点けてトンネル内に入る。天井の蛍光灯は半分は切れて、薄暗く、或は全部切れている箇所もあり、真っ暗闇の場所もある。
 天井からの漏水があり、昨日の台風に伴う豪雨にも
因るのだろうか、漏水の量が多く、雨の中を歩いているようである。水滴が顔や手に当たるが、傘を差すわけにはいかない。
 足元も平らではなく、所々に水溜りができて歩きにくい。躓いたり、滑ったりしないように、懐中電灯の小さな灯りを頼りに慎重に歩く。
 
できるだけ体を右側の壁に寄せて歩く。保線係の退避坑の窪みが幾つもある。退避坑は大きい所で二畳程の広さがあるが、暗い中に現れるこの広さが却って不気味な感じがする。

 前方から走ってくる車の音がする。懐中電灯の光で前を照らし、早く私の存在に気付いてもらうようにする。車は減速してくれて、ゆっくりと私の横を通り過ぎる。

 前方にトンネルの外の明かりが見えているのだが、歩いても歩いても馬蹄形の出口の大きさが変わらない。後ろを振り返ると、入口の大きさも変わっていない。どこまで歩いたのか分からなくなってしまう。
 やっとトンネルを出た。トンネルの長さは、1194、5mだから15分くらいで通ったのだろうが、30分程も歩いた気がした。

 すぐに次の伊良谷トンネルがある。信号機を設置し、3分毎に交互通行を行っている。


伊良谷トンネル


 トンネルに入って信号機設置の理由が分かった。トンネル内は左に大きくカーブし、先の見通しが効かない。トンネルの長さは約500mだったが出口までカーブが続いていた。
 内部は鉄板と鉄骨で補強されている。天井の電灯もほぼ全部点いていて明るい。

 トンネルを出ると右手に僅かに海が見えたが、樹木ですぐに見えなくなった。

 三つめの芦谷トンネルの坑口(こうぐち)は石造だが、トンネル内部は煉瓦造である。


芦谷トンネル


 長さ約200mのトンネルを出ると、右手に、美しい青い色の敦賀湾と対岸に横たわる敦賀半島が見えた。


敦賀湾と敦賀半島


 7年前の平成18年11月25日、美しい敦賀湾を見ながら、敦賀半島を、気比の松原から立石岬の手前の色の浜まで歩いたことを思い出した(「奥の細道旅日記」目次33参照)。 

 四つ目の曲谷トンネルと、次の第ニ観音寺トンネルは、いずれも長さ約500mである。


曲谷トンネル


第二観音寺トンネル


 六つ目の第一観音寺トンネルは、長さ約100mの短いトンネルである。入口から出口が見える。


第一観音寺トンネル


 トンネルを出ると、右手に美しい風景が広がっていた。杉津の集落があり、黄金(きん)色の棚田が見える。


杉津集落


 立ち止まって、しばらく美しい風景を眺めていた。


 7年前の平成18年3月4日(土)、私が住んでいる地域のセンターで、日本経済新聞編集委員である土田芳樹氏の講演会が開かれた。
 土田氏は、前年の平成17年5月から10月まで芭蕉と同じ5ヶ月間で「奥の細道」
の全行程を歩かれた。その体験を語る講演会であった。
 その頃、私も「奥の細道」を歩いていて福井へ入ったところだったので、講演会に出席し、お話を伺った。

 土田氏は、冒頭、次のことを仰った。
 天下の難所である
親不知(おやしらず)子不知(こしらず)海岸に、明治16年(1883年)、断崖を削って初めて道路が開通した。絶壁に開通記念の文字「如砥如矢」(とのごとくやのごとし)が刻まれている。砥石のように滑らかで矢のように真っ直ぐ、という意味で、この言葉に当時の人々の喜びが溢れている。
 このお話で、130名を超える聴衆に「道」のありがたさをあらためて認識させ、それに続く話に一挙に興味を抱(いだ)かせたようだった。見事な導入であった。
 (親不知、子不知海岸については、「奥の細道旅日記」目次20、平成15年11月1日参照。)

 休憩を挟んで、後半は、土田氏が撮った写真をスライドで見せながら説明を続けられた。
 土田氏は、敦賀へ向かうのに木の芽峠越えではなく、私が現在歩いている北陸本線旧線の廃線跡地である県道を歩かれた。

 最後に質疑応答があった。
私も、休日を利用して「奥の細道」を歩いていることを述べて質問させていただいた。

 土田氏は、旅の途上、原稿を日本経済新聞社本社に送り、それが「『奥の細道』を歩く」と題して毎週金曜日の夕刊に連載されていた。
 連載の20回目に、福井から敦賀までを3日間で歩いたことが述べられている。
 その3日間の旅に同行されたかたがおられた。元国鉄機関士の川端新ニ氏である。川端氏は、昭和4年(1929年)1月、福井市に生まれる。昭和18年(1943年)3月、国民学校高等科(高等小学)卒業後4月に鉄道省に就職する。14歳であった。爾来41年機関士として勤務し、昭和59年(1984年)3月、国鉄を退職する。

 以前、土田氏が川端氏を取材して以来、お付き合いが続いていると述べられている。
 川端氏から、「出身地が福井なので越前路をぜひご一緒したい」と連絡が入り、3日間を一緒に歩くことにしたとのことであった。

 土田氏と川端氏は、川端氏ご自身が機関士として乗務していた北陸本線旧線の廃線跡地を歩き、トンネルを通る。
 トンネルを抜けて杉津駅跡から敦賀湾を眺めたとき、美しい風景を前にして、川端氏が「あのころは、投炭に忙しく、外の景色なんか見られませんでした」と語った言葉が載っていた。
 この言葉から、急勾配の坂道を上るとき、煤煙と焦熱に苦しみながら休むことなく焚き口からカマに石炭を投げ入れる激しい労働の過酷さを思った。

 川端氏は、『ある機関士の回想』、『15歳の機関助士』の2冊の本を上梓しておられる。
 『ある機関士の回想』から引用する。


 「長いトンネルから外に躍り出た瞬間のあの冷気の感触、胸いっぱい吸い込む空気の美味さ、これだけはトンネルで苦労した者でなければわかるまい。あの爽快さは忘れがたいものだ。(中略)

 また、柳ケ瀬トンネルには雁ヶ谷、山中トンネルには山中と、それぞれトンネルを出た所に信号場が設けてあった。ほとんどの列車は通過したが、ここで停車して行き違いをする時があった。それぞれ山の湧き水が飲め、甘露そのものであった。

 蒸気機関車乗務は超特大のストーブを抱えての仕事のように考えられ、さぞ冬は暖かいだろうと思われていたが、真冬のD51のキャブは吹きさらしで実に寒かった。カマを焚く助士よりも機関士のほうが辛かった。
 トンネルに入ると一転して高温、真冬でも全身べっとりと汗ばむのだった。いうまでもなく、蒸気機関車の夏の辛さはこれまた格別なもので、半袖シャツを着用していたが、トンネルに入ると露出部を暑熱から守るため、必ず上着を着用しなければならなかった。鼻孔と口の部分を水で湿らせた大きなタオルで、目だけ出して器用に頬かむりするのが、トンネルくぐりのスタイルだった。」


 川端氏が絶景を前にして感慨深く語った杉津駅跡は、現在、北陸自動車道上り線の杉津PAになっている。杉津駅跡からは、私が現在見ている風景よりも、もっと雄大で美しい風景を見ることができただろう。

 その後、同じ年の平成18年8月13日の午後、敦賀駅の待合室で偶然に土田氏にお逢いした。
 その日、私は、敦賀市内の観光をして、その日に宿泊する長浜のホテルへ戻るために待合室で電車を待っていた。そこへ旅行の格好をした土田氏が入って来られた。

 私が立って行って、「日経新聞の土田様ですね」と、お声を掛けると、土田氏は驚いて、「そうです」と仰った。「私は、今年の3月に、私の住いの地域のセンターで土田様の『奥の細道』の講演会に出席して、お話を伺い、最後に質問をさせていただいた者です」、とお話して、名前を申し上げると、「ああ、思い出しました!」と仰って、破顔一笑された。
 質問をする際に、私も「奥の細道」を歩いていることを申し上げて、質問が「奥の細道」の具体的な内容だったので、印象に残っていただけたのだろうか。

 土田氏は、これから小浜線に乗る予定であることを話された。お互いの乗る電車の待ち時間が15分程あったので、その間、お話することができた。
 私は、前日、杉津を訪ねたことをお話して、「杉津は上から見た方が良いんですね」と申し上げると、土田氏は、「そりゃそうですよ、敦賀湾と敦賀湾を囲む岬の風景の美しさは高い所から見た方が良いんですよ」と仰った。

 土田氏のお言葉と、川端氏の「あのころは、投炭に忙しく、外の景色なんか見られませんでした」と語った言葉を思い合せて、私もいつか、敦賀湾と杉津の町を高い所から眺めようと思った。
 あれから7年後の今日、杉津駅跡に立つことはできなかったが、望みの一端を叶えることができた。

 (杉津については、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月12日、敦賀については、同年8月13日参照)


 1、5キロ程歩く。北陸自動車道が近づいて来る。敦賀行と杉津行の分岐点に出た。敦賀行きはここから左側の坂を上り、5つのトンネルを通る。資料によると、その内のトンネルに照明のないトンネルがある。
 照明のないトンネルを歩くのは危険だと判断して、敦賀行を止めて県道をそのまま先へ進み杉津へ行く。

 県道は九十九折の下り坂になる。1時間ほど坂を下り、国道8号線に出る。国道に架かる陸橋を渡り、真っ直ぐ歩いて十字路に出る。十字路を右へ曲がると、バスの停留所「杉津」がある。
 停留所のベンチに座り、今、下りてきた山を眺めながら敦賀行のバスが来るのを待つ。


・同年9月18日(水) 平泉寺ー2

 朝食後ホテルを出て、JR福井駅に隣接する、えちぜん鉄道福井駅へ行く。
 福井駅7時35分発の勝山行の電車に乗る。終点の勝山駅に8時32分に着く。駅前に、平泉寺を経由する8時34分発の循環のバスが待っている。バスに乗る。

 昨年の5月4日に訪ねた平泉寺(へいせんじ)を今日、また訪ねる(目次5参照)
 バスは、8時47分に停留所「平泉寺口」に着く。ここで降りて、菩提林(ぼだいりん)の中の参道を歩いてもいいが、昨年、約1キロに亘って良好な状態で保存されていた500年前の旧参道の石畳を観察したので、今日は参道を歩くのは止める。それに、今日は、500年前に宗教都市を築いていた平泉寺の発掘現場を見る予定がある。

 バスは菩提林の手前を右へ曲がり、1キロ程走って左へ曲がり参道に入る。8時50分、停留所「平泉寺神社前」に着く。バスを降りて参道を歩く。
 150m程歩き、「精進坂」と名付けられた緩やかな坂の石段を上る。
一の鳥居を潜る。

 参道の両側に美しい苔が生えている。再び、平泉寺の苔を見ることができた。
 二の鳥居を潜る。旧拝殿跡の杉林に一面、深い緑色の苔が広がっている。木漏れ日は、緑の苔を黄緑に染める。


平泉寺 境内



 先へ進み、白山登拝越前禅定道を歩く。鳥居を潜る。所々に自然石でできた石段がある緩やかな坂を上る。石段の石は磨り減っている。


白山登拝越前禅定道


 10分程上って、「三の宮」に着く。
 「三の宮」の左横を通って、更に奥へ進む。白山(標高2、702m)への参拝口に着いた。白山に向かって、杉林の間に急坂が続いている。


白山へ向かう道


 元に戻る。鳥居を潜ると左側に、「南谷坊院跡(みなみだにぼういんあと) 発掘調査地」の案内板が立っている。左側の坂を下る。樹木に囲まれた広い場所に出た。案内板に従って、右へ曲がり、左へ曲がって、広い場所の周囲を半周する。
 
「南谷坊院跡 発掘調査地」の説明板が立っている。全文を記す。


 「白山平泉寺は、今から百数十年前の天正2年(1574年)に、一向一揆の抗争に敗れて、全山焼亡したことが、残された記録から判明している。焼亡以前の様子は、白山神社に残る絵図からある程度わかる。
 ここ白山神社南側に広がる南谷一帯には、道路が縦横に張り巡らされ、三千六百坊といわれる多くの坊院(僧侶の住居)が存在していたようである。

 勝山市が平成元年度から実施した遺跡の範囲確認調査では、ほぼ絵図に描かれたとおりに石畳道が発見され、屋敷跡と推定される多くの平坦地や出入口、門跡(もんあと)、石橋、排水路、石垣等が発見された。
 このあたり一帯の山林や田畑には、絵図に描かれたような中世の都市がそのまま埋もれているといえる。」


 中世の平泉寺境内を描いたものとして、平泉寺白山神社所蔵の「中宮白山平泉寺境内図」が案内板にプリントされている。
 その絵図によると、一番上に霊峰白山が描かれ、麓から一番下まで多くの伽藍が描かれている。三千六百坊といわれた坊院は、びっしりと細かく描き込まれている。

 坂を上る。発掘された、河原石が敷き詰められた石畳が現れる。石畳の坂を上る。右側は杉林になっている。坊院の跡地である。発掘された石組の排水路や石垣がある。


発掘された石畳の道


発掘された排水路と石垣


 25年に亘る発掘が続けられても、この発掘調査地は当時の規模から考えると、ごく僅かな範囲にしか過ぎないだろう。今後も山林や田畑の下に埋もれた遺跡を発掘するのかどうかは分からない。もし、発掘を再開したとしても途方もない年月がかかるだろう。
 後戻りする。左側の坊院の跡地は深い杉林である。

 蝉が鳴き、足元の叢からは虫の声が聞こえる。音が聞こえるのはこれくらいで、夏が戻ってきたような強い日射しの下、発掘現場は静寂に包まれている。

 平泉寺の境内に戻る。もう一度、美しい苔を見る。

 司馬遼太郎(1923~1996)は、『街道をゆく 18 越前の諸道』の中で、平泉寺の苔について、次のように述べている。

 「さらにのぼると、林が広くなった。足もとは木ノ根と苔ばかりである。さらには、木漏れ日が苔緑(こけみどり)をまだらに黄色く染めて、ぜんたいの色調が唐三彩のようでもあった。」



・同年9月19日(木) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





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