13 名建築を訪ねるー6


・平成25年10月26日(土) 求道会館ー3  


求道会館


 今年も「東京文化財ウィーク」が始まった。毎年、文化の日を中心にして約1週間、東京都の文化財に指定されたものについて、通常、公開していないものも、この期間に一般公開される。

 一昨年、昨年に続いて、今年も求道会館(きゅうどうかいかん)を訪ねた(目次2、平成23年11月3日、目次8、同24年11月3日参照)。
 求道会館は現在、仏教講話、講演会、結婚式、コンサート等に使用されている。毎月、第四土曜日の午後、一般公開されている。
 東京文化財ウイークが始まると、文化の日にも特別に一般公開され、昨年と一昨年は、文化の日に伺ったが、今年の文化財ウイークの特別公開は、時間を延長して、第四土曜日に行われた。


玄関ポーチ


柱列


 求道会館は、外観はキリスト教の教会堂の様式で建てられているが、内部正面に、銅板葺、ヒノキの白木(しらき)造りの六角堂を配している。六角堂には阿弥陀如来が安置されている。このことから仏教の施設であることが分かるが、内部もキリスト教会か学校の講堂のような造りである。
 レンガ造2階建、建築面積307、47㎡、延床面積508、03㎡である。


館内正面(平成23年11月3日撮影)


 求道会館は、大正4年(1915年)竣工、施主は真宗大谷派の僧侶・近角常観(ちかずみじょうかん)(1870~1941)。設計は建築家・武田五一(たけだごいち)(1872~1938)である。

 中に入って、今日1回目の建物の説明を伺った。
 ご説明くださった方は、建築家であり、大学の講師を務めておられる近角(ちかずみ)真一先生であった。近角先生は、近角常観のお孫さんである。

 説明の主な内容を記す。初めてのお話も多く伺うことができた。 

 近角常観は、東京帝大哲学科卒業後2年間、ヨーロッパ、アメリカをまわり、宗教事情の視察をする。帰国後、学生寮である求道学舎を設立し、仏の教えを語り、寝食を共にして青年学生を育成する。
 キリスト教の日曜礼拝に倣って日曜講話を始めたところ、一般の人たちも大勢集まってくる。そこで、大きな建物を建て、大勢の人たちに説教を聴いてもらいたいと考え、建築を武田五一に依頼する。明治36年(1903年)のことであった。

 武田五一も、東京帝大卒業後、明治34年(1901年)から明治36年(1903年)まで2年間、ヨーロッパ、アメリカに留学して帰国したばかりであった。
 武田五一は、留学中、様式にとらわれることなく目的に適った建築をする近代建築を始めとして、当時、ヨーロッパに流行していたフランスのアール・ヌーヴォー、ドイツのユーゲントシュティール、イギリスのアーツアンドクラフツ、ウィーンのゼツェッション等の建築と美術を学んだ。

 依頼を受けた武田五一は設計に12年を費やし、求道会館は大正4年に完成する。

 建物は、バシリカ式であるというご説明があった。
 バシリカ式は、長方形の平面をなし、イタリアの初期キリスト教聖堂の建築様式である。



 正面に、山吹色のアーチが描かれている。アーチの内側の壁はピンク色で、外側の壁は黄色になっている。ピンク色は仏の暖かさを表し、黄色は光背(こうはい)を表している、また、山吹色の地に、かたどりされた石膏で曲線が描かれているが、これは、忍冬(スイカズラ)の蔓を描いたものである、とのお話があった。

 入館するときにいただいた説明書には、天平彫刻と説明されてある。
 石膏で描かれた曲線を初めて見たとき、植物の蔓を図案化し、曲線が立体的に重なっているので、アール・ヌーヴォーだと思ったが、更に詳細に見ると、余白を取らず、枠内の全部を使って描かれている。
 これを見て、ケルムスコットプレスから発刊された『ジェフリー・チョーサー作品集』のページの縁飾りを思い出した。

 手工芸復興運動であるアーツアンドクラフツを主導したウイリアム・モリス(1834~1896)は、晩年、 ケルムスコットプレスを設立し、美しい本を作ることに心を砕いた。
 中世の彩色写本の美しさを引き継ぎ、内容にふさわしい書体の活字を作り、最後に到達したのが、究極の美本と呼ばれている『ジェフリー・チョーサー作品集』であった。

 画家・エドワード・バーン・ジョーンズ(1833~1898)が挿絵を手掛けた『ジェフリー・チョーサー作品集』は、書物というよりも美術品のようなものである。
 ページの縁に枠を設け、枠いっぱいに蒲萄と蒲萄の葉、蒲萄の蔓が描かれている。

 後日、モリスのデザインのパターンにスイカズラもあるのではないかと思って、モリスの作品集を図書館で調べた。
 スイカズラも載っていた。刺繍掛け布、壁紙、織物のデザインにスイカズラを使用している。いずれも、スイカズラの花、葉、蔓を描いて、色彩豊かで、華やかなデザインであった。 

 2回の会衆席へ移動して、お話が続けられた。

 天井と柱はなく、小屋組は木造トラス。接合部はボルトで接合している。トラス梁を保持する「持ち送り」は、規則的で、美しく並列している。「持ち送り」の下部に面取りをして美を生み出している。 


持ち送り



 「持ち送り」の前を通って、小礼拝堂に案内される。小礼拝堂は、正面の裏側の2階部分に位置する。

 昨年、初めて小礼拝堂を見学した。
 畳敷きの部屋であるのに暖炉が設置されている。暖炉の炉を囲むマントルピースは、今までに見たこともない形のものだった。マントルピースの両側の上部のみに、奥行き、縦、横、30cm前後の幅の、棚と言っていいと思われるものが張り出している。それぞれに扉が付いている。


暖炉


 イギリスから帰国した、近角先生の友人の建築家が、このマントルピースをご覧になって、「グラスゴーの博物館で、これと同じデザインの家具を見た。『KIMONO』と名付けられていた。」と語ったというお話を昨年伺った。
 マントルピースは、衣桁(いこう)に掛けられた小袖の姿に見えた。
 

 その後、図書館で、グラスゴーに生まれ、主にグラスゴーで活動していた建築家・チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868~1928)の作品集を閲覧した。マッキントッシュは、建築家であったが、家具、照明器具等も製作し、インテリアの仕事も行っていた。
 作品集には、おもちゃ箱用の大きな家具が載っていた。上段が左右に張り出している。『KIMONO』と名付けられていた。
 別の資料にも、同じデザインのクローゼットの写真が載っている。『KIMONO』と呼ばれていたという説明がある。
 

 今回、再度、マントルピースを拝見し、マッキントッシュの作品集で見た『KIMONO』と比較して感じたことは、マッキントッシュがジャポニスム(日本趣味)に影響を受けて製作した『KIMONO』が、ヴィクトリア朝の時代の頑丈で、重厚な家具の名残りを留めているように思えたことである。
 それに対して、求道会館のマントルピースは、清楚で気品に満ちている。

 武田五一は、『KIMONO』を見て影響を受けたと思うが、五一は、畳敷きの部屋に設けるマントルピースを『KIMONO』と全く同じデザインにはしなかった。
 スイカズラのデザインと同じく、日本人の心に受け入れやすい簡素なデザインにしたものと推測する。

 マントルピースと相対して床の間があるが、床の間の床の高さが日本家屋の通常のものよりも高い。しかし、この高さが軽快な感じを与えている。
 マントルピースも床の間も、軽やかで、互いに良く調和して、明るい雰囲気の部屋になっている。宗教の施設で感じることの多い陰鬱なものがない。


床の間


 近角先生のお話は、毎回、新しいお話が加わり、ご説明を念頭に置いて、ディテールを拝見していると、新しい発見があり、想像する楽しみがある。

 小礼拝堂の窓から、武田五一が大正15年(1926年)に設計した求道学舎の建物の一部が見える。
 鉄筋コンクリート造3階建ての求道学舎は、現在、集合住宅として活用されているから見学することはできない。

 窓から見る光景は、行ったことはないが、ヨーロッパの都市の、大通りから路地を入った奥に建つ、中庭を持つアパートのようである。


求道学舎



 東京都文京区本郷6-20-5
 地下鉄南北線東大前駅 地下鉄丸の内線本郷三丁目駅 都営地下鉄春日駅下車


・同年11月2日(土) デ・ラランデ邸


デ・ラランデ邸


 都立小金井公園内に武蔵野郷土館があった。江戸時代から昭和初期までの、江戸、東京に存在していて、建築学的、歴史的に価値あるものと認められた建物が、野外に移築保存されていた。
 今から30年ほど前に行ったことがある。保存されていた建物は僅か6棟で、寂しい思いをしたことを憶えている。

 平成5年、同じ場所に、江戸東京博物館の分館として、敷地面積7haを擁する「江戸東京たてもの園」が開設された。「江戸東京たてもの園」は、武蔵野郷土館の業務と資料を引き継いだ。
 移築保存される建物が増えてきた。昭和11年(1936年)の2、26事件の現場になった
高橋是清(たかはしこれきよ)(1854~1936)の邸も移築保存されている。

 今年の4月にデ・ラランデ邸が公開された。これで保存されている建物は30棟になった。

 デ・ラランデ邸は、ドイツ人建築家・ゲオルグ・デ・ラランデ(1872~1914)の自邸であった。
 デ・ラランデは、明治36年(1903年)来日、多くの建築設計をしたが、現存する建物は、デ・ラランデ邸と、明治37年(1904年)建築、神戸市北野町に建つ、国重要文化財
旧トーマス邸の2棟だけである。旧トーマス邸は「風見鶏の館」と呼ばれて親しまれている。
 

 デ・ラランデは、大正3年に亡くなる。夫人は1男4女の5人の子供を連れてドイツに帰国する。
 その後、デ・ラランデ邸は、所有者が転々と変わった。

 デ・ラランデ邸は、明治43年(1910年)頃、現在の新宿区信濃町に建てられた。木造3階建、床面積約235㎡、延べ床面積約460㎡であった。
 デ・ラランデ邸を設計したのは誰か、ということで建築家、建築史家、建築評論家の間で意見が分かれている。デ・ラランデの設計という説と、1階部分は、気象学者、物理学者であった
北尾次郎(1853~1907)が明治25年(1892年)に設計して建築し、デ・ラランデは、2階と3階を増築するときに、2階部分と3階部分を設計した、という二つの説がある。
 因みに、北尾次郎は、ドイツのベルリン大学に留学し、物理学、数学を学んだ者である。

 今日いただいた説明書には、その件が次のように説明されていた。


 「1階部分は明治時代の気象学者・物理学者である北尾次郎が自邸として設計したと伝えられる木造平屋建て・瓦葺き・寄棟屋根・下見板張りの洋館であった。1910年(明治43)ころ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより、木造3階建ての住宅として大規模に増築された。その際、北尾次郎居住時の1階部分も大改造されている。」


 私がデ・ラランデ邸のことを知ったのは、30年ほど前のことだった。JR中央線信濃町駅の近くに建っていた。
 見に行ったが、高い塀に遮られて、2階、3階のスレート葺きの腰折れ屋根が辛うじて見えただけだった。当時は、三島食品工業株式会社が所有していた。

 平成11年、三島食品工業株式会社は、移築保存することを条件にして邸を東京都に寄贈した。
 東京都は解体調査を開始した。すぐに復元されると思っていたところ、東京都の予算の都合上、復元工事が未定となった。

 10年以上たって、やっと昨年復元工事が始まり、今年の4月に工事が完成し、一般公開されることになった。

 長年待ち望んでいたデ・ラランデ邸を今日、見ることができる。
 よく晴れた美しい秋の日、陽に輝くデ・ラランデ邸は、美しい建物であった。



 解体したとき白い門は無かったが、残されていた古い写真を基にして、建築当時にあった門を復元した。ドイツのユーゲントシュティールである。

 玄関に入る。玄関のホールの天井には、遊んでいるキューピッドのレリーフがある。


玄関



 二つの居間を通り、当時の暖炉やピアノ等を見る。天井の照明器具が美しい。




 半円形のサンルームは無くなり、復元時にテラスに変わった。

 食堂だった部屋に入る。ウイリアム・モリスの壁紙が貼られている。係りの人に伺ったら、復元するときにモリスの壁紙のプリントを貼りました、ということであった。曲線を多用している部屋に、モリスの花園の壁紙がよく合っている。
 19世紀末のヨーロッパの古都に建つカフェを彷彿させる。


旧食堂




 旧食堂はレストランとして活用され、この部屋と居間、テラスで食事ができるようになっている。テーブルのメニューを見ると、コーヒー、紅茶、ケーキ、ドイツビール、ジャーマンライス他のメニューが載っている。
 2階へ上がる。部屋があるだけで何も置かれてなかった。いずれ企画を立てて部屋は利用されるだろう。3階は立ち入り禁止になっていた。


 東京都小金井市桜町3-7-1 都立小金井公園内 江戸東京たてもの園
 JR中央線武蔵小金井駅下車 バスに乗り換え、停留所「小金井公園西口」で降りる。


・同年11月30日(土) 雑司が谷旧宣教師館


雑司が谷旧宣教師館


 江戸時代の、薬草園、後に将軍の鷹狩りに使う鷹の飼育場所として使われていた所が、明治7年(1874年)、東京府によって東京埋葬墓地となった雑司ヶ谷(ぞうしがや)霊園である。霊園の広さは約10万㎡である。

 雑司ヶ谷霊園の近く、住宅街の中に明治40年(1907年)建築の雑司が谷旧宣教師館が建っている。平成11年、東京都有形文化財に指定された。
 木造2階建、柱や窓枠の緑色に白の下見板張りの瀟洒な建物である。  

 アメリカ人宣教師・ジョン・ムーディー・マッケーレブ(1861~1953)は妻・デラと共に、明治25年(1892年)、来日した。
 マッケーレブは、築地の外国人居留地で15年間を過ごし、明治40年、この地に雑司が谷宣教師館と雑司が谷学院を建てた。雑司が谷学院では聖書と英語を教えた。このとき、妻と3人の子供はアメリカに帰国させた。マッケーレブは単身の暮らしをしていた。
 昭和3年(1928年)、雑司が谷学院を閉鎖する。
 昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まる前に、マッケーレブは、アメリカ大使館の勧告に従い、34年間住んだこの地を去ってアメリカに帰国した。帰国後は、ロスアンジェルスのジョージ・ぺパダイン大学の教授として東洋文化を教えた。

 宣教師館は、戦後、長い間、音響機器メーカーの事務所として使われた後、マンション建設のために取り壊しが計画された。しかし、周辺住民と日本建築学会の保存運動が実り、昭和58年(1983年)、豊島区が土地と建物を買収し、修復した。宣教師館は、平成元年、一般公開された。

 建物の説明書には、「19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅である」と説明されている。設計者は判っていない。
 質素な建物であるが、美しいディテールが随所に見られる。
 修復に6年を要しているが、もともと音響機器メーカーの事務所が美しい建物を大切に使用していたことが窺える。
 

 中へ入る前に建物の周囲を回る。ベイウィンドウ(張り出し窓)を見る。半円形の妻飾りが見える。上げ下げ窓の桟の先が尖っていて、並列している。ゴシック様式の美しい桟割りである。


ベイウィンドウ




下見板張り



 建物の背面は、1階、2階共に引き戸の窓である。

 庭の花壇は、マッケーレブが自給自足のために耕していた畑だった跡である。 

 玄関のポーチにも美しいディテールを見ることができる。


玄関ポーチ



 玄関のホールに入り、右のドアを開けると居間である。現在、展示室になっていて、マッケーレブの日本での生活、活動を紹介している。
 隣室は食堂だった。天井は格天井。広縁の引き戸の窓とともに和風の造りである。


旧食堂



 広縁に出る。広縁は、窓のガラスを透して陽がよく入り、サンルームとしても使われていただろう。


広縁


 右へ曲がり、教会事務室に入る。現在、児童図書コーナーになっている。1階の面積は113㎡である。

 三つの部屋に、それぞれ暖炉が設置されている。暖炉は三つだけれども、煙道を中心に設置して、それが2階まで通っているから煙道は一つで済んでいる。
 暖炉はいずれも簡素なデザインだが、居間の暖炉はケヤキ材による前飾りがあり、鏡が付いている。暖炉の側面には花弁を図案化したタイルが嵌め込まれている。アールヌーヴォーである。


居間の暖炉



 2階へ上がる。2階の面積は100㎡である。1階と同じく三つの部屋のそれぞれに暖炉が設置されている。
 二つの寝室と書斎がある。寝室には、マッケーレブが使用したベッドとライティングビューローが置かれている。もう一つの寝室は、雑司が谷の歴史と文化の展示室になっている。
 2階の天井は、天井板を割竹でとめている。



 帰りに雑司ヶ谷霊園に立ち寄る。広々として、明るく、長閑なものを感じる。

 夏目家の墓がある。夏目漱石(1867~1916)もここに眠っている。


夏目家の墓


 漱石の『こころ』に、雑司ヶ谷霊園が登場する。
 『こころ』は、大正3年(1914年)4月30日から8月11日まで朝日新聞に連載された。

 当時の大学、旧制高校の入学と学年は、欧米の大学に倣って9月に始まっていた。
 大学の新学年が始まるまでの暑中休暇に鎌倉で過ごしていた「私」は海水浴場で「私」よりも年長の男性と知り合いになる。「私」はその人を「先生」と呼ぶ。
 東京に戻ってから「私」は「先生」の東京の住まいを訪ねる。2回訪ねたが、いずれも留守だと下女に告げられる。3回目に訪ねたときも「先生」は留守だった。下女に代わって奥さんが出て来た。美しい奥さんであった。


 「私はその人から鄭寧(ていねい)に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司(ぞうし)ヶ谷(や)の墓地にある或仏へ花を手向(たむ)けに行く習慣なのだそうである。『たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかで御座います』と奥さんは気の毒そうに云ってくれた。私は会釈して外へ出た。賑かな町の方へ一丁程歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行って見る気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵(きびす)を回(めぐ)らした。

 私は墓地の手前にある苗畑(なえばたけ)の左側から這入って、両方に楓(かえで)を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。するとその端(はず)れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。私はその人の眼鏡の縁が日に光るまで近く寄って行った。そうして出抜(だしぬ)けに『先生』と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。
 『どうして・・・・・・、どうして・・・・・・』
 先生は同じ言葉を二遍繰り返した。その言葉は森閑とした昼の中(うち)に異様な調子をもって繰り返された。私は急に何とも応(こた)えられなくなった。
 『私の後(あと)を跟(つ)けて来たのですか。どうして・・・・・・』
 先生の態度は寧ろ落付いていた。声は寧ろ沈んでいた。けれどもその表情の中(うち)には判然(はっきり)云えない様な一種の曇りがあった。

 私は私がどうして此処へ来たかを先生に話した。
 『誰の墓へ参りに行ったか、妻(さい)がその人の名を云いましたか』
 『いいえそんな事は何も仰(おっ)しゃいません』
 『そうですか。そう、それは云う筈がありませんね、始めて会った貴方(あなた)にいう必要がないんだから』
 先生は漸(ようや)く得心したらしい様子であった。然し私にはその意味がまるで解らなかった。」


 「先生」は学生時代、真面目で向上心の強い友人に暗示を与え破滅させた。友人は自殺する。
 策略で勝っても人間として負けたことを激しく後悔し懊悩する。毎月、友人の墓参りをしても友人を死に至らしめたという罪悪感は「先生」を生涯苦しめることになる。「先生」は死んだ気で生きて行こうと決心し殆ど世間と交渉のない生活をする。


 「私」と「先生」が雑司ヶ谷の墓地で会ったとき、「先生」が話す。

 

 「墓地の区切り目に、大きな銀杏(いちょう)が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢(こずえ)を見上げて、『もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉(こうよう)して、ここいらの地面は金色の落葉(おちば)で埋(うず)まるようになります』と云った。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。」


 広い雑司ヶ谷霊園は沢山の銀杏や欅の木が聳えている。
 夏目家の墓の近くにも銀杏の大木が立っていた。黄金(きん)色の葉が晩秋の陽に輝いていた。

 


 東京都豊島区雑司が谷1-25-5
 地下鉄有楽町線東池袋駅 護国寺駅 地下鉄副都心線雑司が谷駅 下車
 





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