14 神言会修道院(岐阜県多治見市) 別府 湯平温泉(大分県)
・平成25年12月27日(金) 神言会修道院
神言会修道院
東京駅6時発の「のぞみ1号」に乗る。名古屋駅に7時36分に着く。名古屋駅で下車し、名古屋駅7時46分発の中央本線快速に乗り換える。多治見駅に8時27分に着く。
駅を出て左へ曲がる。2キロ程歩き国道19号線を渡る。緩やかな坂を200m程上る。正面に、カトリック男子修道会・神言(しんげん)会修道院の美しい建物が建っている。
約30、000㎡の広大な敷地に、赤い屋根とクリーム色の壁、小さな窓、尖塔に十字架を掲げた美しい修道院が建ち、修道院の前面と側面には延べ9、900㎡の蒲萄畑が広がっている。フランスの地方の光景のようである。
1875年、オランダで設立された神言会修道会は、大正11年(1914年)、名古屋に教区が開設され、昭和5年(1930年)、この地に現在の修道院が建てられた。設計者は、ドイツ人・ヨーゼフ・モール神父である。
地上3階、地下1階の木造建築。延べ床面積は3、000㎡である
戦後、神言会修道会が運営する南山学園が名古屋に創設され、会の活動の中心も名古屋に移った。
9時になった。修道士が来て聖堂の扉を開ける。聖堂を見学する。撮影は禁止されている。
聖堂は元は修道院の聖堂であったが、現在は、信者のミサのためにカトリック多治見教会が使用している。
聖堂入口
聖堂は、天井が高く、側面のステンドグラスの高窓から光が差し込み、荘厳な雰囲気に満ちている。
正面中央大祭壇は半円形のドームになっている。ドームの天辺(てっぺん)に鳩が描かれ、そこから放射状に描かれた光の帯がドームを伝って下に降りている。
聖堂の両側に、それぞれ五つの部屋があり、副祭壇になっている。合わせて十の副祭壇の壁に、キリストの生涯が描かれている。
修道院中央の入口は修道士専用の玄関である。一般の人は入れない。玄関ポーチの上にバルコニーが設けられている。
修道院入口
敷地内の蒲萄畑で収穫された蒲萄でワインが作られ、修道院ワインとして販売されている。
修道院の地下に醸造所がある。昭和8年(1933年)から修道士が作っていたが、平成15年から、製造と販売が外部の団体に委託された。
修道院の地下室で修道士がワインを作っていた、というのもヨーロッパの修道院のようだなと思う。
多治見駅に戻って電車に乗り、名古屋駅で降りる。名古屋駅13時12分発の「のぞみ」に乗る。小倉駅に16時22分に着く。外へ出ると風が冷たい。
予約していた、駅の近くの小倉東急インにチェックインする。小倉東急インの朝食はおいしいので楽しみである。
・同年12月28日(土) 別府 大分
ホテルで朝食を摂る。「じんだ煮」という鰯を煮たものを食べる。係りの人に伺ったら、料理用の糠味噌で煮たということである。福岡らしく辛子明太子がある。他に、牛すじのおでん、ざるに入った自家製の豆腐、やはり自家製のヨーグルトがおいしい。
小倉駅7時58分発特急に乗る。右手に田園地帯、左手に海が見える。別府駅に9時22分に着く。別府湾に面した出口を出る。駅前通りの緩やかな坂を下る。
100m程下ると、右手に共同湯・「駅前高等温泉」が建っている。大正13年(1924年)建築、ハーフティンバー様式の2階建。2階は休憩室として使われているのだろう。
ヨーロッパの民家のような建物や駅前高等温泉という名前から、泉都・別府の昔の賑わいを彷彿させる。
駅前高等温泉
更に300m程坂を下る。駅前高等温泉から数えて五つ目の角を右に曲がる。250m程歩く。三つめの角に重厚な「竹瓦(たけがわら)温泉」が建っている。木造2階建、唐破風の屋根の玄関。明治時代の役所か学校のような建物である。
竹瓦温泉は、明治12年(1879年)に創設された。この建物は昭和13年(1938年)に建てられたものである。
竹瓦温泉
中に入る。1階は高い天井の板張りの休憩室になっている。2階へ上がる階段は老舗旅館のように幅が広い。2階は、かつては畳敷きの休憩室だったのだろう。現在は地区の公民館として使われている。
入浴料を払う。僅か100円だった。1階の右手に浴室がある。左手は砂湯になっている。砂湯の料金は1、000円である。
浴場は半地下にあり、石段を降りていく。泉質は塩化物、炭酸水素塩泉となっている。お湯は熱めである。ゆっくり入って温まる。
別府駅に戻る。日豊本線の電車に乗る。15分程で大分駅に着く。
駅前広場と、その周辺は再開発のため大規模な工事が行われていた。国道10号線の地下通路を通り、中央通りを250m程歩く。
角に煉瓦造3階建ての壮麗な大分銀行赤レンガ館が建っている。
大分銀行赤レンガ館
案内板で説明されている大要を記す。
「1913年(大正2年)4月11日、株式会社二十三銀行本店として2年8ヶ月の歳月をかけて建設された。設計者は辰野金吾。煉瓦造スレート亜鉛メッキ鋼板葺3階建(1541、47㎡)。
クラッシックとゴシックの中間的なクイーンアン様式にドームを配した『辰野式』である。
土台として地下2mまで大理石を埋め込み、煉瓦は東京駅と同じものを英国から直輸入し、使用している。」
辰野金吾(1854~1919)は、明治、大正期の代表的建築家である。東京駅、日本銀行本店他多くの建物を設計し、その多くが現存している。
辰野の指導の下、伊東忠太、武田五一他おおぜいの高名な建築家が輩出した(伊東忠太については、目次10、参照。武田五一については、目次2、平成23年11月3日、目次8、同24年11月3日、目次13、同25年10月26日参照)。
赤煉瓦と白い花崗岩の飾り、角の八角形のドームを持つ塔屋など古典的な美しい建物である。平成8年、国登録有形文化財に指定された。
100m程歩き反対側へ渡る。中央通りを左へ曲がり、商店街のアーケードの下を歩く。400m程歩き、通りに架かる陸橋を渡る。
大分オアシスタワーホテルのレストラン・「グラッチオ」でランチのバイキングを食べる。オードブルとデザートが充実していた。
駅に戻り少し休む。チェックインの時間になったので、予約していた駅の近くのホテルに入る。2泊予約していた。
・同年12月29日(日) 湯平温泉
朝食後、ホテルを出て駅へ行く。大分駅7時26分発久大本線の電車に乗る。電車は冬枯れの田園地帯を走る。8時22分に湯平駅に着く。無人の駅である。
ホームに降りると、雪がちらついていた。降りた乗客は私1人だけだった。
以前は、湯平駅と湯平温泉を結ぶ定期の路線バスが走っていたが、現在は廃止され、午後、コミュニティバスが数本走っているだけである。
跨線橋を渡り、出口に向かいながら、駅から電話でタクシーを呼ぼうと思った。
ところが、駅前にタクシーが停まっていた。降りてくる乗客を待っていたのだろう。ありがたいことである。
タクシーに乗り、湯平温泉まで行ってもらう。途中、まだ若い運転手さんと、湯平温泉や湯平温泉を愛した山頭火のことを話す。タクシーは、山間の道路を上り、約10分で湯平温泉の入口に着いた。
湯平(ゆのひら)温泉は、鎌倉時代に開湯された温泉である。
急流の花合野川(かごのがわ)に沿って、両側に旅館や民家が並ぶ幅の狭い石畳の坂道を上る。雪は止んだが、うっすらと雪が積もっている。滑らないように気をつけて歩く。静かな湯治場の雰囲気がある。
途中から古い石畳に変わった。この石畳は約300年前の享保年間に敷かれた石畳である。
湯平温泉 石畳
15分程上ると坂道が終わって平らな道になり、並んでいた民家や旅館が疎らになった。川の水音が大きくなった。
今、上ってきた坂道を下る。坂道の途中、左側にある共同湯「銀の湯」に入る。無人の共同湯である。入口に入浴料を入れる箱があり、200円と書いてあった。お金を入れて中に入る。因みに、湯平温泉は共同湯が5ヶ所ある。
泉質はナトリウム、塩化物、硫酸温泉となっている。浴室には誰もいなかった。1人でゆっくり入る。
柔らかいものに包み込まれるようなすばらしいお湯である。久しぶりに本物の温泉に入ったと思った。
「銀の湯」を出て、川沿いに坂を下る。山頭火の句碑が立っている。上に載っているのは、山頭火が行乞(ぎょうこつ)のときにかぶっていた菅笠を表しているのだろう。
山頭火句碑
しぐるゝや人のなさけに涙ぐむ
種田山頭火(たねださんとうか)(本名・種田正一)(1882~1940)は、行乞の途上、昭和5年(1930年)11月10日午後4時、湯平温泉に着き、10日と11日、大分屋に泊まる。
湯平温泉に滞在した2日間に16の句を詠む(山頭火については、「奥の細道旅日記」目次29、平成18年1月8日参照)。
上記の「しぐるゝや」の句について、春陽堂書店発行の『山頭火日記(一)』から引用する。
「11月11日 晴 時雨
山峡は早く暮れて遅く明ける、9時から11時まで行乞、かなり大きな旅館があるが、こゝは夏さかりの冬がれで、どこにもあまりお客さんはないらしい。
午後は休養、流れにはいつて洗濯する、そしてそれを河原に干す、それまではよかつたが、日和癖でざつとしぐれてきた、私は読書してゐて何も知らなかつたが(谿声がさうさうと響くので)宿の娘さんが、そこまで走つて行つて持つて帰つて下さつたのは、じつさいありがたかつた。」
宿の娘さんが洗濯物を取り込んでくれた、ということであるが、このことで涙ぐむというのは、山頭火が日頃、人の冷たい仕打ちを受けていたことが想像される。
山頭火は、湯平温泉を気に入ったことを前日の11月10日の日記に記している。
「こゝ湯ノ平といふところは気に入つた、いかにも山の湯の町らしい、石だゝみ、宿屋、万屋(よろづや)、湯坪、料理屋、等々々、おもしろいね。(中略)
此の温泉はほんたうに気に入つた、山もよく水もよい、湯は勿論よい、宿もよい、といふ訳で、よく飲んでよく食べてよく寝た、ほんたうによい一夜だつた。
こゝの湯は熱くて豊かだ、浴して気持ちがよく、飲んでもうまい、茶の代りにがぶがぶ飲んでゐるやうだ、そして身心に利きさうな気がする、などゝすつかり浴泉気分になつてしまつた。」
句碑は、宿泊した大分屋の跡地に立てられている。道路を隔てて花合野川が流れている。護岸工事が行われる以前の川はもっと川幅は広かっただろう。大分屋の跡地に近いこの辺りで洗濯をしたのだろう、と思って、川を見る。川の中の大きな岩が流れに変化を与えている。
句碑の右下に、当時の2階建ての大分屋の写真がプリントされている。その写真を見て驚いた。宿屋を廃業した後の写真ではないかと思えるほど荒れ果てている。1階、2階共に窓や出入口に筵(むしろ)を垂らしている。あばら家か廃屋といってもいい建物である。それとも木賃宿というのは、こういう建物が多かったのだろうか。
山頭火にとって最も大事なことは句を作ることであった。句を作ることが生きることであった。
できるだけ安い宿に泊まって、その分、行乞を減らし、句作に没頭し、酒と湯豆腐と温泉を楽しんだ。句ができるなら、宿が粗末であっても、それは取るに足りないことであった。
「貧すれば鈍する」という言葉があるが、山頭火の場合は、それは当て嵌まらなかった。
花合野川を見ながら川沿いに下る。約1時間で湯平駅に着いた。
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