4 名建築を訪ねるー2  ジェイ・ヒル・モーガンの作品


・平成24年1月7日(土) 旧根岸競馬場一等馬見所

 JR根岸線の根岸(ねぎし)駅で降りて、駅前から横浜市営バスに乗る。バスは10分程走り、左折して坂を上り高台に着く。停留所「旭台」で降りる。

 根岸森林公園へ行く。
 眼下に18万uの広大な芝生が広がっている。芝生の広場は、ゴルフ場のような起伏があり、周囲は樹木に囲まれている。
 樹木の向こうに、黒ずんだ灰色の三つの塔の上部が見える。

 石段を降りて、芝生の中に入る。風はなく、暖かい陽が射している。シートを広げて、若いお母さんたち5人が座ってお喋りをしている。子供たちは、シートの回りを走ったり、頭や服に枯れた芝が付くのも構わず、芝生の上に腹ばいになったり、緩やかな坂をゴロゴロ転がったりして遊んでいる。笑い声が弾ける。
 熟年の男性8人ほどが紙ヒコーキを飛ばしている。趣味のグループだろうか。風がないので、紙ヒコーキはどれも水平に旋回しながら長い時間飛んでいる。

 芝生の広場を横切って、三つの塔へ向かって歩く。

 根岸森林公園は、我が国の洋式競馬場発祥の地である。
 慶応2年(1866年)、横浜に居留する外国人のレジャー施設として、ここに
横濱競馬場(通称、根岸競馬場)が開設された。
 明治13年(1880年)、日本人のレースの参加と観覧が許可された。

 昭和4年(1929年)、一等馬見所とそのスタンド、二等馬見所、下見所(パドック)が竣工した。
 一等馬見所は、地上7階、地下1階の鉄筋コンクリート造り。4、500人を収容した。二等馬見所と下見所を合わせて、競馬場全体では、16、500人を収容したといわれている。
 設計は、アメリカ人建築家・
ジェイ・ヒル・モーガン(1877〜1937)である。


旧根岸競馬場一等馬見所


 昭和16年(1941年)8月、太平洋戦争勃発。
 同17年(1942年)、最後のレースが行われ、競馬場は閉場となった。以後は、日本海軍が買収し、高台にあって、猶、一等馬見所からの眺望が良く、横須賀軍港も一望できることから、一等馬見所は、見張台として利用された。
 同20年(1945年)8月、終戦。
 同年9月、競馬場跡地と共に、一等馬見所、二等馬見所、下見所は、駐留米軍に接収された。米軍は、競馬場跡地を米軍専用のゴルフ場に造り変えた。このとき、起伏のある地形を造ったものと思われる。

 競馬場跡地は、昭和39年(1964年)から段階的に接収が解除され、昭和44年(1969年)に完全に解除された。横浜市は、跡地を公園として整備し、昭和52年(1977年)、根岸森林公園を開園した。

 一等馬見所、二等馬見所、下見所は、昭和56年(1981年)に接収が解除された。
 昭和63年(1988年)、二等馬見所、下見所は、老朽化のために解体された。その後、一等馬見所のスタンドも撤去された。

 芝生が尽きて、幅の狭い坂道を上る。
 上り口の左手に、相当の数の桜の樹林がある。春になり、桜が一斉に満開になったら、絢爛と咲く花に酔うのではないだろうかと思った。
 葉が落ちた銀杏の木の間を通って坂道を上り、石段を上がる。

 高台に出る。米軍の施設があり、入り口のゲートの横に監視所がある。その前を通る。ここにも芝生の広場がある。
 広場の端に、
旧根岸競馬場一等馬見所(うまみしょ)が建っている。遠くから見えた三つの塔は、当時、エレベーターが設置されていた。

 一等馬見所の正面は、米軍の施設の敷地が隣接しているから、正面へ回って建物を見ることはできない。
 裏側から建物の全体を見る。威容を誇る、迫力のある建物である。中世ヨーロッパの城砦のようにも見える。大勢の人が集う、華やかな社交の場にふさわしい建物であっただろう。
 平成21年、経済産業省の近代化産業遺産の指定を受けた。



 現在の、窓や出入り口が閉じられた建物は、陰鬱な印象を与え、周りの穏やかな光景とは乖離して、孤高を保っている。
 終戦までの3年間、見張台として利用されたことを思い起こし、戦争があった時代を思う。

 ここから、みなとみらい21の高層ビル群が見える。高さ296m、70階建ての横浜ランドマークタワーも意外な近さに見える。
 敗戦から67年。これほどまでに発展するとは、焦土と化した当時、誰も想像することさえ出来なかっただろう。


 横浜市中区根岸台1−3 根岸森林公園内
 JR
根岸線根岸駅下車 バスに乗り換え、停留所「旭台」で降りる。


・平成24年4月8日(日) 山手111番館 横浜山手聖公会 ベーリック・ホール

 JR根岸線の桜木町駅を出て、横浜ランドマークタワーの近くから神奈川中央交通バスに乗る。
 バスは、
みなとみらい21地区を走る。クイーンズスクエア横浜は、並んで建つ3棟の超高層ビルであるが、高さを順番に低くしている。高さは異なるが、ビルのデザインは同じである。3棟が相似形をなし、美しいビルになっている。
 
ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルは、海に浮かぶヨットの帆をイメージした外観である。これもとても美しいビルである。

 バスは、大正から昭和初期にかけて造られた赤煉瓦造や石造の建物が建つ通りに入る。重厚で、風格のある建物が並ぶ。
 10分程走り、中村川に架かる
谷戸橋を渡る。谷戸橋は、昭和2年(1927年)竣工。親柱の頭頂部の照明器は、ピラミッド状に重ねたアールデコのデザインである。横浜市認定歴史的建造物である。

 バスは、橋を渡って左へ曲がり、少し走って、右へ曲がり、谷戸坂(やとざか)の急な坂を上る。左側は桜並木になっている。桜の花は満開に近い。
 坂を上りきり、5分程で停留所「港の見える丘公園」に着く。ここで
バスを降りて、少し後戻り、反対側の通りへ渡る。昭和12年(1937年)建築の横浜市イギリス館(旧英国総領事公邸)が建っている。平成2年、横浜市指定文化財になった。

 今日は、ジェイ・ヒル・モーガンの作品を三ヶ所訪ねる。右へ曲がり、150m程歩く。左手に、山手111番館が建っている。


山手111番館  大正15年(1926年)建築 横浜市指定文化財


山手111番館


 赤いスペイン瓦と、鏝塗りで仕上げられた白いスタッコ壁のスパニッシュ様式の建物である。左右対称が一層、建物を美しく見せる。
 玄関ポーチはなく、三連アーチのバーゴラを設けている。葡萄の蔓を這わせ、また、藤棚として利用され、それぞれの葉が緑陰を作っただろう。

 鉄筋コンクリート造り地下1階付木造2階建である。
 中に入る。建物の1階中央にホールを設け、2階吹き抜けになっている。2階から1階ホールを見下ろせるように2階は回廊を巡らせてある。
 ホールを囲むように部屋を配置している。どの部屋も窓を大きく取り、光りと風を取り込むようにしている。

 2階は期間限定で公開しているようである。今日は、2階は見学することはできなかった。

 この建物は、アメリカ人実業家・ジョン・エドワード・ラフィン(1890〜1971)の私邸であった。
 ラフィンは、明治23年、横浜に生まれる。父親はアメリカ人、母親は日本人であった。アメリカの陸軍士官学校に留学するが、卒業後、日本に戻り、港湾の荷役業務の会社を父親と経営する。

 ロシア系女性と結婚。3人の子供が生まれる。
 太平洋戦争中は、家族とアメリカに移住する。戦後、日本に帰るが、昭和28年(1953年)、妻と子供たちは再び渡米する。ラフィンは横浜に残る。

 妻子の思い出が残る邸宅に独り住み、ラフィンが何を考えていたのかは分からないが、少なくとも、ラフィンが、横浜の高台に位置する山手の地と、ここに吹く風や溢れる光を愛していたことは窺える。
 昭和46年(1971年)、カリフォルニアで亡くなり、現地で埋葬される。享年81歳であった。
 

 邸宅は、平成8年、横浜市に寄贈される。横浜市は、敷地を取得し、保存、改修工事を行い、同11年から一般公開した。 


 横浜市中区山手町111
 JR根岸線桜木町駅下車 バスに乗り換え、停留所「港の見える丘公園」で降りる。
 みなとみらい線元町・中華街駅下車


 停留所「港の見える丘公園」に戻り、先へ進む。100m程歩く。山手外国人墓地に突き当たる。道が左右に分かれている。左へ曲がり、外国人墓地を右手に見ながら山手本通りを歩く。モーガンもこの墓地に眠っている。港から汽笛が聞こえる。

 150m程歩く。次の停留所「元町公園前」の手前に、英国国教会の横浜山手聖公会が建っている。


横浜山手聖公会  昭和6年(1931年)建築 横浜市認定歴史的建造物


横浜山手聖公会


 重厚で威厳のある建物である。ゴシック式、鉄筋コンクリート造り、外壁に大谷石を貼っている。建物の重量感に信仰の厳しさと堅固さを感じる。玄関から立ち上がった鐘楼の上部は、中世英国の城砦を彷彿させる。

 仙台市の東北学院大学本館ラーハウザー記念礼拝堂は、昭和7年(1932年)、モーガンが設計しているが、礼拝堂の上部が、横浜山手聖公会と同じ城砦のような外観である(ラーハウザー記念礼拝堂については、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月12日参照)。


 横浜市中区山手町235
 JR根岸線桜木町駅下車 バスに乗り換え、停留所「元町公園前」で降りる。
 みなとみらい線元町・中華街駅下車


 通りの反対側に、元町公園がある。沢山の桜の木があり、花はほぼ満開である。シートを広げて座り、飲み物を飲みながらのんびりと花見をしたり、桜を写真に撮ったり、スケッチブックを開いてスケッチしたり、思い思いに桜の花を楽しんでいる。
 絵画教室のグループだろうか。10人ほどの年齢が様々な男女が、スケッチ用の折りたたみの椅子に座り、桜と洋館を組み合わせた水彩画を描いている。
 桜の木は、斜面を下り、隣の外人墓地の近くまで続いている。華やかな光景である。

 150m程歩く。右手の角に、ベーリック・ホールが建っている。


ベーリック・ホール  昭和5年(1930年)建築 横浜市認定歴史的建造物


ベーリック・ホール


 600坪の広い敷地に、芝生の広い庭を前にして、南向きにベーリック・ホールが建っている。
 鉄筋コンクリート造り地下1階付木造2階建。赤いスペイン瓦と、朽葉色(くちばいろ)のスタッコ壁のスパニッシュ様式の建物である。暖炉の煙突にも瓦を葺いている。

 ベーリック・ホールは、ロンドンで生まれた英国人貿易商・バートラム・ロバート・べリック(1878〜1952)の私邸であった。
 べリックは、この邸宅で10年程を過ごした後、昭和16年(1941年)の太平洋戦争が始まる前に家族と共にカナダへ移住する。その地で余生を送り、亡くなった。

 昭和31年(1956年)、遺族は、フランスに本部を置くカトリック男子修道会・マリア会に土地と邸宅を寄贈する。
 マリア会は、明治34年(1901年)、横浜に居留する外国人の子弟の教育機関として、12年制の男子校である
セントジョセフカレッジを横浜市中区山手町43番地に創立する。
 明治38年(1905年)、山手町85番地に校舎を移転する。

 寄贈を受けたマリア会は、邸宅をセントジョセフカレッジの寄宿舎として利用する。この時、邸宅を、「ベーリック・ホール」と命名する。

 昭和59年(1984年)、校名を、セントジョセフインターナショナルスクールに変更する。
 平成7年、マリア会は、セントジョセフインターナショナルスクールの廃校を発表する。
 同12年、最後の卒業式が行われ、惜しむ声が多い中、99年の歴史に幕を下ろした。
 同13年、マリア会は、ベーリック・ホールを横浜市に寄贈する。横浜市は、敷地を取得する。その後、復元、改修工事を行い、平成14年から一般公開した。

 三連アーチの玄関ポーチを通って中に入る。白と黒のタイルを市松模様に敷いた美しい玄関ホールに入る。


玄関ホール


 左側に客間があり、その奥に食堂がある。いずれも南側に造られている。
 食堂は、格天井を設え、和風の造りになっている。壁の一部を後退させ、床脇のような空間を作り出している。漆喰の壁に剥き出しにした柱と桁の焦げ茶色と、壁の白の対比が美しい。瀟洒で気品のある部屋である。


食堂


 玄関ホールに戻る。右側に、広い居間がある。過去、この部屋でパーティーが開かれ、招待した客との楽しい歓談が行われていたのだろう。


居間


 居間の隣の北側に、「パームルーム」と表示された部屋がある。「サンルーム」は知っているが、「パームルーム」は初めて知った名称である。
 係りの人に尋ねると、「パームは、椰子ですね。サンルームは、南向きに造りますが、パームルームは、北向きになっています。夏、暑いときにここで過ごしていたようです。」というお話しだった。椰子の葉陰で涼む、という意味から「パームルーム」という名称ができたのかな、と考えた。


パームルーム


 2階へ上がる。2階は、寝室が、令息寝室、客用寝室、主人寝室、夫人寝室の4部屋、浴室が3つある。1階と同じで、いずれも南向きに造られている。廊下を隔てて北向きにリネン室がある。
 夫人寝室の隣に、東、南、北の三方向に向いているサンポーチがある。また、南側と北側に、それぞれバルコニーがある。
 北側のバルコニーと、サンポーチから海が見えていたようです、と係りの人の説明があった。現在は、北側に家が建ち、海を見ることはできない。

 明治45年(1912年)、8歳の少年が朝鮮から日本に移り、セントジョセフカレッジに入学した。
 少年は、現在の釜山に生まれる。父親はノルウェー人、母親は日本人であった。
 少年の名前は、
チャールズ・ジョン・ペダーセン(1904〜1989)。後に、ノーベル化学賞を受賞する。 

 大正11年(1922年)、ペダーセンは、セントジョセフカレッジを卒業後、アメリカに渡り、デイトン大学、マサーチュセッツ工科大学で化学を学ぶ。マサーチュセッツ工科大学で修士号を取得後、化学会社であるアメリカのデュポン社に入社し、研究を続ける。

 昭和62年(1987年)、長い間の研究の成果が高く評価され、ノーベル化学賞を受賞した。83歳であった。
 2年後の平成元年(1989年)、死去した。


ベーリック・ホール


 スパニッシュ様式の建物は、19世紀末から20世紀にかけて、アメリカで流行した。
 建築家・
ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)も、数多くのスパニッシュ様式の建物を設計している(ヴォーリズについては、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日、同目次36、平成19年11月23日及び11月24日参照)。

 以下は、私の推測である。
 年間の日照時間が少なく、寒い日が多いイギリスやドイツに住む多くの人にとって、南欧は憧れの地であったと思う。
 ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(1749〜1832)の
「ヴィルヘルム・マイステルの徒弟時代」に、「ミニヨンの歌」と呼ばれている詩が挿入されている。その詩の世界は、暗雲が垂れ込めて、陰鬱な気候が続く土地に住む人にとっては、一度は訪れて、可能であれば住んでみたい所であったと思う。
 「ミニヨンの歌」は、イタリアへの賛歌であるが、明るい陽光と爽やかな風は、理想の世界として心を捕らえただろう。

 ロンドンで生まれたべリックの南欧への憧れと、アメリカで流行していたスパニッシュ様式による建築設計を行っていたモーガンの技術が一致し、スパニッシュ様式の明るい雰囲気の邸宅が完成した。
 南向きに窓を大きく取り、光と風を室内に取り込んだ。日本の家屋と異なって、スパニッシュ様式の建物は、庇が浅く、光と風を充分に室内に入れることができる。
 イスラム様式の飾り小窓が建物に良く調和している。
広い芝生の庭には、棕櫚、蘇鉄、竜舌蘭等の南国の樹木や植物が植えられた。

 陽光に溢れ、春になると、爽やかな風に桜の花びらが舞い、萌黄色の新緑が輝く美しい高台の山手町に住み、べリックもラフィンと同様にこの地を愛していたと思う。

 「ミニヨンの歌」は、其の一から其の三まであるが、其の一を記す。森鴎外訳のものである。


      君知るや南の國
      レモンの木は花さきくらき林の中に
      こがね色したる柑子(かうじ)は枝もたわわにみのり
      リれてき空よりしづやかに風吹き
      ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く
      くもにそびえて立てる國をしるやかなたへ
      君と共にゆかまし


 横浜市中区山手町72
 JR根岸線桜木町駅下車 バスに乗り換え、停留所「元町公園前」で降りる。
 みなとみらい線元町・中華街駅下車


元町公園







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