1 東京〜春日部(埼玉県)〜小山(栃木県)〜日光


・平成10年7月18日(土)  東京〜草加〜春日部



隅田川に架かる清洲橋


 小名木(おなぎ)川が隅田川に合流する地点の高台に、芭蕉の坐像が置かれている芭蕉庵史跡展望庭園がある。
 その庭園から昭和3年竣工の紺色の美しい
清洲橋が見える。説明文に、ドイツのケルン市に架けられたライン河の吊り橋をモデルにした、とある。
 石段を降りてすぐ近くの
芭蕉稲荷神社へ行く。芭蕉庵があった所とされている。旅の安全を祈願する。

 逆の方向へ行くことになるが、長さ56mの万年橋(昭和5年竣工)を渡る。清澄庭園の中を通り、仙台堀川に架かる海辺橋を渡る。橋の袂に、芭蕉の門人・杉山杉風(さんぷう)の別荘であった採茶(さいと)庵跡の碑が立っている。その横に、右手に杖、左手に網代笠を持った芭蕉の銅像がある。芭蕉はここから「奥の細道」へ旅立ったといわれている。


      草の戸も住み替は(わ)る代(よ)ぞひなの家

      ゆく春や鳥啼(な)き魚(うお)の目は泪(なみだ)


 もう一度同じ道を通って芭蕉稲荷神社に戻る。
 裏通りを歩く。印刷所、断裁所、釣りの餌あります、と書かれた看板を出している店などが並んでいるが、どこも戸を閉めている。印刷所の奥から印刷機の規則的で軽快な音が聞こえてくる。
 9時半の開館を待って
江東区芭蕉記念館へ入り、「奥の細道」他当時の旅についての展示物を見る。

 元禄2年(1689年)3月27日(太陽暦5月16日)、46歳の芭蕉(1644〜1694)は、5歳下の門人・河合曾良(そら)(1649〜1710)を伴って古人が歌に詠み込んだ諸国の名所(歌枕)を訪ねる旅に出た。旅の始めは、深川から千住まで舟に乗った。今は舟の便はないので隅田川の東岸を歩く。

 両国橋(昭和7年竣工)、蔵前橋(昭和2年竣工)、厩橋(昭和4年竣工)、駒形橋(昭和2年竣工)、吾妻橋(昭和6年竣工)、言問橋(昭和3年竣工)を通り過ぎ、白髭橋(昭和6年竣工、長さ168m)を渡る。泪橋の交差点を右へ曲がり、長さ502mの千住大橋を渡って北千住に着く。JR北千住駅の駅ビルのレストランで昼食を摂る。

 駅ビルを出て100m程先を右へ曲がり、旧日光街道の北千住サンロード商店街に入る。
 商店街を通り抜けた先の右側に、足立区の有形民俗文化財に指定されている
横山家住宅がある。万延元年(1860年)の建築、出桁造の2階建。説明文によると、横山家は「松屋」の屋号で江戸時代から戦前まで手広く地漉紙(じすきがみ)を扱う問屋だった、とある。

 通りの反対側にある絵馬屋吉田は江戸中期より手描きの絵馬を作り続けている。入り口に面した畳敷きの部屋は帳場だったと思われる。
 更に先へ進むと、右側に名倉整形外科病院が建っていて、その敷地内に
名倉医院旧診療所の建物がある。160年前の建築といわれている長屋門も残っている。骨接ぎの治療を受ける人たちは、この長屋門を潜って診療所へ入ったのだろう。

 歩いていると荒川に突き当たるので左へ曲がり、長さ446mの千住新橋を渡る。5キロ程歩いて国道4号線と別れ、旧道を歩く。埼玉県の草加市に入り4キロ程歩く。草加せんべいの店が見えてくる。

 草加の松並木の土の道を歩く。右側を流れる綾瀬川もここまで来ると川幅が狭くなっている。太鼓橋を模した陸橋が2ヶ所にある。その陸橋の丸くなったてっぺんから見下ろすと、歩いている人たちが松並木に見え隠れして昔の旅人のように見える。左側は交通量が多いためか木の丈が低い。寛永7年(1630年)に松が植えられたといわれているが、その当時から続いている松は少ないと思われる。1、5キロ程歩いて、松並木が尽きたので旧道に戻る。


草加の松並木


 越谷の辺りで日が暮れてきた。公園でカラオケ大会の舞台を作っている男たちがいる。お母さんたちは模擬店の準備をしている。春日部に入った頃には日が落ちていた。盆踊りでもあるのか、浴衣姿の若いカップルや子供を連れた家族がおおぜい賑やかに喋りながら歩いてくる。JR春日部駅に着いたのは8時だった。


同年7月19日(日)  春日部〜栗橋〜古河

 JR春日部駅を出て古利根川まで歩く。川沿いに歩くことにする。古利根川は利根川の旧流域である。

 筑波大学教授佐藤常雄氏の『貧農史観を見直す』によると、戦国大名は、領内を流れる河川の洪水や乱流の防止のために大河川の改修に着手した。利根川の本流は江戸湾に流れ込んでいたのだが、太平洋の銚子口へ流れを変更する瀬替も行われた、とある。
 そして、次の記述がある。


 「戦国時代から江戸時代前期にかけて、日本の主要な河川である岩木川・北上川・最上川・利根川・信濃川・富士川・木曽川・大和川・淀川・加古川・大竹川・筑後川・白川などの治水が手がけられた。我々は、日本の河川を自然の流れのままと思いこんでいるが、この時期に上流部を除いて自然の流路ではなくなり、ほとんどが人口の河川となったのである。」


 杉戸町で古利根川と別れ国道4号線に入る。幸手市を通り栗橋町に着く。利根川架かる長さ640mの利根川橋を渡り茨城県の古河市に入る。7キロ程歩いて古河駅に着く。


同年7月20日(月)  古河〜間々田〜小山





 古河駅を出て宇都宮線の線路沿いの静かな住宅街を歩く。30分程で栃木県の野木町に入る。7キロ程歩いて間々田駅の駅前の食堂で昼食を摂る。

 歩いていると、あたり一面水田が拡がっている場所に出た。水田はたっぷりと水をたたえ、50センチ程に成長した稲は風に揺れている。稲の根元で何か動いているものが見える。しゃがんで見ると、親指の爪ほどの小さなアマガエルがあちらこちらでぴょんぴょん跳んでいる。濃い緑色の稲を通った日の光で、アマガエルの碧色は鮮やかさを増す。

 道に迷わないように宇都宮線の線路を目印にして歩き、小山駅に着いたのは午後2時だった。3日間歩いて芭蕉と同じ距離を同じ時間で歩くのは無理なことが解かった。


・同年8月13日(木)  小山〜栃木〜壬生

 小山駅を出て国道4号線を3キロ程歩き、喜沢の交差点を直進する。南半田、飯塚を通り、栃木市に入る。途中、姿川に架かる半田橋、思川に架かる大光寺橋を渡る。大神(おおみわ)神社に着く。最初の歌枕の「室の八島」は大神神社の境内といわれている。朱塗りの反り橋を渡って境内に入る。『おくのほそ道』に収められてはいないが、芭蕉の「糸遊(いとゆう)に結びつきたる煙かな」の句碑が立っている。その横に「水琴窟」と書かれた木の札が立っていた。

 水琴窟(すいきんくつ)は、底に小さい穴を開けた甕を逆さにして土中に埋め、甕の中に溜まった水に上から落ちた水滴があたり、甕の中で共鳴する音を楽しむ仕組み、ということは知っていた。しかし、甕の中にいつも一定の水を溜めておくためには逆さにした甕の口はどうなっているのだろうか、余分な水の排水はどうしているのだろうか、と解らないこともある。それでも珍しい水琴窟に出会い、音が聴けることを期待して蹲の水を柄杓で掬って、粗く敷かれた小石の上にかけ、節を抜いた竹筒が地中に挿してあるのでそこに耳をあてる。
 琵琶の響きに似た雅やかな音が微かに聴こえた。

 朝から曇っていたので気になっていたが、ポツ、ポツ、落ちてきた、と思う間もなく大粒の雨が降り出した。雨は激しくなり地面を叩きつける。大神神社を出て県道を歩く。傘をさしているけれどもずぶ濡れになる。保橋を渡るとき下を見ると、20分程前に降り出したばかりだったのに思川は濁流になっている。更に0分程歩いて東武宇都宮線の壬生駅に着いた。


・同年8月14日(金)  壬生〜鹿沼

 壬生駅を出て国道352号線を歩く。下稲葉の畑の中に「金売吉次」の墓がある。

 金売吉次(かねうりきちじ)は、室町時代の初期から中期にかけて書かれたと推定されている『義経記』(小学館発行、新編日本古典文学全集、校注・訳者・梶原正昭氏)に、

 「三条に大福長者あり。名をば吉次宗高(きちじむねたか)とぞ申しける。毎年(まいねん)に奥州へ下(くだ)る金商人(こがねあきうど)なり」と書かれている。

 遮那王(しゃなおう)と呼ばれていた16歳の義経を奥州平泉へ案内し、以前から対面を望んでいた藤原秀衡(ふじはらのひでひら)に引き合わせる。この地で病死し、その死を悼んだ村人たちが墓を建てた、といわれているが、吉次が実在の人物だったかどうかは判っていない。赤い屋根の小さな祠に丸い石が納められていた。

 8キロ程歩き楡木に着く。例幣使(れいへいし)街道に入る。
 例幣使街道は、朝廷の勅使(例幣使)が毎年日光東照宮へ赴く際に通った道である。道幅が広く、歩き易い。6キロ程歩いて東武日光線の新鹿沼駅に着く。


・同年8月15日(土)  鹿沼〜今市〜日光

 新鹿沼駅を出て国道293号線を歩く。旧い商家の建物が並んでいる。3キロ程歩いて、黒川に架かる御成橋を渡り左へ曲がる。2キロ程歩くと、間隔は開いているが並んで立つ杉の大木が見えてきた。更に2キロ程歩く。日光杉並木が始まる。

 杉並木の中は国道121号線になっている。車道よりも高い位置に木道が造られている。木道を歩く。草が丈高く生い茂り木道が見えない所もある。途中で木道がなくなったので下に降りて狭い歩道を歩く。杉並木の中は暗く湿度が高い。徳川家康の家臣・松平正綱が日光東照宮の参道として20年以上に亘って杉の苗木を植えた。樹齢350年以上、平均27mの高さの杉の大樹が天を覆う。

 12キロ程歩いて板橋の交差点に出る。これから通る杉並木が遥か彼方へと続く山並みに見える。
 更に6キロ程歩いて杉並木を抜ける。東武日光線下今市駅の駅前のレストランで昼食を摂る。1キロ程歩く。ここから日光までの7キロの杉並木は遊歩道になっている。

 左側の国道119号線沿いに気になる建物があるので近づいてみる。大正3年建築の今市浄水場(現・水道資料館)である。木造3階建ての白い建物は、赤い半切妻屋根を持ちドイツの民家を彷彿させる。



杉並木





 ここからは車の心配がない。土の道で歩き易い。両側の側溝にきれいな水が流れている。頭上高く杉の木が覆い辺りは暗い。何も聞えない。静謐に満ちている。
 1時間半程歩いて杉並木が終わった。やっと日光に着いた。東京を出てから6日目だった。

 500m程歩いて瀟洒な駅舎のJR日光駅の前に出た。大正元年建築、ハーフティンバー様式の木造2階建。白い壁と剥き出しの柱の薄いピンク色が優しい印象を与える。中に入ると右手に2階に上がる階段がある。2階は一等乗客の待合室だったが立ち入り禁止の札が下がっていた。
 坂を100m程登る。右手に
、女峰山(2,483m)のたおやかな山容が見える。東武日光駅に着く。駅前も駅の待合室もおおぜいの観光客で溢れていた。東武電車で帰る。






・同年8月16日(日)  日光



神橋


 東武日光駅を出て坂を登る。ゆば、羊羹、たまり漬等の店がある。20分程で大谷川(だいやがわ)に架かる日光橋に着く。朱塗りの神橋(しんきょう)をよく見ようとして欄干に近づいた。下から冷気が吹き上がっている。川の冷たい水が熱い空気に触れて急速に蒸発していると思われる。川面に靄がかかっている。坂を登って汗をかいている身にはありがたく、しばらく欄干に寄りかかって冷風に体をあてていた。



大谷川



 川沿いに1キロ程歩いて橋を渡り、川の反対側を歩く。更に1キロ程歩いて含満(がんまん)ヶ淵に着く。奇岩、巨石が大谷川の流れに変化を与え、深い淵は蒼みを帯びている。この辺りから数多くの石地蔵が川を向いて並んでいる。数えるたびに数が違うので化け地蔵と呼ばれている。
 「にじゅうさん、にじゅうし、にじゅうご、にじゅうろく」、小学校低学年くらいの女の子が大きな声で数えながら歩いている。後ろから両親らしき二人がニコニコしながら歩いて来る。
 石地蔵が尽きたので引き返す。国道120号線に出る。石造りの教会が見える。


日光真光教会 内田定鎚邸(横浜市)

 大正3年建築、栃木県指定有形文化財の日本聖公会日光真光(しんこう)教会である。設計はアメリカ人ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(1857〜1925)。石積みのゴシック式の建築に重厚さと信仰の厳しさを感じる。

 一方、同じガーディナー設計の
内田定鎚邸(国重要文化財)は、アメリカンヴィクトリア様式の塔屋を持つ木造2階建。明るく大らかな雰囲気に満ちている。明治43年建築の外交官・内田定鎚の邸は、東京都渋谷区南平台にあったが、平成9年横浜市に移築され、一般公開されている。JR石川町駅を降りて急な坂を登った所の「山手イタリア山庭園」内にあり、「外交官の家」として親しまれている。1階食堂の暖炉型ストーブの周囲にはめ込まれたタイルは、美しい翡翠の色のマジョルカ・タイル、模様はアール・ヌーヴォー。 優雅な生活が偲ばれる。

 2キロ程歩く。途中、日光田母沢御用邸の前を通る。郵便局を右へ曲がり坂を登る。右手に住宅が拡がっているが、登るにつれてそれもなくなり濃緑の樹木の中を歩く。左手には木立の間から荒沢の流れが見える。2、5キロ程登ると案内板がある。道路から離れて川と崖の間の狭い道を歩く。水が落下する音が聞こえてきた。川に架かる木製の橋を渡り裏見滝(うらみのたき)の前に出た。
 崖を這う草木を濡らし、轟音を響かせて落差45mの高さを水が落下する。


      あらたふと青葉若葉の日の光

      しばらくは滝にこもるや夏(げ)の初め


 滝を眺めていると汗が退いてきたので登って来た坂を降りて国道120号線に戻る。停留所「裏見の滝入口」からバスに乗り「神橋」で降りる。日光へ行ったら日光金谷ホテルで食事をしようと思っていたのでホテルへ通じる急な坂を登る。

 日光金谷(かなや)ホテルは、明治6年創業。坂を登りきった正面の建物が本館で明治26年建築、右手の建物は別館で昭和10年の建築である。
 本館の木製の回転ドアを押して2階吹き抜けのホールに入る。フロントの上方に神橋を思わせる朱塗りの欄干が見える。
 手すりが大谷石になっている階段を上がる。2階に上がると手すりが擬宝珠を持つ朱塗りの欄干に変わり、3階に通じる階段の手すりは洋風になっている。
 メインダイニングルームの入り口から案内されてテーブルに着く。「虹鱒のソテー金谷風」を注文する。料理が来る間、室内の豪華な意匠を鑑賞する。天井を支える円柱頭部の飾りは、アカンサスの葉ではなく彩色された牡丹の透かし彫りである。


小食堂 小食堂
メインダイニングルーム メインダイニングルーム


 アメリカ人の若い女性6人と日本人の男性1人がテーブルにそれぞれファイルを広げて話をしている。時おり明るい笑い声が起きる。夏期セミナーのようなものだろうか。
 隣のテーブルに20代後半の夫婦と5歳位の男の子が案内されて席に着いた。男性が従業員に「明日、帰ります」と話している。男の子は幼い頃の夏、若かった両親と日光金谷ホテルで過ごしたことを生涯忘れないだろう。

 「虹鱒のソテー金谷風」は、虹鱒を揚げた後にバター風味にソテーしている。好みに応じて醤油をベースにしたソースをかける。ソースにはみりんも加えられているようである。このソースは、虹鱒を淡白な味のままで終わらせず肉の甘みを引き出している。

虹鱒のソテー金谷風  グレープフルーツのシャーベット

 ホテルを出る頃には午後2時を過ぎていた。日光山輪王寺(にっこうざんりんのうじ)は外から拝観するにとどめて日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の参道に入る。 




輪王寺 三仏堂

 日光東照宮禰宜の神職及び文庫長の職に就いておられる高藤晴俊氏は、著書『日光東照宮の謎』の中で、祖父・家康を崇拝した三代将軍家光は、父・秀忠が亡くなり、幕府の全権を握ると日光東照宮の全面的な建て替えを計画した。工期は寛永11年(1634年)から僅か1年5ヶ月だった。建て替えの収支決算書である「日光山東照大権現様造営御目録」を参考にして、動員された総延べ人数は約650万人、他に動員された役人の数は延べ45万人に及び、総工費は約2千億円になる、と述べておられる。



 鬱蒼とした杉木立の中の参道は緩やかな坂になっている。両側の側溝に山からの清冽な水が音を立てて走り下っている。幅の広い参道をおおぜいの人たちがあとからあとから登っていく。
 石段を登って石の鳥居をくぐる。左手に今まで見たこともない赤い五重塔が建っている。やはり赤の色が目立つ表門を通る。三棟の倉庫である赤と金色の
三神庫を見て次第に落ち着きが無くなってくる。石段の下から見上げた陽明門を見て驚いた。少しの隙間も許さないような膨大な彫刻が施され色彩が溢れている。 
 江戸時代の人々もこの光景に度肝を抜かされたに違いない。唐門、拝殿他全ての建造物も同様である。想像上の動物や鳥類の彫刻を一つ一つ見ると面白いのだろうが時間の余裕は無いし、大勢の人たちの中で賑やかな建造物を見ていると益々暑くなってくる気がする。

 左甚五郎の作と伝えられる「眠り猫」を見る。本地堂で「鳴龍」を見る。係りの人が二枚の板を叩き合わせると鈴を転がすような音が室内に響き渡り、天井に描かれた龍が鳴いているように聞える。東インド会社から奉納された「回転灯籠」、神厩舎の壁に設置されている「三猿」の彫刻を見て東照宮を出る。


三猿 眠り猫

 日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)の境内に入ってほっとした。聳える杉の木や軽やかな建物が清々しい。
 三代将軍家光の廟所である大猷院(たいゆういん)は時間が間に合わなくて拝観できなかった。

 


 

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