今市〜矢板〜大田原〜黒羽〜黒磯〜那須湯本


・平成10年11月22日(日)  今市〜矢板

 東武日光線の下今市駅を出て1キロ程歩き、国道461号線に入る。7キロ程歩き、鬼怒川に架かる大渡橋を渡る。周りの山々はまだ紅葉が残っている。船生(ふにゅう)、玉生(たまにゅう)、倉掛、幸岡(こうか)を通る。 

 矢板駅に着いた時には暗くなっていた。駅前のホテルに泊まる。


・同年11月23日(月)  矢板〜大田原

 道路の横に雑木林が広がっている。厚く積もった落ち葉が濡れている。夜中に雨が降ったのだろうか、湿った匂いがする。気温が上がってきているのが解る。賑やかに囀る小鳥の声を聞きながら歩く。家紋を標した土蔵の白漆喰の壁に晩秋の暖かい陽が当たっている。
 国道461号線に入り、箒川に架かる野崎橋を渡る。8キロ程歩き、「中央1丁目」の停留所からバスに乗り、西那須野駅に出て帰る。


・同年12月5日(土)  大田原〜黒羽

 西那須野駅に近づくにつれて電車の窓ガラスに雨が当たってきた。駅を出てバスに乗り、「中央1丁目」で降りる。国道461号線を傘を差して歩く。8キロ程歩き那須神社に着く。雨は止んだ。



那須神社



楼門


那須与一と思われる木像 坂上田村麻呂と思われる木像

 両側が杉並木の300メートルの長い参道を歩く。石造りの反り橋を渡り、天正5年(1577年)黒羽藩主大関氏により建てられた、栃木県の有形文化財に指定されている楼門をくぐる。
 征夷大将軍
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758〜811)と弓の名手那須与一(なすのよいち)(1169〜?)は戦勝祈願にここを訪れたといわれている。
 楼門に彩色された2体の木像が安置されている。1体は坂上田村麻呂、もう1体は
『平家物語』(小学館発行、新編日本古典文学全集、校注・訳者・市古貞次氏)の記述を基に作られた那須与一であると思う。


 「与一其比(そのころ)は廿(にじふ)ばかりの男子(をのこ)なり。かちに、赤地(あかぢ)の錦(にしき)をもッておほくび、はた袖(そで)いろへたる直垂(ひたたれ)に、萌黄威(もよぎをどし)の鎧着て、足白(あしじろ)の太刀(たち)をはき、切斑(きりふ)の矢の、其日のいくさに射て少々のこッたりけるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、うす切斑(ぎりふ)に鷹(たか)の羽(は)はぎまぜたるぬた目の鏑(かぶら)をぞさしそへたる。滋藤(しげどう)の弓脇にはさみ、甲(かぶと)をばぬぎ高紐(たかひも)にかけ、判官の前に畏(かしこま)る。」


 紅の袴を着けた平家の美しい女人が舟棚にはさんで立てた扇を与一は見事射落とす。


 「与一鏑(かぶら)とッてつがひ、よッぴいてひやうどはなつ。小兵(こひやう)といふぢやう十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦ひびく程長鳴(ながなり)して、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きッたる。鏑(かぶら)は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさッとぞ散ッたりける。夕日(ゆふひ)のかか(が)やいたるに、みな紅(ぐれなゐ)の扇の日いだしたるが、白浪(しらなみ)のうへにただよひ、うきぬ沈みぬゆられければ、興(おき)には、平家ふなばたをたたいて感じたり。陸(くが)には、源氏箙(えびら)をたたいてどよめきけり。」


 海に散った紅に金色の日の丸を描いた扇は、栄耀栄華を誇った平家の落日であった。
 子供の頃やさしく書かれたこの物語を読んだ時、戦いの最中、敵にも拘わらず優れた技量に対し舟のへりを叩いて喝采する行為に心が洗われるような思いをしたことを覚えている。

 2キロ程歩いて黒羽町に着く。黒漆喰の土蔵を彷彿させる明治38年建築、国登録有形文化財の旧黒羽銀行(現・足利銀行黒羽支店)が建っている。他に旧い造りの広壮な邸宅等が見られ、通りには蔵が並ぶ。

 食堂で昼食を摂っている間にまた雨が降り出した。冷たい雨の中を約2時間歩いてホテル黒羽スプリングスへ行く。
 部屋には風呂は無い。寒いのですぐ別室になっている浴室へ行く。15人程で一杯になるような広さだった。浴槽に入って驚いた。柔らかいもので体を包まれるような感触があった。無色無臭で肌触りがよく、ゆっくりと温まる気持ちの良いお湯である。誰もいないので手足を伸ばし体を浮かせる。脱衣場に泉質表が貼ってあったがよく見なかった。アルカリ性のお湯だと思う。これが温泉だと思った。
 寝る前にもう一度温泉に入る。露天風呂にも入る。余笹川の水音を聞きながら、冷たい空気と暗闇の中で、今年も終わりだなと思った。


同年12月6日(日)  青木周蔵別邸(寄り道)

 晴れていい天気になった。
 ホテルの案内に、ホテルと那須塩原駅間で送迎する旨書いてあったので尋ねると、「他の駅でもいいですよ」、ということで黒磯駅までお願いした。送ってもらうのは1人だけだった。運転手は昨日と今朝フロントに立っていた人だった。親切な人で、沿線の説明があり、8月26日夕方から27日朝にかけて台風に伴う豪雨により余笹川が氾濫して、亡くなった人や行方不明の人が出た、という話があった。
 30分程で黒磯駅に着いた。ありがとうございました。

 ちょうどバスが出たあとで次のバスまで大分時間があるので歩くことにする。県道を歩く。約2時間で白い洋館の青木周蔵別邸に着く。


青木周蔵別邸


 青木周蔵別邸は、明治時代、外交官、外務大臣を歴任した青木周蔵(1844〜1914)の別荘である。明治21年建築の木造2階建。明治42年に左側平屋部分を増築している。
 中に入る。廊下の壁に鹿の角が掛けられている。2階に上がり、ガラス戸越に外を見る。広いバルコニーの向こうに、県道に面した門から正面玄関に向かって直線に伸びる300メートルの長い道が見える。両側は亭々と茂る杉の大樹が並んでいる。
 青木周蔵に招待された客は、板室街道から門を入り、走る馬車の窓から美しい杉並木を眺め、その夜の華やかな宴が既に始まっていることを知っただろう。

 青木周蔵他山縣有朋、大山巌、松方正義等政府の高官が広大な那須野ヶ原を開墾し、農場を開設した。農場を経営しつつ英国の貴顕紳士に倣って、狩猟を愉しみ、釣りに時間を忘れ、雨の日には読書を楽しむ田園生活に憧れていたと思われる。

 バスで黒磯駅に戻り、帰る。


・平成11年3月20日(土)  黒羽〜黒磯

 西那須野駅に近づくにつれて前回と同じように雨が電車の窓ガラスを叩き始めた。西那須野駅からバスに乗り、黒羽町の停留所「大豆田」でバスを降りる。
 前回よりも雨が激しく、風も加わり、まっすぐに傘が差せない。余瀬(よぜ)を通る。玉藻稲荷神社の近くを通るが、ここは、夏、黒羽の雲厳寺と一緒に訪ねることにする。野間を通る。途中、食堂で昼食を摂りながら地図を開いて現在の場所を確認する。15キロ程歩いて、鍋掛の交差点を左へ曲がる。更に5キロ程歩いて黒磯駅に着く。雨は止んだ。

 駅の反対側に出る。駅前に旧い建物が並んでいる。大正5年建築の旧黒磯銀行本店の石造りの建物は現在喫茶店になっている。店舗の裏に高塀をめぐらした広い敷地を持つ酒屋は、以前は造酒屋だったと思われる。
 駅前のホテルに泊まる。


・同年3月21日(日)  黒磯〜那須湯本

 ホテルを出て1キロ程歩き、那珂川に架かる昭和7年竣工、長さ128mのアーチ形の晩翠橋(ばんすいきょう)を渡る。
 高久(たかく)の交差点を左へ曲がる。両側に赤松の林が拡がる。林の中の遊歩道を歩く。林が尽きると畑地が続く。雪が残っている茶臼岳(1、915m)が遠くに見える。道路は樹木の間を入っていく。まだ冬枯れの景色しか見えない。

 14キロ程歩いて、三叉路になっている一軒茶屋に着く。緩やかな登りになる。新那須を過ぎた辺りから急坂になりカーブも多くなってくる。ホテルや旅館が増えてくるが、静かな湯治場の雰囲気がある。雪が降ってきた。
 2キロ程歩いて、バスの停留所「那須湯本」に着く。薄っすらと雪が積もっていた。雪は止みそうにない。寒いので温泉に入るだけにして、5月にまた来ることにする。

 共同湯「鹿の湯」に入る。お湯が流れている湯川があり、近づくにつれて硫黄の匂いが強くなってくる。石垣や川底は硫黄の結晶で白くなっている。玄関に入り、川を跨いで造られている渡り廊下を通って風呂場へ行く。
 広いとは言えない風呂場の壁にもたれて胡坐をかいたり、足を伸ばしたりして、居眠りしている人や、仲間と喋ったりしている人たちがいて、それぞれ思い思いに寛いでいる。喋る声、笑い声、絶えず上から落ちている湯の音、風呂桶のカーンと響く音が一緒になって賑やかである。
 4人も入れば一杯になる小さな浴槽が四つあり、それぞれ温度が違う。一番低い42度の浴槽に入る。足が直ぐに底につかない。白濁していて底が見えなかったが意外に深い。
 明治に建てられた風呂場は、床も浴槽も板張り。天井はなく梁が剥き出しの吹き抜けになっている。硫黄の匂いの中、温まりながら、湯気が屋根の湯気抜きの隙間から流れ出ていくのを眺める。

 バスで黒磯駅に戻り、帰る。 





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