3 秋月町 門司港(福岡県) 雲仙(長崎県) 元興寺(奈良市)


・平成23年12月28日(水) 門司(福岡県)

 山陽新幹線の小倉駅で降りて、鹿児島本線の上りに乗り換える。一つ目の門司駅で降りる。
 門司駅と次の小森江(こもりえ)駅の間の沿線には、旧ビール工場が多く残っている。今日は、門司駅前の旧ビール工場を見る。

 駅を出て右へ曲がる。赤煉瓦の威風堂々たる旧ビール工場が建っている。


旧ビール工場


 2日後に訪ねた門司港にある旧門司三井倶楽部の内部で、この旧ビール工場が次のように説明されていた。

 「明治45年に『帝国麦酒』の門司工場が創立。今のサッポロビール工場で、『サクラビール』のブランドで大陸や東南アジアにも輸出していた。開設当時の仕込み場である。」

 鹿児島本線の下りに乗り、博多駅で降りる。駅前のホテルにチェックインする。3泊予約していた。


・同年12月29日(木) 秋月町

 朝食後、ホテルを出る。
 博多駅7時34分発鹿児島本線下りの快速に乗る。基山(きやま)駅に7時57分に着く。基山駅8時17分発甘木(あまぎ)鉄道に乗り換える。8時45分に終点の甘木駅に着く。

 駅前からバスに乗り秋月町へ行く。バスは冬枯れの田園地帯を走る。15分程乗って停留所「目鏡橋」で降りる。


目鏡橋


 野鳥川(のとりがわ)に架かる目鏡橋は、文化7年(1810年)竣工。福岡県指定文化財である。長崎の眼鏡橋を見て、長崎の石工に依頼したといわれている。野鳥川は清冽な水が音をたてて流れている。

 国道322号線(旧秋月街道)を歩く。緩やかな登り坂になる。
 秋月町は、標高859、5mの古処山(こしょざん)の麓に広がる静かな町である。福岡黒田藩の支藩として五万石を分与された秋月藩の城下町であった。筑前の小京都と呼ばれ、町全体が国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 白壁の土蔵や旧い商家が並ぶ静かな通りを800m程歩き、右へ曲がる。野鳥川に架かる野鳥橋を渡る。
 ここから大手門へ続く通りは
「杉の馬場」と呼ばれ、秋月城へ向かう登城の道であった。「杉の馬場」は桜並木になっている。桜が満開の頃、この通りは、たいへん賑やかになるだろう。

 通りの左側に堀跡が続く。500m程歩く。石段を上った所に長屋門が建っている。その少し先にも石段がある。石段を上ると、秋月城の大手門であった黒門が建っていた。




長屋門


黒門


 長屋門と黒門が残っているだけで他には何もない。秋月城跡には秋月中学校が建っている。

 「杉の馬場」に戻り右へ曲がる。100m程歩き左へ曲がり、緩やかな坂を下る。三叉路に出る。右へ曲がる。久野(ひさの)邸武家屋敷の前に出る。反対側の月見坂と名付けられた坂を上る。右側に田代邸武家屋敷が建っている。




久野邸武家屋敷




田代邸武家屋敷


 月見坂を下って左へ曲がる。国道322号線に向かって歩く。
 通りは屈曲して、全体を見通すことができないように作られている。矩折(かねおり)又は枡形(ますがた)と言われている。敵の侵攻を遅らせるために作られた区割りが現在も残っている。

 400m程歩き国道322号線へ入る。古心寺(こしんじ)へ行く。
 古心寺は秋月藩主・黒田家の菩提寺であり、黒田家の墓地がある。そして、最後の仇討(あだうち)と呼ばれた
臼井六郎(うすいろくろう)の墓がある。

 吉村昭(1927〜2006)の『最後の仇討』に、臼井六郎が両親の仇討を決意し、12年後に本懐を遂げるまでが詳細に書かれている。

 幕末、秋月藩も諸藩と同様、幕府に忠節を尽くすべきだという佐幕派と、朝廷側の傘下に入るのが得策という勤皇派とに二分されていた。
 六郎の父・臼井亘理(わたり)41歳は、家老次席の中老の地位にあって政務に参与していた。
 亘理は、当初、藩の安泰をはかるには、あくまで幕府の存続を願うべきであると考えていた。また、新しい時代の流れに応ずるため西洋流兵術の採用を強く藩主に献言し、西洋調練を実施させた。しかし、その後、藩命により京へ出張し、朝廷が天下を支配するのはすでに確定していることを知り、藩の安泰をはかるには朝廷側に深く食い入ることだとして考えを改めた。

 家老吉田悟助は進取的な動きを示す亘理に強い嫌悪感を抱き、反臼井派の藩士たちは亘理を変節漢であると非難し、憤った。

 慶応3年(1868年)5月23日、亘理は、京から帰藩した。
 その夜、臼井家に親類縁者が集まり宴会が開かれた。宴は賑わい酒が酌み交わされ、亘理もしたたかに飲んだ。

 翌24日の未明、熟睡している亘理に秋月藩の干城(かんじょう)隊が襲い、亘理は刺殺され、首を斬り落とされた。同じ部屋に寝ていた妻・清(きよ)は夫を襲う干城隊の一人の腕に噛み付くが逆に斬り殺される。
 別の部屋に寝ていた六郎は難を逃れるが、首のない父と、無惨に切り刻まれた母の死体を見る。首は後に邸内に投げ込まれる。

 干城隊の隊員は45名、殆どが20歳以下の若い藩士で、隊の総督は家老の吉田悟助である。隊の趣旨は、藩、国のために身命を賭して尽力するというもので、基本は古くからの武士道を守ることにあった。
 その後、父を殺害したのは一瀬直久(いちのせなおひさ)、母を殺害したのは萩谷伝之進(はぎたにでんのしん)であることが判明する。11歳の六郎は父母の仇討を決意する。

 慶応が明治と改元された。一瀬直久は東京へ去った。
 明治9年(1876年)8月、19歳になった六郎は東京へ行く。
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)(1836〜1888)の書生となり、山岡の屋敷に住み込む。山岡鉄舟は剣の達人であった。また、侍従として明治天皇に仕えていた。
 六郎は剣術の修練に努め、勉学に励んだ。同時に、裁判所の判事となっていた一瀬の居場所を探した。
 明治11年(1878年)、六郎は山岡の元を辞し一瀬を探し回った。その後も定職と日雇いの仕事を繰り返し、生活を切り詰めながら一瀬を探していた。明治13年(1880年)、六郎は23歳になった。

 東京市京橋区三十間堀3丁目に、旧秋月藩主・黒田長徳の屋敷がある。在京の旧秋月藩士たちが長徳の御機嫌うかがいに参上し、屋敷を集会所のようにして雑談したり囲碁をしたりして過ごすということを、六郎は屋敷の家扶から聞く。

 明治13年12月17日、六郎が屋敷を訪れ2階の座敷にいると、階段を上がってくる足音がして障子が開いた。一瀬だった。
 一瀬は、封書を郵便箱に入れるのを忘れたから下男に頼んでくる、と言って階下へ降りて行った。六郎は後を追い、下男に封書を渡して階段を上がりかけた一瀬に、父の仇と叫び、短刀をひき抜き一瀬の首に短刀の刃先を突き立てた。胸部を刺し、一瀬を押し倒し喉を突き刺した。

 六郎は、父の怨みをはらしたと思うと熱いものが込み上げてきた。警察に自首し、父の仇である一瀬直久を刺殺したと告げ短刀を差し出した。

 江戸時代、仇討は武士の当然の行為として支持され、賞賛されていた。
 北国街道長浜宿の北の入り口であった郡上町の附近で明治4年(1871年)11月24日、日本で最後の仇討があった、という説明書を長浜市で見た(「奥の細道旅日記」目次34、平成19年4月28日参照)。これが、罪に問われなかった最後の仇討であろう。
 明治6年(1873年)、仇討を禁止する法律である復讐禁止令が太政官布告として公布された。

 世上では、12年の苦難の日々をへて仇を討った六郎を「孝子の鑑」として賞めたたえていたが、一般の殺人事件として裁判が進められた。
 明治14年(1881年)9月22日、終身禁獄の判決が言い渡され、六郎は東京集治監に収監された。

 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が公布された。それに伴って大赦令が発布された。
 明治24年(1891年)9月22日、10年間の服役の後、大赦令により六郎は釈放された。34歳であった。

 母を殺害した萩谷伝之進に対する仇討が残っていた。萩谷を殺害すれば今度は死刑に処せられることは間違いないが、六郎にとっては覚悟の上だった。しかし、萩谷は狂死していた。萩谷は、六郎がくる、六郎がくる、と怯え、精神が錯乱していた。

 全てが終わって、六郎は生きる目的が失われ浮き草のようにして過ごした。
 明治37年(1904年)の秋、唯一の肉親である妹に会いに門司へ行く。門司に住む親戚に助けられて、門司駅前で饅頭屋を開いた。
 明治38年(1905年)、世話する人がいて結婚した。六郎は48歳になっていた。
 2年後、鳥栖駅前で待合所を経営した。鳥栖駅は鉄道の分岐点になっており、汽車を待つ人が待合所で休憩し、入浴もできるようにした。現在も鳥栖駅は鹿児島本線と長崎本線の乗換駅になっており、待ち時間がある。今年、九州新幹線が全線開通して新鳥栖駅ができて乗換駅がもう一つ増えた。

 『最後の仇討』は次の文章で終わる。

 「大正6年(1917年)、かれは病いにおかされ、9月4日に死亡した。六十歳であった。
 寝棺は、秋月まで運ばれ、古心寺の両親の墓のかたわらに埋葬された。」

 国道322号線を渡ると、緩やかな坂になる。400m程歩き右へ曲がる。古心寺に着く。石段を上がって門を潜る。
 高台にある古心寺の境内と墓地に柔らかな冬の陽が射していた。住職と思われる人が境内で犬と遊んでいた。臼井六郎の墓を尋ねる。


古心寺

 臼井家の墓はすぐ見つかった。正面の左側に、六郎の父・簡堂(亘理の号)、母・清子(清)の墓石が立っている。その手前、両親の墓の隣に、臼井六郎の墓があった。


臼井六郎の墓


・同年12月30日(金) 門司港

 朝食後、ホテルを出て、鹿児島本線の上り快速に乗る。
 電車は、一昨日下車した門司駅を通り、約1時間30分で終点の門司港駅に着く。

 門司港駅は、大正3年(1914年)建築。木造モルタル2階建て、屋根は総銅板張りである。国重要文化財に指定されている。
 19世紀のネオ・ルネッサンス様式の壮麗な門司港駅は、明治から大正にかけて大陸の貿易で繁栄し、関門連絡船が発着した門司港の賑わいを髣髴させる。


門司港駅



 駅を出ると、関門海峡が見える。大型の船がひっきりなしに行き交っている。対岸に下関の街が見える。
 門司港の桟橋と、下関市唐戸(からと)桟橋の間を関門汽船のフェリーが往復している。僅か5分で対岸へ渡ることができる。

 駅前広場を挟んで正面に、昭和2年(1927年)建築の旧日本郵船門司支店(現・門司郵船ビル)が建っている。装飾を抑えた機能的なビルである。旧大阪商船門司支店が見える。


駅前の通り


 旧大阪商船門司支店は、大正6年(1917年)建築。八角形の塔屋を持つ2階建。塔屋は、灯台としての役割も果たしていた。鮮やかなオレンジ色の外壁が、辺りに明るい雰囲気を漂わせている。国登録有形文化財である。
 1階は大陸航路の待合室だった。おおぜいの人たちが夢と野心を抱いて、ここから大陸へ雄飛したことだろう。


旧大阪商船門司支店


 隣に、旧門司三井倶楽部が建っている。大正10年(1921年)、三井物産の迎賓館として建てられた。梁と柱が露出したハーフティンバー様式の2階建て。瀟洒な建物である。国重要文化財に指定されている。
 元は、山間に建てられていた。平成2年、解体、現在地に移転され、平成6年、復元された。

 内部は、1階、2階とも豪華な造りである。豪華な室内にふさわしい美しい家具が配置されている。華美に流されず節度のある美しさが保たれている。


旧門司三井倶楽部


 アルベルト・アインシュタイン(1879〜1955)が妻を伴って大正11年(1922年)訪日した際に、この建物に宿泊している。それを記念して、その時に使われた2階の寝室、応接室、浴室等が「アインシュタインメモリアルルーム」として、再現、展示されている。
 門司で出生した
林芙美子(1903〜1951)の資料室も2階に作られている。また、彼女の書斎が再現されている。

 2階では、下関出身のテノール歌手・藤原義江(1898〜1976)が歌う『出船』が低く流れていた。

 「第一船溜(ふなだ)まり」の周囲の歩道を歩いて、旧門司税関の正面に出る。
 旧門司税関は、明治45年(1909年)建築。赤煉瓦の威容を誇る建物は、中世ヨーロッパのゴシック式の城砦のようである。建物の裏側からは宮殿に見える。


旧門司税関




・同年12月31日(土) 二十六聖人殉教碑

 朝食後、ホテルを出る。
 博多駅7時54分発長崎本線下りの特急に乗る。9時50分、終点の長崎駅に着く。
 駅を出て通りの反対側に渡り、左へ曲がる。右手の急な坂を上る。
西坂公園に着く。駅から15分程である。

 高さ5、6m、幅17mの御影石の台座に、26名の等身大のブロンズ像が嵌めこまれている「二十六聖人殉教碑」が立っている。
 現在、西坂公園になっている西坂の丘は、キリシタン禁制の時代、キリスト教徒の処刑場であった。


二十六聖人殉教碑


 豊臣秀吉(1537〜1598)は、天正15年(1587年)、伴天連(バテレン)追放令を発布する。
 慶長元年(1597年)、京、大坂で捕らえられた外国人宣教師と修道士6名、日本人修道士と信者18名は、秀吉の命により、左の耳たぶを切り落とされ、見せしめのために、京、大坂、堺の町を市中引き回された。

 堺から長崎まで徒歩で引き立てられる。護送される24名の世話をしていた日本人信者2名が、途中、捕らえられた者の列に加わることを自ら願い出る。捕らわれた者は26名になった。日本人20名のうち、12歳、13歳、14歳の3名の少年がいた。外国人はスペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であった。

 同年2月5日、西坂の丘で十字架に架けられ処刑された。
 槍で両腋を刺されながらも、26名は、誰も怨まず、神を賛美し、神への賛歌・テ・デウムを歌いながら息絶えた。



 「殉教碑」の、向かって右から6番目のブロンズ像は、聖パウロ・三木(1564〜1597)である。
 パウロ・三木は、摂津国(現在の大阪府北部)に生まれる。父は、キリシタン武将・三木半太夫である。
 
安土セミナリオの一期生であった。安土セミナリオは、織田信長(1534〜1582)の庇護の下、イタリア人神父・オルガンティノ(1533〜1604)が天正9年(1581年)に創建した日本最初のカトリック小神学校である。

 セミナリオは、日本人の神父、修道士を育成することが目的であったから厳格な授業が行われた。ラテン語、キリスト教の教義、日本の古典文学、数学、音楽等の教育が施された。
 パウロ・三木は、学業に優れ、22歳でイエズス会に入会し、修道士になった。
 処刑の日、十字架に架けられても、大勢の群集を前に自分の信仰を語り、最後の説教をして絶命したといわれている。享年33歳であった。


聖パウロ・三木(中央)


 東京都千代田区麹町のカトリック麹町教会に隣接する岐部ホール2階に、パウロ・三木の名前を冠したイエズス会聖三木図書館がある。

 「殉教碑」の右端のブロンズ像は聖フランシスコ・吉、右から三番目は聖ペトロ・助四郎である。二人は、途中、志願して、捕らえられた者の列に加わった。聖フランシスコ・吉は、大工であった。
 右から四番目は聖ミゲル・小崎である。46歳。弓師であった。右から20番目の聖トマス・小崎、14歳の父である。父と子が同時に処刑された。
 右から9番目の聖ルドビコ・茨木は、最年少の12歳であった。左隣の聖アントニオは、13歳であった。

 26名の処刑は、ヨーロッパとその他にも広く伝えられた。
 文久2年(1862年)6月8日、ローマ法王・ピオ9世は、26名を殉教者として聖人に列し、列聖のミサを行い、祈りを捧げた。以後、「日本二十六聖人」と称される。 

 西坂の丘では、この後も処刑が続いた。元和8年(1622年)、宣教師と信徒55名が処刑された。この中には、3歳と5歳の幼児も含まれていた。600名を越えるキリスト教徒がこの場所で処刑されたといわれている。

 26名が聖人に列せられてから100年を記念して、昭和37年(1962年)、「二十六聖人殉教碑」が製作された。
 製作者は、彫刻家・
船越保武(ふなこしやすたけ)(1912〜2002)である。

 思うに、26名は、血と膿と垢にまみれた裸同然の姿であっただろう。
 船越保武は、26名を、体を洗われ、清潔な身に衣服を着せられて、神の許へ旅立つ姿にした。そして、26名が神への賛歌を歌いながら昇天する様子を表わした。

 船越保武の、26聖人に対する深い理解と畏敬の念を持って製作されたであろう作品は、崇高な美しさがある。心を打たれ、胸に熱いものがこみあげてくる。


・平成24年1月1日(日) 雲仙(長崎県)

 雲仙と長崎を結ぶ直通のバスは3往復ある。しかし、長崎始発が9時という遅い時間だから、雲仙に着くのがそれだけ遅くなる。そこで、長崎から諫早まで電車で行き、諫早から雲仙行きのバスに乗ることにする。諫早から雲仙行きのバスは多い。

 昨日、チェックインした駅の構内にあるJR九州ホテル長崎を早朝に出る。2泊予約していた。
 長崎駅6時23分発諫早駅行きの快速に乗る。6時56分に諫早駅に着く。駅を出て、駅前のバスターミナルへ行く。ターミナルから7時15分に雲仙行きのバスが出る。

 雲仙の仁田峠(にたとうげ)(1、080m)から、標高1、333mの妙見岳(みょうけんだけ)までロープウェイで上り、霧氷(むひょう)を見る予定である。
 仁田峠まで定期の路線バスがあったが、それが廃止になり、乗り合いタクシーになった、ということを聞いていたので、その件をターミナルの職員に尋ねた。
 職員は、乗り合いタクシーの予約は、30分前までにやらなければならない、と言うので、教えられたタクシー会社に電話した。電話に出た人に、霧氷のことを尋ねると、暖かかったから霧氷は見られない、ということであった。それで仁田峠へ行くことは中止する。

 7時15分発の雲仙行きのバスに乗る。
 50分程乗っていると、橘湾に面した
小浜(おばま)温泉に着く。湯煙が温泉街のあちらこちらから盛んに上がっている。玄関の屋根が唐破風(からはふ)造りの、見るからに老舗旅館といった建物の前を通る。

 バスは、坂を上り、山間に入って行く。雲仙天草国立公園に入る。昭和9年(1934年)3月、国立公園に指定された雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)は、国立公園第1号であった。よく手入れされている美しい樹木の間をバスは上って行く。

 小浜温泉から約30分で雲仙の温泉街に入る。
 
雲仙地獄(地熱地帯)に差し掛かる。湯煙が道路にまで流れてくる。湯煙の中をバスは走り、8寺38分、終点の島原鉄道雲仙営業所前に着く。


雲仙


 周囲1、5キロに広がる地獄巡りをする。硫黄の臭いが濃く漂っている。遊歩道を歩いて上り下りを繰り返し、左右に曲がりながらゆっくり見物する。
 シュー、シューと音を立てて、熱湯が地面から噴出している。温泉がボコボコと沸騰し、噴き上がっている。至る所で噴気が上がっている。地下で活動が活発に行われ、鳴動している。
 「大叫喚(だいきょうかん)地獄」と名付けられた地獄は、雲仙地獄の中で最も地熱活動が激しく、その名のとおり、轟音を立てて煮えたぎった湯を噴き上げている。


雲仙地獄






 2時間程歩いていたら体が冷えてしまった。
 地獄巡りを終えて、道路を渡り、「雲仙お山の情報館」に入る。館内はガスストーブで暖められていた。
 資料を見たり、
普賢岳(ふげんだけ)の噴火の様子や、雲仙の自然を記録したビデオを見る。

 11時半頃、「情報館」を出る。雲仙へ行ったら、昼は、雲仙観光ホテルで食事をしようと思っていたので、ホテルへ行く。ホテルに着いたのは、11時40分だった。


雲仙観光ホテル


 門を通って両側が並木になっている石畳の道を40m程歩く。この道は、昭和初期の古き良き時代に抜ける道である。
 正面に、
雲仙観光ホテルが建っている。昭和10年(1935年)10月10日、欧米人の旅行客のために開業されたホテルである。
 地上3階、地下1階、スイスの山小屋風の赤い屋根と、杉と檜の丸太の骨組み。ハーフティンバー様式の建物である。平成15年、国登録有形文化財に指定された。


 車寄せに近づくと、中から年配の男性と振袖を着た若い女性が出てきて、丁寧に挨拶をする。
 宿泊客と間違えられたものと思い、ランチをいただきたいんですが、と話すと、ランチは12時からですから中でお待ちください、とやはり丁寧な言葉がある。

 別の女性の従業員が、開業当時から存在する大きな硝子のドアを内側から開ける。エントランスホールを歩く。二つ目の硝子のドアを開ける。同じく開業当時からそのままのエントランスロビーに入る。
 ロビーの正面に大階段があり、踊り場で階段が左右に分かれている。ロビーは広く、床には美しい模様の絨毯が敷かれている。ロビーに立っているホテルの従業員が皆微笑んで挨拶をしてくれる。

 ロビーのソファーに座っていると、先ほどの振袖を着た若い女性が、綺麗な封筒に入ったホテルの案内書を持ってきてくれて、今年で開業77年になるんですよ、と言う。それから、お酒をいかがですか、と言うので、お礼を言ってありがたくいただく。ロビーに置かれた菰包みの樽から汲み上げた酒を枡に入れて持ってきてくれた。

 私は、以前、こちらのホテルに2回、宿泊させていただいたことがあるんですよ、と言って、美しい建物とスタッフの方々の暖かい応対は変わりませんね、と話した。女性は、顔を輝かせて、ありがとうございます、嬉しいですね、と言って、その後、開業時にあった映写室、撞球(とうきゅう)室、図書室を再現しましたから、食事の後にでも、館内をご自由にご覧なさってください、と言われた。
 ランチだけの客に対しても、宿泊客に対するものと同じ丁寧で暖かな応対である。

 12時にダイニングルームの硝子の扉が開かれた。フロントに向かって左側の三段の階段を上がって10m程歩き、ダイニングルームに入る。ダイニングルームの手前右側にバーがある。左側にはラウンジが設けられている。

 案内されて席に着く。真っ白なテーブルクロスの上に美しくセッティングされたカトラリーとグラスが輝いている。
 ダイニングルームの広さは約200畳、床から天井までの高さは5mある。木の床である。戦前、ダンスパーティーが行われていた。現在も時々、ダンスパーティーが開かれているようである。壁には豪華なタペストリーが掛けられている。ダイニングルームも開業当時のままで変わっていない。
 テーブルは、8割程が埋まった。

 メニューを見て、フレンチのコース料理を注文する。内容が書かれていない。その日の食材によるシェフのおまかせ料理ということである。

 初めて雲仙観光ホテルに宿泊したのは平成14年12月28日だった。3泊した。
 チェックインして、宿泊者名簿にペンでサインをする。館内の説明を受けながら部屋に案内された。建築の専門家がよく見学に訪れるというお話しがあった。3階の部屋だった。エレベーターやエスカレーターはない。
 階段の柱は、手斧(ちょうな)で削られて仕上げられている。廊下は白漆喰の壁や天井に焦げ茶色の柱や梁が剥き出しになって、瀟洒な雰囲気があった。
 部屋は、欧米諸国のホテル仕様で造られ、天井が高く、ドアも大きく、真鍮のドアノブが高い位置に付けられている。

 高い天井にふさわしい大きな窓にカーテンが二重に掛けられていた。天井の高さがカーテンを、より美しく見せる。
 雪が降り始めた。ホテル内は静かでシーンとしている。カーテンの間から、斜めに降る雪を見ていた。

 建物の端にある階段を降りて、1階の端にある大浴場へ行った。
 雪白のフェイスタオル、バスタオルが沢山備えられていた。浴室は、窓を大きく取り、露天風呂のような造りだった。浴室の中央にお湯が溢れている円形の浴槽があり、クラシックな雰囲気があった。濃厚な硫黄の湯で温まった。

 6時のディナーの時間になったので、1階に下りて、ダイニングルームへ行った。ダイニングルームの入り口で、スタッフの方々が並んで出迎えてくれた。
 ホテル内が静かで、人の気配がないと思っていたら、テーブルは満席だった。皆、静かに過ごしていたのだろう。

 翌日、朝食後、バスで仁田峠へ行った。バスは、大正2年(1913年)に造られた日本で最も古いパブリックコースである雲仙ゴルフ場の横を通る。仁田峠からロープウェイに乗り、妙見岳に着いた。ガラス細工のような霧氷を見ることができた。次の日は、地獄巡りをした。

 ホテルに戻ると、温泉に入って温まり、部屋で寛いだ。6時になると、ダイニングルームへ行き、毎日変わるディナーを楽しんだ。
 食後、ゆっくりと美しい館内を見学する。宿泊客同士も挨拶を交わす。従業員の応対は、自然で、暖かく、質の高さを感じさせた。

 毎日、何も思い煩うことなく、美しい時間が流れて行った。

 4日目に、チェックアウトを済ませ、扉を開けてもらって外に出たとき、また、気がかりなことが多い現実が始まると思った。
 門柱までの石畳の道を歩きながら、また来たいが、来られないだろうなと感傷的な気分になった。

 その後、雲仙観光ホテルは、長い期間をかけて館内のリニューアルを行った。
 5年後に、2度目の宿泊をした。12月29日から2泊だった。また来ることができて、館内へ入るとき嬉しさでいっぱいだった。

 リニューアルされて、大浴場が変わっていた。廊下の一部も変化が見られた。それでも、館内の美しさと従業員の暖かい応対は変わらなかった。

 雪の中を歩いて小地獄(こじごく)温泉へ行き、共同湯に入った。小地獄温泉は、雲仙地獄の温泉とは別に噴出している温泉である。ホテルから歩いて20分ほどの所にある。共同湯の傍に4軒程の旅館があり、湯治場の趣がある。
 共同湯「小地獄温泉館」は、二つの八角形のドーム型の屋根を持つ木造の建物である。白濁している硫黄の濃厚な温泉にゆっくり入って温まった。
 休憩室がある。その隣で源泉が噴出していた。ボコボコと温泉が沸騰している音が聞こえる。雪が降る中に、勢いよく湯煙が上がっていた。  

 ホテルへ戻って、おいしいディナーをいただき、寝る前に館内の温泉に入って温まる。2度目もまた楽しく過ごすことができた。

 今回は、3度目の訪問になった。

 料理が運ばれてきた。一つ一つ丁寧な説明がある。


  ・アミューズ・ブーシェ  白子のロワイヤル
                  小さな細いグラスに白子が入っている。
                  その上に、海苔と大葉と紅葉卸が載っている。
                  白子の微かな甘さが口中に広がる。

  ・オードブル       スズキのカルパッチョ
                  大きなガラスの皿に載せられてきた。
                  スズキの上に、スライスされた蕪が載っている。
                  梅酒のゼリーとシャンパンのミックスソース
                  ガラスの皿の縁に、お正月らしく松葉を散らしている。

  ・冬野菜と牡蠣のヴォロヴァン
                パイの中に冬野菜と半生状態の牡蠣が入っている。
                パイの上に、海老のコンソメで作られた泡が載っている。
                クレソンソース
                生に近い牡蠣がおいしい。

  ・大根のラグーとフォアグラのコンフィ
                鴨肉から取った出汁(だし)で作ったコンソメスープ
                そのスープに薄味で煮込んだ千葉県産の三浦大根が浅く浸されている。
                大根の上に、フォアグラが載っている。
                その上に、ローズマリーと黒胡椒で味付けして焼いた穴子が重ねられている。
                一番上に、薄くスライスした黒トリュフが置かれている。
                フォアグラとトリュフという高級な食材が一つの料理に惜しげもなく使われていた。
                ねっとりとしたフォアグラに多彩な味が加わる。

  ・ポアソン        ワインレッドのビーツのソースとそれを囲む白いヨーグルトソース 
                二種類のソースの上に、ほうれん草に包まれて蒸された鯛が載っている。
                その上に、赤蕪が載っている。

  ・ヴィアンド       長崎牛の網焼き
                  冬牛蒡と赤ワインのミックスソース
                  付け合せは、長崎牛の挽肉を詰めたニョッキと熊本ねぎ。


 食事が終わったのは午後1時30分だった。すばらしい料理だった!

 おいしい料理をいただいて、作ってくれた人に対して感謝と尊敬の気持ちを覚えた。
 予約もしないで注文したにも拘わらず、どれも丁寧に作られていた。その場を取り繕うだけのような料理は無かった。
 それぞれの食材を見事に生かし、味がはっきりと分かる。様々なソースも料理を引き立てていた。
 見た目にも美しい色と形の芸術品のような料理は、いただいて、皿の上から消えていくのが惜しいほどだった。

 食後、開業時に存在していて、リニューアル後に再現された映写室、撞球室、図書室を見せていただいた。

 1840年、イギリスと清国の間でアヘンの密貿易が原因となった阿片戦争が起こる。1842年、南京条約により清国はイギリスに対し、香港島の割譲と上海他4ヶ所の開港他を承認し、戦争は終結した。
 イギリスは、上海を商業地として開発する。アメリカ、フランスも上海に進出し、独自の商業、経済、文化を発展させた。
 上海に設けられた外国人居留地を
租界(そかい)と言う。イギリス、アメリカの租界は、まとめられて共同租界と呼ばれ、他にフランス租界が作られた。

 上海の租界に住む欧米人が、明治の頃から、夏、雲仙に避暑に訪れていた。
 雲仙は、標高約700mの高原であり、夏の平均気温は21、7度の涼しさである。
 昭和10年(1935年)10月、欧米人の観光客のために開業された雲仙観光ホテルは、夏、特に賑わったことだろう。

 今、手許に、發行元・日本旅行協會 『鐡道省編纂 汽車時間表 昭和9年12月号』の復刻版がある。
 『時刻表』と改題されたのは、昭和17年11月号からである。また、時間の表示が24時制ではなく、午前と午後の時間を活字の太さで区分している。午後の時間は、ゴシック体活字で印刷されている。時間の表示が現在の24時制になったのも昭和17年11月号の『時刻表』からである。

 この『汽車時間表 昭和9年12月号』の復刻版を参考にして、これから76年前に遡り、昭和11年(1936年)7月、上海を出発して、前年の10月に開業した雲仙観光ホテルへ着くまでの時間旅行を始める。


 上海と長崎の間を往復就航する日本郵船日華聯絡線がある。上海航路と呼ばれている。長崎を経由して神戸まで就航する日もある。
 長崎丸と上海丸の2隻が就航している。長崎丸は總噸數5、268噸、上海丸は總噸數5、259噸である。航海速度はいずれも21浬(かいり)。海上で用いられる1浬(海里)は1、852mであるから、21浬は38、892キロになる。
 定員は、2隻とも一等155名、三等288名である。二等はない。
 料金も2隻は同じである。最も高いのが、一等特別室を1人で使用する場合の150圓。大学卒のサラリーマンの初任給80圓が高給といわれているから、約27時間の船旅で150圓は相当高い料金である。最低の料金は三等の18圓である。

 船は4日毎に出航する。日本郵船上海支店に行き、7月1日出航の長崎丸、一等特別室を予約し、1人で使用する分の料金を支払った。

 当日朝、上海港へ行き、岸壁に横付けされている長崎丸のタラップを上って船内に入る。2ヶ月の長い休暇だから皆、大小のトランク、スーツケース等の荷物が多い。それらは部屋に運んでもらう。
 9時に出航する。12時に一等食堂へ行き、ランチを食べる。3時にティーの時間になる。6時にディナーが始まる。ディナーは、船長も同席する。船長は、執務用の制服から晩餐用の制服であるディナージャケットに着換える。
 翌日の朝食は部屋に持ってきてもらう。正午に長崎港に着く。

 長崎港のすぐ近くに長崎港(ながさきみなと)駅があるが、この駅から発車するのは午後2時35分発門司行き急行のみである(注・長崎港駅は終戦後貨物駅として使われていたが、昭和38年に廃止された)。
 2時間以上も待っていられないので、皆、一つ先の長崎駅までタクシーで行く。家族連れの旅行客は、荷物を運ぶだけでもう1台タクシーを雇うことになる。
 長崎駅に着く。1時30分発の鳥栖行きに乗る。荷物は、赤帽に頼んで車内に運んでもらう。

 2時21分に諫早駅に着く。諫早駅で降りる。雲仙小濱着の直通の雲仙鐡道線は出た後だったので、とりあえず3時発の島原鐡道に乗り換える(注・雲仙鐡道線は昭和13年に廃止された)。
 3時28分に愛野村駅(現・愛野駅)に着く。3時33分発雲仙小濱行きの雲仙鐡道線に乗り換える。4時10分に終点の雲仙小濱駅に着く。駅前で、汽車の到着を待っていたタクシーに乗る。

 5時に雲仙観光ホテルに着く。ロビーは、次々に到着する宿泊客と荷物で一杯になる。
 部屋に案内される。荷物も運び込まれる。トランクから出した服をクローゼットに移し変えた後、1階の大浴場へ行く。温泉が溢れる浴槽に入り、旅の疲れを取る。

 服を着替え、正装して、6時にダイニングルームへ行く。案内されてテーブルに着く。

 豪華なディナーの後は、バーで寛いだり、葉巻をくわえて撞球室でビリヤードに興じたりする。こういうときに秘密の外交問題を囁きあったり、商談が成立したりすることもある。
 子供たちは映写室に集まり、上映されるチャップリンの演技に笑い転げる。
 夫人たちは、図書室で読書を楽しむ。読書の合い間に、明日は、夫と雲仙ゴルフ場でプレーするか、友人とテニスコートで白球を追うか、どちらにしようかと考える。しばらくして、家族で周囲の1,000m級の山へハイキングすることの方が楽しいことに思えてきた。


 76年前の時間旅行から戻っても、ホテル内を散策していると様々なことを想像する。

 昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争勃発。
 同20年(1945年)8月、終戦。
 同21年(1946年)雲仙観光ホテルは、駐留米軍により接収される。
 同25年(1950年)接収を解除され、営業を再開する。

 開業当時の状態で美しく保存されたことは、接収されているときも大事に使用されていたことが窺われる。
 我々利用する側も、ホテルの品格を落とすことのないように気を付けて、歴史的にも価値がある、美しい雲仙観光ホテルをこれからも大切に守っていかなければならないと思う。


・同年1月4日(水) 元興寺(奈良市)


旧奈良駅舎


 JR奈良駅の横に、旧奈良駅舎が保存されている。
 旧奈良駅舎は昭和9年(1934年)竣工。鉄筋コンクリート造、平屋建。木造瓦葺の屋根に、五重塔などの塔の最上層の屋根に載せる相輪(そうりん)が載っている。深い庇には風鐸(ふうたく)が下がっている。古都奈良にふさわしい建物である。

 平成13年、現在の駅舎が完成し、平成16年、曳家(ひきや)方式により解体せずに約18m移動した。現在は奈良市総合観光案内所として活用されている。

 旧奈良駅舎の前は春日大社の参道の始点になっていて常夜灯が立っている。横断歩道を渡り三条通りを歩く。三条通りは平城京三条大路の名残であり、春日大社の参道である。通りには、奈良漬の店、文久元年(1861年)創業、柿の葉寿司の「平宗」等の店が並んでいる。
 左手に南都(なんと)銀行本店が建っている。大正15年(1926年)竣工。地上4階、地下1階の鉄筋コンクリート造。正面に4本のイオニア式の列柱を備えた古典様式の壮麗な建物である。国登録有形文化財に指定されている。

 20分程歩き、猿沢池(さるさわのいけ)の前に出る。池の向こうに興福寺の五重塔が見える。池の手前を右へ曲がり、池に沿って歩く。上ツ道に入る。上ツ道(かみつみち)は、飛鳥時代、大和平野を南北に縦断するために整備された古道である。現在も奈良市から天理市を経て桜井市へ続く。また、伊勢方面も結ぶため、伊勢神宮への参拝道であった伊勢街道としても機能していた。

 200m程歩く。左手に猿田彦神社(道祖神社)が建っている。9世紀の創建である。
 幅の狭い道の両側に旧い商家や町屋が並ぶ。軒先に、赤い布で作られた
「身代わり猿」が吊るされている。魔除けとも、背中に願い事を書いておけば願いが叶うともいわれている。それにしても、猿沢池、猿田彦神社、身代わり猿と、猿に因んだ名前のものが多い。

 200m程歩き十字路に出る。左へ曲がり「ならまち大通り」を歩く。案内板に従って歩き元興寺(がんごうじ)に着く。

 真言律宗元興寺は、養老2年(718年)に創建された。
 蘇我馬子(そがのうまこ)(551?〜626)が崇峻天皇元年(588年)、飛鳥の地に建てた日本最初の仏教寺院・法興寺(飛鳥寺)が、平城遷都に伴い現在の地に移され、元興寺と名を改めた。

 平成10年、元興寺は、「古都奈良の文化財」の一つとして、世界文化遺産に登録された。他に、8箇所が世界文化遺産に登録された。他の8箇所は、東大寺正倉院興福寺春日大社薬師寺唐招提寺平城宮跡春日山原始林である。

 国重要文化財の東門を潜る。正面に、本堂(極楽堂)、隣接して禅堂(僧坊)が建っている。鎌倉時代の寛元2年(1244年)、旧僧坊が改造されて二棟に分かれた。いずれも国宝である。


元興寺 本堂


禅堂


本堂 裏側


 本堂の裏側の屋根と禅堂の屋根の一部に、日本最古の瓦が使われている。
 588年に建立された日本最初の仏教寺院・法興寺(飛鳥寺)の屋根瓦は、百済の瓦博士が造ったものである。
 和銅3年(710年)、
藤原京から平城京へ遷都されるに伴い、飛鳥の地から現在の地に移された後も、法興寺(飛鳥寺)の屋根瓦が用いられた。


日本最古の瓦


 瓦の葺き方は、「行基(ぎょうき)葺き」である。次のように説明されている。

 「一端がもう一方の端より細く作られている丸瓦を使い、太い部分を下に向けて置き、上方の細い部分に次の瓦の太い部分を順々に重ねあわせていく葺き方。」

 素朴な色と形の素焼きの瓦を見ていると、1400年前の時代の明るさと大らかさを感じる。

 万葉集に収められている、平城京への讃歌二首を載せる。


      あをによし奈良の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり(巻3の328)

                     小野老(をののおゆ)(?〜737)


      故郷(ふるさと)の明日香はあれどあをによし奈良の明日香を見らくし良しも(巻6の992)

                     大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)(生没年不詳)





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