21 安土城跡 今荘~春照 彦根 近江八幡(滋賀県)
・平成27年5月2日(土) 安土セミナリオ跡 安土城跡
東京駅6時26分発の「ひかり501号」に乗る。8時48分に米原駅に着く。山陽本線下りの電車に乗り換える。約25分で安土駅に着く。
安土セミナリオ跡と安土城跡は、4年前に訪れたことがあるが、今日、また訪ねる。駅を出て30分程歩く。
織田信長(1534~1582)が安土城を築いた標高199mの安土山が見えてくる(安土山については、目次11、平成25年5月1日参照)。
安土山の麓に安土セミナリオ跡がある。イタリア人神父・オルガンティノ(1533~1604)によって天正9年(1581年)に創建された日本最初のカトリック小神学校の跡である。安土セミナリオは、天正10年(1582年)、安土城の天主炎上とともに焼失した。
現在、推定地が跡地とされ公園として整備されている。
全寮制の安土セミナリオに、一期生として約25名が入学した。その殆どは大名や家臣の子弟であった。
日本人の司祭、修道士を育成することが目的であったから厳格な授業が行われた。ラテン語、キリスト教の教義、日本の古典文学、数学、音楽等の教育が施された。
音楽は、ハープシコード、オルガン、ヴィオラの演奏を教えられた。また、ミサ聖祭の間に歌われるキリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイの声楽の授業が行われた。
声楽は、日本人に馴染みのある和声法と違って、独立の旋律を複数の声部の組み合わせで歌う対位法であった。
初めて聴く煌びやかな楽器の音色や多声部音楽(ポリフォニー)に、周辺の日本人はその美しさに陶然となり西洋文明に感嘆したことだろう。
信長もセミナリオを訪れて少年たちが奏する楽器の響きを楽しんだ、と伝えられている。
安土セミナリオが焼失した後、大坂・高槻にセミナリオが建てられた。神学生たちは高槻に移り勉学を続ける。
当時の高槻城主は、キリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)(1552~1615)であった(高山右近については、「奥の細道旅日記」目次23、平成16年10月11日及び同目次24、平成17年1月9日参照)。
ポルトガル人神父のルイス・フロイス(1532~1597)は、日本で宣教を行うために永禄6年(1563年)に来日する。宣教の傍ら当時見聞したことの詳細な記録を、天正11年(1583年)から天正20年(1593年)まで執筆する。この記録・『Historia de Japam(日本史)』は、当時を知る貴重な資料となっている。
この中で、高槻セミナリオで学ぶ神学生についての記述がある。『日本史1 豊臣秀吉篇Ⅰ』(中央公論社発行、訳者・松田毅一氏、川崎桃太氏)から引用する。
「彼ら(神学生)の中には特に聡明な者が十三名いた。彼らはその溌剌たる才知によって大いに(学力が)進歩し、1年足らずのうちにすぐ説教し得るほどになり、聴衆やキリシタンたちの満足裡にこの仕事に従事した。
彼らはこうした(学問的)基礎ならびに根本的に教授されたカトリックの教義に立脚して、ラテン語を習得していた。彼らは驚くばかり容易に我らの(ローマ)字の書き方を覚えこみ、彼らの大部分は、我ら(ヨーロッパ人)のもとでは一少年が学校で3年もかかるところを3、4ヶ月で習得してしまうほどであった。
これによって(次のことが)あり得る(ことが理解されるであろう)。日本の一部の身分ある若者で教会と親しくしているキリシタンの俗人たちは、遠隔の地にいる司祭や修道士たちと通信するのに(日本文字で書いたのでは、人に取られてしまう恐れがあるので)、奪いとられることがないようにと、我らが(ローマ)字アルファベットとその組み合わせ方だけを書き与えておくと、彼らは数日後には自分の努力と器用さで我らと文通し始め、(我らに)彼らの言葉を我らの文字でしたためた手紙を寄こすのであった。」
安土セミナリオの一期生の中に、聖パウロ・三木(1564~1597)がいた。パウロ・三木は、摂津国(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)に生まれる。父は、キリシタン武将・三木半太夫である。
パウロ・三木は、学業に優れ、22歳でイエズス会に入会し、修道士になった。
修道士になった11年後の慶長元年2月5日、長崎の西坂の丘で、十字架に架けられ処刑された。この日、パウロ三木を含めた26名の信徒が処刑された。
処刑の日、パウロ三木は十字架に架けられても、大勢の群集を前に自分の信仰を語り、最後の説教をして絶命したといわれている。享年33歳であった。
現在、西坂公園になっている西坂の丘は、キリシタン禁制の時代、キリスト教徒の処刑場であった。
西坂公園は、長崎駅から歩いて15分程の高台にある。公園内に、高さ5、6m、幅17mの御影石の台座に、26名の等身大のブロンズ像が嵌めこまれている「二十六聖人殉教碑」が立っている。
「殉教碑」の、向かって右から6番目のブロンズ像が聖パウロ三木である(聖パウロ三木、二十六聖人殉教碑については、目次3、平成23年12月31日参照)。
セミナリオ跡は水路に面している。舟着き場が復元されている。
水路は田畑の間を巡り西の湖(にしのこ)へ通じている(西の湖については、目次11、平成25年5月1日参照)。
安土セミナリオ跡に接する水路
水路と田畑の向こうに安土山が見える。
20分程歩いて、安土城の入り口のひとつである大手口に着く。
安土城大手口
安土城は、信長が家臣・丹羽長秀に命じ、約3年の歳月をかけて天正4年(1576年)に完成した城である。
石垣が残っていたが、その後、石段と天主跡の礎石が発掘整備された。昭和27年(1952年)、国の特別史跡に指定された。
本丸へ至る道は大手道(おおてどう)と呼ばれ、石段が山腹に向かって約180m、一直線に伸びている。
大手道
石段の幅は6m、両脇の排水溝は合わせて2mある。石段の高さは、現在のものと比べて2段分程の高さがある。
大手道に沿って、信長の家臣であった前田利家(1538~1599)、羽柴秀吉(1537~1598)、徳川家康(1543~1616)の邸跡と伝えられる曲輪(くるわ)がある。
大手道の石段が左へ直角に曲がり、左右にジグザグに曲がる急坂になった。
上っていて気が付いた。この辺りから石段のあちらこちらに石仏(せきぶつ)が使われている。長年の風雨に晒されて、仏の顔は定かではない。踏まないように気を付けて上る。
石仏
花を手向け、掌を合わせて祈りを捧げる石仏を、こともあろうに人や馬が踏んで上り下りする石段に使うとは、どういうことであろうか。信長の尋常ではない特異な思考を目の当たりにしたと思った。
平凡社発行1978年2月号『太陽』に、信長が石仏を石垣に使った写真が掲載され、次の説明がある。
「永禄12(1569)年、信長は将軍足利義昭に二条城を築城した。その際、短期間で完成させるため石垣の石材として用いられた石仏」
更に、次の記述が続いている。
「信長は類(たぐい)まれな合理精神の持ち主であった。祈りの対象である石仏すらも彼にとっては、単なる城壁用の石塊にすぎなかった。新体制確立のためには利用できるものを全て最大限に利用した。鉄砲もキリスト教も、そして配下の武将たちも・・・・・・。安土城に莫大な富を集め、権威を誇っていた信長は、神仏を軽蔑し今や自らが崇拝されることを望むに到った。」
道が平らになる。50m程歩く。右へ曲がり、石段になっている尾根道(おねどう)を歩く。
尾根道
巨大な石を積み上げた石垣が残る黒金門跡(くろがねもんあと)に着く。自然石を加工せずに積み上げる豪快な野面積(のづらづみ)である。
門を突破してもすぐ城内に入れないよう、内側に更に一か所、門を設ける枡形虎口(ますがたこぐち)の構造である。
黒金門跡 野面積
黒金門跡を過ぎて左へ曲がり石段を上る。二の丸跡に信長公本廟がある。
信長公本廟
羽柴(豊臣)秀吉は、天正11年(1583年)、信長ゆかりの太刀、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)等の遺品を埋葬して本廟とした。
基壇は、格式の高さを表す切込接(きりこみはぎ)と呼ばれる技術を用いている。石を加工して、隙間をなくした高度な積み方である。また、石の積み方は、石材を横一列に揃えて積み上げてゆく布積(ぬのづみ)である。周囲の石塀も石を加工して、隙間なく石を積み上げている。
切込接
石段を下りて先へ進む。野面積(のづらづみ)の石垣の前へ出る。
石垣の横を歩く。広く開けた場所に出た。本丸跡である。
野面積
本丸跡の北側にある石段を上る。「天守閣址」ではなく、「天主閣址」と刻まれた碑が立っている。ここまで約1時間かかった。
高さ1、5m程の石垣に囲まれ、東西、南北それぞれの長さが約28mある天主閣址に着いた。礎石が約2、1m間隔で並んでいる。
ここに、五層七重(地下1階、地上6階)、高さ33mの壮麗な天主が聳えていた。
天主閣址
安土山の頂上に高層の天主が描かれている大阪城天守閣蔵の『安土城図』を見ると、安土山は三方が湖に囲まれていた。当時は、琵琶湖の周辺の水域であった内湖(ないこ)である伊庭内湖、常楽湖に囲まれ、南方のみが開けた地形であった。
後年、太平洋戦争後の食糧難を解決するために内湖の大規模な干拓が行われ、内湖は田畑に変わった。
ルイス・フロイスは、安土城について次のように記録している。『日本史5 五畿内篇Ⅲ』から引用する。
「(信長)は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ六十パルモを越えるーそれを上回るものも多かったー石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
そして(城)の真中には、彼らが天守(テンシュ)と呼ぶ一種の塔があり、我ら(ヨーロッパ)の塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮かに描かれた金(色、その他)色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。
外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他の(あるもの)は赤く、あるいは青く(塗られており)、最上階はすべて金色となっている。
この天守(テンシュ)は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列(の瓦)にはことごとく金色の丸い取付け(頭)がある。屋根にはしごく気品のある技巧をこらした形をした雄大な怪人面が置かれている。
このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。(それらは)すべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。
信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の(邸)よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。我ら(ヨーロッパ)の庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参観者に格別の驚愕を与えていた。」
信長は、上洛のときは京・四条西洞院にあった本能寺に泊まることを常としていた(後に、本能寺は現在の寺町通御池に移転する)。本能寺に逗留し、中国地方の毛利輝元(もうりてるもと)(1553~1625)攻略の方法を練っていた。
家臣・羽柴秀吉は、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の戦いで清水宗治(しみずむねはる)(1537~1582)と戦っていた。信長に援軍を要請する。
秀吉からの援軍の要請が届いたとき、信長は、家臣・明智光秀(あけちみつひで)(1528?~1582)に援軍を命じる。信長の命を受けて兵を率いて京に入った光秀は、謀反を企てる。
天正10年(1582年)6月2日未明、13、000の軍を率いて本能寺を急襲する。信長は自刃する。享年49歳であった。
6月15日、安土城の天主が炎上する。3年後の天正13年(1585年)、安土城は廃城となる。
信長は、生前、絵師・狩野永徳(かのうえいとく)(1543~1590)に安土城を描かせていた。安土城は金箔の屏風に描かれ、『安土山図屏風』と呼ばれた。
天正10年(1582年)2月20日、4人の天正遣欧少年使節が長崎港を出港した(天正遣欧少年使節については、「奥の細道旅日記」目次21、平成16年7月18日参照)。
4人の少年は、九州のキリシタン大名の名代としてローマへ派遣されたものである。全員が現在の長崎県南島原市の地に建っていた有馬セミナリオに学んでいた。
使節が携えていたローマ法王への贈物の中に、『安土山図屏風』が入っていた。
天正13年(1585年)3月1日、ローマ法王・グレゴリウス13世に謁見する。贈物を贈呈する。
贈物の中の『安土山図屏風』の壮麗な安土城の天主を見た人々は、ヨーロッパにも存在しない華麗で高層の建築物に感嘆したことが伝えられている。
その後、『安土山図屏風』は紛失する。現在に至るもその行方は分からない。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は、伴天連(バテレン)追放令を発布した。
天正18年(1590年)7月21日、少年使節は長崎港に帰港する。
天主閣址を降りて尾根道を下る。
大手道と百々橋口道(どどばしぐちみち)の分岐点に出た。大手道は先ほど上って来た道である。百々橋口道は城の西側からの登城道である。
右側の百々橋口道を歩き、信長が自身の菩提寺とした臨済宗妙心寺派摠見寺(そうけんじ)の跡を訪ねる。
長い石段を上る。
摠見寺跡へ向かう石段
摠見寺は、信長が安土城築城の際、他所から移築したと伝えられている。天正10年(1582年)6月15日、安土城炎上のときも残ったが、安政元年(1854年)11月16日、火災により本堂などを焼失した。
本堂跡の叢に礎石が残るのみである。
本堂跡から、琵琶湖の内湖である西の湖の静かに広がる美しい姿を眺めることができた。
西の湖
百々橋口道であり、摠見寺の参道でもある石段を下る。
左手に、摠見寺三重塔が建っている。享徳3年(1454年)建立。信長が安土城築城に合わせて甲賀の長寿寺(滋賀県湖南市)から移築したものと伝えられている。高さ約19、7m。国重要文化財である。
摠見寺三重塔
石段を下った先に、摠見寺二王門(におうもん)が見える。
元亀2年(1571年)建立。二王門も信長が甲賀から移築したものと伝えられている。国重要文化財である。
摠見寺二王門
三重塔も二王門も安土城天主焼失の際も残り、信長が見たものと同じものを見ることができる。
二王門を過ぎてから急な石段になる。足を踏み外したり、滑ったりしないように気を付けて、ゆっくり下りる。
石段が終わり50m程歩く。大手道に合流する。石段を下り大手口に戻る。
安土駅に戻り、山陽本線上りの各駅停車の電車に乗る。約25分で彦根駅に着く。駅の近くのホテルサンルート彦根にチェックインする。3泊予約していた。
・同年5月3日(日) 今荘~春照
早朝、ホテルを出て、彦根駅6時32分発の山陽本線上りの電車に乗る。米原駅に6時37分に着く。時間が早いため直通の電車がないので、米原駅で湖西線下りの電車に乗り換える。米原駅6時50分発の電車に乗り、長浜駅に6時59分に着く。
駅の待合室で休む。
長浜駅前7時40分発のバスに乗る。約25分で停留所「今庄橋」に着く。バスを降りて、姉川(あねがわ)に架かる今荘橋を渡る。
500m程歩く。杉林が現れる。杉林の間の細い道を歩く。農道に出る。左へ曲がり緩やかな坂を100m程上る。右手に、今荘観光ぶどう園がある。
2年前に、滋賀県木之本から岐阜県関ヶ原に向かって北国脇往還を歩くことを始めた。
北国脇往還は北国街道の脇道である。柴田勝家(1522~1583)が整備したと伝えられ、木之本宿と関ヶ原宿を結ぶ戦国時代の重要な道であった(北国脇往還については、目次11、平成25年5月2日、目次16、平成26年5月2日参照)。
長浜市役所観光振興課発行の『北国脇往還ウォーキングマップ』を長浜市役所観光振興課から送っていただいたので、このたいへん優れたマップと市販の滋賀県の地図を持って歩いている。
しかし、北国脇往還は次第に山の方へ向かう。帰りのことを考えて、バスの停留所や元々本数が少ないバスの時間も考えて歩かなければならないので、思うように先へ進めない。
昨年5月2日、今荘観光ぶどう園まで歩いたので、今日は、ここから歩くことにする。
農道を渡り反対側へ行く。農道と別れて、山側の道を歩く。
100m程歩く。森に入る。500m程歩く。前方が明るくなってきた。樹木が疎らになった。鴬が鳴いている。
200m程歩く。川幅が狭い三谷尻川に架かる橋を渡る。
三谷尻川
森に入る。下り坂になる。樹木を伐採する音が聞こえる。
300m程歩く。麦畑が広がる場所に出た。ヒバリが鳴いている。
手に持って歩いている『北国脇往還ウォーキングマップ』に拠ると、ここは「山田千軒跡」で、かつては、多くの家があって、旅人の休息所として賑わった、と説明されている。
山田千軒跡
杉林に入る。シャガ(アヤメ科)が群生している。
「シャガ」が群生する杉林
シャガ(アヤメ科)
500m程歩く。農道と合流する。車やツーリングのバイクや自転車が引っ切り無しに行き交う中、左右に注意して農道の反対側へ渡る。
200m程歩く。農道と離れて、右側の坂道を下りようと思ったところ、猪の進入防止のチェーンがかかっている。長い距離に亘って一定の間隔に杭を立て、それぞれの杭の間に、4本のチェーンをかけている。
上3本のチェーンをはずし、一番下のチェーンを跨いで、説明通り、チェーンを元通りにかけた。
緑色の麦畑の傍を歩く。600m程歩き、姉川の川岸に着いた。越前橋の4本の橋脚だけが残っている。
橋脚だけが残る越前橋
姉川の下流に向かって、川沿いに200m程歩く。井之口橋を渡る。ここでも一定の間隔に杭を立て、それぞれの杭の間に、猪の進入防止のロープを4本かけている。先ほどと同じ要領でロープをはずし、元通りにする。
今度は上流に向かって川沿いを歩く。
200m程歩いて、橋脚だけが残る越前橋の反対側に出た。北国脇往還は、越前橋の上を通っていたのだろう。
田畑の間を歩く。
豪快な山容の伊吹山(いぶきやま)(標高1、377m)が見えた。
伊吹山
300m程歩き、道路の下のトンネルを潜り、小田(やないだ)の集落に入る。
大量の農業用水は、道路にまで溢れんばかりの勢いで、大きな音を立てて用水路を流れている。
100m程歩き八幡神社の前を通る。
1キロ程歩き、春照(すいじょう)八幡神社に着く。春照八幡神社は、北国脇往還と長浜街道の分岐点になっている。
道標(みちしるべ)が立っている。私は、道標の右側の北国脇往還を歩いて来た。左側は長浜街道である。
分岐点(右、北国脇往還 左、長浜街道)
道標には、「右 北國きのもとえちぜん道 左 ながはま道」と刻まれている。
道標
通りを渡って左へ曲がり、すぐ右へ曲がる。通りが鍵曲がりになっている。旧い建物や煉瓦造の蔵を見ながら、静かな通りを歩く。
100m程歩いて、油里川に架かる北国橋を渡る。このとき、バスの時間を思い出した。バスの時刻表を見ると、長浜行のバスの到着時間が近づいている。このバスに乗り遅れると、次のバスは約3時間後になる。
ここから最も近い停留所「伊吹庁舎」に急いで行く。バスは間に合った。
バスは約45分で長浜駅前に着いた。
来年、春照の北国橋に戻り、北国脇往還の続きを歩くことにする。
・同年5月4日(月) 彦根 近江八幡
朝食後、ホテルを出る。
彦根駅前9時発のバスに乗る。バスは5分程走って、夢京橋キャッスルロードに入る。停留所「夢京橋キャッスルロード」で降りる。
彦根城京橋口から始まる夢京橋キャッスルロードは、南北350mに及び、美しい新緑の欅並木が続く。旧い商家に復元した飲食店、商店が30余り並ぶ(彦根城については、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月24日参照)。
夢京橋キャッスルロード
通りの反対側に渡り左へ曲がる。浄土宗弘誓山(ぐぜいざん)宗安寺(そうあんじ)に着く。
宗安寺
宗安寺の山門は、慶長8年(1603年)、石田三成(1560~1600)が城主であった佐和山城の大手門を移築したものである。馬に乗ったまま入れるようにしていたために敷居がない。赤門と呼ばれている。
赤門(佐和山城旧大手門)
宗安寺は、彦根藩初代藩主・井伊直政(1561~1602)が天正18年(1590年)に創建した寺である。
石田三成、井伊直政については、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年7月15日参照。
宗安寺は、正徳元年(1711年)以来11回、朝鮮通信使の正使、副使の宿泊所として利用された。朝鮮通信使は、江戸時代、将軍が交代するたびに、朝鮮国より国王の親書をもって来日した(朝鮮通信使については、目次9、平成24年12月30日、目次11、平成25年5月2日、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照)。
山門の左手に、黒門と呼ばれている黒い門が建っている。朝鮮通信使が宿泊のとき、この黒門が勝手口として使用されたと言われている。
黒門
山門を通って境内に入る。本堂は、元禄15年(1702年)、長浜城付属の御殿が移築されたものである。
本堂
長浜城は、豊臣秀吉(1537~1598)が天正3年(1575年)に初めて築いた城である。秀吉は、長浜城を築いて初めて一国一城の主となった(豊臣秀吉、長浜城については、「奥の細道旅日記」目次34、平成19年3月24日参照)。
本堂に入る。宗安寺に伝わる「李朝高官肖像画」を拝見する。ご住職が説明してくださった。
彦根駅に戻り、山陽本線下りの電車に乗る。約15分で近江八幡駅に着く。バスに乗り、停留所「小幡町資料館前」で降りる。
停留所から少し後戻りする。十字路の角のビルの1階に、レストラン・CAFE YAMAYA(ヤマヤ)がある。近江牛の牛丼とビーフカレーの店である。
8年前、ここで初めて近江牛の牛丼を食べたとき、そのおいしさに驚いた。近江牛の柔らかさと甘さに大ぶりに切ったタマネギから出る甘さが加わっている。手頃な値段にもかかわらず贅沢に作られた牛丼だった。
それ以後、滋賀県へ来るたびに、ここで食事をすることにしている。近江牛と地元野菜を使った「贅沢カレー」もおいしい。
昨年と同じく今日も牛丼をいただく。そして今日もおいしくいただくことができた。
(CAFE YAMAYAについては、目次11、平成25年5月1日、目次16、平成26年5月1日、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照)
昨年の5月1日、CAFE YAMAYAで食事をしたとき、ご主人に、ヴォーリズ設計のウォーターハウス記念館とアンドリュース記念館が期間限定で内部を一般公開していることを教えていただいた。
その日、ウォーターハウス記念館を見学した(ウォーターハウス記念館については、目次16、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照)。
今年も、二つの記念館を一般公開している。今日は、アンドリュース記念館を訪ねる(アンドリュース記念館については、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照)。
CAFE YAMAYAを出て、小幡町通り、新町通り、魚屋町通りを渡り、次の為心町通りを右へ曲がる。一つ目の十字路の左手にアンドリュース記念館が建っている。通りが碁盤の目のように整然と並んでいるので分かりやすい。
アンドリュース記念館
アメリカ人の伝道師であり、建築家であったウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)は、早世した友人・ハーバート・アンドリュースを記念して、アンドリュース家より贈られた資金を基にして、明治40年(1907年)、アンドリュース記念近江八幡基督教青年開館(YMCA)を建築した。ヴォーリズの建築第1号であった。
昭和10年(1935年)、建物は12m移動し、内外共にデザインが変更され現在の建物に建て替えられた。現在は、アンドリュース記念館と称されている。瀟洒で気品のある建物である。
ヴォーリズについては、目次16、平成26年5月1日、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日、同目次36、平成19年11月23日、同24日参照。
中に入る。階段は、段差を低くして、踏み幅を広くとり、踊場を設けて急傾斜にならないように造られている。高齢者も過ごしやすいような配慮がなされている。
・同年5月5日(火) (帰京)
ホテルで朝食後すぐ帰る。