22 田麦俣~湯殿山(山形県)


・平成27年8月4日(火) 田麦俣

 東京駅6時8分発上越新幹線「とき301号」に乗る。新潟駅に8時12分に着く。羽越本線特急「いなほ1号」に乗り換える。8時27分に発車する。
 村上駅を過ぎて、左手に日本海が見えてきた。海は凪いでいる。

 鶴岡駅に10時19分に着く。駅の観光案内所で、六十里越街道、湯殿山の観光パンフレットをいただき、バスを待つ間、駅の待合所で見る。
 11時37分発「湯殿山行き」のバスに乗る。

 3年前の平成24年10月6日、田麦俣の民宿・かやぶき屋に泊まり、翌7日早朝、田麦俣(たむぎまた)を出発して湯殿山まで六十里越街道(ろくじゅうりごえかいどう)を歩いた(目次7参照)。
 
しかし、当日は天候が悪く、曇っていて、最後の1時間ほどは雨が降ってきた。
 そこで、今度は天気予報をよく調べて、六十里越街道はブナ林の中を歩くことが多いので、ブナの新緑の頃にまた歩こうと思った。

 新緑の頃に来ることはできなかったが、天気が晴であることを確認して、「かやぶき屋」に宿泊の予約を電話した。
 ところが、「かやぶき屋」は現在休業中ということであった。ご主人が他の民宿・
「田麦荘」を紹介してくれたので、「田麦荘」に電話して、今日と明日の宿泊を予約した。
 場所が「かやぶき屋」と離れていて、説明されても私が分かり難そうにしていたためか、迎えに行きます、と言ってくれたので、バスの停留所「田麦俣」に午後2時45分に来ていただくことにした。
 

 12時33分に停留所「田麦俣」に着く。

 六十里越街道は、1200年前、奈良時代に開削された湯殿山参詣の巡礼の道であった。最盛期には年間3万人が通ったといわれている。また、庄内の鶴岡から内陸の山形を結ぶ産業道路でもあった。
 田麦俣は、六十里越街道の宿場町であった。
 明治30年代に新道が開通して六十里越街道は寂れたが、近年、歴史的な街道として見直されてきた。長年に亘り地元の住民による継続的で地道な街道の整備等が行われていた。現在も、定期的に整備や清掃が行われている。

 田麦俣、兜造り多層民家については、目次1、平成23年10月9日、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月22日及び9月23日参照。
 湯殿山については、目次1、平成23年10月9日、「奥の細道旅日記」目次15、平成14年10月13日参照。
 六十里越街道については、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月15日、同目次35、平成19年5月5日参照。
 


田麦俣 兜造り多層民家


 兜造り多層民家が2棟並んでいる。左側の建物が「かやぶき屋」である。右側の建物は、県有形文化財指定の旧遠藤家住宅である。江戸時代後期の文化文政年間に建てられたと推定されている。いずれも築200年を越える建物である。
 豪雪地帯に適した多層民家が、明治になって養蚕が盛んになり、通風と採光の必要から妻側の屋根を切り上げ、兜を載せたような形に改造された。2棟とも明治10年代に兜造りに改造された。旧遠藤家住宅は一般公開されている。

 坂を上り、「かやぶき屋」の前を通る。旧遠藤家住宅は修理中だった。


旧遠藤家住宅


旧遠藤家住宅


かやぶき屋


かやぶき屋

  


 坂を下りてバスの停留所に立っていたら、時間通りに「田麦荘」の車が来た。運転する男性に、明日、六十里越街道を歩くことを話したら、「田麦荘」からここまでの近道を教えてくれた。
 5分程で国道112号線沿いに建つ「田麦荘」に着いた。
 「田麦荘」は民宿の他に、「ななかまど亭」という名前で蕎麦屋を営業している。インターネットで調べると、次のように説明されている。

 「当店のそばは、地元産の『常陸秋(ひたちあき)そば』を使用した外二です。石臼でじっくり丁寧に自家製粉した新鮮なそば粉と清らかな月山の名水を使い、全て手打ちで打ち上げています。」

 食事した人の感想はみんな好評である。
 私も食べてみたいと思い、宿泊を予約するときに話したら、どちらかの食事のときにお付けします、と言ってくださった。

 6時になったので、食事処である和室に入る。テーブルが並べられている。自分の名前があるテーブルの前に座る。
 部屋の片方は全面ガラス窓になっていて、月山がよく見える。民宿の女性が、昨日の夜は月山の中央から月が出て、国道を車を走らせている人たちもおおぜいここの駐車場に入ってきて、写真を撮っていましたよ、と話す。
 今日は曇っているので、月は見られそうにない。

 前菜は既に並べられていた。従業員の女性が、これから出来たての料理をお出しします、と言って、次々に料理が運ばれてきた。
 食べて驚いた。どの料理もおいしい。女性が、海のものも毎日仕入れに行くんですよ、と言う。庄内地方は海にも山にも川にも近いからおいしい食材に恵まれているのだろう。
 和風の料理だけではなく、フレンチ、イタリアン、中華風の料理が丁寧に作られていて、多彩な味を楽しむことができる。創作料理というのだろうか。意表を突くような食材を組み合わせているが、今まで食べたこともないようなおいしい料理に仕上げられている。それぞれの料理に合わせて創られたソースが一層味を引き立てる。
 ホテルのコース料理でもなかなか食べることのできない、レベルの高い料理だった。

 民宿というものから連想されるイメージとは大きくかけ離れている。料理旅館と言ってもいいのではないだろうか。
 料理を担当している人は、料理の基礎をきちんと学び、修行した方だと思う。修行の成果もあるのだろうが、料理に対する天性のセンスを持った人であろう。

 最後の料理は和牛とキノコの陶板焼きだった。デザートは大ぶりに切ったメロンだった。
 来て良かった。「田麦荘」は食事をするだけでも泊まる価値がある民宿であると思った。


・同年8月5日(水) 田麦俣~湯殿山

 朝6時に起きる。朝食の時間は通常は7時になっているが、予約するとき、早く出発したいのでできるだけ早く食事したい、と話して、6時半にしてもらった。
 食事をしていると、予め頼んでおいた弁当を持ってきてくれた。他に、民宿の女性が、今朝、家(うち)の畑でとれたトマト、と言って、トマトをビニールの袋に入れて持ってきてくれた。お礼を言っていただく。もぎたてのトマトはとてもおいしいだろう。

 途中まで送りますよ、と言ってくれたが、昨日も迎えに来てもらい、これから他の宿泊している人たちの朝食が始まるので忙しくなると思い、忙しくなる時間に悪いですよ、昨日、近道を教えてもらいましたから、そこを歩いて行きます、と言った。
 それでも、坂が多いからと言ってくれたので、ありがたくご好意に甘えて、六十里越街道が山間に入る蟻腰坂まで送っていただくことにした。

 女性は、坂の途中の空地の前で車を停めて、ここも家(うち)の土地ですよ、と言って降りて、空地の端に植えてある野菜の中からトマトを5、6個もいで、その内の1個をまた私にくれた。
 ここに茅葺の家が建っていたんですが、鶴岡市に寄付して、今は鶴岡市内に旧渋谷家住宅として保存されています、と言った。

 旧渋谷家住宅は、鶴岡公園(鶴ヶ岡城跡)に隣接する致道(ちどう)博物館に移築、保存されている。
 文政5年(1822年)建築の旧渋谷家住宅も兜造り多層民家である。昭和40年(1965年)、移築され、昭和44年(1969年)、国の重要文化財に指定された。

 私は、今から13年前の平成14年9月23日に、旧渋谷家住宅を見学した(「奥の細道旅日記」目次14参照)。
 それにしても、旧渋谷家住宅が田麦荘の先祖の方々が住んでいた家だったとは意外なことだった。

 女性は、茅葺の家は夏は涼しいんですが、葺き替えのとき茅を集めるのに苦労するんですよ、と言っていた。

 蟻腰坂の入口で、気をつけて行ってらっしゃい、と言って見送ってくれた。

 

(蟻腰坂~馬立~花ノ木坂)

 蟻腰坂(ありこしさか)は、急坂のため蟻のようにはってあがらなければならないことが名前の由来とされている。
 急坂だが、道が九十九折になっているから風景が少しづつ変わっていくのが楽しく、私の好きな道である。再び蟻腰坂を歩くことができて嬉しくなる。


蟻腰坂





 30分程上って、弘法茶屋跡(こうぼうちゃやあと)に着く。
 弘法茶屋跡は、真言宗の開祖である
弘法大師(法名・空海)(744~835)が休憩したと伝えられる茶屋跡である。石碑と灯籠が残っている。

 歌人・斉藤茂吉(1882~1953)の歌碑が立っている(斉藤茂吉については、「奥の細道旅日記」目次9、平成13年6月3日参照)。


      田麦俣を眼下(まなした)に見る峠にて餅(もちひ)をくひぬわが子と共に


 弘法茶屋跡から道が平坦になり、歩きやすくなった。ブナの木が現れる。ブナの林の間の道を歩く。昨年のブナの落葉が重なり、靴の裏に当たる落葉がふわふわとして柔らかい。




 20分程歩き、道幅が広くなった。馬立(うまたて)に着く。蟻腰坂の急坂を上って来た馬の荷物を積み直したり、反対側から来たときは、蟻腰坂を下るのに備えて馬の荷物を調整したりする所だったといわれている。


馬立



 左側に、ブナ林が広がる。



 道が急な下りになる。
 六十里越街道を分断している国道112号線に出る。反対側に渡らなければならないが、横断歩道がない。
 車がスピードを上げて、左右から走ってくる。左右をよく確認してから渡り、右へ曲がる。石垣の下の細い道を歩き、花ノ木坂の入り口に着く。
 蟻腰坂からここまで約1時間かかった。


(花ノ木坂~千手ブナ)

 花ノ木坂は、蟻腰坂のように急坂だった。


花ノ木坂


 30分程上がる。道が平らになる。



 独鈷茶屋跡(どっこちゃやあと)に着く。石碑が立っていて、「ねじれ杉」と呼ばれている幹がねじれている杉が聳えている。
 弘法大師が独鈷(仏具)で地面を突くと、清水が湧き出したという独鈷清水が、独鈷茶屋跡から脇道に入った所にあるが、それは見に行かなかった。

 30分程歩く。脇道へ入り、坂を上りながら「千手ブナ」を見に行った。


千手ブナ


 樹齢約250年の古木で、千手観音のように多数の枝を広げている姿から「千手ブナ」と呼ばれている。「千手ブナ」は、辺りを覆い、悠然と立っている。この街道の主のようである。

 花ノ木坂からここまで約1時間かかった。


(千手ブナ~小掘抜~大掘抜)

 元の道に戻り10分程歩く。護摩壇石(ごまだんいし)の前に出る。弘法大師がここで火を焚いて祈祷したといわれている。

 ここからの道は素晴らしい道だった。深いブナ林の中の広い、平らな道を歩く。鴬が鳴いている。歩いているだけで気持ちが良くなってくる。





 新緑の頃ではないが、鴬の声を聞きながらブナの林の中を歩く、という望みは叶えられた。

 街道の北側に、「月山遥拝所」の標識が立てられている。街道から離れて急な坂を上る。
 左から月山、品倉山、姥ヶ岳
が見えたが、高い気温のためか靄(もや)がかかっていてはっきりと見えなかった。

 左側が断崖になっている「座頭まくり」と名づけられた場所に着く。崩落があったのだろう。通行禁止のロープが張られていて、右側に新しく道ができている。

 護身仏茶屋跡(ごしんぶつちゃやあと)に着く。少し開けた平らな場所に杉の木が聳えている。

 茂吉の歌碑が立っている。


      山の雨晴れゆかむとして白雲が立ちのぼるごと動きてやまず


 小掘抜(こほのぎ)に着く。山をV字形に掘り抜いて造られた道である。陽光に輝くブナのトンネルになっている。


小掘抜


 小掘抜を過ぎて、300m程歩くと、大掘抜(おほのぎ)が現れる。やはり、山をV字形に掘り抜いて造られた道である。幅2m、長さ数10mに及び、小掘抜より規模が大きい。


大掘抜


 千手ブナからここまで約1時間かかった。


(大掘抜~細越峠~湯殿山遥拝所)

 大掘抜を過ぎると、一の坂、二の坂、三の坂の急坂が2キロ程続く。道幅が狭くなり、道に石や岩が露出している。一の坂、二の坂、三の坂は総称して長坂と呼ばれている。

 二の坂を過ぎた場所に、茂吉の歌碑が立っている。


      雨あとの滑べる山路を四人(よたり)して田麦俣まで直(ただ)にあゆめる


 三の坂を上りきった平らな場所にも茂吉の歌碑が立っている。


      人おとも遂に絶えたるこの山は橅(ぶな)しげりたりひる暗きまで


 細越峠(ほそごえとうげ)に着いた。夏茶屋があったといわれている。


細越峠


 細越峠は、高い位置にあり、周囲の樹木が疎らなために風通しが良い。湯殿山の方向から吹いてくる風がサラサラとして気持ちがいい。
 ここでしばらく休んで、涼しい風に当たりながらセミの合唱を聞く。クマゼミのような猛々しい鳴き声ではなく、静かな鳴き声である。

 道が下り坂になる。
 
街道から離れて、湯殿山遥拝所(ようはいじょ)がある。脇道を300m程上る。


湯殿山遥拝所へ向かう道


 遥か遠くに、朱色の大鳥居と湯殿山参籠所が見えたが、やはり靄がかかっていてぼんやりとしか見えなかった。
 雪が深くて進めない時や時間がない時に、ここで拝んだといわれている。また、昔、湯殿山は女人禁制であったため女性もここから遥拝したといわれている。

 大掘抜からここまで約1時間かかった。


(湯殿山遥拝所~砲台跡)

 遥拝所から街道に戻る。下り坂が続く。
 左側に、湧水と思われる幅1、5m程の流れが現れた。水量が多く、きれいな水である。傍に柄杓があったので、柄杓にすくって水を飲む。冷たくておいしい。10杯飲んだ。
 リュックに入れておいたペットボトルの1本は空になり、もう1本の
ペットボトルも少し残っていただけだったので、それも空にして、2本のペットボトルに冷たい水を詰める。

 下りの道が急坂になる。
 坂の途中の左側に、開けた平らな所がある。
戊辰(ぼしん)戦争時に庄内藩によって造られた砲台跡である。


砲台跡


 説明板が立っていて、次のように説明されている。

 「慶応4年の戊辰(ぼしん)戦争時庄内藩が新政府軍の攻略に備えて構築したものである。
 庄内藩は、奥羽越列藩同盟に加わり戦いを進めたが、戦局ままならず降伏、これをもって本州での戊辰戦争は事実上終わる。」

 湯殿山遥拝所からここまで約1時間かかった。


(砲台跡~塹壕跡~笹小屋跡)

 更に下って行くと、右側の脇道を50m程進んだ所に、同じく戊辰戦争時に庄内藩によって造られた塹壕(ざんごう)跡があった。


塹壕跡




 説明板が立っていて、次のように説明されている。


 「慶応4年の戊辰戦争の際、庄内藩は官軍(西軍)の来襲に備えて国境警備をはじめた。
 家老・酒井兵部を隊長とする大網守備隊は200~300人の兵力で、隊長ら幹部は本陣大日坊を宿舎としていた。実践的な防衛地点として、この付近に陣地を構築し、数多くの塹壕が掘られた。陣地は庄内藩の降伏後まもなく取り壊されたという。」


 戊辰戦争は、慶応3年(1867年)から慶応4年(1868年)の間、薩摩藩、長州藩を中心とした新政府軍と、旧幕府勢と奥州各藩の同盟軍が戦った内戦である。六十里越街道も激しい戦闘が行われた。

 慶応4年(1868年)、新政府は江戸を東京と改め、慶応を明治と改元した。 

 田宮虎彦(1911~1988)の『落城』は、東北の2万3千石の黒菅(くろすげ)藩という架空の小藩を設定し、戊辰戦争において官軍(西軍)と戦い、官軍に滅ぼされた黒菅藩の最期を描いた物語である。
 『落城』は、十の短編で構成されている。
『末期の水』は、その短編の中の一つである。

 三十一の奥羽越の列藩はことごとく官軍に降伏したが、黒菅藩は最期まで戦った。
 優秀な装備を誇り、雲霞のように押し寄せる官軍に勝つことは万に一つの可能性もないことが明らかだったから、黒菅藩の藩士の中には、官軍に恭順の意を示し、降伏する道を選ぶべきだという意見もあった。また、和平の方法を探っている者もいた。しかし、あくまで徹底抗戦を主張する者たちによって、彼らは殺戮され、意見は封じられた。

 藩士の中の重役10名が集まり、評定が続けられたが、意見はまとまらなかった。
 最後に藩主(殿)の意見を仰いだ。藩主は、我が藩は300年に亘る徳川家の恩顧を受けてきた。徳川家の譜代大名としての誇りを持って最期まで戦う、と述べた。
 この言葉が藩是となり、藩士とその家族はこの言葉に従わざるを得なくなった。

 明日の出陣を迎えた前日、城内で藩主と藩士たちの宴が開かれた。誰もが明日の出陣が死の門出であることを知っていたから、藩主の眼にも藩士たちの眼にも涙が光っていた。
 午後、藩士たちは、藩主から下げ渡された藁苞(わらづと)に包まれた室鯵の干物と銘酒・黒菅錦の徳利を下げて下城した。藩士たちは、これが最後の下城であることを知っていた。明日の早朝、登城したら城に立て籠もり、城内太鼓櫓の乱打とともに藩士の家族も城内に立て籠もり、壕に架かる橋が切って落とされる手筈になっていた。藩士の家族の老人、女、子供も戦える者は戦うことになっていたからその準備をしていた。

 『末期の水』は、4人の藩士たちの家族の別離と出陣前夜の宴を描いている。
 最後に描かれる4人目の藩士・佐々野平伍の家。


 「御徒目付、十二石取の佐々野平伍は5年来労咳で伏せっていた。勤務もすでに御免のおゆるしを受けていたのである。20日の城内の御酒宴にも出ることがかなわなかったのだが、拝領の室鯵の干物と黒菅錦の徳利は、隣家の同役朝井閑太左衛門がうけて来て、平伍の妻の香苗に手渡した。香苗がそれを薬湯の匂いのこもっている平伍の枕上に据えると、平伍は伏せったまま病みおとろえた両手をあわせて、かすかに瞑目した。

 『いよいよ明日は御出陣ときまりました』
 香苗がそういうと、平伍はかすれた声で、
 『最後の御奉公もかなわぬ、この腑甲斐なしめ』
 と吐きすてるようにみずからを嘲った。それから、
 『せめてお城を拝みたい』
 といったので、香苗はみずからも身装をあらため、子供の平之助にも袴をつけさせて、夫を寝床の上に起き上らせた。正坐させたのだが、おさえておらねば
平伍は1人で己れの身体を支えることも出来ない程に弱っていた。香苗は平之助に平伍の背をいだかせ、いそいでそのほつれ毛をかきあげ、椿油でととのえてから、肩に互鷹羽の家紋のついた紋付を羽織らせた。そして静かに城の天守のあるあたりを拝ませたが、平伍は拝みおわると同時に咳きあげ血を吐いた。拝領の藁苞はその朱のようにあかい血を真赤にあびた。

 その喀血の静まるのをまって、香苗は乏しい三つの膳をすえた。それでも心ばかりの祝い心は小豆粥にこめてあった。十二石取といっても、勤務御免を願っているので、藩庁からは定め通りの禄高の半ばも下げわたされてはいない。しかも薬餌の代はかさむので、子供の平之助に三度の食事を満足に食べさせることすら出来ないこともある程であった。平之助は8歳になっていた。(中略)

 『お父様、御好物の小豆粥』
 平之助はそういって、椀を父の枕上にもっていった。香苗は黒菅錦の徳利からまず一盃を平伍にふくませて、ついで自分ものんだ。平之助は今夜は母が自分にも酒をすすめるのをいぶかしげにみて、それでも盃をあけた。平之助が膳の上のものを食べおわるのを待って、香苗は
 『平之助』
 としずかに言った。いつにない冷たいその言葉に平之助が瞳をあげると、 
 『殿様よりいただいた御酒、残すのは勿体ないこと故、朝井様におとどけけしておくれ』
 といいつけた。平之助は何故かその母の言葉に言葉をかえせぬ威厳を感じて、石畳をふんで隣家にその酒をとどけたが、帰ってみると、父の平伍の寝床が朱に染まっていた。

 息をのんだ平之助に、香苗は、
 『お父様に末期の水を』
 といった。平伍はすでに息たえていたが、平之助は母の教える通り、しめした綿で父の唇をぬらした。その終わるのをまって、香苗は、
 『平之助、お父様は御病気で最後の御奉公がかないませぬ故、御自害なさいました。私もお供いたします』
 といってから、じっと平之助をみつめた。そして、
 『それで、平之助、お前様はどうなさるかえ』
 といった。いつもよりさらに冷たく落ちついた声であった。平之助はしばらく考えこんだ。心の中で、いつも身体を大切にせよと教えていた父や母が、何故己れの生命を絶てというのか問いただしたい気持ちが瞬間かすかに頭をもたげたのだが、母のあまりに落ちついたその言葉に、自分ではわからぬ決意がひめられているようで、平之助は、
 『私もお供仕ります』
 と答えた。

 何かにひきずられてゆくような感じが何となくしたが、それはすぐ父母と一緒に死ぬという喜びにかききえていった。平之助の答えをきくと、香苗はかすかに頬をほころばせて笑った。そして、
 『それでは二人で末期の水をいただきましょう』 
 といって、さきほど拝領の黒菅錦をいただいた盃に水をみたして平之助にふくませ、自分もそれにならった。

 平之助はかねて教えられた通り腹を切った。8歳の子供のこと故手もとが狂ったが、脾腹に脇差をつきさすと同時に香苗が頸をはねた。そして、小さな遺骸を父の寝床に並べて横たわらしてから、自分は左乳房の下に脇差をつきたて、己が身の重りをそれにかけてうつぶせた。その時平伍は33歳、香苗は27歳であった。どこかで黒菅節のアラ、ナギアドウヤレ、ナニアトヤーラという囃子言葉が聞こえていた。古昔、アイヌの残したというその囃子唄が、三人の屍の上にしずかにながれていった。行燈の灯がやがて燃えつきた。」


 研ぎ澄まされた文章に、緊迫した雰囲気と登場人物たちの凛とした姿勢が伝わってくる。
 現実にはありえないし、また、あってはならないが、負けることの美と敗者だから美しいということを感じる。それは、「滅びの美学」などという生易しいものではなく、作者がもっと強くそれらを語っているように思う。

 『落城』の中に収められている最初の短編『物語の中』は昭和23年(1948年)11月、『末期の水』は昭和24年9月、最後の短編『菊の寿命』は昭和25年2月に、それぞれ雑誌に発表された。この時代、日本は連合国軍の占領下にあった。 

 昭和12年(1937年)、日中戦争が始まり、昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで長い戦争があった。多くの犠牲者が出た。
 藩是に従わざるをえないで従容と死に赴いた人たちのように、今度の戦争で大きな渦の中へ巻き込まれてゆくように、否応(いやおう)なしに運命に従って犠牲となった人々に、作者は、およそ現実にはありえないことを唯一可能にすることのできる文学作品に託して、負けることは決して恥ずべきことではない、敗者は勝者よりも美しい、と犠牲者に語ったのではないだろうか。
 連合国軍の占領下にあった時代だったから、あえて戊辰戦争に材をとり、黒菅藩という架空の小藩を設定したものと考える。
 『落城』は、戦争の犠牲者となった人々に捧げられた鎮魂の書であると思う。

 約150年前の戊辰戦争の遺構である、砲台跡、塹壕跡は、美しいブナの林の中で静かに時を経ている。

 20分程下る。笹小屋跡に着く。
 砲台跡からここまで約40分かかった。合計すると、蟻腰坂からここまで約5時間40分かかっている。


(笹小屋跡~とうふ道~湯殿山神社大鳥居)


笹小屋跡


 ここに、昔、笹小屋(ささごや)という名前の山小屋があった。茂吉の歌碑が立っている。


      峪ぞこの笹小屋といふ一つ家(や)に足をちぢめて共にねむりぬ


 ここまで、茂吉の歌碑が五つ立っていた。これらの歌は、歌集『たかはら』に収められている歌の一部である。
 『たかはら』には、笹小屋から田麦俣までの間に茂吉が詠んだ歌19首が収められている。

 山形県上山町金瓶(かなかめ)(現在の上山市金瓶)出身の茂吉は、生涯に何度も出羽三山に登拝している。

 『たかはら』に、次のような「三山参拝初途」の詞書がある。

 「昭和5年7月20日、長男茂太15歳になりたるゆゑ、出羽三山に初詣せしめむとて出發す。上山にて高橋四郎兵衛加はり、岩根澤口にむかふ」

 長男茂太は斉藤茂太(1916~2006)であり、高橋四郎兵衛は茂吉の実弟である。上山で旅館を営んでいた。

 3年前の10月は、ここから下っていき、仙人沢(せんにんざわ)架かる橋を渡った。
 
今回は橋まで行かないで、笹小屋跡から直ぐに延びている「とうふ道」を歩くことにする。
 笹小屋跡に立っている案内板に、笹小屋跡と「とうふ道」について、次のように説明されている。

 「注連寺と大日坊より出向いて行人や旅人賄接待をしていた。遠藤某という地元民により茶屋が経営され、豆腐を作って仙人沢まで運び、商っていた。この道を『とうふ道』と呼んでいる。」

 笹小屋跡から左へ曲がり「とうふ道」へ入る。すぐに「湯殿山石碑跡」がある。
 案内板があり、それによると、湯殿山まで迂回することになる。このときは、迂回するといっても、橋の手前を曲がったことでもあり、「とうふ道」が近道だと思ったが、後で、これが大変な誤解だったことを知ることになる。

 左へ曲がる。道が荒れてるなと感じた。整備はされているのだろうが、歩く人は稀ではないかと思った。左側に小さな池が見えた。
 幾つもの小さな流れを渡り、急な坂を上り下りする。流れを幾つ渡ったのか、坂を何回上り下りしたのか記憶にないくらいの数の多さだった。

 ブナ林の中を歩いているときも、時々、道が途中で無くなっているのではないかと思ったり、道が複数に分かれたりして道が分かり難くなってくる。水音は聞こえるが、仙人沢になかなか辿りつけない。


とうふ道



 不安な気持ちで歩いていると、木立の間から朱塗りの湯殿山神社の大鳥居が見えた。近くまで来ていることにほっとしたが、よく見ると、見えているのは大鳥居のほぼ真横だった。これを見て、相当、迂回していることに気が付いた。
 それからまた上がり下りしているうちに大鳥居が見えなくなった。道を間違ったのではないかと不安になってくる。

 急な坂を下りてやっと仙人沢に着いた。笹小屋跡からここまで約1時間かかった。


仙人沢


 川幅は4m程である。晴れた日が続いていたので、水量は少ないだろうと思っていたが、大量の水が大きな音をたてて流れている。
 対岸まで石の上を歩いて渡ろうと思っていたが、途中、水没している石もある。石の上を歩くことにこだわっていたら、かえってバランスを崩したり、滑ったりして危険だと思ったので、流れに入って水の中を歩くことにした。水の深さは足首と膝の間くらいだった。

 対岸に着く。目の前に、行く手を阻むような急な坂がある。ここから、また険しい山道を上り下りした。

 30分程たって、歩きやすい坂道になった、と思って上っていたら、湯殿山神社大鳥居前の駐車場を見下ろす高台に立った。最後はあっけなかった。
 時間は午後2時10分だった。笹小屋跡から約1時間30分かかっている。合計すると、蟻腰坂からここまで約7時間10分かかった。その間、誰にも会わなかった。


湯殿山神社大鳥居


 車や観光バスが入れるのはこの駐車場までである。ここから先の湯殿山本宮参道入口まで通れるのは、専用の参拝バスだけである。参拝バスのチケットは、駐車場の端に建つ湯殿山休息所の中で売っている。
 疲れていたので参拝は止めることにした。
石段を上がり休息所の中へ入る。

 チケットを売る人や、バスの運転手、駐車場の案内をしている人たちが話をしていた。
 駐車場の案内をしている男性に、私が、朝7時に蟻腰坂を出発して、笹小屋跡から「とうふ道」を歩いて、7時間かかって今、着きました。「とうふ道」の方が時間がかかりますね、と話したら、男性が、そうですよ、「とうふ道」は遠回りになるんですよ、と言った。
 昔、毎朝、豆腐を作って行ったり来たりしていたんでしょうから歩きやすいと思っていたら、歩き難かったですね、と話したら、この前も草刈りをやったんですよ、と言われた。歩く人が少なくなれば道も歩き難くなるんだろうな、と思った。

 休息所の横にベンチがある。休息所の屋根で日陰ができていたので、ベンチに座って、遅くなったが民宿で作ってもらった弁当を食べる。おにぎりだった。いただいたトマト2個も食べる。甘くておいしい。

 太陽が動いて日陰がなくなった。休息所の2階に無料の休息所があるので、そこへ上がって休む。
 畳が敷かれている広い部屋だった。開けはなしている窓から涼しい風が入ってくる。
 登山の格好をした2人の若い男性が畳に横になっていた。月山を越えて湯殿山まで降りて来たのだろう。私も9年前に、月山の8合目から月山へ登り、湯殿山神社まで降りて来たことを思い出した(「奥の細道旅日記」目次32、平成18年9月17日参照)。

 湯殿山16時45分発鶴岡駅前行き最終のバスが発車する時間が近づいた。
 下に降りて、参拝バスの受付をしていた男性に、民宿の「田麦荘」に昨日に続いて今日も泊まるんですが、降りる停留所は「田麦俣口」の方がいいですね、国道を後戻りしたらいいんでしょう、と話したら、その男性が、停留所から「田麦荘」まで割合距離はありますよ、迎えに来てもらった方がいいんじゃないですか、と言った。
 最終のバスを運転する運転手がちょうどいたからだろうか、その男性が、運転手に、停留所から「田麦荘」まで結構歩きますよね、と話している。先ほど私がひどく疲れている様子を見たからそう言ってくれたのだろう。
 運転手は、ああ、思っているよりも距離はありますよ、電話して停留所まで迎えに来てもらった方がいいですよ、と受付の男性と同じことを言う。
 私が、昨日も今日も送り迎えしてもらって、これから忙しくなる時間でしょうから迎えに来てくれとは言い難いですね、と言ったら、運転手が、大丈夫ですよ、来てくれますよ、と言ったので、電話して、恐縮しながら停留所「田麦俣口」に来ていただくことをお願いして、バスの到着の時間を伝えた。

 停留所「田麦俣口」に17時7分に着く。運転手が、もう来てますよ、と言う。民宿の女性が、暑いのに車の外に出て待ってくれていた。お礼を言って車に乗せていただいた。

 夕食の時間になったので食事処へ行く。今日も豪華でおいしい料理をいただいた。

 昨日はなかったが、今日は私の隣にテーブルが置かれ、料理の一部が並べられていた。
 私より少し遅れて、60代くらいの男性が隣のテーブルの前に座った。私に、にこにこしながら挨拶をしてくれる。温厚な人柄を思わせる風貌で人当たりの良さそうな人である。

 私の背中合わせに置かれたテーブルの前に、4人のやはり60代くらいの女性が座り、お喋りをしながら食事をしている。
 そのうちに民宿の女性も加わって話が盛り上がっている。私の隣の男性も話に加わっている。
 私が男性に、クラス会ですか、と尋ねると、男性は、遠くへ引っ越ししていた人が帰省して、親しい人どうしで泊りがけで来たようですよ、と話した。
 それもいいな、と思った。親しいからといって家に泊めてもらったりすると、お互いに気を遣ったり、気疲れしたりすることがあるだろうから、月山を見ながらおいしい食事をして、誰にも気兼ねしないでお喋りした方が楽しいだろう、と思った。

 男性は、神奈川に住んでいるが、元々この近くの出身で、墓参りに来て、明日は中学校の先生に会う予定である、と言っていた。お盆の頃は電車が混むから早めに墓参りに来ました、と言って笑った。

 料理の最後に、円い笊に入った蕎麦が運ばれてきた。予想通りおいしい蕎麦だった。そば粉の香りがよくわかる。

 食後、風呂に入った。後から40前後くらいの若い男性が入ってきた。
 食事がおいしいですね、ということから話が始まった。
 私が、今日、田麦俣から湯殿山まで六十里越街道を歩きました、と言って、六十里越街道のことを少し話した。

 男性は、渓流釣りが趣味で、静岡から来たと言っていた。田麦俣はイワナがよく釣れるんですよ、と言ったので、私が、そうするとあまり人には知られたくないでしょう、と言ったら、いや、みんな知ってますよ、田麦俣は渓流釣りのメッカ(聖地)ですよ、と言っていた。ただ、今回は成果は少なかった、と言って笑った。
 それから、渓流釣りについての話を色々と伺った。中には、今まで聞いたこともないし、本で読んだこともないような吃驚する話もあった。
 今回は奥さんも連れて来られていて、明日、仙台へ寄って七夕を見て帰る、と言っていた。


・同年8月6日(木) (帰京)

 朝、食事をしていると、民宿の女性が、串に刺して塩を振って焼いたイワナを皿に載せて持ってきた。釣りに来ていた人が今朝、イワナを釣ってきて、お客さんに食べてもらってくれ、と言われました、と言った。
 昨日、風呂場で話をした人が釣ってきたのだろう。ありがとうございます。

 イワナは、身も皮も柔らかい。身はホクホクとして甘くておいしかった。

 イワナをご馳走してくれた男性が食事処に入って来た。
 早速、お礼を言って、釣ったばかりの魚をいただいたのは初めてです、とてもおいしかったです、思いがけないご馳走でした、と申し上げた。
 男性は、今朝、5時に起きて釣ってきました、と言っていた。

 隣のテーブルの男性もテーブルの前に座った。昨日と同じように笑顔で挨拶をしてくれる。
 民宿だから、こういう宿泊客どうしの和やかな交流があるのだろうな、と思った。

 また「田麦荘」に泊まり、今度は六十里越街道を湯殿山とは反対の方向へ歩こうと思っている。
 国道112号線で分断されているが、「田麦荘」のすぐ近くを六十里越街道が通っている。「田麦荘」から出発して、
注連寺(ちゅうれんじ)に向かって歩く予定である。
 注連寺から先は、
十王峠(じゅうおうとうげ)を越えて松根(まつね)まで歩いていた。田麦俣と注連寺の間はまだ歩いてなかった。

 注連寺については、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月15日、
 注連寺から松根までの六十里越街道については、「奥の細道旅日記」目次35、平成19年5月5日参照。

 帰りは、来たときと同じように停留所「田麦俣」から鶴岡駅前行きのバスに乗ろうと思った。早めに出ようとしていると、民宿の女性が、送りますよ、と言ってくれた。
 昨日も一昨日も送り迎えしてもらったので、辞退していると、車は玄関の前に用意してますよ、と言うので、今日も送ってもらうことにした。一昨日、私を停留所「田麦俣」へ迎えに来てくれた男性が送ってくれた。

 男性は、私を停留所の前で降ろした後、また来てください、と言って帰って行った。
 3日間、バスの停留所と民宿の間は全て車で送り迎えしてもらったことになる。ありがとうございました。

 「田麦俣」始発9時20分発「鶴岡駅前行き」のバスが入ってきた。運転手さんは、昨日の帰りのバスの運転手さんだった。昨日のお礼を言う。
 みんなに親切にしてもらった3日間だった。

 バスは、鶴岡駅前に10時15分に着く。駅の待合所で休む。
 鶴岡駅11時6分発の「いなほ8号」に乗る。おいしい朝ご飯を腹一杯食べていたので腹は減らない。
 電車は、新潟駅に12時57分に着く。新潟駅13時7分発の上越新幹線「とき324号」に乗り換える。

 新幹線が動き出してから、民宿で作ってくれた弁当を開いた。





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