49 針江 大溝 海津(滋賀県高島市)
・令和2年9月13日(日) 針江(はりえ)
昨日、東京駅6時発新幹線「のぞみ1号」に乗って東京を出発した。名古屋駅で途中下車して名鉄電車に乗り換え、建築家・谷口吉生氏の作品である豊田市美術館を訪ねた。
名古屋駅に戻って新幹線に乗り、電車を乗り継いで彦根駅に着いたのは午後だった。彦根でいつも宿泊する駅の近くのホテルサンルート彦根にチェックインする。4泊予約していた。
今朝、早くホテルを出て駅へ行く。彦根駅6時33分発米原行きの電車に乗る。5分後に米原駅に着く。
隣のホームに停車している敦賀行きの電車に乗り換える。電車は6時50分に発車する。7時23分に近江塩津駅に着く。
電車を降りて隣のホームへ行く。敦賀駅を発車した近江今津行きの湖西線の電車が来る。電車は7時34分に発車する。7時53分に近江今津駅に着く。
隣のホームへ移動して電車が来るのを待つ。入線した京都行きの電車に乗る。電車は8時12分に発車する。8時16分、近江今津駅の次の新旭駅に着く。
針江・霜降の水辺景観が、平成30年5月8日、国重要文化的景観に選定された。
豊富な湧水を利用した独特な生活が営まれ、集落、河川、水田、ヨシ原などが一体的な水循環を形成している。
針江地区は、比良山系の伏流水が湧き出す水の豊富な地域である。多くの家庭には湧き水を利用した「川端(かばた)」と呼ばれる仕組みがあり、大切に利用されている。
大切な水は「針江の生水(しょうず)」と呼ばれている。平成の名水百選に選ばれている。
川端を見学したいと思っているが、観光パンフレットによると地域散策にはガイドが必要と書かれている。川端は殆どが各家庭の屋内に設けられているので見学は無理だろう。
駅で観光マップをいただく。曇り空で、時折、ぽつぽつと雨が落ちる。マップに従って歩きながら道路の端の用水路を見る。きれいな水が流れて、小さな魚が群れをなして泳いでいる。
30分程歩く。町の縦横を巡る用水路に、きれいな水が音を立てて流れている。
用水路
十字路がある。ここで左へ曲がるのだが、十字路の先に川島酒造が建っている。広い敷地に、工場、店舗、住居等の幾つもの建物が並んでいる。川島酒造は創業慶応元年(1865年)、地酒・松の花を造り続けている。仕込み水は平成の名水百選「針江の生水(しょうず)」を使う。
道路の反対側に川島酒造の駐車場がある。端に、水が噴き上がっている場所がある。説明板が立っていて、「おいしい川端(かばた)の水です。ご自由にお飲みください」と書かれている。
傍に柄杓が置いてあるので柄杓に水を受けて飲む。冷たくておいしい。持っていたペットボトルを空にして水を詰める。
十字路に戻り左へ曲がる。
道路の右端には、きれいな水が流れる用水路があり、左端は土の道が続く。道の向こうに明治時代に建立された行者堂が建っている。境内に水行場があり、水が湧き出ている。そこが水源となって清冽な水を湛えた流れが始まる。歩いているだけで気持ち良くなってくる。
突き当たって右へ曲がる。針江大川が流れている。水がきれいだから水面下の水草も青々としている。
針江大川
川に架かる橋を渡る。神社が建っている。境内が広い。案内板に、「この地域は生水(しょうず)の郷です」と書かれている。この辺りは住民の憩いの場になっているようである。
・同年9月14日(月) 大溝(おおみぞ)
早朝、ホテルを出て駅へ行く。昨日と同じ電車を乗り継いで近江今津駅から三つ目の近江高島駅に8時24分に着く。今日も曇っている。駅で観光マップをいただく。
200m程歩く。三叉路に出て右へ曲がる。案内板が立っている。案内板に従って右側に建つ病院の横の、元は田畑の畦道だったと思われる細い道へ入る。病院を回り込むようにして歩くと田畑の中に、古墳或いは一里塚に見える大溝城跡に着く。
大溝城跡
大溝城は、織田信長(1534~1582)の甥・織田信澄(のぶずみ)(1555?~1582)が天正6年(1578年)、明智光秀(?~1582)の設計により築いた城である。因みに、織田信澄は明智光秀の婿である。
明智光秀が天正10年(1582年)6月2日、信長に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄にも嫌疑がかかった。信澄は自害する。
元和5年(1619年)、伊勢上野から移封(いほう)して大溝領主となった分部光信(わけべみつのぶ)(1591~1643)は、この地を陣屋として統治した。分部家の統治は明治4年(1871年)の廃藩置県まで続いた。
分部光信は城下町の整備を行った。現在も旧城下町の町並みを水路が巡り、当時、区画された町割りが残っている。
石垣が残っている。自然石を加工せず積み上げる豪快な野面積(のづらづみ)の積み方である。平成8年3月、石垣を含む大溝城跡は市の史跡に指定された。
大溝城跡石垣 野面積
左手の、自然石を積み上げたままの石段を上がる。1段が普通の階段の2段分くらいの高さである。頂上の天守台跡に着く。何もない、小さく開けた場所だった。
下に降りて左へ曲がる。道なりに歩いていくと、ヨシ原の向こうに乙女ヶ池が広がっている。乙女ヶ池は、面積8、6ha、平均水深1、6mである。大溝城は乙女ヶ池を外堀としていた。対岸は打下(うちおろし)集落である。
乙女ヶ池
大溝の水辺景観が、平成30年5月8日、国重要文化的景観に選定された。
湖岸砂州によって琵琶湖と隔てられる内湖(ないこ)・乙女ヶ池が広がる大溝の水辺景観は、水とともに暮らす生活習慣を伝える大溝城跡、旧城下町、町割り水路、乙女ヶ池、乙女ヶ池沿いの打下集落が評価された。打下集落は、舟運や漁業に携わる者が多く住んでいた。
三叉路に戻る。駅に戻らないでまっすぐ200m程歩く。十字路に出て左へ曲がる。惣門が建っている。
惣門
惣門は大溝陣屋の正門であった。説明板が立っていて、分部光信は、大溝城の西に、陣屋、武家屋敷を構築し、背戸川を境として石垣、土塁を巡らせて、この地に惣門を設けた、と説明されている。
門を境として南は武家屋敷、北は町人町として区画されていた。惣門は宝暦5年(1755年)に大修理され現在に至っている。惣門は大溝城関係の建物として唯一現存する貴重な建造物である。市指定文化財である。
惣門の北側が商人や職人の住む町だったことを示す蝋燭(ろうそく)町、十四軒町、職人町、紺屋町、石垣町等の地名が現在も残っている。南側は藩校も設立されていた。
惣門は長屋門の形式で建てられている。当時は門番部屋や仲間部屋(ちゅうげんべや)だったと思われる部屋が現在、「町並み案内所」として活用されている。中へ入り、部屋の内部を見せていただく。殆ど改装されているが、天井は当時のままのようである。天井は補強されていますが補強材の他は当時のままです、という説明があった。
惣門
惣門 天井
惣門の前の道路を反対側へ渡り路地を通る。当時の「町割り水路」が残っている。
町割り水路
説明板がある。説明の一部を記す。
「水路には、かつて、カワトと呼ばれる洗い場が各所に設けられ、生活用水、防火用水などに利用されてきました。さらに、武家屋敷地の背後には生活排水を流す水路も敷かれました。
大溝の城下町は近世初期から上水と下水の分離が計画的に行われており、湖岸の低湿地における小都市に適応した水路計画として極めて先進的なものであると評価されています。」
説明板に写真がプリントされている。明治の頃のものだろう。水路を挟んで、おおぜいの人が「鮒ずし」を作っている。
また、観光マップに、昔、この用水路に琵琶湖の魚がたくさんのぼってきたと書かれている。
大溝はまた訪ねて、大溝城が水城(みずじろ)と言われる根拠になった琵琶湖と、内湖である乙女ヶ池の役割りや、旧城下町の雰囲気を残す町並みを見たいと思う。
・同年9月15日(火) 海津(かいづ)
早朝、ホテルを出て駅へ行く。昨日、一昨日と同じ電車を乗り継いで7時45分にマキノ駅に着く。ようやくいい天気になった。
駅前からコミュニティバスが出ているが、8時46分発になっている。1時間待つことになるので歩くことにする。
駅を出て左へ曲がり、国道161号線へ入る。右へ曲がり500m程歩く。「西浜」の信号から反対側へ渡り、「近江湖の辺(うみのべ)の道」と名づけられている琵琶湖の湖岸を巡る道に入る。
3年前の5月10日、近江今津から中庄浜(なかしょうはま)まで「近江湖の辺の道」を歩いた(目次33参照)。一昨年5月9日、中庄浜から西浜(にしはま)まで「近江湖の辺の道」を歩いた(目次39参照)。昨年9月12日、西浜から海津(かいづ)まで歩いた(目次46参照)。
左へ曲がる。湖岸に建つ民家の下に石垣が築かれている。元禄年間に水害防止のために1キロ余りに亘って築かれた「海津浜の石積み」である。
昨年、湖岸に下りて「海津浜の石積み」を見ながら歩いた。今日は湖岸には下りないでこのまま「近江湖の辺の道」を歩いて、かつて今津(いまづ)、塩津(しおつ)と並んで、琵琶湖の湖上輸送の港として、また、敦賀へ抜ける北国街道の宿場町として繁栄した海津の町を散策する予定である。
高島市海津・西浜・知内の水辺景観が、平成20年3月28日、国重要文化的景観に選定された。案内板が立っている。全文を記す。
「重要文化的景観に選定された『高島市海津・西浜・知内の水辺景観』は、高島市マキノ町海津、西浜、知内の湖岸一帯および知内川と琵琶湖を含む約1、842haです。
文化的景観とは、自然と人の暮らしが作り上げてきた文化的な風景のことで、この地域では、琵琶湖や河川、内湖の周辺で続けられる昔ながらの生活習慣、湖岸の石積みや共同井戸、知内川周辺で続けられている伝統的な漁法などの多様な水文化が評価され、重要文化的景観として選定されました。
この付近は江戸時代には湊として整備され、中ノ川でつながれた内湖は船溜まり場としても活用されました。特に、藩米などの北国からの多くの荷物が大量に通過した江戸時代初期は、蔵や旅館、商店が立ち並び、活気のある宿場の様相を呈したものと考えられます。
また、近くには明治時代以降、琵琶湖上を走るようになった蒸気船の発着桟橋の杭跡が残されています。蒸気船は、近江の海津地域の人々にとって重要な交通手段であり、この場所は長い間、海津の玄関口として繁栄しました。」
「近江湖の辺の道」は敦賀へ抜ける北国街道である。街道沿いの民家と民家の間に琵琶湖の湖岸に抜ける細い小路がある。「ヅシ」と呼ばれている。人々はここを通って琵琶湖の水で野菜を洗ったり、水を汲んだりしていた。また、「ヅシ」は風の通り道である。
ヅシ
200m程歩く。旧海津港跡の案内板が立っている。案内の一部を記す。
「明治3年(1867年)、郡山藩の許可を受けた磯野源兵衛と井花伊兵衛らが共同して蒸気船を購入し、大津~海津間の航路を開いた。これが太湖汽船琵琶湖線の母体となった。その桟橋は杭のみを今に残している。」
「ヅシ」を通って旧海津港跡の桟橋の杭を見に行く。
旧海津港跡 桟橋の杭
琵琶湖の湖上輸送の港として繁栄し、北陸と上方を結ぶ北国街道の宿場町として賑わったことも今は昔、残暑の厳しい陽が照りつける静かな通りを歩く。
海津の町並み
造り酒屋・吉田酒造は創業明治10年(1874年)、地酒・竹生嶋を造っている。
吉田酒造
中村商店は400年以上、醤油を造り続けている。出入り口の引き戸のガラスに「電話 五番」の文字が印されている。
中村商店
三叉路に出た。右へ曲がり湖岸に下りる。水害防止のために、元禄年間に1キロ余りに亘って築かれた「海津浜の石積み」はここで終わる。
海津浜の石積み
元に戻り左へ行く。右手の高台に、真宗大谷派梅霊山願慶寺が建っている。願慶寺は、北国の大名が北国街道を往来する際の本陣であった。左手の道は敦賀へ抜ける道である。
願慶寺
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