46 河原町芹町 七曲がり(滋賀県彦根市) 西浜~海津(高島市)


・令和元年9月9日(月) 彦根

 1週間程前から台風15号が近づいていることをニュースで報じていた。
 彦根へ行くときいつも乗る東京駅6時26分発新幹線「ひかり501号」の指定席の切符を1ヶ月前に購入していた。この指定席が使えるだろうかと気になって毎日ニュースに注意していた。
 昨日、台風は東京地方を夕方から明日の未明にかけて通過する、というニュースがあった。それから半日ほどたった昨日の夕方6時頃、JRは在来線の運行を明日朝8時まで中止にすることを報じた。
 これで6時26分発の新幹線に乗ることは不可能になった。指定席の変更をしなければならない。駅へ行き、12時33分発「ひかり513号」の指定席に変更してもらう。これだと14時44分に米原駅に着く。

 今朝は強い雨や風は治まっていたが、何となく落ち着かない。予定よりも早めに駅へ行く。
 駅はおおぜいの人で混雑していた。改札をストップしているわけではない。8時に電車の運行は開始したのだろうが、線路に散乱した倒木を片付けている、ということで電車が止まったり、遅れたりしている。

 ともかく電車に乗る。ノロノロ運転の電車に我慢して乗り、地下鉄に乗り換えられる駅に着いたとき、電車を降りて地下鉄に乗り換える。地下鉄も遅れていたが、約2時間かかって11時頃東京駅に着いた。いつもは東京駅までは50分程で着くから2倍以上の時間がかかったことになる。
 東京駅も人がいっぱいだった。駅員が大声で、指定席を持っている方も自由席に乗ってください、指定席の料金は後で払い戻しできます、と言っている。

 予定よりも1時間早い11時33分発「ひかり511号」に乗り、自由席に座る。新幹線は正常に運行されている。13時44分に米原駅に着く。新幹線の改札口を出て在来線に乗り換えるとき、米原駅の窓口で、今、自由席に乗ってきましたと言って指定席特急券を渡した。その半額の払い戻しがあった。
 今日は移動するだけで終わったが、予定よりも1時間早く着いて、半額とはいえ払い戻しがあったことは得だった。

 琵琶湖線に乗り換える。約5分で、一つ目の彦根駅に着く。滋賀県を旅行するときいつも立ち寄る駅前の観光案内所へ行き、今回訪ねることを予定している場所について尋ねる。
 チェックインの時間になったので、今日から4泊予約している駅の近くのホテルサンルート彦根へ入る。


・同年9月10日(火) 河原町芹町(彦根市)

 ホテルを出て、JR彦根駅に隣接する近江鉄道彦根駅へ行く。彦根駅6時58分発の電車に乗る。一つ目の「ひこね芹川駅」で降りる。

 平成28年7月25日、彦根市河原町芹町地区が国重要伝統建造物群保存地区に選定された。
 慶長9年(1604年)から始まった彦根城の築城に伴って城下町も建設された。河原町芹町地区は、城下町内外の人々が集まる繁華街として栄えた伝統的な町並みを残している。

 この地区の伝統的建造物は88軒あり、その内5軒が国登録有形文化財に指定されている。

 昨年5月8日、河原町芹町地区を訪ねた目次39参照)。
 そのとき、地元の人が、
芹川(せりかわ)があるが、川向うに、仏壇屋さんが並んでいる古い通りがあり、その通りもいいですよ、と教えてくれた。
 河原町芹町地区を訪ねた後、彦根駅に戻って駅前の観光案内所へ行った。保存地区を訪ねたことを話し、地元の人から、芹川の向こうに仏壇屋さんが並んでいる古い通りがあることを伺いましたが、その通りのパンフレットはありますか、と尋ねたら、「ひこね七曲(ななま)がりマップ」という観光マップを出してくれた。城下町と中山道を結ぶ通りである。
 また、こんなものもありますよ、と言って、河原町芹町地区が保存地区に選定される前に作成されたマップを出してくれたので、それもいただいた。

 「保存地区に選定される前に作成されたマップ」を見ると、昨年歩いた表通りには、江戸時代から昭和初期にわたる、様々な時代の建物や、多彩な商いの商家が並んでいた。しかし、これだけではなく、表通りから小路や路地に入ると、足軽組屋敷や古い料亭が並ぶ通りがある。今日は、保存地区の小路や路地を歩く予定である。

 駅を出て、高架線の下を潜り駅の反対側へ出る。左へ曲がり300m程歩く。河原町芹町地区へ入り右へ曲がる。両側に美しい町屋が並ぶ静かな通りを歩く。


河原町芹町地区


 200m程歩く。車の往来が多い道路へ出た。ここで初めて十字路が出てきた。この道路は昔は川だった。現在、川は道路の下を流れている。川を暗渠(あんきょ)にするときに十字路を造ったと思われる。道路の反対側へ渡る。ここから少し人や車が増えてきた。

 100m程歩く。左手の路地へ入る。路地から表通りを見る。古い時代の佇まいを彷彿させる光景は、藩政の時代から左程変わっていないのではないかと思った。


路地から表通りを見る


 路地の奥へ進む。一つ目の角を右へ曲がる。足軽組屋敷が残っているが、当時のものは板壁だけのようである。屋敷の前の通りは狭く、ようやく人がすれ違える程の道幅しかない。江戸時代から地割が変わっていないと思われる。

 曹洞宗大雲寺の境内の横を通って表通りに戻る。左へ曲がり200m程歩く。左手の小路へ入り200m程歩く。芹川と平行する通りへ出る。左へ曲がり、紅殻塗りの格子を持つ数件の料理屋が建つ通りを歩く。昔の花街だった場所である。200m程歩き、左へ曲がり表通りに戻る。

 「ひこね芹川駅」に戻り電車に乗る。彦根駅に着く。
 駅の近くのホテルのレストランへ入る。彦根に来たとき時間があれば、昼は、このレストランで食事するようにしている。和洋折衷籠膳と称する9月の月ランチを注文する。

 ・和洋旬彩五種盛り 大きな籠に五つの小ぶりの器が納められ、それぞれ次の料理が入っている。
  茸入りのキッシュ
  サーモンとオニオンのマリネ
  ナスの味噌田楽
  イワシの酢の物
  梨の上に載っている生ハム
 ・秋鮭の茸あんかけ
 ・煮込みハンバーグ

 ・地元産の野菜のサラダ
 ・近江米
 ・秋野菜となめこの赤出汁
 ・デザートは4種類のケーキの中から選ぶ。 クランベリーとブルーベリーのダブルベリーケーキをいただく。


・同年9月11日(水) 七曲がり(彦根市)

 ホテルを出て近江鉄道彦根駅へ行く。彦根駅6時58分発の電車に乗る。二つ目の彦根口駅で降りる。
 今日は、昨年いただいた「ひこね七曲がりマップ」を持って「七曲がり」を歩く。
「七曲がり」は彦根城下町と中山道を結んでいた通りである。通りの両側に、仏壇屋、古い商家、寺、神社が建っている。「七曲がり」の呼称は、道路が何度も折れ曲がっていることに由る。

 「ひこね七曲がりマップ」には駅と「七曲がり」の間が省略されているので、駅から「七曲がり」の入り口までの道が分からない。
 駅員に尋ねたが、駅員は、私は分かりませんので、線路を反対側に渡って歩くとコンビニがあります。そこで聞いてください、と言われた。言われたとおりに歩いて行くと、コンビニがあった。
 若い男性の店員にマップを見てもらって「七曲がり」の道を尋ねた。店員が教えてくれた道へ入った。歩いていると道が崖の下に続く。民家も現代の建物ばかりである。変だなと思いながら、それでも後戻りしないで歩き続けた。

 反対側から学生らしい若い男性が歩いて来たので、同じようにマップを見てもらって「七曲がり」の道を尋ねた。男性が現在地を教えてくれたが、それによると、既に「七曲がり」の端近くまで来ていることが分かった。「七曲がり」とは別の道を歩いて来たのである。コンビニの店員は気を利かせて、「七曲がり」の端までの近道を教えてくれたんだろうなと思った。

 更にしばらく歩くと、マップに記されている「七曲がり」の道へ入ることができた。せっかくだから、このまま端まで歩いて、予定していたことの逆になったが、そこから彦根口駅へ向かって歩こうと思った。

 芹川に架かる芹橋に着いた。マップによると、ここが「七曲がり」の起点であり、終点である。橋の傍に朝鮮人街道の小さな石碑が立っている。
 江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日した
朝鮮通信使の一行が歩いた道の中で、近江国の野洲(やす)から中山道を離れて琵琶湖の湖岸の道をとり、近江八幡、安土、能登川、彦根を経て、再び鳥居本(とりいもと)から中山道に戻る迄の約42キロの道を朝鮮人街道と呼んでいた。

 因みに、朝鮮通信使が来日したのは合計12回だった。その内、文化8年(1811年)の最後の1回は対馬止まりだった。
 これについて、ジャーナリスト・高山正之氏は、週刊新潮2019年9月19日号「変見自在」で次のように述べておられる。その一部を引用する。髙山氏は、週刊新潮にて「変見自在(へんけんじざい)」のタイトルで、時事問題、歴史を解説し、論評している。

 「最終的に幕府は朝鮮側にもう江戸まで来なくていい、対馬で接遇すると伝えた。世にいう易地聘礼(えきちへいれい)だ。(中略)通信使は1811年の対馬での質素な供応を最後に二度と来なくなった。」

 芹橋は、江戸時代の彦根城下町では芹川に架かる唯一の橋だった。現在の橋は昭和45年(1970年)に架け替えられたものである。
 中山道を離れた朝鮮通信使は、「七曲がり」から芹橋を渡って彦根の城下へ入った。

 朝鮮通信使について、目次21、平成27年5月4日、目次11、平成25年5月2日、目次9、平成24年12月30日、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照。
 鳥居本について、目次30、平成28年9月14日参照。

 ここから彦根口駅に向かって「七曲がり」を歩く。後戻りして一つ目の角を左へ曲がり、150m程歩く。間口の大きな西川家住宅が建っている。明治時代初期の町屋である。かつては家具を売る商家だった。黒漆喰の壁、虫籠窓、袖壁が美しい。


西川家住宅


 「七曲がり」は、仏壇屋さんが多く建ち並び、通称「仏壇街」と呼ばれている。マップを見ると、仏壇屋と仏壇に関する工房が約30軒ある。


仏壇街


 案内板が立っている。一部を記す。

 「彦根の伝統産業である彦根仏壇は、江戸時代の中期に、武具・武器の製造に携わっていた塗師(ぬし)・指物師(さしものし)などが仏壇製造に転職したのが始まりとされている。」

 400m程歩く。2階建ての堂々とした建物が建っている。主屋の屋根の両端と袖壁を通じて瓦を葺く卯建(うだつ)が上げられている。



卯建


 卯建は、防火壁の役割を果していた。卯建を上げることは出費が嵩むことから、卯建はその家の繁栄の象徴であった。逆の意味になる「うだつが上がらない」の語源である。

 卯建について、目次32、平成29年2月13日、目次9、平成25年1月4日、「奥の細道旅日記」目次30、平成18年5月6日、同目次36、平成19年11月23日参照。

 200m程歩く。文政13年(1831年)創業の吉田醤油店が建っている。現在の建物は、大正時代に建てられたものである。二段重ねの卯建を見たのは初めてだった。


吉田醤油店


二段重ねの卯建


 何度か角を曲がりながら、古い民家や商家をゆっくり見る。1時間程歩いて彦根口駅に戻る。


・同年9月12日(木) 西浜~海津(高島市)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。彦根駅6時33分発米原行きの電車に乗る。5分後に米原駅に着く。隣のホームに停車している敦賀行きの電車に乗り換える。朝、早いからまだ直通の電車はない。
 電車は6時50分に発車する。7時22分に近江塩津駅に着く。電車を降りて、ビルの2階に相当するほどの階段を下りて、線路の下を潜り、下りたときと同じ数の階段を上がり、隣のホームへ行く。敦賀駅を発車した近江今津行きの湖西線の電車が来る。電車は7時34分に発車する。7時45分にマキノ駅に着く。

 駅を出て左へ曲がり、国道161号線へ入る。500m程歩く。「西浜」の信号から反対側へ渡り、「近江湖の辺(うみのべ)の道」と名づけられている琵琶湖の湖岸を巡る道に入る。
 一昨年5月10日、近江今津から中庄浜(なかしょうはま)まで「近江湖の辺の道」を歩いた(目次33参照)。昨年5月9日、中庄浜から西浜(にしはま)まで「近江湖の辺の道」を歩いた(目次39参照)。今日は、西浜から海津(かいづ)まで歩く予定である。

 左へ曲がり250m程歩く。「海津、西浜石積み」の案内板が立っている。「ヅシ」と呼ばれる民家と民家の間の細い小路を通り、石段を下りて浜辺へ出る。右手に、一昨年と昨年歩いた琵琶湖の湖岸と松並木が見える。


琵琶湖と松並木


 今津浜(いまづはま)から高木浜(たかぎはま)まで約5キロに亘って植えられたクロマツの並木は、明治末期に防風林として植林されたのが始まりで、「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松(はくしゃせいしょう)百選」に選ばれている。
 浜辺に架かる小さな桟橋が見える。「ハシイタ」と呼ばれている。昔は家ごとに架けられ、そこで野菜を洗ったり、水を汲んだりしていた。

 左へ曲がり浜辺を歩く。湖岸に建つ民家の下に石垣が築かれている。元禄年間に水害防止のために1キロ余りに亘って築かれた「海津浜の石積み」である。


海津浜の石積み




 説明板が立っている。全文を記す。


 「元禄14年(1701年)、甲府藩領高島郡の代官として赴任した西与一左衛門は、風波のたび宅地の被害が甚だしいのを哀れんで、海津東浜の代官金丸又衛門と協議し、幕府の許可を得て、元禄16年(1703年)に湖岸波除石垣を東浜668m、西浜495mに亘って築いた。この石積みを普請した人々は高島町の石垣村や打下の石屋などであったといわれている。
 このお陰で水害がなくなり、地元村人たちがその業績を称えるため西浜蓮光寺境内に碑を建立した。」


 石垣は、城の石垣のように聳えている。琵琶湖の水は澄み切って、水を透して湖底の小石が見える。浜辺は砂地がなくなり、小さな円い石が多くなった。大きな石が散乱している。この場所は、キャンプは禁止されている。所々で、琵琶湖に流れ込む川が現れ、そのたびに石段を上って「ヅシ」を通り道路へ出る。川に架かる橋を渡ると、また、「ヅシ」を通って浜辺に降りる。

 すぐ近くに、桜の名所の海津大崎が見える。岬の4キロに亘って、ソメイヨシノ約800本の桜並木が続く。「日本の桜名所100選」に選ばれている。


海津大崎


 石垣の端まで来た。道路に戻る。バスが30分後に到着するようなので、今日はこれで終わってバスの停留所へ行く。
 海津は来年また訪ねて、かつて今津(いまづ)塩津(しおつ)と並んで、琵琶湖の湖上輸送の港として、また、敦賀へ抜ける街道の宿場町として繁栄した海津の町を散策しようと思っている。

 停留所まで300m程歩く。停留所の傍に幅は狭いが、きれいな川が流れている。バスが来るまで川の流れを見ていたら魚が泳いでいるのが見えた。
 マキノ駅に着く。電車が来るまで少し時間があったので、駅の構内にある観光案内所へ行く。海津について来年以降の予定を話し、それについていろいろと教えていただき、観光パンフレットをいただいた。
 帰りは楽だった。近江塩津駅で乗り換えるが、降りたホームの反対側に姫路行きの新快速が待っている。マキノ駅から約1時間で彦根駅に着いた。


・同年9月13日(金) (帰京)

 ホテルで朝食後すぐ帰る。





TOPへ戻る

目次へ戻る

47へ進む

ご意見・ご感想をお待ちしております。