47 名建築を訪ねるー12  明治村(愛知県犬山市)


・令和元年12月26日(木) 大名寺聖パウロ教会堂 芝川又右衛門邸

 東京駅6時発「のぞみ1号」に乗る。7時34分、名古屋駅に着く。予約している駅の近くのホテルサンルートプラザ名古屋へ行き、荷物を預かってもらう。今日から28日までこのホテルに泊まり、3日間、犬山市の明治村へ通う予定である。

 名鉄名古屋駅へ行き名鉄犬山線の電車に乗る。約35分で名鉄犬山駅に着く。駅の東口の前から発車する「明治村行」のバスに乗り換える。約20分で明治村正門の前の停留所「明治村」に着く。

 野外博物館明治村は、昭和40年(1965年)3月18日に開村した。明治、大正時代の名建築を移築、展示している。敷地面積100万㎡の中に移築展示建造物は現在67件、その内、11件の建物と2つの産業機械が国重要文化財に指定されている。

 元名古屋鉄道株式会社会長の土川元夫(つちかわもとお)(1903~1974)と、建築家・谷口吉郎(たにぐちよしろう)(1904~1979)の二人が企画して開いた施設で、母体は名鉄だった。土川元夫と谷口吉郎は、金沢の旧制第四(だいし)高等学校以来の親友であった。
 (旧制第四高等学校について、「奥の細道旅日記」目次22、平成16年8月16日参照)

 谷口吉郎は昭和48年(1973年)、文化勲章を受章する。博物館明治村初代館長であった。
 因みに、建築家・谷口吉生(たにぐちよしお)氏は谷口吉郎のご子息である。
 (谷口吉生氏の作品である
土門拳記念館について、目次1、平成23年10月8日、法隆寺宝物館について、目次2、平成23年11月13日参照)

 明治村は15年ほど前に初めて訪ねた。そのときは1日で建造物のほぼ全部を回った。今回は、私の好きな建物と、前回訪ねたときには未だ移築されてなかった建物をゆっくり見学する予定である。
 受付で入村券と村内巡回バスのチケット500円を買う。バスのチケットでバスが1日乗り降り自由になる。バスは20分間隔で正門と北口の近くの間、約1、5キロを往復している。

 バスに乗り、終点の一つ手前の停留所で降りる。右へ曲がり坂道を上がる。右手の木立の間から広大な入鹿池(いるかのいけ)が見えてくる。入鹿池は国内最大級の貯水量を誇る農業用溜池(ためいけ)である。平成27年、「世界灌漑(かんがい)施設遺産」に登録された。

 坂を上り切った高台に大名寺聖パウロ教会堂が建っている。


大名寺聖パウロ教会堂(旧カトリック大名寺教会) 明治12年(1879年)建築 旧所在地・長崎市伊王島町 国登録有形文化財


大名寺聖パウロ教会堂


 柱を表面に露出させた真壁づくりの建物は、格式の高い、庄屋だった人が住むような家を彷彿させる。鐘楼を屋根に載せている。入り口を入ると土間がある。階段を上がり聖堂へ入る。民家の外観からは想像もつかない美しい聖堂が現れる。


聖堂


 リブ・ヴォールトの天井は明るく美しい。中央の身廊と左右の側廊からなる三廊式である。

 明治政府は欧米各国からの強い抗議を受けて、明治6年(1873年)2月、太政官布告により切支丹禁令を含む高札の撤去を命じ、ようやく信仰の自由を認めた。潜伏キリシタンだった者たちの中でカトリックに復帰した信徒が住む集落では素朴な教会堂が建てられた。

 大名寺聖パウロ教会堂は、フランス人神父・プレルの指導の下、地元伊王島に住んでいた大工・大渡伊勢吉(おおわたりいせきち)によって建てられた。信仰の自由が認められてまだ日が浅いこともあり、この時代は、日本人の大工によって民家のような外観の教会が建てられたのだろう。大名寺聖パウロ教会堂は、石造や煉瓦造の教会以前の木造教会建築として貴重な建物である。
 大渡伊勢吉は、
大浦天主堂の建設に携わっていた(大浦天主堂について、目次42、平成30年12月30日参照)

 聖堂を入った右側隅に告解(こっかい)台が設けられていた。


告解台


 告解は、自身の罪を司祭を通して神に告白し、神の赦しを得るカトリックの秘跡の一つである。告白を聴く司祭の席と赦しを求める告白者の席は区切られている。司祭と告白者の間は格子で仕切られている。
 この告解台は、告解が行われているときはカーテンが引かれ、他者からの目を遮っていたと思われる。

 外へ出る。眼下に見える入鹿池が海に見える。大名寺聖パウロ教会堂が長崎の海に浮かぶ伊王島(いおうじま)に建っていた頃も、教会から長崎の海を眼下に眺められたことだろう。

 停留所に戻りバスに乗る。四つ目の停留所で降りる。後戻りして右へ曲がり坂を上がる。芝川又右衛門邸が建っている。


芝川又右衛門邸 明治44年(1911年)建築 旧所在地・兵庫県西宮市上甲東園 国登録有形文化財


芝川又右衛門邸



 一部3階木造モルタル2階建、スパニッシュ瓦葺き、テラスを一部回廊のように巡らせている。説明板が立っている。邸の他に、施主の芝川又右衛門(しばかわまたえもん)(1853~1938)と設計者の武田五一(たけだごいち)(1872~1938)について説明されているので、全文を記す。


 「芝川又右衛門邸は、明治29年(1896年)に開設した甲東園内に週末を過ごすための別荘として、当時、京都高等工芸学校で教鞭を執っていた武田五一の設計により、明治44年(1911年)に建てられた郊外住宅の先駆けともいえる建物である。

 竣工当初は杉皮張りの外壁で、1階洋間客室に網代や葦簾という和風意匠を用い、2階和室には暖炉を設けるなど、和の中に洋があしらわれている。
 大正5年(1916年)に邸内の証明器具のデザインが一新され、さらに昭和2年(1927年)隣接して和館が増築された際、外壁は杉皮張りからスパニッシュ風の壁に、玄関ホールや階段室は金色の渦巻き模様の壁に変更されるなど大幅な改造がなされた。

 施主である芝川又右衛門は、大阪で唐物商(輸入業)を営み、大日本持丸長者鑑(かがみ)に名を連ねた豪商の一人であると同時に、茶道などにも造詣が深い数寄者でもあった。」


 芝川又右衛門邸は、平成7年1月17日に発生した阪神大震災の被害を受け、同年解体された。明治村に移築されることが決まり、平成17年1月、再建に着手し、平成19年9月に竣工した。

 武田五一は、東京帝大卒業後、明治34年(1901年)から明治36年(1903年)まで2年間、ヨーロッパ、アメリカに留学した。留学中、様式にとらわれることなく目的に適った建築をする近代建築を始めとして、当時、ヨーロッパに流行していたフランスのアール・ヌーヴォー、ドイツのユーゲントシュティール、イギリスのアーツアンドクラフツ、ウィーンのゼツェッション等の建築と美術を学んだ。
 因みに、
京都高等工芸学校は現在の京都工芸繊維大学である。武田五一は、後に京都帝大建築学科を創設する。

 芝川又右衛門邸は武田五一が欧米で学んだ影響が見られるのではないかと思い見学を楽しみにしていた。
 ところが、玄関の前にロープが張られていて中へ入れない。説明を見ると、案内係が案内する時間以外は立ち入り禁止ということである。30分ごとに案内があり、案内の時間は15分、しかも定員制になっている。
 明治村は建物内部にいつでも自由に出入りできると思っていたが、そうではない建物もあることを初めて知った。

 前の回の見学が行われているようなので、定員制ということもあり、玄関の前に置かれている椅子に座って次の回の案内があるのを待つ。
 次の案内が始まる。玄関のロープがはずされる。

 玄関ホールの左手の窓に美しいステンドグラスが嵌め込まれている。



 若い女性の案内で内部を回る。しかし、見学の時間は僅か15分だから、案内係の説明を聞きながら写真を慌ただしく撮ることになった。時間をかけてじっくり見学する予定だったが、それはできなかった。

 玄関ホールの右手は洋室になっている。暖炉も備えられているが、天井は葦簀(よしず)と網代(あじろ)を市松模様に張った和風の天井である。


1階 天井


 1階から2階への階段を上がる。手すりの下部に、欄間の装飾のように板が嵌め込まれている。曲線のデザインがリズムを生み、階段を上がる人を軽快に2階に導く。3階は立ち入り禁止になっていた。




 2階は畳敷きの和室が並ぶ。天井は、網代と竿縁の天井である。


2階 天井


 1階は洋室だけれども和風の意匠が見られ、2階は和室でありながら洋風の造りが見られる。
 和室の一つに暖炉がある。案内係が閉められていた襖を開けると暖炉が現れた。


暖炉


 説明によると、この暖炉に火を起こすと危険だということで、この暖炉は使われなかった。1階の暖炉と2階の暖炉は煙道で繋がっていたので、1階の暖炉で火を起こすと2階も暖かくなっていた、というお話だった。
 外国産のものだろう。明るい黄褐色と、翡翠のような碧色の美しいタイルが張られている。

 「阪神間(はんしんかん)」という言葉がある。「阪神間」は、兵庫県神戸市中央区、灘区、東灘区、芦屋市、西宮市、宝塚市、伊丹市、尼崎市、三田(さんだ)市、川西市を中心とする地域を指す。
 明治末期から大正にかけて、六甲山南麓の地が、阪神電鉄、阪急電鉄によって宅地造成化され、鉄道が敷かれた。
 気候温暖、大阪湾を望む風光明媚で、空気のきれいな「阪神間」に、関西の財閥の当主、船場の豪商が豪邸を建て、移り住んだ。店舗と主家の住居が一体となっていた船場の商家は、職、住分離となった(阪神間について、目次9、平成25年1月5日参照)。

 洋風の別荘は阪神間の清新の地にふさわしい建物だっただろう。武田五一は芝川邸の数度の改修にも携わっている。

 武田五一の作品である求道会館について、目次2、平成23年11月3日、目次8、平成24年11月3日、目次13、平成25年10月26日参照。


・令和元年12月27日(金) 帝国ホテル 聖ザビエル天主堂

 村内巡回バスに乗る。約15分で終点の停留所に着く。昨日は1日曇っていたが、今日は少しづつ天気が回復してきている。

帝国ホテル 大正12年(1923年)建築 旧所在地・東京都千代田区内幸町 国登録有形文化財


帝国ホテル


 マヤやアステカ文明の古代神殿を彷彿させる建物が前面に池を配して建っている。大正12年(1923年)9月1日に完成した帝国ホテルである。その中央玄関、メインロビー、車寄せ、前庭の池を移築、展示している。
 設計者はアメリカ人建築家・
フランク・ロイド・ライト(1867~1959)である。
 屋根の高さを抑え、屋根の軒と車寄せの庇を深く張り出して水平線を統一させる。連続する縦長窓に大谷石を水平に配し、水平線を強調する。帝国ホテルはライト館と呼ばれた。

 移築、展示されている部分はごく一部であるが、僅かでも移築、保存されたことはありがたいことである。
 帝国ホテルは、ライト建築の空間と技術の神秘と讃えられた。保存されている部分を見学して、取り壊されて現実には存在しない部分は古い写真を見て、それらを頭の中で組み合わせる。帝国ホテルの品格のある美しさと格調の高い建築が浮かび上がってくる。

 帝国ホテルは延べ床面積31、350㎡(9、500坪)、地下1階付地上4階。中央玄関の右側の建物を南館、左側の建物を北館と呼んでいた。
 中央玄関から一直線にメインロビー、500人収容のダイニングルーム、1階料理場、宴会ロビーを配置する。真上の2階は、2階ロビーからやはり一直線に2階ダイニングルーム、劇場ロビー、劇場、ステージを配置する。4階には1、000人を収容できる大宴会場「孔雀の間」があった。奥に向かってピラミッド状に高くなっていた。

 北館、南館は、1階、2階ともに客室を本館の回りに回廊のように並べる。客室は250室、全ての部屋がバストイレ付きで電話が完備していた。北館、南館とも中庭が設けられていた。
 この配置は、ライトが、1893年、シカゴで開催された万国博覧会において、日本が出品していた
宇治平等院鳳凰堂の模型を見て帝国ホテルのイメージを明確にしたといわれている。

 他に舞踏場5ヶ所、大小宴会場10数ヶ所、屋上庭園、屋内プール、図書室が設置されて、料理場、エレベーター、通風装置、電気掃除機、ランドリーなど電気設備が完備していた。 

 彫刻が施された大谷石(おおやいし)、素焼きの陶板であるテラコッタスクラッチ煉瓦、主にこの三つの部材で構成されている。異なる部材を組み合わせることによって建物が温かみを醸し出している。
 スクラッチ煉瓦は、煉瓦に焼く前に、粘土の表面を竹の櫛で引っ掻いて縦の筋を付けたものである。赤煉瓦が厳(いか)めしく、重い印象を与えるという理由から当時欧米諸国では、優しさが感じられる黄色のスクラッチ煉瓦が普及していた。

 平面を平らなままに終わらせず凹凸を付けてメリハリのある壁面を造るライトにとって大谷石、テラコッタ、スクラッチ煉瓦は、なくてはならないものだった。

 スクラッチ煉瓦は、日本国内でライトが初めて使ったものと思っていたが、植松三十里氏の『帝国ホテル建築物語』によると、既に武田五一が愛知県常滑(とこなめ)の職人に依頼して何度も試作を重ね、完成したスクラッチ煉瓦を武田五一自身が設計した建物に使ったことが述べられている。
 武田五一は、東京帝大卒業後、明治34年(1901年)から明治36年(1903年)まで2年間、ヨーロッパ、アメリカに留学したが、留学中、欧米でスクラッチ煉瓦の人気が高まっていたので日本でも使ってみたいと思ったということが記されている。

 ライトが帝国ホテル建築の際に使用した大谷石、テラコッタ、スクラッチ煉瓦は、以後、日本中に流行した。

 車寄せに入る。


車寄せ



 案内係の男性の説明があった。
 移築に際しては、軟らかな大谷石など風化の損傷が著しい部材については、新しい建築材料なども併用し、創建当時の外観を保存することに努めました。
 建築当初は、「蜂の巣石(はちのすいし)」と呼ばれている蜂の巣のような穴がところどころに空いている石を使う予定でしたが、採れる場所が島根県だったため、東京から遠いという理由で、代わりに、よく似た大谷石を使うことに決まりました。大谷石は東京に近い栃木県の大谷町から産出されたからです。
 大谷石は風格があり、柔らかいので彫刻に適していましたが、水に弱い性質がありました。大谷石の風化が激しかったことも帝国ホテルの取り壊しの大きな原因でした。

 開業時に設置されていた大谷石が野外に展示されています。また、車寄せの正面の庇を支える一対のスクラッチ煉瓦と大谷石は開業当時のものです、と説明してくださった。
 貴重なお話を伺うことが
できた。お礼を言って、野外に展示されている大谷石を見に行った。
 二つの大谷石が展示されていた。一つは地球儀のような造形だったようだが、風化して単に球形にしか見えない。もう一つも風化しているが、辛うじて水盤だったことが分かる。

 開業時のスクラッチ煉瓦の上に載っている大谷石は数珠の玉のような彫刻がなされている。



 車寄せから玄関へ入る。左手のフロントの前を通って幅の広い階段を上がる。
 メインロビーへ入る。高さを抑えた車寄せと玄関を過ぎて一挙に3階まで吹き抜けの大空間へ入る。


メインロビー


 左右に石段がある。左側の石段を上がって中2階へ入る。中2階は男女別にサロン(談話室)が別れていたが、この部屋は婦人専用のサロンだった。ライトがデザインして実際に使われていた食器、カトラリーなどが展示されている。

 2階はティー・バルコニーである。大谷石に施された彫刻群は非日常的な空間を造り出す。3階は立ち入り禁止になっている。


ティー・バルコニー


 石段を上がりロビーギャラリーへ入る。メインロビーを見る。 


メインロビー


光の籠柱



 一部素通しのテラコッタを天井まで積み重ねて柱を造る。柱の中に光源を入れると素通しの部分から光がもれて柱全体が照明器具になる。「光の籠柱(かごばしら)」と呼ばれた。「光の籠柱」は四方向に立っている。「光の籠柱」は日本の行灯からヒントを得たと言われている。ライト渾身の作品であった。

 帝国ホテルに泊まることが目的で来日した外国人観光客もいたことが伝わっている。当時、メインロビーは各国から来日した人たちでさんざめき、華やかな時間が流れていたことだろう。人々は幾何学的に統一された石の彫刻に感嘆し、重厚で荘厳な石の城かまたは石の館とも言うべき非日常的な空間で寛ぎ、美しい時間が流れる日々を楽しんだことと思う。

 メインロビーに下りる。彫刻した大谷石の柱が立っている。柱に小さな金箔が貼られている。周囲の照明に反射して金箔が光っている。


金箔が貼られた柱


 ライトがデザインした、亀甲型の背もたれを持つ椅子が三脚展示されていた。


ライトの椅子


 ライトは、大正4年(1915年)に来日し、設計に執りかかった。設計が終わり、工事が始まったが、大正10年(1921年)7月、工事の途中でライトは帰国する。帝国ホテルの工事費が着工時の予算の6倍になったことと工事の遅延の責を負わされたのである。

 ライトは、『自伝』(中央公論美術出版発行、訳者・樋口清氏)の中で最後の日を次のように語っている。


 「出航の日が来た。車に乗るため、私は奥から新しい建物を抜けて正面に出なければならなかった。どこにも人気がなく、不思議に思った。玄関の前庭に着くと、そこにはすべての職人がいてあたりをぎっしり埋め、目を見張って待っていた。すでに感謝の嬉しいしるしはあった、と私は思っていたが、ここには本当のものがあった。これは日本でなければ起こりえないであろう。ここには、私がこの仕事において讃え、敬おうとした精神があった。
 私が出て行くと、彼らは回りに詰めかけて、掃除夫から『職能組織』の頭まであらゆる階級の職人たちが、笑ったり、泣いたり、ぎごちなく外国式に握手を求めたりした。彼らは『オーライ』という言葉を覚えていたので、今やそれに『アリガトー』と『さよなら、ライトさん』を混ぜていた。
 堪らなくなって、『ライトさん』は、涙ぐんだ。彼らは日比谷の通りをずっと駅まで車について駆けてきた、『バンザイ、ライトさん、バンザイ』と叫びながら。

 18マイル離れた横浜の桟橋に汽車で着くと、60人ほどの親方が東京から自分で切符を買って来ていた。もう一度別れを叫び、手を振るために。その間に船は湾を下り、彼らは視野から薄れて行った。このような人びと。全世界のどこに、信頼に満ちた思いやりのこのように心に触れる暖かさはあるだろうか、というよりあり得るだらうか」


 帝国ホテルの工事は、ライトの弟子の遠藤新(えんどうあらた)(1889~1951)が引き継いだ。
 帝国ホテルは、ライトが離日してから2年後の大正12年(1923年)に完成する。9月1日、落成記念披露宴の準備をしている最中に関東大震災が起こった。

 ライトは、ロス・アンジェルスで関東大震災のニュースを聞いた。ニュースは、東京と横浜は壊滅したと報じている。帝国ホテルについての報道はなかった。アメリカ・ウィスコンシン州スプリング・グリーンの住いで、ライトは、帝国ホテルのことが心配で夜、眠れなくなっていた。
 地震発生から10日目に、帝国ホテル理事会の議長であった実業家・
大倉喜八郎(1837~1928)が発信した電報を受け取る。
 電報には、次のように記されていた。

 「ホテルはあなたの天才の記念碑として損傷なく立ち、罹災者数百人を完全に維持された設備により介護。祝す。大倉、帝国ホテル。」

 ライトは、日本が地震国であることを熟知していた。帝国ホテルの設計にあたって、耐震の様々な技術と工法が研究されていた。
 また、ライトは、地震に伴う火災の発生を予測して、防火に備えて水を溜めておくことが必要であることを考慮し、ホテルの前庭に大きな貯水槽の池を設計した。池には屋根の雨水を溜めることとした。
 帝国ホテルの中庭、テラス、池の水が大勢の人たちを救助したのである。

 昭和20年(1945年)8月15日の終戦の日から2年後、1947年4月25日付の手紙を、ライトはマッカーサー宛に出す。
 ライトの
『弟子達への手紙』(丸善株式会社発行、訳者・内井昭蔵氏、小林陽子氏)から引用する。


 「どうぞ、面倒な手続きを省略し、あなたに2人の忠実な日本人友人への私の援助をお願いするのをお許し下さい。そして、同封の小切手を、東京の帝国ホテルの建設にあたっての私の忠実な助手遠藤新に与えて下さいますようご配慮ください。遠藤さんは東京帝国大学の博士を通じて連絡がとれると思います。もし彼と彼の家族がウィスコンシン州スプリング・グリーンの私のところへ渡ることができたら、彼が(財政的な)いかなる政府の援助も受けないで自立できることは私が保証します。」

 続いて、ライトは、帝国ホテルの建築にライトを推薦した当時の帝国ホテル支配人・林愛作(1873~1951)に対しても同様の援助をすることを依頼する。手紙は次の文章で終わる。

 「私は彼らの比類ない忠誠心に対し報いらずにはいられないのです。
 そして、元帥、どうぞ被征服者たちに対しての温かいご配慮をお願い申し上げます。それは、暗い背景の中で1つの光明であります。」


 帝国ホテルの他に、ライトは滞在中、依頼されて旧山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館)、自由学園明日館(みょうにちかん)の設計をしたが、いずれも遠藤新が引き継いで完成させた。
 旧山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館)について、目次9、平成25年1月5日、自由学園明日館について、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。

 帝国ホテルの工事中、ライトは何度かアメリカと日本を行き来したが、大正10年に帰国した後、2度と来日することはなかった。帝国ホテル、旧山邑邸、自由学園明日館の完成した姿の写真は見ただろうけれども実物を見ることはなかった。
 忠実な愛弟子の遠藤新が引き継いだとはいえ、設計図どおりに工事が進んでいても細部にまでこだわって気に入らないことがあると何度でもやり直しを命じた完璧主義のライトにとって、完成までの2年間、現場に立ち会って指揮をとることができなかったことや、その時々のチェックができなかったことは、建物は完成しても自身の不在を思い知らされることだっただろう。途中から他の者が引き継いだ建築と、自身の作品とを区別したのではないかと考える。

 帝国ホテルが建築されて以後、ライトのデザインに影響を受けた建物が数多く建てられた。ライトが使用した大谷石、テラコッタ、スクラッチ煉瓦は建築材料や装飾に広く使われるようになり、「ライト式」と呼ばれるライトのデザインが日本中に流行した。

 遠藤新の作品である自由学園明日館講堂について、目次2、平成23年11月5日、甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)について、目次19、平成26年12月26日参照。
 遠藤新と同じくライトの弟子だった
田上義也(たのうえよしや)(1899~1991)の作品である旧佐田作郎邸について、目次35、平成29年9月7日参照。


聖ザビエル天主堂(旧カトリック河原町教会) 明治23年(1890年)建築 旧所在地・京都市中京区河原町 国登録有形文化財


聖ザビエル天主堂


 バスに乗り二つ目の停留所で降りる。右手の高台に聖ザビエル天主堂が建っている。



 坂を上がって正面から見る。天主堂は古風な雰囲気が漂っていて、戦前、フランスへ留学した日本人の画家が描いたフランスの田舎に建つ教会を思い出した。
 天主堂は煉瓦造であるが、内外の壁は漆喰を塗って仕上げている。正面入り口の上には直径3、6mを超えるバラ窓が付けられている。

 入り口に天主堂の説明がある。一部を記す。


 「聖ザビエル天主堂は、16世紀に来日し、日本にキリスト教を伝えたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを記念して建設されたカトリックの教会堂である。
 設計者はフランス人宣教師のパピノ神父、施行者は棟梁・ペトロ横田といわれている。

 内部は身廊、側廊のある三廊式で、大アーケード、丸窓のあるクリアストーリー(採光窓の列)、トリフォリウム(クリアストーリーの下に位置する層)の三層で構成されたゴシック様式である。木造部は総欅造り。

 ガラスは、色ガラスに白色塗料で草花模様を描き、その外側に透明ガラスを重ねて保護している。」


 内部へ入る。フランスのカトリック教会へ入ったような気がした。


聖堂


 正面の祭壇の奥の、壁に窪みを造った壁龕(へきがん)に聖人の像が並んで立っている。聖堂は、イタリアの初期キリスト教聖堂の建築様式である長方形の平面をなしたバシリカ式である。高い身廊上部には交差リブ・ヴォールトが架けられている。
 荘厳な雰囲気に満ちている。美しさを追求したカトリック教会の建築だと思った。

 入り口を入ったすぐ右側に、バラ窓のオリジナルが展示されている。正面入り口の上に付けられているバラ窓は複製品である。
 この展示品とバラ窓について説明されている。長い文章だが、全文を記す。


 「バラ窓は、ゴシック様式の教会堂建築における大きな特色のひとつで、はめこまれたステンドクラスからの美しい光が、壮麗な空間を演出します。

 ここに展示されているバラ窓は、昭和48年(1973年)に京都から移築するにあたって、保管と保存のため取り外したオリジナルです。直径は3、6mあり、木製の枠にはめこまれています。
 ヨーロッパ中世以来の伝統的なステンドグラスは、図様を描いて焼き付けた色ガラスを鉛の縁でつなぎ合せます。しかし、このバラ窓は、本格的なステンドグラスの製造法が日本にもたらされる前のものであるため、木製枠を使った日本独特のものです。

 また、ガラス絵の手法を使って色ガラスに白ペンキで図様を描き、外側に透明ガラスを重ねて保護している二重ガラスとなっています。

 中央から放射状に伸びている12本の枠線は、キリストの教を広めるため、世界各地に散らばった『十二使徒』を表しています。」


バラ窓



・同年12月28日(土) 西郷従道邸 聖ヨハネ教会堂

 昨日、一昨日に比べて今日は快晴になった。正門を入り、正門前の広場を通って右へ曲がる。50m程歩く。案内板に従って緩やかな坂を上がる。
 坂の途中の右手に溜池が現れる。鯉やアヒルが泳いでいる。道が二つに岐れる。左側の道を歩く。正面に西郷従道邸が建っている。


西郷従道邸 明治10年(1877年)建築 旧所在地・東京都目黒区上目黒 国重要文化財


西郷従道邸


 西郷従道邸は、西郷隆盛(1828~1877)の弟・西郷従道(じゅうどう)(1843~1902)が自邸の敷地内に、和風の本館と隔てて接客用に建てた洋館である。木造銅板葺2階建。半円形に張り出されたベランダを持つ。

 説明板が立っている。一部を記す。

 「従道は陸海軍の大臣を歴任していたため、在日外交官の来客も多く、明治22年(1889年)には明治天皇の行幸も仰いだ。
 設計にはフランス人・レスカが関与していると伝えられ、建築金具や階段などをフランスから取り寄せている。」

 壮麗な建物である。中へ入る。曲線の回り階段がとても優雅である。



 ところが、階段の上り口にロープが張られていて2階へ上がれない。説明を見ると、案内係が案内する時間以外は2階は立ち入り禁止になっている。一昨日見学した芝川又右衛門邸と同じ扱いである。しかも、芝川邸より案内の回数が少なく、次の案内までの待ち時間が長い。2階を見学することは諦めて次の見学を予定している聖ヨハネ教会堂へ行く。


聖ヨハネ教会堂(旧京都聖約翰教会) 明治40年(1907年)建築 旧所在地・京都市下京区河原町通り 国重要文化財


聖ヨハネ教会堂


 道が二つに岐れている場所まで行くと、高台に聖ヨハネ教会堂が見えてきた。絵画に描かれた中世英国の風景のようである。美しい尖塔は、犬山駅を出発したバスが明治村に近づくに連れてバスの車窓からも見えてくる。

 坂を上がり教会堂の前に出る。




 入り口に説明板が立っている。全文を記す。


 「聖ヨハネ教会堂はプロテスタントの一派・日本聖公会の教会堂で、1階を日曜学校や幼稚園に、2階を会堂として使用していた。設計者は明治13年(1880年)に来日したアメリカ人宣教師で建築家のガーディナーである。

 1階を煉瓦造、2階を木造、屋根に軽い銅板を葺いた構造は耐震性に配慮していると考えられる。
 正面入り口の尖塔アーチに見られるように細部はゴシック風にデザインされている。」


 階段を上がって2階の礼拝堂へ入る。天井はなく、小屋組は木造トラス。階段と礼拝堂の質素な造りと鋭角的な意匠に信仰の厳しさを感じる。



礼拝堂



 ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(1857~1925)の作品である日光真光(しんこう)教会内田定槌邸について、「奥の細道旅日記」目次1、平成10年8月16日参照。


 愛知県犬山市字内山1番地  博物館明治村
 名鉄名古屋駅から電車に乗り名鉄犬山駅下車
 犬山駅東口から「明治村行」のバスに乗り換える





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