48 名建築を訪ねるー13  妻木頼黄(つまきよりなか)の作品 

 

・令和元年10月30日(水) 赤煉瓦酒造工場(旧醸造試験所第一工場)

 毎年、文化の日を中心にして約1週間、東京都の文化財に指定されたものについて、通常、公開していないものも、この期間に一般公開される。「東京文化財ウィーク」と呼ばれている。
 旧醸造試験所第一工場は、10月29日から11月1日まで期間限定で内部が一般公開された。

 JR王子駅北口の改札口を出て左へ曲がる。川が流れている。川に沿って歩く。左手に設けられている石段を下る。音無親水(おとなししんすい)公園へ入る。


音無親水公園と音無橋


 ここはかつて石神井川(しゃくじいがわ)が流れていたが、戦後、改修工事が行われ流れが変えられた。このとき旧流路として残されたこの部分が、その後、整備され公園に生まれ変わった。
 大きな岩や石が配され、樹木が聳え、渓谷の趣がある。鉄筋コンクリート造アーチ橋の音無橋(おとなしばし)が架かっている。音無橋は昭和5年(1930年)竣工。デザインが、昭和2年(1927年)竣工の神田川に架かる御茶ノ水の聖橋(ひじりばし)に似ている(聖橋について、目次18、平成26年10月4日参照)。

 反対側へ渡り石段を上る。右へ曲がり明治通りに沿って坂道を上がる。音無橋の上に出る。音無橋の街灯は昭和初期の雰囲気があり、竣工当時のままで変わってないと思われる。


音無橋の街灯

 

 音無橋を渡ってまっすぐ20m程歩く。旧醸造試験所の赤煉瓦の門柱が立っている。門を通ると、醸造試験所跡地公園の芝生が広がっている。当時、12、000㎡あった醸造試験所の敷地の大部分が公園に変わっている。
 公園の金網越しに赤煉瓦の旧醸造試験所第一工場が見える。
旧醸造試験所第一工場は、平成26年、国重要文化財に指定された。
 工場というイメージとは異なり、竣工から今年で116年を迎える赤煉瓦の建物は落ち着いた美しい建物である。


旧醸造試験所第一工場


 旧醸造試験所第一工場の設計者は妻木頼黄(つまきよりなか)(1859~1916)である。
 受付で資料をいただいた。資料に、旧醸造試験所と妻木頼黄について説明されている。長い説明であるが全文を転記する。


 「大蔵省醸造試験所は、酒造方法を改良発展させるため、明治37年(1904年)に明治政府により創立されました。伝来の技術にのみ頼っていた当時は、醸造途中で酒を腐敗させ税収が見込めないこともありました。
 昭和34年には国税庁の直属となり、現在は広島に移転し、独立行政法人酒類総合研究所となっています。わが国唯一の醸造に関する国立の研究機関として日本酒造りの近代化と酒類産業の発展に大きく貢献しています。

 この施設の中核が、明治36年(1903年)に竣工した煉瓦造の第一工場です。ドイツのビール工場を応用した、断熱用の中空壁(厚い壁体に空気層を設ける)を持ち、温度調整と清浄な空気の供給のため独ゲルマニア社製の醸造用機械を備えた当時最新鋭の施設でした。
 外観は化粧煉瓦の小口積みとし、煉瓦と鉄骨を組み合わせたヴォールト天井や、白色施釉(せゆう)煉瓦を用いた製麹室など、高い建築技術が用いられました。

 この工場の建築設計及び監督を務めたのは大蔵技師の妻木頼黄です。妻木は工部大学校造家学科でジョサイア・コンドルに学び、米コーネル大学で学士号を取得しました。また議院建築の研究のためドイツに留学し、その後内務省や大蔵省に勤務し数多くの官庁建築を手掛けています。」


 受付がある部屋はボイラー室だった部屋である。現在は改装されて集会室のようになっている。始めに、その旧ボイラー室で、スライドを使った職員の説明があった。清酒の製造工程から機械の説明、建物の歴史と構造、旧醸造試験所が日本酒製造の発展に貢献した内容など丁寧な説明だった。

 建築にあたり妻木は、当時冬季に限られていた日本酒の醸造を、四季を通して行えるようにするため、ドイツのビール工場を参考にして設計したと伝えられている。冷却機などの醸造用諸機械もドイツから輸入した最新鋭の酒造工場だった、という説明があった。
 また、4年前の平成27年まで清酒造りを学ぶ施設として使用されていたが、現在は酒造りは行っていない。現在は、酒造組合の講習会、利き酒の会合、清酒の製造工程の機械の展示と見学などに利用されている、という説明もあった。
 約30分の説明の後、職員の案内で内部を見学した。

 旧ボイラー室を出て旧原料処理室の中を通る。左へ曲がり廊下へ入る。内部の壁も煉瓦造である。


廊下


 旧醸造試験所の煉瓦の積み方は、内部の壁は一段ごとに小口積みと長手積みを交互に重ねるイギリス積みであり、外壁は小口積みのドイツ積みである。イギリス積みの内部には所々に断熱用の空間が設けられている、という説明があった。
 廊下や部屋の入り口に煉瓦をアーチ状に積んでいる。天井は、鉄骨の梁と組み合わせた煉瓦のヴォールト天井であるが、これは建物を堅固にするという説明だった。

 左側に旧麹室がある。壁から天井まで表面のみ白色で施釉された煉瓦が使われている。
 右へ曲がる。幅1mもない灯台の階段のように狭い回り階段を上がって2階へ行く。旧発酵室へ入る。
 説明があった。ここは蒸した米に麹と酵母を加えた後、アルコール発酵をする様子を見る部屋でした。現在、酒造工場では発酵の観察はほぼ機械化されていて、しかも全自動で行われています。
 次に清酒と酒粕に分離する搾り機を見学した後、最後に狭い階段を下って地下1階の貯蔵庫を案内していただいた。約30分の見学だった。


 東京都北区滝野川2-6-30
 JR王子駅 地下鉄南北線王子駅下車


・令和2年3月11日(水) 横浜赤レンガ倉庫(旧横浜税関新港埠頭倉庫)

 JR関内駅の南口を出て、横浜スタジアムが建つ横浜公園の横を通る「みなと大通り」へ入る。左へ曲がり港に向かって歩く。
 
横浜市開港記念会館神奈川県庁の前を通る。30分程歩いて横浜税関の前を通って左へ曲がり、港を見ながら歩く(横浜市開港記念会館、神奈川県庁、横浜税関について、目次23、平成27年9月19日、同20日参照)。

 2棟の横浜赤レンガ倉庫(旧横浜税関新港埠頭倉庫)が見えてきた。


横浜赤レンガ倉庫

 

 2棟の倉庫は、手前に建つ倉庫は1号館、奥に建つ倉庫は2号館と称されているが、2号館が先に竣工されている。

 安政6年(1859年)、横浜が開港される。
 明治44年(1911年)、新港埠頭建設の一環で、輸出入される貨物を税関が管理する保税倉庫として、国により2号館が建設された。内部の鉄骨はドイツから購入、リフトやスロープ、防火戸を設けた最新鋭の倉庫だった。
 大正2年(1913年)、1号館が建設される。日本最初の業務用エレベーター、スプリンクラーを備えていた。1号館、2号館ともに設計は妻木頼黄である。

 戦時中は陸海軍の輸送司令部が管理し、昭和20年(1945年)の終戦後、アメリカ軍に接収され港湾司令部が置かれた。
 昭和31年(1956年)、接収解除。

 海上貨物のコンテナ化とともに次第に取り扱いが減少し、倉庫としての役目を平成元年までに終え、倉庫は廃止された。
 平成4年、横浜市が国から取得し、2年後の平成6年から保存のための改修工事を始める。
 平成14年から1号館を文化施設、2号館を商業施設として活用されることになった。
 平成19年、近代化産業遺産に認定。

 近くで見ると赤煉瓦の大建築の偉容に圧倒され、ここは日本ではなく、第二次世界大戦前、欧米諸国の植民地だったアフリカか東南アジアのどこかの都市の光景ではないかと思ってしまう。そうすると、整然としたベランダも、欧米人のための社交とレジャーの施設として建設された競馬場の観覧席に見えてくる。

 1号館、2号館とも相対する側が表側であり、背面にあたる裏側に、それぞれ鉄骨造のベランダを設けている。
 煉瓦は一段ごとに小口積みと長手積みを交互に重ねるイギリス積みの赤煉瓦である。窓枠の上部に煉瓦をアーチ状に積んでいる。

 1号館を見る。


1号館


1号館 扉

 

 次に2号館を見る。2号館は長さ149m、幅21mの壮大な建物である。


2号館 ベランダ


 

2号館



 2号館の屋根の向こうに、みなとみらい21の、高さ296、33m、70階建の横浜ランドマークタワーが見える。

 1号館と2号館の中へ入り内部を見学する。館内は大幅に改修されて、ショップ、レストラン、カフェが並んでいる。それでも1号館、2号館ともに内部の壁は当時の煉瓦造のままである。

 2号館では、現在、消防用設備としては使用されてないが、当時の防火戸が保存されている。防火戸には吊戸車(つりどぐるま)が設置されている。説明書によると、「約400キロの防火戸をスムーズに開閉させるために吊戸車を採用した。スリットの中で軸心を動かす方式で、すべり出し式、と呼ばれている。」と説明されている。吊戸車はアメリカ製である。 


防火戸と吊戸車

 

 近くに海上保安庁の巡視船「あきつしま」が停泊している。その近く海上保安資料館横浜館が建っている。資料館の正面に「北朝鮮工作船展示」と表示されている。
 巡視船が停泊していることは知っていたが、
海上保安資料館横浜館が建っていて、北朝鮮工作船を一般に公開していることを、今日、初めて知った。工作船を見たいと思ったが、あいにく臨時休館になっている。開館したら見学しようと思った。


海上保安庁巡視船「あきつしま」


 横浜市中区新港1-1-1
 JR京浜東北線 根岸線桜木町駅 関内駅  みなとみらい線馬車道駅 下車


・同年8月6日(木) 海上保安資料館横浜館(寄り道)

 長い臨時休館が終わったので、今日、海上保安資料館横浜館を訪ねた。
 海上保安資料館横浜館は、妻木頼黄とは無関係であるが、館内で
北朝鮮工作船を一般に公開していることを知ったので、貴重な見学ができると思って訪ねた。


海上保安資料館横浜館


 館内へ入る。多数の弾痕が激しい射撃を伝える北朝鮮工作船が展示されている。


北朝鮮工作船



 説明の全文を記す。


 「平成13年12月22日、九州南西海域において、北朝鮮の工作船が、海上保安庁の停船命令に従わずに逃走し、捕捉のために接近した巡視船に対し自動小銃等による攻撃を行い、「あまみ」の海上保安官3名が負傷しました。これに対し、巡視船が正当防衛射撃を行い、工作船は自爆とみられる爆発により沈没しました。」


 工作船は、9ヶ月後の9月11日に引き揚げられ、平成15年、鹿児島と東京・お台場の船の科学館において一般公開された。その後、平成16年12月10日より、この場所で、工作船船体、武器類等を一般公開している。 

 工作船の船首から右へ回り、船体の周囲を一周しながら見学する。
 工作船は、全長29、68m 型幅4、66m 総トン数44トン 出力約4400馬力 速力約33ノット(時速約61km)であった。

 船尾の前に出る。船尾外板は中央で左右に2分割され、観音開きの扉のように開閉する構造となっている。


船尾


船内


 船尾を回ると、鉄の階段が設けられ、上から船体を見学できるようになっている。船体の説明があるので、一部を記す。


船尾



上から見た船体


 「甲板上の中央部に操舵室があり、その後ろに二連装機銃の格納区間がありました。二連装機銃は、甲板上に敷かれたレールを使って出し入れをしていたと思われます。
 甲板下は、機関室、燃料タンクのほか、船尾側には小舟が収納されており、乗組員の居住区間はほとんどありません。」


 船首の前に出る。船底は漁船のような平底ではなく、速力が出せるV字型である。漁船のように偽装しているが、漁船以外の目的で造られ使用されていたことが分かる。


V字型の船底


 回収した証拠品等の徹底的な事件捜査の結果、この工作船が覚醒剤を密輸していたことが認定された。他に、小型舟艇やスクーター、潜水用具等を搭載していたことから工作員等の不法出入国、国内に協力者が存在していることの可能性が明らかになっている。

 回収した物品が展示されている。
 鹿児島県・薩摩半島南東部の海岸線に沿った地図、ロケットランチャー、二連装機銃、自動小銃、軽機関銃、手榴弾、送受信用の無線機、自爆スイッチ、金日成バッジ、日本製のゴムボート2隻、防水スーツ他である。

 北朝鮮という異常な独裁国家が現代に存在していることが不思議なほどである。
 北朝鮮は世界を舞台にテロや工作活動を繰り広げ、実態は大がかりな拉致だった北朝鮮帰国事業、ラングーン事件、大韓航空機爆破事件、日本人拉致等の悲劇を巻き起こしている。
 国民の4分の1が飢えているにもかかわらず、莫大な金を投じてミサイル、核を開発する。これらを脅しの道具に使って食糧支援を取り付け、経済制裁を緩和させようとする。
国際社会で「ならずもの国家」と呼ばれる所以である。

 韓国やアメリカが戦争を引き起こすことはありえないにもかかわらず、臨戦態勢をあおって国民の不平不満を逸らす。かといって北朝鮮が南侵しても勝ち目がないのは北朝鮮も分かっているから戦争を仕掛けることはない。
 朝鮮労働党、軍、警察の幹部や、平壌市に住む特権を享受している市民は現在の体制に満足しているので、体制が崩壊することを望まない。従って軍のクーデター、市民の一斉蜂起といったことは
望むべくもない。このように幾重にも重なって、金一族の安泰が保たれる体制が確立されているのである。
 北朝鮮は今後どうなるのか。南北が統一されることはない。飢餓が北朝鮮全土を覆い、内部から崩壊するのではないかと思う。

 それにしても、中国、韓国、北朝鮮、ロシアの、争いごとが好きで、厄介なもめごとばかりを引き起こす国に囲まれている日本の不幸と不運を憂慮する。


カノコユリ(横浜公園)


 横浜市中区新港1-2-1
 
JR京浜東北線 根岸線桜木町駅 関内駅  みなとみらい線馬車道駅 下車


同年月2日(水) 神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)

 JR関内駅の北口を出て馬車道を歩く。左手に、壮麗な建物が建っている。神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)である。
 明治37年(1904年)竣工、設計は妻木頼黄。石、煉瓦造地下1階付地上3階建。
正面玄関上の銅葺八角形の大ドームを頂くドイツルネサンス様式の重厚な建物は威風辺りを払う。
 


神奈川県立歴史博物館


 旧横浜正金銀行本店の建物は、平成7年6月27日、国の史跡に指定された。入り口に説明板が立っている。全文を記す。


 「旧横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。その後、政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界三大為替銀行の一つに数えられるようになりました。

 この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることから、昭和44年3月12日には国の重要文化財の指定を受けております。

 さらにこのたび、我が国の近代史のなかでも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。」


 昭和22年(1947年)、横浜正金銀行を引き継いだ東京銀行が発足。
 昭和39年(1964年)、神奈川県が建物を取得し、建物の増築、改修工事を行う。このとき、関東大震災で焼失したドーム屋根の復元を行う。

 9時半に開館する。玄関の石段を上がり玄関ホールへ入る。色が異なる三つの大理石を壁に張っている。黒の大理石が描くモールディングが壁にアクセントを与え、瀟洒な雰囲気を醸し出している。
 当時の威光を残すのは玄関ホールだけのようである。内部は大幅に改装されている。


玄関ホール


 横浜市中区南仲通5-60
 JR京浜東北線 根岸線桜木町駅 関内駅  みなとみらい線馬車道駅 日本大通り駅下車





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