18 名建築を訪ねるー7  伊東忠太の作品ー2


・平成26年10月4日(土) 湯島聖堂 

 昨年、明治、大正、昭和の三代に亘って活躍した建築家・伊東忠太(いとうちゅうた)(1867~1954)の四つの作品を取り上げた(目次10参照)。今回、三つの作品を見学する。

 JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口を出る。右へ曲がり、神田川に架かる御茶の水橋を渡る。
 御茶の水橋から
聖橋(ひじりばし)が見える。聖橋は鉄筋コンクリート造。ニコライ堂湯島聖堂の二つの聖堂を結ぶことから聖橋と命名された。
 御茶ノ水駅を3階建に改築するために、御茶ノ水駅の土台の補強工事がなされている。そのため現在、聖橋はお茶の水橋からは見えにくくなっている。

 聖橋は昭和2年(1927年)竣工、設計は山田守(1894~1066)である。お茶の水橋は昭和6年(1931年)竣工。御茶ノ水駅は昭和7年(1932年)に完成した。


聖橋


お茶の水橋の街灯


聖橋の柵


 お茶の水橋を渡り、横断歩道を渡って右へ曲がる。聖橋下を通る。


聖橋下

  

 昭和初期のデザインと思われるお茶の水橋の街灯。銀杏の葉を図案化した聖橋の車道と歩道の境界の柵の装飾はアールデコである。聖橋下もアーチが連続している。内部を伝わるラインは外壁で放射状に広がる。
 関東大震災復興後のモダン都市東京の風景を見ることができる。
 当時、建築物、駅、橋、ガード下などの都市の風景を描き続けていた画家・松本竣介(まつもとしゅんすけ)(1912~1948)は、ニコライ堂や聖橋を好んで何度も描いている。

 緩やかな昌平坂を下る。左側は湯島聖堂の美しい土塀が続く。土と瓦を交互に積み上げて築き、上を瓦で葺いた練塀(ねりべい)である。


湯島聖堂の練塀


 80m程坂を下ると練塀が切れ湯島聖堂の敷地の出入口に着く。国指定史跡の敷地内に入って左へ曲がり仰高門(ぎょうこうもん)を潜る。

 元禄3年(1690年)、5代将軍・徳川綱吉(1646~1709)によって、この地に孔子廟が創建され、寛政9年(1797年)、幕府直轄の儒学の学問所である昌平坂学問所(通称・昌平黌)が開設された。
 因みに、幕末の志士・
清河八郎(本名・斉藤正明)(1830~1863)は昌平坂学問所で学んだ(清河八郎については、目次7、平成24年10月7日、「奥の細道旅日記」目次11、平成13年9月22日参照)。
 昌平坂学問所は、明治4年(1871年)に閉鎖された。

 左へ曲がり石段を上る。練塀に沿って石段を上っていると、辺りの古風な雰囲気から江戸時代に身を置いているような気分になってくる。



 石段を上ると、右に入徳門(にゅうとくもん)が立っている。門を潜る。更に石段が続く。
 石段を上るに連れて、杏檀門(きょうだんもん)と
大成殿(たいせいでん)が現れる。


 

 石段を上る。杏檀門も大成殿も回廊も総漆塗りで仕上げられたような漆黒の建物である。



杏檀門


 杏檀門を潜る。昭和10年(1935年)建築。伊東忠太設計の大成殿が建っている。


大成殿


 大成殿は、寛政11年(1799年)建築。総漆塗りの漆黒の木造の建物であった。大正11年(1923年)9月1日に起きた関東大震災により焼失する。
 大成殿は鉄筋コンクリート造として再建された。伊東忠太は、焼失前の大成殿の建物の色を踏襲し、再建した大成殿を漆黒の建物にした。

 緑青(ろくしょう)が発生した銅板葺の屋根は美しい碧(みどり)色の屋根である。

 大棟の両端に、日本の鯱(しゃちほこ)の原型である中国の「吻(ふん)」が載っている。頭は龍で、尾は魚の空想上の動物である。
 「吻」は火災のときに水を噴き上げ、火災から家を守ると伝えられている。大成殿の「吻」は龍の頭から水を噴き上げている。
 左右の隅棟と下り棟から虎が牙を剝いて威嚇している。「吻」と虎は、杏檀門の屋根の上にも載っている。


吻と虎



 内部中央に孔子が祀られている。左右に、孔子の一門である孟子、顔子、曽子、子思の四賢人が祀られている。
 孔子(紀元前552~紀元前479頃)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者、儒家の始祖である(注・大成殿内は土、日、祝日のみ公開)。

 帰りに、聖橋の上から湯島聖堂の美しい練塀を見る。


湯島聖堂の練塀


 東京都文京区湯島1-4-25
 JR御茶ノ水駅 地下鉄丸ノ内線御茶ノ水駅 地下鉄千代田線新御茶ノ水駅下車


・同年11月15日(土) 東京都慰霊堂(旧震災記念堂) 東京都復興記念館

 JR両国駅を降りる。両国駅の初代の駅舎は大正11年(1923年)9月1日に起きた関東大震災により焼失する。2代目の駅舎は昭和4年(1929年)完成以来、現在も現役で業務を行っている。


JR両国駅



 国技館通りに入る。右手に、昭和59年(1984年)竣工、地下1階付地上2階の両国国技館が建ち、櫓が聳えている。左手には隅田川が流れている。
 16年前の平成10年7月18日、奥の細道の旅の第1日目に、埼玉県に向かって、この通りを歩いたことを思い出した(「奥の細道旅日記」目次1参照)。

 100m程歩き、右手の角にある出入口から旧安田庭園に入る。
 旧安田庭園は、もと常陸国笠間藩主・本庄因幡守宗資の大名庭園として元禄年間(1688~1704)に造られた潮入回遊式庭園である。かつては隅田川の水を引いていたが、現在はポンプにて人工的に潮入が再現されている。

 庭園の中心に位置する池の向こうに、大正15年(1926年)建築、鉄筋コンクリート造4階建ての両国公会堂が建っている。
 銅板に覆われた緑青のドームの屋根を持ち、外壁が茶色に塗られた円形の重量感のある建物である。

 ここから意外な近さで東京スカイツリーが見えた。
 東京スカイツリーは、平成24年2月竣工、高さ634m。現在、世界第2位の高さである。因みに、世界第1位は、アラブ首長国連邦ドバイにある高さ828m、160階建の超高層ビル、ブルジュ・ハリーファである。


東京スカイツリー


 庭園を斜めに横切って、斜向かいの横網町(よこあみちょう)公園に入る。
 この公園内に、伊東忠太設計、昭和5年(1930年)建築の
東京都慰霊堂(旧震災記念堂)が建っているのだが、耐震補強工事がなされていて、建物全体がシートに覆われていた。
 しかも補強工事は平成28年2月まで予定されている。事前に調べておくべきだったが、今となっては諦めるしかない。 

 建物の前に立っていた警備員に補強工事のことを尋ねたら、工事中でも本堂に入って参拝できます、と言われた。
 本堂は半分に仕切られて、工事が行われていた。高い天井を太い柱が支え、天井から吊るされたシャンデリアは蓮の葉の形をしている。

 大正12年(1923年)9月11日午前11時58分に起きた関東大震災と、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の映像がビデオで流されていた。
 横網町公園は、もとは陸軍本所被服廠(しょう)跡地であった。震災が起きたとき、多くの被災者が空地であったこの場所に避難した。震災が昼食の準備をしている正午近くに起きたためか、方々(ほうぼう)で火災が発生した。火は勢いを増して燃え広がり、この場所も火炎に包まれ、約3万8千人が焼死した。

 慰霊堂では、身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀っている。その後、昭和23年(1948年)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め死者の霊を合祀している。
 昭和26年(1951年)、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称を改めた。

 東京都慰霊堂では、毎年3月10日、9月1日に慰霊大法要が行われている。

 東京都慰霊堂へはまた来ようと思った。

 同じ横網町公園内に東京都復興記念館(旧復興記念館)が建っている。震災記念堂の付帯施設として昭和6年(1931年)に建てられた。伊東忠太と佐野利器(としかた)(1880~1956)の共同設計である。


東京都復興記念館



 朽葉色(くちばいろ)の落ち着いた建物である。
 鉄筋コンクリート造、外壁に縦の筋(すじ)を付けたスクラッチタイルを張っている。更にタイルで凹凸を付け、外壁を立体的にしている。「ライト式」である。

 旧帝国ホテル自由学園明日館(みょうにちかん)旧山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館)を設計したアメリカ人建築家・フランク・ロイド・ライト(1867~1959)は、平面を平らなままに終わらせず凹凸を付けて、メリハリのある壁面を造った。

 フランク・ロイド・ライト、旧帝国ホテル、自由学園明日館については、目次6、平成24年5月19日、目次8、同年11月4日、「奥の細道旅日記」目次6平成12年8月16日参照。
 ヨドコウ迎賓館については、目次9、平成25年1月5日参照。

 4頭の怪獣が威嚇している。



 2階建ての復興記念館に入る。1階、2階共に展示室になっている。関東大震災、東京大空襲の被災者の遺品、被害を受けた品々、当時の状況を伝える絵画、写真、復興事業に関する資料等が展示されている。
 屋外にも、震災時高熱で溶けた機械等大型のものが展示されている。

 昭和20年(1945年)3月9日夜、サイパンの米軍基地を飛び立った330機を超すB29爆撃機は、3月10日未明、高度1600~2000mの低空から東京下町に18万発の焼夷弾を投下した。
 下町一帯は火の海となり焦熱地獄と化した。一晩で10万5千人が亡くなった。

 ジャーナリスト・高山正之氏は、週刊新潮にて「変見自在(へんけんじざい)」のタイトルで、時事問題、歴史を解説し、論評している。
 週刊新潮2012年6月28日号「変見自在」の一部を引用する。
 文中の中島慎三郎(1919~2011)は、昭和13年(1938年)東京府立実科工業学校(現・都立墨田工業高校)を卒業、昭和14年(1939年)徴兵で陸軍野砲兵第一連隊入隊。各地を転戦し、シンガポールで終戦を迎える。


 「中島はシンガポールで終戦を迎え、昭和21年夏に復員した。
 上官の遺品を届けるため東京・下町の実家を訪ねた。一面の焼け野原だった。
 上官の遺族から米軍の東京空襲の話を聞いた。325機のB29が低空で進入し下町を包むように焼夷弾を落とし、人々が三つ目通りに集まると、黄燐弾を降らせて生きながら10万人を焼き殺した。『小名木川と横堀川は熱湯でした』と遺族は語った。
『6年間いろいろ戦場を見た。中国人もオランダ人も醜かった。しかしこれほど醜く残虐な戦場は初めてだった』(中島慎三郎「元兵隊の日記」)
(中略)

 (昭和39年)日本政府は東京空襲の指揮を執ったカーチス・ルメイに旭日大授章を授与した。
『米国の無差別殺戮に謝罪も賠償も要求しない』ことを形にしろとジョンソン大統領が要求したからだ。旭日大授章は天皇の親授になるが、このとき陛下は拒絶された。」


 昭和39年(1964年)6月4日、カーチス・ルメイ(1906~1990)に対する勲一等旭日大授章の叙勲が閣議決定された。理由は、航空自衛隊育成に協力した、というものであった。授与は7日に行われた。
 これは遺族に対して、悲しみと苦しみを与えるできごとであっただろう。

 3月10日東京大空襲、8月6日広島、9日長崎への原子爆弾投下による非戦闘員に対する無差別攻撃、大量破壊兵器の使用によって米軍は日本人の皆殺しを謀っていたのではないかと思うことがある。


 東京都墨田区横網2-3-25
 JR両国駅 都営地下鉄大江戸線両国駅下車


・同年11月22日(土) 一橋大学兼松講堂

 JR国立(くにたち)駅南口を出る。駅から幅約43、2mの広い道路が真っ直ぐ延びている。「大学通り」と名付けられている。更に、南東、南西の方向へ放射状に2本の道路が延びて、東西南北の碁盤の目の道路に交差し、整然とした町並みを形成している。
 桜と銀杏を交互に植えた街路樹はどこまでも続き、緑豊かな町である。

 実業家、後に衆議院議長となった堤康次郎(1889~1964)は、大正4年(1915年)、不動産業を始める。
 箱根土地株式会社の社長であった堤は、関東大震災後の大正14年(1925年)、東京府下北多摩郡谷保(やほ)村拝島通北の土地80万坪を買収し、この地を「学園都市」として開発した。

 神田一ツ橋にあった東京商科大学(現・一橋大学)の誘致に成功する。
 大正15年(1926年)建築の国立駅駅舎は、「学園都市」らしく赤い三角屋根の洋館の造りだった(注・この駅舎は、市民に惜しまれつつ平成18年解体された)。

 500m程歩く。右へ曲がり、一橋大学西キャンパスの門を通って大学の構内に入る。樹木に囲まれた構内を50m程歩く。右手に、一橋大学兼松講堂が建っている。講堂の裏は赤松の林が広がる。
 兼松講堂は、株式会社兼松商店(現・兼松株式会社)が昭和2年(1927年)に建築し、東京商科大学に寄贈したものである。平成12年、国重要文化財に指定された。


一橋大学兼松講堂


 壮麗で重厚な中世ロマネスク様式の建物である。鉄筋コンクリート造2階建の外壁にスクラッチタイルが張られている。

 正面上に校章、中ほどに鳳凰、獅子、龍が彫られている。
 校章は、ローマ神話の商業、学術の神・メルクリウスの杖に2匹の蛇が巻き付き、頂に羽ばたく翼が付いている。蛇は英知を表し、翼は世界に雄飛することを意味する。

 1階エントランスの三連アーチを4本の太い柱が支えている。柱頭の回りには、いくつもの奇妙な動物が彫られている。


エントランス


     


 木製の扉を開けて中に入る。照明を落としていて、見学することはできなかった。いずれにしても内部の写真撮影は禁止されている。

 美しい図書館が建っているが、ここも工事中で建物全体にシートが被せられていた。
 図書館は、また訪ねて、
図書館や講堂、大学の構内に棲みつき、跳梁跋扈している、伊東忠太が作り上げた怪獣や空想上の動物を観察しようと思っている。

 駅へ戻る途中、左手にレストランの看板が出ていた。10m程石畳の道を歩いた路地の奥に、木造2階建ての一軒家のレストランがある。「ル・ヴァン・ド・ヴェール」という名前のフランス料理の店だった。

 玄関のポーチに入ると、女性のスタッフが明るく微笑んで、ガラスの扉を内側から開けてくれた。
 入ると、中央に2階に上がる木製の階段がある。古い建物をレストランに改装したことが分かる。
 ダイニングルームだったと思われる広い部屋の隣の部屋に案内された。ここはサンルームだったのだろう。ガラス戸の外は石畳が敷かれたテラスになっている。

 ランチのコースを注文する。

     オードブル   リー・ド・ヴォーとポークのパテ ピーツのソース
                リー・ド・ヴォー(牛の胸腺)は、白く柔らかく滑らかな舌触りである。

     スープ       じゃがいものポタージュ
     魚料理       舌平目のポアレ
                フヌイユの香りとエストラゴンソース
                フヌイユもエストラゴンも香りのある野菜である。
     肉料理       牛ほほ肉のプレゼ(煮込み) 赤ワイン風味 
                牛ほほ肉はレバーのようにねっとりしていて、タンのような深い味だった。
     デザート     ガトーショコラ アイスクリームを添えて

 みんなとてもおいしい料理だった。

 帰りにスタッフにこの家のことを尋ねたら、やはり古い建物だった。
 昭和初期に建てられた、「戦艦 赤城」の元艦長・野島新之丞の邸宅だった、というお話を伺った。


 東京都国立市中2-1
 JR国立駅下車





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