42 旧福岡県公会堂貴賓館 カトリック今村教会(福岡県) 大浦天主堂(長崎市)


・平成30年12月26日(水) 旧日本生命九州支店(現・福岡市赤煉瓦文化館)ー2

 東京駅6時発「のぞみ1号」に乗る。10時52分、博多駅に着く。
 博多口を出る。駅前のホテルに4泊予約しているので、そのホテルへ行き、荷物を預かってもらう。予めチェックインの手続きもしておく。

 博多駅に戻り、地下鉄空港線に乗る。二つ目の中州川端駅で降りる。地上へ出て右へ曲がり300m程歩く。那珂川に架かる西大橋、新薬院川に架かる天神橋を渡る。右へ曲がり100m程歩く。


旧日本生命九州支店


 旧日本生命九州支店(現・福岡市赤煉瓦文化館)の壮麗な建物が建っている。
 旧日本生命九州支店は、昨年12月28日に訪ねた(目次37参照)。建物の内部は、月曜日を除き一般公開されているが、12月28日から年末年始の休館が始まり、内部の見学はできなかった。そこで、今日、内部を見学する予定で再び訪ねた。

 明治42年(1909年)建築、地下1階付地上2階。設計は辰野・片岡建築事務所。辰野片岡建築事務所は、建築家・辰野金吾(1854~1919)が弟子の片岡安(やすし)(1876~1946)と開設した建築事務所である。
 辰野金吾は、明治、大正期の代表的建築家である。東京駅日本銀行本店奈良ホテル他多くの建物を設計し、その多くが現存している。

 辰野金吾設計により建てられた大分銀行赤レンガ館(旧二十三銀行本店)ついて、目次14、平成25年12月28日参照。
 武雄温泉楼門旧共同湯について、目次19、平成26年12月28日参照。

 旧日本生命九州支店の建物は、辰野金吾が留学していた19世紀のイギリスで人気を博したクイーン・アン様式を基にして、後期の辰野が独自に組み上げた華やかなデザインであるところから、辰野式フリークラシック様式と称されている。
 建物は昭和41年(1966年)まで社屋として利用されていた。昭和44年(1969年)、国重要文化財に指定され、福岡市に譲渡された。

 石段を上がって玄関へ入る。昨年訪ねたときは、玄関は鉄の扉で閉められていた。


玄関


 玄関ホールへ入る。白と黒の大理石が配されて、窓口に木製のカウンターが設けられている。カウンターの木製の枠の金網のデザインは草花をモチーフにした軽快な曲線である。高い天井から下がる照明器具はアール・ヌーヴォーである。


玄関ホール




 扉を開けて階段室へ入る。2階吹き抜けの天井から下がる照明器具、リベットを剥き出しにした鉄製の階段の柵、階段の持ち送りの透かし彫りなどアール・ヌーヴォーが溢れている。



持ち送り



 2階へ伸びる階段を上がる。2階は四つの部屋がある。いずれも立ち入り禁止になっているので部屋の出入り口から中を見る。
 右端の部屋は旧会議室である。窓の桟割りが美しい。窓枠と同じ色のモールディングが部屋を瀟洒なものにしている。


旧会議室


 左隣の部屋は旧待合室である。テーブルを囲む三つの椅子に目が引かれた。


旧待合室


 この三つの椅子を見たとき、1903年に創立されたウィーン工房の創立メンバーだったデザイナーのコロマン・モーザー(1868~1918)が1904年に製作した肘掛け椅子を思い出した。コロマン・モーザー製作の肘掛け椅子も、肘掛と背もたれの三方に、細い角材が格子のように縦に取り付けられている。

 隣室は旧診察室で正八角形の部屋である。左端の部屋は旧医員室である。いずれも保険に加入する顧客の健康状態を診察する用途で使用されていた。

 1階へ下りて、職員に、照明器具のデザインは当時のものですか、と伺った。
 職員のお話では、鉄は戦争中、供出させられました。そのため、現在の照明器具、階段の装飾、建物の外の柵も、戦後、作られたものです。当時の資料を見て復元しました、ということだった。
 階段は八幡製鉄所が製作したものです、というお話もあった。階段はなくてはならないものだから供出を免れたのだろう。


・同年12月27日(木) 旧福岡県公会堂貴賓館 

 ホテルで朝食後、博多駅へ行き、昨日と同じ地下鉄空港線に乗り、やはり昨日と同じ二つ目の中州川端駅で降りる。地上へ出て右へ曲がり300m程歩く。那珂川に架かる西大橋を渡る。左へ曲がり100m程歩く。旧福岡県公会堂貴賓館に着く。


旧福岡県公会堂貴賓館


 貴賓館は木造モルタル2階建ての洋風建築である。建物の東北に八角形の塔が張り出している。昭和59年(1984年)、国重要文化財に指定された。

 あいにく、前の公園で改修工事が行われていて、建物のすぐ近くまでボードが立てられていた。そのため、正面から貴賓館の全景の写真を撮ることはできなかった。

 入館するときにいただいた説明書に貴賓館の「沿革」が記されている。この「沿革」で貴賓館の歴史が分かるので、長くなるが全文を転記する。文中の共進会は現在の博覧会のことである。


 「旧福岡県公会堂は第13回九州沖縄八県連合会共進会の開催に際し、会期中の来賓接待所を兼ねて、明治43年3月、共進会会場東側の現在地に建設されました。
 この建物の設計・監督は福岡県土木部技師であった三條栄三郎です。
 共進会会期中は閑院宮御夫妻の宿泊所として利用され、会期終了後は、県の公会堂として一般市民に利用されていました。

 戦後は、福岡高等裁判所や県立水産高等学校に転用されており、昭和31年11月以降は福岡県教育庁舎として使用されました。
 その後、福岡県庁の新庁舎建設、移転に伴って教育委員会も昭和56年11月に移転したため、その跡地は都市公園『天神中央公園』の一部となったことにより、跡地内の諸施設は取り壊されました。

 しかしながら、旧公会堂のうち貴賓館は、数少ない明治時代のフレンチルネッサンスを基調とする木造公共建物として貴重であるため、重要文化財として指定され保存されることとなりました。」


 車寄せを通って玄関を入る。


玄関


 玄関ホールへ入る。正面の左右に、2階へ伸びる階段がある。玄関ホールの奥へ行き玄関を見る。


玄関ホールから玄関を見る


 左手の通路を歩いて旧食堂へ入る。美しい部屋である。八角形の塔の1階部分にもテーブルと椅子を置いて、優雅な雰囲気を醸し出している。高い天井から下がるカーテンが部屋の美しさを引き立てている。
 シャンデリアは旧福岡県議会議場に吊るしてあったもので、その他のものはこれをモデルにして新しく製作されたものです、と職員の説明があった。


旧食堂


 深紅の絨毯が敷かれている階段を上がる。



 2階の広間から三つの廊下が伸びている。正面の廊下の突き当りは車寄せの上の旧運動場に出られるようだが、扉は閉鎖されていた。
 右側の廊下を歩く。左手に旧貴賓室、右手に旧談話室が配されている。



 旧貴賓室へ入る。旧貴賓室も豪華で美しい部屋だった。青い空に白い雲が浮かぶ天井画が描かれている。


旧貴賓室 天井画

 

 旧貴賓室を出て広間に戻る。左側の廊下を歩く。右手に旧寝室、左手に旧食堂が配されている。床は板張り、天井は木でできたフレームや漆喰塗りのフレーム、四隅に配置されている換気口などが幾何学模様で作られ、各室とも異なった意匠となっている。





・同年12月28日(金) カトリック今村教会(福岡県三井郡大刀洗町)

 ホテルで朝食後、博多駅へ行き、博多駅7時50分発鹿児島本線下り快速電車に乗る。8時27分、鳥栖(とす)駅に着く。駅前からタクシーに乗る。
 車が15分程走ると、広い筑後平野に民家が集中して建っている集落がある。その民家の間から忽然と二つの塔が現れた。カトリック今村教会の塔である。

 鳥栖駅から約20分でカトリック今村教会に着いた
 車を降りて、運転手さんに、2時間後に来ていただくようにお願いする。


カトリック今村教会


 双塔が聳えるロマネスク様式の赤煉瓦の教会の前に立ったとき、その荘厳さに圧倒された。
 複雑な煉瓦の積み方は古風な趣(おもむき)があり、時代が建設当時に戻ったような感慨を覚えた。今村教会は、平成27年、国重要文化財に指定された。





 今村教会は大正2年(1913年)建築、床面積1階530、40㎡ 2階28、12㎡ 塔屋の高さは避雷針まで22、49m 主屋の高さは十字架まで18、07mである。
 左の塔が鐘楼になっている。周囲に高い建物がないこともあり、塔が実際の高さよりも高く感じられる。 

 外観を見学していると、50代くらいの女性が教会の敷地内に入ってきた。挨拶する。女性は教会の前に建つ案内所の建物へ入った。
 女性に聖堂を見学させていただくことを申し上げて、見学者が入る左側の「脇入り口」から聖堂へ入る。聖堂内部の写真撮影は禁止されている。

 堂内の美しさに陶然となった。
 聖堂は
、イタリアの初期キリスト教聖堂の建築様式である長方形の平面をなしたバシリカ式である。
 高い天井に架けられたリブ・ヴォールト(こうもり傘天井)は更に高みを目指して上昇しているように見える。

 左右に、半円アーチに連結された美しい意匠を施された柱列が並び、中央の身廊と左右の側廊を分けている。身廊よりも低い側廊の天井もリブ・ヴォールトである。
 側廊の上の2階にも信者席と思われるスペースがある。2階も半円アーチに連結され、幅を狭くした柱列が並んでいる。

 多彩な色の美しいステンドグラスが鮮やかに輝いている。

 聖堂の前半分は立ち入り禁止になっているので祭壇には近づけない。ミサや教会の行事がなく、見学者が入れるときだけの処置だと思う。
 祭壇の中央に、悪魔の象徴である龍と闘う大天使聖ミカエル像が立っている(大天使聖ミカエルについて、目次29平成28年8月28日参照)
 祭壇側から振り返って正面入り口を見る。入り口の2階に聖歌隊の席がある。

 外へ出て案内所へ行き、案内の女性に、見学させていただいたことのお礼を申し上げる。
 寒いから中へお入りになりませんか、と仰っていただいたが、もう少し外観を見せていただきます、と申し上げて、建物について質問した。

 ステンドグラスは元はフランス製のものでしたが、現在は創建当時のフランス製のものが一部残っています。柱は久留米市高良山の杉、煉瓦は佐賀県神崎市の5箇所の工場に特注したもの、石材は、うきは市と長崎県西見から産出されたものです、というご説明があった。
 側廊の2階は現在使われておりません。聖歌隊の席も、らせん階段を使って上るようになっているのですが、やはり現在使われておりません、ということだった。

 ちょうど2時間後にタクシーが教会の敷地内に入ってきた。
 タクシーに乗る前に、案内所の女性にお礼を申し上げようと思って案内所へ向かっていたら、案内所の女性が、冷たい風が吹いているのに外へ出て来られた。お礼を申し上げる。

 鳥栖駅に着くまで、タクシーの運転手さんと今村教会やその他のお話をする。
 案内所の女性もタクシーの運転手さんも温厚な方だったので楽しくお話しすることができた。ありがとうございました。


 昨年9月、作家・帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏の『守教(しゅきょう)』上、下2巻が新潮社から出版された。

 『守教』は、キリスト教の信仰が広まっていた永禄12年(1569年)から、キリスト教の禁教の時代を経て信仰の自由を得るまでの、今村地区の約300年間を描いている。今村の大庄屋を軸として物語が進行するが、大庄屋の5代当主が棄教したために、物語は大庄屋の親戚にあたる庄屋に引き継がれる。

 イエズス会のポルトガル人神父と修道士の布教により九州の大名と多くの住民がキリスト教に改宗した。今村の住民も神父の洗礼を受け、キリスト教徒となり、祈りと労働の日々を生きていた。
 その後、伴天連追放令が発布され、徳川幕府によってキリスト教が禁教となり、信徒は棄教を迫られ迫害を受ける。密告に怯えながら隠れ切支丹として潜伏する。250年後、長崎の大浦天主堂において信徒発見があり、その8年後に信仰の自由が認められた。

 潜伏キリシタンがどのようにして250年間も信仰を伝えることができたのか。これまで書かれなかった潜伏キリシタンの日常生活が丁寧に描かれている。潜伏キリシタンの資料は乏しかったと思う。帚木氏は、足りない資料を作家の想像力で補って記述したと思われる。

 潜伏キリシタンは、様々な難問が続出しても、知恵を出しあって、殉教することなく生きて信仰を伝えることを選ぶ。
 踏絵の様子が描かれている。下記に引用するが、これが現実であったと思われる。困難なできごとを前にして、『マタイによる福音書』に記されているように、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」行動しているのである。

 

 「宝永5年のはじめ、大庄屋の力蔵から絵踏みについて聞かされたとき、伝蔵はさして驚かなかった。銅板には、イエズスが十字架上で息絶えた姿が彫られているという。すべての村民は各村の庄屋の屋敷に集められ、公儀が派遣した役人の前で、銅板を裸足で踏むのだ。
 今村の百姓たちは、確かに絵踏みをするのを躊躇(ちゅうちょ)するはずだ。その迷いを見て、役人は隠れたイエズス教の信徒を見分けるのに違いない。

 大庄屋の達示(たっし)を聞いた翌日から、伝蔵は今村の村民の家を一軒一軒まわった。
 『銅板は公儀が作ったもんですか』
 伝蔵の説明を聞いて村の長老とも言うべき亀吉が問い返す。
 『元はといえば、大公儀が配ったもんじゃろ。それば原型にして公儀が何十枚か何百枚か、数は知らんが、鋳込んどるとに違いなか』
 伝蔵が答える。
 『その銅板が、何かイエズス教と関係があるちは思えんですが』
 亀吉が首をかしげた。
 『そこたい。いくらイエズス様の御姿が彫られとるとはいえ、誰もそこに祈りば込めとらん。お授けのときに使う聖水も、祝言の際の聖水も、心からの祈りば捧げとらんなら、ただの井戸水、何ちゅうこつもなか。絵踏みの銅板も、誰も祈っとらんじゃろ。この日本には、ひとりとして神父さんはおらんから、間違いなか。そうなると、いくらイエズス様の姿が彫られとるとはいえ、いっちょん尊(とおと)さはなか。ただの板たい』
 『なるほど、庄屋どんの言われるこつは、理にかなっとります』
 亀吉がにっと笑う
。『村のもんに言うときます。そりゃ、今から絵踏みが楽しみですばい』
 あとは亀吉に任せていればよかった。

 絵踏みを命じられたのは11歳以上の男女で、田植えが終わった5月、庄屋の屋敷に今村の百姓が集められた。家で寝ている病人については、あとで御目付が一軒一軒まわって踏ませると達示が届いていた。
 やって来た御目付衆の役人は3人で、庄屋とはいえ小ぶりな伝蔵の屋敷には驚いた様子だった。ひとりが縁側の座布団(ざぶとん)に坐り、庭先に莚(むしろ)を広げさせ、真中に一尺四方の銅板をおいた。

 まず踏ませられたのは伝蔵一家と荒使子(あらしこ)たちだった。莚の縁で草履(ぞうり)を脱いで、銅板に歩み寄る。両脇に役人が立っていて、確かに踏むのを見届ける。
 伝蔵は、右足を上げる前に、銅板にしかと眼を注いだ。なるほど、十字架で絶命したイエズス像であり、各村を巡回してきたためか、突起の部分は磨り減っている。
イエズスの顔も見分けられなくなっていた。
 こんな銅板が尊いはずはなく、今村の百姓たちの手本だと思い、裸足の右足でぐいと銅板を踏んだ。ひんやりした凹凸の感覚が足の裏で感じられ、一瞬どこかで申し訳ないという観念にとらわれた。しかしそれは表情に出さず、役人のよしという声を聞いて右足をはずす。
 次が伝蔵の妻のぶで、表情ひとつ変えずに絵を踏む。さらに伝蔵の息子与蔵と妻のいき、その長男の千蔵、次男の弥蔵と続く。娘2人は11歳に満たず、母親の傍で見ているだけだ。庄屋の荒使子5人も、神妙な顔で絵を踏み終わる。

 庄屋一家の絵踏みが終わると、伝蔵は宗旨人別帳の写しを手にして、縁側の前に立つ。百姓たちの数が増え、もう門の外に溢れ出していた。
 12、3歳の子供たちも、役人を前にして大人(おとな)しくしている。家族毎に前に出て、莚に近づく。草履や草鞋(わらじ)を脱ぎ、裸足になる。子供たちは全員が裸足で、薄汚れた足を手でぬぐい、銅板を踏んだ。
 そのひとりひとりを伝蔵は帳簿につけていく。絵踏みが終わった者はその場に残らず、帰っていくように命じられていた。

 今村57軒のうち30軒ほどが終わって、村民たちは庭の中で列をつくっている。当初の緊張した雰囲気はなくなり、特に子供たちは自分の番が回って来るのを今か今かと待ち構えていた。

 もう50歳を超えた藤八とやな夫婦と一緒にいるのは庄市だ。捨子だったのを二人が貰い受け、立派に育てていた。もう37歳になり、貴重な働き手として、村中でも孝行息子の評判をとっていた。
 藤八とやなが草履を脱ぎ、素足で絵踏みしたのを見届けて、庄市は草履のまま莚に上がった。役人が制止する間もなく、庄市は土足で銅板を踏みつけた。まるで川蛭(かわひる)を踏み潰(つぶ)すように、足に力をこめる。その憎々しげな様子に、2人の役人は縁側の上役の顔を見た。
 『構わん』
 御目付が満足気に頷く。
 庄市は晴れ晴れとした表情で莚から降り、養父母を連れて門から出て行く。

 伝蔵が洗礼名をディオゴと名付けた庄市は、信心の熱心さで伝蔵を驚かせていた。ロザリオは数珠玉で作り、メダイは鉛を鋳込む器用さももっていた。祈りの文句も、置き針で釣った大鰻(おおうなぎ)を庄屋宅に持参したとき、直接伝蔵にこれでいいかと訊いたほどだ。ロザリオは常々野良着の中に入れていて、時折田畑でコンタツする姿が見えたと聞き、伝蔵も直々に不用心だと注意したこともあった。

 庄市のあとから、絵踏みは土足のままになってしまった。泥足のまま莚に上がり、そのまま銅板を踏みつける。草履の者も、脱がずに直(じか)に銅板に足をのせた。
 そんな手荒(てあら)な絵踏みは他村では見られなかったのだろう、役人2人も呆(あき)れ顔で、御目付は逆に満足顔だった。
 村民全員が終わったのを見届けて、伝蔵は荒使子に命じて、桶の水を銅板の上にぶちまけさせた。せめて泥だけは洗って、公儀に返さなければ礼を失するからだ。手拭(てぬぐ)いで拭(ふ)き上げて、役人に手渡す。

 労をねぎらって御目付に茶を出す際、伝蔵は銀子(ぎんす)の包みも饅頭(まんじゅう)に添えた。
 『お役目とはいえ、わざわざのお越し、お骨折りでございました』
 腰をかがめて人別帳をさし出す。
 『いや、今村の絵踏みにはほとほと感じ入った。よくぞここまで転びを徹底させたものと、見ていて痛快千万』
 御目付が満足気に言う。『実は先に広琳寺に行った折も、和尚(おしょう)から今村のこつは聞いとった。今村の百姓はよく寺にも届け物をし、お参りもしてくるるちいう話じゃった。いやよくぞ、ここまでになってくれた』
 『ありがとうございます』
 伝蔵は恐縮するばかりだ。
 『そいじゃ、あとは病人の家ば訪れて終わりだ。はよすませたがよか』
 御目付は銀子の包みを懐(ふところ)に入れて立ち上がった。」


 今村教会の設計者は建築家・鉄川与助(てつかわよすけ)(1879~1976)である。
 鉄川与助は、長崎県五島(ごとう)列島の現在の新上五島(しんかみごとう)町・新魚目(しんうおのめ)地区に生まれる。生家は代々大工棟梁の家系だった。高等小学校卒業後、大工の修業に励んでいた。
 明治34年(1901年)、鉄川与助が22歳のとき転機が訪れた。フランス人のアルベルト・ペルー神父が設計する教会建築に携わったことがきっかけで、ペルー神父から教会建築に欠かせないリブ・ヴォールトの工法と幾何学を学んだ。以後、独学によって建築に関する高度な知識と技術を学び取り、長崎、五島列島を中心に九州にカトリック教会を設計し、建設する。
 鉄川与助が設計したカトリック教会は22の教会が現存する。いずれも美しく、荘厳な教会である。そのうち今村教会を含む5つの教会が国重要文化財に指定されている。
 数多くのカトリック教会を建設したが、鉄川与助は、生涯、仏教徒だった。


・同年12月29日(土) 宗像大社神宝館(福岡県宗像市)


宗像大社 本殿


 ホテルで朝食後、博多駅へ行く。博多駅7時46分発鹿児島本線上り快速電車に乗る。8時16分、東郷駅に着く。駅前から8時26分発のバスに乗る。約12分で停留所「宗像大社前」に着く。

 宗像大社(むなかたたいしゃ)は、2年前の平成28年12月30日、宗像大社辺津宮(へつみや)を訪ねた(目次31参照)。昨年の平成29年12月29日、九州沿岸から11キロの、玄界灘に浮かぶ大島に祀られている宗像大社中津宮(なかつみや)宗像大社沖津宮遥拝所(おきつみやようはいしょ)を訪ねた(目次37参照)。

 宗像大社は、昨年7月、「神宿る島」宗像・神ノ島と関連遺産群の辺津宮、九州沿岸から60キロの玄界灘の孤島・沖ノ島沖津宮、九州沿岸から11キロの大島に祀られている中津宮の三つの宮、沖津宮遥拝所、島そのものが御神体である沖ノ島大島の二つの島と、辺津宮そばの古墳群、沖ノ島渡島の際に鳥居の役割を果たす三つの岩礁の構成資産全てが世界文化遺産に登録された。

 沖ノ島は、昭和29年(1954年)から昭和46年(1971年)までの三次にわたる学術調査による発掘が行われた。出土品の、祭祀に供えられた奉献品の中には、中国大陸や朝鮮半島との交流によってもたれされたものや、シルクロードを通って運ばれたものもある。出土品8万点は全て国宝に指定されている。

 宗像大社辺津宮の近くにある神宝館(しんぽうかん)は、国宝8万点の出土品を収蔵している。2年前に辺津宮を訪ねたときも神宝館へは入らなかったので、今日、神宝館で出土品を見学する。

 2年前に宗像大社辺津宮を訪ねたときは閑散としていたが、今日はおおぜいの参拝人が訪れている。参拝人が増えたのは、昨年世界文化遺産に登録されたことも関係していると思う。

 拝殿と本殿の左横を通って境内を出て、しばらく杉林の中を歩く。昭和55年(1980年)に竣工した鉄筋コンクリート造3階建ての神宝館が建っている。
 受付で、展示品は時々入れ替えるんですかと尋ねた。職員のお話では、金の指輪などの一点ものは常時展示しています。銅鏡など同じものがたくさんあるものは展示替えはしていません。常時、5、000点から6、000点を展示していますというお話だった。

 また、藤原新也氏の沖ノ島の写真展も同時に開催しています。7月21日から11月30日まで開催されていたのですが、好評だったので期間を延長して来年の1月31日まで開催しています。これもご覧になってくださいと案内していただいた。

 写真家・藤原新也氏の沖ノ島の写真展は、昨年7月、日本橋高島屋で開催されていたのは知っていたが行かなかった。その代わり、藤原氏の『神の島 沖ノ島』『沖ノ島 神坐(いま)す海の正倉院』の2冊の写真集は図書館で見た。
 いずれも沖ノ島の、手つかずで、神々しい自然が、見る者に迫ってくるような迫力のある写真だった。その写真展を今日思いがけず見ることができるとは、何と幸運なことだろうと思い、良いときに来たと思った。

 展示会場は極力照明を落として展示品のみに照明を当てている。
 最初に見たのは、入ってすぐに置かれているガラスケースに収められた「金製指輪」だった。内径1、8cmの小さな指輪だが、光を受けてまばゆく輝いている。1500年の歳月を経ても色褪せることなく輝いている。

 幡(はた)などを吊り下げる竿に付けられたといわれる「金銅製龍頭(こんどうせいりゅうとう)」、金銅製の「馬の飾り金具」、翡翠の「勾玉」、祭祀に使われた銅鏡、鉄剣などを見る。
 ササン朝ペルシャ伝来のカットグラス椀の破片が展示されている。シルクロードを通ってもたらされた美しいライトブルーのカットグラス椀の破片である。

 1階から2階へ上がり展示物を見る。3階は展示物が一部あり、藤原新也氏の写真展の会場になっていた。
 荒れる玄界灘の向こうに黒々と聳える沖ノ島の断崖絶壁が写されている。容易に人を寄せ付けないような荒々しい情景である。
 4世紀後半から5世紀にかけて岩の上で行われた岩上祭祀(がんじょうさいし)が確認された数々の巨岩が鎮座し、巨樹はほしいままに根を張り、巨岩の裂け目に食い込んでいる。
 沖ノ島の中腹に建つ沖津宮の参道と思われる道に渡り石が置かれている。しかし、歩く人がいないからか石は碧色の苔に覆われている。

 圧巻は、畳1枚ほどのサイズの写真を6枚繋いで長さ12mの写真に写された沖津宮の奥に位置する森の光景である。人の手が入ったことのない森の巨樹と下草、巨岩が眼前に広がる。


・同年12月30日(日) 大浦天主堂(長崎市)

 ホテルで朝食後、博多駅へ行く。博多駅8時57分発長崎本線特急「かもめ9号」に乗る。10時50分、長崎駅に着く。
 宿泊を予約している、駅の構内にある
JR九州ホテル長崎へ行き、荷物を預かってもらい、時間は早いけれどもチェックインの手続きもする。 

 長崎へ来たとき、4年前から昼に食事をしているホテルモントレ長崎にランチの予約の電話を入れて、ホテルへ行く。ホテルモントレ長崎のランチは、手頃な値段にもかかわらず豪華でおいしい食事ができるので楽しみである。

 いつものように「冬のスペシャルランチコース」を注文する。

     小前菜   ノルウェーサーモンとパプリカのミルフィーユ
             生のサーモンを軽くあぶっている 海藻が添えられている
     前  菜   国産牛と茸アランチーニ フォワグラフラン(ムース)と共に 
             国産牛とキノコのコロッケである
     パスタ    ガルガネッリ(小パスタ)とモッツァレラチーズが入ったオニオングラタン
     魚料理   鱈・芽キャベツ・白菜のフリカッセ(クリーム煮)
     肉料理   雲仙豚ロースのタリアータ(スライス) ローズマリーの香り
             ローズマリーのソース サツマイモ、カボチャ、ジャガイモが添えられている
     デザート  イチゴとプラリネのパンケーキ チョコレートジェラート
             プラリネは、生地にナッツを練り込んだものである

 今日もおいしい料理をいただいた。

 食後、ホテルの前からタクシーに乗る。車は5分程走り、急な坂を上がる。正面に、大浦天主堂が建っている。神々しい姿で、気品がある。


大浦天主堂


 大浦天主堂は、元治2年(1865年)初代の天主堂が完成。明治12年(1879年)、大規模な増改築が行われ、現在の姿になった。昭和8年(1933年)、国宝に指定される。
 大浦天主堂は
「日本二十六聖人」に捧げられた教会であるから、二十六聖人の殉教地である「西坂の丘」に向かって建てられている(二十六聖人については、目次3、平成23年12月31日参照)。
 今年7月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された。

 天主堂の右手の手前に、大正4年(1915年)建築の旧長崎大司教館が建っている。設計者は、長崎・外海(そとめ)地区のフランス人神父・マルク・マリー・ド・ロ(1840~1914)である。施工者は鉄川与助である。平成23年、県有形文化財に指定された。


旧長崎大司教館


 一部木造、赤煉瓦による切妻壁の旧長崎大司教館は、港が見える石畳の坂の途中に建っているからか、行ったことはないがポルトガルの首都・リスボンに建つ建物を彷彿させる。 

 受付を通って、天主堂を仰ぎ見ながら正面の石段を上る。石段の中ほどに、白亜の聖母マリア像が立っている。


聖母マリア像


 「日本之聖母像」と名付けられたマリア像は、宗教史上の奇跡と呼ばれた元治2年(1865年)の信徒発見を記念して、信徒発見から2年後の慶応3年(1867年)にフランスから贈られたものである。高さ1、42mである。

 天主堂の内部へ入る。内部の写真撮影は禁止されている。

 天主堂は、長方形の平面をなしたバシリカ式である。
 天井はリブ・ヴォールトを架け、天井を支える柱の列が続く。中央に身廊、左右に側廊を設け、身廊の中心に通路がある。通路の先の正面に中央祭壇がある。通路を除いた身廊、左右の側廊に信者席の長椅子が並べられている。
 身廊よりも低い側廊の天井もリブ・ヴォールトである。そのため、天主堂内部の全てが美しく、優雅な雰囲気に湛えられている。

 中央祭壇の背後に、「十字架上のキリスト」を描いたステンドグラスが美しく輝いている。

 中央祭壇の右の脇祭壇に御子(おんこ)キリストを抱いた「聖母子像」が立っている。
 153年前の元治2年(1865年)、浦上村の潜伏キリシタンが、天主堂内でこの「聖母子像」を見て喜ぶ。
250年間潜伏していたキリシタンの信徒発見を喚起させたものだった。

 天主堂の右手奥に、明治8年(1875年)建築の旧羅典神学校(らてんしんがっこう)が建っている。平成4年、国重要文化財に指定された。現在は、キリシタン資料室になっている。この建物も、ド・ロ神父の設計である。
 改修工事中ということで建物に近づくこともできなかった。

 旧長崎大司教館の平側が見える。年末年始の休館なのか中には入れなかった。 


旧長崎大司教館


 豊臣秀吉(1537~1598)が天正15年(1587年)に発布した伴天連(バテレン)追放令に続いて、徳川幕府は慶長19年(1614年)、日本全国に禁教令を公布する。
 寛永14年(1637年)、島原・天草の乱が起こる。この後、キリスト教は壊滅したかにみえた。寛永21年(1644年)、最後の宣教師が殉教する。

 長崎の潜伏キリシタンは、海に面した外海(そとめ)地区や開拓政策に従って五島(ごとう)列島の各島へ移住する。棄教する者がいたが、棄教を偽装して日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら密かに信仰を伝えた。

 カトリック教会の総本山であるヴァチカンでは、日本はキリスト教の信仰が完全に根絶やしにされたという意見と、細々と信仰の灯はともし続けられているという二つの意見に別れていた。
 1663年に創立されたパリ外国宣教会は、東アジアの宣教を行っていた。パリ外国宣教会は、日本が近く開港されるだろうという予測を立てて、日本のキリスト教の事情を調べることを目的として日本を訪れる準備をしていた。

 安政元年(1854年)、箱館(現・函館)、横浜、長崎が開港された。開港とともに欧米各国の商人が来日した。大浦海岸を埋め立て、背後の山の斜面を削り、居留地の造成が行われた。
 パリ外国宣教会のフランス人神父・ルイ・テオドル・フューレ(1816~1900)が文久3年(1863年)に来日した。フューレは、大浦天主堂を設計し天主堂の建設に着手した。その傍らキリシタンを捜索していたが、それに関する情報はなかった。
 失望したフューレは、前年完成していた横浜の天主堂へ移った。その後任に、前年、横浜に上陸した、同じパリ外国宣教会のフランス人神父・
ベルナール・タデー・プティジャン(1829~1884)が大浦天主堂へ赴任した。プティジャンは、建築中の大浦天主堂を完成させた。   

 元治2年(1865年)建築の初代大浦天主堂は、居留地に住むフランス人の礼拝のために建てられたものだった。日本国内のキリスト教は依然として禁教のままで、切支丹摘発の密告を奨励する高札(こうさつ)も立てられていた。
 日本人も大浦天主堂を訪れるようになったが、これは「ふらんす寺(でら)」と呼ばれた天主堂を見物するためだった。
 元治2年(1865年)3月17日、天主堂の見物人に混じって、浦上(うらかみ)村の潜伏キリシタンの一行老若男女15人ほどが訪れた。

 そのときの様子を歴史家・片岡弥吉(1908~1980)の『日本キリシタン殉教史』から引用する。ここでは「プチジャン」と表記されている。


 「1865年3月17日金曜日の午下(ひるさ)がり、一行はフランス寺の玄関に着いた。扉は閉まっている。フランス式のかけ金の開け方を知らず、ガチャガチャさせているのを庭園にいたプチジャン神父が見つけ、石段を登って来てあけてやった。一行は参観人をよそおい、ちりぢりになって堂内に散った。
 プチジャン神父は祭壇の前に跪き祈っていた。そこに3人の婦人が近づき、その1人が神父の耳もとにささやいた。

 『ワレラノムネ アナタノムネトオナジ』

 『私たちは浦上のものでございます。浦上のものは皆同じ心でございます。』
 これらの言葉を耳にした神父の驚きと喜びを、いま私たちは察し得るであろうか。立ち上がろうとする神父に婦人はたたみかけて言った。

 『サンタ・マリアのご像はどこ。』

 神父は聖母子像の前に案内した。散っていった人たちも集まって来る。
 『ほんとにサンタ・マリアさまだよ。御子(おんこ)ゼゼスさまを抱いていらっしゃる。』」


 250年間潜伏し、信仰の灯を守り続けた信徒発見の瞬間だった。


 「『ワレラノムネ アナタノムネトオナジ』

 婦人がひそやかにささやいたこの言葉が『キリシタンの復活』という歴史をつくった。
 浦上をはじめ、長崎港外の島々や外海(そとめ)、五島、天草、筑後今村などに潜んでいたキリシタンたちが次々に神父の指導下に入る。プチジャン神父は1866年日本代牧司教に任命され、日本キリシタンの教階組織(ヒエラルキア)が成立、日本の近代カトリック教会が発足したのである。」


 しかし、未だキリシタン禁制の時代だった。
 浦上は、寛政2年(1790年)、天保13年(1842年)、安政3年(1856年)の3回、キリシタンの摘発があった。これをそれぞれ、浦上一番崩れ、二番崩れ、三番崩れと呼ぶ。

 慶応3年(1867年)、浦上のキリシタン3、394人が摘発され、配流(はいる)となった。浦上四番崩れと呼ばれた。キリシタンは20藩に分けて預けられ、各藩主にキリシタンの生殺与奪の権が与えられた。
 浦上四番崩れは、過去3回の摘発に比べて、徳川幕府によってキリスト教が禁教になったときの拷問を思い起こさせるほどの酸鼻を極めたものだった。

 プティジャンはキリシタンの釈放を求めて奔走した。信徒弾圧の惨状に、明治の新政府は欧米各国から強い抗議を受ける。
 明治6年(1873年)2月、新政府は太政官布告で切支丹禁令を含む高札の撤去を命じ、ようやく信仰の自由を認めた。
 浦上のキリシタンは6年ぶりに帰郷した。6年前に摘発された信徒3、394人のうち、600人以上が過酷な拷問によって死亡した。

 明治6年(1873年)、信仰の自由を得た後、潜伏キリシタンだった者たちは、主に下記のような三つの生き方に別れた。

 1、神父に洗礼を授けてもらって、カトリック教徒になった。
 2、
潜伏キリシタンのままの信仰を継続する。住民で洗礼を授け、日本語とポルトガル語が混交したオラショ(祈り)や独自の信仰の方法を伝えた。
 3、棄教したり、仏教や神道の信徒となって棄教を偽装した者が寺の檀家や神社の氏子となったが、長い間にキリスト教の信仰が途絶え、子孫がキリスト教に復帰することはなかった。


 カトリックに復帰した集落では素朴な教会堂が建てられた。

 浦上では、浦上村の庄屋の屋敷跡地に浦上天主堂を建てるべく明治28年(1895年)に起工式が行われた。設計は、フランス人神父・ピエール・テオドール・フレノー(1847~1911)が行った。
 大正3年(1914年)
、フレノー神父の帰天後に天主堂の聖堂が完成し、献堂式が行われた。天主堂の面積は約1、178㎡(357坪)だった。しかし、まだ建設工事は続いた。

 カトリックの信徒は、自分の家が粗末でも教会は立派なものを建てようという心意気に燃えていた、という文章を以前読んだことがある。浦上天主堂も、信徒が仕事の合間(あいま)に無償労働をして、煉瓦を一個、一個、積み上げていった。

 大正14年(1925年)、天主堂正面の双塔が完成した。双塔の高さは25m。双塔は鐘楼であり、左右の塔に鐘が吊るされた。双塔の設計者は鉄川与助である。

 起工式から30年もの長い歳月をかけてようやく天主堂の全てが完成した。
 丘に聳える赤煉瓦のロマネスク様式の
浦上天主堂は東洋一の大聖堂と讃えられた。


 20年後の昭和20年(1945年)8月9日現地時間午前2時56分、マリアナ諸島の米軍テニアン基地から3機のB29が飛び立った。その内の1機に、重量4、5トン 大きさ3、5X1、5mのプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」が搭載されていた。

 9時44分、B29は第一目標である福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区、小倉南区)上空に到達した。しかし、小倉市は厚い雲に覆われていた。その上、前日、小倉市に隣接する八幡市を焼夷弾により爆撃した煙が治まっておらず上空に漂っていた。そのため45分程上空を旋回していたが、目標地点を目視確認できなかった。
 そこで第二目標である長崎へ向かった。

 10時50分に長崎市上空へ侵入した。長崎市も雲に覆われ、目標地点である長崎市街の中心部を視認できなかった。長崎港の上空を北上し、長崎港に注ぎ込む浦上川の上空を北上した。
 浦上川の両岸は三菱重工業の系列の軍需工場や三菱の下請けの工場が建ち並んでいた。川岸から少し離れた丘の上には実業学校や中学校、女学校が点在していた。これらの学校に軍需工場が疎開して、機械を運び込んでいた。3年生以上の生徒は登校しても授業はなく、学徒動員により軍需工場の作業に
従事していた。

 不意に雲が切れて地上が見えた。浦上川東岸の松山町だった。
 11時1分、B29の乗組員が点火した原子爆弾
「ファットマン」を投下した。原子爆弾は松山町の上空500mで炸裂した。11時2分だった。

 原子爆弾は半径240mの火球になり、数百万度の熱を放射した。地上に落下するときは火球は更に体積を増し、3、000度から4、000度の熱線を放射し、巨大な爆風を起こした。
 原子爆弾の落下地点から500m圏内の建造物は粉砕して爆風に吹き飛ばされ、立木は全てなぎ倒された。放射能を浴び、熱線に焼かれ、人の肉と骨は瞬時に溶けた。浦上地区を中心として街は火炎に包まれ、焼き尽くされて砂漠となった。人は跡形もなく消えてしまった。

 爆心地から500mの距離の、東北の方向に建っていた浦上天主堂は一瞬のうちに爆風で崩壊した。完成するまでに30年を要した天主堂は瓦礫の山になった。
 原子爆弾落下の時刻に天主堂内に2人の日本人神父と24人の信徒がいたが、崩れてきた瓦礫に下敷きになり全員が即死した。

 8月15日は、カトリック教会では「聖母の被昇天(ひしょうてん)の日」と定められている。聖母マリアが帰天し、天国に挙げられた日であり、カトリックの信徒にとっては祝日である。
 この祝日をひかえ告解(こっかい)を希望する信徒が天主堂を訪れていた。
 告解は、自身の罪を司祭を通して神に告白し、神の赦しを得るカトリックの秘跡の一つである。

 当時の長崎市の人口24万人のうち、昭和20年12月31日までに74、000人が亡くなった。また、浦上の信徒12,000人のうち8、500人が亡くなった。


 浦上天主堂は、瓦礫を片付け、崩落しそうな壁を撤去した後も、右側の双塔の一部と南側の壁の一部は残っていた。
 しかし、この被爆の遺構は、跡地に新聖堂を再建するために昭和33年(1958年)3月、解体撤去された。

 大正12年(1923年)長崎市に生まれた写真家・高原至(たかはらいたる)氏の写真集『長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産』が平成22年、岩波書店から刊行された。
 
写真集は、高原氏が浦上天主堂の昭和24年(1949年)の遺構から昭和33年、遺構の取り壊しが始まり、最後に南側の壁が倒壊されるまでを撮り続けた写真集である。

 写真集の冒頭に、撮影者不明の戦前の浦上天主堂の外観と内部の写真が載っている。外観の写真は時々見るが、内部の写真は初めて見た。貴重な写真である。
 南側の小祭壇の前の板張りに、白いベールを被った複数の女性の信徒がひざまづいている。天井は見えないが、柱列から判断してリブ・ヴォールトと思われる。板張りに椅子がなく、床に直接ひざまづいているからだろうか、柱が高く見えるので、天井が相当高いような印象を受ける。
 柱の数が多く、内部の雰囲気が森閑としているので、深い森の中に女性たちが集まってひざまづいているように見える。荘厳なものが伝わってくる。

 昭和28年(1953年)当時の南側壁の写真がある。南側にいくつか存在した玄関の内の中央玄関と思われる出入り口を撮っている。
 玄関の左側の、白い大理石のコリント式円柱の傍に、等身大の石像の「悲しみの聖母像」が天を仰いで立っている。十字架に架けられた我が子キリストを見て嘆き悲しむ母の姿である。
 聖母マリアの顔の右半分と衣は熱線によって黒く焼け焦げている。爆風に吹き飛ばされたのか、あるいは崩落した瓦礫によるものなのか、組んでいる両手の指の先が切断されたようになくなっている。痛ましい姿である。天を仰ぐ聖母マリアは、被爆の苦しみと痛みを神に訴えているようである。

 「悲しみの聖母像」と対になる位置の右側の円柱の傍に、同じく等身大の石像の「使徒聖ヨハネ像」が立っている。十字架上の師・キリストの足元に立っている姿である。キリストの12使徒のうち聖ヨハネだけがキリストの足元に立ちつくしていたと伝えられている。聖ヨハネも顔と衣が黒く焼け焦げて、鼻梁は欠けている。

 「悲しみの聖母像」の左上の、壁に窪みを造った壁龕(へきがん)に「聖セシリア像」を嵌め込んでいる。聖セシリアは左手に携帯オルガンを持っている。聖セシリアは音楽家と盲人の守護聖人である。
 「使徒聖ヨハネ像」の右上の壁龕に「聖アグネス像」を嵌め込んでいる。聖アグネスは左手で子羊を抱えている。右手は肘から先が欠損している。聖アグネスは少女の守護聖人である。 

 中央玄関のアーチは爆風によって台座がずれ、アーチを支える円柱も亀裂が走り、ずれている。

 中央玄関の右隣りに玄関がある。壁は撤去されて円柱だけが残っている。その円柱の傍に、「復活後のキリスト像」が立っている。十字架上で処刑された後、3日目に蘇った「復活後のキリスト像」である。頭から足元まで全身が黒く焼け焦げている。

 外壁の軒下に「天使の半身像」が並べて飾られている。外壁の頂上にも聖人の石像が立っている。外壁の前の石像に、爆風で吹き飛ばされたのか首のない胴体だけの石像が立っている。
 かつて14体の聖人の石像が天主堂の外壁に配置され、外壁の軒下には84体の「天使の半身像」が飾られていた。石像の原石は天草石であった。

 外壁の頂上に立つ聖人像を見たとき、ヴァチカンサン・ピエトロ広場の列柱廊に立ち並ぶ聖人像を思い出した。聖人像は広場に集う巡礼者を見守っているようである。
 浦上天主堂も14体の聖人像と84体の天使の像が天主堂を訪れる人々を見守っていたのだろう。

 浦上天主堂の内部の写真と、右側の双塔の一部と南側の壁の一部の写真から在りし日の浦上天主堂の全景と内部を想像して思った。フレノー神父は、浦上天主堂をヨーロッパの聖堂のように造ることを計画して設計したのではないだろうか、ということである。

 浦上天主堂の被爆の遺構が昭和33(1958年)年3月、解体撤去された後、すぐ新天主堂の建設が着工された。翌年の昭和34年(1959年)10月、新しい浦上天主堂が完成した。

 私は、被爆の遺構は廃墟のまま保存しておいてほしかったと思う。新聖堂建設のために跡地が必要だったならば、敷地の端に移動してでも保存する方法を考えていただきたかったと思っている。

 3月10日東京大空襲、8月6日広島、9日長崎への原子爆弾投下による非戦闘員に対する無差別攻撃、大量破壊兵器の使用によって米軍は日本人の皆殺しを謀っていたのではないかと思うことがある。
 紀元前の部族間の争いで、敵対する部族の土地を焦土に変え、住民を皆殺しにする。15世紀半ばから17世紀半ばまでの大航海時代
原住民を虐殺し、その地の文明を破壊することはあっただろう。
 そのような蛮行と残虐な行為が近代の戦争においても行われたことの歴史の証人として、人類を滅ぼす核兵器の抑止力として、放射能と熱線で黒く焼け焦げた聖人の像とともに、爆風で崩壊した聖堂の遺構の壁を残しておくべきだったと思う。

 廃墟になってもなお神々しさを残していた被爆の遺構を、写真ではなく実際に見学したかったと思っている。


 被爆遺構の保存を訴える声は、原子爆弾投下2ヶ月後の10月の早い時期から起こっていたが、それとほぼ同じ時期に新天主堂再建も検討されていた。
 昭和30年(1955年)5月に、カトリック長崎大司教区の当時の司教が渡米し、各地の教会を訪問して新天主堂再建のための募金活動を行った。翌年2月に帰国した司教は、被爆遺構を解体撤去することを説明した。

 当初保存に前向きだった当時の長崎市長も昭和30年12月に渡米し、1ヶ月後に帰国の後は、解体撤去に方針を転換した。
 若手議員の「私たちはあれを憎しみの印として残そうといっておるのではないのであります。あくまでも私はこの戦争の愚かしさを知らしめ、心の十字架として残そうと、残すほうがいいのではないかとこういうふうに考えておるのであります」という気迫に満ちた訴えにも拘らず、市長は昭和33年(1958年)2月の臨時市議会で被爆遺構の解体撤去を発表した。

 司教にしても市長にしても、アメリカで何を話し合ったのだろうか。

 保存から一転して解体撤去に決定された経緯については、昭和30年に長崎市に生まれたジャーナリスト・高瀬毅(たかせつよし)氏の 『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平成21年発行)に詳細に記されている。
 高瀬氏は、関連する公式文書を徹底的に調べ、当時の関係者に会って話を聞く。国内の調査において不可解で空白な部分を解明するためにアメリカへ行き、国立第二公文書館へ通い、関連する資料を閲覧する。アメリカでも当時の関係者に精力的に会って質問し、話を聞く。

 『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』の詳細をここで述べることはできない。
 主な内容は、アメリカは浦上天主堂の被爆遺構を解体撤去するように強要したことはない。しかし、巧みに誘導して、自発的に解体撤去するように仕向けたと思われる。しかも、この取り組みは早い時期から綿密に準備されていたようである。天主堂再建と被爆遺構の解体撤去をセットにするというアメリカの目論見通りに日本側が動いてくれたのである。

 司教の渡米について、一部引用する。司教、市長の氏名は伏せる。


 「54年7月、『浦上天主堂再建委員会』が発足する。(中略)委員会では設計図に基づいて計画書を作成した。建築様式は鉄筋コンクリート造り。建坪400坪。総工費は6、000万円。
 問題は建設資金だった。どう見積もっても信徒たちから寄付などで集められるのは3、000万円が限度だということが分かった。残りの資金をどうするか。そこで考えたのが、司教が米国に渡り、再建資金を信者以外から集めることだった。

 浦上にあるカトリックセンター発行の新聞『カトリック教報』に、当時の司教の渡米報告が載っている。55年5月から56年2月まで約十か月間、全米とカナダを回り、随時送っていたものである。

 それによると、司教は、米国・ウィラノヴァ大学(聖オウグスチノ会経営)から名誉博士号の学位を贈られるにあたって渡米し、贈呈式に臨むとあった。名誉博士号贈呈の理由は、『日本最初の邦人教区である長崎教区の管理司牧に尽くされた功績と、日本の宗教・文化や、原爆長崎の精神的復興に寄与された貢献によるもの』だ。しかし本当の理由は、教区の仕事で渡米する必要に迫られていたためだった。『必要に迫られた教区の仕事』というのは天主堂再建のための資金集めのことだと思われる。」


 これだけの文章で、二つの疑問が浮かんでくる。一つ目は、原子爆弾で倒壊された天主堂を再建するための寄付金を原子爆弾を投下した国に募るという発想である。加害者だから寄付金を出すのは当然だ、それくらいはやってくれるだろう、と思ってなかったのか。また、被爆の遺構が強力なカードになると思うことはなかったのか。
 二つ目は、名誉博士号の贈呈である。唐突な印象を受ける。贈呈の理由も無理に取って付けたような不自然なものである。アメリカのあざとい戦略だと思ってしまう。

 司教が渡米した翌年の昭和31年8月に市長も渡米する。これについても一部引用する。


 「55年、米国からある話が長崎市に持ち込まれた。セントポール市との姉妹都市提携を結ばないかという申し入れだった。あとから考えれば、浦上天主堂の廃墟を撤去する方向へと、市長が考えを変えていくきっかけとなったのが、この提携話だった。」

 「私は、セントポールと長崎が姉妹都市として日本初というのは、この取材に取り組むようになって初めて知ったが、おそらく、長崎の市民にもあまりそうしたことは知られていないのではないかと思う。全国に諸外国との姉妹都市が当たり前のようにある現代からみればなんということもない話だが、日本で初めてというところに引っかかるものがあった。」

 「市長渡米までの、一連の動きを報道した『長崎日日新聞』など地元紙の記事がある。(中略)
 セントポール市はカトリック色の強い都市で原爆の洗礼を受けた長崎の天主堂の再建に深い関心を寄せているといわれ、縁結びとともに建設の資金の援助も行うものと期待されている」


 戦後10年経ったばかりで、まだ被爆の傷跡も生々しいときに、戦争に勝った国の都市が負けた国の都市に姉妹都市提携を申し入れることも違和感を覚える。しかも、「セントポール市議会議決書」によると、セントポール市が長崎市との姉妹都市提携の承認を議決した日付は1955年12月7日になっている。12月7日は、日本の日付では12月8日である。12月8日は、日本が真珠湾を奇襲攻撃した日である。
 アメリカは飴と鞭を使い分けて姉妹都市提携を申し入れてきたのである。

 司教も市長も行く先々でおおぜいの人たちに出迎えられ、大歓迎を受ける。歓迎へのお礼の挨拶が、アメリカが満足する挨拶になるのは当然だろう。

 司教の発言について一部引用する。


 「長崎と姉妹都市関係を結んだセントポール市の地元紙だった。その中に、司教が、セントポールを訪れた時の記事があったのだ。
 『セントポール・サンデー・パイオニア・プレス』という新聞で、司教の写真入りだった。(中略)

 記事には、『32年前ローマで司祭となった司教(62)は、破壊されたカトリックの教会、浦上天主堂を、昔の敷地に再建する資金を集めたいと願っている』とあった。それに関連して司教はこんな発言をしていた。

 『長崎とセントポールが姉妹都市の関係を結んだことにより、再建プロジェクトを進め、残りの爆破の傷跡を消し去ることを望んでいる』」

 「56年5月5日付『ニューヨークタイムズ』。
 『長崎に新しい大聖堂を』
という見出しがついている。記事の一部を紹介してみる。

 『多くの日本人が、比率でいくと最大のクリスチャンコミュニティーのある長崎を原爆が襲ったことに対し、皮肉を感じている』と長崎司教区の司教が振り返った。

 『しかし、カトリック教徒は、この試練を、戦争を終わらせるための殉死とみなし、罪に対しての神の最後の鎮静だと考える』と述べた。
 『私たちは、広島で日本人が受けた犠牲は神の前では十分ではなかったのだと感じている』

 原爆をどう受け止めているか、司教は明確に語っていた。(中略)
 広島の犠牲だけでは神の前では十分ではなかったとまで言い切っていた。司教の発言は、長崎の信徒たちの原爆観を広島の犠牲者にまで敷衍(ふえん)するものだった。広島の被爆者がこれを聞いたら何と思うだろうか。原爆を正当化する米国人の考えを容認し、助けるものと言わざるを得なかった。」


 司教は、アメリカ人の前では優等生的な発言を繰り返し、宗教家の独善性で長崎の被爆者のみならず広島の被爆者もないがしろにしているのである。

 市長の発言についても一部引用する。


 「米国を代表する雑誌『TIME』62年5月18日の号。(中略)市長の発言を紹介している部分だった。

 「長崎市長を長く務め、原爆で自宅を破壊された市長は、住民は米国に対して苦痛を感じていないという。『もし日本が似たような武器を所持していたとしたら、同じように使っていただろう』」

 住民というのは、おそらく長崎市民のことだろう。長崎市民が苦痛を感じていない、というのはどういうことなのか。なにをもってそう判断できるのか。記事にはいつのインタビューか書いていないので時期が分からないが、雑誌の発売に最も近いと仮定しても62年。まだそれほど豊かとはいえないまでも、被爆の傷跡は表向きはほとんど消えていたことは確かだろう。しかし、多くの被爆者たちは、被爆による放射能の障害で苦しんでいた。そうした人たちへの配慮や想像力はこのコメントからうかがうことはできなかった。(中略)

 このコメントは市長が『いつ』『どこで』『誰に』向かって語ったものなのか、まったくわからなかった。『TIME』の記事に、唐突に出てくるのである。記事の筆者も不明だ。もし、この記事通りに市長がコメントしていたとしたら、その場所は日本ではないのではないか。こんなことを日本で、被爆都市長崎の市長が語ったら、猛烈な批判にさらされるだろう。

 とすれば、市長の当時の海外渡航はアメリカしかなかった。渡米したとき、市長は『TIME』のインタビューを受けたのか。あるいは、『TIME』がどこかの新聞の取材記事の一部を引用したのかもしれない。」


 市長は被爆者の苦痛を理解してなかったのではないか。訪米中、被爆者を軽んずるような発言があり、アメリカが喜ぶ言葉を並べる。それに姉妹都市提携と各都市の視察と称して1ヶ月も留守にする。その長期の旅行にかかった費用は、同行した秘書の分も合わせると相当多額なものになっただろう。
 とりわけ、市長が初選出された昭和26年(1951年)に起工し、昭和30年8月8日に完成した巨大な
平和祈念像の製作費用は3千万円、土台の費用は2千万円、合計5千万円を費やしている。製作費用3千万円は国内外の寄付金を当てて、土台の2千万円は市の予算となっているが、当時としては途方もない莫大な金額である。税金の使い途の優先順位が不可解である。
 因みに、被爆者援護法が施行されたのは、平和祈念像が建立されてから2年後の昭和32年(1957年)である。

 平和祈念像は、爆心地から道路を隔てた丘の上の平和公園内に建っている。旧浦上刑務所(旧長崎刑務所浦上刑務支所)の跡地である。平和祈念像の高さは9、7m。台座の高さは3、9mの巨大な像である。
 制作者は彫刻家・
北村西望(きたむらせいぼう)(1884~1987)。北村西望は明治17年、現在の南島原市(長崎県)に生まれる。昭和33年(1958年)文化勲章を受章する。

 詩人・福田須磨子(ふくだすまこ)(1922~1974)は大正11年、長崎市に生まれる。生家は果物屋を営んでいた。女学校卒業後、勤めに出る。昭和17年(1942年)、短歌結社誌・「アララギ」に入会する。
 原子爆弾投下時、勤務していた長崎師範学校現・長崎大学教育学部)で被爆する。長崎師範学校は爆心地から1、8キロの距離にあった。爆心地から600mの距離の生家にいた両親と姉は亡くなった。

 翌年の昭和21年(1946年)、高熱、倦怠感、脱毛の症状が現れる。昭和30年、難病に指定されている紅斑症(こうはんしょう)を発症する。この頃から入退院を繰り返す。生活の困窮と体の不調を抱えて詩作を続けた。

 昭和30年8月、平和祈念像完成に寄せて、詩・「ひとりごと」を朝日新聞に発表する。「ひとりごと」は、被爆者の大多数の思いを代弁したものと思う。
 「ひとりごと」の全文を記す。


     何もかも いやになりました
     原子野に屹立する巨大な平和像
     それはいい それはいいけど
     そのお金で 何とかならなかったのかしら
     “石の像は食えぬし腹の足しにはならぬ”
     さもしいといって下さいますな
     原爆後十年をぎりぎりに生きる
     被災者の偽らぬ心境です

     ああ 今年の私には気力がないのです
     平和! 平和! もうききあきました
     いくらどなったって叫んだとて
     深い空に消えてしまうような頼りなさ
     何等の反応すら見出せぬ焦燥に
     すっかり疲れてしまいました
     ごらん 原子砲がそこに届いている

     何もかも いやになりました
     皆が騒げば騒ぐほど心は虚しい
     今までは 焼け死んだ父さん母さん姉さんが
     むごたらしくて可哀想で
     泣いてばかりいたけど
     今では幸福かも知れないと思う
     生きる不安と苦しさと
     そんなこと知らないだけでも・・・・・・

     ああ こんなじゃいけないと  
     自分を鞭
打つのだけど・・・・・・


 長崎駅の駅前からバスに乗る。バスは長崎本線の線路を左手に見ながら走る。15分ほど乗っていると松山町に入る。右手に公園が見えてくる。この公園の中央に原子爆弾落下中心碑が置かれている。ここが爆心地である。
 中心碑の近くに、浦上天主堂の被爆遺構だった南側遺壁の一部高さ13m、幅3mが移築されている。あまりにも小規模なために、これを見ても何の感慨も湧かないし、想像も浮かばない。単に爆心地を示す目印にしか見えない。

 この公園の近くに長崎原爆資料館が建っている。今から10年前の平成20年12月に長崎へ旅行したとき資料館を訪ねた。
 現在の長崎は原子爆弾投下があったことを思い起こさせるものは殆ど見当たらないが、原爆資料館の館内の被爆に関する展示物を一つ一つ見ていると、紛れもなく原子爆弾が投下されたことを思い知らされる。
 熱線で溶けてガラスの塊になったビール瓶、軒下の物干し竿の影が熱線によって雨戸に焼き付けられた写真、熱線を受けた部分が沸騰して泡立ち、発泡状の痕跡を残した瓦などを見ていると熱線の高温の凄まじさに緊張する。

 映像評論家・渡辺浩(わたなべゆたか)氏は昭和5年(1930年)、長崎市に生まれる。昭和20年8月9日被爆する。中学3年生で15歳だった。空中で炸裂した光球(こうきゅう)と熱と爆風の記憶が年齢とともに薄れてきているので、原子爆弾について書いておくことを思い、平成14年、岩波書店から『15歳のナガサキ原爆』(岩波ジュニア新書)を出版した。
 渡辺氏が被爆した年齢の15歳と同じ世代に向けて書かれたようだが、8月9日を中心にして、その前後の中学生の日常生活を丁寧に著している。配属将校による教練、軍需工場での勤労動員など戦時中の旧制中学生の様子が分かりやすく説明されている。
 後半に、写真家・
山端庸介(やまはたようすけ)(1917~1966)と作家・火野葦平(ひのあしへい)(1907~1960)についての記述がある。その一部を引用する。


 「山端庸介は西部軍報道部(日本本土は軍の作戦に便利な区画に分けられていた。九州は西部軍管区)に徴用されていた報道写真家でした。9日午後、長崎にいって被爆の様子を撮れと命令され、詩人の東潤、画家山田栄二の3人と下士官2人で、福岡から列車を乗りつぎ、12時間かかって10日午前3時ごろ、道の尾に着きました。それから火の中をくぐって、長崎公園そばの長崎地区憲兵隊本部へ直行します。そこで撮影許可をもらい、夜明けを待ち、10日午前6時、当時の県道(現・国道206号線)を北上して道の尾にもどるかたちで、憲兵隊本部から撮影を開始します。(中略)

 広島・長崎を合わせても、原爆投下後24時間内に、被爆した人々の姿をプロの報道写真家で撮ったのは、山端だけでしょう。敗戦後、西部軍解体時に、写真の焼却を命令されますが、やはり西部軍報道部に徴用されていた九州出身の作家火野葦平に『山端君の原爆写真はアメリカの非人道的な残虐行為を証明する貴重な資料だから、ぜひ残しておくよう勧めます』と助言され、隠しとおす決心をしました。

 山端は、『原爆で死んでいった人たちのことを考えると、写真について自分がやたらに語ることは、死者への冒瀆になる』といい、終生、長崎での体験は話しませんでした。」

 「山端の写真を見て、現実はもっとひどかったという人もいます。確かに、そういう思いもあります。一つは時間的制約で、道の尾までの県道からそれて、あまり深入りできなかったという理由もあるでしょう。もう一つには、冷静に被爆者の実態を撮ろうとしていても、シャッターを押すに忍びない情景を見てしまったのかも知れません。

 火野葦平は、長崎から帰った3人が『不思議な憔悴をしていた。・・・・・・すさまじい精神の衝撃によって神経の組織を変えられてしまったような、一種狂気の様相さえ帯びていた』といっています。」


 山端庸介の多くの写真の中に、8月10日の昼過ぎ、爆心地から南700m付近を撮った写真がある。一面の焦土の中に残っている道を人が歩いている。粉塵のためか画質はぼんやりとしている。
 前日午後4時頃に黒い雨が降ったことが記録されている。雨に濡れた粉塵の匂いと早くも漂っていたであろう死臭の中を歩いている人たちは、昨日帰らなかった家族を探して歩いていたのだろうか。焼き尽くされた街を歩いていると、家族が生きていることは万に一つの可能性もないということが確信になっただろう。せめて、遺体や遺骨を持って帰りたいと思って歩いていたのだろうか。
 この光景は地震や噴火の自然災害ではない。人間はこういう恐ろしいことも仕出かすことを教えている。

 10日の午後3時頃、爆心地から北へ約2キロ付近の民家の中から撮った写真がある。
 暗い家の中から撮っているからか、外の明るさが際立って、晴れ渡った夏空が想像される。
 縁側で、小学校1年生くらいの少年が、顔をやや左側に、部屋に向けて腹ばいになっている。暑い夏の午後、涼しい縁側で昼寝をしているようである。
 写真をよく見ると、手前に写っている部屋の畳が全て剥がれている。雨どいが壊れてぶら下がっている。台風が去った後のように庭が荒れている。家の中に人の気配がない。家の中も外も静寂の中にある。
 少年は昼寝をしているのではなく、死んでいる。


 平成17年8月11日号『週刊新潮』に『封印されていた「原爆の記録」』と題されて、文章と未公開の写真が掲載された。

 広島の爆心地となった元安川・相生橋周辺の一面の焼け野原の写真が載っている。
 広島と同じように、長崎の街にも白骨が散らばっている。浦上天主堂の写真がある。瓦礫の山に、鐘楼の大きなドームの屋根が落下している。

 文章の一部を引用する。


 「ここにある写真はすべて、1945年9月、当時の文部省によって組織された『原子爆弾災害調査研究特別委員会』、その応用物理担当の調査班によって撮影されたものである。
 原子爆弾の爆発地点とその高度、被爆熱線温度などを調べるために編成された調査班ー東京大学の真島正市教授を班長に、菅義夫、筒井俊正両助教授、二瓶禎二、加賀美幾三両助手(肩書はいずれも当時)の5名は、被爆から1ヶ月後の9月6日朝、東京駅を発った。

 夜行列車で一昼夜。広島に着いた調査班一行が目にしたのは、1ヶ月を経てなお、生々しい傷跡を残す広島の惨状だった。

 現在86歳になる二瓶禎二氏が60年前の出来事を振りかえる。(注・年齢は平成17年当時のものである)

 『主要道路はある程度片付けられていましたが、街のあちこちには、まだ骸骨がごろごろと放置されており、けが人はまるで打ち捨てられた死者のように、汚れたまま莚の上に横たわっていました。とてもこの世の光景とは思えませんでした』

 そんな中で調査班は建物や墓石のズレや焼付いた熱線の跡を分析。そこから正確な爆心の位置を割り出した。
 広島産業奨励館(原爆ドーム)付近、高度約600m。そこで炸裂した原子爆弾は、瞬間、100万度の火球となり、広島の街を焼き尽くしたのである。
 5日間の広島滞在後、調査班は長崎に向かった。

 『長崎市内の小学校の板塀に子供の影だけがくっきり残っているのを見ました。今でも忘れることが出来ません』(二瓶氏)

 その後、調査結果は綿密に分析されたが、その内容は公になることはなかった。GHQの通達により、研究者が自らの意思で発表することを禁止。資料の多くは研究者の手許で眠り続けることを余儀なくされたのである。

 そして、60年、二瓶氏は資料の公開に踏み切った。2度と自分と同じ調査に携わる人たちが出ないようにと・・・・・・。
 今夏、別の班員が遺した写真も含め、これら原爆の記録は日本の写真家たちで作られた『反核・写真運動』(1982年3月発足)のメンバーに託され、デジタル化、永久に保存されることになった。」






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