43 名建築を訪ねるー11  ドイツ表現主義とバウハウスの作品 


・平成31年3月26日(火)  高輪消防署二本榎出張所


高輪消防署二本榎出張所


 二つの通りが交差する十字路の角に、灯台のような円筒形の望楼が聳える消防署が建っている。高輪(たかなわ)消防署二本榎(にほんえのき)出張所である。
 昭和8年(1933年)建築、鉄筋コンクリート造3階建。3階の円形の講堂を中心とした建物である。設計は警視庁総監会計営繕係。
曲線と曲面をモティーフにしたドイツ表現主義のデザインを用いている。ドイツ表現主義のデザインは20世紀初頭から世界中に流行した。
 高輪消防署二本榎出張所は今も現役の消防署である。平成22年3月、東京都選定歴史的建造物に選定された。

 通りの角に出入り口を設けている鉄筋コンクリートのビルは子供の頃はよく見たが、現在は少なくなっているので、角が出入り口の建物を見ると懐かしくなる。
 高輪消防署二本榎出張所は以前に見学したことがあるが、今日、また見学のために訪ねた。(注・見学は事前の電話予約が必要)

 現代は火災発生時には電話で通報するが、電話が普及されてなかった時代、消防署は火事を発見する任務も担っていた。そのため消防署は火の見櫓(やぐら)を受け継ぐ望楼を必要としていた。
 この場所は、地形では尾根道に当たり、海抜25mの高台である。その上に建つ望楼の高さは21mだから建築当時は東京中を見渡すことができた。
しかし、時代が進むに連れて増えた高いビルやマンションが視界を遮り、望楼の役目を果たせなくなった。昭和46年(1971年)、望楼の見張り勤務は廃止された。

 若い消防隊員が案内してくださった。
 1階から2階まで
灯台のようにカーブしている急勾配の細い階段を上がる。階段の床と腰壁は、大理石とセメントを練って固めたものを研磨した研ぎ出し仕上げである。滑らかで、重厚な雰囲気がある。


階段


2階から3階への階段


 2階に、「すべり棒」を使う際の入り口があったが、扉が閉められていた。鍵がかけられていたようだった。
 「すべり棒」は、1階の天井と2階の床を開け、1階から2階を通して垂直に固定した鉄棒である。消防隊員が出動のとき、2階から鉄棒を掴んで滑り降りて1階へ着地する。
 消防隊員のお話では、現在、「すべり棒」は使ってない、ということである。
 出動に一刻も早くということで「すべり棒」を過去に使っていた。階段を降りるよりも「すべり棒」を使った方が若干早く降りることができたが、「すべり棒」は一人づつしか使えないし、降下時の鉄棒の摩擦により掌に火傷をすることがあったことが「すべり棒」を使わなくなった理由である、というお話だった。

 小学生のとき担任の教師の引率で消防署を見学したことがある。そのとき、10人ほどの消防隊員が「すべり棒」を使った出動の実技を見せてくれた。
 隊員が「すべり棒」を使ってドンと1階に着地して、パッとその場を離れる。すぐ次の隊員が着地する。隊員の方々が次々に切れ目なく着地する素早い動作をみんな目を丸くして見ていた。

 3階の講堂は、円形の曲面に10個の半円アーチの窓を設け、天井の中心から8本の梁が放射状に広がっている。力強く躍動感に溢れている。


講堂


 各時代の消防服が展示されていた。戦前の消防服は厚い布で作られている。
 3階に、望楼へ上る鉄梯子がほぼ垂直に立っている。望楼は立ち入り禁止である。

 階段を下りて車庫へ案内される。以前使われていたポンプ車を見せていただいた。昭和10年(1935年)頃に配置され、戦後もしばらく使われていたという説明だった。現在は展示品となっているが、現役の消防車と同じくこのポンプ車もピカピカに磨かれていた。


旧ポンプ車


 案内していただいた隊員の方も、受付におられた方も丁寧に応対してくださった。ありがとうございました。

 平成3年に刊行された読売新聞社発行の『東京建築懐古録Ⅲ』に高輪消防署二本榎出張所が紹介されている。その中に次の記述がある。

 「戦時中、望楼が空爆の目標にされるという陸軍の命令で、周囲の家が取り壊され、消防署の外壁にも、目立たないように群青色のペンキや墨が塗られた。戦後洗い落とされたが、玄関わきの御影石の外壁には、いまも墨の跡がかすかに残っている。」

 玄関の右側脇の御影石に、確かに墨の跡と思われるものが残っている。


墨の跡



 東京都港区高輪2-6-17
 JR品川駅
 地下鉄南北線 都営地下鉄三田線 白金高輪駅
 都営地下鉄浅草線 高輪台駅 泉岳寺駅下車


・同年3月27日(水)  NTT千住ビル(旧NTT足立電話局)


NTT千住ビル(旧NTT足立電話局)


 昭和4年(1929年)建築、鉄筋コンクリート造2階建の重厚なビルが建っている。このビルも二つの通りが交差する十字路の角に建ち、角に出入り口を設けている。ドイツ表現主義のデザインである。
 設計者は
山田守(1894~1966)。山田守は、京都タワー日本武道館聖橋(ひじりばし)他を設計している(聖橋について、目次18、平成26年10月4日参照)。

 屋上の建物は後に会議室として増築されたものである。
 このビルは、以前はNTT足立電話局だったが、平成14年3月廃止になり、現在はNTT千住ビルと改称し、NTT東日本東京支店営業企画部の業務を行っている。

 建物の角も全て丸みを帯びている。
 1階は朽葉色のスクラッチタイルを使用し、2階はオフホワイトの壁の間に連続する縦長の窓を設け、辺りに落ち着きと風格を漂わせている。



車の出入り口


 東京都足立区千住中居町15-1
 JR常磐線 地下鉄千代田線 日比谷線 つくばエクスプレス 北千住駅下車


・同年3月28日(木)  常盤台写真場


都立小金井公園


 都立小金井公園内に武蔵野郷土館があった。江戸時代から昭和までの、江戸、東京に存在していて、建築学的、歴史的に価値あるものと認められた建物が、野外に移築保存されていた。
 初めて行ったのは今から35年ほど前だったが、当時保存されていた建物は僅か6棟だけだった。

 平成5年、同じ場所に、江戸東京博物館の分館として、敷地面積7haを擁する「江戸東京たてもの園」が開設された。「江戸東京たてもの園」は、武蔵野郷土館の業務と資料を引き継いだ。
 移築保存される建物が増えて、現在30棟の建物が保存されている。昭和11年(1936年)の2、26事件の現場になった
高橋是清(たかはしこれきよ)(1854~1936)の邸も移築保存されている
 以前は「江戸東京たてもの園」へはよく足を運んだが、最近は行くこともなくなった。最後に行ったのは、今から6年前の平成25年11月2日、デ・ラランデ邸を見学したときである(デ・ラランデ邸について、目次13参照)。

 小金井公園の中を歩いて「江戸東京たてもの園」へ行く。小金井公園は桜の名所である。桜は満開に近い。人が集まり、花の下にブルーのシートを広げて花見の準備をしている。

 昭和10年(1935年)、東武東上線武蔵常盤駅(現・ときわ台駅)が開業した。常盤台の住宅地は、当時郊外であった地を、駅の開業と共に東武鉄道が開発した分譲住宅地である。
 サラリーマンが空気のきれいな郊外に住み、健康的な生活を送ることを薦め、「健康住宅地」として売り出した。
 内務省都市計画課の提唱に従って、楕円形の環状道路に、駅前から延びる3本の放射状の道路を組み合わせる。駅前広場、公園を設置し、電気、ガス、水道、暗渠(あんきょ)式の下水道を完備した。
 また、土地の分譲だけではなく、当時流行していた文化住宅の建て売りも行った。文化住宅は、玄関脇の右か左かのどちらかに洋風の部屋を造り、応接間にした住居である。板張りの床にテーブルと椅子を置き、蓄音機を備え、電気ストーブなどの電気製品を揃えた。

 常盤台は田園調布や国立のように計画的な町づくりを行い、美しい街並みを形成した(国立については、目次18、平成26年11月22日、目次36、平成29年10月8日参照)。

 40年ほど前に、ときわ台駅に降りたことがある。
 半円形の広い駅前広場から3本の道路が放射状に伸びている。道路も幅広い。広い駅前広場と広い道路は、大正12年(1923年)9月1日に発生した
関東大震災を教訓にして、災害時、人が滞ることなくスムーズに動けるように配慮して設計されたものと考える。
 道路にはプラタナスの並木が続く。駅の近くから住居地域が始まり、2階建ての入母屋造りの広壮な邸宅が建ち並ぶ。整然とした美しい街並みを歩いて、常盤台が戦前、「お屋敷町」と呼ばれていたことを思い出した。
 

 駅の近く、現在の板橋区常盤台に、昭和12年(1937年)、木造モルタル2階建ての常盤台写真場(ときわだいしゃしんじょう)が建てられた。「写真館」ではなく「写真場」という名称に戦前の時代を感じさせる。
 常盤台写真場は、平成9年、「江戸東京たてもの園」に移築され、復元された。解体された跡地に、現在、ときわ台写真場が建てられている。子孫の方が営業されておられるのだろうか、伝統を引き継いで名称は「写真場」になっている。


常盤台写真場


 常盤台写真場は、左右非対称の建物である。屋内を明るくするために、写真場の北側は大部分がガラス張りになっている。


写真場 北側


 中へ入る。玄関を入って突き当たりに木製のカウンターがある。受付である。玄関の右側は洋風の応接室である。
 左側は書生室となっている。スペースは2畳ほどの狭い部屋である。住み込みの助手がここで寝起きしていたのだろう。2畳だったら夜、布団を敷くと部屋全部が塞がってしまう。
 50代くらいの男性の案内係がおられたので、「狭いですね」と話したら、「住み込みの店員の部屋はこんなものですよ。女中さんの部屋だって、みんな2畳だったんですよ」と言われた。
 3食付きで仕事を教えてもらう代わりに、写真場の内外の掃除、使い走り、家事手伝い、親方の子供や年寄りが居ればその人たちの世話など1日中動き回っていたんだろうな、と思った。
 「住み込みの奉公人の休みは年に2日の藪入りだけだったですからね」と男性が話した。

 書生室の端は現在エレベーター室になっている。このエレベーター室は元は押し入れだった場所です、と説明があった。

 1階の部屋を見学する。南側に面して、居間、老人室、子供室が並んでいる。居間と老人室は和室の造りであり、それぞれに掃き出し窓が設けられている。
 居間、老人室それぞれに隣の北側の部屋の境に回転式のガラス欄間が設けられている。夏、南側の暑い空気を北側に通し、北側の窓から入る涼しい風を取り込むための通風を考慮して設けられたことが分かる。

 子供室の床は板張りになっている。南側に面してカウンターのような作り付けの長い机を設け、椅子が四つ並べられている。足元には掃き出し窓が設けられているが、南側の一辺全部を開けている。掃き出し窓の用途の他に通風のために造られたのだろう。

 北側に面して、暗室、食堂、台所、勝手口を挟んで浴室が並んでいる。
 暗室は扉が閉められていた。食堂、台所の床は板張りになっている。食堂はテーブルが置かれて、ここも椅子が四つ置かれていた。北側は窓が多いので食堂も台所も明るい。

 2階へ上がる。階段を上がった正面に仕度室がある。
 左手に写場(スタジオ)がある。天井が高い。
 


写場(スタジオ)


 写場北側の壁面はガラス張りになっている。更にトップライト(天窓)を設けている。


ガラス張りとトップライト(天窓)


 三段にセットされているスタジオライトを使用していたが、当時の電力事情では満足な光量を得られなかったので自然光を採り込む必要があった。それも南側だと光の強さが時間によって変化するので窓とトップライトは北側に造る。また、光のムラを避けるためにガラスは透明ではなく、摺りガラスにする。室内全体が柔らかい明るさに満たされた。


スタジオライト


 昭和12年、日中戦争が始まり、昭和20年(1945年)8月15日の終戦まで長い戦争があった。
 戦時下、出征兵士を送る家族や、戦地に赴いた夫へ送る慰問袋に入れるために妻が子供を連れて写真を撮りに来ただろう。
 住み込みの奉公人が故郷の親に元気で働いていることを知らせようとして仕事着のままで写真を撮ってもらったり、遠方から訪ねて来た友人が明日は帰るので記念の写真を撮りに来たこともあったと思う。

  写場で一緒に写真を撮った息子や父が戦死した家族も珍しくなかったに違いない。常盤台写真場は数えきれないほどの客の人生を記録してきた。

 写真場北側の壁の大部分を占めるガラス張りと、ガラス張りに連続したトップライトを見たとき、常盤台写真場は、ドイツ表現主義よりも少し時代が進んだバウハウスの影響を受けたデザインではないかと思った。

 今から100年前の1919年、ドイツのワイマールに、建築家・ヴァルター・グロピウス(1883~1969)が美術と建築に関する総合的な教育を行った学校と研究所を創設した。バウハウスである。バウハウスの目的は、職人的伝統と芸術的探究を一つにする試みだった。教師を、親方を意味するマイスターと呼んだ。
 ここで興されたバウハウス運動は世界中を席巻し、美術と建築に大きな影響を与えた。バウハウスは装飾を排し、幾何学的で、機能的、合理的なデザインを追求した。建築技術として、コンクリート、ガラス、鉄筋などの近代的素材を積極的に活用した。

 1932年、選挙によってアドルフ・ヒトラー(1889~1945)を指導者とする国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、ドイツの第一党となった。いわゆる第三帝国が始まった。ナチスは独裁体制を強化して、国内の全てを支配した。
 古典主義を最高の価値とする第三帝国は、ウィーン分離派、ドイツ表現主義、バウハウスを退廃芸術と断定し、それらを抑圧し、建築家と芸術家を弾圧した。
 ワイマールから1925年、デッサウに移転したバウハウスは、1932年、更にベルリンに移転した。バウハウスは再開したが、翌年の1933年、
閉鎖を余儀なくされた。

 1919年に創設されたバウハウスは、創設者であり、初代校長であった建築家・ヴァルター・グロピウス、第2代校長のスイス人建築家・ハンネス・マイヤー(1889~1954)、第3代校長の建築家・ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969)、ロシア人画家・ヴァシリー・カンディンスキー(1866~1944)及びスイス人画家・パウル・クレー(1879~1940)他高名な建築家、芸術家が教鞭をとるという錚々たる教師陣を擁したが、僅か14年で永久に閉鎖されることになった。

 批判された建築家と芸術家は国外へ移住又は亡命する。
 グロピウスは、1934年、イギリスに亡命する。1937年、アメリカのハーバード大学デザイン大学院の建築教授に任命される。それを機にアメリカに移住する。1938年、ハーバード大学建築学科長に任命される。教鞭をとる傍ら設計事務所を開設し、活躍の場を広げる。建築家・ミース・ファン・デル・ローエもアメリカに亡命する。

 バウハウスとグロピウスの作品を年代順に作品集で見る。建物は、これまで存在しなかったような明るく、軽快なものであるが、一方、機能的、合理的なものを追求するあまり、住居であるのに素っ気(そっけ)なく、寒々として、倉庫にしか見えない箱のような建物もある。それが時代とともに幾何学的な美しさが加わって洗練されてくる。

 グロピウスが他の建築家と共同設計したパンナム航空ビル(現・メットライフビル)が、5年の工期を経て1963年、ニューヨークのマンハッタンに完成した。地上59階、高さ246mの壮大な超高層ビルである。ビルの2ヶ所に水平のアクセントを設け、ビルのコーナー4ヶ所を傾斜させたビルである。

 ミース・ファン・デル・ローエは、パンナム航空ビルの完成よりも5年前の1958年、ニューヨークに竣工したシーグラム・ビルディングを他の建築家と共同設計した。地上38階、高さ156、97mの美しい超高層ビルである。
 異なった素材を組み合わせることによって美しいビルが生み出された。後に続く美しい超高層ビルの先駆けとなった記念すべきビルだと思う。
 ミース・ファン・デル・ローエは、1920年代頃から鉄、ガラス、大理石を使った建物を設計した。第二次世界大戦後、ミース・ファン・デル・ローエの設計する建物は一層美しさを増した。それは明るく、端正で気品のあるものだった。

 現代建築の美しいビルや超高層ビル、身の回りにある美しい造形は、バウハウスの影響を受けていることが多いと思う。

 計画的な町づくりを行った常盤台に、流行の先端を行くバウハウスの影響を受けた常盤台写真場が建てられたことは、新しい時代の到来を感じさせるものだったと思う。撮影を依頼する客の中には、常盤台写真場が最新の機器を使用して最新の技術によって写真を撮ってくれると思った者もいたのではないかと想像する。
 内部の造りは二分されていて、家族の団欒の場や、老人が過ごす部屋は和室の造りで寛げるように、仕事をする場所や食堂は洋風の造りにして活動しやすいように配慮されている。

 案内係の男性に設計者のことを伺った。
 男性のお話では、設計者は
則松晧一(のりまつこういち)(生没年不詳)という建築家で、千葉銀行本店を設計しています。現在の千葉銀行本店の建物は、その後、建て替えられたものですし、その他は、仕事のことも含めて何も分からないんです、ということだった。
 仕事とプライベートの部屋がバランス良く区別されていますね、と私が話したら、施主の希望をよく聞いて設計されたようですよ、と教えていただいた。
 当時流行していた建築デザインについて建築家の提案があったと思うが、常盤台写真場の主人も、暗箱とレンズの新製品や、撮影や加工の新しい技術やセンスについて日頃から研究を怠らず、それと同じような熱心さで写真館の建築などの流行にも敏感だったのではないかと思う。

 案内係の男性は、私の質問に丁寧に説明してくださった。ありがとうございました。


 東京都小金井市桜町3-7-1 都立小金井公園内 江戸東京たてもの園
 JR中央線武蔵小金井駅下車 バスに乗り換え、停留所「小金井公園西口」で降りる。





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