44 山居倉庫 羽黒山五重塔 杉並木 旧月山登拝道 羽黒山宿坊街(山形県)


・令和元年5月13日(月) 山居倉庫(酒田市) 

 東京駅6時8分発上越新幹線「とき301号」に乗る。新幹線は空いていた。越後湯沢駅を過ぎると車窓から見える上越の山々はまだ雪が残っている。

 新潟駅は、昨年4月、高架駅第一期が開業して新幹線と羽越本線の特急のホームが同じになった。新幹線を降りると、ホームの反対側で待っている羽越本線の特急に乗り換えることができるようになった。しかし、昨年7月、新潟駅に着いたとき、新幹線の扉は特急が待っている側とは反対の右側の扉が開いた。そのため、ホームからエスカレータで下りて、乗り換え改札口を通ってエレベーターを使って羽越本線のホームへ上がった。
 今日、新幹線の車掌に、そのことを話したら、初めに右側の扉を開けて、次に特急が停まっている左側の扉を開けます。一人でやるので同時に開けられないんです、ということだった。

 8時13分、新潟駅に着く。先ほどの説明のとおり右側の扉が開けられ、約1分後に特急が待っている左側の扉が開いた。新潟駅8時22分発羽越本線特急「いなほ1号」に乗り換える。特急は、もっと空いていた。
 村上駅を過ぎて左手に日本海が見えてきた。よく晴れた空の下、美しいライトブルーの海が広がっている。

 10時16分、鶴岡駅に着く。4泊予約している駅の近くのホテルへ行き、荷物を預かってもらう。
 鶴岡駅に戻り、10時51分発酒田駅行きの電車に乗る。11時27分、酒田駅に着く。駅前から11時35分発「湯の浜温泉行」のバスに乗る。約10分乗って、停留所「山居倉庫前」に着く。新井田(にいだ)川に架かる新内橋を渡る。山居倉庫に着く。


山居倉庫


 山居(さんきょ)倉庫は、酒田米穀取引所の米の保管倉庫として明治26年(1893年)に建設された。現在も12棟の内、9棟が現役の米倉庫として使用されている。残りの1棟は庄内米歴史資料館、2棟は酒田市観光物産館として利用されている。

 山居倉庫は、奥の細道を歩いていたとき、今から18年前の平成13年10月8日に初めて訪ねた「奥の細道旅日記」目次11参照)。その後、翌年の平成14年8月15日、鶴岡から酒田まで歩いたとき左手に見て、同じ年の10月12日、酒田から湯の浜温泉まで歩いたとき右手に見た。

 当時、最上川を舟で下って運ばれた米は、いったん新井田川に入り、新井田川の船着場で積み降ろしが行われ、酒田港で積み替えられて近畿地方に出荷された。

 山居倉庫は切妻屋根の土蔵造り、内部の湿気を防止するために二重屋根の構造である。裏側は黒の板壁になっている。裏側は西向きになっているため、日本海からの西風と夏の西日を遮り、倉庫内の温度を一定に保つ目的で欅が植えられた。欅は現在41本残っている。
 欅の並木は大きく枝を広げ、12棟の倉庫の並びに陰を作る。美しい景観である。

 倉庫の周囲をゆっくり回る。昔、舟運の時代に最上川を上り下りしていた小鵜飼船(こうかいぶね)が復元されて展示されていた。


小鵜飼船


 説明板が立っている。一部を記す。


 「小鵜飼船は最上川舟運において物資の輸送をするために作られた船です。慶長6年(1601年)に山形藩主となった最上義光は、難所の開削や河岸の設置によって最上川舟運の整備を図りました。最上川本流に就航する250俵積み4人乗りの『艜船(ひらたぶね)』に対し、この小鵜飼船は支流や船着場間の近距離輸送に使われ、積載量は50俵程度でした。

 最上川の上流松川(現在の米沢市の流域)に小鵜飼船が登場した時代は元禄年間といわれています。長さは約13~15メートル、幅は約2メートルで、前方に帆をかけて風を利用し、舳先がとがった流線型をしているためスピードもあり、川幅の狭い支流では重宝がられました。

 上り船では、塩、砂糖、海産物、木綿、茶など、下り船では、米、紅花、青苧(あおそ)、大豆などが運ばれました。上りには2週間程度、下りは4~5日かかったと伝えられています。」


 バスの停留所に戻る。停留所から秀麗な姿の鳥海山(2、236m)が見えた。今日はよく晴れて、気温も25度を超えて汗ばむほどの陽気になっているが、鳥海山は中腹あたりまでまだ雪が残っている。


・同年5月14日(火) 羽黒山五重塔 杉並木

 朝食後、鶴岡駅前から7時52分発の「羽黒山頂行き」のバスに乗る。バスが30分ほど走ると両側に田畑が広がる。右手の田畑の向こうに、なだらかな山容の月山(1、984m)が見えてきた。月山も中腹までまだ雪が残っている。

 8時30分、停留所「羽黒随神門」に着く。隋神門(ずいしんもん)は元禄8年(1695年)に寄進されたものである。


随神門


 随神門を潜る。ここから羽黒山頂の三神合祭殿の参道である2、446段の石段が始まる。石段は、慶安年間(1648~1652)の前後13年の歳月をかけて築かれた。
 初めに、継子坂(ままこざか)と名付けられた約200段の石段を下る。石段中唯一の下り坂である。両側は杉林になっている。石段の側溝にきれいな水が流れ、杉の木の根元に鮮やかな緑色の羊歯が群生している。

 石段を下り終わって、月山を源流とする祓川(はらいがわ)に架かる朱塗りの神橋(しんきょう)を渡る。橋を渡ると神域に入る。


神橋


 昔、出羽三山に参拝する人たちは祓川で禊を済ませたといわれている。

 平らな道と緩やかな坂の石段を上る。左手に羽黒山で最大、最古の杉の巨木が立っている。爺杉(じじすぎ)と呼ばれている。
 爺杉は、樹齢推定1、000年以上 根周り10、5m 幹周り8、25mである。昭和26年(1951年)、国天然記念物に指定された。かつて対に並んでいた婆杉と呼ばれていた杉の木があったが、明治35年(1902年)の台風で倒れた。

 杉木立の間から杉林の奥に立つ五重塔が見えてきた。石段を登る。杉林が開ける。五重塔が全容を現した。


五重塔


 観光案内所でいただいた説明書によると、五重塔について次のように説明されている。


 「国宝五重塔の建立に関して、慶長13年(1608年)の最上義光が大修復した時の棟札に、『承平年中(931~38)平将門(903~40)建立』とあるが、現在の塔は建築様式から鎌倉・室町時代(1312~1495)と見られる。
 明治時代までは羽黒山の本地仏である聖観世音菩薩を中心に妙見菩薩と軍茶利明王を両脇に安置していたが、維新後は大国主命を祀る。
 高さ29、4m、三間五層の素木造り、屋根は柿葺き。昭和41年(1966年)国宝に指定された。」


 初めて五重塔を拝観したのは今から18年前の平成13年10月7日だった(「奥の細道旅日記」目次11参照)。その後、別の年の秋と平成19年5月4日に拝観した(「奥の細道旅日記」目次35参照)。
 今から5年前の平成26年2月10日、
膝下まで雪に埋まり、降りしきる雪の中で、五重塔を仰ぎ見た目次15参照)。

 初めて五重塔を拝観したとき、日本古来の山岳信仰に則ったものなのか、塗料を塗らない木地のままの材料で造る素木(しらき)造りの飾り気のない五重塔が杉林に囲まれて、静寂の中、600年を超えてひっそりと立つ姿に心を打たれた。
 秋に2回と真冬に拝観したとき、いずれも拝観者は私だけだった。春は拝観者が多かったが、それでも杉の木立に同化して佇む荘厳な姿は変わらなかった。

 ところが、今日は五重塔の横に簡易なテントやチケット売り場が設けられ、拝観者と案内の人たちが五重塔の内部に出入りしている。三神合祭殿再建200年記念事業の一環として「羽黒山五重塔内部特別拝観」を昨年に続いて今年も4月27日から11月30日まで実施している。
 昨日、ホテルへ入る前に鶴岡駅前の観光案内所で五重塔の特別拝観について尋ねた。案内所の職員のお話では、たいへん好評で、昨年は拝観に3時間待ちという日もあったんですよ、ということだった。
 この期間中は、杉林に囲まれて、静寂の中に立つ五重塔の姿を見ることはできない。

 五重塔の右手から羽黒山頂まで上りの石段が始まる。写真ではなかなか表せないが、急斜面の石段もあり、石段が垂直に立ちはだかったように見えることもある。初めて石段を上がったときは、途中、芭蕉が逗留した南谷に寄ったが1時間程で山頂に着いた。その後、歩くのが遅くなり、石段を上がるたびに山頂に着くのに時間がかかるようになった。

 「一の坂」と呼ばれている坂の石段を上る。



 随神門から羽黒山頂までの約1、7キロの参道の両側に立つ杉並木は総数585本以上。樹齢350年から500年、高さ30mを超える。慶長初期(1596年頃)から寛永年間(1624~1645)にかけて、十数年の歳月をかけて植林されたものである。
 昭和30年(1955年)、国特別天然記念物に指定された。
 環境が良いから杉の木はまだ成長しているという説明を伺ったことがある。

 時々立ち止まって周囲を見渡す。杉並木の奥にブナの林が広がり、新緑が輝いている。



 「一の坂」が終わり、「二の坂」が始まる。急勾配の石段が続く。「二の坂」は、武蔵坊弁慶があまりの急勾配に奉納する油をこぼしたという伝説から別名「油溢し(あぶらこぼし)」と呼ばれている。




 「二の坂」が終わり、しばらく平坦な道になる。杉林は荘厳な雰囲気に満ちている。




 参道を三分の二ほど過ぎると「三の坂」が始まるが、「三の坂」の石段の上り口の右手に南谷(みなみだに)へ向かう道が延びている。


南谷へ向かう道



 南谷は、芭蕉が奥の細道の旅の途上に6泊した別当寺の跡である。当時の建物の礎石が残っている。昭和27年(1952年)、県指定史跡名勝天然記念物に指定された。
 私は、18年前の平成13年10月7日、初めて五重塔を拝観し、羽黒山頂まで石段を上っている途中、南谷へ立ち寄った。
 そのときは、道には草が生い茂り、歩く人も稀ではないかと思うような道だった。10分程で着いた。
草叢の中に礎石が見え、暗い池があった。寂寥感が漂っていた。
 その後、南谷は整備されたと聞いていたので、今日、18
年ぶりに再訪することにした。

 南谷へ向かう道は始めは歩きやすくなっていた。ところが、途中から湿地帯のようになってきた。ぬかるみになった道の上に板を渡したり、渡り石を置いたりしている。水音が聞こえてきた。水の細い流れが現れた。30分程かかって南谷に着いた。

 今日は晴れて良い天気だからか、南谷は前回訪ねたときよりも明るく広々としているように感じられた。左手に心字池があるが、水草が繁茂していて水面が見えにくい。点在する礎石は土に深く埋もれ、草叢に隠れている。


南谷 心字池


 元の場所に戻り、最後の「三の坂」の石段を上る。





 石段の上に、ようやく朱塗りの鳥居が見えてきた。鳥居を潜って羽黒山頂に着いた。随身門からここまで約4時間もかかった。写真を撮ったり、途中、南谷へ寄ったりしたことを考えても相当な時間がかかっている。

 文政元年(1818年)に再建された高さ28mの豪壮な三神合祭殿(さんじんごうさいでん)が建っている。屋根の茅葺きは、2mの厚さがある。茅葺の木造建築では日本最大である。平成12年、国重要文化財に指定された


三神合祭殿


 三神合祭殿は、月山神社湯殿山神社が半年以上雪に閉ざされ、その間、登拝できないことから、羽黒山の出羽(いでは)神社も合わせて、三つの神社それぞれの神を合祀している。
 また、昔は月山と湯殿山は女人禁制だったが、羽黒山は女性の参拝が許されていた。

 三神合祭殿の前に鏡池(かがみいけ)と呼ばれている御手洗池(みたらしいけ)がある。鏡池は祈願する人たちが鏡を奉納した池である。説明書によると、これまでに、平安、鎌倉、江戸時代中期までの銅鏡600面が発掘され、そのうち190面が出羽(いでは)三山博物館に収蔵されて国の重要文化財に指定されている。
 出羽三山博物館は、銅鏡の他、明治の神仏分離の際に棄却された仏像や宝物、芭蕉直筆の句などを収蔵している。まだ見学したことがないので今度、来る機会があったら見学しようと思う。

 停留所「羽黒山頂」始発、鶴岡駅方面行きのバスに乗り、ホテルに戻る。


・同年5月15日(水) 旧月山登拝道

 朝食後、昨日と同じように駅前から7時52分発の「羽黒山頂行き」のバスに乗る。8時45分、終点の停留所「羽黒山頂」に着く。
 広い駐車場を横切る。駐車場の端に雪が積み上げられている。雪はまだかなり残っていて大きな山を作っている。

 駐車場を出ると、羽黒山頂から始まる旧月山登拝道の細い道が杉林の中に延びている。昔の石畳が残る旧月山登拝道に入る。100m程歩くと道幅がやや広くなる。


旧月山登拝道


 旧月山登拝道を初めて歩いたのは、今から12年前の平成19年5月4日だった(「奥の細道旅日記」目次35参照)。その後、再度、別の年の春に歩いた。
 
杉の木が少なくなり、ブナの木が多くなった。辺りが明るくなった。道は上り下りを繰り返す。歩いているだけで楽しくなってくる。ずっと歩き続けたい道である。

 1時間程歩く。吹越(ふきごし)神社の社殿が建っている。宝形造りの屋根は美しく軽やかである。社殿は昭和62年(1987年)に改築されている。


吹越神社 社殿


 境内に吹越籠堂(ふきごしこもりどう)が建っている。山伏が籠り、修行をする道場である。

 ブナの森の中に入った。森全体が萌黄色に輝いている。



 鶯が鳴いている。鶯の声が深い森に響き渡る。何と美しい声だろう。この道を歩くたびに、このまま美しいブナの森の中に座って、鶯の声を聴いていたいと思う。

 道は、また上り下りを繰り返す。ブナに混じって杉の木が現れてきた。



 1時間程歩くと道が下りになった。石段というより石垣といったほうがよい急な斜面だから腹ばいになって両手も使って降りる。歩き始めてからここまで約2時間かかった。
 手向(とうげ)バイパスが横切っている。両側から走って来る車に気をつけながら反対側に渡る。
手向バイパスは切り通しになっている。旧月山登拝道は手向バイパスによって分断されたものと思われる。

 石段が続いている。石段の上に荒澤寺(こうたくじ)の山門が立っている。


荒澤寺 山門


 荒澤寺の石段の上り口に説明板が立っている。一部を記す。


 「1400年前に出羽三山の開祖・能除(のうじょ)太師(蜂子皇子)(はちこのおうじ)が、月山、湯殿山へ赴く際に、ここ荒澤(あらさわ)修行しました。湯殿山大権現である大日如来の和魂(にぎみたま)を地蔵尊、荒魂(あらみたま)を不動明王としてまつり、不滅の清浄火が燈る常火堂(じょうかどう)をこの地に建立しました。

 その後、開祖を慕い弟子の弘俊(こうしゅん)が草庵を建て、廣澤寺と称しました。のちに、役の行者(えんのぎょうじゃ)、弘法大師、慈覚大師らもここで修行を積んだと伝えられ、羽黒山十大伽藍(じゅうだいがらん)随一の寺となり栄えました。

 山伏の峰入口(みねいりぐち)、八方七口(はっぽうななくち)のひとつ荒澤口(あらさわぐち)は、羽黒修験道で特に崇敬される霊地で、この荒澤寺は羽黒山奥ノ院として修験者の大切な行場(ぎょうば)となっています。」


 山門を潜る。左手に観音堂が建っている。観音堂の右手に、「是より女人きんせい」と刻まれた古い石碑が立っている。


女人禁制の古碑


 石碑の手前を右へ曲がり杉林の中へ入る。左へ曲がり坂を上る。荒澤寺の本堂の裏側に回ることになる。鬱蒼とした杉の木で周囲が薄暗くなった中を道なりに歩く。右手の杉林の中に苔むした墓石が点在している。この場所は、昔、荒澤寺の墓地だったのではないかと思う。草が踏まれてないことから、人が足を踏み入れなくなって久しいと思われる道を歩く。薄い青紫色の小さなスミレの花があちらこちらに咲いている。

 坂を上りきると道が平坦になる。ブナの木が多くなってきて辺りが明るくなる。



 根元から折れて倒れた大木が行く手を塞ぐ。腹ばいになって跨(また)いで、その大木を越える。歩いていると、また同じような大木が横に倒れて道を塞いでいる。

 1時間程歩く。月山高原ラインに出た。月山高原ラインが旧月山登拝道を分断している。右へ曲がると月山8合目に行くことができる。今から17年前の平成14年8月17日、この坂道を約4時間上って月山8合目に着いたことを思い出した(「奥の細道旅日記」目次13参照)。


月山高原ライン


 反対側に渡って月山高原ラインを少し上がると、左側に旧月山登拝道が続いている。そこから旧月山登拝道は、月山8合目の上に存する高山植物が見られる湿原の弥陀ヶ原(みだがはら)に至る(弥陀ヶ原について、「奥の細道旅日記」目次32、平成18年9月17日参照)。 

 月山高原ラインの両側や近くの山は、よく晴れた青空の下、新緑が湧きたっている。
 左へ曲がり坂を下る。30分程歩いて月山ビジターセンターの前を通る
ちょうど10分後に鶴岡駅方面行のバスが来るので、月山ビジターセンターには寄らないで停留所でバスを待つ。


・同年5月16日(木) 羽黒山宿坊街

 朝食後、昨日、一昨日と同じように駅前から7時52分発の「羽黒山頂行き」のバスに乗る。
 バスが30分程走ると、出羽三山の表玄関にあたる神路坂の緩やかな上り口に、高さ23、8m、笠木の幅31、6mの巨大な朱塗りの両部鳥居が道路をまたいで立っている。大鳥居は昭和4年(1929年)に奉納されたが、老朽化したため昨年の11月に建て替えられた。新たな大鳥居は特殊鋼鉄製である。
 バスは大鳥居を潜って走る。8時24分、停留所「羽黒案内所」に着く。

 きれいな通りである。道が掃き清められている。この道は、羽黒山、月山、湯殿山へ通じている。この通りに初めて入ったのは、今から18年前の平成13年9月23日だった(「奥の細道旅日記」目次11参照)。
 その日は美しい秋の日だった。陸羽西線の狩川駅から、黄金(きん)色に輝き稲刈りが間近い稲田の間を8キロ程歩いて、この道に入った。きれいな道だなと思った。
 停留所「羽黒案内所」の辺りから随神門までの約4キロは、
手向(とうげ)の宿坊街である。
 手向の宿坊街について、説明板が立っている。全文を記す。


 「出羽三山の参詣者のための宿坊街の一つ。かつては宿坊数336坊を誇った。明治時代の神仏分離政策以降に坊数は減少して現在は20数軒となったが、昔と変わらぬ活動を続けており、往年の宿坊街の面影をよく残している。
 山伏が経営する宿坊では、参拝者に参拝の手順を教え、登拝の先達(せんだつ)役となる。三山独特の精進料理を継承し提供している。」


 この通りをバスで通るとき、車窓から眺めていつも気になる風景があった。「羽黒山頂行き」のバスに乗っているときは右手の車窓から見える。
 小路があり、小路の突き当りに黒門が立ち、左右に黒塀が延びている。黒門の前に立ったら、もっと素晴らしい風景を見ることができるような気がしていた。
今日、その小路に入る。


自坊小路



 小路の右手の家は黒塀を巡らせて、塀の内側の庭園に植えられた樹木は若葉が輝いている。左手の家は生垣にしている。先へ進むと、右手に板壁の家が建ち、左手は黒塀が延びて見越しの松が聳えている。穏やかで、懐かしい風景である。
 黒門の前に立って左右を見たが、特に新しい風景は望めなかった。黒塀は途中で切れて、塀の内側は空き地になっている。塀の前の道がカーブして通りから離れていくので元の通りに戻った。この辺りは、また歩きたいと思った。 

 今日、初めて知ったが、この小路は「自坊(じぼう)小路」と名付けられている。説明板が立っていた。一部を記す。


 「街道から『自坊』という宿坊跡までの小路です。
 自坊は山麓妻帯修験で、源義家が『前九年の役』(1051~62)で一度敗戦し、月山の洞窟に隠れていたところを訪ね、祈願状と鏑矢(かぶらや)を受け取り羽黒山に祈願したところ、源義家が勝利することができたという話が語り継がれています。」


 通りを隔てた斜向かいに茅葺の宿坊・太田坊が建っている。


太田坊


 太田坊の隣に、庄内三十三観音霊場第一番札所である正善院(しょうぜんいん)黄金堂(こがねどう)が建っている。通りの反対側に正善院本堂が建っている。この一帯は元は羽黒山正善院の境内だったが、通りで分断されたのではないかと思った。


正善院 黄金堂


 黄金堂の山門の前に黄金堂の説明板が立っている。全文を記す。


 「羽黒山の門前町、手向地区にあり羽黒山頂の『大金堂(だいこんどう)』(現在の三神合祭殿)に対し、麓の『小金堂(しょうこんどう)』と呼ばれ、等身大の三十三体の聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を御本尊として祀る。また、明治時代の神仏分離政策の際、麓に下りた大金堂の三尊像(観世音菩薩、大日如来、阿弥陀如来)を本堂に遷座する。

 境内の於竹(おたけ)大日堂の於竹大日如来は、江戸と出羽を行き来する山伏による出開帳(でかいちょう)などで広められ、江戸庶民を出羽三山に呼び込んだ。」


 黄金堂は、建久4年(1193年)、源頼朝(1147~1199)が平泉の藤原氏を討つにあたり、戦勝祈願のために寄進したと伝えられている。現在の堂は、文禄5年(1596年)に修理されたものである。国指定重要文化財に指定されている。
 (平泉について、「奥の細道旅日記」目次7、平成12年10月9日及び同目次8、平成12年11月3日参照)


 黄金堂の隣に、手向地区地域活動センターが建っている。中へ入り、現在の宿坊の数を尋ねた。女性の職員が「手向(門前町)詳細図」を持って来られたので、それをいただいた。
 「詳細図」によると、現在の宿坊は27軒である。そのうちの19軒が個人対応可能となっている。

 きれいな通りですね、と話したら、ええ、みなさん、毎朝、掃き掃除をやってるんですよ、というお話だった。また、「桜小路」という名前のバスの停留所がありますが、その辺りは桜並木になっていて、桜が咲く頃はきれいですよ、と話された。

 宿坊街は静かで落ち着いている。宿坊の門に注連縄が張られている。通りは、けばけばしい色や特に目を引くようなものはなく、慎ましく気品がある。
 家や庭木がよく手入れされている。どの家も美しく花を咲かせているが、花屋さんで買い求めたようなものではなく、いわんや高価な花でもない。庭木や花はその家に昔からあったものを代々伝えて大事に世話をしているように見える。


宿坊街




 茅葺の大聖坊が建っている。


大聖坊


 大進坊の広い敷地内に芭蕉の句碑が立っている。


大進坊

 

 道路や建物の周りは隅々まで掃き清められている。建物が途切れると杉並木があり、その向こうに畑が広がっている。歩いているだけで落ち着いてくる。
 鳥居の向こうは聖域であるから、宿坊街に住む人たちは聖域に住んでいることを生活の基本にしておられるのだろう。簡素で清らかな中に、健やかな生活の営みを感じる。

 表示に従って通りを左へ曲がる。桜小路へ入る。桜並木が続いている。真正面に月山が見える。桜小路を歩いて左へ曲がり、随神門の前に着く。約2時間の散策だった。


・同年5月17日(金) (帰京)

 朝食後、鶴岡駅9時29分発「いなほ6号」に乗る。新潟駅に11時9分に着く。ホームの反対側に停車している新潟駅11時19分発上越新幹線「とき318号」に乗り換える。13時28分、東京駅に着く。





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