36 名建築を訪ねるー9  


平成29年10月8日(日) 一橋大学図書館 

 JR国立(くにたち)駅南口を出る。駅から幅約43、2mの広い道路が真っ直ぐ延びている。「大学通り」と名付けられている。更に、南東、南西の方向へ放射状に2本の道路が延びて、東西南北の碁盤の目の道路に交差し、美しい町並みを形成している。
 桜と銀杏を交互に植えた街路樹はどこまでも続く。また、幅3、6mの歩道に平行して幅9mの緑地帯を設けている。緑豊かな町である。

 500m程歩く。右へ曲がり、一橋大学西キャンパスの門を通って大学の構内に入る。樹木に囲まれた構内を50m程歩く。右手に、一橋大学兼松講堂が建っている。講堂の裏は赤松の林が広がる。


一橋大学兼松講堂


 3年前の平成26年11月22日に、明治、大正、昭和の三代に亘って活躍した建築家・伊東忠太(いとうちゅうた)(1867~1954)の作品である一橋大学兼松講堂を訪ねた(目次18参照)。兼松講堂は、昭和2年(1927年)建築。平成12年、国重要文化財に指定された。

 図書館も見学する予定だったが、工事中で建物全体にシートが被せられていた。
 図書館は、また訪ねて、図書館、講堂、本館や大学の構内に棲みつき、跳梁跋扈している、伊東忠太が作り上げた怪獣や空想上の動物を観察しようと思っていたので、今日、訪ねた。

 中央に庭園がある。庭園内に、長方形の池が造られている。池の端に日時計があり、日時計の台座の四つの角に四頭のライオンが彫られている。



 木立の向こうに、時計塔が見える。時計塔を持つ壮麗な建物が図書館である。
 図書館は、昭和5年(1930年)建築、2階建。設計は文部省建築課であるが、伊東忠太の空想動物があちらこちらに置かれている。


図書館


 大学は、中世ヨーロッパの修道院から生まれた。10世紀から12世紀にかけて修道院の建物は、ロマネスク(ローマ風)様式により建てられたから、大学の建物は、ロマネスク様式か、少し後の時代のゴシック様式で建てられていた。
 一橋大学の初期の建物は、ロマネスク様式に統一されている。ロマネスク様式の特徴の一つである、太い柱を相互に連結する半円アーチの窓が連続する重厚な兼松講堂、図書館、本館の建物に囲まれていると、周囲の赤松の林と相まって、英国の田園地帯に建つ古い歴史を持った名門大学を彷彿させる。

 図書館の玄関の軒の上から、獰猛な顔をした2匹の怪獣が吠え立て、威嚇している。



 眼を上に向けると、時計塔の左右の付け柱の上で、怪獣と怪鳥が絡みあっている。



 獣の背に乗った鳥が獣の背に爪を立て、長い嘴で獣の背を突いている。下になった獣は、首をひねって鳥の尾を噛んでいる。
 この彫刻が意味するものがあるのだろう。

 本館は、昭和5年(1930年)建築、3階建。設計は文部省建築課であるが、本館も伊東忠太が刻んだ動物が顔を出す。
 車寄せの上部に、一対のライオンの顔が刻まれている。どちらも口を開けているから阿吽のライオンではない。


本館


     


 講堂、図書館、本館の柱の柱頭飾りも奇妙な彫刻である。植物の葉や蔓の間から動物らしき顔が見えるが、だまし絵のようになっていて、見る角度を変えると植物と動物の区別がつかなくなる。植物と動物が複雑に絡みあって、正に魑魅魍魎の世界である。


 東京都国立市中2-1
 JR国立駅下車


同年10月30日(月) 旧李王家東京邸


旧李王家東京邸


 千代田区紀尾井町(きおいちょう)の、プリンス通りと名付けられている通りに面して、旧李王家東京邸(旧赤坂プリンスホテル旧館)が建っている。紀尾井町は、高層ビルが林立しているが、通りの反対側には、古い木造平屋建ての風格のある民家も残る町である。
 紀尾井町という町名は、江戸時代、この一帯に、紀州徳川家、尾張徳川家、彦根藩井伊家の江戸屋敷があったことから、三つの頭文字を取って名付けられたものである。

 旧李王家東京邸は、昭和5年(1930年)、宮内省内匠寮(たくみりょう)の設計により建てられた。敷地約2万坪、建坪約500坪、一部木造の鉄筋コンクリート造、塔屋付2階建。急勾配の屋根、正面2階南側寄りと、南側2階に、木の梁と持ち送りによる張り出し床が造られ、車寄せには中央部がわずかに尖ったチューダーアーチが見られる。イギリス中世後期のチューダー様式を基調とした洋館である。


南側



正面2階南側寄り


車寄せ


 大正9年(1920年)、大韓帝国最後の皇帝となった李王朝・高宗(こうそう)の七男・李垠(りぎん)(1897~1970)と、梨本宮守正王の第一王女・方子(まさこ)(1901~1989)が結婚する。
 日朝融和政策の一環としてなされた政略結婚と言われたが、二人は生涯仲睦まじく、悲しみと苦しみの多かった人生を心を合わせて互いに支え合い、屈辱に耐え、与えられた運命を受け容れて静かに生きた。

 明治40年(1907年)、10歳の李垠は親兄弟と離れて、伊藤博文(1841~1909)に伴われて独り日本に移る。
 同43年(1910年)、日韓併合により、日本の皇族に準ずる王族の待遇を受ける。
 学習院、陸軍士官学校を卒業、大日本帝国陸軍に入る。陸軍中尉になる。

 大正10年(1921年)、第一子・晋(しん)が生まれる。翌年、夫妻は晋を連れて朝鮮を訪問するが、帰国直前に晋が急死する。
 昭和6年(1931年)、第二子・玖(く)が生まれる。

 昭和12年(1937年)、日中戦争が始まる。同16年(1941年)、太平洋戦争勃発。
 同20年(1945年)8月15日終戦。

 日本国憲法が施行された昭和22年(1947年)5月3日の同日、皇室典範が施行され、三直宮(じきみや)を残し皇籍離脱があり、華族制度が廃止された。
 王族として華族を凌ぐ待遇を受けていた李垠と方子夫妻も、この日を境に財政的に自立しなければならなくなった。李垠は公職追放になり、李垠と方子は日本国籍を失い在日韓国人となった。
 韓国への帰国を希望するが許可されなかった。当時の韓国大統領・李承晩が王朝復活を疑ったと言われている。

 昭和34年(1959年)、李垠が脳梗塞で倒れる。
 同38年(1963年)、ようやく韓国への帰国が許可されたが、このとき寝たきりで、意識もなくなっていた李垠は担架で運ばれた。昭和45年(1970年)、死去する。享年73歳だった。
 

 李垠死後、方子は韓国に留まり、障害児教育に取り組む。障害児施設や障害養護学校を設立し、福祉事業に尽力した。平成元年に亡くなる。享年87歳だった。

 李垠と方子がこの邸で暮らした昭和5年から同20年の終戦までの期間は、波乱の多い人生を生きた二人にとって穏やかな時代だったと思われる。

 毎年、文化の日を中心にして約1週間、東京都の文化財に指定されたものについて、通常、公開していないものも、この期間に一般公開される。「東京文化財ウィーク」と呼ばれている。
 旧李王家東京邸は、10月28日から11月5日まで期間限定で一般公開された。期間中、既に20組の結婚式が予定されているので内部の通行を一部制限するという注意があった。

 公開時間の10時半に邸内に入る。玄関の扉の把手(とって)は今までに見たこともない豪華な造りだった。エントランス(玄関)ホールの天井に、光の雫を配しているような美しいシャンデリアが下がっている。


玄関


玄関の扉の把手



 職員の説明があった。今日の結婚式の準備をしているので、見学できる場所は1階の一部だけ。2階は見学できない、と更に見学できる場所が制限された。 

 正面に、ウエイティングルーム(待合室)がある。部屋の一面に美しいステンドグラスが嵌め込まれている。


ウエイティングルーム


 左手の部屋は応接室だった部屋である。長方形の部屋に半円形の部屋(アルコーブ)が付く。長方形の部屋の柱はイオニア式柱頭の角柱である。アルコーブは、アカンサスの葉をデザインした柱頭が並列している。南に面しているからサンルームとしても使用されていたのだろう。
 現在も当時の華麗な意匠が残る部屋で、本格的な英国式アフタヌーンティーをいただくことができる。
 


旧応接室


 ウエイティングルームの左から廊下が延びている。右手の窓から中庭が見える。左手に部屋が並んでいる。現在、レストランとして利用されている。



 ウエイティングルームの右手に2階へ上がる階段がある。階段の下から上を見上げる。踊り場に、大きな縦長の美しいステンドグラスが嵌め込まれている。



 戦後、経済的に困窮した李垠と方子は、この邸を貸し出し、参議院議長公邸として利用された時代もあった。
 昭和27年(1952年)、土地と邸を国土計画興業株式会社(後のコクド。西武鉄道グループ)に売却する。
 同30年(1955年)、邸は赤坂プリンスホテルとして開業された。客室15室だった。
 同35年(1960年)、敷地内に宿泊棟の別館が建築された。邸は赤坂プリンスホテル旧館と呼ばれ、バー、レストラン、結婚式場に利用された。
 同58年(1983年)、丹下健三(1913~2005)設計、40階建ての新館が竣工する。超高層のホテルだったが、美しい建物だった。
 平成23年、僅か28年で新館の営業を終了し、新館は翌年解体された。赤坂プリンスホテルの別館、旧館の営業も終了した。

 平成23年、旧李王家東京邸は東京都有形文化財に指定される。
 同28年、新館と別館の跡地は東京ガーデンテラス紀尾井町の名称で再開発され、ツインタワーが建設された。ホテル、オフィス棟は地下2階、地上36階、商業施設、オフィス、ホテルが入居する。住宅棟は地下2階、地上21階、賃貸の住宅棟である。
 同年、旧李王家東京邸は、「赤坂プリンスクラシックハウス」として再開され、バンケット(宴会場)を増して、バー、レストラン、カフェ、パーティー会場、結婚式場として活用されている。


 東京都千代田区紀尾井町1-2 東京ガーデンテラス紀尾井町内
 地下鉄半蔵門線、有楽町線、南北線永田町駅、
地下鉄銀座線、丸ノ内線赤坂見附駅下車


同年11月2日(木) 早稲田奉仕園スコットホール


早稲田奉仕園スコットホール



 早稲田奉仕園スコットホールは、大正10年(1921年)建築、煉瓦造。2棟が交差する場所に3階の塔屋が建つ。地下1階付2階建、L字形の建物である。
 ヴォーリズ建築事務所の設計原案に基づき、早稲田大学建築学科教授・内藤多仲(ないとうたちゅう)(1886~1970)が施工管理を行い、内藤研究室の助教授・今井兼次(1895~1987)が設計を完成させた。 

 ヴォーリズ建築事務所を設立したアメリカ人建築家・ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)について、目次16、平成26年5月1日、目次21、平成27年5月4日、「奥の細道旅日記」目次31平成18年8月15日、同目次36、平成19年11月23日及び24日参照。

 明治40年(1907年)、アメリカ・バプテストの宣教師・ハリー・バクスター・ベニンホフ(1874~1949)が来日する。
 同41年(1908年)、ベニンホフは、早稲田大学創立者・
大隈重信(1838~1922)に要請され、キリスト教に基づく学生寮「友愛学舎」を創設する。これが早稲田奉仕園の母体となった。

 建築は、アメリカ人のJ・E・スコット夫人(1851~1936))の寄付によって竣工された。スコット夫人は早稲田奉仕園の事業に賛同し、亡き夫の記念建築物とするために多額の建築費用を寄付した。完成した建物はスコットホールと名付けられた。

 平成2年、東京都より「歴史的建造物の景観意匠保存」の選定を受けた。
 この建物も「東京文化財ウイーク」の一環として今日1日のみ、正午から午後4時まで一般公開された。


講堂


講堂玄関



 正午に、講堂の扉が開いた。中に入る。講堂は日本基督教団早稲田教会の礼拝堂、結婚式、コンサート等に使われている。
 舞台正面に十字架が架かっているだけの簡素な造りだが、カーブを多用しているため優しい雰囲気がある。天井と柱が無く、小屋組みは木造トラス。そのため音響効果が良い、と案内の方の説明があった。


講堂



 講堂を出て、塔屋に設けられている階段を上って2階に入る。ヴォーリズの作品らしい優雅で、美しい通路を歩く。



 突き当りの会議室に入る。テーブルが並び、早稲田奉仕園の資料が並べられている。暖炉の上に、スコット夫人とその夫の遺影が飾られていた。この部屋から2階のテラスに出られる。

 案内の方の説明があった。大正12年(1923年)の関東大震災にも塔屋の一部が崩れただけだった。当時の建物の写真と現在の建物を比べると、現在の塔屋の3階の高さが少し低くなっているだけで、他は創立当時の姿のままである。
 内藤多仲は、「耐震構造の父」と評された。内藤の作品の中に、昭和33年(1958年)竣工の
東京タワーがある。

 同一の色の煉瓦ではなく、焼き斑(やきむら)のある煉瓦が使われているが、これは限られた予算の中で建築するために煉瓦の色を統一する経済的な余裕がなかったから、という説明があった。
 しかし、様々な色の煉瓦の積み重ねが古典的で味わいのある壁面を造っている。

 完成当時は、大食堂、小食堂、ビリヤード室、集会室、教室、読書室も備えられていた。戦前に建てられたYMCAやYWCAが、館内に、講堂、礼拝堂、プール、体育館、宿泊施設、食堂、教室を備えていたものと同じだったのだろう。

 昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まる。ベニンホフは志半ばにしてアメリカに帰国する。終戦後再び日本に戻ることを願っていたが、昭和24年(1949年)アメリカで帰天した。


 東京都新宿区西早稲田2-3-1
 地下鉄東西線早稲田駅下車


・同年11月4日(土) 東京都慰霊堂(旧震災記念堂)ー2


東京都慰霊堂


 これまで伊東忠太の作品を訪ねてきたが、今日は、横網町(よこあみちょう)公園内に建つ伊東忠太設計、昭和5年(1930年)建築の東京都慰霊堂(旧震災記念堂)を訪ねる(伊東忠太の作品については、目次10目次18参照)。

 大正12年(1923年)9月11日午前11時58分に関東大震災が起きた。横網町公園は、もとは陸軍本所被服廠(しょう)跡地であった。震災が起きたとき、多くの被災者が空地であったこの場所に避難した。震災が昼食の準備をしている正午近くに起きたためか、方々(ほうぼう)で火災が発生した。火は勢いを増して燃え広がり、この場所も火炎に包まれ、約3万8千人が焼死した。

 震災記念堂に身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀っていた。その後、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲による身元不明の遺骨も昭和23年(1948年)から震災記念堂に納められている。現在、合わせて約16万3千体の遺骨が納められ、死者の霊を合祀している。
 昭和26年(1951年)、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称を改めた。

 東京都慰霊堂では、毎年3月10日、9月1日に慰霊大法要が行われる。

 東京都慰霊堂は、3年前の平成26年11月15日に訪ねたが、ちょうど耐震補強工事がなされていて、建物全体がシートに覆われていた。しかも補強工事は平成28年2月まで予定されていた。事前に調べておくべきだったが、見学は諦めるしかなかった目次18参照)。
 建物の前に立っていた警備員に工事のことを尋ねたら、工事中でも中に入って参拝できます、と言われた。堂内は半分に仕切られて、工事が行われていた。

 手前の慰霊堂は鉄骨鉄筋コンクリート造、銅葺き屋根、広さは200坪。慰霊堂に附属する後方の三重塔は高さ41mである。三重塔の基部は納骨堂である。


三重塔


 慰霊堂や納骨堂の屋根の棟端(むねはし)のあちらこちらに、羽を広げた鳥が刻まれている。



 堂内に入る。太い柱の列が高い天井を支え、天井から吊るされたシャンデリアは蓮の葉の形をしている。


慰霊堂


 慰霊堂の出入口内側の高い場所に、三頭の怪獣が照明器具を抱えて咥(くわ)えている。怪獣や鳥が慰霊堂と納骨堂を守っているのだろう。



 東京都墨田区横網2-3-25
 JR両国駅 都営地下鉄大江戸線両国駅下車





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