37 旧居留地(神戸市) 旧日本生命九州支店 宗像大社中津宮(福岡県) 旧グラバー住宅(長崎市)


・平成29年12月26日(火) 日本基督教団神戸教会 兵庫県公館(神戸市)

 東京駅6時発「のぞみ1号」に乗る。新神戸駅に8時37分に着く。地下鉄に乗り換える。三ノ宮駅を過ぎて二つ目の県庁前駅で降りる。地上へ出て、生田新道を歩く。


日本基督教団神戸教会



 十字路の角に、日本基督教団神戸教会が建っている。スクラッチタイル張りの外壁、高い尖塔が聳えている。ネオゴシック様式の美しい建物である。
 明治7年(1874年)、プロテスタントの教会として初代の礼拝堂が建てられた。昭和8年(1933年)建築の現在の建物は4代目になる。高い尖塔を持っているにも拘わらず、
昭和20年(1945年)6月の神戸大空襲の際にも焼失を免れ、平成7年阪神、淡路大震災のときにも倒壊を免れた。

 駅に戻り、駅前を通り過ぎる。


兵庫県公館


 兵庫県公館が建っている。兵庫県公館は、明治35年(1902年)、兵庫県本庁舎として建築された。フランス・ルネサンス様式の壮麗な建物である。設計は、建築家・山口半六(1858~1900)である。兵庫県公館は、山口半六死去後に完成した。
 山口半六設計の旧第四高等中学校本館(現・石川四高記念文化交流館)について、「奥の細道旅日記」目次22、平成16年8月16日参照。


兵庫県公館 北玄関




 昭和60年(1985年)、兵庫県公館として整備され、迎賓館と県政資料館の施設に利用されている。平成15年、国登録有形文化財に登録された。
 迎賓館は土曜日のみ公開されているので今日は迎賓館の見学はできない。県政資料館を見学する。入館するときは、正面の玄関ではなく、反対側の北玄関から入ることになる。重厚な通路を歩き、各展示室に入り、展示物を見る。
 写真で見ると、迎賓館は華麗な部屋が並んでいる。いずれ、迎賓館も見学したいと思う。

 県庁前駅から地下鉄に乗り、三ノ宮駅で降りる。JR三ノ宮駅に隣接している観光案内所へ行き、明日、回ることを予定している旧居留地と海岸通りの観光マップをいただく。
 その後、駅の近くの、今日、明日、2泊予約している
神戸三宮東急REYホテルへ行き、荷物を預かってもらう。チェックインの時間にはまだ早いけれども予めチェックインの手続きもする。

 1階のレストラン・シャングリ・ラでランチの食事をする。12時半を過ぎて満席だったので、少し待たされて席へ案内された。
 得な内容だった。通常、ランチは1300円だが、年末感謝祭ということで今日から31日まで1000円で提供されている。それに、料理の他のパン、サラダ、デザート、飲み物はブッフェである。
 肉料理と魚料理の二つから選ぶ。魚料理を注文する。サーモンと農家のベーコンのオランデーズ(マヨネーズ)ソース焼きである。ベーコンはスライスしているのではなく分厚い塊でとてもおいしかった。

 焼きたての温かいパンがおいしい。水は六甲の水、牛乳は六甲山麓の牛乳、その牛乳から作られたヨーグルトなどおいしいものがたくさんある。珍しいものをいただいた。オニオンから作った甘いジャムだった。

 食後、ロビーで休んで、本来のチェックインの時間になったので、案内されて部屋へ入る。


・同年12月27日(水) 旧居留地 海岸通り(神戸市)

 1階のレストラン・シャングリ・ラで朝食をいただく。昨日のブッフェの他に豪華な内容だった。米は兵庫県産の「ヒノヒカリ」、豆腐は滋賀県や富山県の高級大豆に北海道・オホーツクの「にがり」を用いて作られた自家製のものだった。鉢に多めに取り、醤油など何もつけないで食べる。

 食後、JR三ノ宮駅へ行き、電車に乗り一つ目の元町駅で降りる。昭和9年(1934年)竣工の元町駅のコンコースの天井が美しい。
 東口を出て200m程歩く。大丸百貨店神戸店の前を通り、神戸港の方へ歩く。
 昨年、12月28日、大丸神戸店の美しい外回廊を見た(目次31参照)。回廊に開かれたオープンカフェは、ここはパリかミラノかと思うほどの美しさだった。
 今日は、旧居留地だったこの辺りと海岸通りをゆっくり散策する予定である。

 旧居留地38番館(旧ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク神戸支店)が建っている。昭和4年(1929年)建築、地下1階付地上3階。設計はヴォーリズ建築事務所である。
 ヴォーリズ建築事務所を設立した
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)について、目次16、平成26年5月1日、目次21、平成27年5月4日、目次36、平成29年11月2日、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日、同目次36、平成19年11月23日及び24日参照。


旧居留地38番館


正面玄関


 重厚な石造の建物である。1階、2階を通して4本のイオニア式の円柱が並び、最上階を分けるコーニス(梁)が建物にアクセントを付けている。三角形の破風(はふ)(ペディメント)を載せた正面玄関は鉄の扉である。重厚な建物は、顧客に対して安心を与えただろう。
 旧居留地38番館は、現在、大丸神戸店の別館として海外の高級ブランド品の売り場、喫茶室として活用されている。

 旧居留地38番館を過ぎて250m程歩く。海岸通りへ入る。
 壮麗な
商船三井ビルディング(旧大阪商船神戸支店)が建っている。大正11年(1922年)建築、地下1階付地上7階。アメリカ・ルネッサンス様式のビルである。設計は建築家・渡辺節(わたなべせつ)(1884~1967)である。


商船三井ビルディング


 当時の人々は、当時としてはまだ珍しかった7階建ての高い建物にも驚いただろうが、石積みとテラコッタ(陶板)の外壁と装飾、最上部の半円形の破風(ペディメント)を見て、その威容に圧倒されただろう。神戸港が世界の貿易港であった頃の繁栄と賑わいを彷彿させる。海岸通りの主のような建物である。
 現在、大丸神戸店のインテリア部門の売り場として活用されている。



西側玄関


 商船三井ビルディングから1ブロック離れた西側に神戸郵船ビル(旧日本郵船神戸支店)が建っている。大正7年(1918年)建築、鉄筋コンクリート造3階建。設計は曽禰辰蔵(そねたつぞう)(1853~1937)と中條精一郎(ちゅうじょうせいいちろう)(1868~1936)の共同経営による曽禰・中條建築事務所である。


神戸郵船ビル


 旧居留地外に建っているが、石張りの外観、正面玄関上部の巨大な半円アーチ、3階の全ての窓の両側に立つイオニア式の円柱など、風格のある建物は遠くからも目を引く。現在、1階は商業施設となっていて紳士服の店が入っている。2階、3階は貸事務所となっている。 

 最後に、旧居留地15番館を見る。


旧居留地15番館


 明治13年(1880年)頃建築、木骨煉瓦造2階建。旧居留地内に唯一残る居留地時代(1868年~1899年)に建てられた商館であったが、平成7年阪神、淡路大震災で全壊。建築当時の建材を再利用して、耐震構造を施し、以前と同じ姿に復元した。現在、レストランとして活用されている。国指定重要文化財である。
 風通しを良くするために造られたコロニアル(植民地風)様式の2階南面のベランダは、美しいコリント式の柱が並び開放的な造りである。

 場所を確認すると、元町駅と三ノ宮駅の真ん中あたりまで来ていたので、三ノ宮駅まで歩き、昨日と同じ東急REYホテルでランチの食事をする。
 今日は、肉料理を選ぶ。ビーフカツレツ デミグラソースだった。

 食後、ロビーで休んだ。チェックインが昨日だったためか、今日は昨日よりも早く部屋へ入ることができた。


・同年12月28日(木) 旧日本生命九州支店(福岡市)

 ホテルで朝食後、JR三ノ宮駅に隣接する地下鉄三ノ宮駅へ行く。地下鉄に乗り、一つ目の新神戸駅で降りる。
 新神戸駅9時13分発九州新幹線「みずほ605号」に乗る。九州新幹線の指定席は普通車でも4列だからグリーン車のようにゆったりと座れる。11時25分に博多駅に着く。
 博多口を出る。博多口の前のホテルに今日、明日、2泊予約しているので、そのホテルへ行き、荷物を預かってもらう。チェックインの時間にはまだ早いけれども予めチェックインの手続きもする。

 博多駅に戻り、地下鉄空港線に乗る。二つ目の中州川端駅で降りる。地上へ出て右へ曲がり300m程歩く。那珂川に架かる西大橋、新薬院川に架かる天神橋を渡る。右へ曲がり100m程歩く。


旧日本生命九州支店


 旧日本生命九州支店(現・福岡市赤煉瓦文化館)が建っている。建物の壮麗さに圧倒される。
 明治42年(1909年)建築、地下1階付地上2階。設計は辰野・片岡建築事務所。辰野片岡建築事務所は、建築家・
辰野金吾(1854~1919)が弟子の片岡安(やすし)(1876~1946)と開設した建築事務所である。
 辰野金吾は、明治、大正期の代表的建築家である。東京駅日本銀行本店奈良ホテル他多くの建物を設計し、その多くが現存している。

 辰野金吾設計により建てられた大分銀行赤レンガ館(旧二十三銀行本店)ついて、目次14、平成25年12月28日参照。
 武雄温泉楼門旧共同湯について、目次19、平成26年12月28日参照。 

 赤煉瓦の外壁、張り巡らされた白い花崗岩のバンド、銅板葺きのドーム屋根。中央に八角形のドームを載せ、マンサード屋根(腰折れ屋根)、半円形のドーマー窓、玄関上部の三角形の破風など洋館各部の名称を解説するのにふさわしいほど多彩な様式が取り込まれている。



玄関


 塀の鉄柵は、植物の蔓をデザインしたものと思われる。アール・ヌーヴォーである。


鉄柵



 昭和41年(1966年)まで社屋として利用されていた。昭和44年(1969年)、国重要文化財に指定され、福岡市に譲渡された。
 内部は月曜日を除き一般公開されているが、今日から年末年始の休館が始まり、残念なことに内部の見学はできなかった。神戸市の兵庫県公館迎賓館とともにこの建物の内部もいずれ見学したいと思う。


・同年12月29日(金) 宗像大社中津宮(福岡県宗像市)

 早朝、ホテルを出て博多駅へ行く。博多駅5時59分発鹿児島本線上りの電車に乗る。6時36分、東郷駅に着く。
 辺りはまだ真っ暗である。西日本だから日の出が遅いのは分かるが、7時になっても依然として暗い。東郷駅前のバスの停留所に立っていると、
7時発「宗像大社経由神湊(こうのみなと)波止場行き」のバスがヘッドライトを光らせて暗闇から現れた。20分ほど乗って終点「神湊波止場」に着く。曇りということもあったのだろうが、ようやく明るくなってきた。


フェリー「おおしま」


 神湊7時40分発「大島行き」の第一便フェリー「おおしま」に乗る。
 釣り客が多い。エサ箱、複数のクーラーボックス、トロ箱などを折りたたみのキャリーケースに積んで乗り込んでくる。

 寒いので暖房が入っている部屋に入る。曇っているだけで、風はないが、フェリーが大きく揺れる。玄界灘は波が荒く、船が大きく揺れるのは以前にも体験したことがある。

 今から7年前の平成22年12月29日、相島(あいのしま)を訪ねた(「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照)。
 相島は、
朝鮮通信使が寄港した島である(朝鮮通信使については、目次9、平成24年12月30日参照)。
 江戸時代、将軍が交代するたびに、朝鮮国より国王の親書をもって来日した朝鮮通信使の一行は、ソウルを出発して、釜山に出て玄界灘へ船出する。対馬、壱岐、相島に寄港する。
 福岡県新宮町相島は、周囲約8キロ、人口約470人の島である。住民の殆どが漁業に携わっている。
 新宮港から町営渡船「しんぐう」に乗る。約20分、フェリーに乗ったが、このときも曇っているだけで、風はないのにフェリーは海面から上昇と下降を繰り返し、乗船していた地元の人たちも声を上げるほどで、船の大きな上下動に気分が悪くなったことを憶えている。

 約25分で大島港に着く。大島は神湊から約11キロの玄界灘に浮かぶ島である。周囲約15キロ、人口約700人、漁業が島の基幹産業となっている。

 大島には宗像大社(むなかたたいしゃ)三女神の一柱、瑞津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る中津宮(なかつみや)がある。
 昨年12月30日、宗像大社辺津宮(へつみや)を訪ねた(目次31参照)。今日は、中津宮を訪ねる。

 宗像大社は、今年7月、「神宿る島」宗像・神ノ島と関連遺産群の辺津宮(へつみや)、九州沿岸から60キロの玄界灘の孤島・沖ノ島沖津宮(おきつみや)、九州沿岸から11キロの大島にある中津宮(なかつみや)の三つの宮、沖津宮遥拝所(おきつみやようはいしょ)、島そのものが御神体である沖ノ島、大島の二つの島と、辺津宮そばの古墳群、沖ノ島渡島の際に鳥居の役割を果たす三つの岩礁の構成資産全てが世界文化遺産に登録された。

 大島港渡船ターミナルの観光案内所で、これから訪ねる宗像大社中津宮と沖津宮遥拝所について尋ねる。若い女性の職員が丁寧にマップに線を引いて道順を教えてくれた。マップをいただく。
 陸地と桟橋を結ぶ100m程の道路を歩く。T字路に出る。左へ曲がる。左手に海を見ながら100m程歩く。右手に、中津宮の一の鳥居が海に面して立っている。石段を上がる。二の鳥居が立っている。
 二の鳥居を潜り、御手洗池(みたらしいけ)に架かる石造の太鼓橋を渡り、急な石段を上る。


宗像大社中津宮 二の鳥居


 石段を上がり、神門を潜る。社殿のある境内に入る。鬱蒼とした樹木に囲まれて拝殿が建ち、奥に本殿が建っている。周囲は静寂で、清浄の気に満ちている。


拝殿


 男性の職員が境内の玉砂利に箒目(ほうきめ)を付けていた。

 石段を下り、海岸の通りに戻る。左へ曲がる。先ほどのT字路を通り過ぎる。右側の海岸と道路の間に、漁協、消防署、病院の建物が並んでいる。
 100m程歩き、左側の民家の間の道へ入る。海が見えなくなる。商店の前に高齢の女性が数人集まって商品を見たり、立ち話をしたりしている。
道が緩やかな坂道になる。

 前から歩いて来た50代後半くらいの、農作業の格好をした男性が、明るく大きな声で「こんにちは!」と挨拶してくれる。私も挨拶する。
 私が、沖津宮遥拝所へ行きたいんですが、この坂を上って行ったらいいんですね、と伺うと、男性は、ここを真っすぐ上がって行ったら坂の上に出ますから、また、坂を下って行くと、遥拝所が見えます、と親切に教えてくれた。

 私が、世界遺産に登録されて良かったですね、と話して、しばらく沖ノ島の話しをした。
 男性は、一回だけ沖ノ島へ上陸し、沖津宮に参拝したことがある、と言った。沖ノ島は女人禁制の島である。男性も一般の男性は毎年5月27日、日本海海戦を記念して開かれる現地大祭のときのみ約200人が上陸できるだけである。
 一般の男性が毎年5月27日に上陸できるようになったのは昭和33年(1958年)以降である。しかし、世界遺産登録に際して、島への不法上陸や接近について対策をとるようユネスコから勧告されたため、それを受けて、資産の一層の保全、管理に取り組むために、来年から一般人の上陸は全面禁止することを宗像大社が発表した。
 そのため、一回だけでも沖津宮に参拝できたことは貴重な体験だったと思う。

 因みに、日本海海戦の記念日である5月27日は、明治38年(1905年)、日露戦争において、連合艦隊司令長官として指揮を執った東郷平八郎(1848~1934)がバルチック艦隊を撃滅させ日本を勝利に導いた日である。この日、日本とロシア両国の戦没者を慰霊している。

 男性が、沖ノ島は台風が発生したとき玄界灘を航行する船の避難港になっているんですよ、と話された。

 また、男性は、現在千葉県に住んでいるが、年寄りの父が一人でここに住んでいるので、心配で1ヶ月に1回、様子を見に来てるんですよ、と言った。
 千葉からここ大島までは移動するだけで1日を要するだろう。こちらへ来ても休まないで畑仕事をしたり、家の周りを調べて、悪い箇所が見つかれば
直したりしているのだろう。親孝行な人だな、と思った。
 父親は、自分が食べる分だけ野菜を作っているのだろうか。年老いて独り暮らしだけれども、昔から住んでいれば近所のみんなと気心の知れた親しい関係にあるだろうから、その点は息子も安心だろう。今回は、年末年始でいつもより長くいるのだろうか。

 男性に、お話していただいたことのお礼を言って別れた。男性は、「坂を上がり切ったら海が見えますよ!」と言った。

 道が急坂になる。民家がなくなり、右側に民宿の建物が建っている。左側は山の斜面になってきた。
 坂の頂上に着いた。海が見えた。20分程歩いて坂を下る。
沖津宮遥拝所が見えてきた。沖津宮遥拝所は島の北部に位置する。


沖津宮遥拝所


 沖津宮遥拝所の石段の下から海を見る。


玄界灘



 石段を上がり、鳥居を潜る。銅板葺きの遥拝殿が建っている。遥拝殿は、「神宿る島」として立ち入りが制限されている沖ノ島を拝む拝殿の役割を果たしている。


遥拝殿



 天気が良く、空気の澄んだ日は、ここから49キロ先の沖ノ島の島影が見えるらしいが、今日は何も見えなかった。



 沖ノ島は無人島であるが、宗像大社の神職が10日交替で沖ノ島へ赴く。神職は毎朝、海中で禊を行い、400段の石段を上って沖津宮に参拝する。神職の装束を着用し、拝殿で祈りを捧げ、神事を務める。
 我々が知らないところで、日本国の安泰や世界平和、人々の幸福を祈っておられるのだろう。
 神職の方たちの崇高な生き方は勿論、先ほどの、父親のことが心配で毎月1回、千葉からこの島まで様子を見に来る親孝行な男性に対しても私は頭が下がる

 沖ノ島は、昭和29年(1954年)から昭和46年(1971年)までの三次にわたる学術調査による発掘が行われた。出土品の、祭祀に供えられた奉献品の中には、中国大陸や朝鮮半島との交流によってもたれされたものや、シルクロードを通って運ばれたものもある。出土品8万点は全て国宝に指定されている。宗像大社辺津宮の境内にある神宝館(しんぽうかん)は、国宝8万点を収蔵、展示している。
 昨年、辺津宮を訪ねたとき神宝館へは行かなかったので、今度、福岡へ来るときは訪ねようと思っている。


・同年12月30日(土) 旧グラバー住宅(長崎市)

 ホテルで朝食後、博多駅へ行く。博多駅8時57分発の特急「かもめ9号」に乗る。10時49分に長崎駅に着く。
 宿泊を予約している駅の構内にある
JR九州ホテル長崎へ行き、荷物を預かってもらい、時間は早いけれどもチェックインの手続きもする。 

 3年前から昼に食事をしているホテルモントレ長崎にランチの予約の電話を入れて、ホテルへ行く。1年に1回しか伺ってないのに、同じ時期に行くからか、従業員の方々が私を憶えてくださっている。
 ホテルモントレ長崎のランチは、手頃な値段にもかかわらず豪華でおいしい食事ができるので楽しみである。

 「冬のスペシャルランチコース」を注文する。

     小前菜   タラとカリフラワーのフリット(揚げ物)
             ニンニク、クリームソース マスタードソース
     前  菜   雲仙鶏とズッキーニのミルフィーユ 濃厚バルサミコソース
     パスタ    半熟卵が乗ったボロネーゼ カヴァテッリ(ショートパスタ)に絡めて 
     魚料理    舌平目と輪切りにした山芋 スカモルツァ(チーズ)のグラチネ(グラタン)
             柔らかく上品な味の舌平目とサクサクとした歯ざわりの山芋が良く合っている。

     肉料理    牛フィレのステーキ キノコのクリームソースと蒸した野菜を添えて
     デザート   温かいチョコサブレとイチゴのジェラート
            チョコサブレはピーナツを煉り込んで焼いている。

 細やかな心遣いが感じられる料理だった。今回もおいしい料理をいただくことができた。

 食後、ホテルの前からタクシーに乗り、グラバー園へ行く。

 長崎港を見下ろす旧居留地であった南山手の高台にトーマス・ブレーク・グラバー(1838~1911)のグラバー邸、フレデリック・リンガー(1838~1907)のリンガー邸、ウィリアム・ジョン・オルト(1840~1905)のオルト邸が建っていた。いずれも国重要文化財である。
 戦後、三つの邸の周りを拡げて整地し、長崎市内に残っていた歴史的建造物6棟を移築してグラバー園を開設した。

 時間に余裕がないので、今日は旧グラバー住宅だけを見て、次回長崎へ来たとき、旧リンガー住宅、旧オルト住宅を見学しようと思う。


旧グラバー住宅


応接室


 旧グラバー住宅についての説明板が立っている。長い文章であるが、この説明でグラバーと建物について分かるので全文を記す。


 「旧グラバー住宅は、安政6年(1859年)に来日したスコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーの邸宅である。文久3年(1863年)に対岸の長崎製鉄所を見下ろす外国人居留地に建設された。大浦天主堂等の建築を請け負った棟梁小山秀之進による日本の伝統的な建築技術とイギリス風のコロニアル様式との融合を示す、現存する我が国最古の木造洋風建築である。日本瓦や土壁(漆喰)を用い、半円形を描く寄棟(よせむね)式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱があり、柱間には吊束(つりづか)を持つアーチ型欄間(らんま)、木造菱格子(ひしこうし)の天井を持つ広いベランダが特徴である。

 グラバーは、開国後間もない日本において、武器や船舶などの輸入や茶などの輸出など貿易商として活躍しただけでなく、現存する我が国最古の蒸気機関を動力としたスリップドックである小菅修船場(こすげしゅうせんば)を薩摩藩と共同で築造するとともに、我が国で初めて石炭の採掘に蒸気機関を導入した高島炭鉱を佐賀藩と共同で開発するなど、西南雄藩と協力して西洋技術を導入し、日本の造船や石炭産業の近代化に大きく貢献した人物である。

 明治政府は、グラバーの功績を称えて、明治41年(1908年)、勲二等旭日重光章という栄誉ある勲章を与えている。」


 スリップドックは、通称、「そろばんドック」と呼ばれている。昨年、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産のひとつとして旧グラバー住宅とともに世界文化遺産に登録された。

 欧米列強の植民地は、高温多湿の東南アジアから熱帯地方に在った。そのため植民地の建物は、風通しを良くするためにベランダを多用し、日陰を作り、開放的な造りにした。コロニアル(植民地風)様式と呼ばれた。
 本来、亜熱帯や熱帯地方で分布するはずのコロニアル様式が、長崎に上陸し、四季があり、冬は寒い日本にも建てられた。3日前に、神戸市の旧居留地で見た
旧居留地15番館もコロニアル様式で建てられている。

 旧グラバー住宅の各部屋は外に向かって円形に張り出し、どの部屋からも開放的なベランダ越しに海が見える。玄関はなく、各部屋へはベランダから直接、出入りしていた。
 ベランダの天井は格子を重ねたような和風の造り。列柱の間には菱組の欄間が施されている。


ベランダの天井


菱組の欄間


 美しい邸に、グラバーは三菱財閥の相談役就任を機に東京へ転居するまで住み、その後、グラバーの息子・倉場富三郎(くらばとみさぶろう)(1871~1945)が明治25年(1892年)から昭和14年(1939年)まで住んだ。
 (グラバーについては、目次6、平成24年8月2日参照。倉場富三郎については、目次31、平成28年12月31日参照)

 庭園から眼下に長崎港と三菱重工業長崎造船所が見える。船を建造しているのか、あるいは修理しているのか幾つものクレーンが見える。


長崎港


 『マダム・バタフライ』は、アメリカ人の作家・ジョン・ルーサー・ロング(1861~1927)によって書かれた小説である。この小説が戯曲化されてロンドンで公演された。そのとき舞台を見た作曲家・ジャコモ・プッチーニ(1858~1924)は、『マダム・バタフライ』をオペラ化することの承諾を得る。
 『マダム・バタフライ』は、グラバーやグラバー邸とは所縁(ゆかり)のない小説である。

 しかし、ここに立っていると、今日は曇って、寒いのに、プッチーニ『蝶々夫人(マダム・バラフライ)』のアリア「ある晴れた日に」の始めの部分の詞が自然に思い浮かぶ。


     ある晴れた日
     青い海のかなたに
     煙が立ち
     やがて船が見える
     真白い船は
     港に入り
     礼砲を打つ





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