38 名建築を訪ねるー10  アール・デコの作品


・平成26年1月2日(木) 大丸百貨店心斎橋店(大阪市中央区)


大丸百貨店心斎橋店



 大丸百貨店心斎橋店は、昭和8年(1933年)竣工、地下2階、地上8階建てだった。2年前の平成28年、建て替えのため取り壊された。来年平成31年秋に新本館が完成する予定で、現在は、新本館建設現場の北側で営業が続けられている。 

 大丸心斎橋店は何度か訪ねたが、内部の写真撮影は禁止されていた。 ここに掲載する写真は、4年前の平成26年1月2日に撮ったものである。もっと早く載せるべきだったが、遅くなり4年後になってしまった。文章も写真に合わせて平成26年1月2日現在で作成した。


 大丸心斎橋店の設計は、アメリカ人建築家・ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)である。

 ヴォーリズについて、目次16、平成26年5月1日、目次21、平成27年5月4日、目次36、平成29年11月2日、目次37、平成29年12月27日、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日、同目次36、平成19年11月23日及び24日参照。

 1920年代後半から30年代前半にかけて集中して、ニューヨークに高層ビルが建設された。ニューヨーク市のマンハッタンは、クライスラービル(1930年竣工)、エムパイア・ステート・ビル(1931年竣工)他、当時世界中に流行していたアール・デコのデザインによる高層ビルが次々に建てられた。
 アール・デコは、
直線と、幾何学的なパターンの繰り返しで、力強さと安定を表わし、豪奢な雰囲気を湛えている。

 大丸心斎橋店は、マンハッタンの繁華な通りに建つ建物と同じアメリカン・アール・デコの建物である。平成24年5月12日に訪ねた、昭和8年建築の聖路加国際病院もアメリカン・アール・デコの建物である(目次6参照)。

 大丸心斎橋店は、外壁のスクラッチタイルのチョコレート色がアクセントとなって建物全体を引き締めている。塔を飾る直線を基調とした装飾は華麗な雰囲気を漂わせている。
 外観も内部もアール・デコの美しさに満たされているが、ヴォーリズは、アール・デコのデザインの他にネオ・ゴシック式とアラベスク(アラビア風)模様の意匠を取り入れた。
 アラベスク模様が建物の外壁を飾る。







 心斎橋筋正面を飾るのは、扇のように羽を広げたテラコッタ(陶板)の孔雀のレリーフである。孔雀(ピーコック)は大丸のトレード・マークである。心斎橋筋正面の内側はステンドグラスが輝いている。



 中2階まで吹き抜けの1階内部の美しさは、これほど美しいデパートが世界中の他のどこかにあるだろうかと思うほどである。
 中2階へ通じる大理石の階段の親柱の頭頂部や、大理石の柱の周りは、透かし彫りにした大理石の中に照明器具を組み込み、細い真鍮の精緻なパーツを嵌め込んでいる。
 天井やエレベーター周りは、多彩な色彩に煌めく六角形や星形の透かし彫りのおびただしい照明が輝いている。幾何学的模様の照明器具は色は付いているが雪の結晶に見えたり、万華鏡に映し出された造形にも見える。
 天井やエレベーターホールの梁を支えて、アメリカ合衆国の紋章である鷲(わし)の彫刻が施されている。クライスラービルの角にも鷲の装飾が見られる。

 戦前、デパートで買い物をすることがハレの日であったとき、美しいイスラム寺院かアラビアの宮殿のような美の殿堂に設けられた売り場で品選びをすることは、買い物客を一層幸福な気持ちにさせただろう。
 現代においても大丸心斎橋店を訪れる人たちは、当時の人たちと同じように気分が高揚し、心が華やぐだろう。
 

 ヴォーリズは、キリスト教を伝道することを目的として来日した。生涯をキリスト教の教えに従って生きた人だった。建築家だけの人ではなかった。
 他者のためには美しく、優雅な建物を建てても自身の住いは簡素なものだった。
生涯私有財産を持たなかったが、美しい作品を遺してくれた。


 来年平成31年秋に完成する新本館は、外壁や内装を再利用することが検討されている。是非、再利用を実現してほしいと願う。


 大阪市中央区心斎橋筋1-7-1
 地下鉄御堂筋線心斎橋駅下車


・平成30年3月3日(土) 山の上ホテル(東京都千代田区)


山の上ホテル



 駿河台の丘の上にアイボリーホワイトの清楚なホテルが建っている。山の上ホテルである。山の上ホテルは、客室35室の小規模なホテルである。昭和11年(1936年)竣工、設計は、大丸百貨店心斎橋店と同じヴォーリズである。

 当初は、「佐藤新興生活館」として建てられた。これは、実業家・佐藤慶太郎(1868~1940)が、欧米を模範とした衣食住、家庭経済、風俗習慣などの改善研究を提唱し、それらを実験的に行う研修会館として建てられたものだった。
 しかし、昭和16年(1941年)、太平洋戦争中に帝国海軍に徴用され、終戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収された。

 GHQの接収解除を機に、実業家・吉田俊男(1913~1992)が佐藤家から建物を借り受け、内部を改装して、昭和29年(1954年)、ホテルを開業した。

 山の上ホテルもアメリカン・アール・デコの建物である。尖塔部分は古代インカ帝国のピラミッドか水晶の標本のように見える。


車寄せの上


 アール・ヌーヴォーは、動物や植物などの生命体をモティーフにしていたが、次の時代に流行したアール・デコは、動物や植物は残ったが、アール・ヌーヴォーの写実的なものから図案化されたものに変化した。新しく、金属、鉱物の結晶体などの無機物がモティーフとして登場した。これは、19世紀末頃から機械化、電化が進み、工業を中心に生産力を伸ばし、大量生産や大量供給を可能にした時代を反映したものと考える。

 客室35室のこじんまりしたホテルで、オープンな雰囲気ではなかったのでホテル内部の見学をお願いすることを躊躇した。ホテルの解説文にも内部は大幅に改装されていると書かれてあったので外観だけを見学するにとどめた。


 東京都千代田区神田駿河台1-1
 JR中央線御茶ノ水駅
 地下鉄丸ノ内線御茶ノ水駅 地下鉄半蔵門線 都営地下鉄新宿線 三田線神保町駅下車


同年3月25日(日) 伊勢丹百貨店新宿本店(東京都新宿区)


伊勢丹百貨店新宿本店


 伊勢丹百貨店新宿本店は、明治通りと新宿通りの交差点に位置する巨大な建物である。
 新宿通りに面した正面玄関の横の外壁にプレートが嵌め込まれ、概ね次のことが記されている。


 「伊勢丹百貨店新宿本店は東京都選定歴史的建造物である。昭和8年(1933年)竣工、設計者は清水組設計部である。
 明治19年(1886年)、伊勢屋丹治呉服店として神田に創業した伊勢丹(いせたん)は、昭和8年(1933年)、郊外と都心を結ぶターミナル駅として急速に発展しつつあった新宿に本拠を移し本格的な百貨店を目指した。

 店舗は、ゴシック的モティーフとアール・デコ的意匠を混在させた折衷様式のデザインでまとめられた。(中略)
 この建物の外装は垂直線を強調した構成で、2~3階までの下層階はブロンズ製の精緻なレリーフ、照明用ブラケットなどを配している。」


 三越は英国王室御用達のハロッズ百貨店を手本としているのに対し、伊勢丹はニューヨークのメイシーズ百貨店を手本にして開業した、と記述している文章を以前に読んだことがある。
 メイシーズ百貨店は、1851年創業。1858年に、ニューヨーク最初の店舗を構える。この店舗は、2009年まで世界最大の売り場面積を誇っていた。ショーウインドウの装飾やイベントの開催を積極的に行っている。

 延伸した中央線や各電鉄会社が郊外に線路を伸ばし、宅地造成を行った。サラリーマンが空気のきれいな郊外に引っ越し、健康的な生活を目指して設計された住宅に住んだ。当時は新宿も郊外に過ぎなかったが、新宿駅の乗降客が増え、新宿は繁華街となった。
 清水組は、現在の清水建設である。清水組はアール・デコをよく理解し、日本人だけでアメリカン・アール・デコの建物を建てるという快挙を成し遂げた。

 伊勢丹の外壁に施された装飾は、アール・デコの幾何学的模様の他に、石造の装飾も圧巻である。アメリカ人建築家・フランク・ロイド・ライト(1869~1959)設計の建造物の装飾によく見られるマヤやアステカ文明の建造物の装飾を彷彿させる。




 フランク・ロイド・ライトについて、
 目次6、平成24年5月19日、目次8、同年11月4日、目次9、平成25年1月5日、目次18、平成26年11月15日、目次19、同年12月26日、
 「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。


正面玄関


正面玄関扉


 10時に開店する。新宿通りに面した正面玄関から入る。
 「おはようございます! いらっしゃいませ!」の声が上がり、その声に合わせて広いフロアーいっぱいに立っているおおぜいの従業員が一斉に頭を下げる。これは開店のときにはどこでもやっていることであるが、伊勢丹の客を迎える挨拶は他と比べると抜きんでて徹底している。遠くの隅に立っている従業員も頭を下げる。
 1階は化粧品、海外の高級ブランドのアクセサリー、ハンドバッグの売り場だから可能なのだろうが、社員やメーカーの派遣店員のほぼ全員が服は黒と決められているようである。
 メインの通路がまっすぐ奥まで延びている。通路の両側のそれぞれの売り場に立って客を迎える従業員の立つ位置も決まっているようで、同じ間隔をとって立っている。
黒い服の従業員全員が等間隔に立って深々と頭を下げる。
 エスカレーターで上がる。客の顔が見えてくると「おはようございます! いらっしゃいませ!」と大きな声がかかり、そのフロアーの従業員がやはり一斉に挨拶する。却って恥ずかしくなり、足が前に出しにくくなる。しかし、慇懃無礼ではないので不愉快ではない。客を迎える暖かさが伝わってくる。

 20年程前まではデパートの閉店は今と比べて早かった。6時だったと思う。仕事の帰りに立ち寄るとすぐ閉店の時間になった。
 伊勢丹では閉店の時間になると、
「好きにならずにいられない」の曲が流れた。エルヴィス・プレスリー(1935~1977)がコンサートのフィナーレで好んで歌ったナンバーである。その曲をバックにアナウンスが流れる。「閉店の時間になりましたが、お買い物途中のお客様はごゆっくりお買い物をお続けくださいませ」、切ない気持ちにさせる曲だから、優しい言葉が加わって、一層しんみりとなっていた。

 急に雨が降り出しても、ビニールの袋で覆った紙袋を既に用意している。
 客を暖かく迎え、気持ちよく帰ってもらうことを伊勢丹の従業員が一丸(いちがん)となって務めていることを感じる。
 伊勢丹は、いつも明るく新鮮で、若々しい。しかし、軽薄ではない。

 新宿は、他の繁華街に比べると、女性に比して男性が多く足を運ぶことから、伊勢丹は、昭和43年(1968年)、隣接する土地に別館を建て、「男の新館」と名付けた。この名称は、その後、「メンズ館」と改められた。

 平成23年、伊勢丹は三越に吸収合併された。株式会社伊勢丹は解散し、株式会社三越伊勢丹が発足した。これはたいへん寂しいできごとだった。
 今後は、伊勢丹のみの名称を冠した店舗はできなくなり、その代わり、三越伊勢丹の名称で事業を展開するのだろう。それでも伊勢丹の名称が残っただけでも良しとしなければならないだろう。
 どのような形態になっても、伊勢丹が客を大切にする姿勢はこれからも変わらないと思う。


玄関装飾


 東京都新宿区新宿3-14-1
 JR中央線 小田急線 京王線新宿駅
 地下鉄丸の内線 副都心線 都営新宿線新宿三丁目駅
 西武新宿線西武新宿駅下車


・同年3月31日(土) 東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)(東京都港区)

 東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)は、通常、写真撮影は禁止されている。建物の外観を撮ることも禁止されている。但し、1年に1回又は2回、期間限定で撮影が許可されることがある。ここに掲載する写真は、4年の間、数回通って撮りためたものである。


 旧朝香宮邸(あさかのみやてい)は、平成27年、邸の本館、茶室、倉庫、自動車庫の4棟と正門が国重要文化財に指定された。その解説として、門を入ったすぐ右手に説明板が立っている。長い文章であるが、旧朝香宮邸についてほぼ分かるから全文を記す。


 「朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)王の住宅として昭和8年(1933年)に竣工した建築群で、昭和22年まで朝香宮の本邸として使われていた。

 本館は鉄筋コンクリート造2階建(1部3階建)で、外観は簡明な意匠である。中庭を囲むロの字形平面の南半分を客間や住居とし、他を事務や厨房にするのはこの時期の宮内省内匠寮(たくみりょう)設計の邸宅に共通の配置である。南側テラスは洋風庭園へ続き、和風庭園や正門からのアプローチも往時の雰囲気を良く留める。和風庭園には茶室が現存する。

 本館主要室の内装設計はフランス人装飾美術家アンリ・ラパンが担当、実施設計は内匠寮工務課技師の権藤要吉らが分担して行った。鳩彦殿下と允子(のぶこ)妃殿下は大正14年(1925年)にパリで、のちにアール・デコ博といわれる美術博覧会を視察。新邸にもアール・デコ様式が随所に採用され、新鮮かつ洗練された華やかな意匠に満ちている。正面玄関のガラス扉は工芸家ルネ・ラリックの作品として有名である。

 当時最新のフランスの芸術作品を取り入れたこの建物は、宮内省内匠寮による邸宅建築の頂点のひとつとして意匠的に優れ、価値が高い。」


 港区白金台(しろかねだい)の森の奥に瀟洒な邸宅が建っている。フランス人の芸術家と宮内省内匠寮の合作による建物である。建物内部はフランスのアール・デコに満たされている。建物全体が芸術品として評価され、「アール・デコの館」と呼ばれている。

 戦後、外務大臣の公邸として吉田茂(1878~1967)が住み、首相公邸、国賓、公賓の迎賓館として使用され、昭和58年(1983年)、約16、000㎡の洋風庭園と和風庭園を加えて東京都の庭園美術館に生まれ変わった。建物の延べ床面積は約2、100㎡である。
 (宮内省内匠寮の作品である
旧李王家東京邸について、目次36、平成29年10月30日参照)

 後にアール・デコ博といわれた大正14年(1925年)にパリで開催された美術博覧会は、最新のデザインによる建築、庭園、家具他新しい工業製品などが展示された。
 21ヶ国が参加したが、アメリカは参加しなかった。参加しなかったが、アメリカはアール・デコのデザインにネオ・ゴシック式を加え、直線を強調し、フランスで生まれたアール・デコをアメリカン・アール・デコに発展させた。
 フランスのアール・デコは、アメリカン・アール・デコが持つ力強さはないが、同じパターンの繰り返しや幾何学的、図案化によって清新で、華麗な美を創り出した。

 設計を担当した権藤要吉(ごんどうようきち)(1895~1970)を中心に、全体の設計は宮内省内匠寮工務課が担当した。
 内装は朝香宮鳩彦殿下(1887~1981)と允子妃殿下(1891~1933)の強い要望でフランス人のインテリア・デザイナーである
アンリ・ラパン(1873~1939)に依頼される。ラパンは、1925年にパリで開催された美術博覧会の副会長として開催に尽力し、フランス大使館や国立セーヴル製陶所等多くのパヴィリオンの企画やデザインを担当した。
 ラパンは、朝香宮邸のため、4人のフランス人の芸術家を起用する。いずれも著名な芸術家であった。


・正門


正門




 正門は4枚の扉で構成され、鉄製の鋳物造りである。中央の扉は両開き、左右の扉は片開きである。
 以前、フランスのアール・デコのデザインによる装飾金物の写真集を見たことがある。中に、この正門の意匠とほぼ同じデザインの扉が
載っていた。資料を調べて参考にしたものと思われる。
 門灯は幾何学的なデザインである。


 

門灯


 門から玄関までのアプローチは約100mの距離がある。緩やかに曲がる道の両側に樹木が聳える。左側の木立の間から芝生が広がる洋風庭園が見える。気品のある本館に着く。


東京都庭園美術館(旧朝香宮邸)


・正面玄関


玄関扉



 玄関ホールの正面に、4人の女人像を象ったガラス扉がある。フランス人のジュエリーデザイナーであり、ガラス工芸家であるルネ・ラリック(1860~1945)が制作した特注品である。女人像は、鋳型にガラスを流し込む製法で作られている。

 中央の2枚が扉として開閉し、両側の2枚は固定されている。当時、来客はこの扉から中に通された。扉を開けると大広間が現れる。現在は保護のために開閉不可となっている。

 右側の出入り口から室内へ入る。
 室内へ入った正面に、枠内に幾何学的模様の鉄の工芸品を嵌め込んだ黒い大理石が見える。背景にガラスパネルが設置されていて、パネルに、鉄で造られた椿の花と葉模様を張っている。



・次室(つぎのま)


香水塔


 大広間の隣に次室がある。次室は、黒漆の柱、プラチナの箔を散りばめた朱色の人造石の壁、白漆喰のドーム型天井、中央に白磁の噴水器が設置されている。頭頂部の渦巻きの内部に電球を設置していたので渦巻きは光を放っていた。
 当初は、渦巻きの間から水が流れ水盤に落ちる仕組みになっていた。その後、渦巻きの上に香水を施し、渦巻き内部に設置された電球の熱で香料が気化し、香水の香りが漂った、という由来から「香水塔」と呼ばれていた。

 香水塔はフランス国立セーヴル製陶所製作。フランス海軍から贈られたものである。香水塔はアンリ・ラパンのデザインになる。ラパンは、香水塔の他、大広間、大客室、小客室、次室、大食堂、2階の書斎、殿下居間の7室の設計を手がけている。

 美術博覧会の写真を見ると、ラパンが企画やデザインを担当した国立セーヴル製陶所のパヴィリオンに、香水塔の渦巻きに似た頭頂部を持つ建造物が複数建っている。
 噴水は、水が規則的な動きをするからだろうか、アール・デコのモティーフに使われることが多い。

 次室の前を通って、大客室へ入る。


・大客室


大客室


香水塔


 大客室から次室の香水塔を望むことができる。

 大客室は花をモティーフにして、4人のフランス人の芸術家が技術の粋をつぎ込んだ、とりわけ美しい空間である。

 漆喰の天井からラリック制作の二つのシャンデリアが下がる。



 翼のように広がった部分は花びらや葉に見えるが、鋸(のこぎり)状の形が機械の歯車にも見える。



 真下から見上げると、花に見えるが、また、雪の結晶のようにも見える。



 大客室と大広間、次室、大食堂のそれぞれの間にガラスの扉がある。エッチングガラスである。




 エッチング・ガラスの扉は、画家であり、ガラス工芸家であるマックス・アングラン(1908~1969)の制作である。
 エッチング・ガラスは、ガラスの表面に型紙などで保護部分を作り、それ以外の部分を硫酸などの薬品を用いて腐食させて制作するガラスである。

 ガラス扉の絵は花をテーマにしているのだろう。抽象的な絵である。美しい線で描かれた絵は明るく、軽快で、春の野に草木が萌え、花が咲き、蝶が舞う情景を思い浮かべる。

 ガラス扉上のタンパン(半円形の飾り部分)は、軽快な曲線と幾何学的模様で美しい。制作者は、鉄工芸家・レイモン・シュブ(1893~1970)である。


タンパン


 エッチング・ガラスやタンパンのデザインの抽象的な形態は、当時の芸術の分野では前衛的なものだっただろう。アングランやシュブは、アール・デコの次にパリで起こりつつあった斬新なデザインを大客室のために積極的に用いた。

 壁面の上部を囲むように描かれた壁画はラパンによる。


・大食堂


大食堂


 大客室とエッチング・ガラスの両引き戸で仕切られている大食堂へ入る。庭園に向かって窓が円形に大きく張り出している。大食堂も4人の芸術家が制作に携わっている。

 大食堂は食材をモティーフにしている。窓の下と暖炉のラジエーター・カバーは、魚と巻貝と浅利の意匠である。

 天井からラリック製作の三つのシャンデリアが下がる。パイナップルと柘榴(ざくろ)が型取りされている。



 イタリア産の黄褐色の大理石のマントルピースと壁画はラパンの制作である。赤いバーゴラと泉、様々な果物が描かれている。黄褐色の大理石は、柱の表面や壁面上部にも使われている。



 壁面の銀灰色のパネルは、石膏で仕上げられた植物のレリーフである。制作者は、彫刻家であり、画家であるアレクサンドル・ブランショ(1868~1947)である。

 大食堂のエッチング・ガラスの扉も大客室と同じアングランの制作である。洋梨や栗、グラスが描かれている。


 これまでに5人の芸術家の作品を紹介したが、5人とも日本に来ることはなかった。全てフランスで制作された作品が、スケッチ、図面、設置や組み立ての指示書、手紙と共に送られてきた。宮内省内匠寮は、その指示に従って建築部材を組み立て、設置した。
 5人の芸術家の作品の他は、宮内省内匠寮の作品である。5人の芸術家の作品と宮内省内匠寮の作品を並べても違和感がない。宮内省内匠寮がアール・デコを充分に研究し、よく理解した成果であると考える。

 大客室だけではなく、各部屋のラジエーター・カバーは宮内省内匠寮の作品であるが、各部屋のテーマと他の作品によく調和している。

 次の写真は、各部屋のラジエーター・カバーの一部である。「香の図(こうのず)」など日本古来の文様のものもある。



香の図


 旧朝香宮邸は、1階は賓客をもてなすパブリック・スペースであり、2階は家族の居住空間であるプライベート・スペースとなっており、1階と2階の使い方が分かれていた。

 大広間を通って、第一階段を上がる。第一階段は、室内へ入った正面に見えた黒い大理石の裏側にある。
 同じように枠内に幾何学的模様の鉄の工芸品を嵌め込んだイタリア産の黒い大理石が階段の手すりになっている。大理石は、部屋全体に格調の高さと華やぎをもたらす。途中まで、背景にガラスパネルが設置されていて、パネルに、鉄で造られた椿の花と葉の模様を張っている。

 大理石の手すりは階段状に積み上げられている。規則的に積み上げる造形はアール・デコのデザインによく見られるが、安定と落ち着きを与える。


第一階段



照明柱


 2階の広間に照明柱が立っている。階段の手すりのガラスパネルに張られたものと同じ椿の花と葉の模様が施されている。

 階段を上がって左へ曲がり、左から順に室内を見学する。若宮寝室、寝室と居間をつなぐ合(あい)の間、若宮居間が並んでいる。

 次の写真は、若宮寝室と若宮居間の照明器具である。照明器具のデザインは部屋ごとに全て異なっている。宮内省内匠寮の制作である。


若宮寝室照明器具


若宮居間照明器具


・書斎

 書斎と殿下居間は、ラパンが手掛けている。
 書斎は正方形の部屋の四隅に飾り棚を設置し、付け柱を8本置くことで室内を円形に仕上げている。天井もドーム型である。全てが部屋の中心に向かう求心的な設計になっている。八角形の絨毯や絨毯の模様、半円形の机も求心的に造られている。室内と同様に、絨毯、厚いガラス板を載せた回転式机、椅子もラパンのデザインである。



・殿下居間

 半円筒形ヴォールトの天井である。


殿下居間


 殿下寝室と妃殿下寝室の間に第一浴室がある。

 允子妃殿下は明治天皇第八皇女であった。邸の完成を楽しみにしていたが、竣工から僅か半年後の昭和8年11月、病死した。


妃殿下居間照明器具 


・ベランダ


ベランダ



 建物の南側にベランダがある。ここから洋風庭園や和風庭園を望むことができる。南向きだからサンルームとしても使われていただろう。
 殿下寝室と、妃殿下の寝室と居間からのみ出入りできたことから夫妻専用のベランダと説明されている。

 床には、国産の白と黒の大理石が市松模様に敷かれている。


 妃殿下居間を出て左へ曲がる。部屋が二つある。手前は姫宮寝室、奥は姫宮居間である。

 妃殿下居間の前に戻り、広間の方向へ歩く。左側に、中庭に面した北側ベランダ(北の間)がある。
 夏、家族団らんの場として使用されていた、と説明がある。上部には天窓を設けて外光を取り入れ、窓を大きく取り、開放的な造りになっている。

 後戻りして、一旦、第二階段を下りて、細部に気を付けながら、もう一度、第二階段を上がる。
 1階から2階へ上がる階段と通路の間の丸い窓のフレームは幾何学的模様である。


第二階段・1階から2階への階段


 2階から3階へ上がる階段の手すりに幾何学的模様の鉄工芸品を嵌め込んでいる。


2階から3階への階段



・本館南側


本館南側


 外へ出て、洋風庭園から本館南側を見る。左手の半円形に飛び出している部屋は大食堂である。大食堂の屋上はベランダになっていて、妃殿下居間から出入りできるようになっている。
 パラペット(屋上のへり)に、幾何学的模様の凹凸のあるテラコッタが張られている。


パラペット


 昭和63年(1988年)、読売新聞社発行の『東京建築懐古録』に、前年の昭和62年に旧朝香宮邸を訪れたパリのカルナバレ美術館の館長夫妻が、「フランスにだってこれだけのアール・デコ様式の建物はめったに見られない」と感心していたことが載っている。

 また、当時の東京都庭園美術館副参事が次のように語っている。
 「本来の美術館ではないから、展示には工夫や配慮が必要です。随時、いろいろな美術品を並べていますが、いざ作品を置くと、不思議に何でも似合ってしまうんです。」

 建物そのものの展示会が年に1回程開催される。普段は別の場所に保管されている当時使用していた家具が展示されたり、通常は立ち入り禁止になっている部屋を公開したりする。建物自体の公開のときは、できるだけ訪ねることにしている。
 その他の展覧会も一般の美術館と同じ頻度、同じ期間で開かれているが、アール・デコ、ヨーロッパ、1900年代から30年代をテーマにしたものが多いように思われる。

 一般の美術館は、絵画展のときは平らな壁面に絵画を並べて展示する。工芸品なども一列に並べて展示されるが、庭園美術館は、各部屋を利用して展示する。展示品を一列に並べたり、一ヶ所のガラスケースに入れてしまう、ということはない。鑑賞するのに、館内全部を回ることになる。
 展示されている絵画から絵画、美術品から美術品へ移動しながら室内の意匠や家具、調度を見る。2階へ上がると、ベランダへ出て、洋風庭園を眺める。


 東京都港区白金台5-21-9
 JR山手線 東急目黒線目黒駅
 地下鉄南北線 都営三田線白金台駅下車


・同年4月1日(日) 日本郵船氷川丸(横浜市中区)


氷川丸


 横浜の山下公園に日本郵船の氷川丸(ひかわまる)が繋留されている。氷川丸は、昭和5年(1930年)、横浜船渠(せんきょ)(現・三菱重工業横浜製作所)で竣工した大型客船である。

 氷川丸は、全長163、3m、船幅20、12m、総トン数11、622トン、最高速力18、38ノット、船客定員286名であった。
 ノットは、1時間に1海里(かいり)進む速さである。1海里は1、852mであるから、1ノットも1、852mである。これで18、38ノットを計算すると34、039mになる。従って、氷川丸の最高速力は時速約34キロである。

 当初はシアトル航路の船であった。昭和8年(1933年)に来日したチャールズ・チャップリン(1889~1977)も利用した。また、秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)殿下(1902~1953)、勢津子(せつこ)妃殿下(1909~1995)ご夫妻も利用された。
 戦中と終戦直後は、海軍特設病院船や復員輸送船に用いられ、戦後は横浜と函館、釧路間の航路、アジア、北米等の外国航路貨物船として就航し、再びシアトル航路に戻ったが、昭和35年(1960年)に役目を終えた。その間、太平洋を254回横断した。
 因みに、横浜とシアトル間の航行は約22日を要した。

 平成28年、国重要文化財に指定された。

 船内の一等社交室、一等食堂、一等食堂前の主階段室、一等喫煙室、一等児童室、一等読書室は、フランス人デザイナー・マルク・シモン(1883~1964)によりアール・デコのデザインにより設計された。
 シモンはマルセイユに工房を持っており、そこで制作されたものが送られてきて、氷川丸に設置された。シモンも来日することはなかった。

 シモンは、日本に最初にアール・デコを紹介したデザイナーである。

 順路に従って船内を見学する。

 一等児童室の前は主階段室になっているが、主階段室は、ここからは入れないようになっている。


・一等食堂


一等食堂


 一等食堂へ入る。テーブルセッティングがされている。
 説明書が架けられている。


 「昭和12年(1937年)10月2日、秩父宮両殿下の乗船にあたり、船内には、すっぽん、松茸など特別な食材が持ち込まれ、いつも以上に豪華なディナーが用意されました。
 ここでは、10月4日のディナーのメイン料理とデザートを再現しました。
 大皿に美しく盛りつけられた料理は、目の前で給仕が取り分けました。

 コースメニューの中に日本料理があるのは、日本郵船のメニューの特徴です。」


 10月4日のディナーのメニューが記されていたので、転記する。


 オードブル     
    ビュージェット湾産のシュリンプカクテル 

     塩漬けタンのサンドイッチ
    トマトのコロニークラブ風 肉の詰め物
     アンチョビーペースト 

 ・スープ
    温蟹コンソメスープ ブリュノワーズ風
    チキンクリームスープ ロシア風

 ・魚
    スプリングサーモンのワレスカ風

 ・アントレ
    去勢鶏のカフェドパリ風
    胸腺肉のトゥールズ風
    白鳥のバター焼き青トウモロコシ添え

 ・日本料理
    しじみ汁
    柳川鍋

 ・ロースト
   羊のロースト グロゼイユのジュレ添え
   野鴨のロースト オレンジ飾り
   オニオンのクリームあえ
   ボイルドポテトとブラウンポテト
   スチームドライス

 ・コールドブッフェ
   乳のみ子牛肉の冷製仕立て
   ボイルドハム

 ・サラダ
   キュウリとレタス

 ・スイート
   ロイヤルスフレプディング アプリコットソース添え
   フルーツ入りペンシルバニア風ウエハース

 ・ケーキ 
   セイボリー
   チーズ 

 ・デザート 
   ドライジンジャー又は砂糖漬けジンジャー ドライなつめやし 干しぶどう
   ドライイチジク フレンチプルーン ドライライチ 取り合わせナッツ
    スノーフレークビスケット チーズ
    洋梨 バナナ

 ・デミタスコーヒー


 部屋の中を通って食堂を出る。主階段室へ入る。


・主階段室


主階段室


 階段の手すりと階段周りは華麗な空間だった。手すりの太い矩形と細い曲線が組み合わされて、豪華客船にふさわしく豪奢な雰囲気を湛えている。
 階段を上がる。正面に大きな鏡が設置されている。鏡に、反対側の手すりの美しい曲線が写っている。





 一等読書室の中を通って一等社交室へ入る。


・一等社交室


一等社交室


 一等社交室は、船内にいることを忘れるほどの高い天井と広い部屋である。アール・デコのデザインによる華麗な装飾で満たされている。



天井ガラスパネル


 扉は、主階段室の手すりと同じ細い曲線が典雅な雰囲気を醸し出している。



 部屋の説明書があり、次のように説明されている。


 「氷川丸のメインホールで、船内の公式レセプション会場として使用されていました。夜は、椅子や絨毯を片付けて、ダンスパーティーの会場になるなど、一等船客の社交場ともなっていました。喫煙室に対して、女性の社交場としての性格が強いので、一段と優雅な装飾が施されています。」


 一等社交室を出て、展示室の前を通る。当時のシアトル航路の旅に関連する展示物を見る。一等喫煙室へ入る。


・一等喫煙室


一等喫煙室


 天井の中央は天窓になっている。天窓のガラスパネルは、幾何学的な模様である。


天窓ガラスパネル


 部屋の説明書があり、次のように説明されている。

 「喫煙室では、世界の上級品の酒、煙草がそろっていました。煙草を吸いながらグラスを傾け、カードゲームなどを楽しむ、主に男性の社交場でした。」


 船首に向かって左側に一等客室が並ぶ。


・一等特別室

 一等客室の端の船首側に一等特別室がある。


一等特別室寝室


一等特別室居間


 居間と寝室の間に浴室がある。
 この部屋に、チャップリンや秩父宮殿下、妃殿下が泊まられたのだろう。居間、寝室のどちらにも美しいステンドグラスが嵌め込まれている。



 鉄の階段を上がって最上段のデッキへ入る。みなとみらい21が見える。


みなとみらい21


 左端に、横浜税関庁舎が見える。ベージュ色の外壁に、イスラム教寺院のモスクを彷彿させるエメラルドグリーンの塔を載せている。優美な建物である。
 税関庁舎は、昭和9年(1934年)建築、鉄骨鉄筋コンクリート造5階建。高さ約51mである。
 当時、横浜港では税関庁舎が最も高い建造物であった。そのため、横浜を出港する船からは、この塔が最後まで見えて、入港するときは、この塔が最初に見えたと言われている(税関庁舎については、目次23、平成27年9月20日参照)。

 税関庁舎の右手に、横浜ランドマークタワーが建っている。高さ296、33m、70階建てのビルである。

 横浜ランドマークタワーの右手に並んで建つ3棟の超高層ビルは、クイーンズスクエア横浜である。高さを順番に低くしている。高さは異なるが、ビルのデザインは同じである。3棟が相似形をなしている。波をイメージして造られた美しいビルである。

 右端に、海に浮かぶ風を孕んだヨットの帆をイメージした外観のヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルが見える。これもとても美しいビルである。

 更に鉄の階段を上がる。船首が見える場所に出た。今まさに出航し、港を出て大海原へ進む情景を想像する。



 操舵室(そうだしつ)へ入る。部屋の説明書があり、次のように説明されている。

 「操舵室は船の総司令室。運転士が24時間体制により船の安全航行を見守る場所です。船内の各部署の状況が把握できるよう、さまざまな装置が集まっています。」

 操舵室に隣接して船長室がある。部屋の説明書があり、次のように説明されている。

 「船長専用の居室兼寝室です。何か起こったときにはすばやく対応できるよう、操舵室から最も近いところにあります。また、船長室と操舵室は『伝声管(でんせいかん)』という連絡用のパイプでつながっており、いつでも操舵室の航海士が船長に連絡をとれる仕組みになっていました。」

 二つの鉄の階段を下りる。


・屋外デッキ


屋外デッキ


 右手に港を見ながら、屋外デッキを歩く。屋外デッキから鉄の階段を下りて、建物3階分ほどが吹き抜けになっている機関室を見学する。


・機関室


機関室



 船内というよりも大きな工場のようである。

 説明書がある。全文を記す。


 「ここはエンジンルーム。船の心臓部です。このエンジンは、デンマークのB&W社で製造されたダブルアクティング・ディーゼルエンジンです。
 8つの気筒で構成されるディーゼルエンジンが、右と左に1基ずつ設置されています。気筒内のピストン上下運動によりクランク軸を回転させ、プロペラを回して船を動かします。
 このディーゼルエンジンは、昭和5年(1930年)の竣工当時最新鋭のエンジンで、その当時のままに残された貴重な産業遺産でもあります。」


 鉄の階段を上がる。三等客室の前を通る。説明書があり、概ね、次のようなことが記されていた。

 「三等客室のエリアは、一等船客のエリアと区画され、自由に行き来することはできませんでした。三等船客が一等デッキへ行くには、見学申し込みが必要でした。」  

 展示室の前を通る。当時の氷川丸の航跡について解説している展示物を見る。

 マルク・シモンは、第二次世界大戦前、大型豪華客船と讃えられたフランスのイル・ド・フランス号(1927年)、ノルマンディー号(1935年)、氷川丸の他、日本郵船が保有していた秩父丸(1930年)、日枝丸(1930年)など多くの船の内装の設計、施工を行った。
 旧朝香宮邸の大客室の
ガラス扉上のタンパン(半円形の飾り部分)を制作した鉄工芸家・レイモン・シュブも、イル・ド・フランス号の内装の設計、施工に加わっている。
 以前、神田の洋古書店で、建造当時に出版されたノルマンディー号の写真集を見たことがある。船内の殆どが、アール・デコのデザインに満たされていた。

 第二次世界大戦前にシモンが手掛けた大型豪華客船で現存するのは、唯一氷川丸だけである。



 横浜市中区山下町山下公園先
 JR京浜東北線 根岸線 関内駅
 みなとみらい線元町駅 中華街駅下車





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