39 河原町芹町 中庄浜~西浜 朽木(滋賀県)


・平成30年5月7日(月) 彦根城周辺  

 東京駅6時26分発「ひかり501号」に乗る。8時48分に米原駅に着く。琵琶湖線に乗り換える。約5分で、一つ目の彦根駅に着く。

 今日から4泊予約している駅の近くのホテルサンルート彦根へ行き、荷物を預かってもらい、チェックインの手続きもやっておく。
 
滋賀県を旅行するときいつも立ち寄る駅前の観光案内所へ行き、今回訪ねることを予定している場所について尋ね、観光パンフレットをいただく。

 彦根城は11年前に訪ねているので、彦根城へは行かないで、昨年と同じように彦根城周辺を散策する。
 しかし、天気予報では、今日1日滋賀県は雨になっている。曇り空で、いつ雨が降り出してもおかしくない空模様なので、雨が降り始めたら駅に戻ることにする。

 彦根城については、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月24日、昨年の彦根城周辺については、目次33、平成29年5月8日参照。

 駅前からタクシーに乗り、中堀に架かる京橋の傍に建つ旧西郷屋敷長屋門の前で降りる。


旧西郷屋敷長屋門



 旧西郷屋敷は、彦根藩第三家老、3500石の西郷藤左衛門伊豫(いよ)の屋敷だった。寛保2年(1742年)に建立され、明治16年(1833年)に現在地に移築されたと推定されている。市指定文化財である。

 長屋門は、桁行(けたゆき)43、9m、梁間(はりま)5m。彦根城下で現存する長屋門中最大のものである。両開きの板戸を配し、両側に潜戸を設けている。門の両脇には出窓がある。格式の高さを示す重厚な長屋門である。
 屋敷跡は裁判所と検察庁になっていて、門の外観のみを見学することができる。

 雨が降ってきた。傘をさして戻る。途中、昨年も見た表門橋、馬屋を見て、佐和口を通り、美しい「いろは松」の前を歩く。

 駅の手前のホテルのレストランに入る。彦根に来たとき時間があれば、昼は、このレストランで食事するようにしている。
 5月の月ランチを注文する。

 ・和洋旬彩五種盛り、と称して、大きな籠に五つの小ぶりの器が納められ、それぞれ次の料理が入っている。
   カツオのたたき  オニオンスライス、梅のゼリーが添えてある。
   タコ、エビ、貝類のシーフードマリネ
   パイナップル、オレンジ、キーウイ、ミニトマトの上に生ハムが載っている。
   翡翠の色の豆腐  枝豆が入っているのではないかと思う。
   地元産の野菜のサラダ

 ・アイナメの木の芽(山椒)焼き
 ・豚ロースのアスパラ巻き
 ・近江米 ゴリの佃煮 赤カブ
 ・モロヘイヤとオクラの冷製蕎麦
 ・デザートは4種類のケーキの中から選ぶ。抹茶のガトーショコラをいただく。

 手頃な値段で豪華でおいしい食事ができた。

 食後、駅の待合室で、観光案内所でいただいたパンフレットを見る。
 チェックインの時間になったのでホテルへ入る。

 彦根でホテルに泊まるとき、夜、ホテルの部屋で食べるものを駅前の大型店の地下にあるスーパーへ買いに行く。店内で調理されて、すぐ食べられる寿司や、その他の食品がパックに入っている。

 湖北の郷土料理である「焼鯖(やきさば)そうめん」を置いてあることがある。いつもあるわけではないので、あるときは買うことにしている。
 甘辛く煮込んだ焼鯖と、そうめんを焚き合わせて作る。骨まで柔らかくなった焼鯖の切り身は香ばしく、細いそうめんに煮汁が絡んでとてもおいしい。長浜の食堂で「焼鯖そうめん」の看板を出している店はよく見たが、食堂で食べたことはなかった。


同年5月8日(火) 河原町芹町(彦根市)

 早朝、ホテルを出て、JR彦根駅に隣接する近江鉄道彦根駅へ行く。彦根駅7時発の電車に乗る。一つ目の「ひこね芹川駅」で降りる。

 平成28年7月25日、彦根市河原町芹町地区が国重要伝統建造物群保存地区に選定された。
 慶長9年(1604年)から始まった彦根城の築城に伴って城下町も建設された。河原町芹町地区は、城下町内外の人々が集まる繁華街として栄えた伝統的な町並みを残している。

 この地区の伝統的建造物は88軒あり、その内5軒が国登録有形文化財に指定されている。

 駅を降りたが、昨日、観光案内所でいただいた保存地区の案内書には、駅と保存地区の間が省略されているので、駅から保存地区までの道が分からない。立ち止まって、案内書と周囲を交互に見ていたら、ゴミを集積場に出しに来た70代半ばくらいの男性が、どちらへ行くんですか、と声をかけてきた。案内書を見せて、保存地区へ行きたいことを話すと、男性は、保存地区までの道順を教えてくれた。また、保存地区の近くに、昔の遊郭の通りがあることや、芹川があるが、川向うに、古い仏壇屋さんが並んでいる通りがあり、その通りもいいですよ、と教えてくれた。
 昔の遊郭の通りは、今日、見ることができるだろう。彦根はまた来年、来る予定だから、川向うの通りは、そのときに行ってみようと思った。

 男性は、電気工事の仕事をしていたが、高いところへ上がって工事をしたり、重い電気機器を取り付けたりすることが体力的に困難になったので現在は仕事はやってない、と言った。会社を経営していたらしく、会社名が書かれた建物と自宅と思われる家が並んで建っている。
 お礼を言って、教えていただいた道を歩く。

 保存地区へ入る。車は時々通るが、人の気配はなく、静かな通りである。この通りは、芹川の旧河道を埋め立てて造られた。そのため、通りはまっすぐではなく、緩やかに蛇行している。

 150m程歩く。右手に、江戸時代後期建築の森家住宅が建っている。かつては生糸を生産、販売する商家だった。通りに面した建物は主屋である。格子を並べ、2階には虫籠窓(むしこまど)と袖壁を設けている。国登録有形文化財である。


森家住宅


 斜向かいに、紅殻(べんがら)塗りの連子格子(れんじこうし)が美しい民家が建っている。


連子格子


 50m程歩く。右手に、美しい建物が建っている。切妻屋根は、上に反っている「起(むく)り屋根」である。手間も費用もかけた建物である。2階に虫籠窓と軒裏塗籠(ぬりごめ)を設けている。両端に袖壁がある。




虫籠窓


軒裏塗籠


 左右に小路が出てくるが、表通りと十字路を形成することはなく、小路から見るといずれも表通りに対して字路を形成している。城下町への侵入者の見通しをきかせないようにして、迷わせるための当時の地割が残っている。

 200m程歩く。車の往来が多い道路へ出た。ここで初めて十字路が出てきた。この道路は昔は川だった。現在、川は道路の下を流れている。川を暗渠(あんきょ)にするときに十字路を造ったと思われる。道路の反対側へ渡る。ここから少し人や車が増えてきた。

 250m程歩く。左側に、曹洞宗大雲寺が建っている。その斜向かいに日蓮宗妙源寺が建っている。


妙源寺 山門(佐和山城遺構)


 妙源寺の山門の前に説明板が立っている。一部を記す。

 「文禄元年(1592年)の創立で、石田三成の居城であった佐和山城の法華丸を移転したものと伝えられます。また、祖師堂(日蓮聖人のお堂)は、彦根藩第八代藩主井伊直定公の寄進により建立されました。」

 妙源寺の山門は赤門である。この赤門を見たとき、彦根城京橋口から始まる夢京橋キャッスルロードに面して建つ浄土宗宗安寺(そうあんじ)の山門を思い出した。宗安寺の山門も赤門である。しかも、宗安寺の赤門は、慶長8年(1603年)、石田三成(1560~1600)が城主であった佐和山城の大手門を移築したものである(宗安寺の赤門については、目次21、平成27年5月4日参照)。

 赤門のことも気になったが、それよりも法華丸と呼ばれた建造物の一部でも移築されているものと思い境内に入った。境内には、天明8年(1788年)建立の祖師堂と、最近の建立と思われる本堂が建っているだけである。誰かに尋ねたいと思ったが誰もいない。


祖師堂


 通りに戻る。大雲寺が経営していると思われる保育園が大雲寺の隣に建っている。保育園の出入り口に、園児の見守り役をやっているのか、60代くらいの女性が立っていた。
 その女性に、佐和山城から移築されたものはどれですか、と伺ったら、女性は、私は分かりませんから分かる人に聞いてきます、と言って、小路を隔てて建つ商店へ入った。商店から70代くらいの女性が出てきたが、この女性も、私は分かりませんから主人を呼んで来ます、と言って店内へ入って行った。商店は古道具を商っているようだった。

 お待たせしました、と言って、ご主人が出て来られた。70代半ばくらいの方だった。
 挨拶をして、佐和山城から移築されたものはどれですか、と伺ったら、あの赤門ですよ、と言われた。移築されたものが他にもあるのかと思ったが、赤門だけだった。

 佐和山城の旧大手門を移築した宗安寺の赤門は、大手門が
馬に乗ったまま入れるようにしていたために敷居がない。妙源寺の赤門も敷居がなかった。

 また、昔の遊郭の通りと、川の向こうに古い仏壇屋さんが並んでいる通りがある、と聞いたんですが、遊郭の通りは近くですか、と伺うと、近くですよ、行きましょう、と言って、保育園と男性の店の間の小路へ入って行った。
 50m程歩く。右手に狭い路地が延びている。この路地が遊郭の通りだったのだろう。通りの両側に、バーやスナックの名前が書かれた照明器具を取り付けた2階と3階の小さなビルが櫛比(しっぴ)している。
 遊郭だった建物で残っていた2軒の建物を教えてくれた。1軒は木造、2階建ての大きな家という以外特別に感じるものはなかったが、もう1軒は2階の窓はサッシに変えているものの、1階の玄関の格子と出格子、棟から軒にわたす垂木(たるき)を受ける太い桁(けた)と壁の、剥げかかった紅殻塗りに艶めかしい雰囲気が残っていた。


元遊郭だった家


 「ぼくが中学生の頃、遊郭のお姐さんが、高校生になったら遊びにいらっしゃい、と言っていたのに、高校へ入ったら遊郭が無くなっていた」と男性が言って、二人で笑った。

 川向うの通りはこちらですよ、と言ったので、来年、また彦根へ来ますので、そのときに行こうと思っています、と話したら、遠くからでも見えますから見える所まで行ってみましょう、と言って、2軒の遊郭だった建物の間の小路を先へ進んだ。

 50m程歩く。5段ほどの石段がある。石段を上がる。土手の上に出た。琵琶湖へ注ぎ込む芹川が流れている。芹川に架かる恵比寿橋の上から川を見る。きれいな水が流れている。川岸から2人の釣り人が川面に釣竿を伸ばしている。
 「鮎を釣っているんですよ」と男性が言った。また、「ぼくが子供の頃は、もっとたくさんの鮎がいて、川へ入って、手づかみで鮎を獲っていましたよ」と言った。

 橋の上から川向うの通りの建物の屋根や赤煉瓦の建造物が見えた。

 保存地区の表通りに戻る途中、男性が自分のことを話した。
 「生まれは東京ですが、昭和20年3月10日の東京大空襲で焼け出されて、お袋の実家があった彦根へ引っ越しました」
 「毎朝、彦根城へ歩いて行ってるんですよ」と言ったので、びっくりして、「ここから彦根城までは遠いでしょう」と言ったら、「遠いですけど、健康のためにさらに遠回りして行ってるんですよ」と言った。

 店の前で、丁寧に案内していただいて、面白いお話を聞かせていただいてありがとうございました、とお礼を申し上げた。男性は、また近くへ来たら寄ってください、と言って、店の中へ入って行った。
 保育園の前に立っていた女性にも、親切な人に案内していただいて、いろいろお話を伺って楽しかったです、とお礼を言った。女性は、私の兄です、と言って笑った。

 妙源寺の隣に、美しい白壁の蔵を持つ出口酒店が建っている。享保2年(1717年)創業の出口酒店は、元は布を商う商店だった。明治になってから酒屋になったが、屋号「布市」を今も掲げている。


出口酒店


出口酒店 蔵


 100m程歩く。昭和11年(1936年)建築の宇水(うみず)理髪館が建っている。正面アーチ上部に、バリカンを模した装飾が見える。2階にベランダを設けている。当時はモダンな床屋さんとして評判を呼んだだろう。国登録有形文化財である。


宇水理髪館


 200m程歩く。「銀座」の信号がある十字路へ出る。人も車も多くなり、賑やかな場所である。その一角に、大正7年(1919年)建築の滋賀中央信用金庫銀座支店(旧明治銀行彦根支店)が建っている。国登録有形文化財である。


滋賀中央信用金庫銀座支店


 彦根市河原町芹町地区の国重要伝統建造物群保存地区は、ここまでである。約1キロにわたっている。

 町並みを見ながら、同じ道を通って戻る。
 今日も朝から曇っていたが、何とか雨に降られることもなく今日の予定が終わったので良かった。

 初めに、いろいろと教えていただいた男性が、自宅と会社の横にある広い畑で畑仕事をしていた。私に気づいて仕事を止めて近づいてきた。
 お礼を言って、遊郭の通りも見てきました、と言ったら、子供の頃、あの通りは電気がたくさんついて賑やかでしたよ、と言った。
 保存地区で親切に案内してくれた男性が、毎朝、彦根城まで歩いて行ってる、と言ってました、と話したら、自分も今は時々だけれども、以前は毎朝、行っていた、と話した。私が、彦根城までは遠いでしょう、と言ったら、近道を選んで行くんですよ、と言った。
また、彦根市民は、彦根城は無料で入れる、ということも伺った。
 いろいろと教えていただいたことのお礼を申し上げる。ありがとうございました。

 「ひこね芹川駅」から電車に乗り、彦根駅に戻る。
 観光案内所へ行って、保存地区を訪ねたことを話し、地元の人から、芹川の向こうに古い仏壇屋さんが並んでいる通りがあることを伺いましたが、その通りのパンフレットはありますか、と尋ねたら、「ひこね七曲(ななま)がりマップ」という観光マップを出してくれた。城下町と中山道を結ぶ通りである。
 また、こんなものもありますよ、と言って、今日訪ねた通りが保存地区に選定される前に作成されたマップを出してくれたので、それもいただいた。

 お礼を言って観光案内所を出て、昨日、昼、食事をしたホテルへ行く。
 月前半のサービスランチがあり、洋食と和食から選ぶようになっている。洋食を注文する。

 スープ  大麦とひよこ豆入りのコーンスープ
       寒かったので熱いスープがおいしい。

 メイン   ポークソテーと旬の野菜のミルフィーユ仕立て
       ミルフィーユは、重ねるという意味があるのだろう。
       ソテーされたポークと炒めた野菜が4段に重ねて出された。
       付け合わせのポテトも、スライスされて炒められた数枚が重ねられている。

 サラダ  地元産の野菜を使っている。

 丁寧に作られていて、おいしかった。

 食後のコーヒーをゆっくり飲みながら、先ほど観光案内所でいただいた「ひこね七曲がりマップ」と「保存地区に選定される前に作成されたマップ」を見る。
 「ひこね七曲がりマップ」は、城下町と中山道を結ぶ通りを紹介している。今日、歩いた通りと同じく、通りの両側に、古い民家、商家、寺、神社が建っている。「保存地区に選定される前に作成されたマップ」を見ると、今日、歩いた表通りには、江戸時代から昭和初期にわたる、様々な時代の建物や、多彩な商いの商家が並んでいた。しかし、これだけではなく、表通りから小路や路地に入ると、足軽組屋敷や古い料亭が並ぶ通りがある。
 来年は、ひこね七曲がり、と保存地区の小路や路地を歩こうと思った。

 ここで、今日、二人の男性が毎朝、彦根城へ通っている、という話を思い出した。
 城へ着くまでの通りを歩くことも楽しいのではないかと思った。彦根市は、内堀、中堀、外堀の跡が残っている。また、城下町だった時代の地割が
現存している。
 当時の通りをできるだけ再生した夢京橋キャッスルロードも欅並木が美しい。彦根城への行き帰りに、昔の名残りがある通りを、毎朝、変えて歩いてみるのも楽しいだろうし、途中、四季折々、変化する欅の木を眺めながら歩くのもいいな、と思った。


・同年5月9日(水) 中庄浜~西浜(高島市)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。彦根駅6時33分発米原行きの電車に乗る。5分後に米原駅に着く。隣のホームに停車している敦賀行きの電車に乗り換える。朝、早いからまだ直通の電車はない。
 電車は6時50分に発車する。7時23分に近江塩津駅に着く。電車を降りて、ビルの2階に相当するほどの階段を下りて、線路の下を潜り、下りたときと同じ数の階段を上がり、隣のホームへ行く。駅のホームに立っていると、冷たい風が吹いてきて寒い。
 敦賀駅を発車した近江今津行きの湖西線の電車が来る。電車は7時34分に発車する。7時48分に近江中庄駅に着く。

 駅を出て右へ曲がり、線路の反対側へ出る。琵琶湖が見え、湖畔に沿って続く美しい松並木が見える。

 500m程歩く。中庄浜の信号がある通りを反対側へ渡り、「近江湖の辺(うみのべ)の道」と名づけられている琵琶湖の湖岸を巡る道に入る。
 昨年5月10日、
近江今津から、ここ中庄浜(なかしょうはま)まで「近江湖の辺の道」を歩いた(目次33、平成29年5月10日参照)。
 今日は、ここから先へ歩く。左へ曲がる。

 今津浜(いまづはま)から高木浜(たかぎはま)まで約5キロに亘ってクロマツの並木が続いている。松並木は、明治末期に防風林として植林されたのが始まりで、「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松(はくしゃせいしょう)百選」に選ばれている。

 海津(かいづ)方面の山が見えるが、曇っているのでぼんやりとしか見えない。

 昨日から曇っていたので気になっていたが、雨が降り出した。傘をさして歩く。
 1、5キロ程歩く。百瀬川に架かる橋を渡る。歩いている道が湖から離れ、民家の間に入っていくが、しばらく歩くと民家がなくなる。唐崎神社の前を通る。知内川に架かる大川橋の手前を右へ曲がり、川に沿って歩き、
知内浜(ちないはま)のキャンプ場へ行く。

 松林の中のキャンプ場は、テントはもちろん人の姿も見えない。松林を抜けて砂浜へ出る。右手に琵琶湖を見ながらきれいな砂浜を歩く。
 知内川の河口に架かる、吊り橋を模した白鷺橋を渡り、高木浜のキャンプ場へ入る。キャンプ場の端を歩き、「湖の辺(うみのべ)の道」に戻る。

 右へ曲がり1、5キロ程歩く。西浜(にしはま)に着く。今回は距離は短いが西浜まで歩く予定だったから、今日はここで歩くのは止める。次回は、ここから海津(かいづ)まで歩き、昔、湖上輸送の港として栄えた海津の町を散策しようと思っている。

 左へ曲がる。「西浜」の信号から国道161号線へ入る。斜めに後戻りするようになる。500m程歩く。マキノ駅に着く。
 帰りは楽だった。近江塩津駅で乗り換えるが、降りたホームの反対側に姫路行きの新快速が待っている。マキノ駅から約1時間で彦根駅に着いた。


・同年5月10日(木) 朽木(高島市)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。昨日と同じ時間の電車を乗り継いで、7時53分に近江今津駅に着く。隣のホームへ移動して、電車が来るのを待つ。
 入線した京都行きの電車に乗る。電車は8時12分に発車する。二つ目の安曇川(あどがわ)駅に8時20分に着く。

 駅前からバスに乗る。バスは8時35分に発車する。昨年、興聖寺(こうしょうじ)鯖街道で賑わった朽木(くつき)を訪ねたが、今日、また朽木を訪ねる(目次33、平成29年5月11日参照)。9時6分に終点の朽木学校前に着く。

 ようやくいい天気になった。久しぶりに青空を見る。

 国道367号線(若狭街道)を後戻りする。国道の右側に「道の駅 くつき新本陣」が建っている。50m程歩く。左側に「鯖街道」の表示がある。そこから旧道の鯖街道へ入る。

 昔の物資の集散地だった「市場(いちば)」地区へ入る。「市場」で、小浜から運ばれた海産物と、京都から持ち込まれた上方の物資の商いが行われた。
 「市場」の通りは屈曲して、全体を見通すことができないように造られている。敵の侵攻を遅らせるために造られた鍵曲(かいまがり)と呼ばれた地割りが現在も残っている。

 当時、賑わっていた通りは、現在は静かで、整然としている。通りに沿って設けられている用水路は、きれいな水が勢いよく流れている。2、3段の石段が造られている。「川戸(かわと)」と呼ばれている。石段を下りて用水路で洗濯したり、農機具を洗ったりしているのだろう。


朽木 市場


立樋


 昨年来たときは気がつかなかったが、用水路の傍のあちらこちらに、赤煉瓦を積み上げた大きな煙突のようなものが立っている。高さはまちまちである。説明板が掛けられていて、これは、「立樋(たつどい)」と言うものであることを知った。「川戸」とともに説明されているので、全文を記す。

 「川戸(かわと)
 市場の街路のかたわらには必ず用水路が見られます。これは江戸時代の初めに整備されたと
言われ、日常は種々の洗い物をするのに用いられ、夏には道路に打ち水をして涼をとり、冬には除雪を融かすために利用されました。また、火災が発生した際には消火用水として機能しました。」

 「立樋(たつどい)
 レンガ造りの分水塔です。町の西方山腹の湧水を樋で導水し、サイホンを利用して各家庭に送水しています。水源ごとに立樋が建てられ、数軒の水仲間で管理しています。」
 

 昭和8年(1933年)建築、木造モルタル3階建、延床面積258、87㎡の丸八(まるはち)百貨店が建っている。国登録有形文化財である。現在は、百貨店ではなく、他の施設に活用されている。
 扉を押して中へ入り、見学することをお願いする。60代くらいの女性がおられて、どうぞごゆっくり見てください、と言った。
 面積83、01㎡の1階は軽食、喫茶室、その厨房、無料休憩所になっている。無料休憩所には観光パンフレットが置かれている。女性は、軽食、喫茶室を担当しているようである。

 木の階段を上がる。1階の一部が2階吹き抜けになっている。2階は荷物が置かれて倉庫のようになっていた。3階は集会室として利用されているようである。
 1階へ降りた。お茶が出されていて、お盆の上にポットも置かれていた。お礼を言って、お茶をいただく。女性に、内部は当時のままですか、と伺ったら、いいえ、殆ど変えられています、ということだった。
 立樋のことを尋ねた。女性は、ここでも使ってますよ、と言って、建物の裏へ案内してくれた。目立つほど大きいものでもないステンレスのタンクが設置されて、水道管と同じものがタンクから出ていた。
立樋も煉瓦造からステンレスに変わってきているのだろう。
  水圧の関係で水が出にくいときもありますが、とってもおいしいんですよ、と言った。 

 昨年、朽木を初めて訪ねた。曹洞宗興聖寺を拝観し、境内にあり、足利庭園と呼ばれ、昭和10年(1935年)、国の名勝に指定された旧秀隣寺(しゅうりんじ)庭園を見学した。
 その後、下へ降りて市場地区へ入り、
鍵曲と呼ばれている地割、きれいな水が流れている用水路や紅殻塗りの旧い商家の建物を見ながら歩いていた。

 そのとき、疲れてるようですね、と声をかけられた。私と同じくらいの年齢の男性が、理髪店の前に、ニコニコしながら立っていた。
 私が、ええ疲れてます、と言ったら、男性が、ちょっと休んだほうがいいですよ、中へ入ってください、と親切に仰って、理髪店の中へ案内した。男性は理髪店のご主人だった。
 お客さんはいなかった。私に椅子をすすめて、紅茶を出してくれた。
 それから旅行の話をした。ご主人も旅行が好きで、奥さまとよく旅行される、ということだった。
30分ほどお話をした。お礼を言って、また来年、朽木を訪ねる予定であることを話した。こちらへ来たら、また寄ってください、と言われた。

 帰りながら思いついたことがあった。
 ご主人は私と同じくらいの年齢の方だったから、昭和30年代は小学生だったと思われる。その頃、まだ「市場」が、小浜から運ばれた海産物と、京都から持ち込まれた上方の物資の集散地として機能していていたのではないか、もしそうだったら、ご主人は、その光景を見たのではないかと思い、それを尋ねたらよかったと思った。
 来年、朽木を訪ねたとき、そのことをご主人に尋ねようと思った。

 帰ってから、お礼の手紙を出した。ご主人から電話がかかってきて、今度、来られるときは予め連絡をください、と言われた。また、近くに温泉があり、宿泊もできて料金も安いから、今度は、そこへ泊った方がいいですよ、と教えてくれた。
 因みに、温泉は、「くつき温泉 てんくう」で、「道の駅 くつき新本陣」の前からシャトルバスを運行している。

 今回、旅へ出る1週間ほど前に電話をして、今日の11時頃寄らせていただきます、と申し上げた。ご主人は、待ってます、と仰った。

 11時頃、店を訪ねた。ご主人が待っていてくれた。奥さまにご挨拶する。紅茶をいただきながら、1時間ほど旅行の話をした。その中で、「市場」が集散地として活気があった光景を子供のころ見ましたか、と尋ねた。
 ご主人の話では、「市場」は現在と同じで、特別なことは何もなかったですね、ということだった。「ぼくが子供のころと現在違っていることは、今よりも柳の木がたくさん植えられていて、人口は5千人だったことです。人が多かったから賑やかでしたね。現在の人口は、その頃の3分の1以下になりました。」
 道路ができてトラックの輸送に替わり、少なくとも昭和30年代には「市場」は集散地としての役目を終えていたのである。

 また、こちらへ来られたときは寄ってくださいと言われた。お礼を申し上げて店を出た。

 朝、来るとき、「道の駅 くつき新本陣」の2階のレストランで、ランチバイキングをやっている案内を見た。帰りに、そこで食事をする。
 料理の種類は少ないが、地元の野菜を使ったと思われる料理がおいしい。野菜のかき揚げ天ぷらや茄子の天ぷらはからっと揚がっている。ロールキャベツがある。大きなロールキャベツで、キャベツが多いが、このキャベツがとてもおいしかった。他に、野菜の煮物、鯖の塩焼きがあった。


同年5月11日(金) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





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