33 西本願寺飛雲閣(京都市) 近江今津~中庄浜 朽木(滋賀県)


平成29年5月8日(月) 彦根城周辺

 東京駅6時26分発「ひかり501号」に乗る。8時48分に米原駅に着く。琵琶湖線に乗り換える。約5分で彦根駅に着く。
 駅前の観光案内所へ行き、滋賀県の、今回訪ねることを予定している所の観光パンフレットをいただく。

 彦根城は10年前に訪ねたので、今日は彦根城へは行かないで彦根城周辺を散策する(彦根城については、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月24日参照)。

 駅前から城へ向かって真っすぐに延びる「駅前お城通り」を500m程歩く。右手に外堀の跡がある。水は入っていない。
 突き当たって左へ曲がり100m程歩く。右へ曲がる。中堀に沿って「いろは松」と名づけられた美しい松並木が続く。
 100m程歩き右へ曲がる。美しい白壁と中堀の間の道を歩く。白壁の内側は、護国神社があり、隣接して埋木舎が建っている。

 埋木舎(うもれぎのや)を見学しようと思って来たが、月曜日は休館だった。

 埋木舎は、大老、彦根藩第13代藩主・井伊直弼(いいなおすけ)(1815~1860)が17歳から32歳までの青年時代を300俵の部屋住みで過ごした屋敷である。

 案内板に次のように説明されている。

 「直弼は自らを生涯花咲くことはあるまいと埋もれた木にたとえて、この屋敷を埋木舎と呼んだ。ここで彼は茶道、華道、禅、歌道、武術などの研究に励んだ。」

 更に、案内板の説明の一部を記す。

 「嘉永3年(1850年)藩主に、更には安政5年(1858年)4月に幕府の大老職になるや翌々月の6月には幕府の祖法を排して日米修好通商条約に続いて、英、仏、露、蘭の4ヶ国と開国条約を結んで国難を救った。」

 埋木舎の前を通って50m程歩く。十字路の角に、旧池田屋敷長屋門が建っている。昭和48年(1973年)、彦根市指定文化財に指定されている。


旧池田屋敷長屋門


 ここも月曜日は休館だった。案内板の一部を記す。

 「彦根藩では分限(身分)に応じて長屋門の格式が定められており、この建物は、中級武家屋敷の典型をなす長屋門として貴重である。」

 来年、また彦根を訪ねる予定であるから、今度は開館している曜日に埋木舎と旧池田屋敷長屋門を見学しようと思っている。

 後戻りする。右手の中堀の向こうに開国記念館が建っている。昭和35年(1960年)、井伊直弼没後100年を記念して彦根城の佐和口多聞櫓を再現したものである。当時の建築物と見紛うような白壁の美しい建物である。


開国記念館



 元の場所に戻り右へ曲がる。正面左手に、明和8年(1771年)に再建された二の丸佐和口多聞櫓(にのまるさわぐちたもんやぐら)が建っている。昭和26年(1951年)、国重要文化財に指定された。


二の丸佐和口多聞櫓


 案内板が立っている。説明の全文を記す。


 「佐和口は、中堀に開く4つの口の1つで、『いろは松』に沿った登城道(とじょうどう)の正面に位置しています。佐和口には、かつて中堀に接して高麗門(こうらいもん)があり、その内側を鈎(かぎ)の手にまげて櫓門(やぐらもん)が築かれていました。城門(じょうもん)の形式としては最強な桝形(ますがた)で、重厚な構えとなっていました。」


 石垣に沿って歩く。

 佐和口多聞櫓の裏手に当たる場所に、馬屋(うまや)が建っている。


馬屋


馬屋 内部


 案内板が立っている。説明の全文を記す。


 「藩主の馬などを常備した建物。この建物はL字形をしており、佐和口門櫓に接する東側に畳敷の小部屋、対する西側近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっている。21頭もの馬を収容することができた馬屋は、さらに南側に伸びていたようであるが、現在は復元されていない。全国の近世城郭に残る大規模な馬屋として例がなく、国の重要文化財に指定されている。」


 昭和38年(1963年)、国重要文化財に指定された。昭和41年(1966年)から同43年(1968年)にかけて解体修理された。

 駅に戻る途中、昨年9月にも食事した駅の近くのホテルで昼食を摂る。

 ・オードブル  イカと小松菜の和え物、魚のテリーヌ、鶏肉のマリネ
 ・スープ     豆類のクリームスープ
 ・魚料理    カマスの木の芽(山椒)焼き  枝豆のしんじょう添え
 ・肉料理    メンチカツ  ベビーコーン、ミニトマト、スナックエンドウ添え
 ・デザート   桜のケーキ

          桜の葉の香りが移った桜餅に味が似ている。

 駅に戻る。駅の待合室で観光パンフレットを見る。
 チェックインの時間になったので、駅の近くの
ホテルサンルート彦根にチェックインする。4泊予約していた。


・同年5月9日(火) 西本願寺 飛雲閣(京都市下京区)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。彦根駅6時19分発新快速に乗る。7時11分に京都駅に着く。
 駅前からタクシーに乗る。約5分で、浄土真宗本願寺派の本山・
西本願寺に着く。堀川通り(国道1号線)に面して約500mの長い塀が続く。水は入ってないが、塀に沿って濠が設けられている。濠に架かる石橋を渡り、御影堂門を潜って広大な境内に入る。
 この広大な地は、天正19
年(1591年)、
豊臣秀吉(1536~1596)から与えられたものである。

 正面に、寛永13年(1636年)再建の御影堂(ごえいどう)が建っている。東西48m、南北62m、高さ29m、柱227本、瓦115、000枚の巨大な建物である。


御影堂


 御影堂の右手に、本瓦葺、真壁造(しんかべづくり)の目隠塀(めかくしべい)が見える。江戸後期の建築と言われている。

 右隣に、宝暦10年(1760年)に再建された本堂・阿弥陀堂(あみだどう)が建っている。御影堂ほどではないが、阿弥陀堂も東西42m、南北45m、高さ25mの雄大な建物である。二つのお堂は渡り廊下で繋(つな)がっている。御影堂、阿弥陀堂ともに国宝である。
 境内は国の史跡に指定され、西本願寺は、平成6年、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録された。

 御影堂の前に、新緑の葉を茂らせた大きなイチョウの木が立っている。樹齢400年と推定されている。昭和60年(1985年)、京都市指定天然記念物に指定された。


イチョウ


 親鸞(1173~1263)から数えて第25代専如門主の代替わりを披露する伝灯奉告法要が昨年10月1日から今年の5月31日まで、10期に分かれて行われている。
 その期間中、通常非公開の
飛雲閣(ひうんかく)書院が特別公開されている。飛雲閣も書院も国宝である。

 私が飛雲閣を初めて知ったのは、今から13年前の『芸術新潮』2004年6月号に載っていた写真だった。
 池に面して建ち、中に入るときは、小舟に乗って、正式な出入り口である縁の下の石段から入る。三層構造の美しい建物だった。
 飛雲閣は、
豊臣秀吉聚楽第(じゅらくだい)の遺構を、寛永年間(1624~44)、現在地に移築したと伝えられる一方、最初からこの地に創建されたとの説もあり、結論は出ていない、という説明も興味をかきたてられた。
 
鹿苑寺(ろくおんじ)金閣慈照寺(じしょうじ)銀閣西本願寺飛雲閣は、京都の三名閣と呼ばれている。 

 昨年、飛雲閣の特別公開を知り、西本願寺に電話で連絡し、拝観できる日時を確認した。事務局のお話では、飛雲閣の公開時間は、午前9時から12時30分、午後3時30分から5時まで。伝灯奉告法要に参拝した人たちが、参拝が終わって飛雲閣の拝観に訪れることが予想されますから、飛雲閣の拝観を目的にしてお出でになるならば、午前中に拝観した方がいいですよ、と丁寧に案内してくださった。

 京都市の今日の天気予報は、曇りのち午後から時々雨、となっている。
 事務局のお話と、天気予報を考えて、早朝、訪れた。飛雲閣拝観の時間まであと1時間程あるから、その間、広大な境内に建つ建物を拝観する。

 延宝6年(1678年)建築、宝形造(ほうぎょうづくり)の経蔵(きょうぞう)が建っている。貴重な経典が多数収められている。国重要文化財である。


経蔵


 宝暦10年(1760年)建築の太鼓楼(たいころう)は境内からは見えにくいので、いったん阿弥陀門から外へ出て、堀川通りから拝観する。重層の楼閣造り、国重要文化財である。経蔵、太鼓楼いずれも内部は非公開である。


太鼓楼


 観光バスから降り立った観光客、バスガイドや教師に引率された修学旅行生、信徒などおおぜいの人々が続々と境内に入ってくる。
 飛雲閣の拝観の時間が近づいたので、境内の東南隅に建つ飛雲閣の門の前に行く。門の扉は閉じられている。周囲も高い塀を巡らして中は見えない。

 9時に飛雲閣の門の扉が開いた。長い間、拝観を念願していた飛雲閣が現れた。


飛雲閣


 名勝庭園・滴翠園(てきすいえん)に建ち、正面は滄浪池(そうろうち)に面している。薄い板で屋根を葺く、杮葺(こけらぶ)きの屋根、細い柱と手すり。繊細で典雅な建物である。建物のくすんだ茶色と障子の白が寂びた印象を与えるが、三層の楼閣建築が華やかさを湛えている。

 一層の右手は入母屋造、左手は唐破風、二層、三層は建物の中心より左に寄って、左右非対称である。
 60代くらいの男性の案内係の方が、右手の入母屋造の部屋は身分の高い人をお通した部屋だったので、その上に、部屋を造ることはしなかったんです、と説明された。それで、二層、三層が左に寄って、建物が左右非対称に造られていることが分かった。
 左端のベンガラ塗りの建物は江戸時代に増築されたものです、と説明があった。 

 左手の唐破風の部分に「舟入(ふないり)の間」がある。ここが正式な入口であり、池から直接、舟で建物に入る。
 池から「舟入の間」まで石段が造られている。体をかがめて、膝を折って、茶室へ入るときに通る躙(にじ)り口に似ていると思った。


「舟入の間」に入る石段


 二層の杉戸に描かれた三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)の絵に目が引かれた。三十六歌仙は、平安時代の優れた36人の歌人の総称である。
 部屋の内側に描く絵を外側にも描いている。美しい色彩で、人物を等身大に近く描いている。36人の歌人が一堂に会して宴(えん)たけなわ、微醺(びくん)を帯びた歌の名人たちが和歌について語り合う、という情景を想像する。眺めていると楽しくなってくる絵である。


三十六歌仙


 右手に、木造の橋が池に架かっている。屋根付きの橋である。案内係の男性の説明があった。橋の後の建物は蒸し風呂を備えていました。お客さんにさっぱりしてもらってたんでしょうね、と話された。また、その後に見えるのは、お隣の興正寺(こうしょうじ)(真宗興正派)さんの建物です、と説明された。


屋根付きの橋


 手前に石橋がある。この橋は近年、架けられたものと思われる。現在、飛雲閣へ入るときはこの石橋が使われているのだろう。
 石橋を渡った先に白いテントが張られている。あのテントが邪魔ですね、と案内係の男性が言った。テントのために建物の一部が見えなくなっているのである。
 特別公開の期間中、飛雲閣の「八景の間」でお茶席が設けられている。お茶の接待を受けることを希望する人は縁側から入るから、そこで履物を脱ぐことになる。今日は天気が悪いから履物を履いたり、脱いだりするときに雨に濡れないように、という配慮から雨除けのためにテントを張っているのかなと思った。あるいは、特別公開の期間中、テントはいつも張られているのかも知れない。

 因みに、お茶席は午前9時から12時半まで30分毎に行われている。定員は1回50名、原則として予約制。茶席懇志を納める。納められた志は熊本の震災復興支援に充てる、と説明されている。
 私は、お茶席のことは事前に知っていた。飛雲閣の内部を見学するいい機会だと思ったが、時間がかかりそうだったので参加しなかった。

 飛雲閣と滄浪池に相対して築山が造られている。両側に上り道を造り、頂上を峠に見立てている。頂上へ上ったら、滴翠園全体が見渡せると思ったが、築山の上り道の2ヶ所とも柵を置いて、立ち入り禁止になっていた。
 やはり高台に、彫刻が施された
鐘楼が建っている。国重要文化財である。鐘楼も立ち入り禁止の柵が立っていた。


鐘楼


 飛雲閣拝観の人が多くなってきた。飛雲閣の門を出る。
 塀に沿って境内を歩き、唐門を見に行く。塀は筋塀(すじべい)である。


筋塀


 筋塀は、白い横線を入れた築地塀(ついじべい)である。御所または皇室に由来した門跡寺院に用いられることが多い。格式の高さにより、三本、四本、五本の筋の数があり、五本を最高とした。西本願寺の筋塀は五本の白線が引かれている。

 唐門(からもん)が立っている。黒漆の柱や梁に絢爛豪華な彫刻が施された唐破風の四脚門(しきゃくもん)である。麒麟や唐獅子などの想像上の動物や牡丹の透かし彫りを見る。桃山時代の伏見城の遺構と言われ、現在地に移築されたと伝えられている。国宝である。


唐門





 元に戻る。書院の内部を拝観する。内部は撮影禁止になっている。
 玄関を上がって広縁を歩く。右手に、203畳敷きの
対面所(鴻の間)があり、左手の中庭に、南能舞台が建っている。

 対面所は正面が一段高くなっている。上下段の境にある欄間は飛ぶ鳥を透かし彫りにしている。

 元禄7年(1694年)に建てられた南能舞台は現存する日本最大の能舞台である。

 広縁の角に案内係の女性がおられたので、「鴻(こう)」という名の鳥はいませんが、欄間の透かし彫りの鳥はどういう鳥ですか、と尋ねた。女性は、「鴻」は、コウノトリのことです。透かし彫りの鳥もコウノトリです、と説明された。
 また、対面所は秀吉が対面するときに使われたと伝えられています。今でも、対面所で食事会が行われます。能舞台も時々、能が演じられます、というお話も伺った。

 広縁の角を右へ曲がり、細長い「西狭屋の間(ま)」に入る。畳廊下のようなものである。右側に並んでいる雀の間雁の間菊の間を拝観する。それぞれの部屋に部屋の名前の由来となった障壁画が描かれている。雀の間は竹林の中を飛び回る雀、雁の間は飛翔する雁の群れや水辺に遊ぶ雁、菊の間は菊と秋の花が描かれている。

 菊の間の隣は白書院である。賓客を迎える部屋である。白書院の一の間、二の間、三の間の3つの部屋が一列に並ぶ。
 3つの部屋の襖を開いているので、三の間から二の間、一の間と、遠くにある奥の上段まで見渡せる。狩野派の障壁画で彩られている。素晴らしい眺めだった。

 「西狭屋の間」の角を右へ曲がり、やはり細長い「北狭屋の間」に入る。白書院の三の間、二の間、一の間を右手に見ながら歩く。左手の中庭に、北能舞台が建っている。能舞台を二つも備えているのである。北能舞台は天正9年(1581年)建築、日本最古の能舞台である。

 「北狭屋の間」の角を右へ曲がり、「東狭屋の間」に入る。左側に、特別名勝・虎渓(こけい)の庭が広がっている。
 中国の廬山(ろざん)の渓谷・虎渓を模して造られた江戸初期の枯山水の庭園である。御影堂の屋根を廬山に見せた借景の方法を取り入れている。
 大木の間から現れる御影堂の急斜面の巨大な屋根が、急峻な山の斜面に見えてくる。御影堂と阿弥陀堂の裏に当たるから、左手に見える阿弥陀堂の屋根も雄大な山の斜面に見える。
 木が聳え、大きな岩が配されて、正に、深山渓谷に佇む気分になる。豪快に造られた庭園を見ていると、気持ちが解きほぐされていくようである。

 豪華な造作と意匠に圧倒されて書院を出る。西本願寺の門主の生活は、戦前までは大名の生活と変わらなかったのではないかと思った。

 11時になっていた。約3時間いたことになる。飛雲閣はまた拝観したいし、他にも拝観したい建造物があるから、飛雲閣の公開に合わせて西本願寺はまた訪ねたいと思った。

 御影堂門を通る。前を走る堀川通りの反対側に、総門が建っている。両袖に目隠塀が立っている。総門は国重要文化財である。


総門


 元は、この一帯は西本願寺の地所だったのではないか。総門から御影堂門まで参道だったが、堀川通りができて参道が分断され、その後、堀川通りが拡張されて総門が現在地に後退したのではないかと思った。

 総門を潜って正面通りに入る。通りに並ぶ仏壇、仏具の店の向こうに、イスラム教寺院のようなドーム屋根を持つ赤煉瓦の建物が見える。辺りに異彩を放っている。西本願寺伝道院(旧・真宗信徒生命保険会社)である。


西本願寺伝道院


 正面通りが、堀川通りと平行する道幅の狭い油小路通りと交差する十字路の角に建っている。
 明治45年(1912年)竣工、元は西本願寺の信徒のための保険会社の社屋であった。現在は、西本願寺の僧侶の研修施設として使用されている。内部は非公開である。国重要文化財に指定されている。

 設計は、明治、大正、昭和の三代に亘って活躍した建築家・伊東忠太(いとうちゅうた)(1867~1954)である。

 私は4年前の平成25年1月6日、西本願寺伝道院の内部は非公開だったので、外観を見学した(目次10参照)。
 伊東忠太については、目次10目次18参照

 正面通りをそのまま真っすぐ歩く。突き当たって右へ曲がる。30分程歩いて京都駅に着く。


・同年5月10日(水) 近江今津~中庄浜(滋賀県)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。彦根駅6時33分発米原行きの電車に乗る。5分後に米原駅に着く。隣のホームに停車している敦賀行きの電車に乗り換える。朝、早いからまだ直通の電車はない。
 電車は6時50分に発車する。7時23分に近江塩津駅に着く。電車を降りて、ビルの2階に相当するほどの階段を下りて、線路の下を潜り、下りたときと同じ数の階段を上がり、隣のホームへ行く。湖西線に乗り換える。
 敦賀駅を発車した近江今津行きの電車が来る。電車は7時34分に発車する。7時53分に近江今津駅に着く。

 近江今津駅を出て、300m程歩き、今津港の琵琶湖観光船乗り場へ行く。長い桟橋の先に竹生島行きの観光船が停まっている。船が出航する時間にはまだ早いからか待合室には誰もいない。

 近江今津は、今から11年前に訪ねたことがある(「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日参照)。
 そのときは長浜から観光船に乗り、竹生島で降りて、島内を散策した。帰りは長浜行きの船に乗らないで、今津行きの船に乗って対岸の今津港に着いた。

 待合室を出て右へ曲がる。魚屋さんが魚の浜焼きの準備をしている。民家の間から琵琶湖が見える。

 500m程歩く。道が二つに分かれる分岐点に「九里半街道起点」の標識が立っていた。


九里半街道起点(右、近江湖の辺の道  左、九里半街道)


 案内板が立っている。一部を記す。


 「九里半街道は、今津と小浜の距離から九里半(約38キロメートル)であることから名づけられたといわれ、室町時代の史料には「九里半階道路」、「若狭道九里半」などと記されています。江戸時代には、近江側では「若狭海道」とか「大杉越」、若狭側では「今津海道」などとも呼ばれました。小浜に陸揚げされた日本海諸国の産物が、この道を使って今津に運ばれ、湖上輸送により京、大坂へ持ち込まれました。」


 小浜で陸揚げされた海産物が、通称「鯖街道」を通って京へ運ばれたものとは別に琵琶湖を利用した湖上輸送もあったことを、今日この案内板で初めて知った。

 「九里半街道起点」の右は琵琶湖の湖岸を辿る道で、現在「近江湖の辺(うみのべ)の道」と名づけられている。左は「九里半街道」である。
 今日は、「近江湖の辺の道」を歩く予定である。今日の天気予報は、昨日と同じ曇りのち午後から時々雨となっている。空は曇っている。雨が降り出したら歩くのは止めることにして、行けるところまで歩こうと思っている。

 3キロ程歩く。湖岸に建つ民家がなくなった。萌黄色の葉を茂らせた欅が大きく枝を広げている。



 今津浜に着く。ここから約5キロに亘ってクロマツの並木が続く。松並木は、明治末期に防風林として植林されたのが始まりで、「21世紀に引き継ぎたい日本の白砂青松(はくしゃせいしょう)百選」に選ばれている。


湖西の松並木



 松林が途切れる場所には丈の低い様々な花が咲いている。美しい砂浜の今津浜は、夏、水泳場になる。琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)が見える。


竹生島


 2キロ程歩く。海津(かいづ)方面の山が見える。山の緑が湖面に写っている。


海津方面の山


 雨がぽつぽつ降ってきた。湖西線の近江中庄駅が近いので、先へ進むのはここで止める。続きは来年の5月に歩くことにする。駅の屋根が見えるので、それを目印にして駅へ向かう。左へ曲がり中庄浜の信号を渡る。500m程歩く。途中、振り返ると、湖畔に沿って続く美しい松並木が見えた。


・同年5月11日(木) 興聖寺 朽木(くつき)(滋賀県)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。昨日と同じ時間の電車を乗り継いで、7時53分に近江今津駅に着く。隣のホームへ移動して、電車が来るのを待つ。
 入線した京都行きの電車に乗る。電車は8時12分に発車する。二つ目の安曇川(あどがわ)駅に8時20分に着く。

 駅前からバスに乗る。バスは8時35分に発車する。今日、興聖寺と鯖街道で賑わった朽木を訪ねる予定である。

 若狭国小浜で朝、水揚げされた鯖に一塩し、その日のうちに京へ運んだ。夕方には市場に並べられたといわれている。中継点をいくつか設け、リレー式に人を替えながら運ぶ方法と、一人で運ぶ方法があったと思われる。
 「京は遠ても十八里」という言葉が残っている。一里を約4キロとして計算すると、十八里は約72キロになる。72キロの距離は、一人で運ぶ場合は勿論、人が替わる場合でも走らなければ間に合わない距離である。

 夕方水揚げされたときは、薄く塩を引いた鯖やその他の魚を籠に入れて背負い、月明かりを頼りに夜を徹して山道を走ったのだろうか。

 若狭から京へ至る道は数多くあった。それらの道を総称して鯖街道と呼ぶようになった。尤も、鯖街道という呼び名ができたのは最近である。
 鯖街道の中で最も利用された道は、福井県
小浜から福井県上中町の熊川を経由して、滋賀県の朽木を通り、京都の出町柳に至る若狭海道であった。
 鯖街道、小浜、熊川については、「奥の細道旅日記」目次33、平成18年11月4日参照。

 乗客は私だけだった。一番前に座る。バスは旧い民家が並ぶ集落を抜けると田畑の間を走る。以後も集落と田畑が交互に現れる。60代くらいの運転手さんが親切に周囲の説明をしてくれる。

 私は、以前から鯖街道について疑問に思っていたことを尋ねた。
 小浜で水揚げされた海産物を京都まで一人で運んだのか、あるいは途中、中継点を設けてリレー式に人を替えながら運んだのか、ということを尋ねた。

 運転手さんは、これから行く朽木に「市場(いちば)」という名前の地区がありますが、そこが物資の集散地だったんです。「市場」で、小浜から運ばれた海産物と、京都から持ち込まれた上方の物資の商いが行われたんですよ。海産物は「市場」でもう一度、塩を引きました。商人が集まるから商店や旅館もできました、と説明してくださった。
 そうすると、海産物は小浜から「市場」まで運べばよかったことになる。

 また、以前読んだ本に、朝、小浜で水揚げされた鯖が夕方には京都の「出町(でまち)商店街」の店頭に並べられた、という記述がありましたが、それは事実だったんですか、と伺ったら、運転手さんは、半日で運ぶことは難しいでしょうね、と言っていた。

 バスは国道367号線に入る。国道から離れた、民家の間を通る鯖街道の出入り口を運転手さんが教えてくれた。バスがしばらく走ると、また、鯖街道の出入り口がある。ここは「鯖街道」の表示がある。

 約30分で、終点の停留所「朽木学校前」に着く。先に興聖寺を訪ねることを話すと、運転手さんは、国道は車が多いから、と言って、興聖寺へ行く旧道を教えてくれた。
 親切な運転手さんだった。ありがとうございました。

 運転手さんに教えてもらったとおり田畑の間の旧道を歩く。昨日と一昨日とは打って変わって今日は晴れていい天気になった。岩瀬の集落に入る。右手に山側に延びる坂道がある。右手の二つ目の坂道の上り口に「興聖寺」の表示がある。表示に従って坂道を上る。

 バスの停留所から30分程歩いて、曹洞宗高厳山興聖寺(こうしょうじ)に着く。苔むした石碑が点在し、木立の新緑の葉が風に揺れている。清々しい山の寺である。


興聖寺


本堂


 本堂の裏は鬱蒼とした杉林である。杉林は山に続いている。金色のキツネの仔が境内の端を歩いていた。きょろきょろとしきりに辺りを見回していたが、不意に見えなくなった。裏山に帰ったのだろう。

 本堂を拝観した。拝観者は私だけだった。住職の奥さんと思われる40代くらいの女性が説明してくださった。説明の内容は概ね次のとおりである。

 現在の本堂は安政4年(1857年)に再建されたものである。
 朽木村の初代領主・佐々木信綱の曾孫にあたる義綱が姓を朽木と改めた。義綱以後、興聖寺は朽木氏の菩提所となった。

 享禄元年(1528年)、足利幕府12代将軍・足利義晴(よしはる)(1511~1550)は、戦乱の京から逃れて、朽木稙綱(たねつな)を頼って3年程朽木谷に身を潜めた。
 そのとき、将軍を慰めるために京・銀閣寺の庭園をもとに作庭、献上したのが、現在境内にある旧秀隣寺庭園である。

 13代将軍・足利義輝(よしてる)(1536~1565)も、家臣・細川幽斎(藤孝)(1534~1610)を従え6年半程滞在した。
 細川幽斎(ゆうさい)の嫡男・
細川忠興(ただおき)(1563~1646)は、自身の茶の師匠である千利休(1522~1591)をこの庭園に案内した。
 忠興は、後に三斎(さんさい)と称し、父・幽斎と同じく茶の道に精進し、利休七哲の一人に数えられた。 

 冬、境内は雪に埋もれてしまいますが、秋は全部の樹が紅葉になります。庭園もごゆっくりご覧になってください、と終始丁寧に説明していただいた。ありがとうございました。

 本堂を出て、庭園を拝観する。旧秀隣寺(しゅうりんじ)庭園は、足利庭園とも呼ばれている。昭和10年(1935年)、国の名勝に指定された。


旧秀隣寺庭園


 案内板が立っている。説明の一部を記す。

 「この庭は、享禄元年(1528年)朽木稙綱が将軍足利義晴のために館を建てた際、築造したものと伝えられる。慶長11年(1606年)、朽木宣綱が亡き妻のために寺とし秀隣寺と号したが、のち朽木村野尻へ移転し、その跡地へ興聖寺が建てられた。」

 谷を隔てた蛇谷ヶ峰(じゃだにがみね)(標高901、7m)を借景にした回遊式庭園である。水を引き、水を巡らしている。水路を長く延ばしていることから、曲水の宴(きょくすいのえん)が催されたのではないかと思う。洗練された庭園である。

 元亀元年(1570年)、越前の朝倉一族攻略に失敗した織田信長(1534~1582)が、朽木谷を敗走したとき朽木村の領主・朽木元網は信長を匿(かくま)った。

 小谷城城主・浅井長政(1545~1573)は、信長の妹・お市の方(おいちのかた)(1547~1583)を娶ったことから信長と同盟を結んでいた。
 しかし、
信長が一乗谷城の城主・朝倉義景(あさくらよしかげ)(1533~1573)を討ち取るために越前に侵攻したことから信長に叛旗を翻した。浅井長政は、盟友・朝倉義景との同盟を重んじたのである。
 朝倉方に浅井長政が加わったことが信長の敗因であった。
 

 3年後の天正元年(1573年)8月、信長は一乗谷へ侵攻する。一乗谷は焼き討ちにあい、焦土と化す。朝倉義景は、越前大野に逃れ、その地で自刃する(一乗谷侵攻、朝倉義景について、「奥の細道旅日記」目次30、平成18年5月3日及び同目次31、平成18年7月16日参照)。
 続いて8月27日、信長は浅井長政が城主である小谷城に総攻撃をかける。浅井長政は小谷城で自刃する。享年29歳であった(小谷城、浅井長政について、目次27、平成28年4月30日参照)。 

 坂を下り旧道を歩いて、先ほど降りたバスの停留所を通り過ぎて、少し国道を歩く。左側に「鯖街道」の表示がある。そこから鯖街道へ入る。バスの運転手さんが教えてくれた「市場」の地区へ入る。

 通りは屈曲して、全体を見通すことができないように造られている。敵の侵攻を遅らせるために造られた地割りが現在も残っている。
 「鍵曲(かいまがり)」として案内板で説明されている。全文を記す。


 「城下町に特有の道路の構造で、折れ曲がる街路が土蔵などの鍵の形に似ていることから「鍵曲」と呼ばれました。
 敵兵が城下町を通って、一気に城(陣屋)へ攻め寄せるのを防ぐ目的で造られ、クランクを多用することで、敵兵の動きを封じる勢止(せど)めとともに、角陰(かどかげ)に伏兵(ふくへい)を配置することができました。
 かつて、市場の集落内には十三ヶ所以上の鍵曲が設けられていたと言われ、現在でもその大部分が残っています。」


 道路に沿って用水路が設けられ、大量の水が勢いよく流れている。2、3段の石段が造られ、石段を下りて用水路で洗濯できるようになっている。これは、「川戸(かわと)」と呼ばれている。

 「『鯖の道』の由来」と題した案内板が立っている。朽木村誌『鯖の道』より引用している。
 現在呼ばれている「鯖街道」ではなく、以前は「鯖の道」と呼んでいたのだろう。長い文章であるが、この案内で「鯖の道」と朽木のことが分かるから全文を記す。


 「朽木村に通ずる街道(道路)は、いくつかあるが、いずれの街道も行き止まりの道はなく、それぞれが京都へ、あるいは北陸へ、琵琶湖へと通じている。

 元亀元年(1570年)、織田信長が越前の朝倉攻めの際、近江の浅井長政の挟撃にあい、朽木街道を京へ逃げ帰ったことは、広く知られている。

 このように、政治的に重要な街道とともに、経済的にその時代、その地域を支えてきた街道も数多い。その一つが、この『鯖の道』である。
 日本海の海産物を京の都へ運ぶために使われた道で、特に若狭の小浜港で水揚げされた鯖が海産物の
主な物であったことから、これらの運搬に使われた街道を総称して『鯖の道』と呼ばれた。
 若狭と京を結ぶ街道はいくつかあったようであるが、現在、『鯖の道』といえば、上中から熊川、保坂を経由して市場に入り、大原を通って京に至る街道を指しており、その大部分が国道367号線となっている。

 中世以降、この街道はまた湖西街道(現在の国道161号線)の間道としても重要であったようである。この街道は、いつ頃開かれたかは、定かではないが、おそらく平安時代初期から明治になって湖西道路が整備されるまで、約1000年の間、若狭の一塩鯖がこの道を通って運ばれ続けたようである。」


 ベンガラ塗りの風格のある商家が建っている。案内板に「旧商家・熊瀬(くませ)家住宅」として説明されている。


旧商家・熊瀬家住宅


 説明の全文を記す。「市場」が繁栄し、賑わっていたことがうかがえる。


 「室町時代後期(16世紀の初め頃)の文書によると、市場には米、魚、紙などを商う家が17軒存在し、問丸(といまる)や馬借(ばしゃく)という運送業者もいて、繁栄していたことが分かります。
 江戸~明治時代には、米、魚、饅頭、豆腐、炭、綿、金物、桶、傘、呉服、雑貨などを取り扱う商家や、医者、宿屋、風呂屋、質屋、染物屋、駕籠かきなどの業者がいたと言われています。

 とりわけ、熊瀬両家(仁右衛門家、伊右衛門家)は酒造りや醤油造りを本業とする一方で、藩の御用商人としての保護を受け、幅広い商業活動を行っていました。」


 静かで、整然としている鍵曲の道を歩く。通りに沿って設けられている用水路はきれいな水が流れている。ベンガラ塗りの旧い商家の建物が建っている。


朽木・市場の通り



 朱塗りの山神橋を渡る。停留所「朽木グランド前」がある。1時間に1本ほどの少ないバスの便だが、ちょうど10分後にバスが来る時間だった。
 安曇川駅方面行のバスに乗る。朽木は、来年、また訪ねようと思った。


・同年5月12日(金) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





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