27 五個荘 小谷城跡(滋賀県) 春照~関ヶ原(岐阜県)


・平成28年4月29日(金) 五個荘 

 東京駅6時26分発「ひかり501号」に乗る。8時48分、米原駅に着く。山陽本線下りの電車に乗り換える。約5分で一つ目の彦根駅に着く。

 JR彦根駅に隣接している近江鉄道彦根駅へ行く。
 「ワンデイスマイルチケット」を購入する。土、日、祝日に使用できる近江鉄道全線1日乗り降り自由の切符である。往復するだけでも得な切符である。
 9時36分発の電車に乗る。直通の電車ではないので途中、高宮駅で乗り換える。10時5分、五個荘駅に着く。

 五個荘(ごかしょう)は、近江八幡日野と並ぶ近江商人の故郷である。それぞれ個別に、五個荘商人、八幡商人、日野商人と呼ばれることもあり、近江商人というのは、その総称である。
 五個荘は2年前の5月3日に訪ねた。
今日は、そのとき歩かなかった通りを歩き、見学しなかった商人屋敷を訪ねようと思う。

 五個荘については、目次16参照。近江八幡については、目次16、平成26年5月1日、同11、平成25年5月1日、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日及び同24日参照。

 駅を出て400m程歩く。国道8号線に架かる陸橋を渡る。田園地帯の中、左手前方の遠く、繖山(きぬがさやま)の麓に屋敷林に囲まれた集落が見える。五個荘商人が住んでいた金堂(こんどう)地区である。
 ひときわ目立つ建物は弘誓寺(ぐぜいじ)である。弘誓寺を中心にして集落が形成された。


五個荘 金堂地区


 元禄6年(1693年)、大和郡山藩の陣屋が置かれ、陣屋と寺院を中心にして周辺に農家が集まる農村集落が造られた。
 五個荘は、古代条里制の地割を受け継ぎ、寺院を中心とした格子状の地割は現在も変わっていない。

 500m程歩き、一つ目の信号を左へ曲がる。200m程歩く。前回見学した五個荘商人・藤井彦四郎邸の前を通る。600m程歩き右へ曲がる。700m程歩き左へ曲がる。五個荘商人・外村宇兵衛邸白壁の塀が続く静かな通りを歩く。塀に沿って用水路が巡る。


外村宇兵衛邸


 白壁の端に、舟板塀を使用し、用水路の水を邸内に引き入れている箇所がある。舟板塀は琵琶湖の舟運に使用した舟の廃材を板塀に転用したものである。


舟板塀


 右へ曲がり外村宇兵衛邸に入り、邸内に引き入れた用水路の水について見学させていただく。
 敷地内に水路を引き込み、屋根をかけ、洗い場となっている。
川戸(かわと)と呼ばれている。野菜や鍋釜の洗い場の他、川戸は防火用水にもなり、魚も飼える。


川戸(かわと)


 その後、邸内の庭園を見せていただいている間に、人の気配を察して用水路から入って来たのか、或は水の底から浮かび上がったのか、川戸に黒い大きな鯉が3匹泳いでいた。
 3匹の鯉は水面に顔を上げ餌を催促するように口をパクパクさせていた。

 初代・外村宇兵衛(1777~1820)は、近江商人であった6代・外村与左衛門の末子であった。後に分家し、文化10年(1813年)、独立して商いを始めた。主に呉服、太物を商い、東京、横浜、京都、福井に支店を出して、豪商としての地位を築いた。

 外村宇兵衛邸を出て、「花筏通り」を右に曲がる。五個荘商人・中江準五郎邸の前を通る。「花筏通り」と「あきんど通り」が交差する十字路の角に、白壁の蔵が並んでいる。五個荘商人の隆盛を目の当たりにした思いがした。




 真宗大谷派勝徳寺(しょうとくじ)の前の通りである「あきんど通り」を400m程歩く。左へ曲がり「てんびん通り」を100m程歩く。  


てんびん通り


 左へ曲がり、「寺前・鯉通り」に入る。静かな道が真っ直ぐ続き、堀割に錦鯉が泳いでいる。いずれの通りも人も車も少なく静かな通りである。金堂地区は、平成10年、国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。


寺前・鯉通り


 真宗大谷派弘誓寺(ぐぜいじ)と弘誓寺に隣接する浄土宗浄栄寺(じょうえいじ)が建っている。
 弘誓寺の境内に入る。弘誓寺は壮大な寺院である。
富裕な五個荘商人の豊富な寄進があったことがうかがえる。
 宝暦14年(1764年)に竣工された本堂の大屋根には約4万5千枚の瓦が使われている。昭和62年(1987年)、国重要文化財に指定されている。


弘誓寺 本堂



庫裏


 弘誓寺を出て左へ曲がる。「祭・馬場(ばんば)通り」に入り右へ曲がる。「祭・馬場通り」は、道幅が広く、他の通りと同じく静かで、歩いていて気持ちの良い通りである。
 正面の緑濃い景観は、
大城(おおしろ)神社の鎮守の森である。鬱蒼とした森に、美しい拝殿が建っていた。


祭・馬場通り


大城神社 拝殿


・同年4月30日(土) 小谷城跡

 昨日チェックインした彦根駅に近いホテルサンルート彦根を出る。3泊予約していた。
 彦根駅6時32分発の電車に乗る。5分後に次の米原駅に着く。時間が早く直通の電車がないので米原駅6時50分発の電車に乗り換える。7時7分に河毛(かわけ)駅に着く。
 駅前から7時45分発のバスに乗る。10分程乗って、小谷城跡への登り口の近くの停留所で降りる。

 小谷山(おだにやま)(標高494、4m)の中腹に残存する国指定史跡・小谷城跡(おだにじょうせき)は、5年前の4月に来たことがあるが、今日また訪ねる。
 
小谷山、小谷城跡については、目次11、平成25年5月2日、「奥の細道旅日記」目次34、平成19年4月29日参照。

 小谷城が築城されたのは大永5年(1525年)頃であり、初代・浅井亮成から三代・浅井長政(あざいながまさ)(1545~1573)まで浅井氏三代の居城であった。
 小谷城跡は、山頂や山腹に築かれた城である山城(やまじろ)の中で遺構を最もよく伝えているといわれている。

 5年前に来たとき登り口に着いたのは10時頃だった。その時間には登り口と「番所跡」に近い駐車場の間をバスが往復していたのでバスに乗ることができた。その日は寒くて小雨が降りだしたので途中の「本丸跡」で引き返した。
 今日は時間が早いのでバスはまだ運行していないが、良い天気になったので早く歩き始めて上まで上がろうと思っている。

 バスが通る道を上る。道は九十九折になって、上るにつれて風景が変わっていく。木立の間から眼下に水田や民家が見える。



 30分程上がる。望笙(ぼうしょう)峠に着く。琵琶湖と琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)が見えた。琵琶湖は美しく、穏やかに広がっている(琵琶湖と竹生島については、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日参照)。
 バスで上がると5分で着くところを、1時間程かかって「番所跡」に着いた。

 左手の眼下に虎御前山(とらごぜんやま)(標高218、6m)が見える。


虎御前山


 虎御前山の後方は琵琶湖である。平らな場所に一つだけ立つ山は古墳のように見える。右手に琵琶湖と竹生島が見えた。
 虎御前山は、織田信長(1534~1582)が本陣を置いた山である。小谷山との距離は僅か2キロである。

 元亀元年(1570年)6月28日、浅井長政朝倉景健(あさくらかげたけ)(1536~1575)の連合軍と、織田信長徳川家康(1543~1616)の連合軍が、姉川両岸で壮絶な合戦を繰り広げた。姉川の合戦である。
 浅井、朝倉連合軍が18,000人、織田、徳川連合軍が29、000人、合戦は午前5時に始まり午後2時に終わった。死者は2、500人を越えた。
 織田、徳川連合軍の勝利となり、浅井、朝倉連合軍は小谷城他に撤退した。 

 3年後の天正元年(1573年)8月、信長は一乗谷へ侵攻する。一乗谷は焼き討ちにあい、焦土と化す。朝倉義景(よしかげ)(1533~1573)は、越前大野に逃れ、その地で自刃する(一乗谷侵攻、朝倉義景について、「奥の細道旅日記」目次30、平成18年5月3日及び同目次31、平成18年7月16日参照)。
 同じ年の8月、信長は虎御前山に本陣を置く。8月27日、小谷城に総攻撃をかける。浅井長政は小谷城で自刃する。享年29歳であった。

 「お茶屋跡」に着く。土を切り取り、また、盛り土をして、平らにした場所を曲輪(くるわ)と呼ぶ。この曲輪は、現在、杉林になっている。隅に庭園があったと伝えられている。

 坂道を上る。三方を高い土塁に囲まれた広い「御馬屋(おうまや)跡」の前に出る。馬を洗ったと推定されている池が残っている。内側に小さく切り出された石が積まれ水が溜まっている。
 高い場所に水は涸れているが井戸の跡がある。これは人の飲料用に使われたと推定されている。

 坂道を上がる。右手に、上部が平になった大きな石がある。「首据石(くびすえいし)」と名付けられている。


首据石


 小谷城初代城主・浅井亮政(あざいすけまさ)(1491~1542)は、六角定頼(ろっかくさだより)(1495~1552)と戦っていた。ある日、自身が京極家当主として擁立している京極高延(きょうごくたかのぶ)(生没年不詳)の家臣・今井秀信(いまいひでのぶ)(1492~1533)が敵の六角定頼と内通していたことを知る。
 亮政は、天文2年(1533年)正月3日、神照寺(じんしょうじ)に於いて浅井家が中心となって開いた新年の茶会に今井秀信を招き殺害する。
 亮政は、殺害した今井秀信の首をこの石の上に載せ、見せしめのために晒したと伝えられている。

 道は急坂になり、石が地面に露出して歩きにくいが、ブナや楓の新緑が陽に輝いている。朱色のヤマツツジが咲いている。鴬の美しい声を聞きながら歩く。



 

 「桜馬場跡」に着く。小谷城址碑、浅井氏家臣供養塔が立っている。
 眼下に、琵琶湖と竹生島がはっきりと眺められた。
 琵琶湖に面した側の斜面が垂直に幅広く削られている。敵の侵入を防ぐために、土を削り、垂直の崖を造った
切岸(きりぎし)跡を見ることができる。

 「黒金(くろがね)御門跡」は、巨石が残っている。豊臣秀吉(1537~1598)が長浜に城を築く際に黒金御門の巨石の一部を運び出したといわれている(秀吉と長浜城については、「奥の細道旅日記」目次34、平成19年3月24日参照)。
 「黒金御門跡」の石段を上がる。


黒金御門跡


 「番所跡」から上がって来て約1時間で「大広間跡」に着いた。約3,000㎡の広さは、城内最大の曲輪である。石組みの井戸跡がある。


本丸跡から見る大広間跡


 坂道を登る。「大広間跡」から2m程高い場所に「本丸跡」があった。石積みが残る。面積は約1、000㎡である。奥が一段高くなっている。「天守跡」である。


本丸跡


 「天守跡」の背後に堀切(ほりきり)がある。堀切は、尾根筋に攻めてくる敵を防ぐために尾根筋を断ち切った空堀である。
 前回来たときは、ここから引き返した。今日は、ここから上へ上る。
 「本丸跡」から石段を降りて石積みの前を通り堀切に入る。堀切は幅約25mに及ぶ。敵の侵攻を防御するために配置された
枡形虎口(ますがたこぐち)を通って「中丸跡」に着く。


堀切(右、本丸跡  左、中丸跡)


 坂を上る。「刀洗池」の案内板が立つ横の坂を上る。小さな池の跡がある。

 「京極丸(きょうごくまる)跡」に着く。ブナや楓の新緑が湧きたっている。鴬が美しい声で鳴いている。


京極丸跡


 更に坂を上る。「小丸跡」を通る。


小丸跡


 「山王丸跡」の下に巨大な石垣がある。高さ約5m、幅約30m、自然石を加工せず積み上げる野面積(のづらづみ)の積み方である。


山王丸跡下の石垣 野面積



 土砂崩れで転げ落ちて積み重なったような巨大な石の上を這うようにして上がる。「山王丸跡」に着いた。「番所跡」からここまで約2時間かかった。
 「山王丸跡」は小谷城跡の主郭部の最高所であるから、上がるのはここまでにする。

 元気な人たちは、ここから更に道が上へ延びている「月所丸跡」、「大嶽城跡」に上っている。


・同年5月1日(日) 春照~関ヶ原(岐阜県)

 昨日と同じように、早朝、ホテルを出て彦根駅6時32分発の電車に乗る。5分後に次の米原駅に着く。米原駅6時50分発の電車に乗り換える。長浜駅に6時59分に着く。駅の待合室で休む。
 長浜駅前7時40分発のバスに乗る

 3年前に、滋賀県木之本から岐阜県関ヶ原に向かって北国脇往還を歩くことを始めた。
 北国脇往還は北国街道の脇道である。
柴田勝家(1522~1583)が整備したと伝えられ、木之本宿と関ヶ原宿を結ぶ戦国時代の重要な道であった。
 北国脇往還については、目次11、平成25年5月2日、目次16、平成26年5月2日、目次21、平成27年5月3日参照。

 長浜市役所観光振興課発行の『北国脇往還ウォーキングマップ』を長浜市役所観光振興課から送っていただいたので、このたいへん優れたマップと市販の滋賀県の地図を持って、少しづつ歩いている。

 8時17分に、停留所「伊吹庁舎前」に着く。
 春照(すいじょう)の
油里川に架かる北国橋へ行く。昨年の5月3日、北国橋まで歩いたので今日はここから歩く。

 400m程歩く。十字路に出る。常夜燈が立っている。その前を左へ曲がり緩やかな坂を1、2キロ程歩く。
 野頭(のがしら)観音堂跡碑と、「おくのほそ道」に収められていないが、芭蕉の句が刻まれている句碑が立っている。


     頭巾めせ寒むや伊吹の山おろし


 芭蕉は「奥の細道」を歩いているとき、野頭観音堂の前を通ったのだろう。

 観音堂跡碑と芭蕉句碑の前を右へ曲がる。200m程歩き弥高川に架かる野頭橋を渡る。左へ曲がり100m程歩く。
 広域農道へ入り右へ曲がる。車の往来が多い。車やバイクが引っ切り無しにスピードを上げて走って来る。急坂を2キロ程歩く。

 右側に杉林が現れる。車止めのロープが張っている。ロープの下を潜って杉林の中へ入る。左右にジグザグに曲がる暗い林道を500m程歩く。林が終わる。車止めのロープが張っているのでロープの下を潜る。

 「寺林」の集落に入る。水田は満々と水を湛え、田植えを待っている。


「寺林」集落


 坂を下り八坂神社、光了寺の前を歩く。神社と寺を中心にして集落が形成されている。
 「闇坂」と名付けられた急な坂を下る。田畑に沿って美しい新緑の中を歩く。藤古川に架かる寺林橋を渡る。

 1キロ程歩き旧藤川宿に入る。美しい町だった。広壮な民家が並ぶ。家や庭木や生け垣がよく手入れされている。どの家も家の周囲に、牡丹、芍薬、パンジーなど色とりどりの花を咲かせている。余裕のある生活をしている人たちが住んでいるのだろうが、奢侈に流れず住む人の節度が感じられる。
 農作業に出かける人や畑仕事から戻る人たちが、顔を合わせればみんな微笑んで挨拶をしてくれる。
 代々、潤沢な生活を営んでいる人たちと思われるが、生活の基本は質素で慎ましく生きているのだろうと思った。
 長い年月をかけて造られた美しい町を歩いていると、歩いて旅をすることの喜びを感じる。
 


旧藤川宿


 旧藤川宿本陣だった林家が建っている。建物は当時のものではないけれども格式と風格を備えている。
 それにもまして素晴らしいのは家の背後の欅の木である。欅の大樹は今から約400年前、近くの関ヶ原のあちらこちらで起こった合戦を知っているだろう。また、長い年月、夏の強い日差しから家を守ってきただろう。


旧藤川宿本陣


 急坂を200m程下る。国道365号線と合流する。400m程歩き「藤川」の信号がある横断歩道を渡る。
 『北国脇往還ウォーキングマップ』によると、ここから国道と別れて
崖の下に降りて藤古川に沿って歩くのだけれども、国道のガードレールに途切れた箇所はなく降りる道も見当たらない。上から見下ろすと、身の丈を上回るほどの藪になっている。

 少し後戻りすると、水処理施設の入り口があり、施設の建物が藤古川の川沿いに建っている。休日だからかロープが張ってあり入場禁止になっている。仮にロープを潜って下に降りても、藤古川の支流に行く手を遮られ、反対側に渡る橋もない。
 ガードレールを跨いで崖の下に降りることを考えたが、降りても藪の中に入り込み、方向を誤って柵のない川へ転落する虞がある。
 『マップ』が作成された以後、何らかの原因があって藤古川の近くに降りられなくなったと思われる。

 諦めて国道を歩く。岐阜県関ヶ原町(せきがはらちょう)に入る。500m程歩く。右へ曲がる道が現れたので右へ曲がって100m程歩く。北国脇往還に入った。
 北国脇往還を右へ曲がり、行けるところまで後戻りしてもよかったが、今日、関ヶ原駅に着きたかったので先へ進む。

 旧玉宿に入る。石垣の上に建つ民家がある。城のような見事な石積みである。


旧玉宿


 500m程歩く。民家の間の奥に奥平貞治(?~1600)の墓がある。奥平貞治は、徳川家康が指揮官となった東軍に参戦し奮戦するが戦死する。文久3年(1864年)、子孫の奥平新左衛門源貞昭が墓を建立する。墓の右に、顕彰会による記念碑が立っている。

 200m程歩く。国道365号線に合流する。500m程歩く。左へ曲がり国道21号線の下を潜り、国道365号線と離れて「小関」の集落に入る。
 1キロ程歩く。北国脇往還は国道365号線に分断されているので国道に架かる歩道橋を渡る。

 100m程歩く。左側に徳川家康最後陣跡がある。


徳川家康最後陣跡


 公園のようになっているが、芝を張り替え、芝の養生のために立ち入り禁止になっていた。

 300m程歩く。左側に朱塗りの門が立っている。「東首塚」と書かれた額が掛けられている。合戦後、家康が西軍の武将の首実検を行い、首を葬った場所である。


東首塚


 門を入ると、左手にお堂が建てられている。説明書によると、お堂は東西両軍の戦没者の供養堂である。昭和15年(1940年)、名古屋市の護国院から移築されたものである。

 中を通って道路に出る。十字路を右へ曲がる。陸橋を渡り東海道本線の線路を越える。左へ曲がり100m程坂を下る。JR関ヶ原駅に着いた。午後2時だった。

 3年前の5月2日、滋賀県木之本を出発して、木之本と岐阜県関ヶ原を結ぶ北国脇往還を歩き始めた。1年に1日を当てるだけだったので関ヶ原に着くまでに4年かかった。
 毎年5月に歩いた。いつも天候に恵まれ、美しい新緑の中、美しい山や田畑を眺め、古いけれども明るい雰囲気の町並みを歩いた。毎回楽しい旅ができた。長浜市役所観光振興課発行の『北国脇往還ウォーキングマップ』が道案内となったから実現できたと思う。ありがとうございました。

 関ヶ原は、「奥の細道」を歩いているとき通った(「奥の細道旅日記」目次36、平成19年7月15日参照)。その日は、関ヶ原合戦が行われた主な場所だけを見て、中山道を通って大垣まで歩いた。今度、関ヶ原合戦の史跡をゆっくり回ろうと思っている。


・同年5月2日(月) (帰京)

 ホテルで朝食後すぐ帰る。





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