28 田麦俣~注連寺(山形県)


・平成28年8月9日(火) 田麦俣

 東京駅6時8分発上越新幹線「とき301号」に乗る。新潟駅に8時12分に着く。新潟駅8時27分発羽越本線特急「いなほ1号」に乗り換える。

 鶴岡駅に10時19分に着く。駅の観光案内所で、六十里越街道、注連寺の観光パンフレットをいただき、バスを待つ間、駅の待合所で見る。
 11時37分発「湯殿山行き」のバスに乗る。

 12時33分に停留所「田麦俣」に着く。

 年前の平成24年10月6日、田麦俣の民宿・かやぶき屋に泊まり、翌7日、田麦俣(たむぎまた)から湯殿山まで六十里越街道(ろくじゅうりごえかいどう)を歩いた(目次7参照)。
 昨年8月4日、田麦俣の民宿・
田麦荘に泊まり、翌5日、田麦俣から再度、湯殿山まで六十里越街道を歩いた。このときは、最後の1時間30分は4年前とは別の道を歩いた(目次22参照)。
 今回も、昨年と同じように天気予報で10日が晴になることを確認して民宿・田麦荘に今日と明日の宿泊を予約した。明日、湯殿山とは反対の方向の注連寺に向かって六十里越街道を歩く予定である。

 注連寺から先は、9年前の平成19年5月5日、十王峠(じゅうおうとうげ)を越えて松根の集落まで歩いていた。田麦俣と注連寺の間はまだ歩いてなかった。

 注連寺については、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月15日、
 注連寺から赤川までの六十里越街道については、「奥の細道旅日記」目次35、平成19年5月5日参照。

 六十里越街道は、1200年前、奈良時代に開削された湯殿山参詣の巡礼の道であった。最盛期には年間3万人が通ったといわれている。また、庄内の鶴岡から内陸の山形を結ぶ産業道路でもあった。
 田麦俣は、六十里越街道の宿場町であった。
 明治30年代に新道が開通して六十里越街道は寂れたが、近年、歴史的な街道として見直されてきた。長年に亘り地元の住民による継続的で地道な街道の整備等が行われていた。現在も、定期的に整備や清掃が行われている。

 田麦俣、兜造り多層民家については、目次1、平成23年10月9日、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月22日及び9月23日参照。
 湯殿山については、目次1、平成23年10月9日、「奥の細道旅日記」目次15、平成14年10月13日参照。
 六十里越街道については、「奥の細道旅日記」目次14、平成14年9月15日、同目次35、平成19年5月5日参照。 


田麦俣 兜造り多層民家


 兜造り多層民家が2棟並んでいる。左側の建物が「かやぶき屋」である。右側の建物は、県有形文化財指定の旧遠藤家住宅である。江戸時代後期の文化文政年間に建てられたと推定されている。いずれも築200年を越える建物である。
 豪雪地帯に適した多層民家が、明治になって養蚕が盛んになり、通風と採光の必要から妻側の屋根を切り上げ、兜を載せたような形に改造された。2棟とも明治10年代に兜造りに改造された。旧遠藤家住宅は一般公開されている。


旧遠藤家住宅


旧遠藤家住宅


かやぶき家


かやぶき家



 曇っていて気になっていたが小雨が降りだした。
 
田麦川に架かる田麦橋を渡り、兜造り多層民家とは反対の方向へ六十里越街道を歩く。20分程急坂を上る。国道112号線へ出る。右へ曲がる。今日と明日、2泊予約している民宿・田麦荘に着く。

 まだチェックインの時間には早いので、それまで田麦荘の建物の横に置いてある長椅子に座って休むことにする。
 屋根が架かっているので雨に濡れる心配はない。真正面に
月山見えるが、上は雲に覆われている。

 涼しい風が吹いてくる。気温は25度位だろう。朝晩涼しいからだろうか、コスモスが咲いて風に揺れている。他にも沢山の花が咲いている。
 午後3時のチェックインの時間になったので中へ入る。昨年とほぼ同じ日に宿泊したためか、民宿の女性も従業員の方々も私のことを憶えてくださっていた。田麦荘は、食事が豪華でおいしいので楽しみである。

 6時になったので、食事処である和室に入る。テーブルが並べられている。自分の名前があるテーブルの前に座る。
 部屋の片方は全面ガラス窓になっていて、月山がよく見える。

 既にテーブルに並べられている料理がある。

 ・お造り二種 鯛と鮪
 ・穴子入りの茶碗蒸し
  大きな器にたっぷりと入っている。
 ・枝豆
  枝豆は山形の特産品である。

 次々と料理が運ばれてきた。

 ・庄内浜の岩牡蛎
  殻付きの大きな牡蛎だった。レモンを絞る。微かに潮の香りがする生牡蠣を食べると元気になるような気がする。

 ・甘鯛の酒蒸し
  ポン酢に付ける。
 ・
大葉味噌を巻いた、ししとうの天ぷら
 ・豚肉の冷しゃぶ
  添えられてあるモロヘイヤと半熟の卵に混ぜて食べる。
 ・円い笊に入った蕎麦が出された。

  田麦荘は、同じ建物内で蕎麦屋・ななかまど亭を営業している。インターネットで調べると、次のように説明されている。

 「当店のそばは、地元産の『常陸秋(ひたちあき)そば』を使用した外二です。石臼でじっくり丁寧に自家製粉した新鮮なそば粉と清らかな月山の名水を使い、全て手打ちで打ち上げています。」

 食事した人の感想はみんな好評である。
 昨年もいただいたが、今回も、そば粉の香りが分かりおいしかった。

 デザートは、分厚く切ったスイカだった。スイカも山形の特産品である。甘くておいしい。
 今年もおいしい料理をいただいた。明日の夕食が楽しみである。

 館内のあちらこちらで花瓶に活けられた花を見る。館内を飾る花は全て花壇で育てられたものだろう。


・同年8月10日(水) 田麦俣~注連寺

 朝6時30分に起きる。昨日とは違って晴れていい天気になった。
 朝食の時間の7時に食事処へ行く。テーブルの上に、予め頼んでおいた弁当が載っていた。7時15分頃、宿を出る。


 ・(田麦俣~塞ノ神峠)

 民宿の前を走る国道112号線は六十里越街道を分断している。国道を渡り反対側へ行く。
 六十里越街道の入口の左側に、
柳清水(やなぎしみず)が現れる。山間から水路が現れ、水が奔流している。水を受けやすいように途中からホースを入れている。ホースから溢れる水を手に受けて飲む。冷たくておいしい。5杯飲んだが、飲んでいるうちに水を受ける掌が冷えてしまうほどの冷たさだった。

 急坂を上る。15分程上ると平らな場所に出た。左手に田麦俣の集落が見える。両側が畑になっている道を歩く。
 道の左手に池が現れた。きれいな水である。後で民宿の女性に伺ったところ、この池は池の底から水が湧き出ているとのことだった。道理で水がきれいなのである。また、この池の水は農業用水として使われているとのことであった。



 池の横を通って杉林の中へ入る。杉林の中は暗い。15分程歩くと杉の樹が疎らになり幾分明るくなったが、道が膝までの高さの草が生い茂る道になった。
 おびただしい朝露に靴もズボンもびっしょりと濡れる。雨の中を歩いているようである。

 広い場所に出た。今、歩いてきた道を振り返る。



 広い場所は、塞ノ神峠(さいのかみとうげ)だった。田麦俣からここまで約1時間かかった。
 明治4年(1871年)に建立された湯殿山碑が立っている。


塞ノ神峠


 説明板に次のようなことが説明されていた。

 「峠にはかつては掛小屋(茶屋)があったといわれている。塞ノ神とは、道祖神のことで、防障、防塞の神として、外から来る疫病や悪霊を防いだといわれている。」


(塞ノ神峠~旧大日坊跡)

 左手に通じている坂道を下る。途中、右手に水量が豊かな沢が現れる。沢の水音を聞きながら下る。
 坂を下ると舗装された道になる。民家が見えてきた。関屋の集落へ入る。大網川に架かる関屋橋を渡る。
道路の右手に水場があり、筧から水が出ている。

 道路の右手の杉林の奥に存する旧大日坊跡(きゅうだいにちぼうあと)の入口に着いた。塞ノ神峠からここまで約1時間かかった。

 大日坊は、大同2年(807年)、空海弘法大師)(774~835)により開創された。

 旧大日坊跡について、説明板に次のことが書かれていた。

 「大日坊は明治8年(1875年)、火事で焼失してしまった。42間X12間もある本堂をはじめ、庫裏、大日堂他多くの伽藍が広大な敷地に配置されていたという。東側奥に、樹齢1800年といわれる老杉『皇壇ノ杉』がある。」

 旧大日坊跡地と皇檀ノ杉を見るために杉林に入る。

 杉やブナの樹に囲まれた旧大日坊跡地に残る石碑群を見る。


旧大日坊跡地石碑群



 15分程歩く。杉の樹に囲まれた広い場所に、皇檀ノ杉(おうだんのすぎ)が辺りを睥睨するように立っていた。

皇檀ノ杉

 説明板が立っている。全文を記す。


 「この辺り一帯は、昔の大日坊の境内です。
 このスギの大木が皇檀スギです。高さ約27メートル、根周り約8メートル、枝の長さは東西・南北とも約22メートルあります。
 皇檀とは、景行天皇(けいこうてんのう)の御子(みこ)御諸別(みもろわけ)皇子がこの地で亡くなり、そのお墓に植えられたという伝説によるものです。
 昭和30年8月1日、県指定天然記念物になりました。」


(旧大日坊跡~大日坊)

 元の道路に戻り右へ曲がる。十字路に出る。左へ曲がる。大網の集落に入る。

 湯殿山総本寺大日坊金剛院瀧水寺(りゅうすいじ)仁王門の前に着く。旧大日坊跡からここまで約1時間かかった。


大日坊 仁王門


 仁王門についての説明板が立っている。全文を記す。


 「仁王門が建てられた年代はよく分からないが、構造や洋式などから、中世室町以前の古い建築と考えられている。県内では最も古い三間一戸(さんけんいっこ)の八脚門(はっきゃくもん)で、わが国寺院建築史の上で重要な建築物である。屋根は茅ぶき、様式としては絵様(えよう)彫刻や粽(上下を丸く細くした柱)のある円柱など、禅宗様式(唐様)だが、和様の曲線や大仏様式の特色も混じった中世建築の見本のような建物である。
 平成7年12月8日、県有形文化財に指定されました。」


 仁王門は、昭和11年(1936年)、大日坊旧境内より移転された。
 大日坊は、14年前の平成14年9月15日に拝観したので、仁王門だけを拝観する(「奥の細道旅日記」目次14参照)。
 夏空を背にして建つ仁王門は、陰鬱なものはなく明るい雰囲気がある。
 
仁王門に沢山の「わらじ」が結ばれている。六十里越街道を歩いて湯殿山詣でを済ませた人たちが納めたものだろう。


(大日坊~注連寺)

 少し後戻りして六十里越街道に戻り左へ曲がる。道の両側に、一面、美しい緑色の棚田が広がっている。



 小網川に架かる橋を渡り右へ曲がる。民家の間の急な坂を上る。住吉神社の朱塗りの鳥居の前を左へ曲がり、真っ直ぐ歩く。坂を上がる。両側に畜舎が複数建っている。
 杉林の間の道を歩く。木立の間から左手に池が見える。七五三掛(しめかけ)の集落に入る。

 三叉路に出る。右へ曲がる。この道はよく憶えている。過去、注連寺を3回拝観し、注連寺の前を通って十王峠を越えたとき歩いた道である。ホームページには、注連寺を拝観した様子を記したのは1回だけだが、私は、その後、別の年の秋に2回拝観した。 

 道は登りになり、左右に大きくカーブする。道路下に牧草の貯蔵所と思しき太い換気筒を持つ旧い建物があったが、建物は全てなくなっていた。
 30分程歩く。高台の杉木立の向こうに注連寺の巨大な屋根が見えてきた。

 更に10分程歩く。真言宗湯殿山注連寺(ちゅうれんじ)の石段の下に着く。


注連寺


 12時15分だった。大日坊からここまで約2時間かかった。合計すると、田麦俣から注連寺まで約5時間かかった。

 石段を上り本堂の前に立つ。本堂は壮大で雄渾な建物である。


本堂



 本堂の階段を上がり受付へ行く。40代と思われる若いご住職と若い女性がおられた。
 ご住職のお話は、これまでに3回伺ったが、法話は、いつもユーモアをまじえ、難しい仏教の教えも分かりやすくお話していただいた。

 私が、今日、田麦俣から六十里越街道を歩いて、こちらへ伺いました、5時間歩いてくたびれました、と申し上げたら、少し驚かれたようだった。

 今日は、女性に説明していただいた。女性が、おさらいですね、と言って笑った。
 注連寺は、天長2年(825年)、空海の開基である、ということから始まり、注連寺が湯殿山信仰の重要な寺であったことの歴史が語られる。また、月山、湯殿山は、明治になるまで女人禁制だったため、注連寺は女人の遥拝所であったことのお話も伺った。

 本堂に安置されている即身仏・恵眼院(えがんいん)鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)の前に移動する。赤い衣を身に付けて座しておられる鉄門海上人を拝観する。
 鉄門海上人は、宝暦9年(1759年)、西田川郡栄村(現在の鶴岡市)に生まれる。25歳の時、注連寺に入門する。湯殿山で厳しい修行を積み、湯殿山信仰の布教に努める。
 その後、新道の開削工事を行い、眼病の治癒を祈願する他、生涯を人々の救済のために尽くした。文政12年(1829年)、12月8日、71歳で即身仏になられた。上人の多くの偉業は、北海道から関東にまで及んでいる。

 隣の部屋へ移動する。窓から境内に立つ七五三掛桜(しめかけざくら)が見える。
 七五三掛桜は、樹齢約200年。花の色は咲き始めは白く、散る頃になるとピンク色になる。七五三掛桜は、今年、
羽黒山月山湯殿山出羽三山と共に日本遺産に認定された、というお話があった。

 最後に案内された部屋から月山が見えた。

 説明を伺った後、女性と、森敦(1912~1989)と小説『月山』についてお話した。
 女性が、バスの便が悪いですからバスの時間までゆっくりしていってください、と親切に仰ってくださった。ありがとうございます。

 境内で座れる所を探して座り、民宿で作っていただいた弁当を開く。おにぎりだった。
 拝観者が後から後から切れ目なく訪れる。

 七五三掛桜を見に行く。悠然と枝を広げている。


七五三掛桜


 説明板が立っている。先ほどの説明の他に概ね次のことが書かれていた。

 「この『七五三掛桜』は、根まわり4、9メートル、幹まわり3、33メートル、高さは15メートルあります。枝張(えだはり)は東西16、4メートル、南北17、4メートル。種類はカスミザクラです。平成8年7月17日村指定の天然記念物になりました。」

 因みに、指定を受けたときは朝日村だったが、現在は鶴岡市に編入されている。

 涼しい風が境内を吹き抜けていく。昨日と同じ25度くらいだろうか。夏の盛りだというのに早くも萩の花が咲いて風に揺れている

 森敦は、昭和26年、注連寺を訪れる。講演集『十二夜 月山注連寺にて』の「講演 第七夜 楽しかりし日々」の中で、「ここに上がって来たときは、ちょうど初夏のころ」と語っている。庫裏の2階で起居して、夏を涼しく過ごす。森敦も、涼しい風に秋風を感じたことだろう。

 もう一度本堂に上がり、月山が見える部屋に座って、しばらく月山を眺めていた。

 昭和49年、26歳のとき、森敦の『月山』を読み、月山と注連寺に憧れた私は、「奥の細道」を歩いて月山へ近づくことを思い続けていた。
 24年後の平成10年、50歳のときに「奥の細道」を歩くことを始めた。念願どおり4年後の平成14年9月15日、注連寺を訪ね、月山を眺めた。

 このとき、最後に案内された部屋で、ご住職が、遠くに見える山の方角に手を伸ばし、「あれが月山ですよ」と教えてくださった。注連寺を訪ね、森敦が描いた月山を見る、という長年の希望を実現することができた(「奥の細道旅日記」目次14参照)。
 更に4年後の
平成18年9月17日に月山に登った(「奥の細道旅日記」目次32参照)。

 ご住職と女性にお礼を申し上げて、注連寺を出てバスの停留所「大網」へ向かう。
 停留所と注連寺の間を歩くとき、いつも途中にある美しい雑木林を眺める。今は緑一色だが、秋になると葉が色づき、もっと美しくなる。



 夕食の時間になったので食事処へ行く。

 半月盆に前菜が5品並べられていた。
 ・もずく
  グラスに入っている。もずくの上に、しょうがをすりおろしている。

 ・レッドムーン(赤いじゃがいも)のチーズ焼き
 ・スナックエンドウ、かぼちゃ、おくら、パプリカ、赤とうがらしのゼリー寄せ
  ブルーのガラスの小鉢に入っている。見た目にも涼しげな料理である。
 ・とうもろこしのプリン
 ・枝豆

 料理が運ばれてきた。
 ・お造り三種 鯛、鮪、タコ
 ・牛肉のタタキ
  ポン酢で食べる。
 ・舌平目の奉書蒸し
  トマトの輪切りとオニオンの薄切りを添えて蒸している。
 ・天ぷら
  メゴチ、ししとう、ささげ

 ・鯛と冬瓜(とうがん)の焼き物
  海老のソースで食べる。
 ・ポークソテー 香草添え
  黒ゴマをまぶしている。

 デザートは昨日と同じ甘いスイカだった。

 今日も豪華でおいしい料理をいただいた。去年も思ったが、田麦荘は食事するだけでも泊まる価値がある民宿である。


・同年8月11日(木) (帰京)


月山


 朝、起きると、晴れた空の下、重なる山の奥に月山が見えた。今まで山形へは何度も来たが、こんなに近くからはっきりと月山を見たのは初めてだった。
 森敦が『月山』で、「臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線」と著した姿の月山だった。

 今から10年前の平成18年9月17日、月山に登った。
 現在眺めている月山の左側から右側の山頂を目指して登っていた。
 
登っていると山頂のようなものが見えてきた。山頂に着くのはまだ早い、と思いながらそこまで登ると、その先に、また山頂のようなものが見える。その後も同じようなことを2回繰り返した。そこで気が付いた。
 
注連寺で、ご住職に「あれが月山ですよ」と教えられて眺めた月山の姿を思い出した。あのとき、月山の稜線に瘤が三つほどあるのを見た。今、あの瘤の部分を登っているのだろうと思った。

 また、森敦は、『月山』で次のように述べている。


 「月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然(ほんねん)の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるためかもしれません。」


 昨年と同じように今回も、民宿の男性の従業員にバスの停留所「田麦俣」まで車で送っていただいた。ありがとうございました。
 日陰に入って、「田麦俣」始発9時20分発鶴岡方面行のバスが来るのを待つ。





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