29 トラピスチヌ女子修道院(函館市) トラピスト男子修道院(北斗市)


・平成28年8月28日(日) トラピスチヌ女子修道院(函館市) 函館山

 東京駅6時32分発北海道新幹線「はやぶさ1号」に乗る。大宮駅から仙台駅まで途中停まらない。

 台風が近づいている。予報では、今までにない大きな規模の台風が東北へ上陸すると報じている。北海道は台風が逸れてくれることを願う。
 東京駅を出る頃から曇り空だったが、仙台駅を過ぎると薄日が射してきた。遠くに山並みが見え、近くは一面、稲が稔り、黄緑の海が広がっている。美しい風景が続く。

 奥津軽いまべつ駅を10時8分に発車する。3分後の10時11分、全長53、85㎞の青函トンネルに入る。約25分後に新幹線は地上へ出て、北の大地を走る。
 10時58分、東京駅からほぼ満席の状態で新函館北斗駅に着く。11時9分発はこだてライナー快速に乗り換える。ホームで電車を待っていると、乾いた涼しい風が頬に当たり気持ちが良い。気温は20度から25度の間くらいだろうか。
 11時25分、函館駅に着く。

 駅の構内にある観光案内所へ行き、函館市内観光について尋ねる。
 函館バス専用一日乗車券「カンパス」800円がある。函館バス指定区域内で4回以上バスに乗るとお得ですよ、と言われる。今日、昼食後、トラピスチヌ女子修道院を訪ね、夜は函館の夜景を見るために函館山へ行く予定である。二ヶ所とも指定区域内に入っているので「カンパス」を買う。

 駅を出て、右手に建つロワジールホテル函館に入る。2階のレストランで、イタリアン・ランチビュッフェをやっている。
 デザートにアイスクリームがあった。アイスクリームは普段は食べないが、北海道だからおいしいのではないかと思い、イチゴ、抹茶、バニラの三種類全部を一つの器に盛り合わせる。
 予想通りアイスクリームはおいしかった。イチゴが特においしい。抹茶も味が濃いような気がした。
 ゆっくりコーヒーを飲んで休む。

 函館駅前バスターミナルの4番乗り場へ行く。函館空港行きのバスに乗る。約40分で停留所「トラピスチヌ前」に着く。
 公園と駐車場がある。広い駐車場には観光バスや車が数多く停まっている。
 

 おおぜいの人たちが修道院の広い敷地へ入って行く。入口に、悪魔の象徴である龍と闘う大天使聖ミカエルの像が立っている。


大天使聖ミカエル像


 像の台座に説明文が刻まれている。一部を記す。

 「悪魔が神に反逆した時、『ミ・カ・エル』(ヘブライ語で『神のように振るまう者は誰か』という意味)と叫びながらこれを破り、神に忠誠を尽くした。」

 緩やかな坂を上る。両手を広げた聖母マリアの像に迎えられる。


聖母マリア像


 トラピスチヌ女子修道院(正式名・厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院)は、明治31年(1898年)、フランスから派遣された8名の修道女によって創立された。 

 坂を上り、石段を上がり、修道院の前庭に入る。入れるのはここまでで、ここから修道院の建物を見る。


トラビスチヌ女子修道院


 昭和2年(1927年)再建された修道院の建物は、煉瓦造2階建、半円アーチの窓が並ぶ。中世ヨーロッパの館のような美しく壮麗な建物である。

 設計者は、スイス人建築家マックス・ヒンデル(1887~1963)である
 マックス・ヒンデル
の作品であるカトリック新潟教会について、「奥の細道旅日記」目次17、平成15年7月21日、金沢聖隷修道院聖堂について、「奥の細道旅日記」目次26、平成17年8月16日参照。

 函館駅に戻り、駅前のホテルにチェックインする。4泊予約していた。

 6時頃ホテルを出て、駅前バスターミナルの4番乗り場へ行く。「函館山行き」のバス待つ人の長い列ができている。
 6時15分発のバスに乗る。バスは乗客を定員いっぱいになるまで乗せる。
 バスは、海岸通りを走り市街地に入る。登山口から標高334mの函館山へ上っていく。山の樹木の間から、函館港と市街地のまばゆい光が見えてきた。そのたびに乗客から歓声があがる。
 バスは九十九折の山道を上がる。夜景がよく見えるようにとの配慮なのか、山道を上がり始めると車内の照明は消される。

 約30分で函館山の頂上に着く。
 バスを降りて驚いた。照明を少なくした展望台とその周辺におおぜいの人たちが蝟集している。私もその一人だが、なぜこんなにおおぜいの人たちがいるのか不思議なほどである。展望台の柵に五重くらいに重なってなかなか動こうとしない人たちを見ていると、異様な感じさえする。
 外国人もおおぜいいるのだが、彼らはツアーで来ているのだろうから一ヶ所に長くはいないだろう。展望台に重なってじっとして夜景を見ている人たちは日本人で、早くから場所取りをしていたものと思われる。
 私のように、暗くなり始めてからバスに乗って来ても遅いのである。

 20代の頃、出張で函館へ来たことがある。11月だった。そのとき、同じこの場所から夜景を見た。そのときは、人はまばらで、ゆっくり夜景を楽しむことができた。
 その頃と比べると、光の量が格段に増えて、今の方が断然美しいのだが、それにしても人が多すぎる。
 写真を撮るのは
諦めて、展望台の端からよく見て、眼前の美しい夜景を自分の目に焼き付けておこうと思った。

 ナポリ香港と並び世界三大夜景の一つである函館の夜景は確かに素晴らしい。
 函館港と津軽海峡に挟まれて、中央が狭まり、前方と後方は扇形に広がっている。地形の美しさに加え、おびただしい光が燦然と輝き、しかも手を伸ばせば届くような近い距離に見える。

 昭和40年(1965年)から昭和63年(1988年)まで22年間、青函航路を就航した2代目摩周丸は、現在、旧函館第二岸壁に係留、保存されている。
 イルミネーションで縁取られた摩周丸はガラス細工のように軽やかに見えて、今にも海面を滑り出しそうである。

 左手に目を転ずると、明かりが届かない漆黒の海に、10数隻のイカ釣り漁船の漁火が光っている。

 帰りのバスも乗客の長蛇の列ができていた
 函館駅に戻り、駅の近くの「どんぶり横丁市場」の中にある食堂に入る。「本日の刺身定食」を注文する。
 まぐろ、イカそうめん、鮭、帆立が盛られている。イカは朝獲れのイカである。器の中で雪白に輝いている。醤油を付けないでそのまま食べる。とてもおいしい。


・同年8月29日(月) トラピスト男子修道院(北斗市)

 早朝、ホテルを出て、昨夜食事をした「どんぶり横丁市場」の近くに行く。観光マップを見ると、この辺りは「朝市ひろば」、「函館朝市」と案内されている。
 20代の頃、函館へ出張したとき、駅の近くのホテルに泊まった。朝、ホテルで食事して出かけると、この近くに沢山のテントが並んでいた。テントの中では、あちらこちらの大きな鍋からもうもうと湯気が上がり、注文する人、注文を受ける人の元気な声が飛び交って、とても活気があった。おおぜいの人たちが立ったまま、おにぎりや焼き魚、湯気が立つカニ入りの熱そうな味噌汁で食事をしている。コーヒーを飲んでいる人もいる。
 地元の勤め人らしい人たちもここで食事をして出勤しているようであった。みんな楽しそうに浮き浮きしているように見えた。
 私も今度、函館へ来ることがあったら、朝はここで食事しようと思った。

 ところが、それらしいテントが見当たらない。海産物の店の前に立っていた男性にそのことを尋ねた。
 男性の話では、テントは露天商になるから、みんなテントは止めて店を構えるようになった、ということだった。また、昔は、朝、獲れたイカをリアカーに載せて売って歩いている人もいた、という話も伺った。

 海鮮料理の食堂や海産物の店が早朝から営業しているだけのことになってしまったのである。40年も経てば、函館の夜景を見る人の数も増え、異様な雰囲気さえ感じ、テントで朝ご飯を食べることがなくなるのも無理もないことだろう、と思い少し寂しくなった。

 「どんぶり横丁市場」に入り、昨夜とは別の店に入る。「刺身定食」を食べる。昨夜食べたものとほぼ同じだったが、今朝は雲丹が入っていた。今日もおいしいイカをいただいた。

 駅へ行き、函館駅7時4分発道南(どうなん)いさりび鉄道線(旧江差線)に乗る。上磯駅を過ぎてしばらくすると、左手の車窓から津軽海峡が見えてきた。
 台風が北海道に近づいている。今朝から風が強く、空は曇っている。函館市と北斗市は、午後3時頃から雨の予報になっている。津軽海峡も灰色の海になり、高い波が沖から走ってくる。

 7時44分、渡島当別(おしまとうべつ)駅に着く。無人の駅である。
 駅を出て国道228号線へ入り、右へ曲がる。線路に沿って歩く。二つ目の信号を右へ曲がり、線路を越える。道なりに急な坂を上る。道が平らになった。右側に畑があり、左側に石別中学校が建っている。100m程歩く。

 左手に、「ローマへの道」と書かれた柱が立っている。修道院の敷地に入ったと思われる。そこから一本道が真っ直ぐに延びて、ポプラとスギの美しい並木道になった。
 真っ直ぐの道が延びた500m程先の正面に、トラピスト男子修道院の赤煉瓦の門と本館が重なって見えた。それはヨーロッパの古城のように見えた。


トラピスト男子修道院


 両側の並木の向こうに広大な牧草地が広がり、牧草地の果てに海が見える。牧草が刈り取られた後の土だけの牧草地もある。土起こしをやっていると思われるトラクターが遠くで動いている。トラクターを操作している人は修道士であろう。


牧草地


 修道院の門を見上げる坂の下に着いた。右手に、カトリック当別教会が建ち、隣に修道院直営の売店が建っている。
 駐車場があるが、辺りは静かで、観光バスや自家用車、バイクが時々入ってくるが、人の声も車の音もすぐになくなり、元の静けさに戻る。
 駐車場の向こうに、松林の美しい公園がある。



 修道院の門に至る急な坂を上る。両側は樹木が茂り、花が咲いている。

 赤煉瓦の門に着く。門は鉄格子の扉で閉じられている。



 鉄格子の間から本館を見る。本館は簡素な美しい建物だった。その美しさに神々しさを感じ、心が震えるほどの感動を覚えた。深い緑色の芝生と刈り込まれた樹が建物を一層美しく見せる。門から本館までの距離は80m位だろうか。


本館


 トラピスト男子修道院(正式名・厳律シトー会灯台の聖母大修道院)の本館は、煉瓦造一部3階建。明治41年(1908年)に再建された。

 門の横に小部屋があり、資料室になっている。室内に、「トラピスト修道院の沿革」と書かれた説明板が架けられている。全文を記す。


 「明治29年(1896年)にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に臨む当地にトラピスト修道院を設立しましたが、トラピストの歴史は古く、その起源は11世紀にまでさかのぼります。
 聖ロベルト(1018年~1111年)は、現在のフランス・シトーの地に新修道院を創設し(1098年)、ここからシトー修道会が生まれました。
 そして、1664年、シトー修道会に属するトラップ修道院(フランス)で、より厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れを汲むものをトラピストと呼ぶようになりました。

 トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には7つの修道院(その内5つは女子でトラピスチヌとして知られています)を持ち、国外には137の修道院(その内、50は女子)があります。聖書の教えと、聖ベネディクト(480年~547年)の修道戒律に従い、『祈り・労働・聖なる読書』を中心とした観想生活を送っています。」


 修道院創立当時の写真が掲示されている。
 厳冬期の木の伐採作業、線路を敷いてトロッコを動かしながら道路を作る作業などの厳しい労働が写されている。いずれも修道服のまま作業している。

 トラピスト男子修道院は院内の見学ができる。但し、男子のみである。見学できる日は月曜日の午後2時以降である。見学希望者は、事前に往復はがきで申し込む必要がある。
 私は1ヶ月ほど前に往復はがきで、8月29日(月曜日)午後2時に見学を希望する旨を述べて、その許可を申請した。1週間後に、ご来院をお待ちしております、という丁寧なご返事をいただいた。また、はがきの上半分に略図が印刷されてあり、「当日はこのハガキをご持参の上、上図・直営売店までお越しください。売店職員が、お客様入口である東門までの道筋を口頭でご案内いたします。」と印刷された文字が記されていた。

 時計を見ると10時過ぎだった。まだ、4時間近くあるから、その間に、修道院の裏にある標高482mの丸山の中腹にある、平成元年に新しく造られた「ルルドの洞窟」へ行こうと思った。
 「ルルドの洞窟」は、フランスの南、ピレネー山脈の麓にある「ルルドの洞窟」を再現し、ルルドに現れたと言われる、白い衣に水色の帯を締めた「聖母マリア」の像も作られている。
 それに、「ルルドの洞窟」が再現された場所は展望台になっている。
 

 1858年2月11日、14歳の少女ベルナデッタの前に、白い衣に水色の帯を締めた聖母マリアが初めて出現し、以後、18回、現れる。その間、聖母マリアが指差した洞窟から水が湧きだした。その後、ルルドの泉の水によって不治の病の治癒例が多く報告される。
 聖母マリアの出現とルルドの泉によって、ルルドはカトリック教会の巡礼地となった。
 ベルナデッタ・スビルー(1844~1879)は、後にヌヴェール愛徳女子修道会の修道女になった。1933年、列聖された。

 見学の時間のどれくらい前に、この場所を出発したほうがいいのか、「ルルドの洞窟」へ行く前に聞いておいた方が良いと思い、売店へ入った。
 若い女性がいて、私の話を聞いてから、まだ、見学までにずいぶん時間がありますね、と言う。私は、見学の時間まで、ゆっくり
「ルルドの洞窟」へ行きますから、構いませんよ、と言った。
 女性が、ちょっと待ってください。今、もし時間が空いていたら、すぐ見学できるかもしれませんから、電話で聞いてみます、と言って、私が止める間(ま)もなく電話をした。
 電話では、やはり今用事が入っている、ということだった。

 しばらく、売店で品々を見ていた。電話がかかってきた。
 電話に出た女性が、今、用事が終わったそうです。これから車でここへ迎えに来るそうです、と言った。
 女性にお礼を言って、売店の前に立っていたら、高齢の女性が車を運転してきた。

 お礼を言って車に乗せてもらった。すっかり恐縮してしまった。女性は、カトリック当別教会に在籍する信者と思われた。修道院に頼まれて、買い物などの手伝いに来た方(かた)だと思った。
 車はスピードを上げて坂を上っていく。


 カトリックの作家・曽野綾子氏とトラピスト男子修道院修練長及び神父・高橋重幸氏の往復書簡集『雪原に朝陽さして』が、平成3年(1991年)小学館から発行された(注・修練長は1991年現在である)。

 書簡集の中で高橋重幸氏が述べた、トラピスト男子修道院の一日と、周辺の様子を引用する。


 「1日の日課は、年間を通して午前3時半の起床から始まります。そして3時45分から『読書課』という、詩編(旧約聖書)唱和と聖書と教父たちによる聖書の注解書朗読から成り立っている祈りが行われます。」(中略)

 「読書課のあと、個室で霊的読書をしたあと、5時からは『朝の祈り』、続いて『黙想』『共同司式ミサ』が行われます。祈りとミサは、バチカン公会議(1962~65年)のあと、ラテン語から日本語へと切り替えられました。ミサのあとは、朝食、霊的読書、3時課(午前9時)の祈りがあり、労働が始まります。

 私共の300ヘクタール(約90万坪)の所有地のうち耕作している土地は80ヘクタール位で、主に牧草畠です。他に菜園、果樹園(りんご、なしなど)もあります。牛舎には牛が41頭おり、豚や鶏も飼っています。工業製品としては、乳酸菌入りの発酵バターとクッキー、バター飴、ジャムなどを作って市販しています。『本物を求める』というシトー会の伝統を継いで、まぜもののない純粋な製品です。また同じく古い伝統によって、自給自足を旨としていますので、院内には大体の設備(自動車などの整備場、木工、給油、水道、製材所など)が整っています。

 午前11時に仕事を終わり、短い6時課の祈りの後昼食、1時間の昼寝(朝が早いですから)、1時10分に9時課、そして4時半まで労働、5時半に15分間の黙想、5時45分夕食、7時から毎日共同体全体の集会があって、院長の講話、聖書講義、歌の練習などが行われます。7時15分からは晩の祈り、続いて寝る前の祈り、8時に就寝です。

 日曜日は1日を読書に当てています。修道院のすぐ裏にある丸山(482メートル)の中腹にあるルルドの洞穴へ散歩することもできます。

 前庭には、樹齢100年を越えるいちいの木(北海道の人はオンコと言います)が70本ほど色々な型に刈りこまれており、見る人の目を楽しませてくれます。
 広々とした畠の向こうは津軽海峡で、晴れた日には下北半島、津軽半島など本州の山々が見渡せます。左側には函館山が浮かび、右側には大千軒の山々が見えます。(中略)

 修道院の敷地は、100万坪近くありますので、山あり谷あり原野ありで、ある修道士が興味を持って調査したところ約150種の野花が咲いている、ということです。

 雪解けを待ち切れないで咲き出す猫柳、福寿草、カタクリ、菊咲イチゲ、エンゴグサ、ナニワズ、エンレイソウ、エゾキケマンなどを皮切りに、こちらでは一寸山に入りますと、本州では北アルプスに咲いているという高山植物が咲いています。中でも白根葵(しらねあおい)は貴重な花だと言われています。雪も解けて間もないころ、岩かげの細々とした水の流れに小さな青い花をつけている植物を見るのは、何か旧知に出会ったようななつかしさを覚えさせてくれます。

 こちらでは、花という花が一斉に開花するのは5月の中旬です。梅、桜、リンゴ、ナシなど、とにかく壮観です。そのころ山では何百羽というウグイスがきれいな声を聞かせてくれますので、春を実感することができます。冬が長かっただけに、春の喜びもひとしお深いのです。」(中略)

 「修道院でも、男泣きをすることがあります。それは、5年間にわたる試みの期間を無事に終了して、晴れの無期誓願、つまり一生涯を神に奉献するという誓いを立てる時です。式はミサ中に荘厳に行われます。若者がバラ色の未来を約束する一切のものを捨てて、一生涯結婚することもなく、貧しい生活を送ることを誓約するのです。この誓いを忠実に果たすためには、どれほど大きな苦しみが彼の行手に待っているかを自らの体験で知っている老修道士たちは、彼を祝福しながらも、他方では泣いているのです。そしてキリストのあわれみと助けを彼のために祈求します。」


 車は5分程走り、修道院の本館の裏を回り、本館の東側に建て増しされた聖堂の入口に着いた。歩くと30分以上はかかる距離だろう。女性にお礼を申し上げる。

 30代後半の若い修道士がニコニコしながら出迎えてくださった。
 修道士と女性のそれぞれの務めの時間に、私が自分の都合で傍若無人に闖入したかのようで恥ずかしく、我ながら情けなくなった。
 修道士に時間外に伺ったことをお詫びした。修道士は、いや、いいんですよ、今、ちょうど用事が終わったところです、と朗らかな様子で仰った。
 修道士が着ている修道服は、トゥニカと呼ぶ白衣に、黒いスカプラリオを重ねて、革のベルトを締めている。スカプラリオは、2枚の細長い布を肩の前後で振り分けた衣である。袖はない。スカプラリオには同じ黒のフードが付いている。

 スリッパに履き替えて、修道士の案内で聖堂に入った。
 
聖堂は、昭和49年(1974年)に新しく建てられた。修道士のお話では、聖堂はトラピストの伝統に則って簡素な造りになっています、ということであった。装飾を排した造りになっている。
 聖堂内の前半分は祭壇で半円形になっている。後半分は一般会衆席である。

 祭壇の中心の上部に、天井から十字形の聖櫃(せいひつ)が下がっている。祭壇は聖櫃を囲むように円形になっています、という説明があった。聖櫃の十字形は、縦、横、同じ寸法ではない。鳩が嘴を下にして、羽を広げ、降下している動きをデザインしたもののようにも見える。

 正面の壁の高い位置に木彫りの聖母子像が架かっている。清楚な聖母子像であった。清楚なためか聖母マリアが日本人の婦人に見える。また、聖母マリアが御子(おんこ)キリストを、ご自身の身体の前に持ってきて両手を伸ばして抱えている姿も珍しい。昔の日本人の母親が子供をこういうふうに抱いている古い写真をよく見た。キリストは小さな右手を水平に上げている。
 木彫りで、清楚な姿の所為(せい)か聖母子像が宙に浮かんでいるように見える。

 聖母子像は、昭和52年(1977年)、聖堂に安置された。
 制作者は、彫刻家・
舟越桂(ふなこしかつら)氏である。因みに、舟越桂氏の父は、彫刻家・舟越保武(ふなこしやすたけ)(1912~2002)である。舟越保武の作品に、長崎の「二十六聖人殉教碑」がある(「二十六聖人殉教碑」については、目次3.平成23年12月31日参照)

 祭壇と一般会衆席の間に、高さ1m程の木の柵がある。
 修道士が、この柵は修道院の塀のようなものです、と説明された。柵は、聖職者のみが入れる祭壇と、一般会衆席を分けている。寺院にある僧俗の座席を分かつために設けられた結界のようなものである。

 柵の中央に扉があって開閉できる。修道士が扉を開いて祭壇に入った。
 祭壇に向かって左側にパイプオルガンが設置されている。簡素なデザインで、聖堂の簡素さに合わせて製作されたものと思われた。
 後で分かったことだが、パイプオルガンは昭和51年(1976年)に設置され、ルクセンブルグ製、パイプ数は600本ということであった。

 修道士がパイプオルガンの前に座り、「オルガンの音色(ねいろ)をお聴きになりませんか」と仰って、オルガンを弾き始めた。パイプオルガンの荘厳な響きが聖堂を満たした。

 私はびっくりした。たった私一人のために弾いてくださっているのである。
 いつも何かを心配し心の休まるときはなく、決断力もなく迷ってばかりいて、疲れてしまっている私に、天上の音楽とも言うべきパイプオルガンの、いくつもの音が重なった煌びやかな音色が降り注ぐ。
私は感動で胸がいっぱいになり、あとからあとから胸に熱いものが込み上げてきた。

 修道士は、厳しい戒律のトラピスト修道院で、塀の外に出ることもなく、沈黙と孤独のうちに、日々、「祈り・労働・聖なる読書」を務め、神が何を望んでいるか、神の呼びかけにどう応えるか、を思索し、キリストや聖人のように生きることを学んでいるのであろう。
 私たちの知らないところで、人と世界のために祈っておられるのだろう、と思うと、オルガンを弾いてくださっている修道士の後ろ姿がとても崇高な姿に見えた。

 12分程演奏していただいた。最初の曲は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)のカンタータ「主よ人の望みの喜びよ」だった。他3曲ほど弾いていただいたが、バッハの曲に比べて、いくらか明るく典雅な曲だったのでカトリックの典礼聖歌だと思った。

 演奏が終わってからも、修道士は、パイプオルガンのストップレバーを1本引いたり、2本引いたりしながら、二つの異なった音色を同時に響かせたり、同じメロディーを3回弾いて、その都度、ストップレバーを操作することによって音色や音の高低が変えられることを聴かせてくださった。
 修道士は、パイプオルガンは注文を受けた後に作られますからオルガンによって全て音が違います、と仰った。
 私は、深い感謝を持ってお礼を申し上げた。

 聖堂に入るときに通った出入口と反対側の出入口から聖堂を出た。本館の聖廊下と呼ばれている廊下に入った。壁に沿って洋服掛が置かれ、並んでいるフックに祭服が掛けられている。
 祭服は、修道士が祈りとミサ聖祭に与(あずか)るために聖堂へ入るとき着衣する。薄いクリーム色である。

 聖廊下は幅5mの広い廊下である。聖廊下を歩いて、建てられてから100年を越える修道院本館1階の見学をさせていただいた。
 聖廊下は中庭を囲んで、中庭に沿って一周するように造られている。床は幾何学的な模様に敷き詰められた板張りである。昔、この廊下は蝋(ろう)で磨いてたんですよ、と修道士が説明された。
 館内は、静寂で物音ひとつしない。

 集会室に案内される。正面に三つの椅子が並び、左右の壁に沿って長椅子が置かれている。
 座る席は決められていて、正面の中央の椅子に修道院長、向かって左側の椅子に副院長、右側の椅子に修練長がそれぞれ座る。左右の長椅子は、修道士がキャリアの順に上座から向かい合って座ることになっています、と説明があった。

 集会室の壁に、「松前のキリシタン殉教図」が架けられている。
 渡島(おしま)半島の南西部にある標高1、072mの大千軒岳(だいせんげんだけ)は、寛永16年(1639年)、松前藩による隠れキリシタン処刑によって106人が殉教した地である。
 大千軒岳の6合目、金山番屋があった付近に白い十字架が立てられている。ここで毎年7月の第4日曜日に、千軒岳殉教記念ミサが、トラピスト修道院の修道士も参加して行われる。

 聖廊下の曲がり角に聖母子像が立っている。
 修道士の説明がある。中国が清国の時代、既に北京にトラピスト男子修道院がありました。明治29年(1896年)、ここにトラピスト男子修道院が開かれたとき、アジアにおける2番目のトラピスト修道院が開かれたお祝いに、北京の修道院から、こちらの聖母子像が贈られました。
 第二次世界大戦後、中国が共産党政権になると宗教の弾圧が始まりました。修道院の神父、修道士で、アメリカ、香港へ亡命した人たちは助かったのですが、中国に残っていて殺害された修道士もおりました。

 キリシタン殉教は、近代でも起きていたのである。

 図書室へ入る。広い部屋に書架が並び、びっしりと本が並んでいる。相当な蔵書数である。読書は、トラピスト修道院の大切な務めである「祈り・労働・聖なる読書」のうちの一つであるから書籍は充実しているだろう。

 食堂へ案内される。奥が厨房のようで、昼食の準備をしているのだろう、微かに音が聞こえる。
 テーブルが間を離して2列に並べられている。それぞれのテーブルに壁を背にして座る。一方のテーブルに座る修道士と、もう一方のテーブルに座る修道士が、集会室のように向かい合うことになる。
 沈黙の裡(うち)に食事をする。会話は一切ない。食事の間、当番の修道士が聖人の伝記などを朗読する。

 正面中央の玄関ホールに入る。ルルドの聖母マリア像が立っている。美しい手すりの階段が2階へ通じている。
 修道士が玄関の扉を開ける。修道院の門の向こうに美しい並木道が見え、その向こうに津軽海峡が見える。今日は海が荒れてますね、と修道士が仰った。

 聖堂に戻る。本館1階を一周したことになる。
 聖堂を出る。入るときに気が付かなかったが、出入口の傍の台に、大型のラテン語の聖務日祷書(せいむにっとうしょ)が開かれて置かれていた。
 触ってもいいですか、と伺うと、どうぞ、と仰ったので、3ページほどページをめくる。センテンスの最初の単語の頭文字がカラーで印刷されている。美しい書物である。
 ページが台紙に糊付けされている。長く使われてページの端がボロボロになったので、2冊の同じ聖務
日祷書のページをバラバラにして、記念のために一冊の書物に製本して保存しているものと思われる。

 修道士が仰った。第2バチカン公会議(1962~65)により、教会の現代化、修道生活の刷新が決定され、ミサ聖祭や聖歌がラテン語から日本語で行われるようになりましたが、トラピストでは、その後10年程はラテン語を続けていました。今でも、サルヴェ・レジナ(聖母マリアを讃える歌)はラテン語で歌っています。

 見学が終わった。感謝に満ちた美しい時間だった
 修道士はいくつもの困難や自分との闘いを乗り越えられたのだろう、と思ったが、そういうこと少しも感じさせないほどの明るく、朗らかな方(かた)だった。

 修道士が、車で送りますからちょっと待ってください、と仰って電話をかけていた。
 車で迎えに来ていただいた女性が車を運転して来られた。

 修道士が外まで出て、見送ってくださった。
 修道士にお礼を申し上げて頭を下げるとき、自然に手を合わせていた。ありがとうございました。

 車が売店の近くに来たとき、女性が、駅まで送りましょうか、と親切に言ってくださったが、ここで少し休んで帰ります、と言って、お礼を申し上げて車を降りた。ありがとうございました。
 売店に入って、売店の女性にお礼を言った。

 公園で休んだ後、美しい並木道をゆっくり歩いて駅へ向かった。



 平成21年5月29日の産経新聞に、『修道院の満ち足りた生活』と題して、トラピスト男子修道院についての、曽野綾子氏の素晴らしいエッセイが載っていた。全文を記す。


 「先ごろ、私は函館にある厳律シトー会(トラピスト)灯台の聖母大修道院へ、高橋重幸(しげゆき)神父の金祝のミサに出るためにでかけた。カトリックの神父が司祭に叙階(じょかい)されて50年目のお祝いを金祝という。

 私は高橋神父と、昔『雪原に朝陽さして』という題で往復書簡を出したことがある。神父は有名な神学者だが、トラピストは、最も厳格に世間とのつながりを絶って死ぬまで修道院の外へ出ず、無言のうちに祈りと労働を続ける人たちの修道会である。
 そんな生活をどうして選ぶのですか、と世間の人は言う。しかし、人間の内的充足は簡単に計れるものではない。世間的な富や栄誉をすべて得ながら、虚(むな)しさにうちひしがれている人もいる。

 高橋神父の生い立ちと修道院に入るまでの経緯は変わっている。1945年3月の東京大空襲のとき、高橋神父の一家は本所に住んでいた。その夜一家は、母と2人の子供たちが焼死するという悲運に見舞われた。後には、青年時代に一時修道生活を望んでいた父と、14歳と13歳の2人の男の子が残された。この3人が、後年トラピストに入会したのである。

 今、父は既に亡くなり、修道院には兄弟2人の高橋神父がいる。2人の特徴は実に闊達(かったつ)な性格で、ユーモアにあふれ、毎日を忙しく暮らしているということだ。
 初めてここへ来たとき、1歳違いの兄の正行神父について弟の重幸神父は『兄はジャム屋なんです』と私に紹介した。修道院の生活費はバターやジャムを作って売ることでまかなわれているので、私は兄神父を、ジャム工場の責任者なんだな、と理解した。
 工場から私は図書館にも案内された。『兄が図書館長なんです』と弟神父が言ったからである。兄弟はもともと学究的な人たちである。書棚にある一冊の砂漠に関する本が私の眼を惹(ひ)いた。フランス語からの訳者は兄神父であった。ジャム屋で図書館長の兄は、同時にフランス語の翻訳者だった。

 今回も私は私と同い年の兄神父にも会った。出席者の中の一人の婦人が私に『木靴(サボ)の音』という兄神父の句集をくれた。昔トラピストでは、素朴な木靴を履いていたという。兄神父は、私の知らぬ間に、俳人でもあった。
 前後して別の婦人が、『兄神父さまは、フランス語のレシピから独学でお料理を作るようになられて、帝国ホテルの村上シェフからも認められたんですよ』とささやいてくれた。弟神父によれば、兄はスイカの白い部分からもジャムを作るのだが、おいしいものができるまで凝りに凝るのだという。

 今度、兄神父は私に自作や芭蕉の句を自らフランス語に翻訳した原稿を見せてくれた。
 『木靴の音ポクリポクリと春忙し』というのが、もとの句。それが、『ル・ソン・ドゥ
サボコムスィ・<ポクリ・ポクリ>、ラ・プランタン・オキュペ』となる。

 定年後自由に出歩け、お金も使える身の上でありながら、生きる意味を見失っている高齢者もいる時代に、高橋兄弟神父はこの閉鎖された塀の中で、この世に存在するすべてのものをいとおしみつつ使い尽くして忙しい。帰りがけに私が兄神父に『お仕事で上京なさる折はないのですか』と小声で尋ねると、『それだけは、ずっと、ありませんね』という明るい答えが返ってきた。」


・同年8月30日(火) 五島軒本店

 台風が函館付近に上陸している。風が強い。雨は時おり強く降る。
 今回の旅行の目的はトラピスト男子修道院を訪ねることだったので、今日と明日も修道院へ行く予定を立てていた。ところが、運悪く台風と伴に北海道へ来たようなことになってしまった。
 天気が悪いので、いずれにしても
修道院へ行くことは無理だろう。

 朝、ホテルを出て、とりあえず駅へ行ってみる。
 北海道新幹線は動いているが、はこだてライナーが線路上の倒木のために不通、となっている。そのため、新函館北斗駅へ行く人たちが、バスに替えて行くために払い戻しを受けている。その列が長く延びて駅の構内に収まりきれないで、外にまで列が続いている。
 道南いさりび鉄道線も、線路上の倒木のために不通となっている。

 函館へ行ったら食べたいものが二つあった。朝獲れのイカと五島軒(ごとうけん)のカレーライスである。
 五島軒のカレーライスは、デパートの北海道物産展で五島軒が出店していたとき、イートインのコーナーで食べたのが初めてだった。そのおいしさに驚嘆した。その後、北海道物産展で数回食べることができた。
 函館にいる間に一度は食べようと思っていたので、今日、ちょうど時間が空いたので、これから五島軒へ行くことにする。

 駅前バスターミナルの4番乗り場から「元町・ベイエリア周遊号」に乗る。
 このバスは9時始発で、毎時00分、20分、40分の20分間隔で運行されている。海岸通りと山手の観光名所を巡りながら、それぞれの観光名所の近くの停留所で停まり、函館駅に戻る。

 20分程乗って、停留所「元町」で降りる。11時を少し過ぎていた。バスを降りて通りの反対側へ渡り、右へ曲がる。まだ開店してなかったら、天気は悪いけれども開店するまで近くを散策しようと思った。
 200m程歩く。五島軒本店に着く。「レストラン・雪河亭の開店は11時半ですが、それまでロビーでお待ちください」と丁寧な案内が掲示されていた。


五島軒本店


 創業明治12年(1879年)の五島軒本店に入る。五島軒本店の建物は、昭和9年(1934年)建築、太平洋戦争後5年間、アメリカ進駐軍の司令部として接収された。国登録有形文化財指定の建物である。

 玄関ホールの左手にフロントがある。支配人と思われる男性の従業員にランチをいただきたいことを話すと、番号札を渡された。
 男性の従業員は、時間になりましたら番号順にお呼びしますのでウエイティングルーム(待合室)でお待ちください。お待ちの間、館内を自由にご覧になっていただいて結構です。館内の「メモリアルホール蘆火野(あしびの)」は是非ご覧になっていただきたいですね、と親切に案内してくれる

 「メモリアルホール蘆火野」に入る。部屋の半分は、五島軒製造の缶詰、カレーなどのレトルト製品、ケーキ、洋菓子の販売店になっている。
 創業以来収集した絵画、版画、調度品、洋食器等が展示されている。調度品の中には日本最古のドイツ製ストーブ、函館のアメリカ領事が使用していたデスク等があるが、この記念室で最も主力とされているのは、作家・船山馨(ふなやまかおる)(1914~1981)の小説
『蘆火野』の原稿である。

 『蘆火野』は、昭和47年(1972年)4月11日から翌年の昭和48年(1973年)6月15日まで朝日新聞に連載された。
 幕末から明治維新にかけての激動の時代、箱館(現・函館)は、
五稜郭を拠点にして樹立した榎本武揚(たけあき)(1836~1908)率いる蝦夷共和政府と新政府軍の内戦が続いていた。箱館は戦場になっていた。河井準之助は直参の侍の身でありながら、乱れる心を抑えつつ箱館のフランス領事館へ通い料理の手伝いをしていた。
 箱館戦争が終わった後、明治3年、準之助は本格的にフランス料理の修行をするために妻・ゆき、を伴ってパリへ行く。

 準之助は、フランス領事館で料理の指導を受けていたフランス人の紹介状のお陰で、有名な料理人の店で働けるようになった。
 ある日、2人の住いである屋根裏部屋で準之助がゆきに語る。函館に戻ったら店を持ち、函館の人たちが喜んでくれるような食べ物を作りたい。店の名前も「雪河亭(せっかてい)」と決めている、と話す。妻の名前の「ゆき」から取って「雪」、「河」は2人の姓の「河」であることを語る。

 準之助とゆきがパリに来てからまもなくフランスとプロイセンの間で戦争が勃発する。フランスは敗退する。プロイセンは他の4国を併合して統一ドイツ帝国を建国する。ナポレオン三世は失脚し、第二帝政は崩壊する。パリ市内にドイツ軍が進駐する。
 パリ市民の間から自治的な共同社会であるパリ・コミューンの運動が湧き起こり、それは燎原の火のように広がっていく。

 パリ市内が騒然としている日常の中で、ゆきは男の子を出産する。子供は「寛(ひろし)」と名付けられた。

 コミューンに対して、フランス政府軍による破壊と殺戮が始まった。次第に食糧事情も悪くなってきた。妻と子供のために馬肉とバターをやっと手に入れ、喜び勇んで妻と子供が待つ家路へ急ぐ準之助の後頭部に破裂した砲弾の破片が貫く。
 ゆきは
帰らない夫を探し回るが、夫の遺体さえも見つけることができなかった。

 ゆきは掃除婦、洗濯女、煙草工場の女工、女中と彼女にできる仕事は何でもして寛を育て上げた。
 寛は23歳になり、準之助とそっくりに成人していた。
寛が料理人として独り立ちできるようになったので、ゆきは寛を連れて24年ぶりに函館に帰った。
 函館・基坂下に洋食の店を開く。店の名前は準之助が決めていた「雪河亭」だった。

 この「雪河亭」は五島軒をモデルにしている。また、五島軒は小説の「雪河亭」の名前を譲り受け、レストランの名前に命名した。

 展示品を並べている一隅に、曽野綾子氏のエッセイで紹介された、トラピスト男子修道院の高橋正行神父のエッセイが複数コピーされて置かれていた。題は、『パンとバターと、リンゴジャム トラピスト修道院と五島軒』となっている。トラピスト修道院と五島軒の関わりを意外に思ったので、コピーを一部いただいて、ウエイティングルームで読む。

 トラピスト修道院は、「修道院のパン」の製法や、水を一滴も使わないリンゴジャム、「丸ごと林檎のパイ包」の作り方を五島軒に教えた。
 修道院を開いて酪農を始めた修道士たちは、明治33年に初めてバター、チーズ、練乳を修道院で造り、リュックにバターを入れて売り歩いた。しかし、当時の日本人にはバターはなじみがなくて売れ残っていた。その売れ残ったものを料理に使うために五島軒が引き取ってくれた。
 新聖堂の献堂式や現修道院長の就任式の日には、大勢の来賓のためのテーブルセッティングと調理のために五島軒のコックさん、ボーイさんたちが来られて万端整えてくださった。
 以上は、エッセイの内容の一部であるが、文章は明朗で、読みやすく、トラピスト修道院と五島軒が100年以上も前から協力して、道南の食生活に貢献していたことが
うかがえる。

 レストランの開店の時間になった。番号順にレストラン・雪河亭(せっかてい)のラウンジへ案内される。
 予めメニューを見ていたので、蘆火野カレーと名付けられたカレーについて尋ねる。蘆火野カレーは、北海道産の霜降り牛肉を使った最高のカレーです、と説明があったので、蘆火野カレーを含む「蘆火野コース」を注文する。

     ・オードヴル   スライスしたオニオンを載せたカジキマグロ
               野菜を添えた甘えび
               タコとサーモンとアサリのマリネ

     ・前菜      海老と帆立のミニグラタン
     ・
ス-プ     オニオンスープ
     ・
蘆火野カレー
     ・デザート    アイスクリーム

 蘆火野カレーは深い味のとてもおいしいカレーだった。カレーは中辛だが、肉は柔らかく微かに甘味を感じるおいしい肉だった。
 アイスクリームは、カップに入って、ウエハースを添えた昔のスタイルのバニラアイスクリームだった。

 午後から本格的に雨が降り出した。夜、強い雨と風がホテルの部屋の窓ガラスに打ちつける大きな音がしていた。今、台風が函館を通過しているのだろうと思った。


・同年8月31日(水) カトリック元町教会 ハリストス正教会 旧函館区公会堂 

 朝起きると、台風は去ったようで、曇ってはいるるが時々薄日が射して一部青空も見える。
 今日、トラピスト男子修道院へ行き、「ルルドの洞窟」を訪ねようと思った。

 駅へ行くと、道南いさりび鉄道線も、はこだてライナーも不通だった。駅員に尋ねると、線路上に倒木があり、他の箇所もまだ点検が終わっていない、という話だった。

 トラピスト男子修道院は来年、また行く予定なので、そのとき、「ルルドの洞窟」も訪ねようと思っている。
 今日は山手を散策することにする。

 駅前バスターミナルの4番乗り場から9時始発の「元町・ベイエリア周遊号」に乗る。15分程乗って停留所「ロープウェイ前」で降りる。バスが去っていく方向へ歩く。 

 日本聖公会函館聖ヨハネ教会が建っている。
 函館聖ヨハネ教会は明治7年(1874年)に創建された。現在の建物は昭和54年(1979年)に建てられた。私はそれ以前の大正10年(1921年)建築の函館聖ヨハネ教会を見ている。私はその建物が好きだった。

 函館聖ヨハネ教会の前を右へ曲がり、坂を50m程下る。十字路に出る。左へ曲がる。二つの教会の尖塔が見えてきた。
 ここ函館市元町末広町は、国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 50m程歩く。右手の角、石畳の大三坂(だいさんざか)の途中に、カトリック元町教会が建っている。


カトリック元町教会


 教会の前に案内板が立っている。説明の主な内容を記す。


 「元町教会は、安政6年(1859年)、フランスの宣教師メルメ・ドゥ・カション(パリー外国宣教会司祭)が仮聖堂を建てたのに始まる。
 その後、3回目の建て直しにより、
大正13年(1924年)、現在の大聖堂が完成した。この大聖堂は、ゴシックスタイルの耐火建築であるが、中央祭壇、左右両壁14景の十字架の道行きの壁像は、イタリーのチロル地方の木彫りで、時のローマ教皇ベネディクト15世(1854~1922)から贈られた由緒あるものである。」


 鐘楼の1階部分から聖堂に入る。
 天井はリブ・ヴォールト(こうもり傘天井)を架け、天井を支える円柱の列が続く。正面の祭壇は飴色に輝いている。美しく、荘厳な雰囲気を湛えている。

 元の道に戻る。左手の高台に、白壁と緑の屋根のハリストス正教会が建っている。


ハリストス正教会


 教会の前に案内板が立っている。説明の主な内容を記す。


 「安政6年(1859年)、初代ロシア領事館の敷地内に、領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、正しくは『函館復活聖堂』という。
 文久元年(1861年)、青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシャ正教を布教した。明治5年(1872年)、ニコライは東京へ転任した。
 明治40年(1907年)、大火で類焼したが、大正5年(1916年)、聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。」


 時間が早かったので聖堂の内部は見学できなかった。来年、函館へ来たとき見学したいと思っている。
 白い砂糖をまぶしたお菓子の家のような愛らしく美しい建物である。
 

 20代の頃初めて、この場所から宗派が異なるキリスト教の教会群を見たとき、それぞれに美しい教会が、とても美しい景観を形成している、と思ったことを憶えている。

 ハリストス正教会に隣接して、いかにもミッションスクールの校舎という趣の木造の西洋館が建っている。坂を下り正面にまわる。遺愛(いあい)幼稚園だった。


遺愛幼稚園


 案内板が立っている。説明の主な内容を記す。

 「明治28年(1895年)、遺愛女学校併置の遺愛幼稚園として創立されたが、明治40年(1907年)の大火で遺愛女学校ともども類焼。現幼稚園園舎は米国篤志家の寄付により大正2年(1913年)、建造された。」

 坂を下り元の道に戻る。左へ曲がり100m程歩く。八幡坂(はちまんざか)の上に出た。


八幡坂


 坂の上から、遮るものが何もなく函館港を見ることができる。3日前の夜、函館山の頂上から見た摩周丸も見える。
 坂の上から函館港の岸壁までは僅か400m程しか離れていない。函館は、他の港町である横浜、神戸、長崎と比較して、山手の高台と、海岸通りの間の距離が短い。

 夏の終わりの穏やかな陽に照らされた港と坂道をしばらく眺める。

 200m程歩く。元町公園に着く。公園内に、明治42年(1909年)建築の旧北海道庁函館支庁庁舎が建っている。


旧北海道庁函館支庁庁舎


 2階に張り出した屋根が4本のコリント式の巨大な柱で支えられている。勇壮で力強く、瀟洒な建物である。昭和25年(1950年)まで使用されていた。昭和60年(1985年)、北海道有形文化財に指定された。現在、1階は元町観光案内所として利用されている。

 同じ敷地内に、赤煉瓦の旧開拓使函館支庁書籍庫が建っている。この建物も北海道有形文化財に指定されている。


旧開拓使函館支庁書籍庫


 旧北海道庁函館支庁庁舎の上の高台に、華麗な旧函館区公会堂が建っている。


旧函館区公会堂


 明治43年(1910年)建築。昭和49年(1974年)、国重要文化財に指定され、昭和55年(1980年)から昭和57年(1982年)まで3年を費やして修復された。

 建物は左右対称になっており、玄関、左右のポーチはコリント式の円柱で支えられている。2階にはベランダを配し、屋根窓を設けている。
 中へ入る。大理石の暖炉を備えた貴賓室や2階にある大広間などが当時の建物の華やかさを伝えている。
 ベランダから函館の市街地や港がよく見える。

 元町公園の中を通り、基坂(もといざか)を100m程下る。十字路に出て右へ曲がる。400m程歩く。日本基督教団函館教会の前に着く。昨日、五島軒本店へ行ったとき途中に建っていたので気になっていた。


日本基督教団函館教会


 函館教会は、昭和6年(1931年)建築。鉄筋コンクリート造2階建。尖塔アーチの窓にゴシック様式が見られる。

 今日は、カトリック、ギリシャ正教、イギリス国教会(日本聖公会)、プロテスタント(日本基督教団)の、キリスト教の宗派が異なる四つの教会を巡ることができた。 

 停留所「元町」からバスに乗り函館駅前に戻る。駅へ行き、電車の運行状況を確認する。はこだてライナーも道南いさりび鉄道線も復旧していた。明日、はこだてライナーに乗るので復旧してほっとした。

 夜になって、3日前、函館に着いたとき、ランチバイキングを食べたロワジールホテル函館へ行く。ディナーバイキングをやっていた。ランチバイキングに比べて値段が2倍になっているが、内容は2倍以上のものだった。
 席についてから焼いてくれるステーキが一皿サービスで付いていた。

 ビールで煮込んだビーフシチュー、「もつ」のトマト煮込み、鯛のカルパッチョ、ハーブの香りのチキンロースト、シードル(りんご酒)ソースの舌平目など、おいしい料理がたくさんある。特にビーフシチューはおいしかった。大きな器にお替りをした。
 デザートは、いちご、抹茶、バニラの三種類のアイスクリームをいただいた。


同年9月1日(木) (帰京)

 早朝ホテルを出て駅へ行く。
 函館駅発6時1分の、はこだてライナーに乗る。新函館北斗駅に6時23分に着く。新函館北斗駅発6時35分の「はやぶさ10号」に乗る。


 トラピスト男子修道院の写真集は、私が知っている限り、これまでに3冊出版されている。いずれも戦後に出版されたものである。

 最初の写真集は、昭和46年(1971年)中央公論社発行、写真家・奈良原一高氏の『王国 沈黙の園』である。
 この写真集に収められている写真は、出版に先立つこと13年前の昭和33年(1958年)に、既に個展「王国」で発表されていた。それによって、写真が昭和33年以前のものであることが分かる。
 トラピスト男子修道院の内部が、一部とはいえ公開されたのは、これが初めてだと思う。

 戦前と変わらないと思われる風景が写されている。修道院の本館と門は見えるが、周囲は荒れ地の開墾がようやく終わったという印象を受ける。門の前に真っ直ぐに延びる道があるが、未だ並木はない。
 修道士は木靴を履いている。木靴を造る作業場があり、作業に必要な道具が棚に並べて置かれている。農作業のときも修道服を着ている。
 ラテン語の聖務日祷書の表紙は分厚い。木の板でできているように見える表紙には鋲が打たれ、閉じられた聖務日祷書は更に留め具が掛けられ開けられないようになっている。中世のヨーロッパの修道院を彷彿させる。

 奈良原氏は、修道士がカメラを意識しないように注意深く写真を撮ったと思われる。
 白黒の写真ということもあるが、正に『沈黙の園』の題名どおり沈黙と静謐さが伝わってくる写真集である。

 2冊目の写真集は、昭和54年(1979年)弘告社発行、写真家・山口博氏の『トラピスト男子修道院写真集』である。
 これは、大判、カラーの豪華な写真集である。
 美しい修道院の建物と、その周囲の自然。修道士の動きや、修道士が祈るとき、また黙想しているときの静止している姿の美しさを写している。
 『沈黙の園』から約20年後、これほど変わるのだろうかと驚くほど修道院の周囲の自然は一層美しくなり、
修道院の墓地や牧草地が整備され、現在と同じように美しい並木道が造られている。

 私もその一人だが、この写真集でトラピスト男子修道院の美しさを初めて知った者も多いのではないだろうか。
 山口氏の、修道院と修道士に対する暖かいまなざしを感じさせる写真集である。

 3冊目の写真集は、平成10年(1998年)北海道新聞社発行の『四季のトラピスト』である。
 これは、トラピスト男子修道院の四季が、美しい写真と文章で構成されている。写真は、北海道写真記者協会の最高賞である協会賞を受けている。

 「あとがき」で概ね次のように説明されている。

 「北海道新聞夕刊の全道版で平成9年(1997年)2月からほぼ1年にわたって『四季のトラピスト』連載した。トラピスト男子修道院報道機関が取材するのは、初めてのことであり、読者の反響も大きかった。それを大幅に加筆し、未掲載写真も多数収めたのが本書である。」

 「祈り・労働・聖なる読書」を務めている修道士の美しい姿、教会暦に則って行われる修道院の行事、四季の変化に伴う修道院の周囲の自然の美しさが写真に表されている。
 また、報道機関らしく、戦前、戦中、戦後の苦難の時代の修道院の歴史、複数の修道士に、修道士を志願した動機、修道院へ入ってからの思いなどを取材している。

 心を打たれる文章も幾つも収められている。その中で、『親子3人』と題された文章は、とりわけ心に沁みる文章である。
 曽野綾子氏のエッセイと、内容が重複する部分があるが、全文を記す。尚、文中の年齢、副院長の職は、1998年現在のものである。


 「トラピスト修道院には兄弟の修道士もいる。図書や衣服の係を務める高橋正行神父(66)と、高橋重幸副院長(64)だ。
 眼鏡をかけた温和な顔がとてもよく似ている。2人に互いのことを尋ねてみた。答えは同じだった。『兄弟という特別な意識はありません。修道院の中は一つの共同体ですから』

 実は2人の父、高橋次郎もこの修道院で半生を過ごした修道士だった。修道名はベルナルド。心臓を患い、1981年12月9日、院内の病室から天国に旅立った。78歳だった。
 父が息を引き取ろうとする瞬間、兄の正行は傍らで祈りをささげ、弟の重幸は父をひざに抱きかかえた。
 『優しい父でした。最期はとてもいい顔をしていました』と、2人は振り返る。

 カトリックを信仰していた次郎は1945年3月、東京大空襲で妻、妻の母、正行と重幸の弟に当たる三男と、四男の4人を一瞬のうちに亡くしてしまった。
 その後、5歳のころから神父になりたかった正行が1947年夏に、一足遅れて次郎と重幸が1948年にトラピストに入った。そのとき父・次郎は45歳になっていた。

 『部屋は別々でした。顔を合わせても沈黙を守らなければならないので言葉を交わすこともなかった』と、重幸は当時を思い起こす。
 修道院の厳しい日常は、この
親子、兄弟に家族として親しく交わることを許さなかった。けれども、2人の子供は『特につらくはなかった』と振り返る。

 だが、重幸は『父にとっては、共同生活の中で、親としての愛情を表せないことがかなりつらかったように思えました』と明かす。
 そのためだろうか。当時の院長は月に1度、30分間だけ、親子で語り合う時間を特別に与えてくれた。次郎はいつも『私たち3人の今の生活は空襲で亡くなった4人の家族の犠牲の上に成り立っているんだ』と話していたという。
 後に、8年間のローマでの勉強を終え、当別に戻ってきた重幸に、父は次のように打ち明けた。『毎日、おまえのために神に祈っていたよ』

 父・次郎はいま、修道院内の墓地で静かに眠っている。そして、重幸の個室には優しく微笑んだ父の遺影が飾られている。」





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