30 右近家(福井県南越前町) 鳥居本宿(滋賀県彦根市) 関ヶ原(岐阜県)


・平成28年9月12日(月) 開花亭sou-anかいかていそうあん)(福井市) 

 東京駅6時26分発の「ひかり501号」に乗る。米原駅に8時48分に着く。米原駅8時57分発の「しらさぎ1号」に乗り換える。10時に福井駅に着く。
 2週間前に函館に行ったときのように天気が悪い。時おり雨がぽつぽつ降ってくる。

 福井へ来たときは必ず立ち寄る観光案内所へ行く。案内所の女性から、ここから歩いて行ける場所に建築家・隈健吾(くまけんご)氏が設計した建物があることを伺う。
 今日、訪ねる予定の所があったが、天気が悪いのでそこを止めて、教えてもらった隈健吾氏の作品を見に行くことにする。

 11時になったので、今日と明日の宿泊を予約しているユアーズホテルフクイの3階のレストラン・ボヌールへ行く。
 「9月の秋の味覚ランチ」を注文する。サラダとデザートはブッフェになっている。

     ・スープ    サツマイモのポタージュスープ
     ・魚料理   姫鯛のムニエル きのこ添え
             白ワインとバターのソース
     ・肉料理   鶏胸肉パン粉焼き レモン風味こがしバターソース

     サラダはモツアレルチーズ、卵がたっぷり入ったポテトサラダ、キャベツを軽く酢に浸したもの
     デザートはチーズムース、プリン、パンナコッタのゼリーをいただく。

 食後、ホテルを出て路上電車の通りに入る。右に曲がり福井駅とは反対の方向へ歩く。600m程歩き、「片町入口」の信号を左へ曲がる。100m程歩く。右手に、隈健吾氏設計の開花亭sou-an(かいかていそうあん)が建っている。


開花亭sou-an

 開花亭sou-anは、明治23年(1890年)創業の料亭・開花亭の別館として開花亭に隣接して建てられている。懐石料理を気軽に味わえる和風レストランとして、平成20年にオープンした
 木材を多用する隈健吾氏は、鉄とガラスの建物を、縦、横、斜めの木の格子で覆った。しかも、格子は三層に重ねられ、ずらされている。鉄とガラスの箱が木の格子によって日本伝統の籠を彷彿させるものに変わり、新しい時代の堅苦しくない和食処として生まれた。
 店内から格子を通して見る光景は素晴らしいだろうと想像する。


・同年9月13日(火) 右近家(福井県南越前町)

 昨日チェックインしたユアーズホテルフクイを早朝出る。

 福井駅7時7分発敦賀行きの電車に乗る。7時26分に武生(たけふ)駅に着く。武生駅前から7時56分に発車するバスに乗る。
 バスは武生の市街地を抜けて、坂を上り山間へ入って行く。30分程走って武生トンネルを通る。道が下り坂になる。海が見えてきた。約40分バスに乗り、停留所「河野総合事務所前」で降りる。曇り空の下、日本海が静かに広がっている。

 海岸沿いを走る国道305号線で隔てられた山側に北前船主の館・右近家(右近権左衛門家)が建っている。


北前船主の館・右近家


 右近家本宅は明治34年(1901年)建築の2階建、内蔵3棟を持つ。海風から本宅を守るように海側にいずれも2階建ての外蔵4棟があり、南側3棟と北側1棟の間に長屋門が建っている。


外蔵


 本宅背後の急傾斜の崖の上に、昭和10年(1935年)に別荘として建てられた洋館が見える。洋館は「旧右近家住宅西洋館」と呼ばれて国登録有形文化財に指定されている。
 洋館の1階はクリーム色のスタッコ(漆喰)壁のスパニッシュ様式、2階は校倉造りの壁、校倉造りの角材を突き出した持ち送りが2階のベランダを支える。スイスのシャレー(山小屋)風の建物である。


旧右近家住宅西洋館


 長屋門を潜って本宅に入る。長屋門と本宅の間に道路が通っている。道路は「河野北前船主(せんしゅ)通り」として整備されている。 


河野北前船主通り


 本宅1階が北前船関連の展示場になっている。
 北前船は、蝦夷(えぞ)地(北海道)と上方の大坂を結んで日本海廻りで各港で商い、不定期に往復した廻船である。北前船の寄港地は賑わい繁栄した。
 北前船の寄港地の一つである富山県岩瀬について、「奥の細道旅日記」目次21、平成16年3月20日参照。 

 北前船で運ばれた蝦夷地の昆布は日本各地に広まり、それまで塩、醤油で味を付けていた料理に、昆布で出汁をとることが加えられ、味付けが多彩なものに変わった。

 右近家は、江戸中期から北前船で活躍し、全盛期には30余隻の北前船を所有し、その数と利益により日本海五大船主の一つに数えられた。
 明治になり鉄道の敷設によって舟運は衰退し、明治30年代で北前船による海運の時代は終わった。その後、右近家は海上保険業に進出し、「日本火災海上保険株式会社」を設立する。平成13年、「日本興亜損害保険株式会社」として現在に至る。

 本宅を出て右へ曲がり、本宅を回り込むようにして山の斜面に造られた石段を上る。洋館に着く。
 ここまで上がると日本海と河野町の町並みがよく見える。


日本海と河野町の町並み


 玄関へ入る。右手のステンドグラスを透して日本海が見える。



 1階はホールである。梁や2階の床を支える根太(ねだ)を露出させた開放的な造りである。海に向かって造られた大きなガラス戸を開けると、テラスへ出られる。
 2階へ上がる階段の踊り場の窓に、帆船をデザインしたステンドグラスが嵌め込まれている。



 2階は和室である。

 本宅まで下りて、「河野北前船主通り」に入り右へ曲がる。真宗大谷派金相寺が建っている。通りを隔てて鐘楼が建っている。金相寺の隣に北前船主・中村家(中村三之丞家)が建っている。金相寺は右近家と中村家の菩提寺である。
 中村家も海風から主屋を守るように海側に薬医門(やくいもん)を配置し、土蔵4棟を連ねている。


河野北前船主通り


中村家 薬医門



刀禰家 長屋門


 中村家に隣接して、中村家の分家(中村吉右衛門家)と北前船主・刀禰家(刀禰新左衛門家)が建っている。いずれも海側に土蔵を配置し、刀禰家は長屋門を構えている。いずれも山側に主屋を置いているが、造作は堅牢、豪勢である。
 中村家、中村家の分家、刀禰家は非公開である。

 北前船主通りは刀禰家の前で終わる。注意書きがあった。「帰りは、刀禰家の長屋門を通らずに北前船主通りを戻って、右近家の長屋門から出てください」という意味のことが書かれてあった。
 まだ居住している家がある。そうすると、北前船主通りは他人の私有地内にできた通りである。これまで旧い町並みはずいぶん歩いたが、主屋と門の間を通ったのは初めてである。
 観光で訪れる人たちは通れるとしても、河野町の住民は通れるのだろうか。右近家、金相寺、中村家、中村家の分家、刀禰家の関係者だけが通っているのではないだろうか。現在は海岸線が埋め立てられて、拡張、整備された国道305号線が通っているが、それ以前の通行はどうしていたのだろうか、と疑問に思った。

 右近家の長屋門を出ると、右手に観光案内所が建っている。男性と女性の2人の職員がおられた。先ほどの疑問を尋ねたところ、私有地ですが、昔から他の住民の通行にも供していました、という説明があった。


・同年9月14日(水) 鳥居本宿(とりいもとじゅく)(滋賀県彦根市)

 朝、ホテルでおいしい食事をする。ご飯は福井県産のこしひかり。さば煮、小鯛笹漬け、若狭カレイがある。若狭カレイは、淡白なようだが味わいは深い。

 食後、ホテルを出て駅へ行く。福井駅8時38分発北陸本線下り特急「しらさぎ4号」に乗る。9時44分に米原駅に着く。琵琶湖線に乗り換える。5分後に彦根駅に着く。
 今日、旧中山道の宿場だった鳥居本宿を訪ねる予定であるが、電車の時間が約1時間後だから駅前の観光案内所に行き、鳥居本宿について尋ね、関連する案内書をいただく。

 時間が近づいたのでJR彦根駅に隣接する近江鉄道彦根駅へ行く。電車は10時56分に発車する。田園地帯を走り5分後に鳥居本駅に着く。
 鳥居本駅の建物は建て替えられたが、建設当時の腰折れ屋根の建築様式を継承している。


近江鉄道鳥居本駅


 観光案内書でいただいた案内書には次のように説明されている。


 「彦根、湖東地方の近江商人が中心になって明治29年(1893年)に開業した近江鉄道は、大正14年(1924年)には彦根~米原間の延長が計画され、昭和6年には鳥居本駅舎が、当時全国的に典型的な駅舎建築様式で建設され、現在も開業当時と同様の建築様式を残している。」


 鳥居本駅を出て、駅前を走る国道8号線を渡る。車の往来が多い。100m程歩く。旧中山道に入り右へ曲がる。京都の方向へ歩く。
 
鳥居本宿(とりいもとじゅく)は、江戸から数えて中山道67次の63番目の宿場町であった。当時、旅籠屋が35軒あった。それにしても、鳥居本(とりいもと)とは何と美しい地名だろうか。

 昨日までの曇り空とは打って変わって、よく晴れていい天気になった。旧道らしく緩やかに曲がる通りに美しい旧い民家が並んでいる。




 300m程歩く。左手に、もと合羽所(かっぱどころ)だった「松屋」が建っている。屋根の上に、合羽をデザインした金色の看板が載っている。


旧合羽所・松屋



 建物の前に、説明板が立っている。説明の一部を記す。


 「江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は1970年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。
 昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています。」


 「松屋」の右手斜向かいに、浄土真宗専宗寺が建っている。本堂の建立は18世紀後半と推定されている。


専宗寺


本堂


 専宗寺の山門の右側の並びに太鼓門が建っている。太鼓門の天井には石田三成(1560~1600)の居城であった佐和山城の用材が使われている(石田三成については、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年7月15日参照)


太鼓門


太鼓門の天井


 200m程歩く。中山道と彦根道の分岐点に道標が立っている。道標は文政10年(1827年)に建立され、「右 彦根道  左 中山道 京いせ道」と刻まれている。


分岐点(右、彦根道  左、中山道)


道標


彦根道


中山道


 彦根道は、二代彦根藩主・井伊直孝(なおたか)(1590~1659)の時代に、中山道と彦根の城下町を結ぶ脇街道として整備された。
 また、彦根道は
朝鮮人街道とも呼ばれた。朝鮮人街道は、江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日した
朝鮮通信使が通った街道である。
 朝鮮人街道、朝鮮通信使については、目次9、平成24年12月30日、目次11、平成25年5月2日、目次21、平成27年5月4日、「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日参照。

 分岐点から後戻りするが、駅には戻らないで反対の関ケ原の方向へ歩く。
 駅の方向へ曲がる角から50m程歩いた
所に合羽所だった「木綿屋」が建っている。合羽のデザインの「合羽所」と書かれた看板が吊るされている。


旧合羽所・木綿屋


 説明板が立っている。説明の全文を記す。


 「享保5年(1720年)馬場弥五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向かう旅人が雨具として多く買い求め、文化、文政年間(1804~30)には15軒の合羽所がありました。
 天保3年(1832年)創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で、江戸や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院、商家を得意先として大八車などに覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造していましたので、合羽に刷り込んださまざまな型紙が当家に現存します。」


 300m程歩く。三叉路に出る。右側に緩やかにカーブする道が中山道である。正面に、赤玉神教丸本舗が建っている。店舗に隣接して広壮な4棟の屋敷が建っている。


赤玉神教丸本舗


 説明板が立っている。説明の一部を記す。


 「万治元年(1658年)創業の赤玉神教丸本舗は、今も昔ながらの製法を伝えています。
 有川家の先祖は磯野丹波守に仕え、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で、有川姓を名乗るようになりました。
 『近江名所図会』に描かれたように店頭販売を主とし、中山道を往来する旅人は競って赤玉神教丸を買い求めました。
 現在の建物は宝暦年間(1751~64)に建てられたものです。」


 「有川家住宅」5棟及び「有川氏庭園」は、平成21年、滋賀県指定文化財、平成24年、国指定重要文化財となった。

 赤玉神教丸本舗は、現在は有川製薬株式会社として、新社屋、工場、倉庫を完成させ、食べすぎ、飲みすぎ、食欲不振に効く家庭の常備薬を350年前から造り続けている。
 中山道を旅する人たちにとって合羽と赤玉神教丸は、旅の常備品だったのだろう。

 鳥居本駅に戻り、近江鉄道の電車に乗る。彦根駅に戻る。
 彦根駅で電車に乗るとき、60代くらいの男性の駅員と鳥居本宿について少し話をした。彦根駅に着くと同じ駅員がおられたので、有川製薬は益々発展しているようですね、と話したら、駅員が、我々は子供の頃、体の具合が悪くなると、すぐ赤玉神教丸を呑まされましたよ、と笑いながら話された。

 駅の近くのホテルサンルート彦根にチェックインする。2泊予約していた。


・同年9月15日(木) 関ヶ原(岐阜県)

 早朝ホテルを出て駅へ行く。彦根駅6時32分発琵琶湖線の電車に乗る。5分後に米原駅に着く。米原駅6時46分発東海道本線上りの電車に乗り換える。7時7分に関ヶ原駅に着く。

 駅を出て右へ曲がる。跨線橋を渡り線路の反対側に出て国道365号線に入る。
 駅から30分程歩く。
国道の右側に「関ヶ原決戦地」と刻まれた古い小さな石碑が立っている。国道から離れて、石碑の前の緩やかな坂を上る。坂道は農道だった。


関ヶ原決戦地


 稲が稔り、美しい黄金(きん)色の田圃が広がっている。刈り入れも近いだろう。静かで穏やかな風景である。
 関ヶ原古戦場は、昭和6年(1931年)、史跡に指定された。約400年前、ここが天下分け目の決戦となった激戦地であったことを史跡の石碑が立っていなければ誰も気が付かないだろう。 

 関ヶ原を訪ねたのは3回目である。1回目は奥の細道を歩いていたとき、平成19年7月15日、近江長岡から歩き始めて、関ヶ原を通った。その日は、関ヶ原から旧中山道に入り、垂井町(たるいちょう)を通って大垣まで歩いた(「奥の細道旅日記」目次36、参照)。
 2回目は今年の5月1日、滋賀県の春照(すいじょう)から関ヶ原まで歩いた(目次27、参照)。

 奥の細道を歩いていたとき、滋賀県の木之本から関ヶ原までは北国脇往還を歩く予定だった。ところが、北国脇往還は、じぐざぐに曲がり、分かり難かったので中心を通る国道365号線を歩いた。
 北国脇往還は、国道365号線と重なる所もあるが、芭蕉が歩いたと思われる北国脇往還を歩かないで近道をしたことに内心忸怩たるものがあった。
 奥の細道を歩き終わっても、それが気になっていた。また、北国脇往還
は、柴田勝家(1522~1583)が整備したと伝えられ、戦国時代の重要な道であったので、いずれ、木之本から関ヶ原まで歩き直そうと思っていた。

 しかし、北国脇往還のじぐざぐに曲がる道は分かりにくく、分りやすい本はなかった。
 その後、長浜市役所観光振興課で発行している
『北国脇往還ウォーキングマップ』が優れたマップであることを知った。長浜市役所観光振興課に電話して、マップのことを尋ねると、親切に他の観光案内のパンフレットも入れてマップが送られて来た。

 このマップを手にして北国脇往還を歩くことを始めた。3年前の平成25年5月2日、木之本から内保町まで(目次11、参照)、翌年の平成26年5月2日、内保町から今荘まで(目次16、参照)、昨年の平成27年5月3日、今荘から春照まで(目次21、参照)を歩き、今年の5月1日に関ヶ原に着いた。国道365号線を歩いたときとは比べものにならないほどの楽しい旅だった。

 前方左斜めの山に数本の幟旗が立っている。笹尾山(ささおやま)の石田三成陣跡である。西軍の総大将・石田三成(いしだみつなり)(1560~1600)は、笹尾山に布陣し、6、000の兵を配した。
 これまで笹尾山は上ったことがなかったので、今日は笹尾山へ上り石田三成陣跡を訪ねる。

 田畑の間を400m程歩く。笹尾山の上り口から、木材の先端を尖らした馬防柵を再現し、当時の光景を表している。


馬防柵




 石段を上がる。20分程で頂上に着いた。笹尾山は標高は僅か198mだから山というよりは丘のようなものである。
 明治39年(1906年)に建立された「石田三成陣所古址」の石碑が立っている。頂上は狭いが、ここから決戦地となった関ヶ原盆地が眼下にあり、布陣に利用された山々が見渡せる。


関ヶ原盆地


 それにしても東軍の指揮官・徳川家康(1543~1616)と西軍の総大将・石田三成のそれぞれが率いる東西両軍あわせて約15万人の将兵が激突したにしては関ヶ原盆地は狭いように思われた。

 「関ヶ原合戦のあらまし」と書かれた説明板が立っている。長い説明だけれども関ヶ原合戦のほぼ全容が分かるから全文を記す。


 「西暦1600年(慶長5年)9月15日(現在の暦では10月21日)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍がここ関ヶ原盆地で激突した。

 豊臣秀吉亡き後、自らの時代を開こうとした徳川家康は、同年6月会津上杉攻めを口実に大坂を離れ三成の挙兵を誘い込んだ。8月会津攻めから引き返した家康は、9月1日江戸を発ち、14日には美濃国赤坂に着陣した。この間家康は豊臣政権内の諸将の反目や政治的矛盾を利用し、豊臣恩顧の武将の多くを東軍に引き入れた。一方豊臣家への義を重んじた三成は8月下旬から大垣城に立てこもっていたが、急遽14日の夜大垣城を出て早朝には関ヶ原に布陣し、本陣をここ笹尾山に置いた。一方東軍も西軍の動きに呼応し、午前7時頃には家康は関ヶ原の桃配山に陣取った。

 午前8時、東軍の先鋒福島正則隊を出し抜いて井伊直正隊が発砲し、かくして決戦の火ぶたは切られた。地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の陣形をとった西軍が有利な様相だったが、一進一退の攻防が続いた。しかし、かねて家康と通じていた松尾山の小早川秀秋が一向に反応しないことに業を煮やした家康が、小早川の陣に向けて誘い鉄砲を打たせると、気が動転した小早川は味方の大谷吉嗣隊を襲い吉嗣は自刃、ここに形成は逆転した。

 正午過ぎ家康は総攻撃を命じ、小西行長隊、宇喜田秀家隊と崩れ、頑強だった石田隊も敗走をはじめた。桃配山家康本陣背後の南宮山の毛利隊も、内応した吉川広家に阻まれ最後まで参戦することなく陣を引いた。最期に残った西軍の島津義弘隊は、正面から敵中突破を敢行し、多良方面へ去り、家康の追撃中止命令が下った。時に午後2時半のことである。

 天下分け目の合戦を制した家康は、西軍諸将の内、八十八家を改易にし、五家の所領を大きく削ったという。その後大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川300年の太平の基礎を築いたのであった。」


 当時の衣装を身につけた若い男女が上がってきた。男性は法螺貝(ほらがい)を携えている。「何かイベントがあるんですか」と尋ねたら、男性が「今日、旧暦の9月15日、関ヶ原の決戦が行われましたので、それを記念して、法螺貝の音を合図に烽火(のろし)を上げるんですよ」というお話だった。
 そういえば、今日が関ヶ原の決戦の日だったことを忘れていた。

 午前8時に法螺貝の音が聞こえてきた。それに呼応して男性が法螺貝を吹いた。まもなく左手の岡山(丸山)から煙が上がってきた。
 岡山(丸山)は、東軍の黒田長政(1568~1623)と竹中重門(しげかど)(1573~1631)の兵約4000が布陣した場所で、慶長5年(1600年)9月15日辰五つ時(午前8時頃)、黒田長政はここから開戦を告げる烽火を上げた。
これを合図に戦の火蓋が切られた。
 この古事に因んで毎年この行事が行われているのだろう。珍しいものを見ることができた。偶然とはいえ、いい日に来たと思った。後で分かったことだが、最初の法螺貝の音は、関ヶ原町の町役場が防災無線を使って流したものだった。

 関ヶ原駅に戻るが、駅前を通り過ぎて国道21号線に出る。十字路の反対側の角に醤油醸造の工場が建っている。いくつもの棟が連なるこの建物は関ヶ原を通るたびに気になっていた。建物は関ヶ原醸造株式会社である。ここで造られている「関ヶ原たまり」は宮内庁御用の品である。
 建物の前を歩いていると、醤油の芳ばしい香りが漂ってくる。


関ヶ原醸造株式会社





 駅に戻り、駅前にある観光案内所へ行く。
 男性の職員が数名おられた。関ヶ原決戦の記念の日だからか、甲冑に身を固めている職員もおられる。慣れているようでよく似合っている。

 職員に「狭い盆地の関ヶ原が天下分け目の決戦地になったのはどうしてでしょうか」と尋ねた。職員は、「壬申(じんしん)の乱のときも関ヶ原は合戦の舞台になりました。交通の要衝だったからです。東軍と西軍の決戦の時代には、現在の中山道、北国街道、伊勢街道が走っていました。」と話された。
 因みに、
壬申の乱は、天武天皇元年(672年)に起きた古代日本最大の内乱である。天智天皇(626~672)の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)(631?~686)と天智天皇の長子である大友皇子(おおとものおうじ)(648~672)が皇位継承を巡って争った。
 大海人皇子は、後に「不破関」が設けられた不破に本営を構え、武力で大友皇子を制圧し、天武天皇として即位した。

 関ヶ原は、たくさんの陣跡や武将の墓がありますが、全部回ろうとすると、ずいぶん時間がかかるでしょうね、と話したら、歩いて合戦の史跡巡りをするツアーがありますが、全部回るのに1日半はかかりますね、と仰った。

 また、以前、彦根に住む人に、彦根市民は石田三成のファンが多い、と聞いたことがありますが、岐阜県では徳川家康は人気があるんですか、と伺ったら、それには答えないで、職員同士、顔を見合わせて笑っていた。
 明るい人たちで、楽しくお話することができた。

 彦根駅に戻る。駅の近くのホテルでランチを摂る。

 ・オードブル  阿波尾鶏(あわおどり)のタタキ
            阿波尾鶏は、徳島県で飼育されている鶏の品種である。
          イタリアンサラミ
          イトヨリのマリネ 
 ・スープ     ひよこ豆他豆類のスープ
 ・メイン      スズキのシードル(りんご酒)風味 りんご添え
 ・デザート   ブルーベリー、ブラックベリー、クランベリーの三種のベリーをミックスしたケーキ 


・同年9月16日(金) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





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