31 圓照寺 大神神社(奈良県) 湊川神社(神戸市) 太宰府天満宮 宗像大社辺津宮(福岡県)

 

・平成28年12月26日(月) 圓照寺(奈良市)

 東京駅6時発「のぞみ1号」に乗る。京都駅に8時8分に着く。京都駅8時23分発奈良線の電車に乗る。沿線のあちらこちらに白壁の蔵を持つ広壮な屋敷が建っている。9時34分、奈良駅に着く。

 奈良駅10時13分発桜井線の電車に乗り換える。奈良駅と高田駅を結ぶ桜井線は難解な読み方の駅が多いことで知られている。五つの駅名を挙げる。
 京終(きょうばて)、帯解(おびとけ)、礫本(いちのもと)、長柄(ながら)、巻向(まきむく)である。

 10時20分、帯解駅に着く。無人の駅である。
 駅を出て左へ曲がり、坂道を上る。坂の途中に、帯解駅の名前の由来となった帯解寺の案内板が立っている。坂を上り切ると、民家の間から帯解寺
の伽藍が見える。
 子安山(こやすざん)
帯解寺(おびとけでら)は、天安2年(858年)に創建された日本最古の安産、求子(ぐし)祈願所である。各妃殿下方に安産帯を献納している。

 今日の奈良市の天気予報は曇り後雨になっている。雨が降る前に圓照寺を訪ねたいので、帯解寺には寄らないで先へ急ぐ。
 緩やかにカーブする帯解の旧い町並みを抜けると田園地帯になる。田畑の間の道を歩く。畑の縁(ふち)に柿の木が立ち、枝もたわわに赤い実がみのっている。

 約40分歩いて、臨済宗妙心寺派普門山圓照寺(えんしょうじ)の参道の入口に着く。


圓照寺 参道入口


 圓照寺は、後水尾天皇(1596~1680)の第一皇女・文智女王(1619~1697)によって寛永18年(1641年)洛北・修学院内に創建された。明暦2年(1656年)大和の八島の地に移られ、次いで寛文9年(1669年)後水尾天皇の中宮東福門院の篤志により将軍家から寺領300石を寄進せられ、現在地に法檀を築かれた。
 爾来、歴代住持として皇女が入寺し、圓照寺は別名山村御殿または山村御所と呼ばれる。

 参道へ入り、山の中へ入っていく。菰巻(こもま)きされた松の木が並ぶ。緩やかな坂が左右へ曲がりながら続く。遠くに竹林が望まれ、小さなため池がいくつか見える。


参道




 圓照寺を訪ねるのは2度目になる。最初に訪ねたのは約40年前だった。


 三島由紀夫(1925~1970)の遺作となった『豊饒の海』は、『新潮』に昭和40年(1965年)9月号から昭和46年(1971年)1月号まで連載された長編小説である。『豊饒の海』は、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の4部からなり、それぞれ単行本となっている。
 『天人五衰』の最終回の原稿の入稿日だった昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫は新潮社の担当編集者に渡すべく家人に最終稿を預けて、「盾の会」会員4名とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ赴き、自衛隊員に決起を促した後、割腹自殺をした。
 『天人五衰』の最終に、「『豊饒の海』完。昭和45年11月25日」と記されている。三島由紀夫は最終稿に自身の命日を記していたのである。新潮社は、この最終稿140枚を翌年の1月号に一挙掲載し、約5年半の長きに亘って連載された長編小説は、三島由紀夫の死後、完結した。

 私は、『新潮』の連載は読まなかったが、それぞれ単行本として出版されるたびに読んだ。
 『豊饒の海』は、仏教でいう、迷いの世界を生きかわり、死にかわる輪廻転生(りんねてんしょう)をテーマとした物語である。『春の雪』の主人公が『奔馬』、『暁の寺』で夭折(ようせつ)をかさねながら生まれ変わっていく。しかし、最後の『天人五衰』によってこれまでの物語が瓦解する。『天人五衰』の主人公は、仏教で説く「天人五衰」の様相を帯びて、生まれ変わりの本物か贋物(にせもの)か謎となってくる。
 「天人五衰」の意味を『広辞苑』から引用する。

 「欲界の天人が命尽きんとする時に示す五種の衰亡の相。涅槃経によると、衣服垢穢、頭上華萎、身体臭穢、腋下汗流、不楽本座の五相」

 『豊饒の海』の重要な場面で月修寺という尼寺が登場する。この月修寺は、圓照寺をモデルにしている。

 第一巻『春の雪』は、時代は大正。侯爵家の嫡男と伯爵家の美しい令嬢の結ばれることのない恋の物語である。

 松枝清顕(まつがえきよあき)の父侯爵は、幕末にはまだ卑しかった家柄を恥じて、自分の家系に欠けている雅(みやび)にあこがれ、清顕を、幼児の頃、麻布の旧武家屋敷に住む綾倉(あやくら)伯爵家へ預けた。
 綾倉家は、和歌と蹴鞠の家として知られ、京訛(なまり)のとれない綾倉伯爵は、御歌所の歌会始の寄人(よりゅうど)をつとめていた。伯爵は、幼い清顕に和歌や書を教えた。

 綾倉家には清顕より2歳年上の聡子(さとこ)がいた。聡子は清顕を可愛がり、二人は仲の良い姉弟のように過ごした。 

 清顕が19歳になっても、聡子は清顕をいつまでも弟のように思っているのか、清顕に対して思わせぶりな物言いをした。清顕は聡子に振り回されているような心地がして不満を持っていた。
 お互いに好きだったのだけれどもいつも気持ちが行き違い、素直に自分の本心を伝えることができなかった。清顕は敢えて聡子に対して冷淡に振る舞った。

 洞院宮(とういんのみや)第三王子治典王(はるのりおう)殿下と綾倉聡子の縁談が進められた。
 聡子と聡子附の老女・蓼科から手紙が送られてきたり、電話が頻繁にかかってきたりした。縁談が進められる中、聡子の清顕に対する必死な思いの表われであった。しかし、清顕は電話には出ず、手紙は開封することなく火に投じたり、細かく引き裂いたりした。

 洞院宮治典王殿下と聡子の婚姻の勅許が下りた。
 清顕は、聡子と洞院宮治典王殿下との縁談が進められていたことは知っていた。そのときは平静になりゆきを見て、むしろ冷淡なほどだった。ところが、勅許が下りて、後戻りすることも、やり直すこともできなくなったとき、初めて、聡子を恋していることを自覚する。

 清顕は蓼科を呼び出し、勅許前に受け取った聡子からの手紙を口実にして聡子と逢わせることを約束させる。
 3日後、蓼科の遠縁の者が営んでいる麻布・霞町の軍人相手の下宿屋の一室で、清顕と聡子は逢う。その後も逢瀬を重ねる。松枝侯爵家の鎌倉の別荘も夜、密会の場所になった。

 聡子が身籠る。蓼科は聡子に、一刻も早く密かに手術して始末するよう説得する。しかし、聡子は聴き入れない。困り果てた蓼科は、伯爵と侯爵に手紙を書いて服毒自殺を図る。自殺は未遂に終わる。
 全ての事情を知った侯爵は、伯爵夫妻と話し合い、聡子の手術を侯爵が懇意にしている大阪の医学博士に依頼した。聡子が東京を離れる理由は、奈良の月修寺の門跡が聡子の大伯母であるから、伯爵夫人と聡子が勅許が下りた挨拶に行かせるということにした。

 博士から、手術後2、3日は安静にしているように言われていたので、聡子は博士の病院に入院した。
 聡子が退院して、伯爵夫人と聡子は、月修寺へ挨拶に行くために桜井線帯解の駅に下り立った。
 駅員に頼んだ俥(くるま)が来るまで、聡子を一等待合室に残して夫人は駅の周辺を歩いた。帯解寺の案内の立て札が立っている。「日本最古安産求子祈願霊場」の文字を聡子の目に触れさせないように、俥を停車場の軒深くに入れて聡子を乗せなければならない、と夫人は思った。


 40分程歩く。平らな道になる。右手に沼が現れる。鉄の柵を設けているが、それが見えないように木を植えて、生け垣の趣にしている。
 やや急な上りになる。鬱蒼とした老杉と赤松が山の森閑とした雰囲気を漂わせている。
 黒い門が立っている。門を通ると山門が見えた。




 門跡は聡子を祝福してくれた。夕食にはお祝いの膳が出された。
 母子は今晩1泊し、明日の晩、夜行で東京に戻る筈であった。客殿へ案内され、母子は床に入った。

 夜明け前、伯爵夫人は目を覚ました。傍らにいるはずの聡子がいなかった。しばらく待ったが聡子は戻らない。夫人は廊下を歩き回って聡子を探した。渡り廊下のはての本堂のうちに蝋燭のゆらめきが映った。仏前に聡子が座っていた。聡子は髪を自ら切っていた。その切った髪を経机に供え、数珠を手にして一心に祈っていた。

 夫人が門跡に、聡子が、御本堂で、われから髪を下したことを述べると、門跡は聡子に、心ゆくばかり話をするように、夫人は遠慮した方がよかろう、と仰ったので、夫人は座をはずした。
 長い時間を待って、夫人は門跡から呼び出された。聡子の遁世(とんせい)の志は明らかであるから、月修寺の御附弟(ごふてい)に聡子を迎え入れたいというお話だった。
 夫人は一先(ひとま)ず聡子を残して、一刻も早く帰京して、善後策を講じ、伯爵や侯爵の説得の力を借りて、聡子の翻意を促すべきだと考えた。

 一週間後、綾倉伯爵夫妻と松枝侯爵夫人が月修寺へ赴いたが、聡子はすでに剃髪(ていはつ)していた。
 ふつう御附弟になるには、一年間の修行の期間があって、そのあとの得度式ではじめて剃髪となる手順を踏むのであるが、聡子は門跡に毎日剃髪を願い、門跡も聡子を得度させるほかには道がないことをさとられた。

 侯爵は、脳病院の博士に、強度の神経衰弱とする聡子の診断書を書いてもらった。侯爵はその診断書を持って洞院宮の御殿に参上し、綾倉伯爵は聡子が脳を患っていることを隠して尼にして世間体をつくろうようなことをしていた、と申し上げてお詫びをした。
 新聞は、「洞院宮家の御都合による」婚約破棄を報じた。


 圓照寺の山門に着いた。尼寺らしく清楚で気品のある山門である。


圓照寺 山門


 山門を通る。通ってすぐに柵があり、「立入禁止」と書かれた札が掛かっている。
 白砂が敷き詰められ、水平線が引かれた筋塀(すじべい)に沿って、菱形に置かれた敷き石がまっすぐに美しく並べられている。敷き石は玄関まで続いている。玄関の手前、陸舟松(りくしゅうまつ)が左右に枝を伸ばしている。端正な雰囲気がある。近くに行くことができないので建物を遠くから見ることになる。
 因みに、筋塀は、御所または皇室に由来した門跡寺院に用いられることが多い。


圓照寺


筋塀


 40年前に訪ねたときも建物に近寄ることはできなかった。玄関の、ぴったりと閉められていた障子に、訪れる人を拒絶しているような印象を持ったが、それは今回も同じだった。
 40年前と比べても何も変わっていない。音もなく人の気配も感じられないのも40年前と同じである。

 40年という歳月は、人それぞれの差こそあれ幸福なこともあるのだろうが、誰でも人並みの悲しみや苦労があるだろう。しかし、圓照寺にとって、40年は昨日から今日までの移り変わりでしかないのではないかと思った。


 清顕は聡子に逢えることを願い続けていた。夢に聡子の姿が現れることもあった。
 年が変わって2月21日の朝、登校した清顕は授業が始まる前に学校を出て奈良へ向かった。その日の晩は大阪のホテルに泊まり、翌朝早くホテルを出て、帯解駅に着いた。

 帯解の町の商人宿に部屋をとった。部屋をとるとすぐ俥を命じて月修寺へ向かった。玄関から声をかけたが、門跡は会わないと言っておられる、まして御附弟は人に会われることはない、と言われて追い返された。
 翌日の23日は、午前中に一度、午後に一度、二度とも俥を参道に待たせて長い参道を登って訪れたが、寺の冷たい応対は変わらなかった。帰路、咳が出て胸の奥底が痛んだ。
 24日の朝は起きるときから不快で頭は重く、体はだるかった。しかし、宿から寺まで歩いて行ったが、断られた。
 25日は寒気がして熱が出てきた。俥を呼んで行くだけは行き、同じように拒まれて帰った。

 清顕は宿の番頭に頼んで友人の本多宛に「スグキテクレ」という電報を打ってもらった。
 本多繁邦(ほんだしげくに)は、清顕と同じ学習院高等科に通う清顕の親友である。本多の父は大審院判事であった。
 本多は、清顕から聡子とのことは聞いていた。また、清顕と聡子が松枝家の鎌倉の別荘で夜、密かに逢ったときも、聡子の行き返り、清顕に頼まれて用心のために車に同乗した。
 本多は、以前に鎌倉の別荘に招かれていた。別荘から近い海で清顕と海水浴に興じた。泳ぎ疲れた清顕が砂浜に横になり眠ってしまう。清顕の横に座っていた本多は、清顕の左の脇腹の、ふだんは上膊(じょうはく)に隠されている部分に、小さな三つの黒子(ほくろ)が集まっているのに目を止めた。

 26日の朝になった。清顕の、聡子に逢うために月修寺を訪ねる最後の訪問となった。


 「すでに月修寺を包む竹藪(たけやぶ)の山腹が近づいていた。門内の坂道の左右の松並木も際立(きわだ)ってきた。二本の石柱を立てただけの門が、畑中の迂路(うろ)のかなたに見えたとき、清顕は痛切な思いに襲われた。

 『俥のまま門を入って、玄関先まで三町あまり、そこも俥を乗りつづけてゆけば、今日、聡子は決して会ってはくれぬような気がする。あるいは寺で、今、微妙な変化が起っているかもしれないのだ。一老(いちろう)が門跡を説得し、門跡もついに心折れて、今日もし僕が雪を冒して来たら、聡子と一目なりとも会わせる手筈になっているかもしれないのだ。しかし、もし僕が俥を乗り入れれば、それが向こうの心に感応して、又微妙な逆転が起って、聡子に会わせぬことに決るかも知れない。僕の最後の努力の果てに、むこうの人たちの心に何かが結晶しかかっている。現実は今、多くの見えない薄片を寄せ集めて、透明な扇を編もうといている。ほんの一寸(ちょっと)した不注意で、要(かなめ)は外れ、扇は四散してしまうかもしれないのだ。・・・・・・一歩退(しりぞ)いて、もし俥のまま玄関まで行き、今日も聡子が会ってくれないとすれば、そのとき僕は自分を責めるにちがいない。誠が足りなかった。どんなに大儀であっても、俥を下りて歩いて来ていれば、その人知れぬ誠があの人を搏(う)って、会ってくれたかもしれないのにと。・・・・・・そうだ。誠が足りなかったという悔いを残すべきではない。命を賭(か)けなくてはあの人に会えないという思いが、あの人を美の絶頂へ押し上げるだろう。そのためにこそ僕はここまで来たのだ。』(中略)

 彼は俥を下りて、門前で待っているように言って、門内の坂道をのぼり出した。(中略)

 道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。この、全くの静けさの裡(うち)の、隅々まで明晰な、そして云(い)わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子の存在が、小さな金無垢(きんむく)の像のように息をひそめていた。しかし、これほど澄み渡った、馴染なじみ)のない世界は、果たしてこれが住み馴れた『この世』であろうか?

 歩むうちに息が苦しくなり、清顕は路傍の石に腰を下ろした。何枚も衣類を隔てているのに、石の冷たさは直ちに肌に触れるように感じられた。彼は深く咳き、咳くほどに、手巾(ハンカチ)に吐いた痰(たん)が鉄銹(てつさび)のいろをしているのを見た。(中略)

 再び日は翳(かげ)り、雪の降り方はやや密になった。彼は革の手套(てぶくろ)をとって、掌(てのひら)に雪を受けた。熱い掌に、雪は落ちると見る間に消えた。その美しい手は少しも汚れていず、肉刺(まめ)一つ出来ていなかった。ついに自分は、生涯にわたって、この優美な、決して土にも血にも汗にも汚れることのない手を護(まも)った、と清顕は考えた。ただ感情のためにだけ用いられた手。」


 清顕に残された時間は僅かだった。死が近づいている清顕の目には全てが鮮やかに映る。
 肉刺一つ出来ていなかった、感情のためにだけ用いられた手は、愛おしいもの、美しいものを触れるためだけに使われた手だろう。手についてのこれだけの描写で、清顕の出生、育った環境、清顕の性格などが分かる。

 清顕は足を前へ運ぶことだけを考えていた。清顕が玄関の障子の前にくずおれて激しく咳いたので案内を乞うまでもなかった。
 一老は言った。「やはり、お目もじは叶(かな)いません。何度お出(い)で遊ばしても同じことでございます。寺の者をお供いたさせますから、お引取り遊ばして」
 清顕は、屈強な寺男に扶(たす)けられて、雪の中を俥まで帰った。

 その日の夕刻、医者が呼ばれて清顕を診察した結果、肺炎の兆候がある、と言った。
 26日の深夜、帯解の宿に到着した本多は、清顕がただならぬ容体にあるのを見て、そのまま東京へ連れ帰ろうと思ったが、清顕は、本多が門跡にお目にかかって門跡がお心を変えて下さるように懇願することを望んでいた。

 翌朝早く本多は俥で出発した。月修寺で座敷に通された。長い時間待たされて門跡が現れた。
 本多は清顕の現在の病状と、清顕が聡子に一目会うためなら命をも賭けていることを告げた。門跡は本多が必死にお願いする言葉を黙って聴いていた。
 互いの沈黙の後、門跡が語ったが、清顕が聡子と逢うことは許されなかった。

 本多は清顕と共に夜行の寝台車に乗った。清顕は寝台車に横たわったままだった。本多は清顕と向かい合った下段の寝台をとった。


 「一旦(たん)、つかのまの眠りに落ちたかのごとく見えた清顕は、急に目をみひらいて、本多の手を求めた。そしてその手を固く握り締めながら、こう言った。
 『今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で』

 本多はきっと清顕の夢が我家の庭をさすろうていて、侯爵家の広大な庭の一角の九段の滝を思い描いているにちがいないと考えた。
 帰京して二日のちに、松枝清顕は二十歳で死んだ。」


 参道を下る。通りの反対側にバスの停留所「山村町」がある。1時間に2本、JR奈良駅行きのバスが来る。
 20分程待ってバスが来た。バスは30分程走り、市街地へ入った。左側の車窓から
猿沢の池が見えてきた。猿沢の池を見下ろす高台に奈良ホテルが建っている。

 奈良ホテルは、明治42年(1909年)、建築家・辰野金吾(1854~1919)の設計により建築された。辰野金吾は、明治、大正期の代表的建築家である。東京駅日本銀行本店他多くの建物を設計し、その多くが現存している。
 辰野金吾設計により建てられた大分銀行赤レンガ館(旧二十三銀行本店)について、目次14、平成25年12月28日参照。
 武雄温泉楼門旧共同湯について、目次19、平成26年12月28日参照。

 バスが進むに連れて、木立の間から桃山御殿風の優美な奈良ホテルの建物が見える。
 木立の中の枯葉の上に、数頭の鹿が立ったり、座ったりして思い思いの方向に顔を向けている。奈良だなと思った。

 JR奈良駅の手前の近鉄奈良駅前で降りる。お土産屋さんや飲食店が並ぶ商店街を歩く。春日大社の参道に入り右へ曲がる。
 春日大社は、今年と来年、20年に一度の社殿の修築大事業が執り行われる。その「第六十次式年造替」の垂れ幕が参道に架かっている。

 参道の右側に建つホテルでランチバイキングをやっていた。時間が間に合ったので、バイキングで昼食を摂る。デザートに奈良らしく奈良漬けと酒粕のケーキがあった。微かに酒粕の味と香りがした。

 JR奈良駅近くの、予約していたホテルにチェックインする。
 夜になって雨が降り出した。


・同年12月27日(火) 大神神社(奈良県桜井市)

 朝、起きるとまだ雨が降っていた。昨日の降り始めが遅かったのだろう。

 食堂で、奈良の郷土料理である「茶粥(ちゃがゆ)」を食べる。茶粥は米を茶で炊いた粥である。他に野菜の煮物が付いていた。漬物は、当然に奈良漬けだった。

 ホテルを出ると、ホテルの中にいるときには気が付かなかったが、雨は、冬には珍しく激しい降り方である。

 奈良駅8時発の桜井線の電車に乗る。三輪(みわ)駅に8時25分に着く。
 雨の勢いは治まらず降り続けている。駅のホームから、これから訪ねる
大神(おおみわ)神社の御神体である標高467mの三輪山(みわやま)が見えるが、頂上付近は霧に覆われている。三輪山の樹木の伐採は禁止されている。

 駅を出て、真っ直ぐ30m程歩き、右へ曲がる。両側に桜井市特産の「三輪そうめん」の食堂が並んでいるが、どこもまだ開店していない。8時を過ぎているが、雨が降っているからか辺りは薄暗い。
 30m程歩き、大きな通りに入る。通りを反対側へ渡り、大神神社の参道へ入り、右へ曲がる。
 緩やかに迂回する参道は、降りしきる雨と左右に聳える杉木立のためか、夜のように真っ暗だった。常夜燈の灯りを頼りに長い参道を歩く。
渓流の音が聞こえる。


 『豊饒の海』第二巻『奔馬』は、松枝清顕(まつがえきよあき)の死から18年後、昭和7年から始まる。

 清顕の親友だった本多繁邦(ほんだしげくに)は、学習院高等科から東京帝国大学法科大学に進み、在学中、高等文官試験司法科に合格し、現在、大阪控訴院の左陪席を務めている。38歳になった。

 本多は控訴院長から、6月16日、奈良県桜井の大神神社で、この神社の全国にまたがる崇敬者の神前奉納剣道試合がある。東京の大学の優秀選手も集まり、自分は祝辞を頼まれているのだが、同じ日に控訴院長会議で上京せねばならず、どうしても参列できない。そこで本多に代理で出席してくれないか、と頼まれる。本多は、その日は空いていたので引き受ける。

 当日は朝から暑かった。来賓席の本多の隣に座った宮司が本多に話した。
 向かいの天幕の一列目の左端におる少年は、東京の国学院大学の予科1年の学生であるが、一番目の試合の白軍の先鋒を勤める。剣道界で非常に嘱望されておる少年です。19歳で3段です。名前は飯沼(いいぬま)といいます。

 飯沼少年について三島は次のように描写している。


 「長い挨拶を、その少年は茣蓙に正座して微動もせずに聴いていた。本当に聴いているかどうかは定かでない。ただその目が輝いて、正面を睨(にら)んで、外界の何ものも受けつけない鋼(はがね)のようである。
 眉(まゆ)が秀(ひい)で、顔は浅黒く、固く結んだ唇の一線に、刃(やいば)を横に含んだような感じがある。」

 「飯沼三段は五人に勝抜き、これで一番目の試合が終わった。
 五番が終わって白組の勝が宣せられ、飯沼は個人優勝の銀杯を授けられた。これを受けに進み出た彼の顔からはすでに汗が拭(ぬぐ)い去られていたが、紅潮した頬には勝利者の涼やかな謙虚が匂(にお)うかのようで、こんなに若者らしい若者を、本多は久しく身辺に見たことがなかった。」


 昼食のとき、本多は宮司から三輪山へ登ることを勧められる。
 案内人に従って頂上へ登り、巨石の群れの沖津磐座(おきついわくら)を拝観する。下る途中に滝があった。案内人に滝に打たれることを勧められる。
 試合に出た学生たちが滝を浴びていた。


 「滝を浴びているパンツ一枚の三人の若者は、身を倚(よ)せ合い、その肩や頭上で水がわかれて四散している。瀧音のうちに若い弾力のある肌を叩(たた)く水の鞭(むち)の音が入りまじり、近寄ると、打たれて紅(あか)らんだ肩の肉が滑らかに水しぶきの下に透いて見える。
 本多の顔を見るや、一人が友をつついて、滝を離れて、おのがじし丁寧に頭を下げた。滝を譲ろうとしたのである。

 本多はその中に飯沼選手の顔をすぐに認めた。譲られるままに滝へ向かって進む。すると、棍棒(こんぼう)で打ちのめされたような水の力を、肩から胸に感じて飛び退(の)いた。
 飯沼は快活に笑って戻って来た。本多を傍らに置いて、滝に打たれる打たれ方を教えようとするのであろう。高く両手をあげて滝の直下へ飛び込み、しばらく乱れた水の重たい花籠(はなかご)を捧げ持ったように、ひらいた手の指で水を支えて、本多のほうへ向いて笑った。

 これに見習って滝へ近づいた本多は、ふと少年の左の脇腹(わきばら)のところへ目をやった。そして左の乳首より外側の、ふだんは上膊(じょうはく)に隠されている部分に、集まっている 三つの小さな黒子(ほくろ)をはっきりと見た。
 本多は戦慄(せんりつ)して、笑っている水の中の少年の凛々(りり)しい顔を眺めた。水にしかめた眉(まゆ)の下に、頻繁にしばたたく目がこちらを見ていた。
 本多は清顕の別れの言葉を思い出していたのである。
 『又、会うぜ。きっと会う。滝の下で』」


 宿泊している奈良ホテルの一室で、本多は、はっきりと見た転生(てんしょう)の不思議と神秘に心の平衡を失って眠られない一夜を過ごした。

 「群がる謎(なぞ)に惑いながらも、一方では、本多の心には、しみ出す地下水のような歓(よろこ)びが生じた。清顕はよみがえった! あの生半ばに突然伐(き)られた若木は、ふたたび緑の蘖(ひこばえ)を萌(も)え立たせた。」


 石段を上がる。大神神社の拝殿が建っているが、拝殿に近づけないほど雨が激しく降っている。
 破魔矢、お札、お守り、絵馬などを売っている売店の軒先に入らせてもらって遠くから拝観する。
 拝殿は、寛文4年(1664年)、4代将軍・徳川家綱(いえつな)により再建された。大神神社は、三輪山が御神体であるから本殿はない。


大神神社 拝殿


 せめて三輪山の登拝口まで訪ねたいと思っていたが、この雨でできなくなった。
 参道を下り、三輪駅へ行く。桜井線の電車に乗る。


 飯沼少年は、勲(いさお)という名前であった。
 勲は、熱海の山荘で年末を過ごしていた政財界の黒幕と呼ばれている男を刺殺する。追手を逃れて、勲は海に向かって段々畑になっている蜜柑畑に上り、夜明け前の暗い海を前にして短刀で割腹自殺をした。19歳だった。


 奈良駅に着く。関西本線下りに乗り換える。


 『豊饒の海』第三巻『暁の寺』は、飯沼勲(いいぬまいさお)の死から7年後、昭和16年から始まる。 
  本多繁邦(ほんだしげくに)は47歳になった。判事の職を辞し弁護士となっていた本多は、国際間の企業の訴訟により日本側商社の代理人弁護士としてタイのバンコックへ来た。
 通訳兼案内人の菱川が本多に話した。タイの国王陛下の伯父である殿下の7歳の末娘が、物心つく頃から、自分は日本人の生まれ変りで、自分の故郷は日本である、と言い出して、誰が何と言おうと、その主張を変えない。
 本多は、姫君への謁見を菱川に依頼する。
 

 昭和27年の春、本多は58歳になった。訴訟の成功報酬として莫大な金を得た。富は本多の生活を根底から変えた。
 事務所は後輩にゆだね、ときどき事務所へ顔を出すだけになった。箱根・御殿場の、真向かいに富士山を望む場所に5千坪の土地を買い、別荘を建てた。
 隣の別荘に住む50歳の久松慶子(ひさまつけいこ)は、銀座
尾張町角の服部時計店が戦後、PXになってから自由に出入りし、買い物をして遊び暮らしていた。離婚歴があり、現在、富士の裾野のキャンプに勤務するアメリカ占領軍の若い将校の恋人がいた。今まで本多が交際したことのないタイプの人だった。

 バンコックで謁見した7歳の姫君・ジン・ジャンが成長して日本に留学していた。
 ジン・ジャンの裸を見たいためだけに、本多は別荘の敷地にプールを造った。夏、プールびらきの日に、ジン・ジャンは来た。ジン・ジャンは子供の頃のことは何も憶えていないと言った。
 
本多は、水着に着換えてプールサイドに現れたジン・ジャンの腋の下方を見たが、黒子(ほくろ)は見当たらなかった。

 夜、本多は書斎に入り、隣室との境の壁の書棚から10冊の洋書を抜き出した。隣室はゲストルームである。本多は隣室との境の壁に覗き穴を造っていた。ゲストルームにはジン・ジャンを案内していた。
 本多は、終戦後、夜、公園で覗き見をする楽しみに囚われていた。
 覗き穴に目を宛てると、スタンドの灯りの中に、ジン・ジャンの裸が見えた。腋の左方、腕に隠されていたところに三つの小さな黒子が現れていた。傍らにやはり裸の女が横たわっていた。久松慶子だった。慶子は同性愛者だった。

 明け方、別荘が火事になり、建物は全焼した。
 帰国したジン・ジャンは、20歳の春、バンコックの邸の庭でコブラに腿を咬まれて死んだ。


 約50分で大阪駅に着いた。東海道本線下りに乗り換える。


 『豊饒の海』第四巻『天人五衰』では、本多繁邦(ほんだしげくに)は76歳になっていた。妻は亡くなり、一人でよく旅に出るようになった。また、久松慶子とは仲のよい友達になり、一緒に海外旅行をした。

 安永透(やすながとおる)は、静岡県清水港の近くに建つ帝国信号通信社清水港事務所に勤務する信号員だった。(中略)
 透は16歳だった。両親が早く亡くなり、貧しい伯父の家へ引き取られた。中学を卒業すると、県の補導訓練所に1年通い、そこで3級無線通信士の免状をとって、帝国信号に就職したのである。

 透の仕事場に、時々、絹江という名の醜い狂女が訪ねてくる。

 「透はこの近在の人が笑いものにしているようには決して絹江を笑いものにしない。絹江が来るのもそれを承知だからだ。彼は自分より五つも年上のこの醜い狂女に、同じ異類の同胞愛のようなものを感じていた。」

 透は優しい心を持っているのではない。むしろ冷酷な人間である。三島は、透について次のように描写している。

 「彼は凍ったように青白い美しい顔をしていた。心は冷たく、愛もなく、涙もなかった。」

 本多は慶子を伴って、静岡の三保の松原へ来た。本多にとって三保の松原を訪ねるのは二度目だった。帰りに、清水港の近くに建つ帝国信号通信社清水港事務所に立ち寄った。以前に来たとき、変わった建物だなと思って興味があったのである。
 本多が入口で案内を乞うと、ランニング・シャツの少年が顔を出した。透だった。

 本多と慶子は信号所の内部を見学した。棚に納められている手旗信号旗を見つけた慶子が、少年に手旗信号を見せてほしいと頼んだ。少年は爪先(つまさき)立って、棚の一つの旗を取ろうとした。そのとき、本多は、少年の左の脇腹に、三つ並んだ黒子(ほくろ)を見た。

 その日に泊まるホテルへ戻る車の中で、本多は慶子に、あの少年を養子に貰おうかと思う、と話す。
 ホテルで、本多は慶子に、清顕、勲、ジン・ジャンと続く生まれかわりについて話した。本多が他人にこの話をするのは初めてだった。

 「本多は透の誕生日が、昭和29年3月20日であることを調べた結果、ジン・ジャンの死んだ日がそれより後であっては論外であるから、いろいろ伝手(つて)を辿(たど)って調べてみたが、不明なままに月日がすぎて、透を養子に迎える手続きに入ってしまった。」

 興信所で調べてもらったところ、透は、IQ159であった。IQ140以上の出現率は0、6%という稀少さということであった。
 本多は、透を高校へ通わせた。また、東大の入学試験に備えて、東大の学生3名を家庭教師に雇った。
 洋食の作法を教え、社交的な会話の方法を教えた。

 4年後の昭和49年、透が20歳になって東大へ入学してから全てが変った。透は自身の本質である残忍な性格を表して、悪魔と化した。
 透は、80歳になった本多に暴力をふるうようになった。本多は透に暖炉の火掻(ひか)き棒で額を割られた。微笑みながら、本多に悪口、雑言を浴びせる。
 関係した若い女性4人を本多家に雇い、メイドと呼んで、自分の意のままに動かした。
狂女の絹江を呼び寄せて、本多家の離れに住まわせた。絹江は、本多家へ来てから、運動不足の上によく食べるので、身動きできなくなるほど肥った。

 三島が亡くなったのは昭和45年11月25日だから、三島は自分の死後の未来を書いている。

 本多は、透が21歳になる前、あと半年で死ぬことを願っていた。あと半年の辛抱と自分に言い聞かせていた。透の死を思うことが本多の慰めになっていた。
 しかし、透が生まれかわりの贋物(にせもの)だったとしたら、透がいつまでも生き、本多がその生に追いつけずに老衰で死ぬとしたら、と思うと不安と絶望が襲い、それを紛らわせ、我を忘れるために、20年間止めていた夜の公園での覗きへの衝動が突き上げてきた。

 ハイヤーを呼んで、神宮外苑の絵画館前で車を降りた。暗がりの中にいる一組の男女を見た。そのとき、予想外のことが起った。男がズボンのポケットから飛び出しナイフを出して、女の腿に刺した。女のすさまじい悲鳴が起り、男は逃げた。本多も逃げようとしたが走れない。現場にいた本多はパトロールの警官に捕まった
 本多が被害者の面通しを受けて身の潔白が証明されるまでに3時間かかった。警察に、たまたま週刊誌の記者が来ていた。

 1週間後の朝、透がめずらしく来て、ちらりと微笑をうかべて、本多の枕もとに週刊誌を置いて行った。
 「傷害犯人とまちがえられた元裁判官覗き屋氏の御難」という見出しがついている。記事は正確、精密で、本多の本名まで出ている。「本多氏のこの奇癖は今にはじまったことではなく、二十数年前から、この界隈では顔見知りも多く」とも書かれてあった。

 本多は、この事件以来、態度はおどおどして卑屈を極め、一切外出しなくなった。透は、本多と犬猿の仲の弁護士に、この事件が本多を準禁治産者とするのに役立たないかと相談した。透は、本多家の実権を奪うことを望んでいた。

 本多家は崩壊していった。 

 11月末に、透は久松慶子から立派な英文の招待状の入った書状を受け取った。クリスマスの晩餐会の招待状だった。
 慶子も本多の事件には困惑しているらしく、他のお客様の手前、本多を招くことはできないから、代わりに透に出席してほしい、という内容だった。また、当日は各国大使夫妻や令嬢、日本人では外務大臣夫妻や、経団連の会長夫妻、その他美しい令嬢方もお招きしております、と書かれてあった。

 12月20日の晩餐会に、透は指定されたタキシードを着て慶子の麻布の邸を訪れた。
 他の客は誰もいなかった。透は自分が一番先に来たことを恥じた。その後、いくら待っても誰も来ない。不安にかられて透が、他のお客は遅いですね、と尋ねると、慶子は、今夜のお客はあなた一人よ、と言った。

 騙されたことを知った透は怒りにかられて、帰る、と言ったが、慶子が、今夜、本多さんと私だけが知っている秘密を話してあげる、と言った。

 食後、客間の暖炉の前の小卓をはさんで座り、慶子が本多から聴いたままの、永い生まれ変わりの経過を話した。
 聴き終わった透が、面白い話だけれども何の証拠があるのか、と尋ねたことに、慶子は、証拠といえば、本多さんが、松枝清顕(まつがえきよあき)という人の夢日記を大切に持っている筈だから見せてもらったらいい。夢のことしか書いてない日記で、その夢がみんな実現されたらしい、と言う。

 更に、慶子は、今まで話したことは、全部あなたには何の関係もないことかもしれないし、何の意味もないことかもしれない、と言った。
 「『・・・・・・そう、意味がないのよ。だってはじめから、あなたは贋物(にせもの)だったかもしれないんですもの。いいえ、私の見るところでは、あなたはきっと贋物だわ』」

 ここから慶子の言葉は、透の息の根を止めるごとく一層鋭くなった。慶子の肺腑を衝く言葉は鞭となって容赦なく透を叩きのめす。


 「『・・・・・・あなたがあと半年うちに死ななければ、贋物だったことが最終的にわかるわけですけれど、少なくとも本多さんの探していた美しい胚種(はいしゅ)の生れ変りではなくて、何か昆虫で云えば擬(もど)きの亜種のようなものだということがはっきりするわけですけれど、私は半年なんか待つまでもないと思っているの。見ていて私は、あなたに半年のうちに死ぬ運命が具わっているようには思えない。あなたには必然性もなければ、誰の目にも喪(うしな)ったら惜しいと思わせるようなものが、何一つないんですもの。あなたを喪った夢を見て、目がさめてからも、この世に俄(にわ)かに影のさしたような感じのする、そういうものを何一つお持ちじゃないわ。(中略)

 松枝清顕は、思いもかけなかった恋の感情につかまれ、飯沼勲は使命に、ジン・ジャンは肉につかまれていました。あなたは一体何につかまれていたの?自分は人とはちがうという、何の根拠もない認識だけにでしょう?
 外から人をつかんで、むりやり人を引きずり廻すものが運命だとすれば、清顕さんも勲さんも、ジン・ジャンも運命を持っていたわ。では、あなたを外からつかんだものは何?それは私たちだったのよ。(中略)

 人生の大ていのことに飽きた、心の冷たい、皮肉屋の二人の年寄だったのよ。私たちみたいなものを運命と呼ぶことを、あなたの矜(ほこ)りが許すでしょうか。こんないやらしいおじいさんとおばあさんを。覗き屋の老爺(ろうや)と同性愛の老婆(ろうば)とを。

 あなたはなるほど世界を見通しているつもりでいた。そういう子供を誘い出しに来るのは、死にかけた見通し屋だけなんですよ。己惚(うぬぼ)れた認識屋を引張り出しに来るのは、もっとすれっからしの同業者だけなんです。ほかの者が決してあなたの戸を叩(たた)きに来ることなどありません。ですからあなたは一生戸を叩かれないですぎることもできたし、もしそうであっても、つまりは同じことだった。あなたには運命なんかなかったのですから。美しい死なんかある筈(はず)もなかったのですから。あなたが清顕さんや、勲さんや、ジン・ジャンのようになれる筈はありません。あなたがなれるのは陰気な相続人にだけ。・・・・・・今日来ていただいたのは、あなたにそのことを、骨の髄まで身に沁(し)みてわかっていただくためだったの』」


 透は慶子に殺意を覚えた。目は暖炉の傍らに吊るされている火掻き棒に向けられていた。火掻き棒を掴み、慶子に振り上げることを考えたが、何もできなかった。

 本多は透から清顕の夢日記を読みたいから貸してくれと言われた。本多は貸すことを危ぶんだが、断るのはもっと憚(はばか)られた。
 1週間後、透は自分の寝室で、工業用溶媒のメタノールを嚥(の)んで自殺を図った。昏睡状態が続いたが、生命は取止められた。
 しかし、昏睡からさめると共に烈(はげ)しい眼痛が起り、両側性の視力障碍(しょうがい)がはじまって、完全に失明した。

 本多は、慶子に連絡した。慶子が、「『自尊心だけは人一倍強い子だから、自分が天才だということを証明するために死んだんでしょう』」と言った。追究すると、クリスマスの正餐の折に、すべてを話したことを打ち明けた。慶子は本多に対する友情だと言い張ったが、本多はこのとき限り慶子に絶交を申し渡した。

 透は自分も選ばれた生れ変りであることを証明するために自殺を図ったのだろう。

 透は、翌年の3月20日、21歳の誕生日を迎えたが死ぬ気配はなかった。盲目の透は学校もやめ、一日の大半を絹江のいる離れで過ごし、絹江意外とは誰とも口を聞かなくなった。
 本多は、メイドたちには皆暇をやり、看護婦上がりの女を雇った。

 「あるとき、透が久々に本多に口をきいた。絹江と結婚させてくれ、というのである。絹江の狂疾が遺伝性のものと知っている本多は、少しもためらわずにこれを許した。」

 本多は、5月頃から胃のあたりが痛みだし、痛みは時折背筋へ廻り、これがいつまでも続いていた。医者に診てもらうのも億劫になっていたが、7月中旬に検査を受けた。結果が1週間後に知らされた。
 良性腫瘍(しゅよう)の膵臓嚢腫(すいぞうのうしゅ)だから、すぐ入院して手術をしたほうがいい、と言われた。本多は、入院の1週間の猶予(ゆうよ)を乞(こ)うた。
 本多は自身の余命が短いことを悟り、現在、聡子が門跡(もんぜき)を務めている月修寺を60年ぶりに訪ねることを決意する。聡子に逢ってもらうことを願い、60年前のいきさつや自分の経歴を書いた手紙を出す。

 旅立ちの朝、離れの透のところへゆく、と本多が家政婦に言った。家政婦は本多に話した。


 「『申上げておきますが、透様はこのところ、ずっと白絣(しろがすり)のお浴衣の着たきり雀(すずめ)で、絹江様が大へんこのお召物を気に入られて、私がお脱がせして洗濯しようとすると、怒って私の指に噛(か)みついたりなさいますので、やむをえずそのままにいたしております。透様もあのとおり無口な方で、昼間もお寝巻もそれ一着きりで通して、何ともお思いなさらないらしゅうございます。ですから、この点はどうかお含み置きを。』と言って、それから大へん申しにくいことだけれどもと断って、絹江が妊娠していることを告げた。」

 「自分の末裔(まつえい)が理性の澄明(ちょうめい)を失うことのほぼ確実な予測に、このとき本多の目がいかに輝やいたかを家政婦は見なかった。」


 約25分で三ノ宮駅に着く。神戸は曇っているが、雨は降らなかったようである。
 駅の構内にある観光案内所で神戸市内の観光マップを貰って、明日訪ねる予定の場所について伺う。
 駅の近くの
ホテルサンルートソプラ神戸にチェックインする。2泊予約していた。


 本多は京都の都ホテルに1泊して、22日の正午にハイヤーを予約した。22日、車に乗る。ほぼ1時間で車は月修寺の門前に着いた。
 山門までの昇りの参道は遠く、車は山門まで入れるからと言って、運転手は車で上ることを勧めたが、本多は断って、門前で待っているようにと命じた。

 夏の午後の暑熱の中、本多は、胃と背中の痛みに耐えて、杖にすがり、足もとをよろめかせて参道の坂を上がって行った。暑さと疲労に打ちのめされてうずくまった。喘(あえ)ぎながら、果たして山門まで行き着く力があるだろうかと思った。時々、樹の根方に腰を下ろし休んだ。

 月修寺の玄関に着いた。


 「応対に出たのは開襟(かいきん)シャツを着た60がらみの執事で、式台を上がりかねる本多の手を引いて、8畳に6畳の次の間つきの御寝殿(おしんでん)に案内した。手紙の趣は承っていると鄭重(ていちょう)な挨拶(あいさつ)をして、黒地に白抜きの紋縁(もんべり)の畳の上に、規矩(きく)正しく置いた座布団(ざぶとん)をすすめた。(中略)

  汚濁を負うて門跡にお目にかかるのを、しかし本多は内心忸怩(じくじ)としているわけではない。この恥と罪を負うてでなくては、ここへ上る勇気が生じなかったというのが本当である。去年の9月のあの醜聞が、今にして思えば、月修寺訪問の最初の暗い促しだった。そして透の自殺未遂が、その失明が、本多自身の発病が、絹江の懐妊(かいにん)が、すべて一点を指していた。それらが凝って一団となり、本多の心を推しゆるがして、あの暑熱の参道をここまで衝(つ)き進めて来たのだ、というのが当たっている。(中略)

 そこで、再び現れた一老が、執事の耳に何事かを囁(ささや)き、執事が本多に、
 『間もなく御門跡がお会いになる言うて居(お)られますから、どうぞあちらへ』
 と挨拶したとき、本多はわが耳を疑った。(中略)

 奥に通ずる唐紙が開いた。思わず膝(ひざ)を引き締めた本多の前に、白衣(びゃくえ)の御附弟(ごふてい)に手を引かれて、門跡の老尼(ろうに)が現われた。白衣に濃紫(こむらさき)の被布(ひふ)を着て、青やかな頭をしたこの人が、83歳になる筈の聡子(さとこ)であった。

 本多は思わず涙がにじんで、お顔をまともに仰ぐことができなかった。(中略)

 『お懐(なつか)しゅうございます。私もこの通り、明日をも知れぬ老いの身になりまして』
 と、手紙が読まれたことに勢いを得て、本多の言葉が軽佻(けいちょう)な響きを帯びたときに、門跡はかすかに揺れるように笑った。
 『お手紙をな、拝見いたしまして、あまり御熱心やさかい、どうやらこれも御仏縁や思いましてな、お目にかかりました』

 本多の裡(うち)に、もはや一、二滴の余瀝(よれき)のように残っていた若さが、これをきいて俄(にわ)かに迸(ほとばし)り出た。本多はあたかも60年前、先代の老門跡に向かって、次々と若さの熱情を打ち当てたあの日に還(かえ)った。遠慮もかなぐり捨てて、こう言った。
 『清顕(きよあき)君のことで最後のお願いにここへ上りましたとき、御先代はあなたには会わせて下さいませんでした。それも致し方のないことだとあとでわかりましたが、その当時はお恨みに思っておりました。松枝(まつがえ)清顕は、何と云っても私の一の親友でございましたからね』
 『その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?』
 本多は呆然(ぼうぜん)と目を瞠(みひら)いた。
 耳が遠いと云っても、聞き損ねる言葉ではなかった。しかし門跡のこの言葉の意味は、幻聴としか思われぬほど理を外(はず)れていた。
 『は?』
 と本多はことさら反問した。もう一度門跡に同じ言葉を言わせようと思ったのである。

 しかし全く同じ言葉を繰り返す門跡の顔には、いささかの衒(てら)いも韜晦(とうかい)もなく、むしろ童女のようなあどけない好奇心さえ窺(うかが)われて、静かな微笑が底に絶え間なく流れていた。
 『その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?』

 ようやく門跡が、本多の口から清顕について語らせようとしているのだろうと察した本多は、失礼に亘(わた)らぬように気遣いながら、多言を贅(ぜい)して、清顕と自分との間柄やら、清顕の恋やら、その悲しい結末やらについて、一日もゆるがせにせぬ記憶のままに物語った。
 門跡は本多の長話のあいだ、微笑を絶やさずに端座したまま、何度か『ほう』『ほう』と相槌(あいづち)を打った。途中で一老が運んできた冷たい飲物を、品よく口もとへ運ぶ間(ま)も、本多の話を聴き洩(も)らさずにいるのがわかる。

 聴き終った門跡は、何一つ感慨のない平淡な口調でこう言った。
 『えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違いでっしゃろ』
 「しかし御門跡は、もと綾倉聡子(あやくらさとこ)さんと仰言(おっしゃ)いましたでしょう』
 と本多は咳(せ)き込みながら切実に言った。
 『はい。俗名はそう申しました

 『それなら清顕君を御存知ない筈(はず)はありません』
 本多は怒りにかられていたのである。(中略)

 『いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃっらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません』

 『では私とあなたはどうしてお知合いになりましたのです?又、綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう』

 『俗世の結びつきなら、そういうものでも解けましょう。けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?又、私とあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?』

 『たしかに60年前ここへ上った記憶がありますから』

 『記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに』

 『しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば』と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。『それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・・・・』

 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
 『それも心々(こころごころ)ですさかい』


 永い沈黙の対座ののちに、門跡はしめやかに手を鳴らした。御附弟があらわれて、閾際(しきいぎわ)に指をついた。
 『折角おいでやしたのやし、南のお庭でも御覧に入れましょう。私がな、御案内するよって

 その案内する門跡の手を、さらに御附弟が引くのである。本多は操られるように立って、二人に従って、暗い書院を過(よぎ)った。
 御附弟が障子をあけ、縁先へ本多を導いた。広大な南の御庭が、たちまち一望の裡にあった。
 一面の芝の庭が、裏山を背景にして、烈(はげ)しい夏の日にかがやいている。
 『今日は朝から郭公(かっこう)が鳴いておりました』
 とまだ若い御附弟が言った。

 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸(しおりど)も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子(なでしこ)がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼(や)きそうな青緑の陶(すえ)の榻(とう)が、芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳(そび)やかしている。

 これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠(じゅず)を繰るような蝉(せみ)の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりを浴びてしんとしている。・・・・・・
 

 『豊饒の海』完 昭和45年11月25日 


 聡子の、清顕を知らない、清顕の名前を聞いたこともない、という言葉が、我々一般の読者は勿論、文芸評論家、三島文学の研究者を混乱させることになった。
 これでは、これまでの長い物語が、本多の幻想か、本多の一夜の夢に終わり、一挙に消え去ってしまう。
 当時、文芸評論家や三島文学の研究者が、聡子の言葉の意味を様々に解釈して発表した。中には、聡子の言葉を解く鍵は第三巻『暁の寺』にあるとして、仏教や、ヒンドゥー教を引用して論じたものもあった。
 しかし、どれもこれも納得できるものはなかった。

 確かに、仏教や、輪廻転生、阿頼耶識(あらやしき)、印度哲学などの知識があれば理解しやすいのかも知れない。しかし、『豊饒の海』は一般の文芸誌に連載されたものであり、単行本も書店で売られたものである。研究論文として発表されて専門家だけが読む書籍ではない。
 私は、三島が、作品の中に、聡子の言葉の意味を考察するヒントを与えているのではないかと思い、『豊饒の海』を詳細に読み直した。

 第一巻『春の雪』の冒頭、日露戦役写真集のうち、「徳利寺(とくりじ)附近の戦死者の弔祭」と題された写真の説明がある。
 これを始めとして、『豊饒の海』は全編に亘って、死の影が射している場面が多い。

 第四巻『天人五衰』の最後に、本多と聡子が対面する。
 「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。」

 以下は、私の推測である。
 この文章を読んだとき、本多は、幽冥界(ゆうめいかい)へ足を踏み入れたのではないか、と思った。月修寺は、この世の寺ではなく、あの世の寺である。
 月修寺を幽冥界に存在する寺であると仮定して考える。月修寺を訪れる人は、冥土と現世を行ったり来たりすることが可能な人もいるが、亡くなるべく運命づけられる。聡子は剃髪したときに亡くなったのである。聡子に逢うことを願って月修寺に通った清顕は、帰京して2日後に亡くなる。
 清顕が月修寺を訪ねる最後に、清顕の思いが著されている。

 「これほど澄み渡った、馴染なじみ)のない世界は、果たしてこれが住み馴れた『この世』であろうか?」

 聡子は既に亡くなっているから現世の記憶がない。そのため、清顕を知らない、清顕の名前を聞いたこともない、本多と会ったこともない、と語るのである。
 本多も現世に戻れないかも知れない。いずれにしても発病しているから、帰京しても早晩亡くなることが暗示されている。

 40年前に、このように考えたとき、月修寺のモデルとして三島が取材した圓照寺を拝観したくて訪れた。しかし、拝観はおろか、建物に近づくこともできなかった。昨日、40年ぶりに再訪したが、訪ねる者を拒むような印象は今回も同じだった。

 三島没後、『豊饒の海』の「創作ノート」が発見された。「創作ノート」は、新潮社発行『決定版 三島由紀夫全集』に収められているが、本多と聡子が最後に対面する場面については記されていない。
 聡子の言葉について三島は明言することなく自死した。聡子の言葉の意味は永久に解明されないだろう。


・同年12月28日(水) 湊川神社 大丸神戸店 神戸ムスリムモスク(神戸市)

 ホテルで朝食後、三ノ宮駅へ行く。東海道本線下りに乗る。約5分で二つ目の神戸駅に着く。神戸駅は、東海道本線の終着駅であり、山陽本線の始発駅である。

 駅舎は、昭和5年(1930年)建築。高い天井を支える太い丸柱が並ぶコンコースは、外観とともに風格がある。天井に近い高い場所に美しいステンドグラスが嵌め込まれている。平成21年、経済産業省により近代化遺産に認定された。

 駅前の広場を抜けると、通りを隔てて100m程先に湊川(みなとがわ)神社が見える。神門の前も参道にも初詣の参拝客を待つ屋台が早くも準備されている。
 参道正面に、昭和27年(1952年)改築の
社殿が建っている。


湊川神社 社殿


 湊川神社は、明治5年(1872年)、明治天皇の命により創建された。
 祭神として、
楠木正成(くすのきまさしげ)楠木正行(まさつら)、楠木正季(まさすえ)他一族16名並びに菊池武吉(きくちたけよし)、正成公夫人が祀られている。
 正成は大楠公(だいなんこう)、嫡子の正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれる。
 地元の人たちは湊川神社を親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼んでいる。

 楠木正成(1294?~1336)は、永仁2年、河内国赤坂(現在の大阪府南河内郡千早赤坂村)に生まれる。成長するに連れて文武両道に秀でる。
 元弘元年(1331年)、鎌倉幕府が京へ攻め入る。時の
後醍醐(ごだいご)天皇(1288~1339)は捕らえられ、隠岐の島に流される。天皇への忠誠心が篤かった正成は、諸国の武士と協力して幕府討伐(とうばつ)の兵を挙げる。
 元弘3年(1333年)、新田義貞(にったよしさだ)(1300~1338)鎌倉攻めにより鎌倉幕府は滅びる。後醍醐天皇は京に戻られた。

 後醍醐天皇は、自ら政(まつりごと)を行った。建武の中興(けんむのちゅうこう)と呼ばれている。
 しかし、それに不満を持つ者もあった。特に、官軍に敗れて九州に落ちた
足利尊氏(あしかがたかうじ)(1305~1358)は、天皇の政治を奪わんとし、諸国の武士を集めて、延元元年(1336年)、大軍を率いて九州から攻め上がってきた。

 天皇は正成に、急ぎ兵庫へ下り、苦戦している新田義貞軍に力を合わせるようにと仰せられた。
 正成は、天皇を比叡山に避難させ、その後、京に尊氏の大軍を入れ兵糧攻めにする策を献じた。しかし、天皇の側近である公卿(くげ)たちの、尊氏に上洛を許しては官軍の面目を失う、という反対意見で取り上げられなかった。

 足利軍3万5千騎に対し、新田軍2万8千騎、楠木軍は700騎だった。負け戦になることは分かっていたが、正成は勅命に従い兵庫へ向けて出陣した。
 これが最後の戦いと思い定めた正成は、途中、桜井の駅(現在の大阪府三島郡島本町桜井)で、嫡子・正行を呼び寄せて、言い聞かせ、故郷の河内へ返した。
 この部分を、小学館発行、新編日本古典文学全集、長谷川端氏校注、訳者
『太平記2』から引用する。


 「楠(くすのき)正成、これを最後と思ひ定めたりければ、嫡子(ちやくし)正行(まさつら)が11歳にて父が供したりけるを、桜井(さくらゐ)の宿(しゆく)より河内(かはち)へ帰し遣(つか)はすとて、泣く泣く庭訓(ていきん)を遺(のこ)しけるは、

 『汝(なんぢ)はすでに10歳に余れり。一言(いちごん)耳に留(とど)まらば、吾(わ)が戒(かい)に違(たが)ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否(あんふ)と思ふ間、今生(こんじやう)にて汝が顔を見ん事、これを限りと思ふなり。正成討死すと聞かば、天下は必ず将軍の代となるべしと心得べし。しかりといへども、一旦(いつたん)の身命(しんめい)を資(たす)けんがために、多年の忠烈(ちゆうれつ)を失ひて、降参(かうさん)不義の行迹(ふるまひ)を致す事あるべからず。一族若党の一人も死に残ってあらん程は、金剛山(こんがうせん)に引(ひ)き籠(こも)り、敵寄せ来たらば、命を兵刃(へいじん)に墜(おと)し、名を後代に遺すべし。これをぞ汝が孝行と思ふべし』

 と、涙を拭(のご)つて申し含め、主上(しゆしやう)より給はりたる菊作りの刀を記念(かたみ)に見よとて取らせつつ、各(おのおの)東西に別れにけり。」


 「櫻井の訣別(わかれ)」は、この場面を歌ったものである。

 5月25日の朝、足利尊氏、忠義(ただよし)兄弟の率いる大軍が海陸両方から攻め上がってきた。苦戦する新田軍は戦況を挽回できず京へ敗走した。楠木軍は700騎で奮戦したが、多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)、兵力の差はあまりに大きく、次第に追い詰められていった。

 社殿の左奥、境内の西北隅に、「史跡 楠木正成戰歿地」と刻まれた石碑が立っている。その後ろに巡らされた玉垣の内は、正成が、一族16騎、郎党60余人とともに自刃した所である。昭和26年(1951年)6月9日、国史跡に指定された。


史跡 楠木正成戦没地


 戦没地は鬱蒼とした森になっている。昨日とは打って変わって晴れていい天気になった。木漏れ日が石段を斑(まだら)に染める。気温も上がってきているようである。そのためか、たくさんの鳥が森の中でさえずっている。

 湊川の戦いは朝から夕方まで続き、楠木軍は僅か70騎になった。もはやこれまでと正成以下一族16騎、郎党60余人が湊川の北である現在の戦没地まで落ちのびて自刃した。 
 正成は、弟・正季と「七度人間に生れて朝敵を滅ぼそう」と「七生報国(しちしょうほうこく)」を誓い、兄弟刺しちがえた。
 正成の死は、尊氏も惜しんだといわれている。

 正成没後、後醍醐天皇は大和吉野に入り、吉野朝廷を樹立した。尊氏は、京において光明(こうみょう)天皇(1322~1380)を擁立した。光明天皇の京の朝廷を北朝、後醍醐天皇の吉野朝廷を南朝と呼び、南北朝時代が始まった。その後、南北朝時代は50年余り続いた。

 尊氏は室町幕府を成立させ、初代征夷大将軍になった。室町幕府は足利幕府とも呼ばれる。
 正行(1326?~1348)は、長じて、父の遺志を継いで室町幕府と戦闘を繰り返したが、正平3年、四条畷の戦いに敗れ、自害した。短い生涯であった。

 参道を戻る途中、左手に、正成の墓碑が立っている。この墓碑は、正成が亡くなってから350年余り後、元禄5年(1692年)、水戸光圀(1628~1701)によって建立された。戦没地と同日の昭和26年6月9日、「楠木正成公墓碑」として国史跡に指定された。
 光圀は、正成の墓を建立し、墓碑に、「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の碑文を書いた。墓碑は玉垣の奥に立ち、墓碑は見えたが、碑文を読むことはできなかった。

 「櫻井の訣別(わかれ)」は、作詞は歌人の落合直文(なおぶみ)、作曲は奥山朝恭(ともやす)により明治32年(1899年)に発表された。戦前はよく歌われていたようである。戦後も昭和40年代頃までは聞くこともあったが、最近は全く歌われなくなった。
 「早く生ひ立ち大君に任へまつれよ國のため」の歌詞が今の時代にそぐわないのだろう。また、負け戦だと分かっても勅命が下ったからにはそれに従う、という正成の生き方が、戦前は日本人として当然に考えられたことが、戦後は否定されたからだと思う。

 しかし、この歌は、親子の情愛、別れの悲しみ、子供の健気(けなげ)さを歌って、日本人の心を揺り動かしたことだろう。後世に伝えていかなければならない名曲だと思う。

 「櫻井の訣別(わかれ)」の全文を載せる。


     1 青葉しげれる櫻井の
       里のわたりの夕まぐれ
       木(こ)の下かげに駒とめて
       世の行末(ゆくすえ)をつくづくと
       しのぶ鎧の袖の上(え)に
       ちるは涙かはた露か

     2 正成なみだをうち拂い
       わが子正行呼びよせて
       父は兵庫におもむかむ
       彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せむ
       汝(いまし)はここまで來(きつ)れども
       とくとく歸(かえ)れふる里へ

     3 父上いかにのたまふも  
       見すてまつりてわれ一人
       いかで歸らむ歸られむ
       この正行は年こそは
       未(いま)だ若けれもろともに
       御供(おんとも)任(つか)へむ死出(しで)の旅

     4 汝をここより歸さむは
       わが私(わたくし)のためならず
       おのれ討死なさむには
       世は尊氏のままならむ
       早く生ひ立ち大君に
       任へまつれよ國のため

     5 この一刀(ひとふり)は去(い)にし年
       君の賜ひしものなるぞ
       この世の別(わかれ)のかたみにと
       汝にこれを贈りてむ
       ゆけよ正行ふる里へ
       老いたる母の待ちまさむ

     6 ともに見送り見返(かえ)りて
       別ををしむ
折からに
       又もふりくる五月雨(さみだれ)の
       空に聞(きこ)ゆるほととぎす
       誰かあはれと聞かざらむ
       あはれ血になくその聲(こえ)を 

楠木正成像(東京都千代田区皇居外苑) 


 神戸駅に戻り、電車に乗って後戻りする。一つ目の元町駅で降りる。南口を出て10分程歩く。大丸百貨店神戸店が建っている。大丸神戸店は、この地に昭和2年(1927年)に移転した。

 1階に二ヶ所の歩廊を設けている。高い天井は、戦前に建てられた教会の聖堂や礼拝堂でよく見られるリブ・ヴォールト(こうもり傘天井)で造られている。この辺りは旧居留地だったので当時の建物がまだ数多く残っている。旧居留地の景観に合わせて造られたのだろう。
 歩廊の一つは一般の自由な通行に供している。もう一つの歩廊はオープンカフェになっている。


大丸神戸店 歩廊


オープンカフェ


 これほど美しいオープンカフェが日本の他のどこかにあるだろうか。まるでイタリアの修道院の回廊のような光景である。

 今日は他に行く予定があるので、来年、また神戸を訪れて、旧居留地や海岸通りを散策しながら古い建物を見学しようと思っている。

 北側に150m程歩いて右へ曲がる。高架線の下を潜ってトアロードに入る。700m程坂を上り、十字路を右へ曲がる。神戸ムスリムモスクの前に着く。


神戸ムスリムモスク


 神戸ムスリムモスクは、昭和10年(1935年)建築、日本最初のイスラム教寺院である。
 鉄筋コンクリート造、地下1階付地上3階建。とても堅固な建物である。昭和20年(1945年)6月の神戸大空襲の際にも焼失を免れ、平成7年阪神、淡路大震災のときにも倒壊を乗り切った。

 設計は、チェコ人建築家・ヤン・ヨセフ・スワガー(1885~1969)である。
 スワガーは、
聖路加国際病院の複数の設計者の一人である(聖路加国際病院については、目次6、平成24年5月12日参照)。スワガーは、日本で多くの建築設計をなし、その多くの建物が現存している。

 モスクの前の通りの幅が狭く、びっしりと並んだ建物と樹木、それに電線が多く、モスクの全体が見えにくい。ミナレットと呼ばれる塔の、正面のバルコニーを擁する二つの塔は見えるが、後方の二つの塔が見えにくい。
 東側の、隣接する建物の駐車場に少し入らせてもらって、モスクの後方の二つの塔とドームを見ることができた。


神戸ムスリムモスク


 内部を見学したいと思い、案内板を探していたら、ちょうど、ヘジャブと呼ばれる布を頭にかぶった日本人の若い女性が建物から出てきた。内部の見学はできますか、と伺ったら、女性は、にっこり笑って、できますよ、と言って、建物の左奥にある玄関から入ってください、と親切に教えてくれた。

 教えられたとおりの玄関を入ると、カウンターがあり、カウンターの向こうに、30代くらいの若い日本人の男性と外国人が座っていた。外国人はどこの国の人か分からない。
 見学させていただきたいことをお願いすると、「イスラームとはなにか」と書かれた4ページあるプリントを渡され、元力士だったのではないかと思うほどの立派な体格をした若い男性が立ち上がって、礼拝堂へ案内してくれた。
 受付から3段ほどの階段を上がって礼拝堂前の回廊に入った。深紅の絨毯が敷き詰められ、黄金(きん)色のガラス窓が並んでいる美しい回廊だった。

 礼拝堂はもっと美しい部屋だった。イスラム教は偶像崇拝を禁じているから聖人の像などはない。その代り、部屋の内部は華麗で、とても美しい。天井から豪華なシャンデリアが吊るされているが、部屋の美しさに過剰なものは感じられなかった。

 礼拝堂で礼拝している男性がおられた。そのためか礼拝堂の隅で説明を伺った。
 建物では西側に当たるが、礼拝堂の正面中央に窪みがある。あの窪みはミフラーブと言って、聖地メッカの方向を向いています、と説明があった。

 礼拝していた男性は礼拝が終わったのか、礼拝堂から出て行った。別の男性が礼拝堂に入ってきて、絨毯に掃除機をかけ始めた。
 写真を撮ってもいいですか、と伺ったら、いいですけど人は写さないでください、と言われた。礼拝堂の右側半分で掃除機をかけていたので、礼拝堂全体の写真を撮ることはできなかった。


回廊


礼拝堂


 説明は丁寧で、質問にも明解に答えて下さった。ありがとうございました。

 神戸ムスリムモスクを出て右へ曲がる。100m程歩いて十字路を右へ曲がる。150m程坂を下り、広い中山手通りに入る。左へ曲がり200m程歩く。にしむら珈琲店中山手本店に着く。

にしむら珈琲店中山手本店


 平成18年建築、鉄筋コンクリート造5階建。木造ではないからハーフティンバー様式とは言えないが、ドイツの町並みに建つハーフティンバー様式の民家に似ている。
 にしむら珈琲店は、昭和23年(1948年)、この地で創業した。私は、10代の頃、同じ場所に建っていた、中山手本店でコーヒーを飲んだことがある。当時は、木造2階建、柱を露出させたハーフティンバー様式の建物だった。木の床で、歩くとギシギシと音がしたことを憶えている。

 中に入る。「にしむら特製ブレンドコーヒー」を注文する。
 コーヒーが運ばれてきた。苦みとまろやかさのバランスが良く、おいしいコーヒーだった。
 にしむら珈琲店は、水は酒造に欠かせない硬水・「灘の宮水(みやみず)」を使用する。カップは有田の窯元に特注する。厚手のカップである。この方が飲みやすい、と書かれた文章を読んだことがある。

 50代くらいの女性の従業員に、50年ぶりに「にしむら」のコーヒーをいただきました、おいしいですね、と話したら、お味は変わっていませんでしたか、と丁寧に尋ねられた。
 以前の建物のことを話したら、あの建物は震災で使えなくなり、10年前に、この建物が建てられました。1階から3階までが喫茶室になっています。4階と5階は事務室と倉庫に使っています、と説明があった。
 女性は、本店の他10ヶ所の支店とコーヒーの案内のパンフレットや本店の建物の写真を持ってきてくれて、ごゆっくりなさってください、と親切に応対してくれた。

 静かな店内で、おいしいコーヒーをゆっくりと味わう。



・同年12月29日(木) 太宰府天満宮(福岡県太宰府市)

 ホテルで朝食後、JR三ノ宮駅に隣接する地下鉄三ノ宮駅へ行く。地下鉄に乗り、一つ目の新神戸駅で降りる。
 新神戸駅9時19分発「のぞみ5号」に乗る。11時35分に博多駅に着く。博多口を出て、博多バスターミナルへ行く。
 12時10分発西鉄バスに乗る。バスは福岡空港を経由して、約40分で西鉄太宰府駅前に着く。

 西鉄の電車とバスからおおぜいの人があとからあとから降りてきて、太宰府天満宮の参道は人でいっぱいで歩きにくいほどである。初詣でもないのに、どうしてこんなに人が集まっているんだろうと不思議に思う。参道を歩いている人の半分は中国人や韓国人の外国人である。バスが飛行場を経由するから来やすいのだろうか。年末で、この人混みだと、正月三が日はどういう状況になるんだろうと思う。

 参道の両側は食堂やお土産屋さんが並んでいる。どこも人が集まって賑やかである。太宰府名物の「梅ケ枝餅(うめがえもち)」の小豆を煮る甘い匂いが漂っている。

 一の鳥居を潜る。二の鳥居を潜ると、左側に、スターバックス太宰府天満宮表参道店が建っている。平成20年建築。設計は建築家・隈健吾氏である。


スターバックス太宰府天満宮表参道店





 木材を多用する隈健吾氏は、杉の角材を、釘を使わない木組み構造で組み合わせ、入口から店内へ向かって、コンクリートの壁や天井を覆う。
 大胆で、意表を突くデザインであるが、爽快なものを感じる。冷たく、素っ気(そっけ)ない雰囲気のコンクリートの壁や天井が、木材で覆われることにより、暖かく和やかなものに変化する。
 また、入口から店内の奥へ向かう角材が、茅葺屋根の茅の葺き方や、部分的に茅を入れ替えるときに行われる茅を差し込む方法を彷彿させる。

 隈健吾氏の作品の一つである、福井市の開花亭について、目次30、平成28年9月12日参照。

 参道を先へ進む。三の鳥居を潜る。参道が左側に直角に曲がる手前に、太宰府天満宮案内所が建っている。その案内所の手前に、右側に延びている幅の狭い道がある。
 以前勤めていた会社の上司に、その道の先に、日清戦争の後、清国の戦艦から引き揚げた砲弾の孔(あな)が開いている鉄板を扉に造り替えて保存している、というお話を伺っていた。
 その扉を見ようと思って歩いて行ったが、それらしいものが見当たらない。参道はおおぜいの人で混雑しているのに、この道は人気(ひとけ)がない。

 道を戻り天満宮案内所に入って尋ねた。3人の巫女さんがおられて応対していた。場所を案内した後で、書籍を持ち出して関連のページを開いてくれた。許可をいただいて、そのページを写真に収めた。

 扉は現在も使用されていて、門の内側に開かれてあったので気が付かなかったのである。


砲弾の孔が開いている扉



 門を入ると、定遠館(ていえんかん)と名付けられた建物が建っている。


定遠館


 定遠館の説明板が立っている。全文を記す。

 「明治28年2月、日清戦争の威海衛(いかいえい)の海戦で、連合艦隊が大破自沈させた清国北洋艦隊旗艦『定遠』を翌年に引き揚げ、その艦材をもって建築されたもの。鉄製の門扉(もんぴ)の大小の孔は、砲弾の命中の痕跡(きずあと)である。」

 天満宮案内所で見せていただいた資料には、「定遠」について更に詳しく説明されている。全文を記す。


 「『定遠』は、明治27年(1894年)に始まった日清戦争当時の清国北洋艦隊の旗艦である。明治28年(1895年)2月12日威海衛の海戦で伊東祐享(ゆうこう)を司令長官とする日本の連合艦隊は、黄海での海戦に敗れて威海衛に避難していた、清の旗艦定遠をはじめ、来遠、威遠の諸艦を撃沈し、敵の提督丁汝昌(ていじょしょう)を降伏させ、講和のきっかけをつくった。

 天満宮の社家に生まれ、初代の衆議院議員の一人である小野隆助(りゅうすけ)は、明治29年(1896年)定遠を引き上げ、その艦材で天満宮の浮殿横に約34坪の記念館を造った。これが定遠館である。梁には帆柱、床下には櫂、また定遠館の門扉(もんぴ)にも銃撃による穴の開いた定遠舷側の鉄板が使用されるなど、ここかしこに定遠の名残りがみられる。」


 この説明で、この場所に定遠館が建ち、この場所で砲弾の孔が開いた鉄製の扉が保存されていることが分かった。定遠館は立ち入り禁止になっている。

 参道に戻る。天満宮案内所の前を通ると、右手に、菅原道真(すがわらみちざね)(845~903)の歌碑が立っている。
 歌碑には、「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の有名な歌が刻まれている。


菅原道真歌碑


 説明板が立っていて、次のように説明されている。


 「昌泰4年(901)に太宰権帥(だざいのごんのそち)を命じられた菅原道真公が京を出発される際に紅梅殿の梅に惜別の想いを込めて詠じられたもので、公を慕って一夜のうちに京より太宰府まで飛来したといわれる御神木『飛梅(とびうめ)』(御本殿右側)の由来として有名である。」


 歌碑の後ろには梅林が広がっている。あと1ヶ月もすると梅が開花し、辺りに馥郁たる香りを放つだろう。
 また、菅原道真は学問の神様として親しまれているから、入学試験が近づくとおおぜいの受験生が合格祈願に訪れるだろう。

 ここから参道は直角に左へ曲がる。心字池に架かる朱塗りの太鼓橋を渡る。楼門を潜る。太宰府天満宮の茅葺の本殿が建っている。初詣の準備がされている。


太宰府天満宮 本殿


 太宰府天満宮は菅原道真を祭神としている。菅原道真は、延喜3年に亡くなる。ここに墓所と神殿を創建し、延喜19年(919年)、本殿を建立した。

 戻る途中、参道で、作り立ての「梅ヶ枝餅」を3個買って、西鉄の駅前の椅子に座って食べる。
 もち米とうるち米で作った白い生地は白梅を思わせる。小豆餡は甘くて柔らかい。形は円くて平(ひら)たいから食べやすいが、焼き立てだから小豆餡が口の中を火傷しそうなくらいまだ熱い。とてもおいしかった。

 駅前からバスに乗り博多駅に戻る。駅の近くの、予約しているホテルにチェックインする。


・同年12月30日(金) 宗像大社辺津宮(福岡県宗像市)

 早朝ホテルを出て駅へ行く。博多駅6時17分発鹿児島本線上りの電車に乗る。7時2分、東郷駅に着く。
 バスの停留所があるが、バスが来るのは未だ後になるので、ちょうど来たタクシーに乗る。

 若い運転手さんとこれから訪ねる宗像大社について話をする。

 宗像大社(むなかたたいしゃ)は、これから訪ねる辺津宮(へつみや)、九州沿岸から60キロの玄界灘の孤島・沖ノ島沖津宮(おきつみや)、九州沿岸から11キロの大島にある中津宮(なかつみや)の三つの宮、島そのものが御神体である沖ノ島、大島の二つの島と、辺津宮そばの古墳群、沖ノ島渡島の際に鳥居の役割を果たす三つの岩礁とを併せて、来年の世界遺産登録の候補地になっている。

 世界遺産に登録されたら、おおぜいの人たちが訪れるだろうから、今日訪ねることにしました、と話す。
 運転手さんも、世界遺産に登録されたら外国人の観光客が増えるでしょうから、簡単な会話くらいはできるように今から勉強しといた方がいいだろう、と営業所でも話しているんですよ、と言った。

 約10分で、宗像大社前に着く。
 参道を歩く。一の鳥居、二の鳥居を潜って、心字池に架かる石造の太鼓橋を渡る。神門を潜る。参拝客は数えるほどしかいない。


宗像大社 神門


 拝殿静寂の中に建ち、厳かな雰囲気がある。


拝殿

拝殿と本殿


 拝殿の後ろに、瑞垣(みずがき)で囲まれた本殿が建っている。天正6年(1578年)、第79代大宮司・宗像氏貞(むなかたうじさだ)(1545~1586)が再建した。


本殿


 辺津宮の祭神・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、沖津宮の祭神・田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮の祭神・瑞津姫神(たぎつひめのかみ)の宗像三女神は、いずれも天照大神(あまてらすおおみかみ)の娘である。

 現在、神社で行われる祭祀(さいし)は、本殿や拝殿の社殿で行われている。古代は天上より神様に降臨を願って祭祀が行われていた。この古代祭祀を伝えている場所が、沖ノ島と、ここ辺津宮の高宮祭場である
 高宮祭場に向かう高宮参道に入る。


高宮参道入口


 15分程参道の平らな道を歩き、石段を上って、高台にある高宮祭場(たかみやさいじょう)に着く。天照大神の命で三女神が降り立った場所とされている。


高宮祭場


 説明板が立っていて、次のように説明されている。


 「宗像大神(むなかたおおかみ)『降臨(こうりん)の地』と伝えられ、沖ノ島と並び宗像大社境内で最も神聖な場所の一つです。
 神籬(ひもろぎ)(樹木)を依代(よりしろ)としており、社殿が建立される以前の神社祭祀(さいし)である庭上(ていじょう)祭祀を継承する、全国でも稀な静寂に抱かれた祈りの空間です。」


 毎月1日、15日は祭礼日となっている。 
 目立って整備されてないように見えることに、大古のままの自然さが感じられる。

 参道を戻る。途中、右へ曲がり、第二宮(ていにぐう)と第三宮(ていさんぐう)を拝観する。
 説明板に次のように説明されている。


 「宗像三女神のうち、長女神(沖ノ島)と次女神(大島)は遥か玄海灘洋上に鎮座されており、往古より総社(そうしゃ)(中心となる神社)である当地・辺津宮を『第一宮(ていいちぐう)』と称し、その境内地に両宮の御分霊(ごぶんれい)をお祀りしてまいりました。そして第二宮と第三宮まで詣でれば、沖津宮と中津宮まで、つまり宗像三宮を拝したと信仰されてきました。(中略)

 現在の社殿は、その格別の由緒を以って宗像三女神の御親神(みおやのかみ)を祀る伊勢神宮より、第60回神宮式年遷宮に際して下賜されたものです。
 我が国最古の建築様式である『唯一神明造(ゆいいつしんめいづく)り』で昭和50年5月に移築されました。」

 神明造りは、辺津宮の本殿の反りのある屋根とは異なって直線的な屋根である。簡素な構造で伊勢神宮に代表される。


第二宮(沖津宮御分霊)


第二宮


第三宮(中津宮御分霊)


 沖ノ島について、詳細な説明がされている。


 「三宮のなかでも、沖ノ島は当大社の神職が交代でたった一人常駐勤務(現在10日間ごとの交代)し、今日も女人禁制(にょにんきんせい)や、毎朝海に入っての禊(みそぎ)、一木一草一石(いちもくいっそういっせき)たりとも持ち出せないなどの掟(おきて)や禁忌(きんき)によって厳重に守られている神聖な島です。

 その沖ノ島では4世紀末から約600年間にわたり国家規模の祭祀(さいし)が行われ、23カ所の祭祀跡が確認されると共に、8万点にもおよぶ神宝(しんぽう)(全て国宝)が出土しています。

 また、現在、全国津々浦々の神社で行われている祭祀は、社殿で行われていますが、この沖ノ島の祭祀跡から、天上より依代(磐坂)(いわさか)・神籬(ひもろぎ)に神様を降臨願うという、神社祭祀の原点が実証されています。」


 沖ノ島について、別の資料には次のことが書かれてある。
 「一般人が参拝できるのは現地大祭の5月27日だけ(人数限定で選定)。女人禁制で、参拝前には全裸になって海中で禊を行う。」

 昨年、新聞で宗像大社の世界遺産登録候補の記事を読んだとき、次のような記述があった。
 「世界遺産に登録されても、沖ノ島は上陸できないから、船で島の周囲を巡りながら参拝することになるだろう。」


 近くに、タクシーの営業所があったので、タクシーで東郷駅へ行く。電車に乗り博多駅に戻る。博多駅11時55分発長崎本線特急「かもめ21号」に乗る。13時49分、長崎駅に着く。
 駅の構内にある
JR九州ホテル長崎にチェックインする。2泊予約していた。


・同年12月31日(土) 出島(長崎市)

 午前中、ゆっくりと過ごす。
 電話で予約して、一昨年と昨年、昼食を摂ったホテルモントレ長崎へ行く。1年に1回しか伺ってないのに、同じ時期に行くからか、従業員の方々が私を憶えてくれていた。

 「冬のスペシャルランチコース」を注文する。

     小前菜   ボロニアソーセージとトマトの温かいカプレーゼ(サラダ)
             モツアレルチーズの小球を散らしている
     前  菜   つぶ貝と生海老のメスコラータ(あえもの)
     パスタ    茸とナッツのトラパネーゼ(粉)のもちもち長崎スパゲッティ
     魚料理   カジキマグロのベッカフィーコ(レーズン入り) ケッパーソース
     肉料理   雲仙豚フィレ肉のビスカッテ(ステーキ) カシス香るソース
     デザート  チョコとマーマレードのセミフレッド(半凍り)をパイで挟んで

 手頃な値段で、今日もレベルの高いおいしい料理をいただいた。

 ホテルモントレ長崎を出て大浦海岸通りへ入る。右へ曲がり、左手に長崎港を見ながら30分程歩く。
 大正11年(1922年)、国史跡に指定された
出島(でじま)に着く。


出島


 説明板が立っている。一部を記す。


 「出島は寛永13年(1636年)キリスト教の布教を防ぐ目的で、市中に雑居していたポルトガル人を一ヶ所に集め、住まわせるために幕府の命により造られた面積15、000㎡の扇形をした人工の島です。

 寛永16年(1639年)のポルトガル人退去後は一時無人の島となりましたが、同18年(1641年)平戸のオランダ商館がここに移され、以来安政の開国までの218年間我が国で唯一西洋に向けて開かれた窓となり、海外から新しい学術や文化が伝えられました。出島内にはオランダ商館員の住まいや倉庫などが建ち並び、家畜を飼い様々な植物が植えられていました。

 幕末から明治にかけての港湾改良工事などで周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形が失われました。」


 現在、出島が、海に浮かぶ扇形の人工の島だったことを彷彿させるものは中島川沿いのカーブする石垣だけである。他の三方は、海が埋め立てられて陸続きになった。
 しかし、この石垣も海が埋め立てられた後、明治21年(1888年)に行われた変流工事によって、海に流れ込む中島川の川幅が拡げられ、その分、川沿いに面する出島の一部が削られ、石垣は後退した。

 安政6年(1859年)、長崎港が開港すると出島の役割は終わった。当時の建造物は全て存在しない。
 昭和26年(1951年)、出島の復元計画が始まり、復原整備事業が着手された。 

 私が初めて出島を訪れたのは平成12年だった。そのとき、表門、2棟の石倉(いしぐら)の他3棟の建物が復元されていた。
 2回目、10年前の平成18年に訪ねた。水門の他建物が復元されていた。今回は3回目になるが、更に建物が復元されて、復元された
建物は15棟になっていた。まだ今後も建物を復元する予定のようである。

 発掘調査も行われ、オランダ商館員らの住居や蔵の礎石、出島の護岸石垣が見つかっている。護岸石垣の一部は観察できるように展示されている。
 復元された建物は発掘調査等で判明した位置に、オランダ・ライデン国立民族学博物館に残る建物模型、絵図、古写真、文献、絵画資料などを基に設計されている。

 案内書によると、事業開始から100年が経過する2050年までに再び海に浮かぶ出島が完成するように事業に取り組んでいる、と書いてある。
 出島から海までは現在約100m程離れている。海に浮かぶ出島を再現することができるのだろうか、と思って、案内係に尋ねると、周囲に堀を巡らせるんですよ、と言った。一部、堀が造られている箇所もあるから、それを増やしていくのかな、と思った。
しかし、その程度のことだったら、これから30年以上もかからないだろう。

 堀と言っても、城の濠のようなものではないか、と思った。中島川の川幅は約30mである。中島川の川幅と同じくらいの濠を周囲に巡らせ、満潮のとき濠に海水が流れ込むようにしたら、400年前の出島に近い光景を復活することができるのではないか、と考えた。

 出島の当時の建造物はなくなったが、明治になって出島に建てられた2棟の建物が保存されている。
 旧出島神学校旧長崎内外クラブである。


旧出島神学校


 旧出島神学校について説明板で説明されている全文を記す。


 「明治8年(1875年)に創設された出島教会に隣接して明治11年(1878年)に英学校として建てられ、明治16年(1883年)には出島聖公会神学校となりました。現存する我が国最古のキリスト教プロテスタントの神学校です。明治26年(1893年)に増築されたのが現在の姿で、居留地時代の出島の様子を伝える貴重な建物です。」


 幅の広い、長いベランダを中央に置き、両翼の切妻屋根で左右対称にまとめ、片側に塔屋を設けている。清楚な建物である。

 明治32年(1899年)、長崎に暮らす外国人と日本人との親睦を深めることを目的として「長崎内外倶楽部」が設立された。会員は政界、財界で活躍している人たちだった。
 その交流の場として、明治36年(1903年)、英国人貿易商・フレデリック・リンガー(1838~1907)によって、
木造2階建ての旧長崎内外クラブの建物が建てられた。


旧長崎内外クラブ


 2階は応接室になっている。暖炉の上に、「長崎内外倶楽部会員名札入れ」が載っている。名札入れに、長崎内外倶楽部の発起人の一人であった「倉場富三郎」の名札が収められている。


左手暖炉の上の会員名札入れ


 倉場富三郎(くらばとみさぶろう)(1871~1945)は、英国人貿易商・トーマス・ブレーク・グラバー(1838~1911)の息子である。母は、グラバーの妻・淡路屋ツルではなく、別の日本人女性・加賀マキであった。

 富三郎は学習院に通った後、19歳で渡米し、ペンシルバニア大学生物学部に入学した。
 グラバーは事業に失敗し、グラバー商会は破産した。その後、グラバーは、
岩崎弥太郎(1835~1885)に助けられ、東京の三菱本社に勤務することになった。
 東京に転居したグラバーは、日光に別荘を建て、しばしば日光を訪れ、
中禅寺湖や奥日光の湯川(ゆかわ)で、英国人らしく鱒釣りを楽しんだ(グラバーと日光については、目次6、平成24年8月2日参照)。

 グラバーは、長崎では、長崎港を見下ろす南山手の高台に建つ邸・グラバー邸に住んでいた。その後、グラバー邸は、ペンシルバニア大学を卒業して、明治25年(1892年)に帰国した倉場富三郎の住まいとなった。
 明治32年(1899年)、富三郎は、中野ワカ(1875~1943)と結婚する。ワカも富三郎と同じ日英混血であった。ワカの父は英国人実業家・ジェームズ・ウォルター、母は中野エイである。
 富三郎は、長崎汽船漁業会社を興し実業家として活躍した。

 昭和14年(1939年)、グラバー邸は、三菱重工業長崎造船所が取得する。富三郎とワカは、グラバー邸から退去する。

 この時代の富三郎について、福田和美氏の『日光鱒釣紳士物語』から抜粋して引用する。


 「三菱造船所で始まった戦艦『武蔵』の建造がいよいよ本格化した。長崎一本松のグラバー邸からは、造船所がよく見える。軍事機密保護法施行規則が改正されたため、軍の圧力を受けた倉場富三郎夫妻はグラバー邸を売却して、南山手の屋敷へ移り住むことになった。その長崎でも、地元新聞記者団が主催した反英集会が開かれ、2000人もの長崎市民がデモに参加した。その夜、群衆は南山手の英国領事館へ押しかけ気勢をあげていった。」


 昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争勃発


 「(昭和18年)5月4日、富三郎の最愛の妻ワカが69歳で亡くなった。夫婦の間に子どもはなく、日英混血という運命を背負いながら、肩を寄せあうように苦しい時代を生きていた富三郎とワカ。長崎の愛国婦人会に入ってまで、なんとか自分たちの居場所を見つけようとしていたワカの姿を思い出して、富三郎は号泣していた。(中略)

 天涯孤独の身となった富三郎にたいして、特高警察の監視はさらに強まっていた。身に覚えのないスパイの疑いをかけられ、言葉では言い表せない嫌がらせが老いた富三郎を孤独の淵に追いつめていった。」


 昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下された。
 8月15日、終戦


 「終戦から11日目の早朝、屋敷のなかで首を吊っている富三郎が発見された。75歳の老人にこの戦争がもたらしたものは、世のなかへの途方もない絶望感と虚無感だけだった。富三郎は生きる気力も目的も失ってしまったのである。

 遺書には、富三郎夫婦の死亡した後は相続人を定めず、富三郎一代で倉場家を絶家にすること。ライフワークだった『魚類図譜』の処分を、渋沢栄一の孫で第一銀行頭取の渋沢敬三に委ねること。戦後復興資金として長崎市に10万円を寄付することなどが書かれていた。」


 渋沢敬三は、『魚類図譜』を後に長崎大学水産学部に寄贈する。

 倉場富三郎は、生母と別れ、幼少時、養母と異母姉と暮らしている。長崎の実業界で活躍したにも拘らず、戦争中はスパイの汚名を着せられ、親しくしていた人たちも掌を返したように冷淡になった。
 妻・ワカと過ごした日々は安息のときだっただろう。しかし、妻を亡くした後、その悲しみと寂しさに必死に耐えていた気力も、原子爆弾の投下による地獄のような現実と敗戦によって潰えてしまった。
 それでも当時としては莫大な金額を復興資金として長崎市に遺贈している。
 富三郎は、
父・グラバーほどには知られていないが、生涯、長崎の産業の発展に尽力した人である。

 昭和32年(1957年)、三菱重工業長崎造船所はグラバー邸を長崎市に寄贈する。
 文久3年(1863年)建築のグラバー邸は現存する日本最古の木造洋風建築である。昭和36年(1961年)、国重要文化財に指定される。
 昨年、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産のひとつとして世界遺産に登録された。

 今度、長崎を訪れたらグラバー邸を見学しようと思う。





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