54 三島由紀夫の作品にゆかりのある場所を訪ねる


・令和2年12月27日(日)  金閣寺(京都市)  『金閣寺』昭和31年(1956年)刊行

 令和2年(2020年)は三島由紀夫(1925~1970)が亡くなって50年になる。『芸術新潮』は没後50年を記念して三島由紀夫を特集した。特集が組まれた『芸術新潮』令和2年12月号の発行日は三島の祥月命日の11月25日だった。

 他に三島由紀夫に関連する書籍がいくつか出版された。その中に『三島由紀夫を巡る旅 悼友紀行』があった。これは昭和48年(1973年)7月、中央公論社から出版された『悼友紀行 三島由紀夫の作品風土』の復刻版として、令和2年3月、改題されて新潮社から出版されたものである。
 『悼友紀行 三島由紀夫の作品風土』が、三島が亡くなって3年後に出版されたことを私は知らなかった。そこで読むのに50年近く遅れてしまったが復刻版である『三島由紀夫を巡る旅 悼友紀行』を読んだ。

 著者は日本の古典、近代文学の研究者であるアメリカ人・ドナルド・キーン(1922~2019)と評論家・徳岡孝夫の二人である。

 ドナルド・キーンは三島の作品を翻訳し三島文学を海外に紹介した。平成20年文化勲章を受章、同23年日本国籍を取得した。
 徳岡孝夫氏は昭和5年(1930年)生まれで三島の5歳年下だった。毎日新聞の記者だった徳岡氏は、週刊誌『サンデー毎日』に移動した後、三島が亡くなる3年半前に初めて三島を取材した。その後、徳岡氏が毎日新聞の特派員としてバンコクに赴任中、三島が『豊饒の海』第三巻『暁の寺』の取材でバンコクを訪れた。そのときは取材ではなかったので二人は時間を気にせず多いに語り合った。三島は5歳年下の徳岡氏を深く信頼していた。

 平成8年に出版された徳岡氏の『五衰の人 三島由紀夫私記』によると、徳岡氏は三島が亡くなる前日の昭和45年(1970年)11月24日と、亡くなった25日の朝、三島から電話をもらった。電話の内容は25日午前11時に新聞社の腕章とカメラを持って自衛隊市ヶ谷駐屯地のすぐそばにある市谷会館にお出で願いたい、というものだった。
 25日、市谷会館に着いた徳岡氏は、楯の会会員から
三島の徳岡氏宛ての角型A5サイズのマニラ封筒を手渡された。
 これはただごとではないと直感した徳岡氏は差し出された封筒をひったくり、その場に立ったまま、紙が強度なために破れにくいマニラ封筒の封を引きちぎった。

 便箋4枚の手紙と、B4版の紙2枚に書かれた「檄」、写真七葉が出てきた。写真は三島と楯の会会員4名の記念写真だった。
 手紙には、自衛隊員に決起を促さざるを得ない理由と今日の行動の予定を記し、お出でいただいたのは、真意が伝わらぬのを怖れたからである。「檄」は何卒ノーカットで御発表いただきたい、として、「傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも、小生らとしては、純粋に憂国の情に出でたるものものであることを、御理解いただきたく思ひます。」と述べている。

 同じものをNHKの記者1名にも渡したと記し、最後に「御迷惑をおかけしたことを深くお詫びすると共に、バンコク以来の格別のご友誼に感謝を捧げます。」と結んでいた。
 さらさらと書いたらしい手紙だが、字や文章の乱れは全くなく、それまでに貰った原稿と同じだった。

 ちょうど横で同じように手紙を読んでいたNHKの記者と市谷会館の屋上に駆け上がった。屋上からは自衛隊市ヶ谷駐屯地が見渡せる。
 11時40分頃、駐屯地に変化が起きた。パトカーがサイレンを鳴らして猛スピードで駆け上がっていく。後に、自衛隊の警務隊が乗る白いジープが続く。
 徳岡氏とNHKの記者は市谷会館を飛び出して駐屯地までの急な坂を駆け上がった。走りながら腕章を着けた。このとき三島が腕章を持ってくるようにと言った意味を理解した。徳岡氏が偶然にその場に居合わせたようにするためだった。坂を駆け上がり駐屯地内へ入った。

 自衛隊員1千人程が集まっていた。新聞社の車が次々に着き、取材のヘリが接近していた。12時頃、三島がバルコニー上に現れて決起を促す演説を始めた。
 三島の演説は、三島の頭上を旋回するヘリコプターの騒音と、三島が愛した自衛隊員の野次と怒号にかき消されそうになり聞き取りにくかったが、徳岡氏はバルコニーの近くに立って三島の演説の要点をメモ帳に筆記した。


 三島の死から1年後の昭和46年(1971年)11月、ドナルド・キーンと徳岡氏は、三島の作品に描かれた奈良を訪れる。その後、気の向くままに倉敷、尾道、松江、津和野と西へ向かって旅をした。旅をしながら三島を偲び、三島の作品を語り合った。
 『三島由紀夫を巡る旅 悼友紀行』は、この5泊6日の旅を著したものである。三島の作品に真摯に向き合っていた二人が美しい日本語で三島の思い出と三島の作品を語り合う。二人は三島の死を悲しんだり、惜しんだりすることなく、ときおりユーモアをまじえて語る。読後感は明るいものがあった。


 私も三島由紀夫の作品にゆかりのある場所を訪ねる。


金閣


 『金閣寺』の主人公・溝口は、父に「金閣ほど美しいものはこの世にない」と子供の頃から言われて育った。父は舞鶴の端に位置する辺鄙な岬の寺の住職だった。溝口は写真や教科書で金閣を見ていたが現実にはまだ見たことのない金閣を心の中で思い描いていた。


 「私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間の中を飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼(まなこ)を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。

 そうして考えると、私には金閣そのものも、時間の海をわたってきた美しい船のように思われた。美術書が語っているその『壁の少ない、吹ぬきの建築』は、船の構造を空想させ、この複雑な三層の屋形船が臨んでいる池は、海の象徴を思わせた。金閣はおびただしい海を渡ってきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、昼の間というもの、このふしぎな船はそしらぬ顔で碇(いかり)を下ろし、大ぜいの人が見物するのに委(まか)せ、夜が来ると周囲の闇に勢いを得て、その屋根を帆のようにふくらませて出帆(しゅっぱん)したのである。」


鳳凰


 父の死後、敗戦の色が濃くなった昭和19年、中学生の溝口は金閣寺の徒弟になった。現実に見た金閣は美しいとは思えず感動することもなかった。金閣の美しさが蘇るのは金閣を夢想しているときだった。溝口は、金閣は空襲により焼亡すると思っていた。
 しかし、終戦の日、金閣はあらゆることを超絶し何ごともなかったかのように美しく超然として建っていた。溝口は金閣の美しさに衝撃を受ける。戦後の混乱の日々も独(ひと)り金閣は美しく輝いていた。
 溝口は、夢想しているときだけではなく現実にも絶対的な美を放つ金閣に呪縛され支配されていく。金閣に対峙して、その支配に抗い苦しむ溝口は、美の呪縛から逃れるために金閣を滅ぼすべく火を放つ。


 臨済宗相国寺派鹿苑寺(ろくおんじ)、通称・金閣寺の周辺は歴史的風土特別保存地区に指定されている。
 長い参道を歩いて総門を潜る。受付を通って案内板に従って進む。標高201mの衣笠山を借景にして、前面に広がる鏡湖池(きょうこち)に浮かんでいるような
金閣が現れる。
 漆の上から純金の箔を張っている二層、三層は金色に輝いている。輝きは決してけばけばしくなく、むしろ暖かみを感じさせる。
 二層、三層の杮葺(こけらぶ)きの薄い屋根。屋根の勾配はゆるやかで、木割りは細い。鳥のように羽ばたいて、ふわりと宙へ浮かび上がり、大空へ飛翔する姿を想像する。軽快で優美な美術工芸品のような建物である。

 一層は寝殿造りで法水院(ほっすいいん)、二層は武家造りで潮音洞(ちょうおんどう)、三層は禪宗佛殿造りで究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれていることが説明板で説明されている。
 平成6年、「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録された。 

 金閣についての説明を『金閣寺』の注解から引用する。


 「応永4年(1397年)西園寺家の山荘北山殿(きたやまどの)を足利3代将軍義満が譲り受け、金閣などの殿楼を造営したのに始まる。義満の没後は、その遺命により、これを禅寺に改め、インドの鹿野苑(ろくやおん)の名をとって鹿苑寺と名づけた。当初は舎利殿(金閣)のほか十数の殿舎が立ち並び壮観をきわめたが、応仁の乱で多くが失われた。

 金閣は名園鏡湖池にのぞむ三層の楼閣。初層は藤原期の寝殿造、中層は鎌倉期の武家造、上層は禅宗の仏殿造で、屋根は唐様(からよう)を用いた。浄土信仰と禅宗信仰、仏殿と住宅建築という異種のものの結合は、伝統の公家文化と新興の禅宗文化の融合を象徴したものといえる。

 また漆地に金箔を押したところから金閣寺と通称され、創建当時のまま厳存されてきたが、昭和25年焼失。現在のものは昭和30年に再建。」


 昭和25年(1950年)7月2日未明、金閣は放火により全焼した。犯人は金閣寺の修行僧であり、大谷大学学生の林養賢(僧名・承賢)(1929~1956)21歳だった。

 三島は、この放火事件を題材にして美しい言葉と華麗な比喩、擬人法を駆使して絢爛たる美の世界を構築した。


 『金閣寺』の出版から23年後の昭和54年(1979年)、『金閣寺』とは対照的な、金閣寺放火事件の原因を追求したノンフィクション小説が出版された。水上勉(1919~2004)の『金閣炎上』である。
 水上勉は、中学生の頃の林養賢と話をしたことがあった。水上勉は昭和19年(1944年)、舞鶴市成生(なりう)に近い福井県の岬に建つ小学校の分教場に代用教員として勤めていた。その年の8月の暑い日の午後、山道を歩いているとき知り合いの寺の住職に出会った。その住職が連れていて、初めて会った中学生の林養賢と一言、二言、言葉を交わしていたのである。
 また、水上勉は中学生のときに京都の寺で得度を受けて徒弟をしていたことがある。寺から中学校に通わせてもらっていたが、徒弟生活が辛く寺を逃走して還俗(げんぞく)した経験がある。
 これらのことから事件が他人事とは思えず自身の知識と経験に照らし合わせて原因を究明すべく、事件当時のおおぜいの関係者に会って話を聞き、裁判資料を閲覧する。

 『金閣炎上』によると林養賢の生涯は次のようなものだった。

・昭和4年(1929年)3月19日、京都府舞鶴市成生に生まれる。父は檀家が僅か22戸の貧乏寺の住職だった。
・昭和17年(1942年)12月20日、父が肺結核で亡くなる。
・昭和18年(1943年)4月10日、金閣寺住職・村上慈海師によって得度を受けて金閣寺の徒弟になった。
・昭和22年(1947年)4月、大谷大学予科へ進学する。

・昭和25年(1950年)7月2日未明、養賢は金閣に放火する。その後、金閣寺の背後の左大文字山へ逃げる。山中でカルモチン百錠を呑み、短刀で左胸を突き自殺をはかったが死にきれず、意識が朦朧として苦しんでいたところを午後4時、山狩りをしていた警官に発見され西陣警察署に連行された。
・7月3日、母が西陣警察署へ着くが、養賢は母との面会を拒否する。母は検事の訊問を受ける。
・翌日の4日、母が、帰途、京都駅発山陰本線の汽車が保津峡駅を過ぎて保津川渓谷にさしかかったところ、車輛の連結部から飛び降りて保津峡に身を投げる。

・公判前の検事の取り調べに対して、養賢は放火の動機を次のように供述している。
 自己嫌悪、美に対する嫉妬、美しい金閣と共に死にたかった。社会に対する反感、放火に対する社会の批判をきいてみたいという好奇心。
・養賢が京都拘置所に収監されているとき金閣寺住職・村上慈海師が一度面会に来るが、養賢から謝罪の言葉はなかった。

・昭和25年12月28日、京都地方裁判所において、懲役7年の判決が言い渡される。

・養賢は控訴せず、刑が確定した。兵庫県・加古川刑務所に移送される。服役中、養賢は村上慈海師宛てに何通も謝罪の手紙を出す。悲痛な叫びのような手紙だった。慈海師から返信はなく、面会もなかったが、時々、仏教書や日用品が送られてきた。
・昭和26年2月頃から幻覚や妄想が始まる。手紙の内容が支離滅裂になる。
・同年6月、肺結核を発症する。

・昭和28年3月12日、極度の精神障害と肺結核の治療のため東京・八王子医療刑務所に移送される。
・昭和30年10月、病状による減刑によって刑期満了が近づいたので京都刑務所へ移送される。
・同年10月30日、釈放されたが身元引受人もおらず、しかも病状が重症のため即日京都府立洛南病院に入院。甚だしい幻聴、被害妄想がある。
・昭和31年3月7日、父と同じ肺結核により死亡。享年26歳。血の繋(つな)がりのある者が誰一人看取ることのなかった寂しい最期だった。


 戦後の食糧難の時代、徒弟に支給される僅かの小遣いでは月に2、3回買い食いをするとお金はすぐに無くなり、いつも腹を空かせていた。それにひきかえ慈海師は毎夜酒肴を運ばせ徒弟に交代で給仕をさせ、晩酌しつつ口やかましく叱言(こごと)を言っていた。
 金閣寺は戦後、観光客が増えて多額の拝観料が入るようになった。副司(ふっす)や執事は高給を得て、寺の経営や徒弟の日常生活にまで口出しするようになった。
 林養賢は、慈海師の信用を失くし、得度を受けた頃に夢見てい金閣寺の住職になることはおろか将来僧侶にもなれないと絶望した。

 『金閣炎上』に、日本庭園研究家、造園家、作庭家であった久恒秀治(ひさつねしゅうじ)(1911~1982)の文章が掲載されている。久恒秀治は京都の名園の修復工事の多くに携わった。昭和23年(1948年)、金閣寺庭園の修理を行っている。
 水上勉は、久恒秀治が庭園修理の際に、隠寮と庫裏との事情、副司、執事らの言動に接し、何らかの事実を目撃した様子がうかがえると述べている。

 久恒秀治の文章の全文を転記する。


 「私が『丸山八海石』を据え直した翌々年、昭和25年7月2日、寺僧の放火により北山殿唯一の遺構、舎利殿金閣は炎上した。事件を起こした少年は、私が庭園の整美を行った際、伐り落した樹枝などを運搬する作業にも率先参加した純情な少年であった。彼が金閣に放火した心情は小説などに書かれた内容とはまったく違ったものであった。世間知らずの少年の行動は思いがけぬ悲劇にまで発展したが、彼には彼としての筋の通った主張があった。庭園修理中のしばらくの間ではあったが、彼と朝夕を共にした私には当時の切羽詰った彼の心情が理解できる。

 しかし、ここで彼の行動の是非をのべるつもりはない。それよりも、文化財を抱えた京都の寺院が『金閣炎上』をただの犯罪として見ないで、少年が法律を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受け取ってもらいたい。観光、観光と、ただそれのみに明け暮れする京都の寺院は、声の無い少年の抗議に深く心耳を傾け、慚愧し、宗教機関としての本来の面目を取戻し、道場としての姿勢に立戻ることを願うのみである。金閣が再建されても、北山殿の舎利殿は再び甦らない。」


 京都市北区金閣寺町1
 JR京都駅下車 駅前からバスに乗り、停留所「金閣寺道」下車


令和3年11月10日(水)  鎌倉文学館(旧前田侯爵家別邸)  『春の雪』昭和44年(1969年)刊行

 昨日チェックインした横浜駅前のJR東日本ホテルメッツ横浜で朝食後ホテルを出る。3泊予約していた。
 
JR横須賀線の電車に乗る。約25分で鎌倉駅に着く。江ノ島電鉄(通称・江ノ電)に乗り換える。江ノ電は単線である。両側から迫る民家の間を走る。約5分で二つ目の由比(ゆい)ヶ浜駅に着く。

 駅を出て線路の反対側に渡る。250m程歩き県道311号線を渡る。緩やかな坂を150m程上がる。鎌倉文学館の正門が見えてきた。
 今日訪ねる鎌倉文学館は以前訪ねたことがある。そのときは、近くに建つ吉屋信子記念館も見学した。吉屋信子記念館は作家・吉屋信子(1896~1973)の邸を昭和37年(1962年)に記念館として開館した。
 吉屋信子邸の設計は建築家・
吉田五十八(よしだいそや)(1894~1974)である(吉田五十八について、「奥の細道旅日記」目次19、平成15年9月15日参照)。

 正門を通る。緩やかに蛇行する石畳の坂を上がる。鬱蒼とした樹木が両側から頭上を覆い空を遮って辺りが暗くなる。150m程上がり、「招鶴洞(しょうかくどう)」と名付けられた、自然石を積み上げて造られたトンネルを潜る。


招鶴洞


 トンネルを潜ると道が平らになる。左側の木立の間から鎌倉文学館(旧前田侯爵家別邸)の建物が現れる。
 左へ曲がり、青空を背にした美しい建物を見る。


鎌倉文学館(旧前田侯爵家別邸)


 建物の案内板がある。一部を記す。


 「この建物は、昭和11年(1936年)旧加賀藩主前田家第16代前田利為(としなり)氏が建築したもので、相模湾を見下ろす谷戸の中腹に位置しており、当時の鎌倉の別荘建築を代表する建物の一つです。
 昭和58年(1983年)7月、前田家より鎌倉市が譲り受け、昭和60年(1985年)11月に鎌倉文学館として公開されました。平成12年(2000年)4月、国の登録有形文化財となりました。」


 平成2年、鎌倉市景観重要建築物に指定された。

 敷地約3万㎡に建つ本館は、ハーフティンバーを基調とした木造一部鉄筋コンクリート造3階建。2階、3階は木造である。南面の芝生の庭園から見えるのは2階と3階である。青色スパニッシュ瓦、ベージュ色の壁面切妻屋根だが、深い軒出(のきだし)の和風の設計である。
 右側2階に大きな張り出し、間にテラスを挟み、左側には2階、3階連続した塔屋3階にサンルームを設けている。

 三島由紀夫の『春の雪』の中で、この別邸が登場する。三島は次のように描写している。


 「この日本の終南別業は、一万坪にあまる一つの谷(やつ)をそっくり占めていた。先代が建てた茅葺(かやぶ)きの家は数年前に焼亡し、現侯爵はただちにそのあとへ和洋折衷の、十二の客室のある邸(やしき)を建て、テラスから南へひらく庭全体を西洋風の庭園に改めた。
 南面するテラスからは、正面に大島がはるかに見え、噴火の火は夜空の遠い篝(かがり)になった。由比ヶ浜までは庭づたいに5、6分で歩いてゆける。(中略)

 夏の日のこの風光の壮麗は、比べるものとてなかった。谷(やつ)が扇なりにひらけているので、右方の稲村ヶ崎、左方の飯島は、あたかも庭の東西の山の尾根からじかにつづいているように眺められ、空も地も、二つの岬に囲まれた海も、目路(めじ)のかぎりが松枝別業の領内に在るかの感を与えた。そこを犯すものは、ほしいままにひろがる雲の影と、たまさかの鳥影と、沖をゆく小さな船影とだけであった。

 従って、雲のたたずまいの魁偉(かいい)に見える夏の季節は、この扇形の山ふところを客席とし、広大な海の平面を舞台とする、雲の乱舞の劇場に臨む思いがした。」


 元に戻り坂を上がる。車寄せが見えてきた。
 車寄せの天井は垂木(たるき)が剥き出しになっており、腰壁に壁泉(へきせん)が設けられている。スパニッシュ様式である。屋根を支える柱の装飾はシノワズリー(中国趣味)の雰囲気がある。


壁泉


車寄せの柱


 柱や垂木及び扉の木部には、手斧(ちょうな)の跡を模倣したハツリ模様がある。これはチューダー様式の特徴である。異なった様式が巧みに組み合わされている。


玄関の扉


 玄関は2階へ通じている。室内の美しいステンドグラスや照明器具、暖炉のラジエーター・カバーなどのデザインにアールデコが見られるが、内部の写真撮影は禁止されている。

 ガラス越しに外を見る。テラスの前に芝生の庭園が広がる。そこから石段を下った場所も斜面を利用した広い芝生の庭園である。その下に、約600㎡のバラ園がある。
 バラ園の向こう、民家を挟んで海が見える。昨日は豪雨だったが、今日は朝からよく晴れている。しかし、風が強い。そのためか、海は波頭(なみがしら)が白く立っている。水平線上に薄っすらと島影が見える。あれは大島だろうか。

 三島が描写している「噴火の火は夜空の遠い篝(かがり)になった」という文章は、現実のことだろうか、三島の創作ではないだろうか、と思って、年配の男性の職員がおられたので、その件を尋ねた。職員のお話では、「ええ、大島が噴火したとき、ここから赤い火が見えましたよ」ということだった。

 2階は常設展示室として使われている。川端康成(1899~1972)他9名の、鎌倉に居住して執筆活動をしていた、鎌倉文士と呼ばれる作家、評論家について展示している。
 また、夏目漱石(1867~1916)の
『門』他鎌倉を舞台とした作家、文化人の作品を紹介している。『門』の宗助は、過去の行動を後悔し自分を責め続けることに耐え難く、救済を求めて鎌倉の庵に参禅する。

 1階は特別展示室になっている。特別展「芥川龍之介と鎌倉」が12月23日まで開催されている。
 芥川龍之介(1892~1927)は、大学卒業後横須賀の海軍機関学校の英語教師となり、大正5年(1916年)から大正8年(1919年)まで3年間、鎌倉に下宿していた。
 芥川の直筆原稿、書簡などが展示されている。

 3階は非公開になっている。

 第16代前田利為(1885~1942)の長女・酒井美意子(1926~1999)は、『ある華族の昭和史』の中で、次のように述べている。

 「戦前の皇族や華族は、東京に本邸を構え、ほかに幾つかの別邸を持っていた。前田家の別邸は鎌倉と軽井沢と金沢にあり、北海道には牧場と山林を経営し、京都の鷹ヶ峰には別荘の新築を、朝鮮には植林の計画をもって広大な土地を所有していた。」

 また、昭和63年(1988年)、読売新聞社発行の『東京建築懐古録』でも、酒井美意子は次のように語っている。

 駒場の本家には男女併(あわ)せて136人の使用人がいた。大名華族の筆頭であった前田家の「豪華な暮らしを支えたのは、陸軍将官としての利為の俸給のほか、満鉄などの株の配当、そして台湾や朝鮮にあった不動産の収入で、現在に残る記録から換算すると、年に三十億円近くも使っていたことになる。」

 外へ出て建物の前の芝生を下ってバラ園へ入る。バラの種類は多いが、秋に咲かせるバラの季節は終わり、開いているバラの花は数えるほどしかなかった。


バラ園 入口


 三島由紀夫の遺作となった『豊饒の海』は、『新潮』に昭和40年(1965年)9月号から昭和46年(1971年)1月号まで連載された長編小説である。『豊饒の海』は、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の4部からなり、それぞれ単行本となっている。
 『天人五衰』の最終回の原稿の入稿日だった昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫は新潮社の担当編集者に渡すべく家人に最終稿を預けて、「盾の会」会員4名とともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へ赴き、自衛隊員に決起を促した後、割腹自殺をした。
 『天人五衰』の最終に、「『豊饒の海』完。昭和45年11月25日」と記されている。三島由紀夫は最終稿に自身の命日を記していたのである。新潮社は、この最終稿140枚を翌年の1月号に一挙掲載し、約5年半の長きに亘って連載された長編小説は、三島由紀夫の死後、完結した。

 私は、『新潮』の連載は読まなかったが、それぞれ単行本として出版されるたびに読んだ。
 『豊饒の海』は、仏教でいう、迷いの世界を生きかわり、死にかわる輪廻転生(りんねてんしょう)をテーマとした物語である。『春の雪』の主人公が『奔馬』、『暁の寺』で夭折(ようせつ)をかさねながら生まれ変わっていく。しかし、最後の『天人五衰』によってこれまでの物語が瓦解する。『天人五衰』の主人公は、仏教で説く「天人五衰」の様相を帯びて、生まれ変わりの本物か贋物(にせもの)か謎となってくる。
 「天人五衰」の意味を『広辞苑』から引用する。

 「欲界の天人が命尽きんとする時に示す五種の衰亡の相。涅槃経によると、衣服垢穢、頭上華萎、身体臭穢、腋下汗流、不楽本座の五相」

 『豊饒の海』の重要な場面で月修寺という尼寺が登場する。この月修寺は、奈良市に所在する圓照寺をモデルにしている(『豊饒の海』、圓照寺について、目次31、平成28年12月26日及び27日参照)。

 第一巻『春の雪』は、時代は大正。侯爵家の嫡男と伯爵家の美しい令嬢の結ばれることのない恋の物語である。

 松枝清顕(まつがえきよあき)の父侯爵は、幕末にはまだ卑しかった家柄を恥じて、自分の家系に欠けている雅(みやび)にあこがれ、清顕を、幼児の頃、麻布の旧武家屋敷に住む綾倉(あやくら)伯爵家へ預けた。
 綾倉家は、和歌と蹴鞠の家として知られ、京訛(なまり)のとれない綾倉伯爵は、御歌所の歌会始の寄人(よりゅうど)をつとめていた。伯爵は、幼い清顕に和歌や書を教えた。

 綾倉家には清顕より2歳年上の聡子(さとこ)がいた。聡子は清顕を可愛がり、二人は仲の良い姉弟のように過ごした。

 清顕が19歳になっても、聡子は清顕をいつまでも弟のように思っているのか、清顕に対して思わせぶりな物言いをした。清顕は聡子に振り回されているような心地がして不満を持っていた。
 お互いに好きだったのだけれどもいつも気持ちが行き違い、素直に自分の本心を伝えることができなかった。清顕は敢えて聡子に対して冷淡に振る舞った。

 洞院宮(とういんのみや)第三王子治典王(はるのりおう)殿下と綾倉聡子の縁談が進められ、婚姻の勅許が下りた。
 清顕は、聡子と洞院宮治典王殿下との縁談が進められていたことは知っていた。そのときは平静になりゆきを見て、むしろ冷淡なほどだった。ところが、勅許が下りて、後戻りすることも、やり直すこともできなくなったとき、初めて、聡子を恋していることを自覚する。

 聡子付きの老女・蓼科の遠縁の者が営んでいる麻布・霞町の軍人相手の下宿屋の一室で、清顕と聡子は逢う。その後も逢瀬を重ねる。松枝侯爵家の鎌倉の別荘も夜、密会の場所になった。
 
松枝侯爵家の鎌倉の別荘は、旧前田侯爵家別邸をモデルにしている。

 聡子は、聡子の大伯母が門跡を務める奈良の月修寺で剃髪して得度をする。新聞は、「洞院宮家の御都合による」婚約破棄と報じた。

 清顕は奈良市帯解(おびとけ)に宿をとり、聡子に逢うために月修寺へ向かったが、門跡は逢わせない。帯解にいる間に6回、月修寺へ通ったが、聡子には逢えなかった。清顕から電報で呼び出された清顕の親友・本多繁邦(ほんだしげくに)は清顕に代わって、清顕が聡子に逢わせてもらえるように門跡に懇願したが聞き入れられなかった。
 清顕は帰京して2日後に20歳で亡くなった。

 本多は学習院高等科から東京帝国大学法科大学に進み、在学中、高等文官試験司法科に合格し判事となり、その後弁護士に転身する。
 本多は、『春の雪』の松枝清顕が、『奔馬』の飯沼勲、『暁の寺』のタイの王女・ジン・ジャンと夭折をかさねながら生まれ変わっていく事実を目撃する。
 しかし、本多が生まれ変わりだと信じて養子に迎えた『天人五衰』の安永透は
、生まれ変わりの本物か贋物(にせもの)か謎となってくる。透は20歳になった頃から残忍な性格を現してくる。本多家は崩壊する。

 80歳になった本多は発病する。余命が短いことを悟り、現在、聡子が門跡(もんぜき)を務めている月修寺を60年ぶりに訪ねることを決意する。聡子に逢ってもらうことを願い、60年前のいきさつや自分の経歴を書いた手紙を出す。

 本多は、60年ぶりに聡子に逢った。
 しかし、これまでの長い物語が、本多の幻想か、本多の一夜の夢に終わり、一挙に消え去ってしまうほどに物語が展開していく。
 『天人五衰』から引用する。


 「『清顕(きよあき)君のことで最後のお願いにここへ上りましたとき、御先代はあなたには会わせて下さいませんでした。それも致し方のないことだとあとでわかりましたが、その当時はお恨みに思っておりました。松枝(まつがえ)清顕は、何と云っても私の一の親友でございましたからね』
 『その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?』
 本多は呆然(ぼうぜん)と目を瞠(みひら)いた。
 耳が遠いと云っても、聞き損ねる言葉ではなかった。しかし門跡のこの言葉の意味は、幻聴としか思われぬほど理を外(はず)れていた。
 『は?』
 と本多はことさら反問した。もう一度門跡に同じ言葉を言わせようと思ったのである。

 しかし全く同じ言葉を繰り返す門跡の顔には、いささかの衒(てら)いも韜晦(とうかい)もなく、むしろ童女のようなあどけない好奇心さえ窺(うかが)われて、静かな微笑が底に絶え間なく流れていた。
 『その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?』

 ようやく門跡が、本多の口から清顕について語らせようとしているのだろうと察した本多は、失礼に亘(わた)らぬように気遣いながら、多言を贅(ぜい)して、清顕と自分との間柄やら、清顕の恋やら、その悲しい結末やらについて、一日もゆるがせにせぬ記憶のままに物語った。
 門跡は本多の長話のあいだ、微笑を絶やさずに端座したまま、何度か『ほう』『ほう』と相槌(あいづち)を打った。途中で一老が運んできた冷たい飲物を、品よく口もとへ運ぶ間(ま)も、本多の話を聴き洩(も)らさずにいるのがわかる。

 聴き終った門跡は、何一つ感慨のない平淡な口調でこう言った。
 『えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違いでっしゃろ』
 『しかし御門跡は、もと綾倉聡子(あやくらさとこ)さんと仰言(おっしゃ)いましたでしょう』
 と本多は咳(せ)き込みながら切実に言った。
 『はい。俗名はそう申しました』
 『それなら清顕君を御存知ない筈(はず)はありません』
 本多は怒りにかられていたのである。(中略)

 『いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃっらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか? お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません』

 『では私とあなたはどうしてお知合いになりましたのです? 又、綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう』
 『俗世の結びつきなら、そういうものでも解けましょう。けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか? 又、私とあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきりと仰言れますか?』
 『たしかに60年前ここへ上った記憶がありますから』
 『記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに』

 『しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば』と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。『それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・・・・』
 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
 『それも心々(こころごころ)ですさかい』


 聡子の、清顕を知らない、清顕の名前を聞いたこともない、という言葉が、我々一般の読者は勿論、文芸評論家、三島文学の研究者を混乱させることになった。当時、文芸評論家や三島文学の研究者が、聡子の言葉の意味を様々に解釈して発表した。しかし、どれもこれも納得できるものはなかった。

 私は、次のように推測した。
 本多は、幽冥界(ゆうめいかい)へ足を踏み入れたのではないか、と思った。月修寺は、この世の寺ではなく、あの世の寺である。
 月修寺を幽冥界に存在する寺であると仮定して考える。月修寺を訪れる人は、冥土と現世を行ったり来たりすることが可能な人もいるが、亡くなるべく運命づけられる。聡子は剃髪したときに亡くなったのである。聡子に逢うことを願って月修寺に通った清顕は、帰京して2日後に亡くなる。

 聡子は既に亡くなっているから現世の記憶がない。そのため、清顕を知らない、清顕の名前を聞いたこともない、本多と会ったこともない、と語るのである。
 本多も現世に戻れないかも知れない。いずれにしても発病しているから、帰京しても早晩亡くなることが暗示されている。

 三島没後、『豊饒の海』の「創作ノート」が発見された。「創作ノート」は、新潮社発行『決定版 三島由紀夫全集』に収められているが、本多と聡子が最後に対面する場面については記されていない。
 聡子の言葉について三島は明言することなく自死した。聡子の言葉の意味は永久に解明されないだろうと思った。

 しかし、三島が亡くなって3年後の昭和48年(1973年)7月、中央公論社から出版された『悼友紀行 三島由紀夫の作品風土』の中で、著者のドナルド・キーンが共著者の徳岡孝夫氏に対して、読むものを呆然とさせるような破滅の幕切れの意味を、明快な語り口で分かりやすく解説していたのである。

 この件に対する二人の対話の初めに、実際の円照寺は、臨済宗妙心寺派に属しているが、『豊饒の海』の月修寺は、法相(ほっそう)宗という設定になっている。」と述べられている。三島が、あえて月修寺を法相宗という設定にしたことに注目し、そこから考えていかなければ最終章の謎は解けなかったのである。

 『悼友紀行 三島由紀夫の作品風土』の復刻版として、令和2年3月、改題されて新潮社から出版された 『三島由紀夫を巡る旅 悼友紀行』からドナルド・キーンの言葉を引用する。このドナルド・キーンの考察が、三島が語りたかったことに最も近いのではないかと思う。


 「法相宗は、現在の日本には、奈良の興福寺や薬師寺、京都の清水寺のほかに、ほとんどありません。では、なぜ、三島さんは、わざわざ月修寺を法相宗の寺に指定したのか、ということが考えられます。
 一つの可能性としては、東大寺の華厳(けごん)宗、唐招提寺(とうしょうだいじ)の律宗などとともに、残っている南都六宗の一つとして法相宗を紹介したかった、という気持ちがあったのかもしれません。しかし、三島さんは、そんなことよりも、もっと法相宗そのものに魅(ひ)かれるところがあったんでしょうね。

 法相宗の一番根本的な思想は、私たち人間が見るものは、すべて幻想にすぎないという考えかたなのです。全部、私たちの頭のなかにあるものにすぎない。それが、法相宗の信条です。『天人五衰』の最後の場面からみると、それは、あの小説に実にぴったりくる思想ではありませんか。
 『春の雪』を書き始めたとき、三島さんが『天人五衰』の結末を、あらかじめ意識していたかどうか。それは、ぼくにもわかりません。ただ、三島さんの気持ちに、『すべてのことは幻想にすぎない』という意識があったのではないでしょうか。
 これは、非常にニヒルなことになってきます。法相宗では
、人間の知識以外にはなにもないんです。人も物も、すべて実存しないんですよ。(中略)

 法相宗の考えかたは、ちょうど海の波のようなものです。あったと思ったらすぐに消える。なにも証拠がないんです。波がそこにあったかどうか、それは記憶にしか残らない。まったく主観的なことになってしまうわけです。三島さんは、きっと法相宗のことを念頭に置いて『豊饒の海』を考えたものと、ぼくは思います。(中略)

 だが、なぜ他の宗教を書かずに、あの人にとってはもっとも大切な小説の中で、法相宗を書いたのか? 奈良的な仏教の一つであるということと法相宗の唯識(ゆいしき)論の二つが、二つとも三島さんの頭の中にあったのかもしれません。(中略)

 法相宗は、日本でもっとも学問的な宗派の一つだったといえます。僧侶でなければ理解できないほど、むずかしいものです。真言、天台もむずかしいのですが、規模が大きいです。また、浄土宗のような、一般向けともいえる宗派なら、だれでも納得することができます。しかし、奈良仏教の特徴は、僧侶でなかったらやれなかった点です。
 また法相宗の唯識論の話に戻りますが、『天人五衰』の中で、もと綾倉聡子である月修寺の門跡は、『いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違いますか?』と聞くのです。清顕が実在していたのかどうか。それを考えていくだけでも、唯識論になりますね」


 鎌倉市長谷1-5-3
 JR鎌倉駅下車 江ノ島電鉄に乗り換え、由比ヶ浜駅下車


同年11月11日(木)  建長寺  『海と夕焼』昭和30年(1955年)初出

 ホテルで朝食後JR横須賀線の電車に乗る。約20分で鎌倉駅の一つ手前の北鎌倉駅に着く。

 映画監督・小津安二郎(1903~1963)の昭和24年(1949年)製作の『晩春』、昭和26年(1951年)製作の『麦秋』に北鎌倉駅が映されている。
 戦後の連合国軍の占領下にあった時代にもかかわらず、それらを全く想起させない美しい日本の情景が映される。

 因みに、昭和28年(1953年)製作の『東京物語』を合わせたこれらの三つの作品に女優・原節子(1920~2015)がいずれも紀子(のりこ)という同じ役名で出演している。そのため、この三つの作品は紀子三部作と呼ばれることもある。

 駅前からバスに乗る。約5分で三つ目の停留所「建長寺」に着く。

 建長寺鎌倉五山の筆頭である。臨済宗建長寺派の大本山であり、日本最古の禅寺である。
 建長5年(1253年)、鎌倉幕府第5代執権・
北条時頼(1227~1263)の祈願所として創建される。南宋の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(僧名・大覚禅師)(1213~1278)を招いて開山した。

 鎌倉五山とは、臨済宗の寺院の宗教的地位、社会的地位によって朝廷、幕府によって認められた格式を持つ、鎌倉に在る五つの禅宗の寺院である。他の四つの寺院は、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺である。

 境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されている。

 総門が建っている。天明3年(1783年)に建立された京都の天台宗・般舟三昧院(はんじゅさんまいいん)の正門を昭和15年(1940年)に移築したものである。 


建長寺 総門


 高さ30mの巨大な山門(三門)を潜る。安永4年(1775年)に再建された銅板葺きの重層門である。国重要文化財に指定されている。
 このような巨大な門を潜るのは、40年ほど前に、我が国最大の門である東大寺南大門(なんだいもん)を潜って以来である。
 


山門(三門)


 


 仏殿が建っている。この建物は、東京・芝の増上寺にあった徳川幕府2代将軍・徳川秀忠(1579~1632)の夫人・崇源院(1573~1626)の霊屋(たまや)を、正保4年(1647年)に移築、修復したものである。国重要文化財に指定されている。


仏殿


 崇源院は、一般に「江(ごう)」という名で知られている。は、父・浅井長政(1545~1573)、母・お市の方(1547~1583)の、茶々、初、江の三姉妹の末娘であった(江について、目次11、平成25年5月2日参照)。

 仏殿の斜め前の庭園に、旺盛な生命力を見せて聳える樹木がある。


栢槇(びゃくしん)


 説明板が立っている。それによると、木は栢槇(びゃくしん)、和名・イブキ(ヒノキ科)。大覚禅師(だいかくぜんじ)が中国から持ってきた種子を建長寺創建の際にまいたと伝えられている。樹高13m、胸高周囲6、5m、樹齢約760年(推定)。神奈川の名木百選、鎌倉市指定保存樹木になっている。 

 法堂(はっとう)が建っている。文化11年(1814年)に再建された。国重要文化財に指定されている。総門、山門、仏殿、法堂までが一直線に連なっている。

 唐門が建っている。仏殿と同じく増上寺にあった方丈の正門を正保4年(1647年)に移築した。国重要文化財である。


唐門


 脇の通用口から方丈へ入る。方丈から唐門を見る。漆塗りの四脚門である。


唐門


 方丈は、総門と同じく般舟三昧院から移築されたものである。元は講堂であった。山門、仏殿、法堂の雄渾な建築と異なり、総門、方丈の典雅な建築は、さすがに京都の寺で創建されたものだなと思った。


方丈 側廊 


 説明書によると、ここから更に奥へ進み、約250段の石段を上りながら建長寺の塔頭(たっちゅう)を巡り、更に約150段の石段を上ると、勝上嶽(しょうじょうけん)の展望台に行くことができる、と説明されている。
 展望台からの眺めは素晴らしいと思うが、上まで上がる元気はとてもないので拝観はここまでにする。


 「文永9年の晩夏のことである。のちに必要になるので附加えると、文永9年は西暦1272年である。
 鎌倉建長寺裏の勝上ヶ岳(しょうじょうがたけ)へ、年老いた寺男と一人の少年が登ってゆく。寺男は夏のあいだも日ざかりに掃除をすまして、夕焼の美しそうな日には、日没前に勝上ヶ岳へ登るのを好んだ。
 少年のほうは、いつも寺へ遊びに来る村童たちから、唖(おし)で聾(つんぼ)のために仲間外れにされているのを、寺男が憐(あわ)れんで、勝上ヶ岳の頂きまでつれてゆくのである。

 寺男の名は安里(アンリ)という。背丈はそう高くないが、澄み切った碧眼(へきがん)をしている。鼻は高く、眼窩(がんか)は深く、一見して常人の人相とはちがっている。そこで村の悪童どもは、蔭(かげ)では安里と呼ばずに、天狗(てんぐ)と呼びならわしている
 話す言葉はすこしもおかしくない。それとわかる他国の訛(なまり)もない。安里は、この寺を開かれた大覚禅師蘭渓(らんけい)道隆に伴われてここへ来てから、二十数年になるのである。」


 三島由紀夫の『海と夕焼』の冒頭である。
 アンリは、60年前の1212年、おおぜいの少年、少女とともに、イスラム教諸国から聖地エルサレムを奪還するために、エルサレムを目指して旅に出た。少年十字軍と呼ばれた。

 中世ヨーロッパのキリスト教諸国が、イスラム教諸国の支配下にあった聖地エルサレムを奪還するために派遣した遠征軍を十字軍と呼ぶ。
 キリスト教諸国が聖地とするパレスティナの古都・エルサレムは、旧市街のキリストの墓とされる場所に聖墳墓(せいふんぼ)教会が建つ。また、キリストが処刑されたゴルゴダの丘は、この場所にあったと推定されている。
 イスラム教徒にとってエルサレムは、メッカ、メディナにつぐ第三の聖地とされていた。また、ユダヤ教徒にとってもエルサレムは、ソロモンがヤーヴェの神殿を建設した地であった。因みに、「嘆きの壁」はソロモンの神殿跡に建つ。

 十字軍は、1095年11月に開催されたクレルモンの宗教会議において第159代教皇・ウルバヌス2世(1042~1099)の呼びかけに端を発した。1096年8月、異教徒と戦い、エルサレムに巡礼すれば罪を贖(あがな)うことができる、という教えに心を奮いたたせて騎士と民衆からなる十字軍が東方への旅に出発した。
 十字軍の遠征は約700年にも及ぶ。無数の遠征があるが、大規模な遠征は7回とされている。

 1202年の第4回十字軍遠征の後、1212年、神の啓示を受けたとするフランス人の少年の呼びかけによりフランス、ドイツから集まったおおぜいの少年、少女が中心になって十字軍が結成された。少年十字軍と呼ばれた。少年、少女の平均年齢は12歳だった。
 少年十字軍は、遠征の途上、病死したり、奴隷商人に誘拐されて奴隷として売り飛ばされたりして、多くの少年、少女が悲惨な運命を辿った

 『海と夕焼』は少年十字軍を題材にした短編小説である。

 1212年、フランスの山間の村で羊の群れを追っていた羊飼いの少年・アンリの前にキリストが現れる。キリストはアンリに告げる。
 「聖地(エルサレム)を奪い返すのはお前だよ、アンリ。異教徒のトルコ人たちから、お前ら少年がエルサレムを取り戻すのだ。沢山の同志を集めて、マルセイユへ行くがいい。地中海の水が二つに分かれて、お前たちを聖地へ導くだろう」

 アンリは、この出来事を誰にも話さなかった。誰も信じてくれないと思ったからである。
 4、5日して、年老いた旅人がアンリの前に現れた。それはキリストが姿を変えて現れたと思われた。年老いた旅人は言った。「この間のお告げを忘れたのか。なぜ躊躇(ちゅうちょ)する。お前は神に遣わされた者なのだぞ」
 翌日、アンリは親しい同年の羊飼いの少年にこの話をした。少年は驚いて膝まずきアンリを拝んだ。その後、次第に近隣の羊飼いたちが集まってきてアンリの弟子になった。


 「フランスの各地で、同じようなことがつぎつぎと起っていた。十字軍の戦死者の子供たちは、ある日父親の形見の剣を持って家を出てしまった。またあるところでは、今まで庭の噴水のほとりで遊んでいた子供が、俄(にわ)かに玩具を放り出して、女中からわずかなパンをもらって出て行った。母親がつかまえて叱(しか)ると、マルセイユへ行く、と言って肯(き)かなかった。

 ある村の広場では、夜のあけぬうちに、寝床から忍び出て来た子供たちが集まって、聖歌をうたいながら、どこへともしれず旅立った。大人たちが目をさましてみると、村にはごく小さくて歩けない子を除いては、子供という子供がいなくなっていた。

 私がいよいよ多くの同志を連れて、マルセイユへの旅仕度をはじめていると、両親が私を連れに来て、泣いて私の無謀を詰(なじ)った。しかし私の大ぜいの弟子どもが、この不信心な両親を追っ払ってしまった。私と一緒に旅立ったものでも百人を下らなかった。フランスやドイツの各地から数千人の子供たちが、この十字軍に加わっていたのだ。」


 ハーメルンの笛吹き男の後について行って、二度と戻らなかったおおぜいの子供たちのように、親と別れ故郷を後にした。

 旅の途上、幼い者や弱い者が先に亡くなった。疲労のあまり精神が錯乱して崖から身を投げる者がいた。ペストが猖獗(しょうけつ)を極めている町へ足を踏み入れて、一度におおぜいの子供たちが亡くなった。マルセイユに着いたとき子供の数は3分の1に減っていた。
 先に着いていた子供たちがアンリの一行を待っていた。子供たちはアンリたちが到着すれば海の水が左右に分かれると信じていたのである。
 アンリはおおぜいの子供たちに囲まれてマルセイユの埠頭で祈った。永いこと祈ったが海はそのままの姿だった。その後、何日も待ったが海は分かれなかった。

 そのとき信心深い様子の男が近づいて来て、自分の持船でアンリたちをエルサレムまで連れてゆくと言った。半ばは乗船をためらったが、アンリを含めて半ばは勇んで船に乗り込んだ。

 「船は聖地へは向かわずに、船首を南へ向けて、埃及(エジプト)のアレキサンドリアに着いた。そこの奴隷市場で、私たちは悉(ことごと)く売られてしまった」

 アンリはペルシャの商人の奴隷になった。さらに売られてインドへ行った。長い奴隷の生活が続いた。

 ここまではほぼ史実に基づいている。ここから先は三島由紀夫の創作になる。

 「当時、大覚禅師は仏教を学びに印度へ来ていた。ふとした機縁から、安里は禅師の力で自由の身にしてもらった。その御恩返しに、生涯禅師に仕えたいと思うようになった。禅師の故国へ従い、さらに師が日本へ渡るときいて、たってお願いして、お供をして日本へ来たのである。」

 安里の心は今は安らいでいる。帰国の望みはとうに捨て去り、自分がいつ信仰を失ったか思い出すこともできない。師の教えをよくきいて来世を願ったりすることもない。
 それでも勝上ヶ岳の頂上から夕焼を見て、夕日に輝く海を見るとき、あの時、なぜ海は二つに分かれなかったのだろうと今でも不思議に思う。

 『海と夕焼』は神の不在を著している。
 神を信じ、神の命ずるままに行動したにも拘わらず、ことごとく惨憺たる結果となった。もとより神は存在しなかった、という事実を突きつけられ、神は人間が造ったものではないかとの思いに至ったとき、これまでの苦労や犠牲は全て無意味なものになり、人生が根底から覆ってしまう。足元がすくわれ、寄って立つ世界もなくなってしまうだろう。残るのは無限に広がる虚無だけである。
 それでも安里が安らぎを得たのは、大覚禅師が好んだ言葉として伝えられている「一切の制限をなくし、ただ清らかな風のみを感じれば心は解放される」の他、あらゆる執着を捨てる、人は起きて半畳、寝ても一畳あればこと足りる、夢まぼろしの一生などありえないなど師の教えに導かれて禅を学んだことにより安心立命の境地に達したのだろう。

 最後に美しい文章で終わる。


 「そのとき佇んでいる安里の足もとから、深い梵鐘(ぼんしょう)の響きが起った。山腹の鐘楼が第一杵(しょ)を鳴らしたのである。
 鐘の音(ね)はゆるやかな波動を起し、麓(ふもと)のほうから昇ってくる夕闇を、それが四方に押しゆるがして拡げてゆくように思われる。その重々しい音のたゆたいは、時を告げるよりもむしろ、時を忽(たちま)ち溶解して、久遠(くおん)のなかへ運んでゆく。

 安里は目をつぶってそれをきく。目をあいたときには、すでに身は夕闇に涵(ひた)って、遠い海の一線は灰白色におぼめいている。夕焼はすっかり終わった。
 寺へかえるために、安里が少年を促そうとしてふり向くと、両手で抱いた膝に頭を載せて、少年は眠っていた。」


 

 神奈川県鎌倉市山ノ内8
 JR北鎌倉駅下車 駅前からバスに乗り、停留所「建長寺」下車





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