55  京都文化博物館別館 南禅寺水路閣 聖アグネス教会(京都市)


・令和3年12月25日(土) 京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店) 中京郵便局

 東京駅6時発「のぞみ1号」に乗る。8時8分に京都駅に着く。駅の近くの、今日から3泊予約しているホテルエルシエント京都へ行き、荷物を預かってもらう。
 京都駅から地下鉄烏丸線に乗り、三つ目の烏丸御池(からすまおいけ)駅で降りる。

 地上へ出て烏丸通りへ入り、左へ曲がる。一つ目の十字路で三条通りへ入り左へ曲がる。
 三条通りは、江戸時代に東海道の西の起点として賑わったところで、近代になると郵便局、商店、銀行、保険会社などが建てられた。明治期以来の近代建築が残っていることから京都市の「歴史的界隈の景観地区」に指定されている。

 三条通りが高倉通りと交差する角に、壮麗な京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)が建っている。


京都文化博物館別館



 明治39年(1906年)竣工。当初は日銀京都出張所として建てられ、明治44年(1911年)、京都出張所から京都支店に名称が変更された。昭和40年(1965年)、日銀京都支店が河原町に移転するまでこの建物で業務が行われた。
 昭和44年(1969年)、国重要文化財に指定される。
 昭和61年(1986年)、京都府に寄贈。
 昭和63年(1988年)、京都文化博物館別館として公開された。

 設計は辰野金吾(1854~1919)と弟子の長野宇平治(1867~1937)である。明治、大正期の代表的建築家である辰野金吾は、東京駅日本銀行本店奈良ホテル他多くの建物を設計し、その多くが現存している。

 煉瓦造、2階建、一部地下1階、スレート銅板葺、建築面積884、4㎡である。
 赤煉瓦に白い花崗岩のラインを横に走らせ、多彩な塔を配している。19世紀後半のイギリス建築によく使われたクイーン・アン様式を基にして、後期の辰野が独自に組み上げた華麗なデザインである。辰野式フリークラシック様式と称されている。

 10時になって扉が開いたので中へ入る。
 旧営業室は天井が高く、2階吹き抜けになっていて劇場のような華やかさがある。あいにくイベントの準備中で、旧営業室へ入ることはできなかった。


旧営業室



 客溜りのカウンターの下は三つの色の異なる大理石を張っている。


カウンターの上


 階段室も、あちらこちらに仕切り板を立てていて、充分に見学することができなかった。


 辰野金吾の作品について、下記参照。

 ・大分銀行赤レンガ館(旧二十三銀行本店) 目次14、平成25年12月28日
 ・
武雄温泉楼門旧共同湯 目次19、平成26年12月28日
 ・旧日本生命九州支店(現・福岡市赤煉瓦文化館) 目次37、平成29年12月28日及び目次42、平成30年12月26日


 京都文化博物館別館の近く、三条通りが東洞院通りに交差する角に、中京(なかぎょう)郵便局が建っている。
 明治35年(1902年)竣工。赤煉瓦と石を使った外壁のネオ・ルネサンス様式の美しい建物である。


中京郵便局



 昭和53年(1978年)、外壁のみを保存して、内部は新築工事と言っていいほどの大幅な変更がなされた。
 京都市登録有形文化財であり、景観重要建築物として指定されている。

 設計は、いずれも逓信省営繕課所属の技師だった吉井茂則(1857~1930)と三橋四郎(みつはししろう)(1867~1915)である。
 三橋四郎の作品である下関南部町(しものせきなべちょう)郵便局
について、目次24、平成27年12月27日参照。
 下関南部町郵便局は、明治33年(1900年)に建てられた日本最古の現役郵便局庁舎である。

 三条通りから堺町通りを入った右側に、元呉服屋だった町屋を改造したイノダコーヒ本店が建っている(注・会社名、店名は、イノダコーヒーではなくイノダコーヒと統一して表記されている)。


イノダコーヒ本店


 店内へ入り、イノダ特製ブレンドコーヒー・「アラビアの真珠」を注文する。まろやかさの中に微かな酸味があるおいしいコーヒーをゆっくり味わう。



・同年12月26日(日) 蹴上インクライン 南禅寺水路閣 

 ホテルで朝食後、地下鉄烏丸線に乗り、烏丸御池駅で東西線に乗り換える。五つ目の蹴上(けあげ)駅に着く。
 地上へ出て左へ曲がる。50m程坂を上がり、案内板に従って左へ曲がり石段を上がる。
蹴上船溜りに着く。

 船溜りに架かる大正2年(1913年)竣工の大神宮橋の上から遠くに九条山浄水場ポンプ室(旧御所水道ポンプ室)が見える。


九条山浄水場ポンプ室


 明治45年(1912年)竣工。設計は片山東熊(かたやまとうくま)(1854~1917)と山本直三郎(1869~1944)である。
 煉瓦造、平屋建、屋根はスレート一部銅板葺。正面玄関のポーチ、屋上のベランダ、換気用と採光用の屋根窓であるドーマー窓を設けて、隅は石積みである。
 九条山浄水場ポンプ室は、御所水道ポンプ室とも呼ばれ、京都御所に防火用水を送る目的で建てられた。中にポンプを設置するだけの建物であるにもかかわらずネオ・ルネサンス様式の重厚で美しい建物が建てられた。国登録有形文化財である。

 しかし、ひどく荒れているように見える。朽廃するのにまかせているような印象を受ける。
 片山東熊は、鹿鳴館を設計したイギリス人建築家・ジョサイア・コンドル(1852~1920)の弟子であり、
迎賓館(旧東宮御所)表慶館などを設計し、宮廷建築家と呼ばれた建築家である。
 片山東熊の作品が放置されているように見えるのは心痛む光景である。整備して、近くから見学できるようにしてほしいと思う。

 片山東熊の作品である表慶館について、目次2、平成23年11月13日、京都国立博物館明治古都館について、目次50、令和2年12月24日参照。

 九条山浄水場ポンプ室の、船溜りを隔てた反対側に第二疎水洞門が見える。この洞門の下を流れる疎水は滋賀県大津へ通じている。

 船溜りに隣接して、蹴上インクラインで当時使用されていた台車と三十石船が復元、展示されている。


台車と三十石船


 三十石船について、説明板に次のように説明されている。一部を記す。


 「この三十石船は、明治23年(1890年)に竣工した琵琶湖疎水で使用されていた運輸船を復元したものです。明治から昭和にかけて、琵琶湖疎水を通航する運輸船により、滋賀と京都の物資(米、薪炭、醤油、酒など)の物流が盛んに行われていました。
 琵琶湖疎水の蹴上船溜りから南禅寺船溜りまでの間は高低差が大きいため、船ごとインクラインの台車に載せて、この坂を昇降させていました。」


 その先に、琵琶湖疎水の途中に造られた蹴上インクライン(傾斜鉄道)跡が整備され、レール、枕木が復元されている。


蹴上インクライン(傾斜鉄道)跡


 説明書に、蹴上インクラインについて説明されているので一部を記す。


 「このインクラインは、第三トンネルを掘削した土砂を埋め立てて造られた。上流の蹴上船溜りから下流の南禅寺船溜りまでの長さは約582mで、落差が約36mあるため、この間は陸送になった。そこで両船溜りに到着した船が旅客や貨物を乗せ替えることなく運行できるように考えられたのがこのインクラインである。
 インクラインは、レールを四本敷設した複線の傾斜鉄道である。当初は水車の動力でドラム(巻上機)を回転させ、ワイヤロープを巻き上げて台車を上下させる設計だったが、蹴上水力発電所の完成により電力使用に設計変更された。」


 琵琶湖疎水を走る船を台車で船ごと引っ張り上げて移送させたインクラインは、昭和23年(1948年)11月に運行を休止するまで、大津と京都を結ぶ重要な輸送ルートとなった。
 インクラインの廃止後、レールも一旦撤去されたが、産業遺産として保存するために復元されることが決まり、昭和52年(1977年)5月に完成した。蹴上インクライン跡は、平成8年(1996年)、国史跡に指定された。

 1時間程かかってゆっくりインクラインの坂を下る。南禅寺船溜りに着く。船溜りは、現在、池に変わり公園のように整備されている。
 左手にある石段を上がると、蹴上駅の前を走る道路に出た。左へ曲がり、蹴上駅の方向に向かって坂を上がる。
 300m程歩くと、駅の手前、インクラインの下を通り抜ける煉瓦造のトンネルの前に出た。このトンネルは
「ねじりまんぽ」と呼ばれいる。


ねじりまんぽ


 トンネルの出入り口の横に立つ説明板に、「ねじりまんぽ」の意味も含めてトンネルの説明がある。一部を記す。


 「『ねじりまんぽ』は、三条通りから南禅寺へ向かう道路の造成に伴って建設され、明治21年(1888年)6月に完成しました。『まんぽ』とはトンネルを意味する古い言葉で、『ねじりまんぽ』は『ねじりのあるトンネル』という意味です。
 上部にあるインクラインと斜めに交わる道路に合わせ、トンネルも斜めに掘られるとともに強度を確保する観点から内壁の煉瓦をらせん状に積む工法が採られています。」


らせん状に積まれた煉瓦


 「ねじりまんぽ」を潜ると静かな美しい道が続く。この道は南禅寺への道である。


南禅寺への道

 

 20分程歩く。南禅寺の参道へ入る。右へ曲がる。臨済宗南禅寺派大本山南禅寺の総門が立っている。


南禅寺 総門


 総門を潜って100m程歩く。今日は南禅寺の拝観は止めて、南禅寺の境内に建つ水路閣を見る予定である。右へ曲がる。水路閣が建っている。


水路閣


 水路閣は(すいろかく)は水路橋(すいろきょう)のことであり、水路を支える橋である。
 水路閣は琵琶湖から京都へ水を引く琵琶湖疎水事業の一環として明治23年(1890年)に竣工された。設計は
田邊朔郎(たなべさくろう)(1861~1944)である。
 全長93、17m 幅4、06m 水路幅2、42m 高さ9m 煉瓦と花崗岩造、アーチ型橋脚である。
 13の橋脚が作り出すアーチの連続は、紀元前312年から3世紀にかけて古代ローマで建築されたローマ水道橋のデザインを基にしたといわれている。
 古代の遺跡のような重量感を持った建造物に圧倒される。

 水路閣を潜って石段を上がる。右へ曲がり更に石段を上がる。



 水路閣の天辺(てっぺん)に造られた水路を見ることができる。水路には現在も琵琶湖から導かれた水が音を立てて流れている。水路閣は今も現役で使われている水路橋である。


水路閣の水路を流れる琵琶湖の水


 水路閣は、蹴上インクライン、蹴上発電所とともに経済産業省の近代化遺産に認定、さらに国の史跡となっている。

 水路閣は南禅寺の境内を横切っている。建築当時、寺の境内で土木工事が始まり、洋風の建造物が建てられることに南禅寺は不承不承応じたのではないかと想像する。
 天皇の神権的権威を確立するために、明治政府は、明治元年(1868年)3月27日の太政官布告によって神仏習合を壊す目的で神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)を公布した。この政策から仏教を排撃し、神道を極度に重んじようとする廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が起こった。
 工事に着工する明治20年(1887年)には廃仏毀釈の嵐もさすがに収まっていたと思われるが、京都府の命令に従わざるを得ないほど、寺としては未だ弱い立場にあったのではないかと推測する。

 ところが、水路閣が完成して100年後、水路閣は今では大勢の人が訪れる人気のある観光名所になった。


・同年12月27日(月) 聖アグネス教会 


聖アグネス教会


 ホテルで朝食後、地下鉄烏丸線に乗り、四つ目の丸太町で降りる。地上へ出て左へ曲がり、烏丸通りを歩く。車道で隔てられた道路の反対側は京都御苑の長い塀が続く。昨夜降った雪が建物の屋根や塀の上に薄っすらと積もっている。
 200m程歩く。烏丸通りと下立売通りが交差する角に
日本聖公会聖アグネス教会が建っている。

 聖アグネス教会は、明治31年(1898年)竣工、同じ敷地内に建つ平安女学院の礼拝堂として建てられた。現在は、日本聖公会京都教区の教会と平安女学院の礼拝堂を兼ねている。
 設計は、アメリカ人宣教師で建築家のジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(1857~1925)である。

 建物はゴシック式煉瓦造、隅に、中世英国の城砦を彷彿させる鐘塔を設けている。
 建築当初から使用されているステンドグラスなどを見学できることを楽しみにしていたが、人が誰もいなくて、玄関の扉には鍵が掛けられていた。

 聖アグネス(291~304)は、古代ローマのキリスト教禁教時代に僅か13歳で殉教した。少女の守護聖人とされている。

 ガーディナーの作品である日光真光(しんこう)教会内田定槌邸について、「奥の細道旅日記」目次1、平成10年8月16日、聖ヨハネ教会堂について、目次47、令和元年12月28日参照。





TOPへ戻る

目次へ戻る

ご意見・ご感想をお待ちしております。