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T イエスの誕生年=西暦元年は、易学の論理で「革命の年」に設定された

@『古事記』『日本書紀』のトリックと西暦元年 Aまるで説明がつかないローマの見解 B史上初の西暦元年成立論となるか C旧約と新約の要点

@『古事記』『日本書紀』のトリックと西暦元年

☆易学の強い影響下で『聖書』は成立している

 歴史の教科書では、初代天皇である神武天皇の実在は疑わしいとしている。神武天皇をご祭神とする橿原神宮や神道関係者の意義申し立ては受け付けない。一方、イエス・キリストについては実在の人物であるかのように教え、その誕生日=クリスマスを祝うことも奨励する。しかし非信者の立場で『聖書』を隅から隅まできちんと読めば、『古事記』『日本書紀』を読んで神武天皇の実在を疑うように、当然のごとくイエス・キリストの実在も疑わしく感じるものである。だからキリスト教会では、キリスト教に多少興味がある程度の人々には、敢えて『聖書』をきちんと読むことを勧めない。信仰心を持たせるために都合のよい箇所だけを読むように教える。そもそもクリスマスが12月25日だということも、十字架で刑死した年月日も、裏付ける史跡や文献はまったくない。『聖書』と周辺の史料を元にして、キリスト教会が認定した年月日が語られているだけであるが、それをそのまま信じるだけである。
 『聖書』を読むと、イエスの刑死については、まるで全ユダヤ地域、少なくとも首都エルサレム地域全体、もっと絞ればエルサレム地域の権力中枢が騒然とするなかで、十字架刑がドラマチックに執行されたかのような印象を受けるが、それほどの出来事にも関わらず、それに見合う記録は発見されていない。このため、イエスは実在しない架空の人物であったとする説や、十字架刑を受けたがありふれた政治犯の一人に過ぎなかったとする説も出されている。
 しかし本文で述べるように、十字架刑も誕生年の西暦元年も、そしてノアの洪水その他も、易学で検証すると重大な意味をもってくると分かった。すると、どうしても『聖書』は易学の強い影響下で成立したと言わざるを得なくなる。加工されたといってもいい。本稿の出現によって、聖書専門家の間で取り沙汰されているQ資料問題、死海文書については、根本的な見直しを迫られることになる。期待して読んでほしい。

☆予想される二つの疑い

 ただし、『聖書』が易学で加工されたとすると、二つの点から疑いが生まれる。
 第一は『聖書』成立の年代との関係からの疑問である。
 易学の古典『易経』を編纂したのは孔子だから、イエスよりも約500年前から易学はあった。しかし、ローマと中国の交流が始まったのは西暦166年からである。この年ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの使者が、後漢の影響下にある日南群(今のベトナム辺り)にやってきている。そこから後漢の都の洛陽まで、使者が足を伸ばしたかどうかは不明であるが、ローマ/中国間の公式交渉の始まりであることは確かである。
 一方、『聖書』の成立は、『旧約』はもとより『新約』にしても、少なくともそれより50年以上さかのぼるとされている。しかも、ユダヤ人等により、ギリシャ語、ヘブライ語等で編まれている。イエスを始めとする登場人物たちの主要舞台は、ユダヤの地=パレスチナであって、ローマ帝国の中心地ではない。
 以上から、易学がローマに伝わり、その影響下で『聖書』が成立したと論ずることには無理がある。
 第二の疑問は、漢字文化圏で発展した易学が、西洋文化圏の宗教や思想の根幹に関わるのは難しいのではないかという点である。
 『聖書』が無名の編集者やライターによって編集・執筆されたことは、ほぼ定説になっている。もちろん、熱い信仰心に支えられた編集であり執筆であったとは考えられている。編集・執筆説が定着するにつれ、「神から霊能者に伝わったものが『聖書』としてまとめられたのだから、一字一句を神の言葉として全面的に信じなければいけない」という聖書絶対を唱える人は少なくなった。今では限られた人々だけが、この立場にいる。
 信仰心熱き編集者やライターが『聖書』を編集・執筆しようとすれば、どうしても神の意図・構想が反映した神秘的な構成を求める。この時、易学を応用するならば、人知を大きく超えてあたかも神の構想であるかのように、『聖書』全体を構成することができる。易学にはそのような構成力がそなわっている。
 だが、『聖書』全体はユダヤの地を含む西洋文化圏の人々を対象にしているし、『聖書』の原典はラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語といった横文字で書かれていて、縦書きの漢字文化の思想を濃厚に注入することは考えにくい。
 以上二点の疑問については、推理をふまえて本稿全体が回答になっている。
 多くの読者は、『聖書』および易学について不慣れだと思うので、その点をカバーしながら筆を進めた。気楽に読み進めてほしい。登場人物名などの表記は、大部分を新共同訳聖書に従った。

☆易学西暦元年は皇紀元年と同じ辛酉歳だ

 『聖書』を疑うようになったそもそものきっかけは、次のようなことだった。
 ある日、『日本書紀』を読んでいたときのことだった。それまでは何も考えずに見逃していたある数字が、実は易の理論と深く関わっていたことに気付いた。
 そこで改めて『古事記』『日本書紀』と易の理論との関係を確認してみたところ、古代天皇の多くが易の理論にしたがって作られた架空の天皇だった、ということを発見した。この両書は、表向きには当時の朝廷が古代日本の真実を隠すために創作した虚構の歴史物語を描きつつ、ところどころに易の理論を乱数表として利用した暗号が仕込まれていて、その暗号を解読すれば真実の古代史が浮上するように細工されていたのだった。これについの詳細は古事記と易学のページをご覧ください。
  その『古事記』『日本書紀』の暗号解読を試みているときに、明治時代の学者久米邦武(くめくにたけ)が、聖徳太子(しょうとくたいし)厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼んだのはキリストが(うまや)(馬小屋)で生まれたとする神話をヒントにした可能性があるのではないか、と指摘していたことを思い出した。その聖徳太子は、斑鳩(いかるが)宮を建てたのが皇紀1261年(西暦601年)で、そこから辛酉革命(しんゆうかくめい)理論を使って1260年遡ったところを神武天皇の即位年としたのではないかとも言われていて、私もこの暗号解読の中で、この仮説が間違いないことを確認した(辛酉革命理論は易学に根差した理論であって、詳細は古事記と易学〜暗号解読[1]で述べているので、ここでは必要に応じて最小限で触れることとする)。
 だが待てよ?、皇紀1261年すなわち西暦601年の十干十二支(じっかんじゅうにし)辛酉(かのととり)であるのなら、十干十二支は六十年で一巡するのだから、西暦元年も辛酉歳ではないか。西暦元年はイエス・キリストが生まれた年とされている。
 ※辛酉は音で「しんゆう」、訓で「かのととり」と読む。十干十二支は、辛酉革命のような成語の場合は音、単体では訓で読むのが慣例なので、それにしたがっている。
 しかしユダヤの歴史との矛盾から、実際に生まれたのは西暦紀元前4年以前でないとおかしい、とも言われている。が、その西暦元年を話題にする前に、イエスの誕生日=クリスマスについても少し触れておこう。

☆イエスの誕生日=クリスマスの日付はデタラメだ

 12月24日をクリスマス・イブ、25日をクリスマスと言う。現代は午前0時に日付が変わるから、イブはクリスマスの前日となっている。しかし古代ローマ時代はイブもクリスマスも同じ25日だった。その頃の日付は日没で変わったのだ。夕方から夕方までが一日なのだ。夜から始まって朝〜昼を経て夕方になって一日が終わる。イブというのはイブニングすなわち夜の略で、クリスマスの夜を指した言葉なのだ。
 そのクリスマスを12月25日と決めたのは、西暦325年の第一回ニケア会議あるいは西暦354年のローマ法王リベリウスの時代だったとされている。クリスマスとは、キリスト(Crist)のミサ(mass)、すなわち「キリストの誕生を祝うためのミサを行う日」の英語表現である。X'masと書くのは、ギリシャ語のクリストス(Χριστός)の頭文字に由来する。この場合はギリシャ語と英語の合成表現ということになる。そもそも『聖書』には、イエス・キリストの誕生日は記載されていない。にもかかわらず、どうやってこの日付が決められたのか。
 冬至の頃のローマの農耕祭あるいは太陽信仰のミトラ教の祭日を流用したのだといったことがよく語られているが、実際の冬至とは2〜3日のズレがあり、必ずしもそうだとは言い切れない。おそらくは、ある程度そういうことも勘案しつつも、最大の目的は誕生日と新年元旦とをリンクさせることだった。
 「ルカによる福音書」第二章には、「(生まれて)八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼子をイエスと名付けた」(「八日が過ぎ」とは「八日目になって」と同義である)とある。これに基づき、新年初日、日本で言う元旦を、イエス・キリストが割礼してイエスと命名された日にしたかったから、それに合わせて日付けを逆算して誕生の日を12月25日と決めたのである。
※参考 25日(1日目)、26日(2日目)、27日(3日目)、28日(4日目)、29日(5日目)、30日(6日目)、31日(7日目)、1月1日(8日目)。
 割礼とは、アソコの皮を切断する古代ユダヤ人の風習である。割礼によって初めて神との契約が成立し、このときに初めて名前もつけられ、ユダヤ人と認められ、戸籍に登録されるのだ。
 したがってイエス・キリストがユダヤ人として戸籍に登録されたことを祝うのが新年初日(元旦)なのである。だから欧米ではクリスマスと新年祝賀が一体となっていて、メリー・クリスマス・アンド・ハッピー・ニュー・イヤーと言うのである。
 新年と誕生を結び付けることは、キリスト教の宣伝にはなるが、あまりにもいい加減な決め方だとも言える。その「ルカによる福音書」では、野宿をしていた羊飼いたちが、天使のお告げによって、イエスの誕生を知り、イエス一家の宿泊場所を探し当てる、とあるのだが、12月のユダヤの地は雨期だから、羊飼いが野宿することはあり得ないのだ。そんなデタラメが通用するのだとすれば、西暦元年=イエス誕生年を算出した経緯も何やら怪しげである。辛酉歳だということがどうしても気になる。
 そこでまず、これまでに言われている西暦元年決定の経緯を確認することにした。

Aまるで説明がつかないローマの見解

☆西暦元年の決定事情

 『聖書』にあるイエスの誕生年を元にして西暦元年を決定した事情から、私は検証することにした。「時間の経過にともなう変化の意味を特定する」という易学の特徴を念頭に置くと、「イエスの誕生年を西暦元年とすべし」と決定する経過の中に、易学的に意味づけした痕跡が見いだせるならば、易学の影響があったと推定できるからだ。そして、こういう書き出し方をする以上、私には「ある」という勘がひらめいていた。

☆年月日の表記法

 検証に入るに先立って、年月日の表記法について触れておきたい。
 西暦2018年12月25日とは、現在使われている西暦にもとづく年月日の表記法である。これは単純な数字の固まりで特別な意味は込められていない。だから事務処理に適した表記法である。
 これを古代中国以来の十干十二支(じっかんじゅうにし)で書き直すと、日本であれば平成三十戊戌(つちのえいぬの)(とし)甲子(きのえねの)(つき)丁卯(ひのとうの)(ついたち)辛卯(かのとう)(のひ)という漢字だらけの表記になる。江戸時代までの人々には、事務処理記号として通用したと共に、例えば、自分が発展する年回りにいるのか否か、あるいは上司が病気しやすい月回りになったのか否か、その他を推測するための手がかりになった。理由は、ちょっとした意味がここには込められていたからである。例えば「丙午(ひのえうま)の年に生まれた子は……だ」という伝承も、そのひとつである。ただし、あくまでも「ちょっとした意味」である。

☆「辛酉」という言葉は十干十二支に由来する

 十干十二支のこの漢字群は、漢字という表意文字であることから、一文字一文字には何らかの意味がある。しかし、ある時期から、その意味を棚上げにして組み合わせ、六十までの数を表現する記号として用いるようになり、時の刻みを記録する記号としても使うようになった。その結果、六十で一巡する暦や時の刻みの記号として定着した。参考までに十干十二支の計六十の組み合わせすべてを列挙すると、次のようになる。

1甲子(きのえね) 2乙丑(きのとうし) 3丙寅(ひのえとら) 4丁卯(ひのとう) 5戊辰(つちのえたつ) 6己巳(つちのとみ) 7庚午(かのえうま) 8辛未(かのとひつじ) 9壬申(みずのえさる) 10癸酉(みずのととり)
11甲戌(きのえいぬ) 12乙亥(きのとい) 13丙子(ひのえね) 14丁丑(ひのとうし) 15戊寅(つちのえとら) 16己卯(つちのとう) 17庚辰(かのえたつ) 18辛巳(かのとみ) 19壬午(みずのえうま) 20癸未(みずのとひつじ)
21甲申(きのえさる) 22乙酉(きのととり) 23丙戌(ひのえいぬ) 24丁亥(ひのとい) 25戊子(つちのえね) 26己丑(つちのとうし) 27庚寅(かのえとら) 28辛卯(かのとう) 29壬辰(みずのえたつ) 30癸巳(みずのとみ)
31甲午(きのえうま) 32乙未(きのとひつじ) 33丙申(ひのえさる) 34丁酉(ひのととり) 35戊戌(つちのえいぬ) 36己亥(つちのとい) 37庚子(かのえね) 38辛丑(かのとうし) 39壬寅(みずのえとら) 40癸卯(みずのとう)
41甲辰(きのえたつ) 42乙巳(きのとみ) 43丙午(ひのえうま) 44丁未(ひのとひつじ) 45戊申(つちのえさる) 46己酉(つちのととり) 47庚戌(かのえいぬ) 48辛亥(かのとい) 49壬子(みずのえね) 50癸丑(みずのとうし)
51甲寅(きのえとら) 52乙卯(きのとう) 53丙辰(ひのえたつ) 54丁巳(ひのとみ) 55戊午(つちのえうま) 56己未(つちのとひつじ) 57庚申(かのえさる) 58辛酉(かのととり) 59壬戌(みずのえいぬ) 60癸亥(みずのとい)

 先に触れた辛酉(しんゆう)革命という場合の「辛酉(しんゆう)」は、58番目に出て来る。ただし、ここでは訓読みであるのに対して、「辛酉(しんゆう)革命」のような成句は音読みとなる。本稿では十干十二支の意味についてはまったく踏み込まないので、読者はチラリ目に止めて下さるだけでいい。つまるところ、六十で1サイクルを成す暦用の記号とお考えくださっていい。

☆六十四卦で変化の規則性を整理

 さて、花が咲きやがてまた散るように、時が経過すれば事象には変化が起きる。その変化に何か規則性・法則性はないだろうか?その規則性・法則性にもとづいて変化を予測できれば、例えば災いを避けることができる。
 そう考えて、変化の規則性・法則性を見いだした。それが易学の始まりである。易学は事象の変化を六十四とおりの姿に整理した。その姿をといった特有の図形記号で提示するようにした。それを六十四卦と呼んでいる。こちらは六十四で1サイクルを成し、六十四個のといった図形記号には、ひとつひとつ名前がついている。
 列挙すると次のようになり、これらひとつひとつには意味・意義があるのだが、本稿の展開に応じて、説明はそのつど行うので、現時点ではこれについてもチラリ目に止めてくださればいい。

1乾為天(けんいてん) 2坤為地(こんいち) 3水雷屯(すいらいちゅん) 4山水蒙(さんすいもう) 5水天需(すいてんじゅ) 6天水訟(てんすいしょう) 7地水師(ちすいし) 8水地比(すいちひ) 9風天小畜(ふうてんしょうちく) 10天沢履(てんたくり) 11地天泰(ちてんたい) 12天地否(てんちひ) 13天火同人(てんかどうじん) 14火天大有(かてんたいゆう) 15地山謙(ちざんけん) 16雷地予(らいちよ) 17沢雷随(たくらいずい) 18山風蠱(さんぷうこ) 19地沢臨(ちたくりん) 20風地観(ふうちかん) 21火雷噬嗑(からいぜいこう) 22山火賁(さんかひ) 23山地剥(さんちはく) 24地雷復(ちらいふく) 25天雷无妄(てんらいむぼう) 26山天大畜(さんてんたいちく) 27山雷頤(さんらいい) 28沢風大過(たくふうたいか) 29坎為水(かんいすい) 30離為火(りいか)

31沢山咸(たくざんかん) 32雷風恒(らいふうこう) 33天山遯(てんざんとん) 34雷天大壮(らいてんたいそう) 35火地晋(かちしん) 36地火明夷(ちかめいい) 37風火家人(ふうかかじん) 38火沢睽(かたくけい) 39水山蹇(すいざんけん) 40雷水解(らいすいかい) 41山沢損(さんたくそん) 42風雷益(ふうらいえき) 43沢天夬(たくてんかい) 44天風姤(てんぷうこう) 45沢地萃(たくちすい) 46地風升(ちふうしょう) 47沢水困(たくすいこん) 48水風井(すいふうせい) 49沢火革(たくかかく) 50火風鼎(かふうてい) 51震為雷(しんいらい) 52艮為山(ごんいさん) 53風山漸(ふうざんぜん) 54雷沢帰妹(らいたくきまい) 55雷火豊(らいかほう) 56火山旅(かざんりょ) 57巽為風(そんいふう) 58兌為沢(だいたく) 59風水渙(ふうすいかん) 60水沢節(すいたくせつ) 61風沢中孚(ふうたくちゅうふ) 62雷山小過(らいざんしょうか) 63水火既済(すいかきせい) 64火水未済(かすいひぜい)

☆『ルカによる福音書』によって決めた

 イエスの誕生年は、史実の裏づけを欠いたままキリスト教会が決定したものであることは既に話したが、具体的には以下のようなことだった。
 『暦と占いの科学』(永田久著)によると、現行の西暦は西暦532年にロシア出身のエクスグウス・ディオニシウスという僧院長が、「ルカによる福音書」を根拠にイエスの誕生年を算出し、それを西暦元年としたことから始まっている。
 「ルカによる福音書」では、ローマ皇帝ティベリウスの在位15年目にイエスは洗礼を受け、30歳頃から布教を始めたとしている。念のためにいうと、キリスト教の成立はイエスの十字架刑後であるから、イエスの受けた洗礼はユダヤ教の洗礼であり、30歳頃に開始したイエスによる布教は、ユダヤ教の布教であった。ただし、ユダヤ教の保守的な教理を革新的にとらえ直した教えだった。

☆僧院長ディオニシウスの判断

 僧院長ディオニシウスは、「ルカによる福音書」を根拠にして、次のように考えたと思われる。
 皇帝ティベリウスの在位15年目はローマ建国紀元780年または781年(西暦27年〜28年)に当たる。30歳頃に開始したのだとすれば、それに先立って洗礼を受けたはずで、それは27歳あたりとも推定できる。するとイエスの誕生年は、「780−(27−1)=754」で、ローマ建国紀元754年となる。(なお、この時代は0の概念がないので、年齢表示はすべて生年を1歳とするいわゆる数え年となる。満年齢にする場合は1歳引く。)
 こう判断した僧院長ディオニシウスは、「ローマ建国紀元754年=イエス誕生年=西暦元年」の原案を、当時のローマ法王に提示して説明を受け、最初は教会で用いるようにしたとされている。しかし実際にはなかなか受け入れられず、10世紀頃にようやく一部の国で使われはじめ、西洋で一般化したのは15世紀以降のことであるという。

☆説得力のあった反論

 西暦年号が普及すると「それは間違いだ」とする反論が出た。「マタイによる福音書」によると、イエスはユダヤのヘロデ王の時に生まれたとあり、そのヘロデ王は当時の歴史文書によると、西暦紀元前4年に死んでいる。すると、イエスの誕生年は西暦紀元前4年より前でなければならないことになる。
 誕生年を西暦紀元前4年とするならば、洗礼を受けたのは西暦27年の31歳、布教活動はそれ以降となる。僧院長ディオニシウスが根拠にした「ルカによる福音書」では、30歳頃からイエスは布教をはじめたとなっているが、「頃」なのだから他の資料と照合して布教開始年齢を4〜5年前後させても「ルカによる福音書」と大きくは矛盾しない。
 イエスの誕生年についてのこの反論には説得力があった。現代の歴史学がこれを採用していることからもわかる。この反論以外に、星の運行を根拠にした意見も出された。しかし、今日まで西暦元年は、僧院長ディオニシウスの案通りのまま、改定されずに続いている。

☆紀元を改めたい理由はわかるが

 旧紀元を廃して、西暦紀元をなぜ新たに決定する必要があったのかについては、前記の永田著に記されている。
 それによると、キリスト教徒を大弾圧したディオクレティアヌス帝は、ローマ建国紀元を廃して自分の即位年をディオクレティアヌス元年とした経過があり、キリスト教が隆盛しはじめた西暦500年代になっても継続して使用するようになっていた。それを、僧院長ディオニシウスが、「悪魔の定めた紀元」と批判して、前記の西暦元年案を作成したようである。
 そういう経過があったために、期限を改めたいという考えが持ち上がってきたことは理解するが、私は三つの観点から西暦元年を決定した事情に疑問を抱いた。

☆なぜ「マタイによる福音書」を無視したのか

 第一に、西暦元年を決定した西暦532年頃はキリスト教は普及しており、聖職者であれば『聖書』を手元に置いてしっかり読んでいたはずである。ラテン語訳『聖書』は120年以上前の西暦405年頃にできあがっている。するとイエスの誕生年を推測する根拠が『聖書』中のどこにあるのかは、すぐにわかって当然である。
 読めばわかることだが、イエスの誕生年を推定するには、「マタイによる福音書」の記述の方が「ルカによる福音書」の記述よりも、直接的な根拠を成している。それにも関わらず、僧院長ディオニシウスは「マタイによる福音書」を無視している。そして、「ルカによる福音書」のみを根拠にしている。
 もしかすると「マタイによる福音書」には気づかないふりをして、自案を押し通したのかもしれない。それは何故なのか。

☆決定の背景にどんな事情があったのか

 第二に、当時ローマ帝国は四分五裂して消滅し、フランク王国、東西ゴート王国などが成立していたが、ローマ教会はそれら諸国からは独立的な立場を保持していた。そういう立場で公式の暦を決定しようとすれば、各国、各種勢力からの働きかけが錯綜するはずだから、たとえ博識で信頼厚い僧院長の案だとしても、そのまますんなり通るとは考えにくい。
 決定に当たってはキリスト教圏を代表する大学者たちも、ごく少数であったかもしれないが関与したはずである。いずれもうるさい理屈をいうタイプのはずだ。それなのに、後年になって反撃されてしまうような粗雑な根拠で、西暦元年をスイスイ決定している。
 これは何か特別な事情があったとしか考えられない。その特別な事情とはいったい何なのか。

☆法王の命令で設定できるのに

 第三に、後年になってイエス誕生年の決定に誤りのあったことに気づいたら、その時点で新しい元年を制定することができたはずだ。ローマ法王の権威をもってすれば押し通せたはずである。ITネットワークが浸透した今日でも、ソフトをほんのちょっといじればどんな暦法にでも直せるので、世界的合意が成立すれば、やってやれないことではない。
 まして、それほど普及していない時代であれば、そんな合意など必要なく、法王の命令一本で簡単に改正できたはずである。それにも関わらず、法王庁は最初の決定に固執し、それを押し通している。それはなぜなのか……。

☆揺れ動いていた人心

 私は、当時のヨーロッパ事情も関係しているとみて、西暦300年から600年にかけての地中海周辺のヨーロッパを検討してみた。すると、西暦元年をどうしてもイエスの誕生年と重ねたくなる事情がほの見えてきた。
 まず、キリスト教は、ユダヤの地で西暦紀元30年頃に成立した。イエスが十字架刑に処せられた後である。キリスト教はユダヤ教から派生した新興宗教だった。その宗旨がパウロやペトロなどによって、ヨーロッパに伝えられるようになったのは西暦50年頃からであった。西暦60年頃にはローマの皇帝ネロが、キリスト教徒の迫害をしているから、急速に普及しはじめたことがうかがえる。
 ローマ帝国はこの頃、領土を軍事的に最大に広げていたが、同時に各地の反乱に手を焼き、やがて周辺諸国から侵入を受けるようになっていった。ヨーロッパ全土にわたる民族大移動も始まり、帝国は不安定さを増していった。加えて、ローマ南部のポンペイやナポリ近くではヴェスヴィオス火山の大噴火があった。人々の心が大きく揺れる時代がつづいたと思われる。

☆浸透するキリスト教信仰

 これらが背景となって、キリスト教徒にたいする大弾圧がたびたびあったのだが、西暦313年になると、コンスタンチヌス大帝によってキリスト教は公認されるようになった。コンスタンチヌス大帝は、事実上大衆的に浸透してしまったキリスト教を受け入れ、改めて帝国を統一・安定した状態に導こうとしたのであった。
 しかし、その後もヨーロッパ全土は大きく揺れ動き、ローマ帝国は分裂する一方、周辺諸国が侵略・独立するようになっていった。
 そうした混乱状態にありながら、キリスト教とローマ教会の権威は高まっていき、西暦400年代にはアウグスチヌス著「神の国」に代表されるように、キリスト教への熱烈な信仰がヨーロッパに広く浸透していった。
 この頃になると、もうローマ帝国は消滅して小国が乱立し、軍事・政治について主導権をもつ国がなくなっていた。代わってローマ教会の権威が突出するようになった。その証拠に、ローマ教会のトップは、西暦590年就任のグレゴリウス1世から「教皇」の称号で呼ばれるようになった。

☆ローマ教会のもくろみ

 古くから、洋の東西を問わず、突出した力と権威を持つようになった支配者は、「時」についても支配するようになる。「時」は天の運行を基準にするから、支配者が「時」を支配することは、支配者が天と同格または天の代弁者に位置づけられることを意味する。具体的には、それまでとは異なる新しい暦を制定し、人々に受け入れさせる。
 500年前にユダヤの地から伝わってきたキリスト教は、最終的にローマの地でその権威を揺るぎないものにした。ローマ教会はそれを確認するために、新たな暦の制定をもくろんだのかもしれない。少なくとも、ローマ教会は自らを限りなく天に近い立場あるいは天の代弁者の立場にあると意識したであろう。
永田著にあるように、ディオクレティアヌス紀元を廃したい気分があったのは確かだとしても、天の代弁者たらんとするローマ教会側には、新紀元を創設することによって自身の権威を鮮明にできるはずというもくろみも、やはりあったと推定できる。
 そうなれば、「イエスの誕生年=西暦元年」は好都合であり、決定を急ぎたくなる。

☆共有された封印X

 以上のように当時のヨーロッパ事情を通覧してみれば、僧院長ディオニシウスたちがイエスの誕生年と合致させる形で、急いで新たな西暦元年を決定した事情は推察できるのだが、そのように推察できても、「マタイによる福音書」のような重要文書を視野からスッポリ外してしまった理由については、まるで説明がつかない。
 すると、「マタイによる福音書」を無視してでも、あるいは気づかないふりをしてでも、どうしても「ルカによる福音書」に合わせて西暦元年を決定したかった思想・考え・理由があったことになる。それは何なのか。しかも一個人ではなく、僧院長ディオニシウス、法王、関与した学者たちが共有する思想・考え・理由であったことになる。
 それは何なのかと問題提起したところで、聖書学や歴史学からポンと回答は返ってきそうにない。
 思想・考え・理由という言い方は長ったらしい。ここからは封印されたXと呼ぶことにする。法王庁のトップグループは、封印Xを共有することによって結束してきたのかもしれない。人は、最初のうちは理想・利害・志を核にして結束する。しかし、この結束は変質し「何かを言わないこと」を核にして結束するようになる。麻薬マフィアや金融マフィアにも共通する結束の生理でもある。この結束は強く陰湿である。

B史上初の西暦元年成立論となるか

☆西暦元年は辛酉歳に当たる

 そこで私は、この西暦元年が辛酉歳だということに着目し、『記・紀』解読の手法が生きるのではないかと直感して、易学的に検証してみることにしたのである。すると、驚くべき結果がいとも簡単に立ち現れることになった。
 『古事記』『日本書紀』を編纂した太安萬侶(おおのやすまろ)舎人親王(とねりしんのう)が神武天皇即位年を、どうしても辛酉歳に設定したいと考えたのと同じように、『聖書』編集・執筆者たちも、「イエスの誕生年を、どうしても辛酉歳に重ねたい」と願望し、「ルカによる福音書」執筆によってその願望実現の布石を打った……と、私は推測する。
 欧米の学者にとっては易学も『記・紀』も視野の外だから、気づきようもなかった視点のはずで、もしも私の推測が正しければ、これは史上はじめての西暦元年成立論となる。

☆辛酉歳は神話と構造的につながる

 もちろん、こういう推測が成立するためには、『聖書』成立当時の編集・執筆者たちが、易学を理解しているか、理解していなくても易学の指摘を受け入れるような経過があったことが前提になる。
 では、何ら実証的な史料証拠もなしに、こういう立論を展開する意味があるのであろうか。話をここで終えてしまえば、確かに「易学バカによる荒唐無稽な作り話」となるが、次章以下で述べるように、処女懐胎、ユダヤ暦元年と天地創造、ノアの箱舟、出エジプト、「過ぎ越し」、十字架刑というイエスの神聖性を高揚させる数々の話が、実は易学の論理で組み立てられた神話であり、しかも、それらが西暦元年もふくめて構造的につながっているという事実を示せば、簡単には否定できなくなるはずである。いずれもキリスト教神学およびユダヤ教神学の中核である。
 今はっきり言えることは、記録された証拠があってはいけないのである。証拠があったりすれば、作為がいずれの日にか日の目にさらされて、せっかく易学で加工してアクセントをつけておいたイエスの神秘性が、はげ落ちてしまう。証拠がないことが、キリスト教にとって有益なのである。

☆封印Xの一項目

 では、元年という時代開始に関する易学の考え方を、僧院長ディオニシウスたちは理解していたのであろうか。私は理解していなかったと思う。だが、
 「ルカによる福音書」に暗示されたイエス誕生年は重要な年だ。西暦紀元を設定してその元年とするべぎだ」
 とすると封印Xの言い伝えが、当時のキリスト教のトップグループには、共有されていたに違いない……と、私は見ている。封印Xが何項目かあるとすれば、「イエス誕生年=西暦元年=辛酉歳」は、そのうちの一項目であろう。
 言い伝えの発信源は、『聖書』を編集・執筆したエリートたちであり、公文書に明記せずに口伝や相伝によって、時代を越えて伝わるようにしたのである。
 重ねて言うと、僧院長ディオニシウスたちは、易学について無知であってもよいのである。易学的に加工済みの「ルカによる福音書」を、いってみれば「丸呑みすべきだ」とする言い伝えを、黙っていちずに守る態度さえあれば良いことになる。西暦元年の決定経過を検証すれば、このような結論にならざるを得ない。
 ユダヤには古代エジプトから継承したカバラの秘儀があり、そうした秘儀・秘伝を好む闇の文化もヨーロッパに伝わっている。「黙示」(神の隠された救いの計画)という発想も同根である。したがって「口伝、相伝による伝承」という私の見方は、大いにあり得ることである。
 なお、『聖書』の編集・執筆者たちが、いつ頃どのようにして易学を受け入れたのかについては、後に述べたい。

☆単なる偶然ではない

 「イエスの誕生年=辛酉歳」を、単なる偶然の一致であるとして、否定することもできる。60分の1の確率だから、この程度の偶然はあっても不思議ではない。
 しかし、例えばイスラム暦元年=西暦622年=壬午(みずのえうま)歳であり、フランス革命時の共和暦元年=西暦1792年=壬子(みずのえね)歳である事実をふまえると、各種の元年はいずれも辛酉歳に合致していない。辛酉歳に合致する元年は、西暦元年と皇紀元年だけである。
 イエスの誕生を易学で意義づけることは、何やらパスタに麻婆豆腐を和えるようなミスマッチな取り合わせを感じるかもしれないが、『聖書』成立当時の編集・執筆者たちが、イエスの誕生から刑死までの歩みに、何としてでも超越的な意味をもたせたいと念願するならば、その誕生年を神秘的にアクセントをつけた上で設定したくなるであろう。そういうねらいには、易学が最もマッチしている。使い勝手もすこぶる良いはずである。そばに教えてくれる人がいれば……。

☆大胆な仮説

 私は、大それた問題提起してしまった。あまりにも大幅な仮説を提出してしまった。易学に長年親しむと、西暦年数と十干十二支の時の刻みの関係は、スムーズに思い浮かぶので、西暦元年が辛酉歳となるに違いないという見当は、最初からついていたのは確かだ。しかし、こうして正式に結果を出してみると、改めて感動がこみ上げてくる。
 この結果にたどりついて深夜、私はテレビにも本にも、とにかく何にも手がつかぬまま、「やっぱりそうか」「やっぱり易か……」と一人つぶやきながら、窓の外をポカンと眺めつづけていた。

☆1260年ごとの辛酉歳

 辛酉歳というものをさらに説明しておきたい。
 易学では「辛酉歳には天命が革まる」と考えている。現代語で言えば「特別な革命の年」とでも言うべき年であって、国や社会に革命的事態が起きる年を指す。ただし、近代のいわゆる暴力革命に限定していない。「古い時代が終わり、新しい時代が始まる」という意義を第一義とし、関連して「偉大な人物の出現、政治上の変革、あるいは大きな天災が起きる」としている。
 辛酉歳が巡ってくるのは六十年に一度であり、その二十一巡後(60×21)の1260年毎の辛酉歳には大革命が起きる。易学の古典はそう述べている。これが辛酉革命説である。詳細は「古事記と易学」の「暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命」のページをご覧ください。
 辛酉歳という時代の刻みは世界共通であり、六十年ごとに巡ってくる。ただし、1260年を起算する年をどの辛酉歳に設定するかは、特に決まりはないので、起算年が異なれば、当然大革命の起きる年も異なることになる。

☆その通りになったのかどうかは重要でない

 例えば近年では、西暦1981年が辛酉歳であった。この年、アメリカではレーガンが、フランスではミッテランが、エジプトではサダト大統領暗殺後にムバラクが、それぞれ大統領に就任している。日本は鈴木善幸内閣下での公務員二法の成立程度である。そして、何よりも同年五月に、ローマ法王ヨハネ・パウロU世が狙撃され重傷を負うという事件があった。死亡していたら「辛酉革命成立」といえるところであった。
 これで見る限りでは、アメリカ・フランス・エジプトでは辛酉革命が起きたとも言え、1260年後に辛酉革命の起きる可能性はあるが、日本には起きそうにない。もっとも1260年後にどこかの宗教団体が、西暦1981年に教祖様がお生まれになったと発表して辛酉革命が起きたことにすることはあり得る。
 つまり起算年は、文化圏、国、集団などによって異なってくることになる。
 さらに、実際にその通りになった事実が、過去に頻繁にあったのかどうかは、ここでは重要でない。重要なことは、今から千数百年以前の東アジアのエリートたちが、時代の変化を判断したり予測したりする場合、易学の見方を重視していた点である。例えば、日本では平安時代の昌泰四年(西暦901年)を延喜元年に改元したところから江戸時代末の万延二年(西暦1861年)を文久元年に改元したところまで、戦国時代の2回をのぞく計15回の辛酉歳には、革命の災いを避けるために改元していた。

☆旧約時代〜新約時代への転換を正当化するために

 似たような姿は現代にもある。例えば、不況があれば事態をケインズ流に解釈し、予測を立て、対策を実施することがあるし、少し前までは社会的騒動が起きるとマルクス流解釈が、どれほど妥当であるかの検証はそこそこであっても、エリートたちは正しいと確信して、しきりにケインズ流やマルクス流のスジ書きを使っていた。
 これに似た姿が、千数百年前にもあったのであって、東アジアでは易学が時代判断の際の主要な根拠となっていたのである。
 『日本書紀』では、最初の辛酉歳の神武天皇の即位によって、それまでの時代が大きく変わり、世の中は天皇中心の秩序正しいものに革まり、それから1260年後の辛酉歳に聖徳太子が斑鳩宮を造営することによって、天皇家の内部の大きな乱れが治まったとしている。これには、当時のエリートたちが秩序回復を強く願望していたらしい様子が、読者にひしひしと伝わるからこそ、神武天皇即位年が辛酉革命説によって机上で算出された可能性を指摘されたのだ。
 それと同様に、『聖書』編集・執筆者たちは、「イエスの誕生で神との旧い契約(旧約聖書)の時代が終わり、新しい契約(新約聖書)の時代に(あらた)まった」というスジ書きを、いっそう正当化したかったのである。それには辛酉革命説を絶対に必要とし、「イエス誕生年=西暦元年=辛酉歳」の関係を一歩も譲れなかったのである。

C旧約と新約の要点

☆『聖書』は二部構成

 ここから先を展開するためには、読者と私とが、『聖書』について最小限の知識を共有しておく必要がある。
 今や日本には絵画や音楽などの芸術から日常的な暦にいたるまで、キリスト教文化が身の回りにあふれている。しかし元来キリスト教国ではないので、多くの方がキリスト教については漠然とした知識あるいは断片的な知識しかもっていない。ある程度ご存知の方は、さっさとこの項を飛ばして下さって結構である。
 まず『聖書』の構成から。
 『聖書』は旧約(きゅうやく)聖書と新約(しんやく)聖書の二部構成になっている。この「約」という言葉の意味は、神との「契約」という意味で、「新約」はイエス・キリストによる神との新しい契約を意味し、世界中のすべての人々と契約したとされている。
 旧約はそれ以前の(ふる)い契約を意味し、神とユダヤの民との間でのみ結ばれた契約とされている。
 ユダヤ教では神=ヤハウェのみを信仰対象とし、正典は旧約聖書だけであるのに対して、ユダヤ教から派生した新興宗教のキリスト教では、神格を帯びた存在として、神の子イエス・キリスト、天の父なる主である神のヤハウェ、そして聖霊と呼ばれる神のエネルギーみたいなものを三位一体として、信仰対象とし、旧約と新約の両方を合わせて正典として、それらを『聖書』と呼んでいる。イエス・キリストはメシアつまり救済者とも呼ばれ、イエス・キリストは「救済者イエス」という意味である。

☆『聖書』編集・執筆者たち

 旧約は39の文書から成り、新約は27の文書から成っている。各文書名とその配列は次のとおり。

旧約聖書
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記上、サムエル記下、列王記上、列王記下、歴代記上、歴代記下、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩篇、箴言、コヘレトの言葉、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨテ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼガリヤ書、マラキ書

新約聖書
マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書、使徒言行録、ローマ信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一、コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、テサロニケの信徒への手紙二、テモテへの手紙一、テモテへの手紙二、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙一、ペトロの手紙二、ヨハネの手紙一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録、

これらの文書名は以下でたびたび取り上げるので、読者の便のために略式で書くようにした。例えば、「マタイによる福音書」では……とすべきところを、略式の「マタイ」では……、とした。混乱を感じられた方はここに列記した正式な文書名を確認していただきたい。
 計66の文書群は、モーゼを始めとする四十人の筆者によって書かれたことになっている。その四十人は神からの霊感を受け、受けた言葉そのままを筆記したことになっている。すると「66の文書の著者は神である」ということになる。
 では、例えば「創世記」の著者は、本当にモーゼなのかといえば、そうではない。聖書学主流の説にしたがえば、記録に残されなかった無名の編集・執筆者たちがいて、その人たちがモーゼの名において編集・執筆している、もちろん熱い信仰心に支えられて編集・執筆を行ったと思われる。
 次に旧約、新約の内容を要約して紹介しよう。

☆旧約の内容

 まず、旧約の内容から。
 [日本でよく知られている旧約聖書中の物語]
〇 神ヤハウェが六日間で天地を創造し、七日目に安息した。
〇 人類の祖アダムとエバは、神が食べることを禁じたリンゴを食べてエデンの園を追放され、人類は永遠に神に対する罪を背負うことになった。禁断の実は知恵の実であり、それを食べたことを原罪という。
〇 堕落した人類は大洪水で死に絶えたが、方舟を作るように命じられたノア夫婦と子どもたち、あらゆる種の中からえらばれたつがいの動物たちは生き残った。
〇 ユダヤのソドム、ゴモラなどの町に住む人々は、神の教えに反して堕落したために、天から降ってきた硫黄の火で滅ぼされた。
〇 奴隷にされていたユダヤの民は、モーゼに率いられてエジプトを脱出した。
〇 モーゼ達は海に阻まれてエジプトから出られそうもなかったが、海がふたつに割れて道ができたため、スムーズに脱出でき、エジプト兵の追跡を逃れることができた。
〇 モーゼはシナイ山で、神から十戒を授かった。
〇 ダビデがユダヤ王国を建国し、ソロモンのときユダヤ王国は栄華を極めた。
〇 分裂したユダヤ王国をまとめようと、強力者サムソンが奮闘、しかし敵国の美女デリラに謀られて敗れた。
〇 バビロニアのネブカドネザル王によってユダヤ人は50年間にわたったバビロンに幽閉された。

 [中心的ないくつかの主題]
〇 ユダヤ民族の苦難の歴史。
〇 ユダヤ民族は神ヤハウェから選ばれて契約した。
〇 その契約の内容としてカナの地(現在のイスラエル)を与えられた。
〇 神との契約に反しているので災いに襲われるとする数々の預言があり、現実となった。
〇 神との契約を守ったので幸いがもたらされるとする数々の預言があり、現実となった。
〇 ヤハウェ以外の神々や偶像を信仰してはいけない。

 [その他]
 ダビデ、ソロモンなど実在の人物が残した讃美歌や人生哲学がユダヤ民族史に触れながら述べられている。

☆旧約はユダヤ民族史

 旧約全体は、ひとことで言えば、古代ユダヤ人の民族史である。各文書の原型は古代ユダヤ人ばかりでなく他の中東地域の人々のあいだで語り継がれた伝承もある。例えば、ノアの大洪水の話やエデンの園の話は、古代バビロニアつまり現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川下流域で生まれた『ギリガメシュ叙事詩』に由来している。
 それらをユダヤ人が自分たちの伝承としてしまった経過もあった。そのために伝承相互の間に年数やストーリーその他について、辻褄の合わないものが生まれたりした。史実と一致しないものもある。由来が判明していない物語もある。これらは全くのウソや創作ではなく、物語の核になっている出来事については、それに近い事実や伝承があったと考えられている。
 そして、ユダヤ教の正典として一冊にまとまるようになったのは、古い部分は西暦紀元前十世紀頃、その後書き加えられた新しい部分も含めて、すべてがまとまったのは西暦紀元前二世紀頃とされている。
 ただ、本稿を最後まで読まれればお分かりいただけると思うが、この旧約理解は、やがてかなり訂正されることになるかもしれない。

☆新約の内容

次に新約の内容に移る。

 [日本でよく知られている新約聖書中の物語]
〇 聖母マリアは処女でありながらイエスを懐胎した。
〇 神の子イエスは馬小屋で誕生し、東方から占星術の学者たち(東方の三博士とも)が、星に導かれて来訪し、三種の贈り物を献上して讃えた。
〇 イエスが湖面上を歩く奇跡。イエスが五つのパンで五千人、七つのパンで四千人の空腹を満たした奇跡。人々からけがれた者とされた膿を垂らすライ病患者を、イエスがまたたく間に治した奇跡。
〇 イエスは山上で説法し「心の貧しい者は幸いだ」「あなた方の敵を愛せ」「狭き門から入れ」「天の国は近づいた」「地の塩となれ」などとユダヤ教の厳しい掟とは対極となる愛の道を説いた。
〇 イエスを中心に十二人の高弟が晩餐を行い、そこでイエスが預言した通り、ユダを始めとする弟子たちの裏切りがあり、イエスは十字架刑に処せられることになった。これを最後の晩餐という。
〇 イエスはゴルゴダの丘で十字架刑に処せられたが、死後三日目に墓から復活して弟子たちの前に現れ、四十日後に人々が見守る中で昇天した。
〇 教えを伝えるヨハネの預言によると、不信仰者があふれると恐ろしいハルマゲドンが襲来して滅ぼす。

 [中心的ないくつかの主題]
〇 イエスはアダム以来の系図に直結している。その系図上には、ノア、アブラハム、ダビデ、ソロモンもいる。
〇 イエスは神の子としての奇跡をいくつも実現している。
〇 十字架刑後の復活から四十日目に昇天したイエスが、マタイ、ルカ、ヨハネ、パウロ等に聖霊となって現れた。
〇 イエスはユダヤ教の厳格な掟と全く異なり、多くを許す愛を説いていた。
〇 イエスは神の子であると共に神そのものである。
〇 イエスの教えを信じる人々の集まる教会の運営については、ユダヤ教の教会のように序列や差別を重視する態度があってはならない。
〇 やがて神により最後の審判があって死んだ者も呼び出される。その時、イエスとの契約を守った者は天国に導かれる。守らなかった者は地獄に永遠に落とされる。
〇 人々が信仰から離れるように誘惑し、神の計画実現を妨げようとする存在がサタンである。
〇 アダムに始まる人間は原罪を背負っているが、イエスがその全てを引き受けて十字架刑に従った。故に、イエスを信じる者は救われるのである。

 [その他]
〇 処女マリアが懐胎して生まれたイエスについて、「神の聖霊が受肉した」と信じる人がキリスト教徒である。
〇 「マタイ、ヨハネ、パウロ、ペトロ等にはイエスの聖霊が下った」と信じる人がキリスト教徒である。
 なお、日本人は「福音」という造語になじんでいない。使い慣れた言葉を当てるとするならば「朗報」あるいは「吉報」で良かったと思う。翻訳者はそれを使わないで造語している。「ヨハネによる福音書」などに使用されている。「福音」とは、「良い知らせ」「グッドニュース」という意味で、「神の国が近づいた」とイエスが知らせていることを指している。

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U 「東方の三博士」の話には、易学に根ざした九星の論理が貫徹していた!

も く じ

〇ごあいさつ

T イエスの誕生年=西暦元年は、 易学の論理で「革命の年」に設定された
@『古事記』『日本書紀』のトリックと西暦元年
 Aまるで説明がつかないローマの見解 B史上初の西暦元年成立論となるか C旧約と新約の要点

U 「東方の三博士」の話には、易学に根ざした九星の論理が貫徹していた!
@九星という年回りを確定する技術
 A方位を限定明記する怪しさ B易学のストーリー構成力を借りて

V 聖母マリアの処女懐胎物語は、司馬遷『史記』のコピーである〜中国文化の影響は易学以外にも見いだせる〜
@多くの人から疑われていた
 A『史記』解釈上の新発見か B墨子の思想はキリスト教と似ている

W 「ユダヤ暦元年」算出根拠は、まさに易学そのものに依っている〜易学の卦を絶妙に展開して文章化している〜
@ユダヤ暦元年を算出する糸口
 A中国人編集アドバイザーを想定すると B徹底的に易学で組み立てられている C序次24地雷復を絶妙に展開して D易学とは何か

X 天地創造の六日間は、序次1〜14と完全に合致している〜『聖書』全体を易学で読み解くべきことを示唆〜
@読み解いて拍子抜けする
 Aアダム930歳の出どころ B一度に三つのメッセージ

Y ノアの箱舟神話は、「新しい時代の始まり」を告げていた〜洪水神話の易学的構成〜
@ノアの家族構成が示すもの
 A絶妙な連動性

Z 太祖たちからイエスにつながる系譜は、十字架そのものを暗示している〜アダムたちの法外な長寿の秘密〜
@太祖たちの法外な長寿
 A重大な秘密が仕掛けられていた

[ 「過ぎ越しの祭」も「出エジプト」も易学的に構成されている〜十字架はイエスの処刑を意味していない〜
@「出エジプト記」は易学で加工されている
 A海が二つに分かれる卦 B十字架は宗教支配の理想的な姿を象徴

\ イエス処刑に至る『聖書』の記述は、『易経』の丸写しであった〜『聖書』は西暦300年代に書かれた〜
@「ペトロが三度拒むと鶏が鳴いた」の卦
 Aすべてがフィクションであった B『聖書』は西暦300年代に書かれた

エピローグ
@なぜ『聖書』を偽作したのか
 Aみなさまからいただいたメッセージ

蛇足〜なぜ私は『聖書』に興味を持ったのか
@母と共益商社とGHQ
 Aキリスト教会に通ってみたら…… B「イマジン」が教えてくれた反キリスト教精神 C男尊女卑は神が決めた! Dオー・マイ・ゴッドの意味〜人間は神の奴隷? E「プリズナーNO.6」〜キリスト教信者は囚人と同じだ! F私の曾祖父は易者だった G人を救うのは真理ではなく、真実だ!

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最終更新日:令和02年08月27日 学易有丘会
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