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Eメール聖書は易学〜聖書の作者は古代中国の易学者だった!〜

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X 天地創造の六日間は、序次1〜14と完全に合致している
〜『聖書』全体を易学で読み解くべきことを示唆〜

@読み解いて拍子抜けする Aアダム930歳の出どころ B一度に三つのメッセージ

@読み解いて拍子抜けする

☆一日目の光への疑問

 最初に断っておきたい。新共同訳の『聖書』では、「天地の創造」としているが、ここでは日本人が聞き慣れている「天地創造」で通したい。
 『聖書』冒頭の天地創造神話の書き出し部分は、前章「C序次24地雷復を絶妙に展開して」の冒頭で引用したとおりである。
 その引用文の中で、私は、"神の霊が水の面を動いていて、神は光あれと言った"という記述が気になっている。光の代名詞とも言える太陽・月・星は、天地創造の四日目に造られたことになっているので、ここでいう光は、それらを指すものではない。
 一般的な聖書解釈では、この初日の光は抽象的な観念であって、四日目にそれが具体化したのだと言ったり、古代においては明るさと太陽・月・星とは別次元のものであったと説明したり、また一部では、古代人の発想したビッグバンつまり宇宙の始まりではないか、とも考えられているようだが、要するにその意義が判然としないのだ。
 しかし、すでに前章「C序次24地雷復を絶妙に展開して」の冒頭で引用に続いて述べたように、この光は水の上にあるのだから、序次64火水未済(かすいびせい)の文章化になる。
 おそらく、ユダヤ暦元年=天地創造年を包摂する最初の一元が火水未済であることから、最初の一元全体を象徴的に表現したつもりなのだろう。映画に喩えれば、タイトルの背景にある映像である。

☆七日目の休み

 天地創造の六日間全体についても、すでに前章「C序次24地雷復を絶妙に展開して」の中ほど「天地創造神話の下敷き」の項で述べたように、なぜ六日間で天地を創造して七日目に休んだのかは、序次24地雷復(ちらいふく)の意義とピタリ一致していた。
 もっともこれについては、七日をひと区切りとし、その最終日を休みとする一週間に、神秘的意義をもたせようとしただけであって、それほど深い意味はないのかもしれない。ただ、『聖書』では、神の天地創造八日目以降の活動については、何日目に何を行ったのかをパッタリ言わなくなった。「神は八日目からご自分が創造した世界を巡ってみた」とでも『聖書』に書いてあったら、それだけで地雷復を配せないことになる。
 では、天地創造第一日目の文章を『聖書』から省略なく引用し、各序次との照応関係を検証してみよう。

☆序次1〜序次4が順番に述べられている

 一日目
 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、紙の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 最初に天と地を創っている。これは序次1乾為天(けんいてん)(上下共に天の卦)と序次2坤為地(こんいち)(上下共に地の卦)をズバリ指している。
 続けて、「地は混沌であって」とある。英訳聖書を直訳すると「形が定まってなく、空虚だ」(formless and empty)となり、様子がわからない状態を指している。これは序次3水雷屯(すいらいちゅん)になる。この卦は物事が始まったばかりで、右も左も様子がわからない状態を指していて、そんな状態におかれたら悩むのは当然だから、中心的意義を「試練に悩む新人」と、象徴的表現で述べている。
 次に闇という言葉が出てくる。序次4山水蒙(さんすいもう)の蒙には「おろか」「暗い」という意味があるから、ここは序次4山水蒙が照応していることになる。
 「光あれ」を含む前後の文章が序次64火水未済に照応することは、すでに述べているので省く。

☆あっけらかんな内容

 今はもう慣れているが、天地創造神話には易学の序次が応用されているに違いないと思って序次を配していった最初のとき、私は創造一日目の記述に序次を配し終えると、ガクンと拍子抜け状態になってしまった。
 『聖書』全体の中でも特に重々しいムードが漂う箇所であり、映画とダブらせれば大スペクタクルが荘重なBGMと共に始まる……一日目はそういう内容である。人類未踏の深い思想・哲学がここからいくつも発想されそうな、神次元の真相の片鱗が見いだせそうな、そんな思いで過去幾たびもチャレンジしてきた文章なのであったが、序次を配し終えてみると、私にとってこの内容は、あっけらかんなモノに堕ちてしまった。ダイヤモンドがガラスとわかってしまったような、逸品と思っていた陶器が、ありふれた雑器と判明したような、そんな思いになった。
 「な〜んだ、序次1〜4をまず順に並べ、それに合致するように忠実に物語りを仕立てただけなのか」と。

☆図形の文章化、「意義」の文章化

 ただ、よくよく検討していくうちに、二つの点に気づくことになった。
 第一は、()の文章化についてである。
 序次1乾為天以下の、序次の卦と「卦の中心的な意義」の用いられ方に着目してみると、卦の図形の形にウエイトを置いて情景を描写する文・文節と、「卦の中心的な意義」の方にウエイトを置いて内面・情念・状況を伝える文・文節とがあって、必ずしも一貫していない。
 序次1、2と卦の図形を文章化してきて、さらに序次3、4と卦の図形を文章化しようとしながらも、ストーリーを連続させにくくなった執筆者が、苦し紛れに「卦の中心的な意義」の方を利用した書き方に変えたのかなと、いったんは思ってみた。ところがそうではなかった。
 仮に、序次1と2に続けて、序次3のという卦の図形にウエイトを置いて、視覚的な情景だけを述べるとするならば、「神は無数の雷を、出来立ての地に向けて次々落とし、振動させ、天には水をたたえられた」と、地学的にもかなり妥当な記述ができる。もっとも、これでは次の場面でゴジラが出てきてしまうが……。
 それは冗談として、卦の図形を踏まえた文章は視覚的な情景を描写しやすく、「卦の中心的な意義」を踏まえた文章は人の内面・情念や事態の状況を描写しやすい。後者においては、当然、神秘的な表現もしやすくなる。そう考えると、天地創造のプロセスを視覚的情景だけで描くと、箱庭作りを淡々と観察するのと同じようなことになり、感動がペコンとへこんでしまう。
 卦の図形にウエイトを置く文章と、「卦の中心的な意義」にウエイトを置く文章とが混ざり合っていることについて、最初は易学における解釈の融通性が効き過ぎるようにも思えたのだが、実はなかなか適切な表現方法なのであると、気づくことになった。

☆易学が風格をもたらす

 気づいた第二は、天地創造神話の成立事情である。
 天地創造神話は、関連する諸研究を踏まえると、どうやら中近東一帯および北アフリカに散在していた各種の世界生成物語が、時代を経るうちに次第にひとつの物語としての形を整えていったようである。そして、最終的に現在の旧約聖書にあるような姿になったとされている。
 しかし、第一日目と序次との照応関係をチェックした今となっては、次のようなことであったと思われる。
 1 現在の旧約聖書の前段階の旧約聖書があったはずで、その前段階の天地創造神話は、おそらくは、稚拙な、土俗的な、習俗的な個所が多分に混ざり合い、もっと冗長であった。
 2 現在の旧約聖書の形をとる段階で、編集・執筆者たちが、易学の影響下で内容と構成を整え直した。その結果、内容が簡潔になると共に、神の啓示としての風格も備わった。

Aアダム930歳の出どころ

☆易学の痕跡

 二日目
 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

 これは序次5水天需(すいてんじゅ)と序次6天水訟(てんすいしょう)に該当する。両者の水と天の位置に注目してほしい。前者は「大空(天)の上の水」、後者は「大空(天)の下の水」。この文章は序次の図形をそっくりそのまま文章化している。
 この二つの卦は、一方を逆方向から見た形になっているのだが、こればかりではなく、一日目の序次3と4、三日目の7と8、四日目の9と10、五日目の11と12、六日目の13と14の関係も同様である。図5のとおりである。

 そもそも序次は、上下対称の八つの卦(序次1と2、27と28、29と30、61と62)を除いたすべての卦で、このような、隣同士が逆方向から見た形になる、という関係が成立している。
 次の点に気づく。
1 序次5と6は、卦および卦名の構成要素が同じであるから、文章化すると似たものになってしまう。そこで二つの卦を一日の創造行為に一括したと思われる。
2 この二日目の創造イベントの内容は、文章をサラサラと読み下す限りでは平板であるが、ちょっと立ち止まって考えると、「水の中に大空あれ」であれ、「大空の上に分ける」であれ、表現がなんとなく奇妙で座りが悪い。
 もちろん誰もが雨と海のことだろうと考えるはずだが、そういうことを言いたいのであれば、普通はもっと明瞭な表現を使う。しかし、二つの序次を図5のように配置して文章化すると、必然的に二日目のようになる。
3 このささやかな事実からも、天地創造神話は易学で加工されたと言い切れる。易学の痕跡がこのようにして残ったことになる。

☆足りない部分は卦の変化を使う

 三日目
 神は言われた。「天の下の水はひとつ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」 そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」 そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。

 易学では、序次7地水師(ちすいし)8水地比(すいちひ)だけが、地=大地と水の位置関係を表現している。二日目の表現を踏襲すれば、「水の中に大地あれ」としておいて、「地の下の水」と「地の上の水」とするところだが、類似の表現を避けたようだ。
 ここを卦に忠実に表現するとすれば、「神は、水を下に押しやって大地を作り、別の地の上に水を集めて海となさった」となる。これらが原案としてあったと仮定すれば、だいぶアレンジしてストーリーを仕上げたことになる。天地創造をダイナミックに展開するためのアレンジと思われる。
 しかし、こんな調子でちょっとずつ創っていて、本当に六日間で完成させられるだろうか。一日当たりの創る量をもう少し増やさないとバランスが悪くなりそうだ。そこで序次7と8の図形記号を眺めながら考え、そうだ!と、思いついたのが、後半の植物を創ったとする部分である。
 なぜ植物を思いついたのか。それは、これが三日目すなわち三段階目だからである。
 卦と呼ばれる図形記号は、変化を考えながら読み解くものであって、その変化とは、陽なら陰に、陰なら陽に変化することを指す。変化するのは、易の基本的な法則により、一段階目なら最下、二段階目なら下から二番目、三段階目なら三番目、四段階目なら四番目、五段階目なら五番目、六段階目なら最上の位置となる。この日は天地創造の三日目だから三段階目だ。したがって序次7と8の下から三番目を変化させてみたところ、序次7の変化から、とてもよい創造のヒントが見つかったのだ。
 序次7の図形記号の下から三番目が陰から陽に変化した形は、序次46地風升(ちふうしょう)である(図6参照)。地風升の中心的な意義は、「蒔かれた大木の種子」である。少し説明を加えると、大木というのは植物全般の象徴的な表現であり、草でも果樹でも大木でも、とにかく植物は種を蒔くとやがて芽を出して成長する、ということである。ちなみに序次8の下から三番目を変化させると序次39水山蹇(すいざんけん)となり、中心的な意義は「松葉杖での山登り」である。これはちょっと創造に相応しくないので却下したのだろう。

☆二日目流の言い方を踏襲すると

 四日目
 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」 そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれらを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。

 すでに触れたように、一日目に光が生じたのに、神はここでまた「光る物」として太陽、月、星を造っている。しかし、序次9と10を踏まえれば、四日目のこのような記述にもなり得る。
 もしも、ここで二日目流の言い方を踏襲するとすれば、「神は、天の中に、動く光を置かれた」となる。
 序次9風天小畜(ふうてんしょうちく)と序次10天沢履(てんたくり)は、天の中に光がある形で、その光の位置が両卦でちょっとずれているのだ。図7で確認してほしい。したがって、この両卦を合わせると、太陽、月、星の運行を象徴するのである。

☆唐突な展開の背景

 なお、天沢履の履には、「履む」という意味がある。自分がそれまで「履んできた=歩んできた」ことを振り返るにあたっては、それがいつのことだったのか、その年月日(履歴)を把握していなければいけない。したがって、この卦の中心的な意義は「礼節を履み外した危険」のほかに、「年月日を数える」という意義も含まれている。「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ」という言葉は、まさにこの意義を念頭に置いて書かれているとしか、言いようがない。
 大地と海ができたら、普通ならば次は生物を作る。事実、三日目には植物を造っていて、それなら次は動き回る生物かと期待させられる。ところが四日目は、そんな期待を裏切り、日月星を造っている。日月星は一日目か二日目または生物を作り終えた六日目でもよい。ストーリー展開もスムーズにゆく。
 それなのに、唐突に四日目に造っている。その理由は序次9と10が、ここに配されているからとしか考えられない。逆に言うと、易学を使えばこういう唐突な展開が可能となり、その唐突さがストーリーにドラマチックな神秘性を漂わせることになる。易学をストーリー作りに使う面白さでもある。

☆易者の看板

 五日目
 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ、鳥は地上の上、天の大空の面を飛べ。」 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物。うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」 夕べがあり、朝があった。第五の日である。

 序次11地天泰(ちてんたい)を文章化している。
 序次11地天泰の中心的な意義は「天下安泰、万物生成」である。喜ばしい卦であるから、易者がよく看板に使う。
 四日目までに造られた舞台に、命あるものの活発な動きがはじまった。生命賛歌の姿である。当然、天下安泰である。「産めよ、増えよ……」で万物は生成されていく。
 一方、序次12天地否(てんちひ)の文章化は避けている。中心的な意義の「溶け合わない水と油」は、意志の疎通が上手く行かず、挫折、失敗する、といった意味である。神が創造途中で挫折したり失敗するのは、是が非でも避けたかったのだろう。
 ところで、なぜ最初の生き物は地上の動物ではなく、海の生き物と鳥なのか、ということだ。古代人は、卵から生まれる生き物は哺乳類より原始的だと考えていたからだ、とも言われているが、それは違う。地を這うものであるヘビも卵から生まれるが、それはまだ創られない。まして「大きな怪物」というのも、何を指すのかよくわからない。しかし、三日目のように、序次11地天泰と12天地否を、五日目すなわち五段階目だということから、図形記号の下から五番目を変化させてみれば、ああ、なるほどね、と合点が行く。
 序次11地天泰の下から五番目が変化すると序次5水天需(すいてんじゅ)となり、序次12天地否の下から五番目が変化すると序次35火地晋(かちしん)となる(図8参照)。

 序次5水天需は二日目の卦であり、「天の大空の上の水」を意味するものであった。二日目は抽象的表現に終始する構想で、それ以上この卦を掘り下げて何か物語を創作することはしなかったのだろう。その反動がここに出たのかもしれない。「天の大空の上の水」は、逆に言えば「水の下の天の大空」である。しかし水の下に大空はあり得ない。そこで天すなわち八卦の(けん)に属する何かが水の下あるいは水の中に居ることを意味するとして考える。乾は陽の極まりだから生気に満ち溢れて動き回るものである。また、空想上の動物、水中でも天空でも自在に行き来する竜を、易学ではこの乾で表現する。したがって「大きな怪物」とは、この竜を指しているのに違いない。しかしヘブライ語に適切な訳語がなく、「大きい怪物」としたのだろう。ちなみにギリシャ語『七十人訳聖書』では、このヘブライ語でいう「大きな怪物」のことをドラコーンと訳している。ドラコーンの英訳がドラゴンで、ドラゴンは竜と翻訳されもする。
 一方の序次35火地晋は、坤の地の上に離がある形であり、離は生物では鳥を意味するのだ。離は上下の陽を翼、真ん中の陰を鳥の胴体として、鳥が翼を広げて飛んでいる姿としている。詳細は易学入門の八卦についてのページを御覧ください。

☆アダムの誕生

 六日目
 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を生み出せ、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」 そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」 そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 ここでは序次13天火同人(てんかどうじん)と序次14火天大有(かてんたいゆう)が、文章化されている。序次13天下同人の中心的な意義は「志を同じくする友」だから、複数の人間が集う様子でもある。また、同人は「人と同じ」とも読める。神は「我々に似せて、人を造ろう……」と言ったのである。
 あれ?「我々」とは誰を指すのか?多神教ではなく、絶対唯一の神による天地創造である。神はひとりだけのはずだ。しかし、序次13の呪縛で、複数の人間が集う様子に引きずられ、ここはつい「我々」と、複数にしてしまった……ということか。とにかく、漸くアダムの誕生である。
 序次14火天大有の中心的な意義は「中天に輝く太陽」。太陽は全ての支配者であるかのように中天に輝くのはご存知のとおりだが、そこから意味を拡大発展させて、「大いに所有支配する」という意義をもつ。人間は全ての支配者として造られたことになっている。
 なお、よく知られている「土からアダムが造られ、アダムのあばら骨からエバ(イヴ)が造られた」という具体的な話は、神が七日目に休んだ、という文章の後に、改めて書かれている。詳細は創世記(口語訳=外部サイト)を御覧ください。

☆世界初の見解表明となる

 卦は数字に置き換えることができる。八卦と数の関係は、(けん)(天)は1または9、()(沢)は2、()(火)は3、(しん)(雷)は4、(そん)(風)は5、(かん)(水)は6、(ごん)(山)は7、(こん)(地)は8または0、である(※ただし0は便宜上そう表記しているのであって、正確には漢数字の十のことである)。
 すると序次13天火同人と序次14火天大有は「1と3」「3と1」または「9と3」「3と9」という数字の組み合わせになる。
 ここよりも先の文章でアダムの年齢が語られていて、アダムは130歳で息子を産み、930歳で死んだとしているが、それは天火同人から導き出された数字が根拠になっている。たったこれだけの指摘すら、意外なはずであり説得的でもあり、驚きでもあるはずだ。これも世界初の見解表明となる。今まで、930歳の根拠はまったく不明だったはずである。
 普通に考えれば意味不明の非常識な長寿だが、こういう検証で仕掛けがわかってみると、アドバイザー氏は、年齢以外の何か別のメッセージを、発信しているようにも思えてくる。
 多分それは、アダムを始めとする太祖たちの不自然な長寿に注目させようとする意図の現れであろう。これについては章を改めて述べたい。

B一度に三つのメッセージ

☆易学による加工は明らか

 以上から、天地創造神話が易学で加工されたのは、明瞭厳然たる事実となった。この物語には、意表を衝くような展開があり、それが荘厳なムードを醸し出していた。しかし同時に、部分的にどことなくちぐはぐで、なんとなく楊枝の先でほじるようにして、記述相互間の食い違いを、突っついてみたくなるような要素もあった。
 前段階までの天地創造神話は、各地の伝承類を集めてなんとか一本化した程度で、そうとうちぐはぐな内容であったと思われるが、それを序次の展開に応じて編集加工することで、ちぐはぐさを大きく解消したのであろう。それでも小さな食い違いが残らざるを得なかった。
 そういうことだと思う。

☆辛酉革命との関係

 六日間を振り返ってみて、一日目にだけ序次64と序次1〜4の計五つも配されていることが気になった。もっとも「水の上の光」の序次64火水未済(かすいびせい)は、ユダヤ暦元年計算式との関係を示すという役割があるから、仕方のないところだろう。しかし、序次3水雷屯(すいらいちゅん)と4山水蒙(さんすいもう)の二卦を、二日目にまわすこともできたはずである。何故そうしなかったのかと検討するうちに、辛酉(しんゆう)革命との関係が浮かんできた。
 序次49沢火革(たくかかく)と序次50火風鼎(かふうてい)の二卦は、序次4山水蒙と序次3水雷屯の二卦と表裏の関係にある。表裏の関係とはが逆転した卦の関係のことである。図形記号を見比べてほしい。
序次49沢火革と序次4山水蒙、序次50火風鼎と序次3水雷屯である。
 易学では裏の意味を読み解く場合の定石的な着眼点であり、これを裏卦(りか)という。後ほど詳述するが、辛酉革命はこの序次49と50から導き出されたのである。

☆仄めかしと予告

 そこに気づいた私は『日本書紀』を思い出した。
 『日本書紀』では、神武天皇即位二年前に詔勅(しょうちょく)を発したことになっていて、その詔勅文の中に「今運屯蒙に()いて」(今の時代の運気は、暗くて行方がはっきりしない状態になり)というくだりがある。それを思い出した。ここでは序次3水雷屯と序次4山水蒙の二卦を使って、冬至の時代の様子を表現している。
 ここからは、三つのメッセージを読み取れる。
 1 今の時代は、暗くて先行きが読めない。(普通の読者向けのメッセージ)
 2 即位に先立つ2年前に「即位には、辛酉革命の意義が込められるゾ」と、神武天皇は自ら詔勅の中で仄めかし予告をした。(ちょっぴり易学がわかる読者に向けたメッセージ……ただし、神武天皇即位は『易経』を編纂した孔子より前の時代なので、その頃すでに辛酉革命説があったとは考え難いのだが)
 3 「神武天皇即位年=辛酉革命となるように、『日本書紀』を易学的に仕立て、加工したゾ」と、仄めかした。(易学を本格的に理解できる読者に向けたメッセージ)

 これまでの『日本書紀』研究では、屯蒙が序次3水雷屯と序次4山水蒙であることは認識している。そこまでは良いのだが、易学を学問上棚上げにしているためか、辛酉革命との関係については誰一人言及していない。歴史学は上記の1にとどまっている。三つのメッセージのうち一つしか把握していないのである。

☆『日本書紀』と同じ趣向

 これらを踏まえると、天地創造神話の成立事情は一層はっきりしてきた。
 天地創造神話は、「ユダヤ暦元年=天地創造年」という決定と前後して、編集・執筆加工がなされたのだ。そして、やはり一度に三つのメッセージを込めることになった。『日本書紀』と同じ趣向であったのだ。
@ 天地創造はドラマチックに進行した。(一般読者向けメッセージ)
A 序次3と4を一日目に使うことによって、「ユダヤ暦元年=天地創造年=辛酉革命から算出した年」である、と仄めかした(易学をある程度知る読者に向けたメッセージ)
➂ 「ユダヤ暦元年=天地創造年には、辛酉革命の意義を意図的に込めたゾ」と仄めかしている。(易学を本格的に理解できる読者に向けたメッセージ)
 最後の➂は、『聖書』全体を易学で読み解くべきことを示唆したことになる。キー・メッセージをなしている。
 この結果、アドバイザー氏が『聖書』を辛酉革命思想で徹底的に仕上げようとしたことに、改めて気付くことになった。

 なお、「T イエスの生誕年=西暦元年…>B史上初の西暦元年成立論となるか>☆辛酉歳は神話と構造的につながる」では、"『聖書』を易学で加工した証拠はない"としておきながら、「U 東方の三博士……」以降では加工した証拠を次々と示している。矛盾しているではないかと、ご批判を受けるかも知れない。
 しかし、そのご批判は、二千年前の易学を念頭におくと、不適切なご批判である。二千年前の易学では、易学が述べた内容が一知半解(いっちはんかい)(中途半端な理解)の状態で受け止められることを恐れて、"易を知らない者には、あえて本当のことを言う必要はない、易を知る者には本当のことを知らせるべきである"と考えていたのである。
 『易経』を編纂した孔子の言行録『論語』雍也(ようや)篇に、「中人以上には以て上を()ぐべきなり、中人以下には以て上を語ぐべからざるなり」とあるが、孔子が想定した中人以上か以下かの判断基準は、『易経』を含むいわゆる五経を理解しているか否かだったのだ。現代日本であれば、英語ができるか否かが判断基準になるのだろうか。だとしたら私は中人以下ということになる。
 とにかく中国人アドバイザー氏は、その考えに立って、表面上では編集加工したことをしっかり隠し、易を知る者には全真相がことごとく伝わるように、工夫を凝らしたのである。『古事記』『日本書紀』やこの天地創造神話の仕掛けには、この考えがよく現れている。

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Y ノアの箱舟神話は、「新しい時代の始まり」を告げていた〜洪水神話の易学的構成〜

も く じ

〇ごあいさつ

T イエスの誕生年=西暦元年は、 易学の論理で「革命の年」に設定された
@『古事記』『日本書紀』のトリックと西暦元年
 Aまるで説明がつかないローマの見解 B史上初の西暦元年成立論となるか C旧約と新約の要点

U 「東方の三博士」の話には、易学に根ざした九星の論理が貫徹していた!
@九星という年回りを確定する技術
 A方位を限定明記する怪しさ B易学のストーリー構成力を借りて

V 聖母マリアの処女懐胎物語は、司馬遷『史記』のコピーである〜中国文化の影響は易学以外にも見いだせる〜
@多くの人から疑われていた
 A『史記』解釈上の新発見か B墨子の思想はキリスト教と似ている

W 「ユダヤ暦元年」算出根拠は、まさに易学そのものに依っている〜易学の卦を絶妙に展開して文章化している〜
@ユダヤ暦元年を算出する糸口
 A中国人編集アドバイザーを想定すると B徹底的に易学で組み立てられている C序次24地雷復を絶妙に展開して D易学とは何か

X 天地創造の六日間は、序次1〜14と完全に合致している〜『聖書』全体を易学で読み解くべきことを示唆〜
@読み解いて拍子抜けする
 Aアダム930歳の出どころ B一度に三つのメッセージ

Y ノアの箱舟神話は、「新しい時代の始まり」を告げていた〜洪水神話の易学的構成〜
@ノアの家族構成が示すもの
 A絶妙な連動性

Z 太祖たちからイエスにつながる系譜は、十字架そのものを暗示している〜アダムたちの法外な長寿の秘密〜
@太祖たちの法外な長寿
 A重大な秘密が仕掛けられていた

[ 「過ぎ越しの祭」も「出エジプト」も易学的に構成されている〜十字架はイエスの処刑を意味していない〜
@「出エジプト記」は易学で加工されている
 A海が二つに分かれる卦 B十字架は宗教支配の理想的な姿を象徴

\ イエス処刑に至る『聖書』の記述は、『易経』の丸写しであった〜『聖書』は西暦300年代に書かれた〜
@「ペトロが三度拒むと鶏が鳴いた」の卦
 Aすべてがフィクションであった B『聖書』は西暦300年代に書かれた

エピローグ
@なぜ『聖書』を偽作したのか
 Aみなさまからいただいたメッセージ

蛇足〜なぜ私は『聖書』に興味を持ったのか
@母と共益商社とGHQ
 Aキリスト教会に通ってみたら…… B「イマジン」が教えてくれた反キリスト教精神 C男尊女卑は神が決めた! Dオー・マイ・ゴッドの意味〜人間は神の奴隷? E「プリズナーNO.6」〜キリスト教信者は囚人と同じだ! F私の曾祖父は易者だった G人を救うのは真理ではなく、真実だ!

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最終更新日:令和02年08月27日 学易有丘会
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