Aアダム930歳の出どころ
☆易学の痕跡
二日目
神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
これは序次5水天需と序次6天水訟に該当する。両者の水と天の位置に注目してほしい。前者は「大空(天)の上の水」、後者は「大空(天)の下の水」。この文章は序次の図形をそっくりそのまま文章化している。
この二つの卦は、一方を逆方向から見た形になっているのだが、こればかりではなく、一日目の序次3と4、三日目の7と8、四日目の9と10、五日目の11と12、六日目の13と14の関係も同様である。図5のとおりである。
そもそも序次は、上下対称の八つの卦(序次1と2、27と28、29と30、61と62)を除いたすべての卦で、このような、隣同士が逆方向から見た形になる、という関係が成立している。
次の点に気づく。
1 序次5と6は、卦および卦名の構成要素が同じであるから、文章化すると似たものになってしまう。そこで二つの卦を一日の創造行為に一括したと思われる。
2 この二日目の創造イベントの内容は、文章をサラサラと読み下す限りでは平板であるが、ちょっと立ち止まって考えると、「水の中に大空あれ」であれ、「大空の上に分ける」であれ、表現がなんとなく奇妙で座りが悪い。
もちろん誰もが雨と海のことだろうと考えるはずだが、そういうことを言いたいのであれば、普通はもっと明瞭な表現を使う。しかし、二つの序次を図5のように配置して文章化すると、必然的に二日目のようになる。
3 このささやかな事実からも、天地創造神話は易学で加工されたと言い切れる。易学の痕跡がこのようにして残ったことになる。
☆足りない部分は卦の変化を使う
三日目
神は言われた。「天の下の水はひとつ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」 そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」 そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
易学では、序次7地水師8水地比だけが、地=大地と水の位置関係を表現している。二日目の表現を踏襲すれば、「水の中に大地あれ」としておいて、「地の下の水」と「地の上の水」とするところだが、類似の表現を避けたようだ。
ここを卦に忠実に表現するとすれば、「神は、水を下に押しやって大地を作り、別の地の上に水を集めて海となさった」となる。これらが原案としてあったと仮定すれば、だいぶアレンジしてストーリーを仕上げたことになる。天地創造をダイナミックに展開するためのアレンジと思われる。
しかし、こんな調子でちょっとずつ創っていて、本当に六日間で完成させられるだろうか。一日当たりの創る量をもう少し増やさないとバランスが悪くなりそうだ。そこで序次7と8の図形記号を眺めながら考え、そうだ!と、思いついたのが、後半の植物を創ったとする部分である。
なぜ植物を思いついたのか。それは、これが三日目すなわち三段階目だからである。
卦と呼ばれる図形記号は、変化を考えながら読み解くものであって、その変化とは、陽なら陰に、陰なら陽に変化することを指す。変化するのは、易の基本的な法則により、一段階目なら最下、二段階目なら下から二番目、三段階目なら三番目、四段階目なら四番目、五段階目なら五番目、六段階目なら最上の位置となる。この日は天地創造の三日目だから三段階目だ。したがって序次7と8の下から三番目を変化させてみたところ、序次7の変化から、とてもよい創造のヒントが見つかったのだ。
序次7の図形記号の下から三番目が陰から陽に変化した形は、序次46地風升である(図6参照)。地風升の中心的な意義は、「蒔かれた大木の種子」である。少し説明を加えると、大木というのは植物全般の象徴的な表現であり、草でも果樹でも大木でも、とにかく植物は種を蒔くとやがて芽を出して成長する、ということである。ちなみに序次8の下から三番目を変化させると序次39水山蹇となり、中心的な意義は「松葉杖での山登り」である。これはちょっと創造に相応しくないので却下したのだろう。
☆二日目流の言い方を踏襲すると
四日目
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」 そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれらを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
すでに触れたように、一日目に光が生じたのに、神はここでまた「光る物」として太陽、月、星を造っている。しかし、序次9と10を踏まえれば、四日目のこのような記述にもなり得る。
もしも、ここで二日目流の言い方を踏襲するとすれば、「神は、天の中に、動く光を置かれた」となる。
序次9風天小畜と序次10天沢履は、天の中に光がある形で、その光の位置が両卦でちょっとずれているのだ。図7で確認してほしい。したがって、この両卦を合わせると、太陽、月、星の運行を象徴するのである。
☆唐突な展開の背景
なお、天沢履の履には、「履む」という意味がある。自分がそれまで「履んできた=歩んできた」ことを振り返るにあたっては、それがいつのことだったのか、その年月日(履歴)を把握していなければいけない。したがって、この卦の中心的な意義は「礼節を履み外した危険」のほかに、「年月日を数える」という意義も含まれている。「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ」という言葉は、まさにこの意義を念頭に置いて書かれているとしか、言いようがない。
大地と海ができたら、普通ならば次は生物を作る。事実、三日目には植物を造っていて、それなら次は動き回る生物かと期待させられる。ところが四日目は、そんな期待を裏切り、日月星を造っている。日月星は一日目か二日目または生物を作り終えた六日目でもよい。ストーリー展開もスムーズにゆく。
それなのに、唐突に四日目に造っている。その理由は序次9と10が、ここに配されているからとしか考えられない。逆に言うと、易学を使えばこういう唐突な展開が可能となり、その唐突さがストーリーにドラマチックな神秘性を漂わせることになる。易学をストーリー作りに使う面白さでもある。
☆易者の看板
五日目
神は言われた。「生き物が水の中に群がれ、鳥は地上の上、天の大空の面を飛べ。」 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物。うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
序次11地天泰を文章化している。
序次11地天泰の中心的な意義は「天下安泰、万物生成」である。喜ばしい卦であるから、易者がよく看板に使う。
四日目までに造られた舞台に、命あるものの活発な動きがはじまった。生命賛歌の姿である。当然、天下安泰である。「産めよ、増えよ……」で万物は生成されていく。
一方、序次12天地否の文章化は避けている。中心的な意義の「溶け合わない水と油」は、意志の疎通が上手く行かず、挫折、失敗する、といった意味である。神が創造途中で挫折したり失敗するのは、是が非でも避けたかったのだろう。
ところで、なぜ最初の生き物は地上の動物ではなく、海の生き物と鳥なのか、ということだ。古代人は、卵から生まれる生き物は哺乳類より原始的だと考えていたからだ、とも言われているが、それは違う。地を這うものであるヘビも卵から生まれるが、それはまだ創られない。まして「大きな怪物」というのも、何を指すのかよくわからない。しかし、三日目のように、序次11地天泰と12天地否を、五日目すなわち五段階目だということから、図形記号の下から五番目を変化させてみれば、ああ、なるほどね、と合点が行く。
序次11地天泰の下から五番目が変化すると序次5水天需となり、序次12天地否の下から五番目が変化すると序次35火地晋となる(図8参照)。
序次5水天需は二日目の卦であり、「天の大空の上の水」を意味するものであった。二日目は抽象的表現に終始する構想で、それ以上この卦を掘り下げて何か物語を創作することはしなかったのだろう。その反動がここに出たのかもしれない。「天の大空の上の水」は、逆に言えば「水の下の天の大空」である。しかし水の下に大空はあり得ない。そこで天すなわち八卦の乾に属する何かが水の下あるいは水の中に居ることを意味するとして考える。乾は陽の極まりだから生気に満ち溢れて動き回るものである。また、空想上の動物、水中でも天空でも自在に行き来する竜を、易学ではこの乾で表現する。したがって「大きな怪物」とは、この竜を指しているのに違いない。しかしヘブライ語に適切な訳語がなく、「大きい怪物」としたのだろう。ちなみにギリシャ語『七十人訳聖書』では、このヘブライ語でいう「大きな怪物」のことをドラコーンと訳している。ドラコーンの英訳がドラゴンで、ドラゴンは竜と翻訳されもする。
一方の序次35火地晋は、坤の地の上に離がある形であり、離は生物では鳥を意味するのだ。離は上下の陽を翼、真ん中の陰を鳥の胴体として、鳥が翼を広げて飛んでいる姿としている。詳細は易学入門の八卦についてのページを御覧ください。
☆アダムの誕生
六日目
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を生み出せ、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」 そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」 そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
ここでは序次13天火同人と序次14火天大有が、文章化されている。序次13天下同人の中心的な意義は「志を同じくする友」だから、複数の人間が集う様子でもある。また、同人は「人と同じ」とも読める。神は「我々に似せて、人を造ろう……」と言ったのである。
あれ?「我々」とは誰を指すのか?多神教ではなく、絶対唯一の神による天地創造である。神はひとりだけのはずだ。しかし、序次13の呪縛で、複数の人間が集う様子に引きずられ、ここはつい「我々」と、複数にしてしまった……ということか。とにかく、漸くアダムの誕生である。
序次14火天大有の中心的な意義は「中天に輝く太陽」。太陽は全ての支配者であるかのように中天に輝くのはご存知のとおりだが、そこから意味を拡大発展させて、「大いに所有支配する」という意義をもつ。人間は全ての支配者として造られたことになっている。
なお、よく知られている「土からアダムが造られ、アダムのあばら骨からエバ(イヴ)が造られた」という具体的な話は、神が七日目に休んだ、という文章の後に、改めて書かれている。詳細は創世記(口語訳=外部サイト)を御覧ください。
☆世界初の見解表明となる
卦は数字に置き換えることができる。八卦と数の関係は、乾(天)は1または9、兌(沢)は2、離(火)は3、震(雷)は4、巽(風)は5、坎(水)は6、艮(山)は7、坤(地)は8または0、である(※ただし0は便宜上そう表記しているのであって、正確には漢数字の十のことである)。
すると序次13天火同人と序次14火天大有は「1と3」「3と1」または「9と3」「3と9」という数字の組み合わせになる。
ここよりも先の文章でアダムの年齢が語られていて、アダムは130歳で息子を産み、930歳で死んだとしているが、それは天火同人から導き出された数字が根拠になっている。たったこれだけの指摘すら、意外なはずであり説得的でもあり、驚きでもあるはずだ。これも世界初の見解表明となる。今まで、930歳の根拠はまったく不明だったはずである。
普通に考えれば意味不明の非常識な長寿だが、こういう検証で仕掛けがわかってみると、アドバイザー氏は、年齢以外の何か別のメッセージを、発信しているようにも思えてくる。
多分それは、アダムを始めとする太祖たちの不自然な長寿に注目させようとする意図の現れであろう。これについては章を改めて述べたい。
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