聖書は易学〜聖書の作者は古代中国の易学者だった!〜
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☆☆☆エピローグ☆☆☆
@なぜ『聖書』を偽作したのか A皆さまからいただいたメッセージ
@なぜ『聖書』を偽作したのか
☆アドバイザー氏の旅立ち
以下は『聖書』が西暦300年代にアドバイザー氏によって偽作された経緯を、推測したものである。もちろん現在のローマやギリシャの歴史の定説とは異なる。証拠もない。無責任な推測に過ぎないことを、予めお断りしておく。
西暦200年を過ぎた頃、日本では弥生文化の時代であった。『魏志倭人伝』では西暦250年頃に、女王卑弥呼が死に、男王が即位したが国が乱れ、卑弥呼の宗女壱与が即位したら平和が戻ったとある。中国では西暦220年に後漢が滅び、三国時代に移行するが、西暦234年に諸葛孔明が五丈原に没して行く。その後は小国が興亡を繰り返す。隋が中国を統一した西暦589年までの約三百年間は、中国全土は混乱のうちに過ぎていった。民心は乱れたであろう。そうした状態に呼応するかのように、西暦300年前後から、しきりに仏教が渡来するようになる。
若くして易学および古典に造詣を持つアドバイザー氏は、陸路か海路かはわからないが、ひょっとしたら、その頃仏教を求めて旅立ったのかも知れない。実際にはアドバイザー氏の他にも外国への好奇心旺盛な友人など、少なくとも数人、ひょっとすると数十人規模の団体での旅だったことと思う。現代と違い危険も多いのだから、一人旅などできるはずがない。
☆当時のローマの事情
アドバイザー氏たちは、大乗仏教全盛のインドで数年過ごした後、仏教に飽き足らず、さらに西へと旅をした。西からの旅人が話していたギリシャ哲学や美術品をこの目で確かめたいと思ったのだろう。中国とローマはすでに後漢の時代から交流があったことも、西への憧れを強めたに違いない。もっともインドで現地の女性と恋に落ち、その地に止まった者も何人かいたかもしれない。が、やがてアドバイザー氏たちはギリシャにたどり着いた。
ギリシャ哲学や美術に彩られた理想郷をイメージしていたが、実際は違った。階級社会の最下層の奴隷たちと市民の中の貧しい層が一緒になって、搾取されない世の中を求め、何やら不思議な宗教を信仰していたのだ。いろいろ聞いてみると、宗教というよりも反体制集団という色彩が強く、大した教義もないようだった。バックには西暦70年にローマが滅したユダヤ人の子孫が関与しているというウワサもあった。政府はなんとか彼らの活動を阻止しようと、これまで武力で威嚇し、鎮圧してきた。しかし、一生搾取されたまま貧しく苦しい中で人生を終わるしかないのなら、政府に反抗して殺されたほうがまだ生きたという実感がある、と考えた人たちが多かったのか、そうやって政府側に殺された人たちはたちどころに彼らのヒーローとなり、さらに同調する人々が増えるということの繰り返しで、政府も頭を痛めていた。西暦300年頃である。
☆革命の予感
アドバイザー氏はそんな様子を見て、直観的に「天命が革まる時なのかな?」という思いが頭を過った。としてもその反政府宗教に際立った指導者、例えば周の文王や武王のような人物がいるわけでもなく、教義はとても貧弱だった。仮に政府を転覆させたとしても、新たに実力のある政権を樹立するのは困難で、中国のように小国が乱立して大混乱に陥るだけだろうなあ……とも感じていた。
そうこうしているうちに、遥か遠い中国からの賓客として、ローマ政府の高官と会うことになった。当時のギリシャはローマの支配地域だったのである。酒を酌み交わし、歓談するうちにこの反体制宗教の話題になり、易学者と名乗ったこともあってか、何かよい案はないかと聞かれた。いきなり問われても答えようがなかった。が、会うたびにこの話題が出たこともあり、思案を巡らした。そんなことがしばらく続いて何度目かの酒席のとき、誰かが酔った勢いで、次にような提案をした。
1 彼らの貧弱な教義や言い伝えをきちんと整理して書物にまとめ直し、それがローマ政府に昔から伝わっている、ということにする。
2 彼らの宗教がいつ始まったのかは不明だが、かなり昔、2〜300年くらい前からあったことにする。
3 彼らの宗教を公認し、こちらの都合のいいように作成した書物を聖典とさせれば、彼らも黙って従うはずだ。
突拍子もない提案だが、このまま何もせずにいても彼らを止めることは難しい。それならやってみるか。失敗したらまたそのときに考えればよい。酒のせいで判断力が落ちていたのか、ローマ政府やギリシャの高官たちはいつしかそう結論し、アドバイザー氏も目で促された。通訳を介してのは会話で不明瞭なところもあったが、どうせ酒席の戯言だろうと考え、お世辞のつもりで同意した。
☆『聖書』偽作に着手
ところが数日後、宿泊先に使者がやって来て、正式に決まったと伝えられた。まさか本当になるとは……啞然としたことだろう。こんなふざけたことが決まるのだから、反政府運動が起きても当然だと思いつつも、どうも断れる雰囲気でもないので、仕方なく腹を括って参加することにした。
そう決まると、早速その聖典=『聖書』の偽作に着手した。編集・執筆チームはローマ、ギリシャの学者たちとアドバイザー氏(通訳含む)である。編集会議ではみんなが構想を出し合って検討した。
舞台は西暦70年に滅んだユダヤにしよう、ユダヤとその周辺地域の古伝承をリメイクし、論理展開はギリシャ哲学も参考にしよう、と、ローマやギリシャの学者たちは提案した。アドバイザー氏は反対する理由もないのでそのまま同意した。その上で、反政府宗教の教義と似ている墨子の「天帝の意志による愛と平等」を中心に置いたらどうかと提案した。本当は「仁」を説きたいところだったが、中国でも難しいと敬遠されがちなので、ここは墨子にしておこうと考えたのだ。
主人公は墨子にあやかって大工の息子としよう、とすると中国で滅んだ墨家の復活だから、復活もキーワードにして物語を展開させよう。司馬遷の『史記』からも拝借しよう。ただ、『墨子』も『史記』も手元に本がない。旅にそんなものは持ち歩かないので、記憶の中からチョイスするしかないが、足りない部分は適当にごまかそう。それと、インドで聞いた大乗仏教の地獄極楽や超能力的な説話も参考にしよう。そしてギリシャに来たときに、天命が革まるときを直観したのだから、物語全体の流れは辛酉革命理論に紐づけ、ところどころに易学的細工を施しておこう。そうすれば、読む人が読めば全部ウソだとわかる。偽作した『聖書』がシルクロードを通って中国に伝わる可能性も否定できないからだ。アドバイザー氏としては、礼儀として、中国の中人以上(易学を理解している人)ならわかる偽作の証を残しておく必要があったのだが、この「読む人が読めば偽作だとわかる」ということに、ローマやギリシャの学者たちも、偽作の後ろめたさから解放され、我々が作っているのはおとぎ話に過ぎない、それを信じる方が悪い、とでも考えて、プロジェクトは進んだのだろう。
日本人の感覚すれば「信じる方が悪い」というのは不愉快だが、欧米や中国では、今でも騙すのは悪くない、騙されて信じる方が悪い、というのが普通の感覚である。大陸で異民族と頻繁に交流する社会だと、そうなってしまうのだろう。
☆偽作『聖書』が完成すると
中国語、ギリシャ語、ラテン語が飛び交う中、翻訳も大変だったが、そうこうしながら数年かけて、ようやく『聖書』の偽作は完成した。司馬遷の『史記』と比べても決して見劣りしない膨大な書物群に仕上がった。いかにも古くからあるかのように見せかけるため、倉庫の奥から古い紙を探し出して書いたものだ。旧約部分についてはヘブライ語に翻訳した書物も作成した。ただ、完成した『聖書』の内容は、易学者としてアドバイザー氏が描いた構想からは、いささか離れてしまったようだ。言葉の違いから意志の疎通が上手く行かず、誤解や勘違いも多かったことだろう。その結果、意に反して、ローマやギリシャの学者たち、あるいはローマ政府の意向か、必要以上にユダヤ人を貶める結果になってしまった。
ともあれ『聖書』が完成して、彼らを懐柔する準備が整ったことをローマ政府に報告すると、コンスタンチヌス皇帝はキリスト教を公認した。西暦313年のいわゆるミラノ勅令である。
☆アドバイザー氏の誤算
墨子の思想を信奉した墨家集団は一時的に大きな勢力となったが、秦の始皇帝が中国を統一する頃には姿を消している。アドバイザー氏は、それと同様に、この偽作『聖書』を信奉する集団も、一時的には大きくなったとしても、やがては消滅するだろうと考えていたに違いない。信仰することは教会の奴隷になることであり、その教会をローマ政府が管理すれば、結局今までと変わらないことになるからだ。愛や平等は絵に描いた餅に過ぎない。そのうち中国とローマとの交流がもっと活発になれば、『論語』や『易経』などの漢籍がローマで翻訳されることだろう。そうなればローマも「仁」に基づく社会が模索されるに違いない。キリスト教は、上手く行っても、それまでの繋ぎの宗教といったところだ……。
そんな気安さがあったからこそ、偽作に情熱をかけられたのだろう。
しかし、ご存知のように、アドバイザー氏の予測は見事に外れ、キリスト教はその後の西洋社会の中心として君臨するようになってしまった……。
☆最も得をするローマ人、最も損をするユダヤ人
\ーAで例示したように、イエス処刑物語は次のような流れになっている。
ローマのユダヤ総督ピラトはイエスを許そうとしたが、 ユダヤの民衆は、「 自分たちの子孫がどのような目に遭ってもかまわないから、とにかくイエスを処刑してほしい」と嘆願した。そこで仕方なくピラトは処刑を許可した。
この物語の流れからは、 ローマ人は賢明でユダヤ人は愚かだ、という感想を持つのが普通だ。そしてイエス死後の使途の行動を書いた使徒行録は、ローマに布教されるところで終わっている。
要するに、キリスト教を信仰して最も得をするのはローマ人、最も損をするのはユダヤ人という構図が、ここに出来上がっているのである。
この構図のために、その後のユダヤ人は、キリスト教徒から差別、迫害、虐殺され続けてきたのだ。中世になると、厳しい教会からの抑圧のストレスを、ユダヤ人を迫害することで解消していた、という面もあったのかもしれない。
ついでにもうひとつ、マタイ24章には、「この福音が全世界に伝わるとき、終わりが来る」といった終末論があるが、これは中国に『聖書』が伝われば易学者によって偽書だということが白日の下に晒され、キリスト教は終わる、と暗示しているようにも思う。
☆易とは何か
客観的な話に進む。
現代で「易」というと「占い」の面だけが強調される。しかし、「易」は神羅万象を把握するためのモデル図なのである。易を承知していれば、何でも正しく把握し実現できるのである。古代中国では医学、天文、気象、政治、経済、社会道徳……、あらゆる事象が易の下で体系づけられていた。
孔子は、最も重要なことは易を知ることだと考え、その集大成として『易経』を編纂した。その中で、「易は物を開き、務めを成し、天下の道を冒う」(易はあらゆる事物を開発し、あらゆる事業を成就させ、天下のあらゆることに応用できる)と、易の素晴らしさを讃えている。幕末に西洋の学問を研究するたに設立された洋書調所は、後にこの文章から二字を選び開成所と名付けられた。それほど重い言葉なのである。
孔子の教えを継承した荀子は言う。
「善く易を為す者は占わず」
易を熟知していれば、「エイヤ!」と筮竹をさばいて占わなくても、何でも把握できるということである。この世のすべてを、陰 と陽 というたった二つの記号の組み合わせで表現することは、コンピュータが0と1だけであらゆる事象を表現・把握・演算することと同じなのである。
☆易を駆使できれば
本稿では、占うという行為については触れないようにしてきた。論証の体系という意味で、あえて「易学」という言葉を使ってきた。本当は「易」あるいは専門的に「周易」でよいのである。明治以来、多くの日本人が易から遠ざかってしまったことによる誤解と偏見に、どう対処すべきかに迷った末の表現である。
コンビュータを駆使できるようになると、とてつもない領域に踏み込んでいくことができる。それと同じように、科学のなかった古代においては、易を駆使できる人は、未知の世界に大きく踏み込んでゆくこてができた。
ある場面では道具を作り、ある場面では争いを仲裁し、ある場面では文章家にストーリーのヒントを提示し、世俗の恋愛を占い……。どこへ行こうと衣食住に泣くことはなかったのである。
本稿で想定したアドバイザー氏は、旅費が心もとなくなると現地で稼ぐために、この旅団に参加したのであって、そうした行き当たりばったりな旅の中で、たまたまかなりの報酬が貰えるからと、『聖書』偽作に関わっただけなのかもしれない。
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