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\ イエス処刑に至る『聖書』の記述は、『易経』の丸写しであった
〜『聖書』は西暦300年代に書かれた〜

@「ペトロが三度拒むと鶏が鳴いた」の卦 Aすべてがフィクションであった B『聖書』は西暦300年代に書かれた

@「ペトロが三度拒むと鶏が鳴いた」の卦

☆最後の晩餐の座席配置

 ユダヤ教の重要な祭典「過ぎ越しの祭り」の初日、ユダヤ教徒たるイエスもまた、その祭りを祝うために十二使徒と共に晩餐をとった。メニューは、種なしパンと赤ワインであった。祭式どおりなら神への生贄として、焼いた羊肉も添えられるのだが、生贄は処刑されるイエスだから、羊肉はテーブルに並ばなかったのだという。
 席上、イエスはユダが裏切ることを予言した。そしてイエスは、種なしパンを私の肉体、赤ワインを私の血と心得よと述べながら、使徒たちに分け与えた。有名な最後の晩餐である。
 このときの座席配置は、『聖書』には記録はないのだが、カトリック教会の伝承では図15のようであったという。この座席配置を、陰=2、陽=3という陰陽の基数にしたがって、卦の図形に転換すれば、上席はヨハネ、イエス、ペトロの三人となり陽、残る十人は二人ずつ相対しているので二を意味する陰となり、それが五本。ユダの席もついでに記入した。
 出来上がった座席配置を転換して卦の形にした図は、序次23山地剥(さんちはく)である。中心的な意義は「山崩れの危険」。使徒たちの裏切りと処刑が、座席配置に暗示されていたことになる。
 アドバイザー氏の視線は、この場面にも届いている。
 なお、念のために付け加えるが、レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』の壁画は、カトリックの伝承によるものではないので、この理屈はまったくあてはまらない。伝承どおりの座席配置だと、使徒たちの顔が被って描きにくかったのだろう。

☆逮捕→処刑

 当時のユダヤの暦法では、日没を一日の始まりとしていたので、最後の晩餐は祭典初日のスタート点でのセレモニーであった。初日の夜がきてユダの密告が実行され、イエス捕縛のワナが作られた。イエスは深夜ゲッセマネに行き、刑死の到来を予知して三回祈る。その直後にイエスは捕縛される。弟子たちはちりぢりに消える。
 イエスの様子を探索しようと、城内に入っていった一番弟子ペトロは、人々に見つかり「イエスの弟子か」と問い詰められたが三度にわたって「知らない」と否定した。三度目に否定したとき、(にわとり)がコケコッコーと鳴いた。イエスから「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたことを思い出し、ペトロは泣いた。
 イエスの罪は神を冒涜し、王を名乗った罪であった。前出の序次23山地剥が暗示したように、ストーリー上では現実となった。
 当時のユダヤはローマの支配下にあったから、最高権力者はローマから出張着任していたユダヤ総督ピラトであった。そのピラトは、イエスを宮殿の庭に引き据え、ユダヤ教指導部はじめ民衆多数が見守る中で、イエスを審問する。ピラトはイエスの態度に好感を覚え、許しても良いのではないかと考えた。そこで、宮殿の庭に集まった民衆に、その考えを伝えた。
 すると民衆は、「今後我々の子孫がどのような迫害を受けたとしても、すべての責任は我々自身が背負うから、とにかく今、イエスを処刑してくれ」と、しきりにピラトに嘆願した。そのエネルギーはとても強く、冷静に説得できる状況ではなく、それでも無罪放免にすれば暴動に発展しかねない雰囲気だった。ピラトは不本意ながら、ユダヤの民衆の熱意に押され、嘆願どおり処刑を裁可した。イエスはゴルゴダの丘に連れて行かれ、十字架に架けられ、最後に絶叫して息絶えた。

☆「ペトロが三度否むと鶏が鳴いた」

 この刑死に至るストーリーを易学的にとらえるのに先立って、アドバイザー氏の芸の細かいところをまたも見せつけられたので、それを紹介しておきたい。「ペトロが三度否むと鶏が鳴いた」の一文である。
 この一文は、一番弟子のペトロすら裏切ることをイエスが予言し、そのとおりになったことを示しているのであるが、何となくストーリー全体から浮いた感じがする。それはお読みになればおわかりになると思う。それで注目してみたのであるが、やはり意外な展開になった。

1 「知らないと言う」=否むである。この意味の()は序次12天地否(てんちひ)=「溶け合わない水と油」である。
2 三度否むのであるから、舌から順に三回陰陽をひっくり反す。
 序次12天地否
 序次25天雷无妄(てんらいむぼう)(天地否の一番下のみを逆転)
 序次6天水訟(てんすいしょう)(天地否の下から二番目のみを逆転)
 序次33天山遯(てんざんとん)(天地否の下から三番目のみを逆転)
3 天山遯の中心的な意義は「逃げるが勝ち」であり、ペトロがイエスから逃げたことを連想させる。またこの卦は、図16のように二本で一本と見なして(そん)(風)の意味を含むのだが、その巽が示す動物は、なんと鶏なのである。なお、「二本で一本と見なす」という点については、前ページ「[ーA」の図13Aに示した「雷山小過(らいざんしょうか)(かん)となり血の意味を持つ」というのと同様である。

☆イエス復活のための布石

 ちなみに、神社の鳥居は「鳥が居る場所」という意味になるが、正確に言うと「鶏が居る場所」である。序次20風地観(ふうちかん)の上の()が、巽(風)であり鶏を指すのである。空高く飛べない鶏にしてみれば、なんとか飛んで行ける高さの鳥居の上が、犬や猫に襲われることもなく、安全に眠れる場所であったのだろう。
 ペトロのこの話は、表面上のストーリー、つまり三度「知らない」と言ったら鶏が鳴く……に符号するのはもちろんなのであるが、そんな小業をひけらかすために設定したエピソードではない。これは、イエス復活の意味を展開する上での必要な布石なのである。その展開は処刑についてを終えてから取り上げる。

Aすべてがフィクションであった

☆決去決壊へ

 エピソードとの関わりを切って、処刑神話の本スジを易学で解体していこう。

1 イエスはユダヤの法律上の重い罪を一身に背負った。後に教義の展開において示されたように、イエスはユダヤの人々および全人類の神に対する原罪を一身に背負った。
 これには序次28沢風大過(たくふうたいか)=「背負った大きな荷物」が配される。
2 イエスは初日に逮捕された。易学の定石にしたがって、そのストーリー上の事実を表現するために、イエスに配された序次28沢風大過の、最下の記号の陰陽を変換してみる。すると、序次43沢天夬(たくてんかい)=「裁かれ決去(けっきょ)(処刑)される邪魔者」となる。なんと、序次23山地剥の裏卦(りか)ではないか!図17で確認してほしい。
3 沢天夬はWーCで触れた十二消長卦のひとつである。序次24地雷復(ちらいふく)で生じた陽気がだんだんと成長し、いよいよ陰気を最上の一本に追い詰めた姿である。
即刻、この一本も決去(けっきょ)(処刑)しようと勢いづいている形なのだ。だから、決去決壊を意味する「(かい)」の字をもって卦名(かめい)としている。

☆『易経』と寸分も違わない展開

 そして、『易経』の解説文が、決定的で象徴的な証拠を示すことになる。
 序次43沢天夬の項を解説した『易経』の文章は、ピラトによる審問〜イエスの処刑に至る『聖書』の文脈・展開とピタリ照応するのである。「寸分も違わず」といってよいほどの照応ぶりである。
 例えば、ポピュラーな『易経』解釈本の「沢天夬」の項目や、手軽な岩波文庫『易経』でも、どことなく似ている気配を感じられるが、『易経』原文を詳細に解説した『易学大講座』(加藤大岳講述・紀元書房)や漢籍國字解全書『易経』(早稲田大学出版部・絶版〜ネットでは国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます=沢天夬はコマ番号69〜74)、当サイトの易経解説のページなどを読めば、はっきりそれとわかる。ここにはピラト側から見た事態への取るべき態度、イエス側の態度、ユダの裏切り、事態そのものの推移、民衆側の態度が記述されている。イエス処刑に至る『聖書』の記述は、『易経』の剽窃である。コピーである。著作権侵害である。丸写しである。なぜ、こんな単純な事実に誰も気づかなかったのだろう。不思議だ。以下で読者諸氏も確認してほしい。

☆序次43沢天夬の解説

 ピラトやイエスを意識しないで、淡々と『易経』の「沢天夬」の項の解説を、整理して述べてみよう。『易経』では人になぞらえて、つまり擬人化して展開しているので、それにしたがう。(カッコ内は『易経』の当該箇所と、それに当たる『聖書』の中の人物)

1 沢天夬を擬人化して解釈するに当たって、三つの前提を確認しておく。
 イ 陰は柔弱、陽は剛堅、陰は悪人、陽は善人……となる。
 ロ 八卦(はっか)()(沢)は、最上部の陰が主体となっている形であり、人体では口に配される。
 ハ 沢天夬の最下は民衆。下からニ、三、四番目は臣下。五番目が君主。最上が学者の位置になる。
2 沢天夬は、陽が成長して陰を追い詰めた形である。今、最上に残る一陰のは陰の性として柔弱であるにも関わらず、最後まで踏みとどまっているのだから、かなりしぶとく、まして兌(沢)の主体となる位置でもあるのだから口も巧い。()全体から言えば最上部は学者の位置だから頭も切れる。こんな時に、この一陰の悪人を捕らえて決去(処刑)するには、どうしたらよいか。
3 口の巧さに騙されないように、王庭すなわち権威ある場所にこの一陰を引き出し、民衆を前にして、その裁かれるべき悪行を明らかに問いただして裁可するのが賢明である。血気にまかせて、勝手な行動を取るようではいけない。全員が一致団結協力して事に当たる必要がある。(卦辞(かじ)
4 最下の位置の民衆は、前後の見境なく、決去(処刑)を熱望している。(初九(しょきゅう)爻辞(こうじ)=ユダヤの民衆)
5 決去すべき悪人と交流のある人物は、相手に表情で悟られる危険がある。ひとりで相手の懐に入っても、決去の志は忘れないこと。(九三(きゅうさん)爻辞=ユダ)
6 この一陰は、君主の位置に隣接しているのだから、その君主に、言葉や態度で親しみをもって取り入ろうとする。それに、最上部は学者の位置である。君主は博識の学者のように思って、好感を持ってしまいやすい。(九五(きゅうご)爻辞(こうじ)=ピラト)
7 しかし、どんなにしぶとくても、時流には逆らえない。最後には、いくら泣き叫ぼうと受け入れられず、この一陰は決去(処刑)される(上六(じょうりく)=イエス)

 もう何も言うことはない。「まず、序次ありき」で『聖書』が書かれたのは明々白々だから、『聖書』のすべてはフィクションである。イエスも、その処刑も、天地創造も、モーセも……。

B『聖書』は西暦300年代に書かれた

☆なぜ、こんなストーリーに広げたのか

 以上は、文献的あるいは文章論的結論であるが、易学的な決着をしっかりつけておかねばなるまい。
 アドバイザー氏は、処刑神話を作ろうとして、
1 まず、イエスについて序次28沢風大過(たくふうたいか)=「背負った大きな荷物」を配してみた。
2 その「過」に着目し、「過ぎ越し」という名称を考案した。
3 具体的な処刑の流れは、この卦の変化・バリエーションの中から、最もドラマチックに展開できそうな序次43沢天夬(たくてんかい)を見つけだして展開した。
4 さらには補足として裏卦(りか)の序次23山地剥(さんちはく)を利用した。
……のであろう。
 しかしそれならば、なぜ28沢風大過を選んだのであろう。確かに「背負った大きな荷物」という意義は、処刑神話に相応しいものであるが、それだけの目的であるならば「過ぎ越し」という名称やその起源神話である「出エジプト」を創作するという、入り組んだ仕掛けにまで、手を広げることはなかったはずである。

☆やはり「過」に注目していた

 理由は二つ考えられる。
 第一の理由は、「過ぎ越し」という名称で、28沢風大過の「過」という文字の意義を強調し、印象づけたかった。それは易学を知る者へのサインである。このような暗号めいたサインは、単純でなければキャッチされない。
 第二の理由は、ユダヤ民族の間には、「出エジプト」とは別の意義づけで、「過ぎ越し」という名称の祭事が既にあって、アドバイザー氏はその名称に触発されて、処刑神話を思いついたのではないか。
 その場合は前記1と2の順番が逆になる。そして、やはり「過」に着目して卦を展開していったことになる。

☆「事実」は何なのか

 アドバイザー氏が「過」を見つめてほしいとしきりに言っているのだから、重ねて62雷山小過(らいざんしょうか)=「限度を少し過ぎる」、28沢風大過=「背負った大きな重荷」を見つめてみよう。
 小過は「少し過ぎる」であるから近い過去である。大過は「大きく過ぎる」であるから遠い過去である。それらを過ぎて越えてきてしまったという。アドバイザー氏はしきりに時代が過ぎ行くことを、伝えたがっている。
 「イエスの処刑は昔のことだ」と言いたいのだろうか。「出エジプトは近過去でした」と言いたいのであろうか。
 そんなことではあるまい。彼はすでに、これらはフィクションだと言い切っている。フィクションであれば、過去だの現在だのは関係がない。するとノン・フィクションつまり、時間や時代の経過に密接に関連して問題にすべき「事実」とは、何なのか。

☆『聖書』成立年代を述べている

 答えは「我々が『聖書』を書いた」である。「フィクションを書いた」のは「事実」なのである。すると、「その事実は遠い過去であった」というのか。それはおかしい。これだけ膨大なものを書いておいて、「大昔に書きました」は変である。
 残る答えは、「我々は『聖書』を書いた。その執筆対象となった舞台と時代は、大きく過ぎた。遠過去であった」なのである。つまり『聖書』成立年代を述べているのである。
 学説にしたがうと、『聖書』の各文書は、西暦50〜100年までに書かれたことになるのだが、それは間違いなのである。これでは小過去になってしまう。では、いつ頃書かれたのか。それを知る手がかりは、イエスが死後三日目に復活したという神話に隠してあった。

☆処刑から復活にかけての記述

 すべてフィクションと知って、本当に気が抜けてしまったが、著者としの責任上、以下にイエスの復活と『聖書』成立年代について、易学の立場から述べておく。
 まず復活から。
 『聖書』には、イエスは週の六日目すなわち金曜日に処刑され、翌週の初日すなわち日曜に復活したとある。この奇跡を記念してキリスト教会で行われているのが、日曜日のミサ(カトリック)や礼拝(プロテスタント)である。特に春分後の最初の満月の次の日曜のそれは、イースターすなわち復活祭と呼ばれる大祭で、ミサ/礼拝の後にはお祭り気分でバザーなどが開かれる。カラフリルな茹でタマゴが売られ、古着・不用品が青空市に積み上げられる。
 復活したイエスは十二人の使徒のうちユダを除く十一人の使徒や信徒たちの前に姿を見せるが、復活40日目に昇天して姿を消す。その10日後に、今度は聖霊が使徒たちに啓示を下し、これより各地への布教活動が始まる。
 刑死した人間が復活するのかどうかは、もはや論外だから本稿としては取り合わない。問答無用である。注目したいのは、処刑から復活にかけての部分だけが、週の何日目と限定して書かれている点である。イエス誕生や各地での説法物語には、そういうことがなかった。

☆二つのミスマッチな卦

 アドバイザー氏がわざわざ週の何日目という表現を押し出してきたのだから、それにしたがってみよう。
 なお、この時代は一週間の各曜日名はなかったのだが、便宜上、現行の曜日名を使用した。また、この時代の一日の始まりは日没なので、金曜日とあるのは、現在の木曜日の日没から金曜日の日没直前までを指している。以下はそれらの点を念頭において読み進めていただきたい。

 さて、金曜日の処刑を目印にして、イエスの挙動を配置してみる。現在の我々が過ごす1年52週のうちの一週間を念頭に置くのではなく、天地創造に表現された最初の一週間だけを念頭に置いて配置してみる。すると、図18のようになる。
 イエスは祭典初日すなわち金曜の夜に「最後の晩餐」を行い、その後、捕縛→審問と進み、夕方直前に処刑されたのだから、43沢天夬(たくてんかい)=「裁かれ決去(けっきょ)(処刑)される邪魔者」であることはすでに述べた。
 金曜日は序次1乾為天(けんいてん)が来る。中心的な教義は「満ち溢れた生気」。あれ?あれ?読者の中には気づいていた方もおられよう。Aで処刑の話をする際には、私は触れずに通り越してきた。処刑日が「満ち溢れた生気」ではミスマッチもはなはだしいではないか。
 あれ?あれ?はさらにつづく。日曜日は復活なのに、配されるのは、序次33天山遯(てんざんとん)。その中心的な意義は「逃げるが勝ち」。復活が逃亡とイコール関係ではまずい。やはりミスマッチである。ミスマッチな卦が二つもつづいた。
 ここに、「ペトロの三度否定→鶏のコケコッコー」をわざわざ挿入した理由が出て来るのである。

☆#五日間飛ばし#

 ペトロの鶏のエピソードでは、序次12天地否(てんちひ)と序次33天山遯が示されているが、これは「天山遯の否定」すなわち「復活の日は序次33天山遯ではないゾ」を示していたのである。もっと言えば、「天地創造に依存した一週間十二消長卦の配置を動かして、復活の日を天山遯ではなく、復活に最もふさわしい序次24地雷復(ちらいふく)とせよ」、ということである。こうすると処刑日は、序次23山地剥(さんちはく)=「山崩れの危険」で、最後の晩餐の座席配置の卦となるとともに、その裏卦(りか)は処刑そのものの沢天夬だから、ストーリー展開とピッタリになる。図18下段のように、五日分移動させるのである。言ってみれば、"五日間飛ばし"である。この解読手法は、定石化されたものでも、解読技術として明記されているものでもない。強いて言えば、易学を知悉する者同士の暗黙の習慣・作法のようなものである。アドバイザー氏はその習慣に依存して、ペトロの鶏のエピソードを挿入したことになる。
 漢字文化圏の言語伝達には、こういう伝達のあり方があったために、論理学はあまり必要とされなかった。そして発達しなかった。ただし、発達しなかったことが悪いことなのかどうかは、別の問題である。

☆西暦300年代

 こういう序次の展開になると、文書の書き手と読み手が、協調・共感・共鳴しながら想像力をはたらかせ、書き手が直接的に述べないことを、読み手側の想像次元で解釈していくほかないのである。表意文字・象形文字の漢字文化圏であるからこそ可能であった。
 したがって、以下は私の想像で展開した帰結である。

 アドバイザー氏は、「過ぎ越し」を「時代が大きく過ぎる」と解釈しなおして"五日間飛ばし"を打ったのである。そうは言っても、たった五日間が「時代が大きく過ぎる」とイコール関係にはならない。しかし、1日を1元つまり60年としてみると、飛ばした五日間は300年を指していることになる。西暦元年+300年なのであるから、『聖書』が書かれたのは西暦301〜360年の間であった、ということになる。
 奇しくも、小説『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)では、中世に発足した秘密結社シオン修道会などの伝承として、現在の新約聖書は西暦300年代に、ローマのコンスタンチヌス大帝により編纂されたものだとする説が、実際にあることを紹介している。そこではイエスの実在や旧約についてまでは否定していないが、どうやら西暦300年代がキリスト教の真実を探るポイントであることは、確かなようである。、

☆炭素年代測定法との食い違い

 年代と言えば、炭素年代測定法にもとづく『聖書』成立年代の問題を取り上げなければならない。本稿に展開した『聖書』成立論は、あらゆる学説を向こうに回すことになる。特に、科学的な年代測定法を踏まえた反論があるとすれば、易学説と科学的年代日測定法説は、対立平行線のままになる。
 科学的な年代測定法については、通俗的な本に書かれている以上のことを知らないが、資料採取の方法などによっては、ある程度の測定誤差が出る場合もあるのだと理解している。
 本稿が展開してみせた『聖書』構成上の主張は、長い歳月を経て受け入れられるでろうから、その頃には科学的年代測定法の側が、本稿の主張を追認することになると思う。
 科学も"合理的な誤魔化し"を、しばしば行うようであるから、現時点で科学側の誤魔化しがあるとすれば、時代の流れに応じて訂正してくることになる。それが早いことを期待している。

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も く じ

〇ごあいさつ

T イエスの誕生年=西暦元年は、 易学の論理で「革命の年」に設定された
@『古事記』『日本書紀』のトリックと西暦元年
 Aまるで説明がつかないローマの見解 B史上初の西暦元年成立論となるか C旧約と新約の要点

U 「東方の三博士」の話には、易学に根ざした九星の論理が貫徹していた!
@九星という年回りを確定する技術
 A方位を限定明記する怪しさ B易学のストーリー構成力を借りて

V 聖母マリアの処女懐胎物語は、司馬遷『史記』のコピーである〜中国文化の影響は易学以外にも見いだせる〜
@多くの人から疑われていた
 A『史記』解釈上の新発見か B墨子の思想はキリスト教と似ている

W 「ユダヤ暦元年」算出根拠は、まさに易学そのものに依っている〜易学の卦を絶妙に展開して文章化している〜
@ユダヤ暦元年を算出する糸口
 A中国人編集アドバイザーを想定すると B徹底的に易学で組み立てられている C序次24地雷復を絶妙に展開して D易学とは何か

X 天地創造の六日間は、序次1〜14と完全に合致している〜『聖書』全体を易学で読み解くべきことを示唆〜
@読み解いて拍子抜けする
 Aアダム930歳の出どころ B一度に三つのメッセージ

Y ノアの箱舟神話は、「新しい時代の始まり」を告げていた〜洪水神話の易学的構成〜
@ノアの家族構成が示すもの
 A絶妙な連動性

Z 太祖たちからイエスにつながる系譜は、十字架そのものを暗示している〜アダムたちの法外な長寿の秘密〜
@太祖たちの法外な長寿
 A重大な秘密が仕掛けられていた

[ 「過ぎ越しの祭」も「出エジプト」も易学的に構成されている〜十字架はイエスの処刑を意味していない〜
@「出エジプト記」は易学で加工されている
 A海が二つに分かれる卦 B十字架は宗教支配の理想的な姿を象徴

\ イエス処刑に至る『聖書』の記述は、『易経』の丸写しであった〜『聖書』は西暦300年代に書かれた〜
@「ペトロが三度拒むと鶏が鳴いた」の卦
 Aすべてがフィクションであった B『聖書』は西暦300年代に書かれた

エピローグ
@なぜ『聖書』を偽作したのか
 Aみなさまからいただいたメッセージ

蛇足〜なぜ私は『聖書』に興味を持ったのか
@母と共益商社とGHQ
 Aキリスト教会に通ってみたら…… B「イマジン」が教えてくれた反キリスト教精神 C男尊女卑は神が決めた! Dオー・マイ・ゴッドの意味〜人間は神の奴隷? E「プリズナーNO.6」〜キリスト教信者は囚人と同じだ! F私の曾祖父は易者だった G人を救うのは真理ではなく、真実だ!

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最終更新日:令和02年08月27日 学易有丘会
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