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U 「東方の三博士」の話には、
易学に根ざした九星の論理が貫徹していた!

@九星という年回りを確定する技術 A方位を限定する怪しさ B易学のストーリー構成力を借りて

@九星という年回りを確定する技術

☆九星の巡りを応用した物語

 「イエス誕生年=西暦元年」と決定された経過には疑わしい点があると問題提起し、易学をもとに追及してみた。その結果、『聖書』は易学の影響下で成立したと考えると辻褄の合うことが明らかになった。
 実はここで取り上げる「東方(とうほう)三博士(さんはかせ)」の話そのものが、やはり「イエス誕生年=西暦元年」を示していると判明した。「易学に根ざした九星(きゅうせい)」が、この話には応用されており、その展開によって「イエス誕生年=西暦元年」を、読み取れるようにしている。
 「東方の三博士」の話は「マタイ」に出て来る。すると、読者は気づくであろう。西暦元年案を作成した僧院長ディオニシウスが、原案作成の際に無視したあの文書である。「東方の三博士」の話は、僧院長ディオニシウスが無視した「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」の一文に続いて出て来る。
 そこにも「イエス誕生年=西暦元年」の根拠があるというなら、僧院長ディオニシウスは西暦元年案作成の際に、参考にすればよかったはずである。なぜ、参考にしなかったのか。その答えはこれから話すことで自ずと明らかになる。九星で「東方の三博士」の話を分析することが先である。そして、この視点からの分析も世界初である。

☆クリスマス体験

 まずイエス誕生に関わる「マタイ」の文章を見ておきたい。しかし、いきなり引用する前に、以下の話を思い出せば、幼少時代のクリスマス体験と共に、「東方の三博士」の話を「そうだったなぁ」と思い出される方も多いと思う。
 聖母マリアは処女でありながら妊娠し、イエスを出産すると飼い葉桶に寝かせた。ちょうどその頃、東方の国の三人の博士は、夜空の星を見て、「救い主」が誕生した、ということを知った。三人が星に導かれて行くと、イエスとマリアのいる所に到着した。三人は幼子イエスにたいしてお祝いの品をプレゼントし、祝辞を述べ礼拝して去っていった……あの物語である。
 幼稚園だったか小学校低学年だったか、私はこの場面をクリスマス会の折にやらされたことを思い出す。場面に合わせて「♪もーろーびとー こぞりーてー」と合唱する側にいたこともあった。とすると、二回のクリスマス会の児童劇で「東方の三博士」に関わって過ごしたのか……。
 ついでに言うと、クリスマスツリーの先端にある星は、博士たちを導いたとされる星をシンボライズしたものである。

☆「東方の三博士」の訳語

 ここから「マタイ」の引用に進みたいが、まだまだそれに先立ってご承知いただきたいことがある。実は、『聖書』原文では明確に「三人」とはしていないのだ。ただ、古くから慣例的に三人とされていて、ゴシック時代の壁画「三博士礼拝」(サン・ミケル礼拝堂/フェレール・バッサ作)など、博士たちを三人として描いている。映画等で使われるときも必ず三人である。これは『聖書』に、博士たちが持参した贈り物が三つだった、とあるのが、後に人数に変化したのではないかと言われている。また最新の『聖書』の翻訳では、博士たちとは呼ばず、占星術の学者たち、という訳語を当てている。その根拠に当たってみると、さほど深い理由はなかった。実際、博士でも、具体的な「占星術の学者」でも、読むに当たってはどちらでも支障はないが、ここは最新の翻訳にしたがって、「マタイ」を引用する。ざっと読み流すことでもいいから、ここはちょっと付き合ってほしい。

☆物語の内容

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることなっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。」(中略)
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。ところが「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

☆九星とは

 この、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て云々以下の話は、ずばり「易学に根差した九星(きゅうせい)の理論」で加工されている。「イエスの誕生した年は西暦元年に当たる年であった」と暗示しているのである。
 こういう芸当をやってのけるのであるから、『聖書』の編集・執筆者たちはタダモノではない。直ちに解説に進みたいが、その九星についての補足説明をしておかないと、多くの読者は戸惑われるであろう。
 以下はその補足説明であるが、九星とは易学体系の一ジャンルに位置づけられ、現代では、例えば易で判断した結果「大きく行動する必要がある」と読み取れた場合、ある年、ある月、ある日に応じて、どういう方向へどういう経路をたどって、いつまでに行動すべきかを、具体的に知るために使う。もちろんこれが九星のすべてではなく、様々な応用領域があるのだが、ここではこの範囲に説明を止めておく。易本体の論理で課題を判断することを総論とすれば、九星による判断は各論に当たる。
 九星はまた「気学(きがく)」というなんだか格調高そうな名前で呼ぶ一派もある。町場の占い師の中には、看板に「易」という字も書いておきながら、実際は九星(気学)でしか占わない場合もある。易を展開するには熟練を要するのに対して、九星単独での使用は、暮らしの中のありふれた課題「恋愛、結婚、旅行、金銭……その他」について、まあまあの判断程度なら下せる。その手軽さのために九星の単独使用が見られるのである。

☆九星は古代の理論を簡略化した占いである

 ただし、現代に伝わる九星それぞれの呼び名は、日本では平安時代の文献で確認できるようだが、中国でいつからあったのかは判然としない。しかしその理論の基本は、易の本である『易経(えききょう)』の「繋辞上伝(けいじじょうでん)」の中で触れられている「洛書(らくしょ)」の数理であって、その数理にしたがって神々が一年毎に九宮(きゅうきゅう)を巡るという論理が、『易緯乾鑿度(えきいけんさくど)』や『黄帝九宮経(こうていきゅうきゅうきょう)』といった本に書かれていた。それを簡略化したものが、後に九星と呼ばれるようになったのである。
 これから話すことに最低限必要なことは、後に「九星」としてまとめられた範疇で充分なので、ここでは九星と呼んでおくことにした。

☆数字配置に特徴

 九星とは夜空にまたたいている星々のことではない。下に示す図1-Aを見てほしい。ここには一から九までの数字がある。これはご存知のように、数学で魔方陣と呼ばれるものである。
 この数字配置の特徴は、一の隣はニ、ニの隣は三というように、見た目に整然としたものではなく、一から順にたどってみると、図1-Bのように、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。古代人にすれば、何やら神秘的な意図で操られているかのように思えたのであろう。その数字の動きこそ吉凶を知る手がかりであると見て、この数字にそれぞれ名前をつけて「星」と呼び、その位置を順に動かすことで、変化、移動、行動の意味を考えたのである。
 最初、中央に配置された数字は、次は下段右、以下順に中断右、下段左、上段中央、下段中央、上段右、中断左、上段左となり、中央に戻る。九回の移動で一巡あるいは1サイクルとなる。
 これは、年、月、日の変化を、九年、九ヶ月、九日を一サイクルとして把握する場合に使う。中国の易学体系では、六十四で1サイクルの易六十四卦を軸にして、十で1サイクルの十干、十二で1サイクルの十二支、この両者を合わせて六十で1サイクルの十干十二支、そして九で1サイクルの九星を使用していることになる。

☆方位盤とその基本形

 九星では、数字に色を合わせて一白、二黒、三碧、四緑、五黄……のように表示しているが、ここで必要なのは数字だけなので、それは省く。詳しく知りたい場合は、九星による吉方凶方のページをご覧ください。
 図1のAとBには東西南北が記入してある。ただ、通常の地図と違って「東西」「南北」が逆に記載されている。「北を背にして南向きに立った」人が、この図を手元で見ながら、眼前にある実際の東西南北と照合できるように工夫した結果である。これを方位盤という。実際には八角形で作図し、もっといろいろな要素が書き込まれているのだが、ここでは必要最低限の情報だけに止めた。方位盤の基本形は五が中央にある形であり、九星本来の位置も、この基本形に示されている。

☆五=帝王の星

 少し説明すると、日本の天皇陛下は「即位の礼」に際しては、この方位盤を象徴する八角形の高御座(たかみくら)に着座する。このとき黄櫨染(こうろぜん)御袍(ごほう)(黄色い服)をお召しになる。これは天皇陛下=五黄(ごおう)=五と見立てるからである。由来はもちろん九星である。方位盤の基本形の中央は五である。
 各九星のうち、東、南東、南、南西、西、北西、北、北東の八方位に位置する八つの星は、易の八卦によって意味付けられている。つまり、東=三=震、南東=四=巽、南=九=離、南西=二=坤、西=七=兌、北西=六=乾、北=一=坎、北東=八=艮である。ただ、これを見てわかるように、易は八卦で九星は九つだから、中央の五だけは易学上の意味を与える卦がない。
 そこで五は他の八つの星を八方位にしたがえ、王たるに相応しい中央に配置するということで、特別に帝王の星という意味付けがなされている。中央=五=帝王である。

A方位を限定明記する怪しさ

☆他の箇所は地名と人名だけなのに

 いよいよ「東方の三博士」の易学的構造を、九星で検証してみよう。
 何よりも、前掲の文章で「東の方からエルサレムに……」「東方で見た星が」と、方位をわざわざ限定明記している点に注目してほしい。『聖書』の他の記述では人名と地名を明記するが、方位をいちいちい述べないのが普通だ。ここではそれらとは全く逆になっている。出発地名と学者名を伏せて方位だけになっている。
 う〜んクサイ。九星のニオイがプンプン漂ってくるではないか。九星は行動・移動を方位とリンクさせるが、この記述は直ちにそれを連想させる。怪しい。

☆学者たちの動き=九星の星の動き

 そこで、「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」の一文にある学者たちの「東→西」の動きだが、これは基本形で東にある「三」の「東→西」への移動を暗示している、と読み取ればどうなるのか。基本形で東にあった「三」が西に移動している年は、「一」が中央の年である。参考までに、「一」が中央の方位盤は上に提示した図1-Cに示してある。基本形の図1-Aとくらべてみていただきたい。
 すると必然的に、イエスの誕生年は方位盤の中央が「一」の年であった、と解釈せざるを得ないことになる。後ほど述べるが、方位盤の中央が「一」という「九で1サンクル」の九星上の時が、辛酉歳(かのととりのとし)という六十で1サイクルの十干十二支上の時と重複するのは、まれにしかない。だから、"イエス誕生年は、方位盤で「一」が中央の年であった"、とわかれば、それは西暦元年辛酉歳であった、ということと同義なのである。
 検証してみよう。今年平成30年=西暦2018年を暦の本で調べると、九星は九紫すなわち方位盤の中央が「九」の年となっている。ここから九年一サイクルで逆算してみる。単純な割り算だから計算の紹介は省くが、西暦元年は、方位盤の中央が「一」の年と出た。

☆易学のわかる人に伝わるような仕掛け

 つまり「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」の一文は、間違いなく、
 イエス誕生の年は方位盤の中央が「一」の年であり、辛酉歳でもあった、
 ということを告げようとしていたことになる。
 このさり気ないストーリー展開は、よほど九星に習熟している者でないと見逃してしまう仕掛けになっている。
 もしも「学者たち」ではなく「三博士」であれば、いっそう九星の「三」を印象づけられるが、「三博士」ではなくても前記引用文の終わりに「学者たちが持参した三つの贈り物」がある。これらによって、「三」が西に移動した年=「一」が中央の年=「イエス誕生年」の関係を、易学のわかる人には確実に伝わるような仕掛けになっている。
 なお、「一」が方位盤の中央にある年については、易学上の様々な意味が込められることもあるのだが、『聖書』では辛酉歳を補強・傍証するためにだけ、使われている。特に意味はないと考えて結構である。

☆九星上のベツレヘムの位置

 物語に織り込まれた九星の星の動きは、これだけではない。
 イエスが生まれたとされるベツレヘムは、エルサレムの南方約10kmに位置している。厳密にはエルサレムのやや南南西になるが、全方位を八分割して九星を割り振る方式を使う場合には南の範囲に入る。
 物語では、学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の居場所を、ヘロデ王に会ってたずねている。イエスは、誕生時点で、学者たちから「王」と呼ばれたことになっている。そして、すでに述べたように、易学では九星中の「五」を、「王」を象徴する星としている。
 すると学者たちは、ヘロデ王に新しい「五」の位置をたずねたことになる。イエス=「五」はベツレヘム=南にいる。図1-Cで「五」の位置を確かめてほしい。「五」は確かに南に位置している。ここにも九星の理論が貫徹している。

☆『ルカ』のベツレヘム

 このように物語の仕掛けがわかってしまうと、「イエスはベツレヘムで生まれた」は、事実かどうか怪しくなる。仮に事実であるとしても、物語にベツレヘムという地名をわざわざ挿入したねらいは、何としても、イエス誕生年=方位盤の中央が「一」の年、であることを強調するためであったと言える。イエスの誕生地をベツレヘムにしたのは、あくまでも方位盤に合致させたいからであったと理解できる。
 「ルカ」にもイエス誕生にまつわる長い話があり、そこではイエスがベツレヘムで生まれると共に、かつてベツレヘムで誕生したユダヤ建国の祖ダビデ王と、深い血のつながりのあることを繰り返し述べている。揺るぎない事実であればさらりと数行ですむのに、である。
 「マタイ」に話として組み込んだベツレヘムについて、「ルカ」においても言及すれば、後年になって易学的解読しようとする人が、「誕生地=南」に強い印象をもち、方位盤の中央が「一」だということをしっかり読み解くと見通したからなのであろう。

☆聖書神話の二面性

 易学を心得ているか、易学を心得た人物の影響を受け入れた『聖書』編集・執筆者たちが、「イエス誕生は辛酉歳の出来事だったのだ」と、未来のいつの日にか易学的に読み解いてもらえることを願っていたからこそ、いっそう確実に読み解いてもらうために、イエス誕生物語を「マタイ」に見るように加工した……私はそう考えている。
 表面的には、物語そのものがイエスの神聖性、神秘性にアクセントをつけ、本質的には「イエス誕生=西暦元年=辛酉革命年」論の補強をなしていることになる。『聖書』中の神話の多くは、すべてこういう二面性を備えていると見てよい。先をお読みになればなるほど、それを認めざるを得なくなるはずである。

☆二重安全装置

 易学的に物語りを展開していくと、どうしても暗喩・比喩が多くなる。そのように創られた物語であると、解読段階で頻繁な類推作業が必要になる。すると、ちょっとした手違いで読み解かれるべき事項が、読み解かれずに終わってしまう。読み間違えられてしまうこともある。
 その誤りを防ごうとすれば、補完的な物語を追加し、重ねがさね同一テーマを強調するのが良い。前ページで解明した「イエス誕生年=辛酉歳」に、この東方の三博士のような物語を追加すれば、易学を心得た者は、確信をもって"イエス誕生年=方位盤の中央が「一」の年=辛酉歳"を把握していけるのである。
 誤読を避けるための二重安全装置=ダブル・チェックというべきか。

☆歴史学の"正しい誤り"

 三博士が去ったあとの話に出て来るヘロデ王の死も、"イエス誕生年=方位盤の中央が「一」の年"を補完している。つまり、ヘロデ王の死亡事実は『聖書』に明記されていて、それを他の史料で確認すると、死亡年が西暦前四年以前だとわかる。西暦前四年の方位盤は「五」が中央の基本形の年である。その基本形では、「三」は東にあり、イヤでも東方の三博士を連想させる。すなわちここで基本形を呈示し、"三博士は方位盤の「三」ですよ"と示唆するために、ヘロデ王を登場させ、そこに注目がいくように仕組んだのである。
 ただし九星を知らなければ、記述どおりに受け止めて、イエス誕生年を西暦前四年とする誤った仮説が通ってしまう。歴史学はその"正しい誤り"を犯している。
 どうやら、「マタイ」を使って、編集・執筆者たちは、イエス誕生年が方位盤の中央が「一」であることを、しっかり発信したかったようだ。

☆ユダヤ民族気質にもマッチ

 九星の方位盤の中央が「一」は九年に一回巡ってくる。十干十二支の辛酉歳は六十年に一回巡ってくる。両者が重なり合う"方位盤の中央が「一」の辛酉歳"は、180年に一回しかない。つまり九と六十の最小公倍数である。180分の1の確率は偶然では片付かない。180年に一回の年を、なんとしてでもイエスの誕生年にしておきたいという執念によって、事実とは関係なしにイエスの誕生年は決定されている。
 したがって、「マタイ」のイエス誕生にまつわる「東方の三博士」の物語は、方位盤の中央が「一」の辛酉歳をモチーフに作られたのである。
 九星による「東方の三博士」の話の解読は、ここで終える。『聖書』編集・執筆者たちは、九星の論理で「マタイ」前段を組み立て、易学本体の論理で「ルカ」に示唆的に西暦元年の手がかりを残した。これで、イエス誕生年=方位盤の中央が「一」の辛酉歳=革命年=西暦元年を、後世において高い確率で、どうやら認知してもらえそうになった。
 「マタイ」と「ルカ」の二つに分散して、根拠を暗示したことは良かったのかもしれない。黙示的な伝承が好きなユダヤ民族気質にもマッチしたのであろう。

B易学のストーリー構成力を借りて

☆学者たちが帰ってから

 いったん易学を離れよう。そして、一般的に語られているイエスの歩みの一端を見ておきたい。まず、先の引用文につづく箇所をここで引用する。

 「占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」
 「さて、ヘロデ王は占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、ひとを送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」(中略)
 「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこへ行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという村に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれた』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」

☆以前からの指摘

 引用文の表向きのストーリー展開に関連して、六つの指摘が以前からあった。旧約聖書の内容にピッタリ照応するように、新約聖書においてイエスの歩みが説明されている……とする指摘である。
 旧約聖書の『創世記(そうせいき) 』には、イエスの名義上の父ヨセフと同名の人物が登場する。時代としては大昔のことである。そこからは長い長いストーリーになるので、それを圧縮・要約すると次のようになる。
〇 その大昔のヨセフはエジプトに売られ、それがユダヤ人の長いエジプトでの奴隷生活のきっかけとなった。(「創世記」)
〇 ユダヤ人はどんどん増えた。エジプトはユダヤ人が増えすぎると困るので、「ユダヤ人が生む男の子は川に捨てよ」と命じた。そうした中で、あるユダヤ人夫婦の間に美しい男の子が生まれ、夫婦は捨てずに川岸のアシの茂みに隠した。あの子は、エジプト王家の娘に見つけられ、娘は自分の一存で拾って育てた。(「(しゅつ)エジプト記」)
〇 その子は成長してモーセと呼ばれ、ユダヤ人を率いてエジプトを脱出した。そのとき、海が二つに割れるという神の奇跡の力を借りた。脱出の途中で、神から「十戒」を告げられ、それが長くユダヤ人の律法となった。(「出エジプト記」)

☆イエスの歩みに投影された「創世記」と「出エジプト記」

 この「創世記」と「出エジプト記」の中身が、新約聖書においてイエスの歩みにそっくり投影されている。簡単に紹介しておこう。
@ イエスは名義上の父ヨセフに連れられ、エジプトに難を逃れた。/「創世記」のヨセフは奴隷としてエジプトに売り飛ばされた。
A イエスはエジプトからユダヤの地に帰ってきた。/「出エジプト記」では、ヨセフの子孫モーセがエジプトを脱出してユダヤの地に戻ってきた。
➂ ヘロデは子どもを虐殺したが、イエスは神のお告げに助けられてその災禍を逃れることができた。/「出エジプト記」では、モーセ誕生の頃のエジプトは、ユダヤ人男子を捨てるように命じたが、モーセはその災禍を逃れることができた。
C 引用文にはないが、イエスは洗礼を受けた後に、「山上の説法」を行った。/「出エジプト記」では、モーセがシナイ山で神から「十戒」を授かっている。
D イエスの誕生地とされるベツレヘムは、引用文には出てこないが、ユダヤ建国の祖であるダビデ王の出身地であり、ユダヤ人にとって最高の王ダビデとイエスが、重なって映じるようになっている。
E やはり引用文中にはないが、イエスは神に自らを生贄とする意味を込めて十字架刑を受けた。/ユダヤ民族の祖アブラハムは、最愛の息子を神の生贄にしようとし、神はアブラハムの誠意を認めた。

☆異質な「ルカ」

 こう見てくると、アブラハム以降の要所要所は、イエスの短い生涯の中で全て体現・再現されたものとして、新約聖書においてイエスの生涯が描かれている。『聖書』編集・執筆者たちは、そう描くことによって、イエスの神秘性とユダヤ民族の頂点に立つ者(王)であることの二点を、クローズアップしたかったのであろう。
 そして、彼らの意図は、易学のストーリー構成力を借りて、首尾よく実現している。よくやれたものと感心する。
 もっとも、「ルカ」ではイエスの誕生に際して「東方の三博士」は出現せず、羊飼いたちがやってきて、飼い葉桶の中のイエスを祝福するだけである。その前後で、ダビデ王およびベツレヘムとイエスとの関係が深いことを、くどくど述べている。エジプト脱出もない。ヘロデ王の大虐殺もない。ここには、九星を応用してストーリーを組み立てた痕跡がない。僧院長ディオニシウスが、西暦元年案作成に際して根拠にしたほどの「ルカ」であるのに、これはどうしたことであろう。「ルカ」は異質である。

☆「ルカ」はユダヤ暦元年を計算するための標識

 本書には、西暦紀元やローマ建国紀元が出てくる他に、易学上の四種類の表記記号が出てくる。それによる読者の混乱を恐れて、これまで一切触れないようにしてきたが、実は「ルカ」の「飼い葉桶に寝かされた救い主」の物語は、ユダヤ暦元年を計算する上での、決定的な標識を成しているのである。
 そこへ易学上のシンボルとなる三博士の話を挿入すると、易学をわかっている人ですら混乱する。『聖書』編集・執筆者たちはそこを考慮して、九星の論理で構成する物語を挿入しないようにした……と思われる。
 「ルカ」は、西暦元年の根拠となる一方、ユダヤ暦元年を算出するための標識・根拠を「飼い葉桶に寝かされた救い主」の物語を設定・挿入することによって、示しているのである。

☆びっくり仰天のはず

 それによって「ユダヤ史との連続性を主張しつつ、ユダヤの歴史を革新する」というキリスト教側の意図を具体化している。なかなか歴史意識にたけた編集・執筆者であったらしい。だから、私としては、触れないようにしてきたユダヤ暦も、俎上にのせなければならなくなった。
 「ルカ」の「飼い葉桶……」がユダヤ暦元年を算出する標識となっていると書けば、古今東西の聖書学者はびっくり仰天するはずである。そればかりでなくユダヤ教の僧侶たちも仰天するはずである。
 ユダヤ暦元年は西暦紀元前3761年とされているが、こんな厳密な数字で示さる年でありながら、その根拠を誰も知らないままでいる。易学はその根拠を明快に説明できる。ただ、長くなるので、これについてはもう少し後で改めて述べることにしたい。

☆僧院長ディオニシウスとの関係

 本章の最後に、本章冒頭で問題提起した僧院長ディオニシウスと「マタイ」との関係について答えよう。以上の九星の論理の展開をご覧になってわかるように、非漢字文化圏の人々にてっては、九星の把握は困難である。
 そのため、編集・執筆者たちは、
 「ローマ建国紀元754年がイエス誕生年であり、時代が過ぎ時が至れば、新しい元年の年とせよ、「ルカ」に記した"ローマ皇帝ティベリウスの在位15年目に洗礼を受けた"を根拠にせよ」
 を、代々の伝承(本稿では封印Xとも呼んでいる)に仕立て、ローマ教会のトップ・エリートたちは、それを口伝・相伝によって引き継いだ……と、私は推定している。
 「マタイ」に展開した九星の論理に、僧院長ディオニシウスが全く気づかなかったことは当然であり、編集・執筆者たちは、気づかないことを想定していたのである。

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V 聖母マリアの処女懐胎物語は、司馬遷『史記』のコピーである〜中国文化の影響は易学以外にも見いだせる〜

も く じ

〇ごあいさつ

T イエスの誕生年=西暦元年は、 易学の論理で「革命の年」に設定された
@『古事記』『日本書紀』のトリックと西暦元年
 Aまるで説明がつかないローマの見解 B史上初の西暦元年成立論となるか C旧約と新約の要点

U 「東方の三博士」の話には、易学に根ざした九星の論理が貫徹していた!
@九星という年回りを確定する技術
 A方位を限定明記する怪しさ B易学のストーリー構成力を借りて

V 聖母マリアの処女懐胎物語は、司馬遷『史記』のコピーである〜中国文化の影響は易学以外にも見いだせる〜
@多くの人から疑われていた
 A『史記』解釈上の新発見か B墨子の思想はキリスト教と似ている

W 「ユダヤ暦元年」算出根拠は、まさに易学そのものに依っている〜易学の卦を絶妙に展開して文章化している〜
@ユダヤ暦元年を算出する糸口
 A中国人編集アドバイザーを想定すると B徹底的に易学で組み立てられている C序次24地雷復を絶妙に展開して D易学とは何か

X 天地創造の六日間は、序次1〜14と完全に合致している〜『聖書』全体を易学で読み解くべきことを示唆〜
@読み解いて拍子抜けする
 Aアダム930歳の出どころ B一度に三つのメッセージ

Y ノアの箱舟神話は、「新しい時代の始まり」を告げていた〜洪水神話の易学的構成〜
@ノアの家族構成が示すもの
 A絶妙な連動性

Z 太祖たちからイエスにつながる系譜は、十字架そのものを暗示している〜アダムたちの法外な長寿の秘密〜
@太祖たちの法外な長寿
 A重大な秘密が仕掛けられていた

[ 「過ぎ越しの祭」も「出エジプト」も易学的に構成されている〜十字架はイエスの処刑を意味していない〜
@「出エジプト記」は易学で加工されている
 A海が二つに分かれる卦 B十字架は宗教支配の理想的な姿を象徴

\ イエス処刑に至る『聖書』の記述は、『易経』の丸写しであった〜『聖書』は西暦300年代に書かれた〜
@「ペトロが三度拒むと鶏が鳴いた」の卦
 Aすべてがフィクションであった B『聖書』は西暦300年代に書かれた

エピローグ
@なぜ『聖書』を偽作したのか
 Aみなさまからいただいたメッセージ

蛇足〜なぜ私は『聖書』に興味を持ったのか
@母と共益商社とGHQ
 Aキリスト教会に通ってみたら…… B「イマジン」が教えてくれた反キリスト教精神 C男尊女卑は神が決めた! Dオー・マイ・ゴッドの意味〜人間は神の奴隷? E「プリズナーNO.6」〜キリスト教信者は囚人と同じだ! F私の曾祖父は易者だった G人を救うのは真理ではなく、真実だ!

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