A海が二つに分かれる卦
☆雷山小過を変化させてみる
仕掛けを明かそう。
まず、"奴隷生活の430年の終わりに「過ぎ越し」があり、それによりイスラエルの民は旅に出た"というストーリーの骨格を、しっかり念頭に置いてほしい。さらに、430年という数字は、前後のストーリーとは何の脈絡もなく唐突に挙げられたもので、神学でも意味不明としていることも念頭に置いてほしい。
次に、説明を省くが、これは序次62雷山小過を中心にした時間の経過による卦の変化に照応しているのである。過去・現在・未来に分けて卦を展開していくのである。
どういうことか。
図12を見ていただきたい。
イ まず、序次62 雷山小過を、過去・現在・未来の「現在」に位置付ける。
ロ 序次62の卦の図形の底の陰 を、陽 に変化させると序次55 雷火豊となり、これを「過去」に位置付ける。中心的な意義は「昼過ぎて傾く太陽」。
ハ 序次62雷山小過の卦の図形の上辺の陰 を陽 に変化させると序次56 火山旅となり、これを「未来」に位置づける。中心的な意義は「歓迎される謙虚な旅人」。

☆430年のでどころ
すると、次の事が明らかになる。
1 「過ぎ越し」の過去である55雷火豊を、八卦と数の関係によって数字に置き換えると、4と3の組み合わせになる。これで430年の出どころがハッキリした。
2 「過ぎ越し」の未来は、安住の地を求める旅であった。62雷山小過の上辺を変じて未来に位置づけた56火山旅も文字どおり「旅」を意味している。
3 62 雷山小過は、構成する記号を二本で一本と見なして坎の意味も含むとされ、その坎には身体の中を流れる液体として「血」の意味があるから、物語にある"神はイスラエルの民の家の戸口にある血の目印を過ぎ越した"に照応する。図13A。なお、二本で一本であることから、俗に大坎とも呼ばれ、同様に、19 地沢臨は大震、20 風地観は大艮、33 天山遯は大巽、34 雷天大壮は大兌、61 風沢中孚は大離と呼ばれてもいる。

☆「海を二つに分ける」卦
さらにXーBの辛酉革命を示す卦の説明で披露した裏卦を使う。文字どおりオモテの卦の六本の陰陽をすべて逆にした卦である。本来に位置づけられた序次50 火山旅の裏卦は序次60 水沢節となり、中心的な意義は「節度をわきまえて」となる。これが、有名な「海が二つに分かれる」物語の下地なのだ。
説明しよう。物語では、「過ぎ越し」でエジプトを脱したイスラエルの民が、安住の地を求めて旅する途中で海辺に追い詰められたのであるが、神は海の水を分けて道を通し救っている。60水沢節の形を見ると、上は坎で水、下は兌で「分ける」という意味があるから、中心的な意義の「節度をわきまえて」を拡大発展させた「水を分ける」に到達する。すなわち、海が分けられたのである。図13B。
映画のあの大スペクタクル、『聖書』に初めて触れた頃に抱いた神の奇跡のイメージが、実はこんな仕掛けから生まれていたのだ。私は今、なんだかヘナヘナと脱力する感じで書いている。キリスト教を批判的に見ていたとしても、それは教義に対してであって、物語としてはそれなりに評価していたのだが、そんな『聖書』に寄せていた想い、それもここまで進んできても、なおかつ残っていた夢が、木っ端みじんに吹っ飛んでしまった。
もしかすると、ユダヤ民族それぞれにキリスト教徒の共同幻想の源が、この『聖書』解読作業によって蒸発してしまうかもしれない。
☆史実であったとしても
それはともかく、この物語は、潮の干満によって海底が現れたり沈んだりする自然現象を、古代人が神業だと恐れて作り上げた伝説ではないかとも言われてきた。しかし、仮にそういう伝説をヒントにして作られたとしても、火山旅→水沢節によって、易学的な意味の連続性が、明確に担保されているのは確かである。
また、「過ぎ越しの祭り」という祭事は、「出エジプト記」以降、旧約・新約のいずれにも頻繁に出て来る。そうなると、アドバイザー氏らが『聖書』を編集・執筆した時点よりずっと昔から「過ぎ越しの祭り」はあったはずであり、アドバイザー氏の創作への関与はあり得ない……こういう指摘もあるであろう。また、歴史学では西暦紀元前1230年にモーセらの出エジプトがあったとしている。ただし、海が二つに分かれたとまではしていない。
これらについての答えは、「出エジプト記」を創作する際に、歴史上の実際にあった事実や既に成立していた祭事神話を敷衍・応用・展開し、やはり易学的に意味の連続性を確保した……となる。
☆イエスの立場を示唆している
裏卦は、オモテの卦が示す事象に付随するエピソードというニュアンスを持つ。海の水を分けて通したというのは、確かにモーセたちの旅の途中のエピソードだった。
だがしかし、「ほ〜ら、易学で解読すると、出エジプトも、こんなことだったと分かるでしょ。以上でオシマイ、シャンシャン」で済む問題ではない。いったい何のためにこんな手の込んだことを、アドバイザー氏は仕掛けたのであろうか?これが最大のナゾである。
今のこの時点で視野にチラついているのは、序次28 沢風大過=「背負った大きな荷物」がイエスの立場を示唆していることである。
「過ぎ越し」の「過」、沢風大過の「過」、雷山小過の「過」とあるように、「過」の字に意識がどうしても行く。おそらくアドバイザー氏はイエスの「背負った大きな荷物」を展開するに先立って、「出エジプト」の物語を創作して「過」の字に徹底的に注目させようとしたのであろう。
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