未 読・晴購雨読・つん読
24.08.24
「Mac等日記」
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未読・晴購雨読・つん読 2019.12
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未読・晴購雨読・つん読 2020.06
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未読・ 晴購雨読・つん読 2022.12
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松木武彦「古墳」
吉村生・高山英男「暗渠 マニアック! 増補版」
トラヴィス・バルドリー 「伝説とカフェラテ 傭兵、珈琲店を開く」
中村明一「日本音楽の構 造」
ジャック・ロンドン 「ザ・ロード アメリカ放浪記」
村上修一「本地垂迹」
カルロス・ルイス・サ フォン「マリーナ バルセロナの亡霊たち」
戸矢学「ヒルコ 棄てら れた謎の神」
夏来健次編「ロンドン幽 霊譚傑作集」
橋口侯之介「和本への招 待 日本人と書物の歴史」
劉慈欣「流浪地球」
宮田登「新版 都市空間 の怪異」
リチャ−ド・マシスン 「奇蹟の輝き」
三角寛「山窩奇談〈増補 版〉」
J.R.R. トールキン「最新版 シルマリルの物語」
春日武彦 「奇想版 精神医学事典」
丹治愛 「ドラキュラ・シンドローム 外国を恐怖する英国ヴィクトリア朝」
ジェラル ディン・ブルックス「古書の来歴」
河添房江 「紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語」
徳井淑子 「中世ヨーロッパの色彩世界」
紀田順一 郎「古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿」
フレド リック・ブラウン「死の10パーセント」
井原忠政「三河雑兵心得 足軽仁義」
山 口仲美「日本語が消滅する」
松木武彦「古墳とはな にか 認知考古学からみる古代」
フランチェスカ・ T・ バルビニ&フランチェスコ・ヴァルソ「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」
南鶴渓「文字に聞く」
劉慈欣「円 劉慈欣短 篇集」
柳宗悦「民藝図鑑」第 一巻
京極夏彦「遠巷説百 物語」
後藤総一郎「神のかよ い路 天竜水系の世界観」
伊藤典夫編訳「吸血鬼 は夜恋をする」
岡村青「世界史の中の 満州国」
ケン・リュウ編「金色 昔日 現代中国SFアンソロジー」
石井正己編「菅江真澄 図絵の旅」
ジェラルディン・マ コックラン「世界のはての少年」
神永曉「辞書編集、三十 七年」
夏来健次 編「英国クリスマス幽霊譚傑作集」
24.08.24
・
松木武彦「古墳」
(角川文庫)を読んだ。といふより見た。前著「古墳とは何か」に続く書である。基本的 に、写真とその説明が見開き2 頁に収められてゐる。読むより は見る方が多い。うつかりする とポイントを見逃してしまひさ うである。しかし、そのポイン トをきちんと見ていくと、第1 部「いろいろな形の古墳」、第 2部「古墳の歴史をたどる」、 第3部「古墳はどう変わった か」のそれぞれが分かるやうに できてゐる。前著でははつきり しなかつたところも本書では写 真付きで分かり易くなつてゐ る。筆者が同じであるから、書 いてあることに違ひはない。本 書を先に見てから前著を見るの もありであらう。松木氏の基本 的な立場は、「『古事記』や 『日本書紀』といった日本語の 資料から古墳の歴史を読み解い ていく姿勢が、いまの古墳研究 のもっぱらの道筋となっていま す。(中略)しかしこれから は、そればかりを追求しても、 古墳の歴史的研究は一元的・部 分的にしか理解されず、結果と して、ピラミッドや皇帝陵との 人類学的比較はむずかしいで しょう。(中略)この本の大き な目的は、それを可能にする、 古墳のさまざまな見方やとらえ 方の新しい提案です。」(「は じめに」4〜5頁)といふこと である。より分かり易く言へ ば、「いまおこなわれているよ うな(中略)作業とは異なる視 点で古墳を見ていきたい」(5 頁)ので、「大きくて有名な前 方後円墳のみではなく、小さく ても個性をもっていたり、近畿 の大王墓とはまったく異なる景 観を見せたりする日本各地の古 墳を、たっぷりと紹介しま す。」(同前)さうして「古墳 が一貫して『秩序』や『体制』 や『国家』の表現や反映であっ たわけではないことを考える起 点にしたいと思います。」 (5〜6頁)そんなこともあつ て本書は写真が中心となるので ある。
・「古墳の出現・発達・衰退・ 消滅は、日本列島の歴史でもあ るし、東アジアの歴史、ユーラ シアの歴史、そして人類全体の 歴史でもあります。」(67 頁)とはじまる第2部では、古 墳はモニュメントの一つとして 位置づけられる。「日本の特徴 は、このモニュメント、すなわ ち古墳の巨大さと数の多さ。そ の解明こそは、これからの古墳 研究の最大の基本的課題であ る。」(68頁)といふこと で、ストーンサークルや朝鮮半 島の王墓、ピラミッド等が出て くる。ポイントは、朝鮮半島の 古墳は「墳墓の多くが、地面に 棺を設けて主人公を深く葬」 (85頁)つて墳丘を築いたの に対し、日本では「主人公の遺 骸をできるだけ天に近いところ に位置づけるため、墳丘を山の ように高く築き、頂上を尊い広 場にし、そこに棺を捧げて儀礼 の核としたのである。」(同 前)といふ点である。これで日 本の古墳は高くなつていく。し かも「前方後円墳の主人公は、 世界観の中では最高位の神であ り、世俗的には大氏族の長や王 として演出された。」(89 頁)古墳の主は神であつた。死 して神になるといふ考へは古墳 の最初からあつたらしい。それ ゆゑに、逆に神から人への変化 は第3部の「古墳を彩る美しい フォルム」や「モニュメントか ら多様な墓へ」で述べられる。 ここで横穴式の石室が出てく る。私は古墳といふとこの羨道 と石室を思ひ出すが、これは6 世紀以降であつた。石室出現に より「天空のスロープも」 (128頁)円筒埴輪も埴輪配 列もなくなる。豊橋の馬越長火 塚古墳(178頁)もこの時期 に当たる。と書いてゐたら既に 字数が尽きかけてゐる。要する に、死者は神、最後は人に戻つ ていく。この道筋が古墳でたど れるのである。これだけでも本 書を見るに値すると個人的には 思ふ。古墳は墓である。しかし その意味は時代的に変遷してゐ る。おもしろく分かり易い書で あつた。
24.08.10
・ 私が
吉 村生・高山英男「暗渠マニアッ ク! 増補版」
(ち くま文庫)を買つたのは暗渠好 きだからではない。暗渠とはお もしろさうだといふ程度の興味 からであつた。つまりはいつも の本を買ふ理由と大差ない。と ころが買つて目次を見て驚い た。本書の増補の1つ、第7章 「新たな観光資源としての暗渠 探訪」の3つ目に「水上ビル、 酒と肴と水路と人と 愛知県豊 橋市」といふのがあるではない か。「新たな観光資源としての 暗渠」である。あれはさういふ ものになりうるのか。かういふ 見方もあるのだと思つたもので ある。この一編で本書は、私に はおもしろい本だといふことに なつた。
・水上ビルと言へば豊橋市民な ら知らない人はないはずであ る。その名の通り水上に建つビ ルである。水上と言つてもそこ が暗渠である。用水の上に蓋を してビルが建つてゐるのであ る。「水路の上に被さっている すべてのものを、『暗渠蓋』と 呼んでいる。暗渠蓋はコンク リート製の板であることが多い が、時たま、想像の斜め上をゆ く物件と出会うことがある。と りわけ驚かされたのは、『ビル 蓋』だ。」(271頁)このビ ル蓋は3棟あつて、「その蓋の 名は豊橋ビル、大豊ビル、大手 ビルで、あわせて通称『水上ビ ル』、その長さ800メートル である。」(同前)当然「てく てく歩いてゆけば、ビルの合間 に橋が残されている。」(同 前)これを吉村氏は「類を見な い珍景だ。」(同前)と書いて ゐる。私などは子供の頃から見 てゐるから、「珍景」と言はれ ても全くピンとこない。下に水 が流れてゐるのだから、橋があ つて当然だと思つてゐた。本書 にはこの類の橋の名残がいくつ か出てゐるが、その中でも珍し いものであるらしい。「一昔前 は、豊橋のみならず全国に水路 上建築物の事例はあった。(中 略)現行の法律では、水路の上 に建物は建てられない。つま り、その建物が消えれば、二度 と水上に建つことはない」(同 前)といふ。言はば水上ビルは 絶滅危惧の暗渠蓋である。さう いふものだとは知らなかつた。 そんなに珍しいものではない、 ごく普通の風景だと思つてゐ た。ところがさうではないので ある。本書を読むまではそれを 知らなかつた。探せば地元の人 の書いたこの類の文章等もある と思ふが、それにしてもかくも 珍しいものであるとは。あれは 「珍景」であつたのかと思はず 納得してしまつたのである。水 上ビルに関する簡単な説明もあ る。下の用水に水は流れてゐる といふ。「今は田んぼが減った ので、少しずつずっと流れてい る」(274頁)さうである。 開渠部の用水を見ると「少しず つ」かどうかは分からないが、 確かに需要期以外でも水は流れ てゐるらしい。と、まあ、水上 ビルのことを書いてきたのだ が、実は豊橋駅近辺の暗渠はこ こだけではないといふのが私の 更に知らなかつたことである。 「新幹線を降りてすぐ、西口の 飲み屋街を見にゆき、そして違 和感を覚えた。」(同前)とあ る。豊橋では西口と言はずに西 駅である。この駅から見て右側 に飲み屋が並んでゐる。ここが あやしいと言ふのである。私は 名古屋へ行く時、こちらの駐車 場を使つてゐた。だからこのあ たりはよく知つてゐるつもりな のだが、暗渠のことを知らない ゆゑに違和感を覚えたことはな かつた。ところがさすがプロ、 いやマニアの吉村氏、1度でそ れを見破つたのである。「微妙 な曲がり方に地面の盛り上がり (中略)わたしの嗅覚が正しけ れば、下に川があるはずだ。」 (同前)といふことで、暗渠 蓋、ここは普通の蓋である、を 見つける。このあたりの嗅覚は さすがである。と書いてゐたら 字数が尽きた。暗渠はかくもお もしろいの1例である。観光資 源としての水上ビル、最近の流 行りであつた。
24.07.27
・
トラヴィス・バルドリー「伝説とカフェラテ 傭兵、珈琲店を開く」
(創元推理文庫)を読んだ。主人公を ヴィヴといふ。これが傭兵で珈 琲店を開くのである。それだけ の物語と言へば確かにそれだけ である。傭兵と珈琲店が似つか はしくないと思へたのだが、そ れも読んでいるうちに変はつて いく。似つかはしくないといふ のには理由がある。普通、かう いふ小説の傭兵はヨーロッパ中 世あたりがモデルだと思ふのだ が、そんな時代に傭兵が喫茶店 を開くのかといふことが一つ、 今一つはヴィヴがオークである といふこと、つまり、この物語 世界は他にノーム、エルフ、ド ワーフといつた妖精譚にお決ま りの登場人物(?)がゐるのみ ならず、それ以外にサキュバス とかも出てくる、言はば見事な 妖精譚の世界なのである。しか もオークとは何かと言ふと、分 かり易く言へば、「指輪物語」 の敵役であつた。別名ゴブリン である。本作中にゴブリンが出 てこないのはオーク=ゴブリン だからであらうが、もしかした らゴブリンでは直ちにその悪役 面を見抜かれてしまふからでも あらうか。珈琲店主がゴブリン ではイメージが違ふと言はれさ うである。そんなわけで私は最 後まで楽しく読んだ。基本的に 物語は開店準備から開店、そし て新装開店となつて終はるだけ である。ただし途中で邪魔が入 る。傭兵仲間が幸運の石を、珈 琲店に繁栄をもたらした石を盗 りに来るのである。ここだけは つまづくが、他につまづきはな い。実にスムーズに店は繁盛す る。
・読み終はつたところで「訳者 あとがき」を読む。すると1行 目から「おなじみの種族がごく 普通に暮らしている世界。女 オークのヴィヴは」(391 頁)とあるではないか。正直な ところ驚いた。えつ、ヴィヴは 女だつたの? である。この頁 の最後にも「珈琲と本を愛する オークの女性のヴィヴ」(同 前)とある。女性のエルフは結 構ゐると思ふのだが、女性の オーク、ゴブリンとなるとどう なのであらう。しかも、訳文の せゐか、私はヴィヴが女性であ ると気づくことはなかつた。こ こまでずつと男性だと思つてゐ た。サキュバスのタンドリはい づれ恋人といふ関係になる女性 だと思つてゐた。敢へて言へ ば、タンドリと同衾する場面 (271頁)も、女同士である とは思ひもしなかつた。男女で こそ意味があると思つてゐた。 ところがさうではないのであつ た。女同士だからこそ同衾でき たのであるらしい。作者として はこのあたりをはつきりさせな いでおくことで、私のやうな勘 違ひを誘発させたかつたのかも しれない。訳者もその意図を汲 んで言葉遣ひを女性的にせずに 男性とも思へるやうにしたのか もしれない。傭兵仲間のガリー ナは女性的な話し方(15頁 他)である。間違へることはな い。これもまたひつかける訳で あつたのかもしれない。結局、 この物語の主人公ヴィヴが女性 であること(を隠してゐるこ と)はオークと関係あるらし い。作者が「意図的に定型をも じっていることに気づくのでは ないだろうか。」(391 頁)、つまり「指輪物語」の オークがここでは「珈琲と本を 愛する」女性となり、それゆゑ に珈琲店の店主となつてゐるの である。こんなゴブリン見たこ とない、正にかういふことであ る。これなら人間でも良いとい うのは野暮といふものであら う。さういふ妖精世界だからこ そ、こんなオークを悪者としな い設定も生きるのである。本書 には最後に短編「出会い」がつ いてゐる。これを読んでもヴィ ヴは女性的ではない。しかし最 後の、初めてヴィヴが喫茶店に 入つた時に言はれた言葉、「ご 注文は、ご婦人?」(385 頁)でやつと分かつたのであ る。いはば、本書は妖精譚の冒 険世界のパロディーといふとこ ろであらうか。
24.07.13
・
中村明一「日本音楽の構造」
(アルテスパブリッシング)は言つてゐることは単純だが、その内容は簡単とは 言へない。「日本音楽に顕著な 要素は次の七つです。」(21 頁)として、「a微小音量 b 各要素の微小変化 c整数次倍 音の変化 d非整数次倍音の変 化 eリズムの自由性 f音楽 の言語性・音響性 g各要素の 複合性・『間』」(同前)を挙 げ、逆に「あまり発展しなかっ たものが、次の三つの要素」 (23頁)だとして、「h音量 の変化 iハーモニー j構 成」(同前)を挙げる。この7 つを曲、音楽に合はせてひたす ら強調するのが本書である。だ から言つてゐることは分かり易 い。問題はそれをどの程度実際 の音として理解できるかであ る。つまり、本書にCDや動画 はついてゐない。日本の音楽を 手元で聞くことのできない人に は、例へば神楽が「屋外など広 い場所で行われることが多い (中略)などの理由で、a微小 音量 b各要素の微小変化 f 音楽の言語性はそれほど多くな い。整数次倍音が優勢。声のd 非整数次倍音の変化はそれほど 多くないが、打楽器を使うこと が多いのでd非整数次倍音の変 化全体としては多くなってい る。(原文改行)c整数次倍音 の変化 d非整数次倍音の変化 eリズムの自由性などが多く なっている。」(170〜 171頁)と言はれても、これ を音として感じることのできる 人がどのぐらゐゐるのか。神楽 ならまだ良い。雅楽、声明、琵 琶楽、あたりはどうなのであら う。浄瑠璃の義太夫節、一中 節、常磐津節、清元節、新内節 の方が分かる人が多いか、少な いか。いづれにしてもここで言 及される要素を音として感じ る、あるいは確認できる人がど のぐらゐゐるのか、これは甚だ 心許ないと思ふ。私自身はこれ を確認できるだけの音、音楽 を、実は、持つてゐる。本書の 著者、中村明一は尺八演奏家で ある。この人の演奏も探せば出 てくる。尺八をほとんど知らな いから、曲名を見ても読めなか つたりする。それでもこの人の 言ひたいことはかういふことで あらうと見当をつけることはで きる。さういふことの繰り返し で実際の音と7つの要素が結び ついたやうな気になれる。これ ができてこその本書であらう。 それなのにさういふ音を具体的 に用意してないのは本書の最大 の欠点である。いや、もしかし たら本書の読者として、さうい ふ実際の音を聞くことができな い人間は想定されてゐないので あらうか。あるいは第二章「日 本音楽各論」の「3 現代の音 楽、J−POPと日本伝統音楽 との関わり」で、美空ひばりや 森進一、桑田佳祐、椎名林檎等 に触れ、「特に日本の伝統と強 い結びつきを感じるのは桑田佳 祐と椎名林檎。」(244頁) と言つて具体的に7つの要素と の関連を述べてゐる。これで代 用せよといふのであらうか。
・私はかういふ内容の書を読む のは初めてであつた。ある意味 衝撃的であつた。しかも先の7 つの要素の具体的な様から、 「じつは日本の音楽は、世界で 最も特殊な音楽です。(中略) 他の国の音楽と少し異なったシ ステムを持っているということ です。」(20頁)と言ひ、 「日本の音楽は人類にとって未 来の音楽とも言えるのです。」 (同前)と言はれても直ちには 信じ難いものがある。氏はそれ を本書で具体的に述べてゐる。 最後の日本の音楽状況の分析に は納得できるものがある。氏は 音楽の指導要領策定にも関はつ てゐるといふ。理論や創作で触 れたことを実際にそこで述べた のかどうか。私には納得しがた い部分もあつたが、これが実際 の演奏家とただの愛好家の違ひ なのであらうか。本書は珍しく 理論的な書である。そして、こ の衝撃は実際の音を伴つてこそ のものである。音つきにしてほ しかつた。
24.06.29
・
ジャック・ロンドン「ザ・ロード アメリカ放浪記」
(ちくま文庫)を読んだ。私はジャック・ロンドンを 「野性の呼び声」と「白い牙」 でしか知らない。日本で有名な 作品である。動物文学作家だと 思つてゐた。しかしさうではな いらしい。海外文学に対する無 知である。作家といふもの、そ んな単純なものではない。 ジャック・ロンドンは40年の 生涯の「20年間に53冊の著 書と200以上の短編小説を発 表した。」(Wiki)さうで ある。結構な量である。この 「ザ・ロード」もその1つ、か なり読まれたらしい。「ホー ボーとしての経験が書かれたこ の本は、その冒険物語があまり に魅力にあふれていたので、当 時、彼の真似をしてホーボーに なろうと家出する少年達が増え た。」(川本三郎「訳者解説」 269頁)さうである。当然、 ホーボーのことは書いてくれる なともゐはれた(同前)とい ふ。このホーボー、「決して社 会的落伍者ではない。むしろ中 世の吟遊詩人たちのような自由 な放浪者という面が強い。」 (266頁)とか、「移動性を 重んじるアメリカ社会から生ま れたひとつの文化英雄である。 決して社会から見捨てられた哀 れな浮浪者ではない。」 (267頁)と訳者は書いてゐ る。「たとえ貧しくとも、社旗 的束縛から解放されて自由気ま まに生きることが出来るアメリ カン・ヒーローである。あの山 高帽にだぶだぶスボンという チャップリンの放浪者のイメー ジが云々」(同前)とくると、 チャップリンもまたそんなヒー ローの1人であつたらしいと気 づく。ホーボーはそれほど魅力 的な存在であり、ロンドンはそ れを更に魅力的に描いたのであ つた。
・どれほど魅力的か、これは目 次を見ればよく分かる。本書は 全9章、「貨車のすきまに」 「食卓の幸運」「鞭打ちの光 景」「刑務所の生活」「作業所 の囚人達」「最高の放浪者」 「ロードキッドの社会学」「二 千人の放浪者の行進」「デカの 追跡」からなる。これからする と本当に「文化英雄」とか「ア メリカン・ヒーロー」とか言へ るのかと思つてしまふ。「最 高」や「社会学」「行進」を読 んでも、他は当然として、魅力 的ではあつても、私にはそこに 英雄やヒーローがゐるとは思へ ない。Wikiには、「アメリ カで19世紀の終わりから20 世紀初頭の世界的な不景気の時 代、働きながら方々を渡り歩い た渡り鳥労働者のこと。ホーム レスのサブカルチャーの一員。 」(「ホーボー」の項)とある が、ホーボーは基本的に、訳者 の言の如く、「社旗的束縛から 解放されて自由気ままに生き る」者達であつたらしい。アメ リカでは「旅すること、移動す ることは生活の一部になってい る。」(266頁)のだが、 「一カ所に定住することを大事 にする農耕民族の日本人」(同 前)にはそれは理解し難いのか もしれない。それでも、現在の 人間は、ホーボー生活は実に大 変ではないかと思ふ。最後に 「写真資料」(279頁〜)が ある。いかにスピードが遅いと はいへ、貨車の下にもぐつた り、屋根の上を歩いたり、連結 器上に登るなどといふのは危険 である。私からすれば、命の危 険を顧みずにするだけの価値が あつたかどうか、甚だ疑問であ る。肉体的な危機以外にも危険 は多い。「デカの追跡」には警 官に浮浪者として追ひまくられ るホーボーが描かれてゐる。自 由気ままに生きる代償なのであ らう。定住民に放浪者は目障り である。定住民たる私はそんな 代償を払つてまでする生き方で はないと思ふ。ただ、それをか うも魅力的に描いた作者の筆の 冴えは見事である。ヒーローか どうかはともかく、束縛の多い 人間からすれば、そんな生活も 良いと思はせる魅力があつた。 本書は一時期の米国の若者風俗 素描であつた。
24.06.15
・
村上修一「本地垂迹」
(ち くま学芸文庫)は書名だけ見て他は何も考へもせずに買つた。そし て読んだ。一応は読み終へた。時間がかかつた。小説とは違ふ。さ すが学芸文庫、専門書である。段落が長いのにも読みにくさはある が、それ以上に内容が専門的であつた。かうなると私には分からな い。私の日本史の知識はほとんど教科書程度である。本書では奈良 から江戸までを扱ひ、それは基本的に宗教史といふ内容であつた。 この宗教史といふもの、日本史の授業ではせいぜい誰が何宗を開い たといふ程度で、それ以上の詳細についてはほとんど触れてゐかな かつたと思ふ。そんな人間がこれを読んでも理解できるものではな い。例へば空海の神道観、親鸞の神道観とかと言はれても分かるは ずがない。何しろ知らないのである。知らなくても理解できるのな らば苦労しない。全く私の想像外のことどもが並んでゐる。そんな わけで本書の詳細については理解できてゐない。何か理解できるこ とがあつたのかと言はれると、これも当然心許ない限りである。そ れでも筆者は最後に本書のまとめを記してくれてゐる。このごく短 い部分(410頁分の4頁!)だけでも、何か分かつた気になれさ うな気がする。
・私の本地垂迹に対する理解は末木文美士「文庫版解説 神仏の源 流を求めて」の「2、本書の読み方」の最初にある、「本地垂迹は 神仏習合の一形態であるが、仏が世界の中心であるインドから離れ た辺地にある日本の衆生済度のために、在来の神の姿をとって現れ たとする説」(441頁)に尽きよう。仏が神の姿を借りて衆生を 救済するのである。「院政期頃に完成した形態では、それぞれの神 とその本地となる仏の対応関係がほぼ一義的に確定され」(同前) てゐた。これは牛頭天王は薬師といふやうな関係(201頁)であ る。これは後に変化していく。本書のまとめの1に、「わが国にお ける本地垂迹説は、いうまでもなく、わが神祇と伝来の釈尊を関係 づける理論として展開したものであるが、これを詳細に検討すれ ば、たんに神と仏の関係と単純に片付けられるものではなく云々」 (416頁)とあるのは、「道教・陰陽道・儒教など、仏教と前後 して伝来した中国固有の思想や宗教がこれに纏綿し、複雑な様相を 呈しているのである。わけても初期における神仏関係に陰陽道が大 きく媒介的役割を果した云々」(同前)といふことである。本地垂 迹にはかういふ複雑な様相があつたのである。「密教の神秘的・呪 術的要素は陰陽道や道教のこれと通ずるものがあって(中略)外来 思想として受け入れた日本人には、その間あまり区別は意識」(同 前)せずに受け入れてゐたといふ。言葉は悪いがごつた煮であら う。さういふ形で本地垂迹が形作られてきたといふ。私にはかうい ふ考へはなかつた。ごく単純に仏が神の姿を借りてといふだけであ る。さうではなく時代とともにこれも変はつてきた。それは2の、 本地垂迹説は「広く伝播するに伴い、たんに上層知識階級や特定の 宗教家達だけの宗教的知識に終はったのではなく、広く庶民の社会 に普及し、彼らの日常生活にも入り込み、これが信仰の実践につな がった」(417頁)といふことにも関係してゐよう。それに関は つたのは「修験者・説経師・高野聖(中略)その他民間の芸能者た ちであった」(同前)となると、本地垂迹とは何だと考へてしま ふ。だからこそ幕末明治期に神仏分離の運動が起きた。所謂草莽の 国学も、一般庶民の間に本地垂迹が生きてゐたからこそ生まれた動 きでもあつたはずである。芸能者達は様々なことを伝へてそこに生 きた。どのやうに広く見ても、私の知る本地垂迹とはその程度のも のであつた。奥は深い。
24.06.01
・
カルロス・ルイス・サフォ ン「マリーナ バルセロナの亡霊たち」
(集英 社文庫)の「訳者あとがき」によつてこの物語の粗筋をできる限り 短い言葉で言へば、「ゴシック・ロマンの香りが全編ただよう本作 は、ミハイル・コルベニクなる人物をめぐる謎追いを経糸に、オス カルとマリーナの友愛を緯糸にして、一九七九ー八〇年の『現在』 と、その半世紀まえの『過去』の逸話を行きつ戻りつしながら紡が れていく。」(309頁)。主たる物語はミハイルだが、そこにオ スカルとマリーナが絡むといふことである。これを物語巻頭の文章 から引けば、「時という大洋がそこに埋めた思い出を、遅かれ早か れ返してくるなんて、あのころのぼくは知らなかった。十五年後、 あの日の記憶がぼくにもどってきた。(中略)魂の屋根裏部屋に鍵 をかけてしまいこんだ秘密を、ぼくらの誰もがもっている。(原文 改行)ぼくにとっては、この物語が、まさにそれなのだ。」(15 頁)といふことであらう。最後になつてやつと気づくのだが、これ はオスカルの言はば手記であつた。その「謎追い」の経糸が極めて おもしろい。
・オスカルがマリーナの屋敷に侵入したのをきつかけに2人は友人 となる。その後、実にいろいろなことが起きる。そのどれもが「ゴ シック・ロマンの香り」である。マリーナの屋敷で事件は起きない が、しかしその香りは十分である。鉄柵の「門のむこうには何十年 も置き去りの雰囲気の古風な庭の名残がひろがり、茂みのあいだに 二階建ての館のシルエットがうかがわれた。陰気なファサードがそ そりたち、長年で苔むした彫像たちの噴水が手前にある。」(19 頁)その家で最初の事件は起きた。と言つても、これが2人の出会 ひにつながるだけのこと、事件といふならば、逃げ出す時に「途中 で蓄音機にぶつかって倒してしまった。」(22頁)ことぐらゐ で、この先に起こる事件に比べたら全くたいしたことではない。マ リーナの屋敷に入つた理由を問はれて、オスカルは「謎めいてたか ら、かな……」(36頁)と答へる。初めから謎であつた。最後に 王立大劇場が舞台となる。「永遠につづく誰もいない平土間のうえ で巨大なシャンデリアが訪れることのない電気の接続を待ってい た。」(224頁)り、「一階席の中央通路に敷かれた幅広いじゅ うたんは行きつく先のない永遠の道のりを紡いでいた。」(225 頁)つまりは廃墟である。使はれることなく廃墟と化した歌劇場で ある。これもまたゴシック・ロマンにふさはしい。ここで起きる出 来事、いや事件は、事件といふだけでは足りないであらう。それほ どの事件である。1つだけ書いておけば、ここで恐怖をもたらすの は、いはばフランケンシュタインの創造物もどきである。これもも ちろん謎である。この物語の場所は廃墟の如きがほとんどである。 現在生きてゐてミハイルを語る人達は普通に暮らしてゐるが、話の 中に出てくるのは廃墟か廃墟もどきであり、そこは謎に包まれてゐ る。ゴシック・ロマンの香りはさういふ中から漂つてくる。これが 経糸である。おもしろい。これをあまりに型通りすぎると言ふのは 野暮であらう。ゴシック・ロマンとはさういふものだとサフォンが 考へてこの物語を書いたのかどうか。私は個人的にそのやうに読ん だ。巻頭にサフォンの「親愛なる読者へ」といふ文章がある。その 一節、「書き進めるにつれて、この物語にあるすべてに別れの味が しはじめた。」(10頁)確かに別れの物語かもしれない。「十五 年後、あの日の記憶がぼくにもどってきた。」それに別れを告げる ためにぜひとも必要な物語であつた。もしかすると、そこにオスカ ルの大人になる時間があるのかもしれない。
24.05.18
・
戸矢学「ヒルコ 棄てられ た謎の神」
(河出文庫)を読んだ。おもしろ い。著者の言ふやうに「謎解き」(266頁)の書である。何しろ 対象がヒルコである。漢字で書けば蛭子、あるいは水蛭子、記紀に 出てくる、生まれた直後に棄てられた神である。このヒルコはいか なる神か、その出自は、最後にどこへ行つたのか等々、あちこちか ら調べて語り尽くす。それはまちがひなくおもしろい。ただし、問 題はこの時代に関する記録等が一切残つてゐないため、当然の結果 として、その「謎解き」は想像によるしかないことである。実際、 時代が古すぎる。古くても何らかの記録が残つてゐればそれを出発 点に始めることができる。しかし、それはない。残されたいくつか の断片的事実や記録等から考へるしかない。これはこの種の古代史 関連の書の持つ決定的な欠点である。それを欠点と見せないのが著 者の手腕である。本書の内容を、個人的には、確かにさうかもしれ ないとは思ふものの、やはり今ひとつ納得できないところがある。 これは確認のしやうがないからである。
・確認できる最初は神名である。古事記の神生みで最初に生まれる のがヒルコである。ヒルコは不具であるゆゑに、葦舟に乗せて流さ れる。その後、第一子として天照大神が生まれ、以下、月読尊、素 戔嗚尊と生まれる。その天照大神は、日本書紀では一書にしかない 名前である、正式には大日○貴、オホヒルメノムチとよむ。メに当 たる漢字はここには出ない。特殊すぎる文字である。何しろこの名 のために作られたと思しき国字である。他の使用例はない。さうま でしてこの字を使ひたかつたらしい。この名の基本はヒルメであ る。ヒルコとヒルメはヒルヒコとヒルヒメからくる(63頁)。ヒ コ、ヒメは男と女である。つまり、ヒルコは日子、ヒルメは日女で ある。ともに「太陽の子」(64頁)の意味である。しかもこれは ヤマト言葉である。つまりヒルコも渡来神ではない(65頁)こと になる。かういふこと等からヒルコとヒルメは双子だつたのではな いかといふ考へ(68頁)に至る。双子の場合、その片方は棄てら れるといふ習慣がかつてあつた。それでヒルコは棄てられたのでは ないか(72頁)。天照大神といふ名しか知らなければ決して思ひ つけない考へである。ヒコとヒメから始まるこの考へには、私の知 識の中でも納得できるものがある。もしかしたらさうかもしれない と思はせるものがある。しかしこれはまだ出発点である。この先は 長い。更に様々な考へが提示される。第三章は「『丹』をつかさど る神・ワカヒルメの謎 銅鐸は紀氏一族の祭器か」である。ワカヒ ルメはオオヒルメの妹かといふ伝承への考察から始まる。この中間 報告として「ワカヒルメはニウツヒメの『本名』であるだろう。」 (106頁)となる。ワカヒルメは古事記で素戔嗚の狼藉で殺され た神である。この結論を出すのもさう簡単なことではない。ではニ ウツヒメは何者かといふのが次の疑問である。ここではニ、ニウが 問題となる。丹、丹生である。ここから水銀伝説に入リ、最後にヒ ルコは銅鐸、ヒルメは銅鏡とある。「これを男系のヒルコが継承し たのではないか。女系のヒルメは銅鏡を継承した。そしてヒルコは 出雲へ、ヒルメは大隅へ」(131頁)となつて更にまた続いてい く。かうなるときりがなささうである。謎解きとはかくも複雑怪奇 なものであるかと思ふ。ここまででやつと半分である。まだヒルコ の謎は解けてゐない。検討すべきことは多い。問題は記録がここに もないといふことである。それでも謎解きをする。最終的には徐福 まで出てくる。見事である。しかし、これに納得できるかどうか、 問題はここである。
24.05.04
・ またである。何匹目の泥鰌になるのか。
夏来健次編 「ロンドン幽霊譚傑作集」
(創元推理文庫)、この手の物語の愛好家が多いのであ らう。私もそれに当たるのか、何匹目かにもかかはらず私は買つた。この古風な物語にはこのまま捨て おき難いものがある。しかし、最後は忘れてしまふ。そんな物語ばかりである。本書には13編収録、 巻頭のウィルキー・コリンズ「ザント夫人と幽霊」のみ既訳あり、他の12編は初訳である。コリンズ 以外で知つてゐる人はイーディス・ネズビットぐらゐであらうか。「砂の妖精」の作者である。これ以 外の人は知らないのだが、ネズビットを含めて9人が女流作家である。意識して選んだのかどうか。た ぶん意識せずにかうなつたのであらう。この19世紀末のヴィクトリア朝にはかくも女流作家多かつた のであらうか。「当時じつはその分野で最も大勢を占めていた現今知られざる怪奇系作家たち」(「編 者あとがきー魔の都、霊の市」388頁)とはあるが、女流には触れてゐない。19世紀末英国の、い かにも幽霊譚ばかりであつた。
・とは書いたものの、実は一番面白かつたのは巻末のウォルター・ベサント、ジェイムズ・ライス「令 嬢キティー」であつた。共作だが、これは2人とも男性であらう。最初の解説には、本作は「ユーモア 怪談で、小生意気な少女幽霊の憎めない魅力が微笑ましく、皮肉味のある落ちも利いた作品。」 (360頁)とある。珍しくユーモアに満ちた怪談である。しかもこの幽霊、昼間も出てくる。この手 の怪談集でかういふ作品を読むのは初めてのやうな気がする。あつたかもしれないけれど、たとへさう だとしても、ごく少数でしかないであらう。何しろ、怪談を読むのは怖さを求めてである。ユーモアだ つたら最初からユーモアと謳つた作品を読めば良い。ところがこれはユーモア怪談であつた。先の引用 の通りの作品で、「小生意気な少女幽霊の憎めない魅力が微笑ましく」といふのは正にその通りであつ た。幽霊に対する主人公(?)の男性も、簡単に少女の話に乗つてしまふ。このあたり、およそ怪談の 雰囲気はない。最後もハッピーエンドである。世の中、かういふ怪談ばかりでは飽きられようが、かう いふ怪談が少ないからこそ、この作品の存在価値がある。他の作品は普通の怪談である。例へばネズ ビット「黒檀の額縁」、これもよくある語り出しである。遺産として家を相続したところから物語は始 まる。その居間に版画があつた。「暖炉の上の壁にかかる版画(中略)で、黒い額縁に収められてい た。」(238頁)その額縁は「上質な黒檀製で、精妙で美麗な飾り彫りがほどこされてい」(同前) た。その版画をもとの油絵にもどすと、召使ひが「ほんとに素敵な肖像画ですこと!」(241頁)と 言つた。その絵は……といふことで、「以上がどのようにして愛する人を手に入れそして失ったのかの 経緯だ。」(256頁)と終はる。額縁に関はる幽霊譚である。よくある絵から抜け出した人物であ る。絵にまつはる因縁も含めて、よくできた幽霊譚であつた。しかし、ネズビットは児童文学作家であ り、ファンタジー作家であつたといふ。私は「砂の妖精」しか知らない。こんな作品もあつたのであ る。アンソロジーといふもの、時にかういふ作者の別の面を見せてくれることもある。これもそんな作 品であつた。本書はまともな幽霊譚ばかりだが、その中で「令嬢キティー」はいささか例外であつた。 これを良しとするかどうか。個人的にはかういふのもおもしろいと思つた。とまれ、何匹目かの泥鰌で あつても、私は本書を楽しんだ。しかし、これがまだ続くとなるといつまでつきあへるかである。さて 如何。
24.04.20
・
橋口侯之介「和本への招待 日本人と書物の歴史」
(角川文庫) を読んだ。かういふ内容の書は他にもあるのだらうけれど、これは分かり易くまとめてある。著者は古書店主である。そ の経験から書かれてゐる。「神保町に来れば三百年、四百年前の本が、何食わぬ顔で展示販売されている。」(「まえが き」4頁)そんな中に現在もゐる人であるから、「書物を一人だけの所有物で終わらせるのではなく、『お預かりもの』 として次の人に託することがつねに考えられてきた。しかも、それが千年以上続いてきた。長い時間残すこと、すなわち 伝えるということにこそ日本人の書物に対する観念の基礎があると」(同前)いふのである。実際、神保町は言ふまでも なく、それ以外でも和本を扱ふ古書店は多い。それは日本人のかういふ「書物に対する観念の基礎」から来る。そこから 冒頭の一文「日本人は本が好きな国民だと思う。」(同3頁)や巻末の「そう、やはり日本人は本好きなのである。」 (263頁)が出てくる。私はこんなことを考へたことはなかつた。古本屋だから和本を扱ふのは当然だと思つてゐた。 しかしどうもさうではないらしい。「きちんとした国際比較調査がないので、具体的な数値であらわせないのは残念だ が、古本屋の店先でも、各地の図書館でもとにかく蔵書数が多い。実際につくられた本の数の問題ではなく、それを残し てきた一連の行動がそうさせたのだ。」(「あとがき」265頁)文脈からして、和本に限定しての記述だと思ふ。それ ほど多くの和本が残つてゐるらしい。インターネット上には和本が多くある。安ければ数百円で買へる。インターネット と残存和本の多さがありがたい。かくして私の手に渡つた和本も、「お預かりもの」としてまた次の誰かに渡るのかもし れない。こんなことを考へる私にも「書物に対する観念の基礎」がすり込まれてゐるのであらう。
・その和本を筆者は〈本〉と〈草〉に分ける。第五章は「揺れ動く〈本〉と〈草〉」と題され、その最初は「正規の 〈本〉と大衆の〈草〉」となつてゐる。〈本〉〈草〉は他でも言はれてゐたはずである。本は物の本である。ごく大雑把 に言へば難しい書物、今でいふ専門書の類である。著者は「本格的な書物」(208頁)といふ。草は草紙、仮名草子や 赤本、黄表紙等の大衆読み物である。これらは近世初期に「唱導文学だった各種の語り物も文字化されて出版されるよう になった。軍記物やお伽草子、浄瑠璃などである。」(207頁)といふ流れの中にある。個人的には所謂語り物やもつ と前の絵巻が書物の歴史の中に出てくることに違和感を覚える。絵巻は巻物、巻子本である。さういふ形を本といふこと に違和感を感じるのだが、それでも現在は古本屋も扱つてゐる。ところが唱導文学は字の如く「仏法を説いて衆生を導く 語りもの」(wiki)文学である。その文字化以降を〈草〉といふのならば分かるが、ここでは「形のない中世の 〈草〉」(218頁)といふ。「〈草〉の書物にとって中世は『暗黒時代』だったやうに見受けられる。しかし、それは 紙に書かれて綴じられたもの=書物という概念にとらわれた見方である。」(225頁)私はこの概念に囚はれてゐるら しい。唱導文学以前もまた〈書物〉であつた。「今風にコンテンツ」(226頁)である。それが近世初期に演劇や 〈草〉となる。近世以前は文字通り語りが中心で書物はその後だといふのである。現在、文学史でこれをどう扱つてゐる のか知らないが、語りと書物を「コンテンツ」といふのは私には新鮮な考へであつた。ここにも「お預かりもの」といふ 考へがあるのかと思ふ。やはり、日本人は本好きなのであつた。
24.04.06
・
劉慈欣「流浪地球」
(角川文庫)を読んだ。その解説の加藤徹 「SFと『科幻』ー劉慈欣文学の魅力」に次のやうな文章があつた。中国は科幻系の国である。「『科幻』系の国々で は、たとえ虚構でも、そんな空想を発表した作家は、たたではすまない。」(301頁)そんなとは、例へばゴジラの東 京襲撃である。これだけで恐ろしくなるのだが、中国の作家はそれでも書いてきた。どのやうに書いたか。「劉氏の出世 作『三体』の物語は『文化大革命』から始まる。(中略)米ソをさしおいて、社会を恨む中国人が最初に宇宙人と交信す る、というあの物語の冒頭は、科学的には不自然だが、科幻としては正しい。『文革』は、中国共産党があやまちであっ たと失敗を認めている、唯一の時代だからである。」(301〜302頁)以下、本書の短編について述べる。「『呪い 5.0』は中国の科幻小説では珍しく、実在の中国本土の都会が火の海になる。が、ここにもクレバーな配慮が周到にめ ぐらされている。まず、舞台は北京ではない。」(302頁)以下、「この作品に限っては筒井康隆氏のスラップス ティック小説や横田順彌氏のハチャメチャSF作品のようである。」(同前)とか、「自分自身を作品の中に滑稽な描写 で登場させた。」(同前)とあり、これらの「どの一つの要素が欠けても『幻想』ではなくなる。ギリギリの作品なの だ。」(同前)といふ。私が読んでも政治的には何とも思へないのだが、実は相当な配慮のなされた作品であつたらし い。それを「クレバー」と言ふ。これまでいくつかの作品で危なさうなのがあつたが、それらも同様の配慮のなされた 「クレバー」な作品であつたらしい。かういふことまで考へて書かねばならないのは相当な苦痛であらうと思はれる。も しかしたらいかに当局をだますかの知恵比べをしてゐるのかもしれない。これは身に危険の及びかねない知恵比べである が、これも考へ方で、「科幻は、現実社会との間合いに対する深謀遠慮を余儀なくされる反面、想像力の面では幻想の特 権をフルにいかすことができる。」(同前)といふことにもなるらしい。それが現代中国のSF作家である。
・私は中国における政治と文学の関係にこだはつてSFを読んできたと思ふ。SFではないが、莫言はリアリズムで書い てきた。だからノーベル賞ももらへた。それに値する作品でもあつた。SFの場合はリアリズムではなく想像力の世界と なる。創造=想像である。「呑食者」は他の短編集にあつた作品の前日譚である。ここで呑食者たる大牙は、地球初お目 見えの時、「ヨーロッパの首脳のひとりをつかむと(中略)優雅に口に放り込み、咀嚼しはじめた。」(107頁)のだ が、これも中国人でないところに意味がある。いかに国連でも事務総長や首脳が中国人で、それが食はれたりしたらそれ こそ「たたではすまない。」その一方、大牙の相手たる大佐(300年後!には元帥)は“冷静なアジア人”である。中 国人としても良ささうだが、これは分からない。こちらは国連首脳とは違ふ。ここにもそんな「クレバー」な配慮がある のであらうか。中国でSFを創作するのはかくも大変だといふことである。さうするとこれまで危なさうだと思つた作品 で、英語版しか出てゐないやうなのはやはり「クレバー」ではなかつたといふことか。中国や中共を思はせてはいけな い。これだけなら易しい、たぶん。しかし、そこを超えると様々なことが出てくる。ちよつとしたことでも危ない。「子 どものころから『愚公移山』を暗記してきた中国人にとって『流浪地球』の世界観は、すんなり胸に響く。」(304 頁)さういふ世界に生きてきた人であつたのかと思ふ。
24.03.16
・私は宮田登といふ民俗学 者をほとんど知らない。「ミロク信仰の研究」といふ著者があるのは知つてゐたが、読んだことはない。これから分かるやうに、 この人は民間信仰あたりを中心にやつてきた人であるらしい。小松和彦の「解説 宮田登の妖怪論」によれば、妖怪ブームに関し て「民俗学という学問的立場から、こうしたブームに応えるかたちで、メディアを通じて妖怪関係の情報を提供したのは、ブーム の当初では宮田登とわたしのたった二人であった。」(298頁)さうだから、妖怪学の先駆けといふことになる。小松和彦が妖 怪に関していろいろと書いてゐたことは知つてゐた。ところが、この人の「妖怪研究は『妖怪の民俗学』(岩波新書、ちくま学芸 文庫)と本書のわずか二冊であって云々」(小松和彦「文庫版解説」330頁)とあるやうに、あまり多くないのである。その本 書、
宮田登「新版 都市空間の怪異」
(角川文庫)はその意味で 貴重な一冊である。しかも「都市空間の怪異」である。小松和彦は都市といふことには限定されるやうな研究ではなかつたと思ふ のだが、この人のこの著作は確かに都市空間と言へるものである。その意味でもおもしろさうである。小松の解説にも、「出版社 側は、著者の意図を汲みつつ書名を考えていったとき、『都市』と『怪異』を結びつけたところに、著者の研究の新鮮さが浮かび あがってくるのではなかろうか、と判断した」(304頁)とある。書名が作つて売る側も認めた「新鮮さ」であつた。
・「明治三十年以後、百鬼夜行は姿をみせなくなった。暗闇がしだいになくなった生活環境だからといえば当然であるが、しかし 近年不思議な現象が語られるようになった。例の『学校の怪談』である。」(46頁)といふ文章は小松も引用してゐる。谷崎潤 一郎の「陰翳礼賛」を思はせる一文である。闇がなくなつたことに、宮田は妖怪の不在を感じ取る。そして新たな怪談である。こ れは必ずしも暗いところではない。トイレの花子さんは真つ暗なトイレにゐるわけではない。「都市のコンクリート造りの巨大な 校舎の一隅に設けられた清潔感あるトイレは、木造校舎の悪臭ただよう肥溜めの便所と大いにちがう。不思議なことにご不浄のイ メージのある便所よりも、浄化装置の十分な清潔なトイレに血だらけの場面が顕わになっている。」(190頁)かういふのを宮 田は、「面白いのは、主にインフォーマントが小学生に絞られていることだ」(189頁)、「次々と噂は伝播し、かつ類型性を 帯びて半ば真実と信じられていく」(同前)、「同齢感覚に支えられた級友仲間に語り出されているのも特徴」(同前)であるな どと説明してゐる。つまり宮田にとつてこの種の怪談は、「級友仲間に語り出されている」うちに「半ば真実と信じられていく」 ものであつた。当然ことながら極めて合理的な態度である。これが井上円了評価につながるのであらう。「井上にとって『妖怪』 は撲滅すべき『迷信』と同義であつた。そして多くの『妖怪』(=迷信)を撲滅するために、『妖怪』の科学的・合理的説明に精 力を注いだ」(小松解説311頁)のだが、「宮田登はこうした井上の妖怪退治に対して、肯定も否定もしない。近代化とはそう いうものだと了解していたのであ」(同312頁)るらしい。しかし、先の文章からすれば、宮田が「『妖怪』の科学的・合理的 説明に精力を注い」でゐるのは明らかであらう。学問として妖怪をやつてゐる人ならば当然の態度である。宮田がかういふことを やつてゐた民俗学者であることを私は知らなかつた。妖怪といふもの、実在するかどうか分からない。おもしろいけれどというの が正直な感想であつた。
24.03.02
・
リチャ−ド・マシスン「奇蹟の輝き」
(創元推理文庫)を読んだ。本書は 第4版、去年の復刊フェアの一冊である。初版が20世紀終はりだから読んでゐても良ささうに思ふのだが、私はこれを読んでゐ ない。買つてもゐない。気がつかなかつたのか、読まうと思はなかつたのか。いづれにせよ私には無縁の本であつた。ところが今 回は気がついて買つた。本書の評価は高いやうで、映画化もされてゐるらしい。さういふのとは無関係に買つた。そして読んで、 これが稀有なラブストーリーであることは分かつた。ただ、私はかういふのが好きではない。ラブの方ではなく、作品の舞台がで ある。「訳者あとがき」に出てゐる、プロデューサーのスティーヴン・サイモンの感動は特殊な場で愛を貫くことからくるのだら う。それが「愛と生命の神秘に魅せられ」(406頁)といふことなのであらう。確かに「愛と生命の神秘」かもしれないと思 ふ。最後に輪廻転生が出てくる。私には意外だつたのだが、愛を貫くためには是非とも必要なものなのかもしれない。しかし、個 人的には今一つ好きになれない物語であつた。
・物語の構成は実に分かり易い。起は、主人公クリスの交通事故死、その死を直ちに受け入れられない。承は、死を受け入れ、ク リスは「常夏の国」にゐると知る。転は、妻アンの死である。ここから冥界巡りが始まる。結は、めでたしめでたしで終はる。実 を言へば、物語の目次も4つに分かれてゐる。見え見えなのである。かうも見事に構成されたことを明示する作品が多いのかどう か。しかし、起承の舞台の描写には、違和感と言ふよりも既視感とでも言ふべきものがある。既視感、つまりどこかで見たやうな 感じである。これをマシスン自身は巻頭の「読者に」でかう書いてゐる、「本書の創作面はごく表面的な部分にかぎられている。 登場人物と、その人間関係だ。(原文改行)これら部分的な例外をのぞく諸々の記述は、もっぱら調査にもとづいて書いた。」 (11頁)その資料一覧が巻末にある。すべて英語文献であらう。だからタイトルから想像するだけなのだが、それでも死後の世 界や霊界通信の類ではないかと思はれる。マシスンはかういふ書の都合のよい部分を抽出して物語に仕立て上げたのであらう。 「かすかな声が聞こえてきた。なにを言っているのかはわからない。ぼんやりと、そばに立つ人影が見えた。両目を閉じていたの に、それが見えたんだ。」(25頁)これは、日本的に言へば、幽明境を分かつことができない主人公の様子である。「苦心して かがみこみ、自分の顔をじっと見つめた。唇は紫になり云々」(29頁)ここでもまだ死を自覚できない。最後近くで、「男のそ ばに近寄り、死んでいるらしいと知った。それにしても、ぼくのベッドにほかの患者が寝ているとはどういうことだ?」(32 頁)まだかうである。要するに、これらはクリスは肉体から精神が分離して己をながめてゐるといふ、よくある臨死体験の描写の 変形であらう。さういふ描写を知らなければ既視感はなからう。私はよくは知らないが、何も知らないわけではないといふ程度で ある。それでも見たことがある、聞いたことがあるといふ感じを免れない。これは「常夏の国」でも同様で、ここは天国の一部で あるらしいが、そこに書かれてゐることもどこかで見たやうなものである。マシスンは「記されている内容は、どれも型にはまっ たように同じだった。」(12頁)と書いてゐる。実際にあるのかどうかは分からないが、現状での死後の世界への認識は似たや うなものであるらしい。これがこの物語の最大の欠点であらう。それをマシスンの筆力、想像力が補つたのが本作であつた。
24.02.17
・
三角寛「山窩奇談〈増補版〉」
(河出文庫)を読んだ。三角寛の山窩は信 用できないと思はれてゐる。私にはそのあたりは分からないが、信用できる内容ではなささうだと思つてゐる。山窩文学といつた ところで、どれだけ山窩の実態を踏まへてゐるのか分からないといふ。しかし、読むとおもしろい。実におもしろく書いてある。 それを真実の力とみるか、想像力の産物とみるか、これが評価の分かれ目である。私にはこれが分からない。第一、山窩を正確に 知らないのである。山窩はwikiには「日本にかつて存在したとされる放浪民の集団である。」とある。「明治期には全国で約 20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定されている」(wiki)が、統計的に調べられたことがないの で、この数字もあまりあてにならない。定住民からは「物を盗む犯罪専科の単位集団として規定されていた。」(wiki)らし いが、箕作りを生業とする者が多いのは本書からも知れる。ただ、第二次世界大戦中には山窩に言及されることはほとんどなくな つた(wiki)といふ。この頃には山窩は漂泊放浪民から定住民へと変はつてゐた、あるいは変はらざるをえなかつたのであ る。三角寛が山窩を書いたのは昭和10年前後である。この頃、山窩はいはばこの人の専売特許であつた。ただし本書「山窩奇 談」は昭和41年に出てゐる。山窩の流行は終わはつた時代である。しかし三角はまだ書いてゐた。「戦前に発表した『サンカ小 説』に加筆、修正を施すなどして、『実』を強調する形で再編集された一冊である。」(今井照溶「解説 虚実の民衆精神史」 357頁)といふ。事実を強調してあるらしい。そこでかうも言ふ、「『虚』を『実』であるかのように騙っていたからといっ て、三角寛に『インチキ』の烙印を押して済ますわけにもいくまい。そこから『実』を発掘できる余地はまだあるはずだ。」 (375〜358頁)この人の考へでは、三角寛のサンカ小説は「民衆の精神史と逢着するはず」(358頁)だといふ。しかし 山窩から民衆を取り出して良いものかどうか。山窩が民衆を代表するならばともかく、山窩は多くても数十万人程度である。しか も定住せずに漂泊するのみ、このやうな民が「民衆の精神史」に逢着できるかどうか。私はインチキとは言はぬまでも、三角寛か ら「実」を取り出して「民衆の精神史と逢着」させるのはかなり無理があると思ふ。いや、現実の学会からは三角寛はほとんど無 視されてきたのである。
・第二話「蛇崩川の蛸入道」は国八老人が盲目の娘お花の助勢で殺しの犯人を捕らへる話、第八話「尼僧のお産」は熊谷直実なる 山窩が妙蓮といふ尼と結婚して有籍者になる話、増補分の「元祖洋傘直し」は洋傘直しの山窩の親分猪吉が亡くした女房によく似 た元旗本の娘お雪と一緒になる話、これは一族で有籍者の仲間入りである。たまたま美しい女性の出てくる話ばかりだが、皆うま くいつてゐる。山窩であつた者が有籍者になるのはこの頃は結構あつたのであらう。だからこんなものかもしれないが、しかしい づれもうまくいきすぎてゐる。うまくいつた話だけ出したとも言へようが、他の話も皆結局はうまくいつてゐる。かういふのが信 用できないといふのであらう。先の「解説」に、「『サンカ』という題材を得て、想像力を駆使して事実を脚色する度合いは次第 に強まっていった(中略)荒唐無稽さが増し、伝奇性が前面に押し出された。」(356頁)とある。これらもさういふものであ らうか。私には判断できないが、その「荒唐無稽さ」ゆゑに実におもしろく読める。それが三角寛だといつて読んでゐれば良いの であらう。おもしろい。
24.02.03
・
J.R.R. トールキン「最新版 シルマリルの物語」
(評論社文庫)を読んだ。「指輪物語」は読んでゐるが、こちらはまだ であつた。この物語の翻訳は初出から既に50年近く経つてゐる。その間、新版、最新版と出た。単純に言へばこれが第3番目の訳と いふことになる。これが出てゐるのを知らなかつたわけではないが、これを読まうといふ気にはなれずにゐた。それが去年の文庫本 「最新版 指輪物語」の完結である。これでやつと読まうといふ気になつた。本書の帯に「唯一なる“神”エルによる天地創造の物 語」とある。神話である。「『アイヌリンダレ』は、唯一なる神と天地創造の創世神話、『ヴァラクウェンタ』は、天使的諸力とも言 える神々の話です。とっつきにくいところもあるかもしれませんが、これらの創世神話は、トールキンの手紙からもうかがえるよう に、作者が長年心を傾けてきた仕事なのです。」(田中明子「『新版』訳者あとがき」下335頁)この言のやうに、最初の2編は見 事な神話である。以後はエルフの物語である。
・「唯一なる神、エルがおられた。」と始まる。そして「エルは初めに、聖なる者たち、アイヌールを創り給うた。聖なる者たちは、 エルの思いより生まれ、ほかのすべてのものが創られる以前に、エルと共にあった。(原文改行)エルは聖なる者たちに語り給い、音 楽の主題をかれらに与え給うた。」(「アイヌリンダレ」83頁)この歌は、最初は「聖なる者たち一人一人の理解は、イルーヴァ タールの御心のうち、各自の出で来った部分にしか及ば」(同前、エル=イルーヴァタールである。)なかつたが、やがてそれが二重 唱、三重唱になり、更に合唱になつていく。「耳を傾けて聞くにつれ、聖なる者たちの理解は深まり、ユニゾンとハーモニーはいや増 していった。」(同前)そして、「イルーヴァタールはかれらに言われた。『すでに汝らに明かせし主題により、われは汝らが調べを 合わせ、大いなる音楽を作らんことを望む。云々』」(同84頁)かうして「大いなる音楽が」奏されることになる。しかし物語の常 として、かういふ時にはそれに逆らふ者が必ずゐる。それがメルコールであつた。メルコールは「アイヌール中最も力ある者であ」 (下「語句解説および索引」381頁)り、「モルゴス」や「冥王」等の名で呼ばれてゐる悪の化身である。全編を通して善と悪、エ ルフ達とモルゴス一派の戦ひが描かれる。最後の「力の指輪と第三紀のこと」はその締めくくりと言はうか、「指輪物語」がごく端的 に語られる。「小さい人のフロドは(中略)サウロンを物ともせず滅びの山に赴いて、指輪が造られた火の中に大いなる力の指輪を投 じ、その結果、指輪は無に帰し、指輪の悪はすべて燃え尽きた。」(下332頁)勧善懲悪の壮大な物語をかくも短くまとめたのに対 し、それ以前の神話時代は全24章、文庫本1冊以上になる。それぞれの時代の代表的な出来事を書いていけばかうなる。長命である ことを除けば、エルフは極めて人間的である。悪はモルゴスの手下のサウロンが暗躍する。これもまた人間的である。人間はと言へ ば、初めは悪の側が多い。その後、エルフと交はつたりして、善に移る者も出てくる。「指輪物語」以前にかくも壮大なる世界があつ たのかと思ふ。これをトールキンが創つた。しかもその言語、エルフ語も創つた。下巻の付録には索引もある。これは役に立つ。そし て発音の注意(下348頁)とか固有名詞の語素(同372頁)であらうか、これも名前と比べてみるとおもしろい。いささか遅きに 失しはしたが、さすが人工の神話である、作者は言葉も創つてしまつた。おもしろい物語であつた。
24.01.20
・私が積んでおくのは辞書の類で ある。辞書とはさういふもので ある。
春日武彦「奇想版 精 神医学事典」
(河出文庫)も そんな辞書だと思つてゐた。最近、本を整理しようと思つてこ れをみつけた。確かに辞書の形態はしてゐる。しかし「序」は かう始まるのであつた。「本書は事典としての実用性に乏しい。不便なのである。なぜなら巻末の索引を用いるといった 『ひと手間』を経なければ目当 ての項目には行き着けない」(3頁)。しかも配列は「『連想』に拠っている。(中略)す べて連想の連続によって見出し 語が並べられて」(同前)をり、そのため「冒頭から順番に読んでいくのが、本書の正しい 読み方である。」(4頁)といふ。だから「無人島へ持って行 くには最適の一冊であろうと自負している。」(同前)さうで ある。こんな辞書とは気がつかなかつた。私は普通の、文庫版の精神医学の事典であると思つてゐた。珍しいと思つて買つた のである。その時、書名の「奇想版」に気づいてゐれば中身を 確かめたのかもしれないのだが、残念ながらそんなことは気 にもしなかつた。さうして辞書 の一冊として我が家に積まれてあつた。春日氏からすれば、何と不本意な所有のされ方であつ たことか。しかし、奇想版の奇想版たる所以に気づいてしまつ た今、実用性の有無は関係ない、私はとにかく読もうと思つ たのである。もちろん最初から 終はりまで通して読む。春日氏の「正しい読み方」の実践である。
・見出しは「神」に始まる。 「隠された必然」「アトランティック・シティーー上空の空飛ぶ円盤」「ブリキの金魚」 「家族的無意識」等々と続く。見出しだけ並べてもこれが連想であるとは分からない。書いた本人はなぜかうした連想をした のかは分かつてゐるのだが、読むのは本人ではない。読んで初 めて連想が正しく行はれてゐる(らしい)と分かる。頭から順 番に読めといふのは、その連想 の妙を味はつてほしいがためでらう。ただ、問題なのはこの人の連想についていけるかどうか である。「ブリキの金魚」は島尾敏雄であつた。その「三つの記憶」の冒頭部分による。その金魚の赤が「アトランティッ ク・シティー上空に滞在する空飛ぶ円盤の赤色と同じものだった」(13頁)ことによる連想であつた。私は島尾のこの小品 を知らない。引用があるから分 かるとは言へる。しかしそれだけである。それ以上にはならない。この人はかなりの読書家で ある。島尾は他でも引用されてをり、「自分の抱えている不安に近いものを文章で上手く定着させている作家はいないだろう か」と考へ、「結果として、島尾敏雄の作品と出会うことになった。」(560頁)といふ。私にはさういふ経験がな い。だから島尾をほとんど知らない。この後に北杜夫の項がある。同じ精神科医といふ親しみもあるのだらうが、しかしその 評価には、「そうした危うさがないぶん、北の純文学はシリアスであっても安心して読める。 だがわたしにはそのような不安 成分の少ない純文学は必要がない」(562頁)とある。「強 烈な不安感が漂ってこない。」 (同前)といふのである。この 後に北の患つてゐた躁うつ病(双極性障害)が来る。ここに北の病の具体的な説明もある。北がその病をカミングアウト し、「むしろそれを自ら戯画化した。」ことを「大きな功績と認められ」(563頁)ると言つてゐる。これも読んでゐるか らこそ書けることであらう。海外文学の引用も多い。ブルー ノ・シュルツなどといふマイ ナーな作家も出てくる。シャー リー・ジャクスンやH・G・ウェルズも出てくる。これは索引の効用である。かくして本書は「言葉のびっくり箱」(穂村 弘「解説」、611頁)であつた。おもしろいかも?
23.12.30
・ 私はドラキュラや吸血鬼が好き だが、このやうな書を読んだこ とはなかつた。
丹 治愛「ドラキュラ・シンドロー ム 外国を恐怖する英国ヴィク トリア朝」
(講 談社学術文庫)である。元版は 東京大学出版会から出てゐる。 原題を「ドラキュラの世紀末ー ヴィクトリア朝の外国恐怖症の 文化研究」といふ。いかにも学 術書である。この副題の方が内 容を想像し易いとは言へる。 「本書のどこが文化研究なので しょうか。(改行)それは端的 にいって、この本の関心が最終 的に『ドラキュラ』のテキスト それ自体にむかっているのでは なく、テキストに認められる外 国恐怖症というヴィクトリア朝 の文化的コンプレックスにむ かっているからです。文化がこ の本の最終的な関心だからなの です。」(317頁)これだけ で明らかである。ストーカーの 「ドラキュラ」が分析対象では あつても、引用書は当時の政治 家や社会情勢に関するものがほ とんどである。「ドラキュ ラ」=吸血鬼小説としか考へら れない人間には無縁の世界であ るかに思はれる。しかしそれが おもしろいのである。それが 「文化研究」によるのはまちが ひない。「テキストに認められ る外国恐怖症というヴィクトリ ア朝の文化的コンプレック ス」、これがいかなるものであ るのかを順次書いていく。それ は私には考へられないことども であつた。
・目次は「イントロダクショ ン」に始まる。文字通りの導入 部であるが、この後半は「ドラ キュラの年は西暦何年か」 (23頁)といふ章である。私 は、西暦何年にドラキュラが出 没したのかなどと考へたことは なかつた。これ以後との関係 で、この年は大いに問題になる らしい。そこで子細な検討が加 へられてゐる。さうして 1893年といふ西暦年が出て くる。ごく大雑把に言つて世紀 末である。これは「文化的コン プレックス」にも関係してゐ る。「コンプレックス」は「帝 国主義の世紀末」、「反ユダヤ 主義の世紀末」、「パストゥー ル革命の世紀末」と続き、更に 文庫版の補遺として「もうひと つの外国恐怖症ーエミール・ゾ ラの〈猥褻〉小説と検閲」で終 はる。これらがかつての英国に もあつたであらうことは容易に 想像できる。それが「ドラキュ ラ」にも関係してゐたのであ る。「帝国主義」の最後は新興 国家アメリカである。「他民族 をたえず『同化/吸収』しつつ その領土を拡大していくアング ロ・サクソン民族は、吸血しつ つ彼の『同類』をふやしていく ドラキュラとなんと似ているこ とでしょう。ドラキュラとはじ つは抑圧された彼らの自己イ メージだったのかもしれませ ん。」(148頁)この時点 で、アングロ・サクソン世界の 「一方のセクションは多くの部 分に分割分断されており、他方 は分割されていない全体として 大いにその力を増大させてい る」(146頁)といふ状況に あつたが、「分割分断」が英 国、「力を増大させている」の が米国であつた。よりはつきり 言へば、ドラキュラは「つぎつ ぎに植民地を失っていく二〇世 紀末の大英帝国の運命を予徴す るかのように、ついにその肉体 を切り裂かれることによって、 『支配者』たる地位を失ってい く」存在でしかない。これが 「コンプレックス」である。こ のやうにドラキュラと英国が関 係してゐるのであつた。「反ユ ダヤ」でも「パストゥール」で も、そして「ゾラ」でも同様の ことが言へる。正に蒙を啓かれ る思ひであつた。「『ドラキュ ラ』は、多種多様な主題のも と、それが生み出された一九世 紀末の政治的・歴史的コンテク ストのなかでさまざまに解釈さ れてきた。」(325頁)とい ふ。その「さまざまに解釈され た」一つが本書なのであつた。 かくして「ドラキュラ」は本当 に特権的な書である(同前)と 思ふ。
23.12.16
・ 本に関係がありさうだとすぐに 買ひたくなつてしまふ。それで また1冊、
ジェ ラルディン・ブルックス「古書の来歴
」(創元推理文庫)である。これは帯に「焚書と戦火の時代、伝説の古書は 誰に読まれ、守られてきた のか?」とある通りの内容であ る。従つて、ミステリーであら うがなからうが、私には買ひで ある。この古書を「サラエボ・ ハガダー」といふ。 Sarajevo Haggadahと書く。「この小説はサラエボ・ハガダーとして知られるヘブライ語の実在の書物に着想を得たフィクションである。そのハガダーの現時点で 明らかになっている歴史に基づ く部分もいくつか含まれている が、大半の筋と登場人物は架空 のものである。」(「あとが き」571頁)と著者が書くや うに、基本的には実在の書にま つはるフィクション、物語であ る。これは「14世紀中葉のス ペインで作られたハッガー ダー。(中略)中世の細密画が 描かれたヘブライ語の本として は最古に属する。」 (Wiki)といふもので、検 索すると、ハガダーの由来等、 本体に関する内容が多く出てく る。大体は細密画がついてを り、うまくいけばほぼ全体を見 ることができるサイトもある。 現在はサラエボの国立博物館蔵 である。複製も含めて、この手 の本を、当然のことながら、私 は手にしたことがない。しか し、その絵は細密画におなじみ のもので、いろいろなところ で、似たやうな細密画を写真で 見たことがある。そのハガダー に残されたいくつかのものから 作品は生まれた。残されたとい つても隅から隅まで目をこらし て見なければ見落としさうなも のである。それが物語となり、 次の物語を生んでいく。時代を さかのぼるやうに作られてを り、最後はハガダー制作現場に 行き着く。1996年から始ま り1480年までゆく。その後 に2002年があるのだが、こ れは別と言ふべきかどうか。こ の500年間の物語は実におも しろい。実際にこんなことがあ つたのではと思つて見たりす る。
・物語の中心にゐるのはユダヤ 人である。ヘブライ語の書だか ら当然のことだが、ハガダーは ユダヤ人に守られてきた。それ がいくつもの物語になつてゐ る。そこに共通するのは虐げら れたユダヤ人である。ナチスド イツの時代も含めて、ユダヤ人 は虐げられてきた。15世紀も 同様である。そんな中でこのハ ガダーがいかに作られたのか。 1480年は「白い毛」と名づ けられた物語である。その毛は 猫の毛であつた。ただし、「毛 表皮から、猫の毛にあるはずの ない粒子が検出されたわ。黄色 のとくに強い染料に含まれる粒 子が。」(426頁)といふも のであるがゆゑに、この毛がい かなるものかは分からない。そ れを明らかにするのが「白い 毛」である。その最後、主人公 がモーセの魔法の杖の話をきき ながら、「もし、ここにもそん な杖があれば、私も自由になれ る。」(490頁)と考へる。 さうして「自由と祖国。そのふ たつこそユダヤ人が切望してい たもの」(同前)だとして、 「大海がふたつに分かれて、私 は歩みだす。故郷へ通じる乾い た果てしない道を悠然と。」 (同前)本当に歩き出したのか は分からないのだが、自由と祖 国を求めるユダヤ人の心がここ にある。これは1996年の物 語にも共通する。のみならず、 現在進行中のガザの戦争にも共 通する。常識的にはそれがいか なる悪であれ、ユダヤ人には祖 国と自由を求めるためにはさう せざるを得ないといふことであ らう。それでも、イスラエルは ガザの戦ひから直ちに手を引く べきだと私は思ふ。手を引いて 自由と祖国、自由な祖国が得ら れるかどうかは分からない。本 書はそんな政治的物語ではな い。あくまでハガダーをめぐる ミステリーであつた。
23.12.02
・
河 添房江「紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語」
(角川文庫)は書名そのままの書であ る。 「本書では、紫式部が体験した 王朝文化の世界を、特に唐物と よばれる異国のモノを通じて」 紹介するものである。だから 「源氏物語」からの引用が多く あり、更に「枕草子」等のさま ざまな王朝文学からの引用もあ る。本書の原題を「光源氏が愛 した王朝ブランド品」といふ。 この書名からして、一般受けを ねらつた書であるらしい。それ を内容に即して改題し、文庫化 したのが本書なのであらう。第 一章「紫式部の人生と唐物」に 始まり、第十六章「舶来ペット の功罪」で終はる。最初だけは モノではなく人である。ここを 読んだら、後は自由に適当に読 めば良い。香から猫まである。 実に様々である。紫式部の身の 回りは唐物、今少し広く言ふと 舶来品に取り囲まれてゐたのだ と知れる。そんな書であるが、 個人的にはかういふ文体と次を 予告するやうな章の進め方には 違和感を覚える。それを気にし ながら読んでゐた。
・平安時代の唐物といつても私 はほとんど知らない。ネコとい つても、現在のネコと同じか違 ふのか、ここから分からない。 すべてがさうである。第十五章 は「王朝の紙の使いみち」であ る。紙がなければ王朝文化がか うして残つてゐるのかと思ふの だが、しかし、その紙はいかな るモノでいかにして作られてゐ たのか、つまり紙の使用以前の 状況を私は知らない。
使ふ人が ゐれば作る人がゐる。平安時代 は、「平城天皇の大同年間(八 〇六〜八一〇)は朝廷の製紙所 である紙屋院(『