未 読・晴購雨読・つん読
24.05.04
「Mac等日記」
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未読・晴購雨読・つん読 2019.06
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未読・晴購雨読・つん読 2020.06
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未読・晴購雨読・ つん読 2022.06
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夏来健次編「ロンドン幽霊譚傑作集
」
橋口侯之介「和本への招 待 日本人と書物の歴史」
劉慈欣「流浪地球」
宮田登「新版 都市空間 の怪異」
リチャ−ド・マシスン 「奇蹟の輝き」
三角寛「山窩奇談〈増補 版〉」
J.R.R. トールキン「最新版 シルマリルの物語」
春日武彦 「奇想版 精神医学事典」
丹治愛 「ドラキュラ・シンドローム 外国を恐怖する英国ヴィクトリア朝」
ジェラル ディン・ブルックス「古書の来歴」
河添房江 「紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語」
徳井淑子 「中世ヨーロッパの色彩世界」
紀田順一 郎「古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿」
フレド リック・ブラウン「死の10パーセント」
井原忠政「三河雑兵心得 足軽仁義」
山 口仲美「日本語が消滅する」
松木武彦「古墳とはな にか 認知考古学からみる古代」
フランチェスカ・ T・ バルビニ&フランチェスコ・ヴァルソ「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」
南鶴渓「文字に聞く」
劉慈欣「円 劉慈欣短 篇集」
柳宗悦「民藝図鑑」第 一巻
京極夏彦「遠巷説百 物語」
後藤総一郎「神のかよ い路 天竜水系の世界観」
伊藤典夫編訳「吸血鬼 は夜恋をする」
岡村青「世界史の中の 満州国」
ケン・リュウ編「金色 昔日 現代中国SFアンソロジー」
石井正己編「菅江真澄 図絵の旅」
ジェラルディン・マ コックラン「世界のはての少年」
神永曉「辞書編集、三十 七年」
夏来健次 編「英国クリスマス幽霊譚傑作集」
郡司すみ「世界の音 楽器の歴史と文化」
安東麟「本字を知る 楽し み 甲骨文・金文」
T・キングフィッ シャ− 「パン焼き魔法のモーナ、街を救う」
松下幸子「江戸 食 の歳時記
」
桂竹千代「落語DE古事 記」
東雅夫編「日本鬼文 学名作選」
新谷尚紀編著 「民俗学がわかる事典」
都築 響一「圏外編集者」
シャンナ・スウェン ドソン「偽のプリンセスと糸車の呪い
」
ソフィア・サマター 「図書館島」
杉浦日向子「お江戸 暮ら し 杉浦日向子エッセンス」
24.05.04
・ またである。何匹目の泥鰌になるのか。
夏来健次編 「ロンドン幽霊譚傑作集」
(創元推理文庫)、この手の物語の愛好家が多いのであ らう。私もそれに当たるのか、何匹目かにもかかはらず私は買つた。この古風な物語にはこのまま捨て おき難いものがある。しかし、最後は忘れてしまふ。そんな物語ばかりである。本書には13編収録、 巻頭のウィルキー・コリンズ「ザント夫人と幽霊」のみ既訳あり、他の12編は初訳である。コリンズ 以外で知つてゐる人はイーディス・ネズビットぐらゐであらうか。「砂の妖精」の作者である。これ以 外の人は知らないのだが、ネズビットを含めて9人が女流作家である。意識して選んだのかどうか。た ぶん意識せずにかうなつたのであらう。この19世紀末のヴィクトリア朝にはかくも女流作家多かつた のであらうか。「当時じつはその分野で最も大勢を占めていた現今知られざる怪奇系作家たち」(「編 者あとがきー魔の都、霊の市」388頁)とはあるが、女流には触れてゐない。19世紀末英国の、い かにも幽霊譚ばかりであつた。
・とは書いたものの、実は一番面白かつたのは巻末のウォルター・ベサント、ジェイムズ・ライス「令 嬢キティー」であつた。共作だが、これは2人とも男性であらう。最初の解説には、本作は「ユーモア 怪談で、小生意気な少女幽霊の憎めない魅力が微笑ましく、皮肉味のある落ちも利いた作品。」 (360頁)とある。珍しくユーモアに満ちた怪談である。しかもこの幽霊、昼間も出てくる。この手 の怪談集でかういふ作品を読むのは初めてのやうな気がする。あつたかもしれないけれど、たとへさう だとしても、ごく少数でしかないであらう。何しろ、怪談を読むのは怖さを求めてである。ユーモアだ つたら最初からユーモアと謳つた作品を読めば良い。ところがこれはユーモア怪談であつた。先の引用 の通りの作品で、「小生意気な少女幽霊の憎めない魅力が微笑ましく」といふのは正にその通りであつ た。幽霊に対する主人公(?)の男性も、簡単に少女の話に乗つてしまふ。このあたり、およそ怪談の 雰囲気はない。最後もハッピーエンドである。世の中、かういふ怪談ばかりでは飽きられようが、かう いふ怪談が少ないからこそ、この作品の存在価値がある。他の作品は普通の怪談である。例へばネズ ビット「黒檀の額縁」、これもよくある語り出しである。遺産として家を相続したところから物語は始 まる。その居間に版画があつた。「暖炉の上の壁にかかる版画(中略)で、黒い額縁に収められてい た。」(238頁)その額縁は「上質な黒檀製で、精妙で美麗な飾り彫りがほどこされてい」(同前) た。その版画をもとの油絵にもどすと、召使ひが「ほんとに素敵な肖像画ですこと!」(241頁)と 言つた。その絵は……といふことで、「以上がどのようにして愛する人を手に入れそして失ったのかの 経緯だ。」(256頁)と終はる。額縁に関はる幽霊譚である。よくある絵から抜け出した人物であ る。絵にまつはる因縁も含めて、よくできた幽霊譚であつた。しかし、ネズビットは児童文学作家であ り、ファンタジー作家であつたといふ。私は「砂の妖精」しか知らない。こんな作品もあつたのであ る。アンソロジーといふもの、時にかういふ作者の別の面を見せてくれることもある。これもそんな作 品であつた。本書はまともな幽霊譚ばかりだが、その中で「令嬢キティー」はいささか例外であつた。 これを良しとするかどうか。個人的にはかういふのもおもしろいと思つた。とまれ、何匹目かの泥鰌で あつても、私は本書を楽しんだ。しかし、これがまだ続くとなるといつまでつきあへるかである。さて 如何。
24.04.20
・
橋口侯之介「和本への招待 日本人と書物の歴史」
(角川文庫) を読んだ。かういふ内容の書は他にもあるのだらうけれど、これは分かり易くまとめてある。著者は古書店主である。そ の経験から書かれてゐる。「神保町に来れば三百年、四百年前の本が、何食わぬ顔で展示販売されている。」(「まえが き」4頁)そんな中に現在もゐる人であるから、「書物を一人だけの所有物で終わらせるのではなく、『お預かりもの』 として次の人に託することがつねに考えられてきた。しかも、それが千年以上続いてきた。長い時間残すこと、すなわち 伝えるということにこそ日本人の書物に対する観念の基礎があると」(同前)いふのである。実際、神保町は言ふまでも なく、それ以外でも和本を扱ふ古書店は多い。それは日本人のかういふ「書物に対する観念の基礎」から来る。そこから 冒頭の一文「日本人は本が好きな国民だと思う。」(同3頁)や巻末の「そう、やはり日本人は本好きなのである。」 (263頁)が出てくる。私はこんなことを考へたことはなかつた。古本屋だから和本を扱ふのは当然だと思つてゐた。 しかしどうもさうではないらしい。「きちんとした国際比較調査がないので、具体的な数値であらわせないのは残念だ が、古本屋の店先でも、各地の図書館でもとにかく蔵書数が多い。実際につくられた本の数の問題ではなく、それを残し てきた一連の行動がそうさせたのだ。」(「あとがき」265頁)文脈からして、和本に限定しての記述だと思ふ。それ ほど多くの和本が残つてゐるらしい。インターネット上には和本が多くある。安ければ数百円で買へる。インターネット と残存和本の多さがありがたい。かくして私の手に渡つた和本も、「お預かりもの」としてまた次の誰かに渡るのかもし れない。こんなことを考へる私にも「書物に対する観念の基礎」がすり込まれてゐるのであらう。
・その和本を筆者は〈本〉と〈草〉に分ける。第五章は「揺れ動く〈本〉と〈草〉」と題され、その最初は「正規の 〈本〉と大衆の〈草〉」となつてゐる。〈本〉〈草〉は他でも言はれてゐたはずである。本は物の本である。ごく大雑把 に言へば難しい書物、今でいふ専門書の類である。著者は「本格的な書物」(208頁)といふ。草は草紙、仮名草子や 赤本、黄表紙等の大衆読み物である。これらは近世初期に「唱導文学だった各種の語り物も文字化されて出版されるよう になった。軍記物やお伽草子、浄瑠璃などである。」(207頁)といふ流れの中にある。個人的には所謂語り物やもつ と前の絵巻が書物の歴史の中に出てくることに違和感を覚える。絵巻は巻物、巻子本である。さういふ形を本といふこと に違和感を感じるのだが、それでも現在は古本屋も扱つてゐる。ところが唱導文学は字の如く「仏法を説いて衆生を導く 語りもの」(wiki)文学である。その文字化以降を〈草〉といふのならば分かるが、ここでは「形のない中世の 〈草〉」(218頁)といふ。「〈草〉の書物にとって中世は『暗黒時代』だったやうに見受けられる。しかし、それは 紙に書かれて綴じられたもの=書物という概念にとらわれた見方である。」(225頁)私はこの概念に囚はれてゐるら しい。唱導文学以前もまた〈書物〉であつた。「今風にコンテンツ」(226頁)である。それが近世初期に演劇や 〈草〉となる。近世以前は文字通り語りが中心で書物はその後だといふのである。現在、文学史でこれをどう扱つてゐる のか知らないが、語りと書物を「コンテンツ」といふのは私には新鮮な考へであつた。ここにも「お預かりもの」といふ 考へがあるのかと思ふ。やはり、日本人は本好きなのであつた。
24.04.06
・
劉慈欣「流浪地球」
(角川文庫)を読んだ。その解説の加藤徹 「SFと『科幻』ー劉慈欣文学の魅力」に次のやうな文章があつた。中国は科幻系の国である。「『科幻』系の国々で は、たとえ虚構でも、そんな空想を発表した作家は、たたではすまない。」(301頁)そんなとは、例へばゴジラの東 京襲撃である。これだけで恐ろしくなるのだが、中国の作家はそれでも書いてきた。どのやうに書いたか。「劉氏の出世 作『三体』の物語は『文化大革命』から始まる。(中略)米ソをさしおいて、社会を恨む中国人が最初に宇宙人と交信す る、というあの物語の冒頭は、科学的には不自然だが、科幻としては正しい。『文革』は、中国共産党があやまちであっ たと失敗を認めている、唯一の時代だからである。」(301〜302頁)以下、本書の短編について述べる。「『呪い 5.0』は中国の科幻小説では珍しく、実在の中国本土の都会が火の海になる。が、ここにもクレバーな配慮が周到にめ ぐらされている。まず、舞台は北京ではない。」(302頁)以下、「この作品に限っては筒井康隆氏のスラップス ティック小説や横田順彌氏のハチャメチャSF作品のようである。」(同前)とか、「自分自身を作品の中に滑稽な描写 で登場させた。」(同前)とあり、これらの「どの一つの要素が欠けても『幻想』ではなくなる。ギリギリの作品なの だ。」(同前)といふ。私が読んでも政治的には何とも思へないのだが、実は相当な配慮のなされた作品であつたらし い。それを「クレバー」と言ふ。これまでいくつかの作品で危なさうなのがあつたが、それらも同様の配慮のなされた 「クレバー」な作品であつたらしい。かういふことまで考へて書かねばならないのは相当な苦痛であらうと思はれる。も しかしたらいかに当局をだますかの知恵比べをしてゐるのかもしれない。これは身に危険の及びかねない知恵比べである が、これも考へ方で、「科幻は、現実社会との間合いに対する深謀遠慮を余儀なくされる反面、想像力の面では幻想の特 権をフルにいかすことができる。」(同前)といふことにもなるらしい。それが現代中国のSF作家である。
・私は中国における政治と文学の関係にこだはつてSFを読んできたと思ふ。SFではないが、莫言はリアリズムで書い てきた。だからノーベル賞ももらへた。それに値する作品でもあつた。SFの場合はリアリズムではなく想像力の世界と なる。創造=想像である。「呑食者」は他の短編集にあつた作品の前日譚である。ここで呑食者たる大牙は、地球初お目 見えの時、「ヨーロッパの首脳のひとりをつかむと(中略)優雅に口に放り込み、咀嚼しはじめた。」(107頁)のだ が、これも中国人でないところに意味がある。いかに国連でも事務総長や首脳が中国人で、それが食はれたりしたらそれ こそ「たたではすまない。」その一方、大牙の相手たる大佐(300年後!には元帥)は“冷静なアジア人”である。中 国人としても良ささうだが、これは分からない。こちらは国連首脳とは違ふ。ここにもそんな「クレバー」な配慮がある のであらうか。中国でSFを創作するのはかくも大変だといふことである。さうするとこれまで危なさうだと思つた作品 で、英語版しか出てゐないやうなのはやはり「クレバー」ではなかつたといふことか。中国や中共を思はせてはいけな い。これだけなら易しい、たぶん。しかし、そこを超えると様々なことが出てくる。ちよつとしたことでも危ない。「子 どものころから『愚公移山』を暗記してきた中国人にとって『流浪地球』の世界観は、すんなり胸に響く。」(304 頁)さういふ世界に生きてきた人であつたのかと思ふ。
24.03.16
・私は宮田登といふ民俗学 者をほとんど知らない。「ミロク信仰の研究」といふ著者があるのは知つてゐたが、読んだことはない。これから分かるやうに、 この人は民間信仰あたりを中心にやつてきた人であるらしい。小松和彦の「解説 宮田登の妖怪論」によれば、妖怪ブームに関し て「民俗学という学問的立場から、こうしたブームに応えるかたちで、メディアを通じて妖怪関係の情報を提供したのは、ブーム の当初では宮田登とわたしのたった二人であった。」(298頁)さうだから、妖怪学の先駆けといふことになる。小松和彦が妖 怪に関していろいろと書いてゐたことは知つてゐた。ところが、この人の「妖怪研究は『妖怪の民俗学』(岩波新書、ちくま学芸 文庫)と本書のわずか二冊であって云々」(小松和彦「文庫版解説」330頁)とあるやうに、あまり多くないのである。その本 書、
宮田登「新版 都市空間の怪異」
(角川文庫)はその意味で 貴重な一冊である。しかも「都市空間の怪異」である。小松和彦は都市といふことには限定されるやうな研究ではなかつたと思ふ のだが、この人のこの著作は確かに都市空間と言へるものである。その意味でもおもしろさうである。小松の解説にも、「出版社 側は、著者の意図を汲みつつ書名を考えていったとき、『都市』と『怪異』を結びつけたところに、著者の研究の新鮮さが浮かび あがってくるのではなかろうか、と判断した」(304頁)とある。書名が作つて売る側も認めた「新鮮さ」であつた。
・「明治三十年以後、百鬼夜行は姿をみせなくなった。暗闇がしだいになくなった生活環境だからといえば当然であるが、しかし 近年不思議な現象が語られるようになった。例の『学校の怪談』である。」(46頁)といふ文章は小松も引用してゐる。谷崎潤 一郎の「陰翳礼賛」を思はせる一文である。闇がなくなつたことに、宮田は妖怪の不在を感じ取る。そして新たな怪談である。こ れは必ずしも暗いところではない。トイレの花子さんは真つ暗なトイレにゐるわけではない。「都市のコンクリート造りの巨大な 校舎の一隅に設けられた清潔感あるトイレは、木造校舎の悪臭ただよう肥溜めの便所と大いにちがう。不思議なことにご不浄のイ メージのある便所よりも、浄化装置の十分な清潔なトイレに血だらけの場面が顕わになっている。」(190頁)かういふのを宮 田は、「面白いのは、主にインフォーマントが小学生に絞られていることだ」(189頁)、「次々と噂は伝播し、かつ類型性を 帯びて半ば真実と信じられていく」(同前)、「同齢感覚に支えられた級友仲間に語り出されているのも特徴」(同前)であるな どと説明してゐる。つまり宮田にとつてこの種の怪談は、「級友仲間に語り出されている」うちに「半ば真実と信じられていく」 ものであつた。当然ことながら極めて合理的な態度である。これが井上円了評価につながるのであらう。「井上にとって『妖怪』 は撲滅すべき『迷信』と同義であつた。そして多くの『妖怪』(=迷信)を撲滅するために、『妖怪』の科学的・合理的説明に精 力を注いだ」(小松解説311頁)のだが、「宮田登はこうした井上の妖怪退治に対して、肯定も否定もしない。近代化とはそう いうものだと了解していたのであ」(同312頁)るらしい。しかし、先の文章からすれば、宮田が「『妖怪』の科学的・合理的 説明に精力を注い」でゐるのは明らかであらう。学問として妖怪をやつてゐる人ならば当然の態度である。宮田がかういふことを やつてゐた民俗学者であることを私は知らなかつた。妖怪といふもの、実在するかどうか分からない。おもしろいけれどというの が正直な感想であつた。
24.03.02
・
リチャ−ド・マシスン「奇蹟の輝き」
(創元推理文庫)を読んだ。本書は 第4版、去年の復刊フェアの一冊である。初版が20世紀終はりだから読んでゐても良ささうに思ふのだが、私はこれを読んでゐ ない。買つてもゐない。気がつかなかつたのか、読まうと思はなかつたのか。いづれにせよ私には無縁の本であつた。ところが今 回は気がついて買つた。本書の評価は高いやうで、映画化もされてゐるらしい。さういふのとは無関係に買つた。そして読んで、 これが稀有なラブストーリーであることは分かつた。ただ、私はかういふのが好きではない。ラブの方ではなく、作品の舞台がで ある。「訳者あとがき」に出てゐる、プロデューサーのスティーヴン・サイモンの感動は特殊な場で愛を貫くことからくるのだら う。それが「愛と生命の神秘に魅せられ」(406頁)といふことなのであらう。確かに「愛と生命の神秘」かもしれないと思 ふ。最後に輪廻転生が出てくる。私には意外だつたのだが、愛を貫くためには是非とも必要なものなのかもしれない。しかし、個 人的には今一つ好きになれない物語であつた。
・物語の構成は実に分かり易い。起は、主人公クリスの交通事故死、その死を直ちに受け入れられない。承は、死を受け入れ、ク リスは「常夏の国」にゐると知る。転は、妻アンの死である。ここから冥界巡りが始まる。結は、めでたしめでたしで終はる。実 を言へば、物語の目次も4つに分かれてゐる。見え見えなのである。かうも見事に構成されたことを明示する作品が多いのかどう か。しかし、起承の舞台の描写には、違和感と言ふよりも既視感とでも言ふべきものがある。既視感、つまりどこかで見たやうな 感じである。これをマシスン自身は巻頭の「読者に」でかう書いてゐる、「本書の創作面はごく表面的な部分にかぎられている。 登場人物と、その人間関係だ。(原文改行)これら部分的な例外をのぞく諸々の記述は、もっぱら調査にもとづいて書いた。」 (11頁)その資料一覧が巻末にある。すべて英語文献であらう。だからタイトルから想像するだけなのだが、それでも死後の世 界や霊界通信の類ではないかと思はれる。マシスンはかういふ書の都合のよい部分を抽出して物語に仕立て上げたのであらう。 「かすかな声が聞こえてきた。なにを言っているのかはわからない。ぼんやりと、そばに立つ人影が見えた。両目を閉じていたの に、それが見えたんだ。」(25頁)これは、日本的に言へば、幽明境を分かつことができない主人公の様子である。「苦心して かがみこみ、自分の顔をじっと見つめた。唇は紫になり云々」(29頁)ここでもまだ死を自覚できない。最後近くで、「男のそ ばに近寄り、死んでいるらしいと知った。それにしても、ぼくのベッドにほかの患者が寝ているとはどういうことだ?」(32 頁)まだかうである。要するに、これらはクリスは肉体から精神が分離して己をながめてゐるといふ、よくある臨死体験の描写の 変形であらう。さういふ描写を知らなければ既視感はなからう。私はよくは知らないが、何も知らないわけではないといふ程度で ある。それでも見たことがある、聞いたことがあるといふ感じを免れない。これは「常夏の国」でも同様で、ここは天国の一部で あるらしいが、そこに書かれてゐることもどこかで見たやうなものである。マシスンは「記されている内容は、どれも型にはまっ たように同じだった。」(12頁)と書いてゐる。実際にあるのかどうかは分からないが、現状での死後の世界への認識は似たや うなものであるらしい。これがこの物語の最大の欠点であらう。それをマシスンの筆力、想像力が補つたのが本作であつた。
24.02.17
・
三角寛「山窩奇談〈増補版〉」
(河出文庫)を読んだ。三角寛の山窩は信 用できないと思はれてゐる。私にはそのあたりは分からないが、信用できる内容ではなささうだと思つてゐる。山窩文学といつた ところで、どれだけ山窩の実態を踏まへてゐるのか分からないといふ。しかし、読むとおもしろい。実におもしろく書いてある。 それを真実の力とみるか、想像力の産物とみるか、これが評価の分かれ目である。私にはこれが分からない。第一、山窩を正確に 知らないのである。山窩はwikiには「日本にかつて存在したとされる放浪民の集団である。」とある。「明治期には全国で約 20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定されている」(wiki)が、統計的に調べられたことがないの で、この数字もあまりあてにならない。定住民からは「物を盗む犯罪専科の単位集団として規定されていた。」(wiki)らし いが、箕作りを生業とする者が多いのは本書からも知れる。ただ、第二次世界大戦中には山窩に言及されることはほとんどなくな つた(wiki)といふ。この頃には山窩は漂泊放浪民から定住民へと変はつてゐた、あるいは変はらざるをえなかつたのであ る。三角寛が山窩を書いたのは昭和10年前後である。この頃、山窩はいはばこの人の専売特許であつた。ただし本書「山窩奇 談」は昭和41年に出てゐる。山窩の流行は終わはつた時代である。しかし三角はまだ書いてゐた。「戦前に発表した『サンカ小 説』に加筆、修正を施すなどして、『実』を強調する形で再編集された一冊である。」(今井照溶「解説 虚実の民衆精神史」 357頁)といふ。事実を強調してあるらしい。そこでかうも言ふ、「『虚』を『実』であるかのように騙っていたからといっ て、三角寛に『インチキ』の烙印を押して済ますわけにもいくまい。そこから『実』を発掘できる余地はまだあるはずだ。」 (375〜358頁)この人の考へでは、三角寛のサンカ小説は「民衆の精神史と逢着するはず」(358頁)だといふ。しかし 山窩から民衆を取り出して良いものかどうか。山窩が民衆を代表するならばともかく、山窩は多くても数十万人程度である。しか も定住せずに漂泊するのみ、このやうな民が「民衆の精神史」に逢着できるかどうか。私はインチキとは言はぬまでも、三角寛か ら「実」を取り出して「民衆の精神史と逢着」させるのはかなり無理があると思ふ。いや、現実の学会からは三角寛はほとんど無 視されてきたのである。
・第二話「蛇崩川の蛸入道」は国八老人が盲目の娘お花の助勢で殺しの犯人を捕らへる話、第八話「尼僧のお産」は熊谷直実なる 山窩が妙蓮といふ尼と結婚して有籍者になる話、増補分の「元祖洋傘直し」は洋傘直しの山窩の親分猪吉が亡くした女房によく似 た元旗本の娘お雪と一緒になる話、これは一族で有籍者の仲間入りである。たまたま美しい女性の出てくる話ばかりだが、皆うま くいつてゐる。山窩であつた者が有籍者になるのはこの頃は結構あつたのであらう。だからこんなものかもしれないが、しかしい づれもうまくいきすぎてゐる。うまくいつた話だけ出したとも言へようが、他の話も皆結局はうまくいつてゐる。かういふのが信 用できないといふのであらう。先の「解説」に、「『サンカ』という題材を得て、想像力を駆使して事実を脚色する度合いは次第 に強まっていった(中略)荒唐無稽さが増し、伝奇性が前面に押し出された。」(356頁)とある。これらもさういふものであ らうか。私には判断できないが、その「荒唐無稽さ」ゆゑに実におもしろく読める。それが三角寛だといつて読んでゐれば良いの であらう。おもしろい。
24.02.03
・
J.R.R. トールキン「最新版 シルマリルの物語」
(評論社文庫)を読んだ。「指輪物語」は読んでゐるが、こちらはまだ であつた。この物語の翻訳は初出から既に50年近く経つてゐる。その間、新版、最新版と出た。単純に言へばこれが第3番目の訳と いふことになる。これが出てゐるのを知らなかつたわけではないが、これを読まうといふ気にはなれずにゐた。それが去年の文庫本 「最新版 指輪物語」の完結である。これでやつと読まうといふ気になつた。本書の帯に「唯一なる“神”エルによる天地創造の物 語」とある。神話である。「『アイヌリンダレ』は、唯一なる神と天地創造の創世神話、『ヴァラクウェンタ』は、天使的諸力とも言 える神々の話です。とっつきにくいところもあるかもしれませんが、これらの創世神話は、トールキンの手紙からもうかがえるよう に、作者が長年心を傾けてきた仕事なのです。」(田中明子「『新版』訳者あとがき」下335頁)この言のやうに、最初の2編は見 事な神話である。以後はエルフの物語である。
・「唯一なる神、エルがおられた。」と始まる。そして「エルは初めに、聖なる者たち、アイヌールを創り給うた。聖なる者たちは、 エルの思いより生まれ、ほかのすべてのものが創られる以前に、エルと共にあった。(原文改行)エルは聖なる者たちに語り給い、音 楽の主題をかれらに与え給うた。」(「アイヌリンダレ」83頁)この歌は、最初は「聖なる者たち一人一人の理解は、イルーヴァ タールの御心のうち、各自の出で来った部分にしか及ば」(同前、エル=イルーヴァタールである。)なかつたが、やがてそれが二重 唱、三重唱になり、更に合唱になつていく。「耳を傾けて聞くにつれ、聖なる者たちの理解は深まり、ユニゾンとハーモニーはいや増 していった。」(同前)そして、「イルーヴァタールはかれらに言われた。『すでに汝らに明かせし主題により、われは汝らが調べを 合わせ、大いなる音楽を作らんことを望む。云々』」(同84頁)かうして「大いなる音楽が」奏されることになる。しかし物語の常 として、かういふ時にはそれに逆らふ者が必ずゐる。それがメルコールであつた。メルコールは「アイヌール中最も力ある者であ」 (下「語句解説および索引」381頁)り、「モルゴス」や「冥王」等の名で呼ばれてゐる悪の化身である。全編を通して善と悪、エ ルフ達とモルゴス一派の戦ひが描かれる。最後の「力の指輪と第三紀のこと」はその締めくくりと言はうか、「指輪物語」がごく端的 に語られる。「小さい人のフロドは(中略)サウロンを物ともせず滅びの山に赴いて、指輪が造られた火の中に大いなる力の指輪を投 じ、その結果、指輪は無に帰し、指輪の悪はすべて燃え尽きた。」(下332頁)勧善懲悪の壮大な物語をかくも短くまとめたのに対 し、それ以前の神話時代は全24章、文庫本1冊以上になる。それぞれの時代の代表的な出来事を書いていけばかうなる。長命である ことを除けば、エルフは極めて人間的である。悪はモルゴスの手下のサウロンが暗躍する。これもまた人間的である。人間はと言へ ば、初めは悪の側が多い。その後、エルフと交はつたりして、善に移る者も出てくる。「指輪物語」以前にかくも壮大なる世界があつ たのかと思ふ。これをトールキンが創つた。しかもその言語、エルフ語も創つた。下巻の付録には索引もある。これは役に立つ。そし て発音の注意(下348頁)とか固有名詞の語素(同372頁)であらうか、これも名前と比べてみるとおもしろい。いささか遅きに 失しはしたが、さすが人工の神話である、作者は言葉も創つてしまつた。おもしろい物語であつた。
24.01.20
・私が積んでおくのは辞書の類で ある。辞書とはさういふもので ある。
春日武彦「奇想版 精 神医学事典」
(河出文庫)も そんな辞書だと思つてゐた。最近、本を整理しようと思つてこ れをみつけた。確かに辞書の形態はしてゐる。しかし「序」は かう始まるのであつた。「本書は事典としての実用性に乏しい。不便なのである。なぜなら巻末の索引を用いるといった 『ひと手間』を経なければ目当 ての項目には行き着けない」(3頁)。しかも配列は「『連想』に拠っている。(中略)す べて連想の連続によって見出し 語が並べられて」(同前)をり、そのため「冒頭から順番に読んでいくのが、本書の正しい 読み方である。」(4頁)といふ。だから「無人島へ持って行 くには最適の一冊であろうと自負している。」(同前)さうで ある。こんな辞書とは気がつかなかつた。私は普通の、文庫版の精神医学の事典であると思つてゐた。珍しいと思つて買つた のである。その時、書名の「奇想版」に気づいてゐれば中身を 確かめたのかもしれないのだが、残念ながらそんなことは気 にもしなかつた。さうして辞書 の一冊として我が家に積まれてあつた。春日氏からすれば、何と不本意な所有のされ方であつ たことか。しかし、奇想版の奇想版たる所以に気づいてしまつ た今、実用性の有無は関係ない、私はとにかく読もうと思つ たのである。もちろん最初から 終はりまで通して読む。春日氏の「正しい読み方」の実践である。
・見出しは「神」に始まる。 「隠された必然」「アトランティック・シティーー上空の空飛ぶ円盤」「ブリキの金魚」 「家族的無意識」等々と続く。見出しだけ並べてもこれが連想であるとは分からない。書いた本人はなぜかうした連想をした のかは分かつてゐるのだが、読むのは本人ではない。読んで初 めて連想が正しく行はれてゐる(らしい)と分かる。頭から順 番に読めといふのは、その連想 の妙を味はつてほしいがためでらう。ただ、問題なのはこの人の連想についていけるかどうか である。「ブリキの金魚」は島尾敏雄であつた。その「三つの記憶」の冒頭部分による。その金魚の赤が「アトランティッ ク・シティー上空に滞在する空飛ぶ円盤の赤色と同じものだった」(13頁)ことによる連想であつた。私は島尾のこの小品 を知らない。引用があるから分 かるとは言へる。しかしそれだけである。それ以上にはならない。この人はかなりの読書家で ある。島尾は他でも引用されてをり、「自分の抱えている不安に近いものを文章で上手く定着させている作家はいないだろう か」と考へ、「結果として、島尾敏雄の作品と出会うことになった。」(560頁)といふ。私にはさういふ経験がな い。だから島尾をほとんど知らない。この後に北杜夫の項がある。同じ精神科医といふ親しみもあるのだらうが、しかしその 評価には、「そうした危うさがないぶん、北の純文学はシリアスであっても安心して読める。 だがわたしにはそのような不安 成分の少ない純文学は必要がない」(562頁)とある。「強 烈な不安感が漂ってこない。」 (同前)といふのである。この 後に北の患つてゐた躁うつ病(双極性障害)が来る。ここに北の病の具体的な説明もある。北がその病をカミングアウト し、「むしろそれを自ら戯画化した。」ことを「大きな功績と認められ」(563頁)ると言つてゐる。これも読んでゐるか らこそ書けることであらう。海外文学の引用も多い。ブルー ノ・シュルツなどといふマイ ナーな作家も出てくる。シャー リー・ジャクスンやH・G・ウェルズも出てくる。これは索引の効用である。かくして本書は「言葉のびっくり箱」(穂村 弘「解説」、611頁)であつた。おもしろいかも?
23.12.30
・ 私はドラキュラや吸血鬼が好き だが、このやうな書を読んだこ とはなかつた。
丹 治愛「ドラキュラ・シンドロー ム 外国を恐怖する英国ヴィク トリア朝」
(講 談社学術文庫)である。元版は 東京大学出版会から出てゐる。 原題を「ドラキュラの世紀末ー ヴィクトリア朝の外国恐怖症の 文化研究」といふ。いかにも学 術書である。この副題の方が内 容を想像し易いとは言へる。 「本書のどこが文化研究なので しょうか。(改行)それは端的 にいって、この本の関心が最終 的に『ドラキュラ』のテキスト それ自体にむかっているのでは なく、テキストに認められる外 国恐怖症というヴィクトリア朝 の文化的コンプレックスにむ かっているからです。文化がこ の本の最終的な関心だからなの です。」(317頁)これだけ で明らかである。ストーカーの 「ドラキュラ」が分析対象では あつても、引用書は当時の政治 家や社会情勢に関するものがほ とんどである。「ドラキュ ラ」=吸血鬼小説としか考へら れない人間には無縁の世界であ るかに思はれる。しかしそれが おもしろいのである。それが 「文化研究」によるのはまちが ひない。「テキストに認められ る外国恐怖症というヴィクトリ ア朝の文化的コンプレック ス」、これがいかなるものであ るのかを順次書いていく。それ は私には考へられないことども であつた。
・目次は「イントロダクショ ン」に始まる。文字通りの導入 部であるが、この後半は「ドラ キュラの年は西暦何年か」 (23頁)といふ章である。私 は、西暦何年にドラキュラが出 没したのかなどと考へたことは なかつた。これ以後との関係 で、この年は大いに問題になる らしい。そこで子細な検討が加 へられてゐる。さうして 1893年といふ西暦年が出て くる。ごく大雑把に言つて世紀 末である。これは「文化的コン プレックス」にも関係してゐ る。「コンプレックス」は「帝 国主義の世紀末」、「反ユダヤ 主義の世紀末」、「パストゥー ル革命の世紀末」と続き、更に 文庫版の補遺として「もうひと つの外国恐怖症ーエミール・ゾ ラの〈猥褻〉小説と検閲」で終 はる。これらがかつての英国に もあつたであらうことは容易に 想像できる。それが「ドラキュ ラ」にも関係してゐたのであ る。「帝国主義」の最後は新興 国家アメリカである。「他民族 をたえず『同化/吸収』しつつ その領土を拡大していくアング ロ・サクソン民族は、吸血しつ つ彼の『同類』をふやしていく ドラキュラとなんと似ているこ とでしょう。ドラキュラとはじ つは抑圧された彼らの自己イ メージだったのかもしれませ ん。」(148頁)この時点 で、アングロ・サクソン世界の 「一方のセクションは多くの部 分に分割分断されており、他方 は分割されていない全体として 大いにその力を増大させてい る」(146頁)といふ状況に あつたが、「分割分断」が英 国、「力を増大させている」の が米国であつた。よりはつきり 言へば、ドラキュラは「つぎつ ぎに植民地を失っていく二〇世 紀末の大英帝国の運命を予徴す るかのように、ついにその肉体 を切り裂かれることによって、 『支配者』たる地位を失ってい く」存在でしかない。これが 「コンプレックス」である。こ のやうにドラキュラと英国が関 係してゐるのであつた。「反ユ ダヤ」でも「パストゥール」で も、そして「ゾラ」でも同様の ことが言へる。正に蒙を啓かれ る思ひであつた。「『ドラキュ ラ』は、多種多様な主題のも と、それが生み出された一九世 紀末の政治的・歴史的コンテク ストのなかでさまざまに解釈さ れてきた。」(325頁)とい ふ。その「さまざまに解釈され た」一つが本書なのであつた。 かくして「ドラキュラ」は本当 に特権的な書である(同前)と 思ふ。