未 読・晴購雨読・つん読  24.05.04


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夏来健次編「ロンドン幽霊譚傑作集
橋口侯之介「和本への招 待 日本人と書物の歴史」
劉慈欣「流浪地球」
宮田登「新版 都市空間 の怪異」
リチャ−ド・マシスン 「奇蹟の輝き」
三角寛「山窩奇談〈増補 版〉」
J.R.R. トールキン「最新版 シルマリルの物語」
春日武彦 「奇想版 精神医学事典」
丹治愛 「ドラキュラ・シンドローム 外国を恐怖する英国ヴィクトリア朝」
ジェラル ディン・ブルックス「古書の来歴」
河添房江 「紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語」
徳井淑子 「中世ヨーロッパの色彩世界」
紀田順一 郎「古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿」
フレド リック・ブラウン「死の10パーセント」
井原忠政「三河雑兵心得  足軽仁義」
山 口仲美「日本語が消滅する」
松木武彦「古墳とはな にか 認知考古学からみる古代」
フランチェスカ・ T・ バルビニ&フランチェスコ・ヴァルソ「ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス」
南鶴渓「文字に聞く」
劉慈欣「円 劉慈欣短 篇集」
柳宗悦「民藝図鑑」第 一巻
京極夏彦「遠巷説百 物語」
後藤総一郎「神のかよ い路 天竜水系の世界観」
伊藤典夫編訳「吸血鬼 は夜恋をする」
岡村青「世界史の中の 満州国」
ケン・リュウ編「金色 昔日 現代中国SFアンソロジー」
石井正己編「菅江真澄  図絵の旅」
ジェラルディン・マ コックラン「世界のはての少年」
神永曉「辞書編集、三十 七年」
夏来健次 編「英国クリスマス幽霊譚傑作集」
郡司すみ「世界の音  楽器の歴史と文化」
安東麟「本字を知る 楽し み 甲骨文・金文」
T・キングフィッ シャ− 「パン焼き魔法のモーナ、街を救う」
松下幸子「江戸 食 の歳時記
桂竹千代「落語DE古事 記」
東雅夫編「日本鬼文 学名作選」
新谷尚紀編著 「民俗学がわかる事典」
都築 響一「圏外編集者」
シャンナ・スウェン ドソン「偽のプリンセスと糸車の呪い
ソフィア・サマター 「図書館島」
杉浦日向子「お江戸 暮ら し 杉浦日向子エッセンス」







24.05.04
・ またである。何匹目の泥鰌になるのか。夏来健次編 「ロンドン幽霊譚傑作集」(創元推理文庫)、この手の物語の愛好家が多いのであ らう。私もそれに当たるのか、何匹目かにもかかはらず私は買つた。この古風な物語にはこのまま捨て おき難いものがある。しかし、最後は忘れてしまふ。そんな物語ばかりである。本書には13編収録、 巻頭のウィルキー・コリンズ「ザント夫人と幽霊」のみ既訳あり、他の12編は初訳である。コリンズ 以外で知つてゐる人はイーディス・ネズビットぐらゐであらうか。「砂の妖精」の作者である。これ以 外の人は知らないのだが、ネズビットを含めて9人が女流作家である。意識して選んだのかどうか。た ぶん意識せずにかうなつたのであらう。この19世紀末のヴィクトリア朝にはかくも女流作家多かつた のであらうか。「当時じつはその分野で最も大勢を占めていた現今知られざる怪奇系作家たち」(「編 者あとがきー魔の都、霊の市」388頁)とはあるが、女流には触れてゐない。19世紀末英国の、い かにも幽霊譚ばかりであつた。
・とは書いたものの、実は一番面白かつたのは巻末のウォルター・ベサント、ジェイムズ・ライス「令 嬢キティー」であつた。共作だが、これは2人とも男性であらう。最初の解説には、本作は「ユーモア 怪談で、小生意気な少女幽霊の憎めない魅力が微笑ましく、皮肉味のある落ちも利いた作品。」 (360頁)とある。珍しくユーモアに満ちた怪談である。しかもこの幽霊、昼間も出てくる。この手 の怪談集でかういふ作品を読むのは初めてのやうな気がする。あつたかもしれないけれど、たとへさう だとしても、ごく少数でしかないであらう。何しろ、怪談を読むのは怖さを求めてである。ユーモアだ つたら最初からユーモアと謳つた作品を読めば良い。ところがこれはユーモア怪談であつた。先の引用 の通りの作品で、「小生意気な少女幽霊の憎めない魅力が微笑ましく」といふのは正にその通りであつ た。幽霊に対する主人公(?)の男性も、簡単に少女の話に乗つてしまふ。このあたり、およそ怪談の 雰囲気はない。最後もハッピーエンドである。世の中、かういふ怪談ばかりでは飽きられようが、かう いふ怪談が少ないからこそ、この作品の存在価値がある。他の作品は普通の怪談である。例へばネズ ビット「黒檀の額縁」、これもよくある語り出しである。遺産として家を相続したところから物語は始 まる。その居間に版画があつた。「暖炉の上の壁にかかる版画(中略)で、黒い額縁に収められてい た。」(238頁)その額縁は「上質な黒檀製で、精妙で美麗な飾り彫りがほどこされてい」(同前) た。その版画をもとの油絵にもどすと、召使ひが「ほんとに素敵な肖像画ですこと!」(241頁)と 言つた。その絵は……といふことで、「以上がどのようにして愛する人を手に入れそして失ったのかの 経緯だ。」(256頁)と終はる。額縁に関はる幽霊譚である。よくある絵から抜け出した人物であ る。絵にまつはる因縁も含めて、よくできた幽霊譚であつた。しかし、ネズビットは児童文学作家であ り、ファンタジー作家であつたといふ。私は「砂の妖精」しか知らない。こんな作品もあつたのであ る。アンソロジーといふもの、時にかういふ作者の別の面を見せてくれることもある。これもそんな作 品であつた。本書はまともな幽霊譚ばかりだが、その中で「令嬢キティー」はいささか例外であつた。 これを良しとするかどうか。個人的にはかういふのもおもしろいと思つた。とまれ、何匹目かの泥鰌で あつても、私は本書を楽しんだ。しかし、これがまだ続くとなるといつまでつきあへるかである。さて 如何。

24.04.20

橋口侯之介「和本への招待 日本人と書物の歴史」(角川文庫) を読んだ。かういふ内容の書は他にもあるのだらうけれど、これは分かり易くまとめてある。著者は古書店主である。そ の経験から書かれてゐる。「神保町に来れば三百年、四百年前の本が、何食わぬ顔で展示販売されている。」(「まえが き」4頁)そんな中に現在もゐる人であるから、「書物を一人だけの所有物で終わらせるのではなく、『お預かりもの』 として次の人に託することがつねに考えられてきた。しかも、それが千年以上続いてきた。長い時間残すこと、すなわち 伝えるということにこそ日本人の書物に対する観念の基礎があると」(同前)いふのである。実際、神保町は言ふまでも なく、それ以外でも和本を扱ふ古書店は多い。それは日本人のかういふ「書物に対する観念の基礎」から来る。そこから 冒頭の一文「日本人は本が好きな国民だと思う。」(同3頁)や巻末の「そう、やはり日本人は本好きなのである。」 (263頁)が出てくる。私はこんなことを考へたことはなかつた。古本屋だから和本を扱ふのは当然だと思つてゐた。 しかしどうもさうではないらしい。「きちんとした国際比較調査がないので、具体的な数値であらわせないのは残念だ が、古本屋の店先でも、各地の図書館でもとにかく蔵書数が多い。実際につくられた本の数の問題ではなく、それを残し てきた一連の行動がそうさせたのだ。」(「あとがき」265頁)文脈からして、和本に限定しての記述だと思ふ。それ ほど多くの和本が残つてゐるらしい。インターネット上には和本が多くある。安ければ数百円で買へる。インターネット と残存和本の多さがありがたい。かくして私の手に渡つた和本も、「お預かりもの」としてまた次の誰かに渡るのかもし れない。こんなことを考へる私にも「書物に対する観念の基礎」がすり込まれてゐるのであらう。
・その和本を筆者は〈本〉と〈草〉に分ける。第五章は「揺れ動く〈本〉と〈草〉」と題され、その最初は「正規の 〈本〉と大衆の〈草〉」となつてゐる。〈本〉〈草〉は他でも言はれてゐたはずである。本は物の本である。ごく大雑把 に言へば難しい書物、今でいふ専門書の類である。著者は「本格的な書物」(208頁)といふ。草は草紙、仮名草子や 赤本、黄表紙等の大衆読み物である。これらは近世初期に「唱導文学だった各種の語り物も文字化されて出版されるよう になった。軍記物やお伽草子、浄瑠璃などである。」(207頁)といふ流れの中にある。個人的には所謂語り物やもつ と前の絵巻が書物の歴史の中に出てくることに違和感を覚える。絵巻は巻物、巻子本である。さういふ形を本といふこと に違和感を感じるのだが、それでも現在は古本屋も扱つてゐる。ところが唱導文学は字の如く「仏法を説いて衆生を導く 語りもの」(wiki)文学である。その文字化以降を〈草〉といふのならば分かるが、ここでは「形のない中世の 〈草〉」(218頁)といふ。「〈草〉の書物にとって中世は『暗黒時代』だったやうに見受けられる。しかし、それは 紙に書かれて綴じられたもの=書物という概念にとらわれた見方である。」(225頁)私はこの概念に囚はれてゐるら しい。唱導文学以前もまた〈書物〉であつた。「今風にコンテンツ」(226頁)である。それが近世初期に演劇や 〈草〉となる。近世以前は文字通り語りが中心で書物はその後だといふのである。現在、文学史でこれをどう扱つてゐる のか知らないが、語りと書物を「コンテンツ」といふのは私には新鮮な考へであつた。ここにも「お預かりもの」といふ 考へがあるのかと思ふ。やはり、日本人は本好きなのであつた。

24.04.06
劉慈欣「流浪地球」(角川文庫)を読んだ。その解説の加藤徹 「SFと『科幻』ー劉慈欣文学の魅力」に次のやうな文章があつた。中国は科幻系の国である。「『科幻』系の国々で は、たとえ虚構でも、そんな空想を発表した作家は、たたではすまない。」(301頁)そんなとは、例へばゴジラの東 京襲撃である。これだけで恐ろしくなるのだが、中国の作家はそれでも書いてきた。どのやうに書いたか。「劉氏の出世 作『三体』の物語は『文化大革命』から始まる。(中略)米ソをさしおいて、社会を恨む中国人が最初に宇宙人と交信す る、というあの物語の冒頭は、科学的には不自然だが、科幻としては正しい。『文革』は、中国共産党があやまちであっ たと失敗を認めている、唯一の時代だからである。」(301〜302頁)以下、本書の短編について述べる。「『呪い 5.0』は中国の科幻小説では珍しく、実在の中国本土の都会が火の海になる。が、ここにもクレバーな配慮が周到にめ ぐらされている。まず、舞台は北京ではない。」(302頁)以下、「この作品に限っては筒井康隆氏のスラップス ティック小説や横田順彌氏のハチャメチャSF作品のようである。」(同前)とか、「自分自身を作品の中に滑稽な描写 で登場させた。」(同前)とあり、これらの「どの一つの要素が欠けても『幻想』ではなくなる。ギリギリの作品なの だ。」(同前)といふ。私が読んでも政治的には何とも思へないのだが、実は相当な配慮のなされた作品であつたらし い。それを「クレバー」と言ふ。これまでいくつかの作品で危なさうなのがあつたが、それらも同様の配慮のなされた 「クレバー」な作品であつたらしい。かういふことまで考へて書かねばならないのは相当な苦痛であらうと思はれる。も しかしたらいかに当局をだますかの知恵比べをしてゐるのかもしれない。これは身に危険の及びかねない知恵比べである が、これも考へ方で、「科幻は、現実社会との間合いに対する深謀遠慮を余儀なくされる反面、想像力の面では幻想の特 権をフルにいかすことができる。」(同前)といふことにもなるらしい。それが現代中国のSF作家である。
・私は中国における政治と文学の関係にこだはつてSFを読んできたと思ふ。SFではないが、莫言はリアリズムで書い てきた。だからノーベル賞ももらへた。それに値する作品でもあつた。SFの場合はリアリズムではなく想像力の世界と なる。創造=想像である。「呑食者」は他の短編集にあつた作品の前日譚である。ここで呑食者たる大牙は、地球初お目 見えの時、「ヨーロッパの首脳のひとりをつかむと(中略)優雅に口に放り込み、咀嚼しはじめた。」(107頁)のだ が、これも中国人でないところに意味がある。いかに国連でも事務総長や首脳が中国人で、それが食はれたりしたらそれ こそ「たたではすまない。」その一方、大牙の相手たる大佐(300年後!には元帥)は“冷静なアジア人”である。中 国人としても良ささうだが、これは分からない。こちらは国連首脳とは違ふ。ここにもそんな「クレバー」な配慮がある のであらうか。中国でSFを創作するのはかくも大変だといふことである。さうするとこれまで危なさうだと思つた作品 で、英語版しか出てゐないやうなのはやはり「クレバー」ではなかつたといふことか。中国や中共を思はせてはいけな い。これだけなら易しい、たぶん。しかし、そこを超えると様々なことが出てくる。ちよつとしたことでも危ない。「子 どものころから『愚公移山』を暗記してきた中国人にとって『流浪地球』の世界観は、すんなり胸に響く。」(304 頁)さういふ世界に生きてきた人であつたのかと思ふ。

24.03.16

・私は宮田登といふ民俗学 者をほとんど知らない。「ミロク信仰の研究」といふ著者があるのは知つてゐたが、読んだことはない。これから分かるやうに、 この人は民間信仰あたりを中心にやつてきた人であるらしい。小松和彦の「解説 宮田登の妖怪論」によれば、妖怪ブームに関し て「民俗学という学問的立場から、こうしたブームに応えるかたちで、メディアを通じて妖怪関係の情報を提供したのは、ブーム の当初では宮田登とわたしのたった二人であった。」(298頁)さうだから、妖怪学の先駆けといふことになる。小松和彦が妖 怪に関していろいろと書いてゐたことは知つてゐた。ところが、この人の「妖怪研究は『妖怪の民俗学』(岩波新書、ちくま学芸 文庫)と本書のわずか二冊であって云々」(小松和彦「文庫版解説」330頁)とあるやうに、あまり多くないのである。その本 書、宮田登「新版 都市空間の怪異」(角川文庫)はその意味で 貴重な一冊である。しかも「都市空間の怪異」である。小松和彦は都市といふことには限定されるやうな研究ではなかつたと思ふ のだが、この人のこの著作は確かに都市空間と言へるものである。その意味でもおもしろさうである。小松の解説にも、「出版社 側は、著者の意図を汲みつつ書名を考えていったとき、『都市』と『怪異』を結びつけたところに、著者の研究の新鮮さが浮かび あがってくるのではなかろうか、と判断した」(304頁)とある。書名が作つて売る側も認めた「新鮮さ」であつた。
・「明治三十年以後、百鬼夜行は姿をみせなくなった。暗闇がしだいになくなった生活環境だからといえば当然であるが、しかし 近年不思議な現象が語られるようになった。例の『学校の怪談』である。」(46頁)といふ文章は小松も引用してゐる。谷崎潤 一郎の「陰翳礼賛」を思はせる一文である。闇がなくなつたことに、宮田は妖怪の不在を感じ取る。そして新たな怪談である。こ れは必ずしも暗いところではない。トイレの花子さんは真つ暗なトイレにゐるわけではない。「都市のコンクリート造りの巨大な 校舎の一隅に設けられた清潔感あるトイレは、木造校舎の悪臭ただよう肥溜めの便所と大いにちがう。不思議なことにご不浄のイ メージのある便所よりも、浄化装置の十分な清潔なトイレに血だらけの場面が顕わになっている。」(190頁)かういふのを宮 田は、「面白いのは、主にインフォーマントが小学生に絞られていることだ」(189頁)、「次々と噂は伝播し、かつ類型性を 帯びて半ば真実と信じられていく」(同前)、「同齢感覚に支えられた級友仲間に語り出されているのも特徴」(同前)であるな どと説明してゐる。つまり宮田にとつてこの種の怪談は、「級友仲間に語り出されている」うちに「半ば真実と信じられていく」 ものであつた。当然ことながら極めて合理的な態度である。これが井上円了評価につながるのであらう。「井上にとって『妖怪』 は撲滅すべき『迷信』と同義であつた。そして多くの『妖怪』(=迷信)を撲滅するために、『妖怪』の科学的・合理的説明に精 力を注いだ」(小松解説311頁)のだが、「宮田登はこうした井上の妖怪退治に対して、肯定も否定もしない。近代化とはそう いうものだと了解していたのであ」(同312頁)るらしい。しかし、先の文章からすれば、宮田が「『妖怪』の科学的・合理的 説明に精力を注い」でゐるのは明らかであらう。学問として妖怪をやつてゐる人ならば当然の態度である。宮田がかういふことを やつてゐた民俗学者であることを私は知らなかつた。妖怪といふもの、実在するかどうか分からない。おもしろいけれどというの が正直な感想であつた。

24.03.02
リチャ−ド・マシスン「奇蹟の輝き」(創元推理文庫)を読んだ。本書は 第4版、去年の復刊フェアの一冊である。初版が20世紀終はりだから読んでゐても良ささうに思ふのだが、私はこれを読んでゐ ない。買つてもゐない。気がつかなかつたのか、読まうと思はなかつたのか。いづれにせよ私には無縁の本であつた。ところが今 回は気がついて買つた。本書の評価は高いやうで、映画化もされてゐるらしい。さういふのとは無関係に買つた。そして読んで、 これが稀有なラブストーリーであることは分かつた。ただ、私はかういふのが好きではない。ラブの方ではなく、作品の舞台がで ある。「訳者あとがき」に出てゐる、プロデューサーのスティーヴン・サイモンの感動は特殊な場で愛を貫くことからくるのだら う。それが「愛と生命の神秘に魅せられ」(406頁)といふことなのであらう。確かに「愛と生命の神秘」かもしれないと思 ふ。最後に輪廻転生が出てくる。私には意外だつたのだが、愛を貫くためには是非とも必要なものなのかもしれない。しかし、個 人的には今一つ好きになれない物語であつた。
・物語の構成は実に分かり易い。起は、主人公クリスの交通事故死、その死を直ちに受け入れられない。承は、死を受け入れ、ク リスは「常夏の国」にゐると知る。転は、妻アンの死である。ここから冥界巡りが始まる。結は、めでたしめでたしで終はる。実 を言へば、物語の目次も4つに分かれてゐる。見え見えなのである。かうも見事に構成されたことを明示する作品が多いのかどう か。しかし、起承の舞台の描写には、違和感と言ふよりも既視感とでも言ふべきものがある。既視感、つまりどこかで見たやうな 感じである。これをマシスン自身は巻頭の「読者に」でかう書いてゐる、「本書の創作面はごく表面的な部分にかぎられている。 登場人物と、その人間関係だ。(原文改行)これら部分的な例外をのぞく諸々の記述は、もっぱら調査にもとづいて書いた。」 (11頁)その資料一覧が巻末にある。すべて英語文献であらう。だからタイトルから想像するだけなのだが、それでも死後の世 界や霊界通信の類ではないかと思はれる。マシスンはかういふ書の都合のよい部分を抽出して物語に仕立て上げたのであらう。 「かすかな声が聞こえてきた。なにを言っているのかはわからない。ぼんやりと、そばに立つ人影が見えた。両目を閉じていたの に、それが見えたんだ。」(25頁)これは、日本的に言へば、幽明境を分かつことができない主人公の様子である。「苦心して かがみこみ、自分の顔をじっと見つめた。唇は紫になり云々」(29頁)ここでもまだ死を自覚できない。最後近くで、「男のそ ばに近寄り、死んでいるらしいと知った。それにしても、ぼくのベッドにほかの患者が寝ているとはどういうことだ?」(32 頁)まだかうである。要するに、これらはクリスは肉体から精神が分離して己をながめてゐるといふ、よくある臨死体験の描写の 変形であらう。さういふ描写を知らなければ既視感はなからう。私はよくは知らないが、何も知らないわけではないといふ程度で ある。それでも見たことがある、聞いたことがあるといふ感じを免れない。これは「常夏の国」でも同様で、ここは天国の一部で あるらしいが、そこに書かれてゐることもどこかで見たやうなものである。マシスンは「記されている内容は、どれも型にはまっ たように同じだった。」(12頁)と書いてゐる。実際にあるのかどうかは分からないが、現状での死後の世界への認識は似たや うなものであるらしい。これがこの物語の最大の欠点であらう。それをマシスンの筆力、想像力が補つたのが本作であつた。


24.02.17
三角寛「山窩奇談〈増補版〉」(河出文庫)を読んだ。三角寛の山窩は信 用できないと思はれてゐる。私にはそのあたりは分からないが、信用できる内容ではなささうだと思つてゐる。山窩文学といつた ところで、どれだけ山窩の実態を踏まへてゐるのか分からないといふ。しかし、読むとおもしろい。実におもしろく書いてある。 それを真実の力とみるか、想像力の産物とみるか、これが評価の分かれ目である。私にはこれが分からない。第一、山窩を正確に 知らないのである。山窩はwikiには「日本にかつて存在したとされる放浪民の集団である。」とある。「明治期には全国で約 20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定されている」(wiki)が、統計的に調べられたことがないの で、この数字もあまりあてにならない。定住民からは「物を盗む犯罪専科の単位集団として規定されていた。」(wiki)らし いが、箕作りを生業とする者が多いのは本書からも知れる。ただ、第二次世界大戦中には山窩に言及されることはほとんどなくな つた(wiki)といふ。この頃には山窩は漂泊放浪民から定住民へと変はつてゐた、あるいは変はらざるをえなかつたのであ る。三角寛が山窩を書いたのは昭和10年前後である。この頃、山窩はいはばこの人の専売特許であつた。ただし本書「山窩奇 談」は昭和41年に出てゐる。山窩の流行は終わはつた時代である。しかし三角はまだ書いてゐた。「戦前に発表した『サンカ小 説』に加筆、修正を施すなどして、『実』を強調する形で再編集された一冊である。」(今井照溶「解説 虚実の民衆精神史」 357頁)といふ。事実を強調してあるらしい。そこでかうも言ふ、「『虚』を『実』であるかのように騙っていたからといっ て、三角寛に『インチキ』の烙印を押して済ますわけにもいくまい。そこから『実』を発掘できる余地はまだあるはずだ。」 (375〜358頁)この人の考へでは、三角寛のサンカ小説は「民衆の精神史と逢着するはず」(358頁)だといふ。しかし 山窩から民衆を取り出して良いものかどうか。山窩が民衆を代表するならばともかく、山窩は多くても数十万人程度である。しか も定住せずに漂泊するのみ、このやうな民が「民衆の精神史」に逢着できるかどうか。私はインチキとは言はぬまでも、三角寛か ら「実」を取り出して「民衆の精神史と逢着」させるのはかなり無理があると思ふ。いや、現実の学会からは三角寛はほとんど無 視されてきたのである。
・第二話「蛇崩川の蛸入道」は国八老人が盲目の娘お花の助勢で殺しの犯人を捕らへる話、第八話「尼僧のお産」は熊谷直実なる 山窩が妙蓮といふ尼と結婚して有籍者になる話、増補分の「元祖洋傘直し」は洋傘直しの山窩の親分猪吉が亡くした女房によく似 た元旗本の娘お雪と一緒になる話、これは一族で有籍者の仲間入りである。たまたま美しい女性の出てくる話ばかりだが、皆うま くいつてゐる。山窩であつた者が有籍者になるのはこの頃は結構あつたのであらう。だからこんなものかもしれないが、しかしい づれもうまくいきすぎてゐる。うまくいつた話だけ出したとも言へようが、他の話も皆結局はうまくいつてゐる。かういふのが信 用できないといふのであらう。先の「解説」に、「『サンカ』という題材を得て、想像力を駆使して事実を脚色する度合いは次第 に強まっていった(中略)荒唐無稽さが増し、伝奇性が前面に押し出された。」(356頁)とある。これらもさういふものであ らうか。私には判断できないが、その「荒唐無稽さ」ゆゑに実におもしろく読める。それが三角寛だといつて読んでゐれば良いの であらう。おもしろい。

24.02.03
J.R.R. トールキン「最新版 シルマリルの物語」(評論社文庫)を読んだ。「指輪物語」は読んでゐるが、こちらはまだ であつた。この物語の翻訳は初出から既に50年近く経つてゐる。その間、新版、最新版と出た。単純に言へばこれが第3番目の訳と いふことになる。これが出てゐるのを知らなかつたわけではないが、これを読まうといふ気にはなれずにゐた。それが去年の文庫本 「最新版 指輪物語」の完結である。これでやつと読まうといふ気になつた。本書の帯に「唯一なる“神”エルによる天地創造の物 語」とある。神話である。「『アイヌリンダレ』は、唯一なる神と天地創造の創世神話、『ヴァラクウェンタ』は、天使的諸力とも言 える神々の話です。とっつきにくいところもあるかもしれませんが、これらの創世神話は、トールキンの手紙からもうかがえるよう に、作者が長年心を傾けてきた仕事なのです。」(田中明子「『新版』訳者あとがき」下335頁)この言のやうに、最初の2編は見 事な神話である。以後はエルフの物語である。
・「唯一なる神、エルがおられた。」と始まる。そして「エルは初めに、聖なる者たち、アイヌールを創り給うた。聖なる者たちは、 エルの思いより生まれ、ほかのすべてのものが創られる以前に、エルと共にあった。(原文改行)エルは聖なる者たちに語り給い、音 楽の主題をかれらに与え給うた。」(「アイヌリンダレ」83頁)この歌は、最初は「聖なる者たち一人一人の理解は、イルーヴァ タールの御心のうち、各自の出で来った部分にしか及ば」(同前、エル=イルーヴァタールである。)なかつたが、やがてそれが二重 唱、三重唱になり、更に合唱になつていく。「耳を傾けて聞くにつれ、聖なる者たちの理解は深まり、ユニゾンとハーモニーはいや増 していった。」(同前)そして、「イルーヴァタールはかれらに言われた。『すでに汝らに明かせし主題により、われは汝らが調べを 合わせ、大いなる音楽を作らんことを望む。云々』」(同84頁)かうして「大いなる音楽が」奏されることになる。しかし物語の常 として、かういふ時にはそれに逆らふ者が必ずゐる。それがメルコールであつた。メルコールは「アイヌール中最も力ある者であ」 (下「語句解説および索引」381頁)り、「モルゴス」や「冥王」等の名で呼ばれてゐる悪の化身である。全編を通して善と悪、エ ルフ達とモルゴス一派の戦ひが描かれる。最後の「力の指輪と第三紀のこと」はその締めくくりと言はうか、「指輪物語」がごく端的 に語られる。「小さい人のフロドは(中略)サウロンを物ともせず滅びの山に赴いて、指輪が造られた火の中に大いなる力の指輪を投 じ、その結果、指輪は無に帰し、指輪の悪はすべて燃え尽きた。」(下332頁)勧善懲悪の壮大な物語をかくも短くまとめたのに対 し、それ以前の神話時代は全24章、文庫本1冊以上になる。それぞれの時代の代表的な出来事を書いていけばかうなる。長命である ことを除けば、エルフは極めて人間的である。悪はモルゴスの手下のサウロンが暗躍する。これもまた人間的である。人間はと言へ ば、初めは悪の側が多い。その後、エルフと交はつたりして、善に移る者も出てくる。「指輪物語」以前にかくも壮大なる世界があつ たのかと思ふ。これをトールキンが創つた。しかもその言語、エルフ語も創つた。下巻の付録には索引もある。これは役に立つ。そし て発音の注意(下348頁)とか固有名詞の語素(同372頁)であらうか、これも名前と比べてみるとおもしろい。いささか遅きに 失しはしたが、さすが人工の神話である、作者は言葉も創つてしまつた。おもしろい物語であつた。

24.01.20
・私が積んでおくのは辞書の類で ある。辞書とはさういふもので ある。 春日武彦「奇想版 精 神医学事典」(河出文庫)も そんな辞書だと思つてゐた。最近、本を整理しようと思つてこ れをみつけた。確かに辞書の形態はしてゐる。しかし「序」は かう始まるのであつた。「本書は事典としての実用性に乏しい。不便なのである。なぜなら巻末の索引を用いるといった 『ひと手間』を経なければ目当 ての項目には行き着けない」(3頁)。しかも配列は「『連想』に拠っている。(中略)す べて連想の連続によって見出し 語が並べられて」(同前)をり、そのため「冒頭から順番に読んでいくのが、本書の正しい 読み方である。」(4頁)といふ。だから「無人島へ持って行 くには最適の一冊であろうと自負している。」(同前)さうで ある。こんな辞書とは気がつかなかつた。私は普通の、文庫版の精神医学の事典であると思つてゐた。珍しいと思つて買つた のである。その時、書名の「奇想版」に気づいてゐれば中身を 確かめたのかもしれないのだが、残念ながらそんなことは気 にもしなかつた。さうして辞書 の一冊として我が家に積まれてあつた。春日氏からすれば、何と不本意な所有のされ方であつ たことか。しかし、奇想版の奇想版たる所以に気づいてしまつ た今、実用性の有無は関係ない、私はとにかく読もうと思つ たのである。もちろん最初から 終はりまで通して読む。春日氏の「正しい読み方」の実践である。
・見出しは「神」に始まる。 「隠された必然」「アトランティック・シティーー上空の空飛ぶ円盤」「ブリキの金魚」 「家族的無意識」等々と続く。見出しだけ並べてもこれが連想であるとは分からない。書いた本人はなぜかうした連想をした のかは分かつてゐるのだが、読むのは本人ではない。読んで初 めて連想が正しく行はれてゐる(らしい)と分かる。頭から順 番に読めといふのは、その連想 の妙を味はつてほしいがためでらう。ただ、問題なのはこの人の連想についていけるかどうか である。「ブリキの金魚」は島尾敏雄であつた。その「三つの記憶」の冒頭部分による。その金魚の赤が「アトランティッ ク・シティー上空に滞在する空飛ぶ円盤の赤色と同じものだった」(13頁)ことによる連想であつた。私は島尾のこの小品 を知らない。引用があるから分 かるとは言へる。しかしそれだけである。それ以上にはならない。この人はかなりの読書家で ある。島尾は他でも引用されてをり、「自分の抱えている不安に近いものを文章で上手く定着させている作家はいないだろう か」と考へ、「結果として、島尾敏雄の作品と出会うことになった。」(560頁)といふ。私にはさういふ経験がな い。だから島尾をほとんど知らない。この後に北杜夫の項がある。同じ精神科医といふ親しみもあるのだらうが、しかしその 評価には、「そうした危うさがないぶん、北の純文学はシリアスであっても安心して読める。 だがわたしにはそのような不安 成分の少ない純文学は必要がない」(562頁)とある。「強 烈な不安感が漂ってこない。」 (同前)といふのである。この 後に北の患つてゐた躁うつ病(双極性障害)が来る。ここに北の病の具体的な説明もある。北がその病をカミングアウト し、「むしろそれを自ら戯画化した。」ことを「大きな功績と認められ」(563頁)ると言つてゐる。これも読んでゐるか らこそ書けることであらう。海外文学の引用も多い。ブルー ノ・シュルツなどといふマイ ナーな作家も出てくる。シャー リー・ジャクスンやH・G・ウェルズも出てくる。これは索引の効用である。かくして本書は「言葉のびっくり箱」(穂村 弘「解説」、611頁)であつた。おもしろいかも?

23.12.30
・ 私はドラキュラや吸血鬼が好き だが、このやうな書を読んだこ とはなかつた。丹 治愛「ドラキュラ・シンドロー ム 外国を恐怖する英国ヴィク トリア朝」(講 談社学術文庫)である。元版は 東京大学出版会から出てゐる。 原題を「ドラキュラの世紀末ー ヴィクトリア朝の外国恐怖症の 文化研究」といふ。いかにも学 術書である。この副題の方が内 容を想像し易いとは言へる。 「本書のどこが文化研究なので しょうか。(改行)それは端的 にいって、この本の関心が最終 的に『ドラキュラ』のテキスト それ自体にむかっているのでは なく、テキストに認められる外 国恐怖症というヴィクトリア朝 の文化的コンプレックスにむ かっているからです。文化がこ の本の最終的な関心だからなの です。」(317頁)これだけ で明らかである。ストーカーの 「ドラキュラ」が分析対象では あつても、引用書は当時の政治 家や社会情勢に関するものがほ とんどである。「ドラキュ ラ」=吸血鬼小説としか考へら れない人間には無縁の世界であ るかに思はれる。しかしそれが おもしろいのである。それが 「文化研究」によるのはまちが ひない。「テキストに認められ る外国恐怖症というヴィクトリ ア朝の文化的コンプレック ス」、これがいかなるものであ るのかを順次書いていく。それ は私には考へられないことども であつた。
・目次は「イントロダクショ ン」に始まる。文字通りの導入 部であるが、この後半は「ドラ キュラの年は西暦何年か」 (23頁)といふ章である。私 は、西暦何年にドラキュラが出 没したのかなどと考へたことは なかつた。これ以後との関係 で、この年は大いに問題になる らしい。そこで子細な検討が加 へられてゐる。さうして 1893年といふ西暦年が出て くる。ごく大雑把に言つて世紀 末である。これは「文化的コン プレックス」にも関係してゐ る。「コンプレックス」は「帝 国主義の世紀末」、「反ユダヤ 主義の世紀末」、「パストゥー ル革命の世紀末」と続き、更に 文庫版の補遺として「もうひと つの外国恐怖症ーエミール・ゾ ラの〈猥褻〉小説と検閲」で終 はる。これらがかつての英国に もあつたであらうことは容易に 想像できる。それが「ドラキュ ラ」にも関係してゐたのであ る。「帝国主義」の最後は新興 国家アメリカである。「他民族 をたえず『同化/吸収』しつつ その領土を拡大していくアング ロ・サクソン民族は、吸血しつ つ彼の『同類』をふやしていく ドラキュラとなんと似ているこ とでしょう。ドラキュラとはじ つは抑圧された彼らの自己イ メージだったのかもしれませ ん。」(148頁)この時点 で、アングロ・サクソン世界の 「一方のセクションは多くの部 分に分割分断されており、他方 は分割されていない全体として 大いにその力を増大させてい る」(146頁)といふ状況に あつたが、「分割分断」が英 国、「力を増大させている」の が米国であつた。よりはつきり 言へば、ドラキュラは「つぎつ ぎに植民地を失っていく二〇世 紀末の大英帝国の運命を予徴す るかのように、ついにその肉体 を切り裂かれることによって、 『支配者』たる地位を失ってい く」存在でしかない。これが 「コンプレックス」である。こ のやうにドラキュラと英国が関 係してゐるのであつた。「反ユ ダヤ」でも「パストゥール」で も、そして「ゾラ」でも同様の ことが言へる。正に蒙を啓かれ る思ひであつた。「『ドラキュ ラ』は、多種多様な主題のも と、それが生み出された一九世 紀末の政治的・歴史的コンテク ストのなかでさまざまに解釈さ れてきた。」(325頁)とい ふ。その「さまざまに解釈され た」一つが本書なのであつた。 かくして「ドラキュラ」は本当 に特権的な書である(同前)と 思ふ。


23.12.16
・ 本に関係がありさうだとすぐに 買ひたくなつてしまふ。それで また1冊、
ジェ ラルディン・ブルックス「古書の来歴」 (創元推理文庫)である。これは帯に「焚書と戦火の時代、伝説の古書は誰に読まれ、守られてきた のか?」とある通りの内容であ る。従つて、ミステリーであら うがなからうが、私には買ひで ある。この古書を「サラエボ・ ハガダー」といふ。 Sarajevo Haggadahと書く。「この小説はサラエボ・ハガダーとして知られるヘブライ語の実在の書物に着想を得たフィクションである。そのハガダーの現時点で 明らかになっている歴史に基づ く部分もいくつか含まれている が、大半の筋と登場人物は架空 のものである。」(「あとが き」571頁)と著者が書くや うに、基本的には実在の書にま つはるフィクション、物語であ る。これは「14世紀中葉のス ペインで作られたハッガー ダー。(中略)中世の細密画が 描かれたヘブライ語の本として は最古に属する。」 (Wiki)といふもので、検 索すると、ハガダーの由来等、 本体に関する内容が多く出てく る。大体は細密画がついてを り、うまくいけばほぼ全体を見 ることができるサイトもある。 現在はサラエボの国立博物館蔵 である。複製も含めて、この手 の本を、当然のことながら、私 は手にしたことがない。しか し、その絵は細密画におなじみ のもので、いろいろなところ で、似たやうな細密画を写真で 見たことがある。そのハガダー に残されたいくつかのものから 作品は生まれた。残されたとい つても隅から隅まで目をこらし て見なければ見落としさうなも のである。それが物語となり、 次の物語を生んでいく。時代を さかのぼるやうに作られてを り、最後はハガダー制作現場に 行き着く。1996年から始ま り1480年までゆく。その後 に2002年があるのだが、こ れは別と言ふべきかどうか。こ の500年間の物語は実におも しろい。実際にこんなことがあ つたのではと思つて見たりす る。 ・物語の中心にゐるのはユダヤ 人である。ヘブライ語の書だか ら当然のことだが、ハガダーは ユダヤ人に守られてきた。それ がいくつもの物語になつてゐ る。そこに共通するのは虐げら れたユダヤ人である。ナチスド イツの時代も含めて、ユダヤ人 は虐げられてきた。15世紀も 同様である。そんな中でこのハ ガダーがいかに作られたのか。 1480年は「白い毛」と名づ けられた物語である。その毛は 猫の毛であつた。ただし、「毛 表皮から、猫の毛にあるはずの ない粒子が検出されたわ。黄色 のとくに強い染料に含まれる粒 子が。」(426頁)といふも のであるがゆゑに、この毛がい かなるものかは分からない。そ れを明らかにするのが「白い 毛」である。その最後、主人公 がモーセの魔法の杖の話をきき ながら、「もし、ここにもそん な杖があれば、私も自由になれ る。」(490頁)と考へる。 さうして「自由と祖国。そのふ たつこそユダヤ人が切望してい たもの」(同前)だとして、 「大海がふたつに分かれて、私 は歩みだす。故郷へ通じる乾い た果てしない道を悠然と。」 (同前)本当に歩き出したのか は分からないのだが、自由と祖 国を求めるユダヤ人の心がここ にある。これは1996年の物 語にも共通する。のみならず、 現在進行中のガザの戦争にも共 通する。常識的にはそれがいか なる悪であれ、ユダヤ人には祖 国と自由を求めるためにはさう せざるを得ないといふことであ らう。それでも、イスラエルは ガザの戦ひから直ちに手を引く べきだと私は思ふ。手を引いて 自由と祖国、自由な祖国が得ら れるかどうかは分からない。本 書はそんな政治的物語ではな い。あくまでハガダーをめぐる ミステリーであつた。



23.12.02
河添房江「紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語」(角川文庫)は書名そのままの書である。 「本書では、紫式部が体験した 王朝文化の世界を、特に唐物と よばれる異国のモノを通じて」 紹介するものである。だから 「源氏物語」からの引用が多く あり、更に「枕草子」等のさま ざまな王朝文学からの引用もあ る。本書の原題を「光源氏が愛 した王朝ブランド品」といふ。 この書名からして、一般受けを ねらつた書であるらしい。それ を内容に即して改題し、文庫化 したのが本書なのであらう。第 一章「紫式部の人生と唐物」に 始まり、第十六章「舶来ペット の功罪」で終はる。最初だけは モノではなく人である。ここを 読んだら、後は自由に適当に読 めば良い。香から猫まである。 実に様々である。紫式部の身の 回りは唐物、今少し広く言ふと 舶来品に取り囲まれてゐたのだ と知れる。そんな書であるが、 個人的にはかういふ文体と次を 予告するやうな章の進め方には 違和感を覚える。それを気にし ながら読んでゐた。
・平安時代の唐物といつても私 はほとんど知らない。ネコとい つても、現在のネコと同じか違 ふのか、ここから分からない。 すべてがさうである。第十五章 は「王朝の紙の使いみち」であ る。紙がなければ王朝文化がか うして残つてゐるのかと思ふの だが、しかし、その紙はいかな るモノでいかにして作られてゐ たのか、つまり紙の使用以前の 状況を私は知らない。使ふ人が ゐれば作る人がゐる。平安時代 は、「平城天皇の大同年間(八 〇六〜八一〇)は朝廷の製紙所 である紙屋院(『
か んやいん』 とも)が、図書寮の別所とし て、紙屋川のほとりに設けら れ、多くの紙が生産されてい」 (238頁)たさうである。こ の先は書いてないが、しかし、 どうやらこの時代にも紙屋院の 紙が使はれてゐたらしい。「美 しかった紙屋院の紙」(251 頁)にその一端が見える。国産 の紙が美しかつたのなら唐物の 紙はどうであつたのか。唐の紙 とは「狭義の意味では、北宋か ら輸入された紋唐紙とか、具引 雲母刷紙とよばれる鮮やかな色 彩と雲母刷りが特徴の紙をさ」 (242頁)すさうで、これは 「おもに竹を原料とした紙の表 面に胡粉を塗り、さらに唐草や 亀甲などの文様を刻んだ版木を 用いて、雲母で型文様を摺り出 した美しい紙で」(同前)あつ た。こんなモノだから、「唐の 紙の格調の高さ、そのフォーマ ル度は万能で(中略)まさに贅 沢品であり、唐物らしい威信財 (スティタス・シンボル)とし ての使われ方」(238頁)を された。つまり、美しい写本に はこれが使はれてゐる。これ以 外には高麗紙があり、これは 「高句麗・新羅・百済の三国時 代から、中国の諸王朝への朝貢 品で」(248頁)あり、これ も日本に輸入されてゐた。更に は地方製造の紙もあつといふか ら、貴族に紙の選択肢は結構あ つたと思はれる。だからこそい くつもの写本が残り、その紙も その作品に合はせたりしてあつ た。かういふことを私は知らな かつた。いろいろな紙の写本が あるのは知つてゐたが、唐や高 麗からの紙もあり、地方でも作 つてゐたとはである。本書には かういふのが多い。ガラスもあ る。私の知るガラスではある が、さすがに現在とは違ふ。 「『瑠璃壺』は唐物を代表する 品で」(115頁)あつた。こ の頃、日本で作ることができた のはせいぜい「蜻蛉玉といわれ るガラス玉」(同前)であつ た。かうしていたらきりがな い。書きたいモノはいくつもあ る。といふより、知らないから 皆書きたくなるのである。それ ではきりがない。「王朝ブラン ド品」は実に豊富であつたと最 後に書いておく。その豊富さを 眼前に見せてくれるのが本書で ある。おもしろいことはおもし ろいが……。

23.11.18

徳井淑子「中世ヨーロッパの色彩世界」(講談社学術文 庫)は書名そのままの書であ る。本書は、「いわゆる色のイ メージを中世ヨーロッパの世界 に見ていこうとするものであ る。つまり、中世の人びとが自 然の色にどのような感情を託 し、またどのように色を創り、 そこに社会はどのような意味を 付与したのか、を解き明かすこ とを試みる。これは、逆に色を 通して中世人のこころの世界と 社会のありかたを見ていくこと でもある。」(「はじめに」4 頁)そこで「本書は基本的には 衣服の色に関わる詮索を、ヨー ロッパのなかでも特にフランス を中心におこなっていく。」 (同5頁)ことになる。そのた めに中世の文学作品がある。こ れは、「それらの色にどのよう な意味を人びとが与えていたの かを伝える格好の資料」(同7 頁)である。これら以外にも多 くの資料等を用ゐながら中世の 色彩世界を読み解いていく。正 に蒙を啓かれる思ひの書であつ た。
・衣服ではないが、「獣の毛色 であるフォーブ色を代表する」 (153頁)のは狐であり、そ れが主人公となるのが「狐物 語」である。「キツネのルナー ルはペテンばかりを働いてい る。」(同前)のだが、この物 語の主人公が狐でないといけな いのかなどと私は考へもしなか つた。日本の昔話のイメージか らもそのやうには考へ得るのだ が、中世ヨーロッパでも狐はず る賢い存在と考へられていたの かどうか、これは分からない。 しかし、ここでは色が問題であ つた。第五章は「忌み嫌われた 黄」(145頁)と題され、小 見出しも「ヒトを排除する黄」 「ユダと黄色」「『あいつは黄 褐色だ』という中世フランス 語」「黄色の比喩ー悲しみと怒 り」等と続く。そして最後は 「ジャン・バルジャンの黄色い 通行証」で終はる。ここには肯 定的な文言はない。ユダやジャ ン・バルジャンは盗人、高利貸 しといふに等しいのであらう。 狐もこの流れにある。「フォー ブ色が欺瞞という意味をもった のは、このことばの音が虚偽を 意味することばに近かったため かもしれない。(中略)中世文 学のなかで、フォーブ色の獣は いつも怪しい気配を漂わせ る。」(153頁)だから狐な のである。日本の狐は化ける。 中世ヨーロッパの狐は嘘と欺瞞 に満ちてゐるのである。更に、 より重要な赤がある。この章題 は「権威と護符の赤」(67 頁)である。ただ赤の場合、 「赤系の色のすべてが好もしい 色として中世人のこころをひい たのではない。」(69頁)と いふ。「茶色を帯びた赤色の ニュアンスを示すrouxは、 同じくラテン語ruberから 派生・変化したことばである が、これは赤毛を表すときに もっぱら使う色名であり、ゆえ に忌まわしい意味をもってい る。」(同前)赤毛がかういふ ものであつたことも私は知らな かつた。だから、「赤毛のア ン」や「にんじん」の嫌悪感が よく分からない。「中世の赤毛 は身体の醜さと同時に裏切り者 という精神的な卑しさを示し、 要するに蔑視感を表す」(同 前)ものであつた。かうなつ て、やつと赤毛の持ち主の気持 ちが分かる。実はこの色、狐に も関係してゐる。「赤茶色の毛 といえば、キツネもしばしばこ の色で示される。」(70頁) それは「赤毛が狡猾さと結び つ」(同前)いてゐる。つまり 「赤茶色は策略と裏切りを示す 色」(同前)であつた。狐に は、その色からして良いイメー ジはなささうである。赤といつ ても赤毛はそんな色だつたので ある。ところが「権力者たちの 赤い喪服」といふ小見出しで は、赤、スカーレットが権力者 や医者に用ゐられることが述べ られてゐる。これが章題であ る。しかしこれ以上は書けな い。他にもまだ多くの色があ る。皆、それぞれ意味がある。 正に啓蒙の書であつた。

23.11.04
紀田順一郎「古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿」(創 元推理文庫)は旧版の一冊本を 分冊にした書である。本書はそ の1、短編3編が入る。珍しく 私は旧版を持つてゐる。買はな くても良いのだが、読み直すの ならこの方がはるかに読み易い ので買つた。そして読んだ。お もしろかつたのは言ふまでもな い。この手の本を読むと私は愛 書家ではないといつも思ふ。本 好きではあるが決して愛書家で はない。第一、本の数が違ふ。 家の根太がどうのなどと考へる ことはない。最近は、新刊以外 はwebで探すことが多い。以 前は結構古書目録を見てゐた。 ほとんど買ふことはないが、見 るだけは見てゐた。言はば目の 保養である。今でも古書目録を 請求すれば送つてくれるはずだ が、私は見ない。webでより 安い本を探す。本書で問題にな るやうな限定版の類には興味な い。言はば安物買ひである。こ んなわけで私は愛書家とは言へ ない。ただし、「愛書家とか蔵 書家とはいっても、普段はごく 普通の人たちなんですね。」 (解説対談「『本の探偵』と愛 書奇譚」362頁)とか、愛書 家は「まあ、フェティシズムの 一種ということなんだろうけれ ど。」(同前)とかの瀬戸川猛 資の言がある。これからすれ ば、愛書家といつてもごく普通 の人であるのに、「現実生活と はおよそ無縁なものに、とほう もない情熱と精力を傾ける」と ころがあるといふ点は、私にも 似たところはあると言へよう。
・巻頭の「殺意の収集」の依頼 人津村恵三は、「本探しの極意 は熱意ではない、殺意だと思い ます。」(22頁)と言ふ人で ある。これが私家版2部のうち の1部を入手したといふことか ら物語は始まる。「カンと殺 意」(29頁)で見つけた私家 版はいかなるものかといふの を、書肆・蔵書一代といふ古書 店主の須藤康平が推理する物語 である。津村はサラリーマンで 「要領がよく、言動にムダがな いという感じで(中略)いつも 整然とした話し方に感心させら れ」(17頁)るやうな人であ る。およそ「殺意」を抱いた愛 書家とは見えない。「無用の 人」の依頼人尾崎朋信は「銀行 の人」(293頁)で、「おれ のポストは重要な、忙しい仕事 なんだ」(349頁)と自ら言 ふ人であるから、こちらもそん な愛書家とは見えない。ところ が「書鬼」の依頼人風光明美の 祖父となるとさうはいかない。 本は「それはもうものすごいも のです。そのころだって、書斎 から廊下へ、玄関へとあふれて いて云々」(191頁)と明美 が言ふほどである。しかも身分 を明かしていない須藤に、「本 を盗みに来おったのだろう」 (259頁)と言ふほどに本に 対する執着がある。本を動かさ れたらその場所が分かるかとの 問には、「『わかる』言下に答 が発せられた。」(同前)とい ふほどであるから、並みの者で はない。明るくして顔を見れば 「人間の顔だろうか。」 (264頁)である。従つて書 鬼、正に書鬼である。こんな愛 書家、蔵書家が出てくる本書で 最も気になつたのは次の言葉で ある。「蔵書一代…人また一 代…かくして皆…共に死すべ し…」(140頁)「書鬼」の 蔵書は“紙屑”として「一切合 財処分」(同前)されてしまつ た。一軒の家ほどの大量の蔵書 も本人以外は無用の長物であつ た。津村や尾崎の蔵書、それも かなり高価な限定本の類らし い、も同じ運命をたどるのであ らう。何でもさうだが、いかに 重要なものであれ、その持ち主 以外には無用の長物である。津 村の商品たる古書とて同じこ と、津村の後にどうなるかは分 からない。作者自身「それが結 局、本書のテーマになってると いうことでしょうね。」 (374頁)と言ふ。いかにも 紀田順一郎らしい。さういふと ころが好きなんだよなと言つて おかう。

23.10.21
フレドリック・ブラウン「死の10パーセント」(創元推 理文庫)を読んだ。私はフレド リック・ブラウンをほとんど知 らない。どちらかと言ふとSF 作家だと思つてゐた。さうでは あ るがミステリー作家でもあつ た。「フレッドは“二面を持つ 作家”で、SF作家としてもミ ステリー作家としても同じくら いよく知られていた。」(ウィ リアム・F・ノーラン「序文ー フレッド・ブラウンを思い起こ して」13頁)ここではミステ リー作家としてのブラウンであ る。本書では「序文」以外はフ ルコース仕立てになつてをり、 最初のオードブルから始まつて 最後のコーヒーまで13編所 収、うち3編は初訳で、それら はいづれも第二次世界大戦前の 若い頃の作品である。
・オードブルは「5セントのお 月さま」、これが「ブラウンの 商業誌デビュー作で」(「編者 解説」436頁)あり、初訳で ある。月を望遠鏡で5セントで 見せようといふ男の話、最後は それが「望遠鏡で犯行現場の見 物、五十セントだよ!」(26 頁)と変はる。ごく短い作品で ある。記念すべきデビュー作ゆ ゑにオードブルにふさはしい。 スープは「へま」、これも戦前 の作品だが旧訳がある。ただし 初出誌のみである。当時、敵国 だつたドイツのスパイになれと いふ、これもごく短いから、 スープにはふさはしさうであ る。以下、魚料理2,口直し 1,コールドミート3,サラダ 1、ローストミート2,デザー ト1、コーヒー1と続く。魚や 肉料理はさすがに食い出があ る、いや、読み出がある。コー ルドミートの「フルートと短機 関銃のための組曲」「死の警 告」は初訳、戦前のパルプマガ ジン発表作である。「組曲」が おもしろい。「日本の大家の有 名な作品に類似のアイデアがあ る」(439頁)らしいが、私 はそれを知らない。これも密室 物なのであらうか。外から撃た れたといふのだから違ふのだら う、たぶん。個人的にはこのタ イトルが気が効いていておもし ろいと思ふ。これがポイントに なる。かういふ曲、フルートの 吹き方はどんな楽器でもあり、 それはミステリーにもなるので あらう。ミステリーをよく知つ てゐる人には当然のことであつ ても、私には決してさうではな かつた。「死の警告」には「犯 人のしゃあしゃあとした登場ぶ りが、最後まで主人公を苦しめ るところ」(同前)とある。私 にはこれよりも旧訳のある今一 つのコールドミート、「球形の 食屍鬼」の方がおもしろかつ た。食屍鬼はもちろんグールと のルビがつく。これも戦前のパ ルプマガジン発表作、大江健三 郎の「死者の奢り」みたいなも のだといふのはあまりに大雑把 だが、検死局の死体置き場とい ふ点では似てゐるとも言へる。 主人公が学生であり、ここのバ イトで稼いでゐる点も似てゐ る。違ふのは事件性である。こ ちらは殺人事件が起きて主人公 はそれに巻き込まれる。密室で ある。ただし、人が通れないほ どの換気扇口が外に開いてゐ る。主人公は第一発見者であ る。さてどうなるか。「金枝 篇」を読む主人公ゆゑにポイン トは食屍鬼であらう。といふこ とで、大江とは全く別の世界が 展開する。グールが出てくると ころなどはパルプマガジンにふ さはしい。タイトルは原題の直 訳である。勘の良い人ならばこ れで犯人を推測できてしまひさ うである。これ以外は戦後の作 品である。私にはエド・ハン ター物2編以外はパルプマガジ ン所収作の方がおもしろかつ た。さういふ作品を読んできた といふことがあるかもしれな い。ブラウンであらうが誰であ らうが、古くて安つぽいけれど パルプマガジンはおもしろいの である。本書は日本オリジナル 傑作集であるらしい。短編全集 もある作家である。それをこの やうに並べるのは一つのアイデ アであつた。

23.09.30
・私が井原忠政「三河雑兵心得 足軽仁義」(双葉文庫)を 読まうと思つたのは、内容では なく純粋に言葉の問題であつ た。つまり三河弁である。三河 弁の使はれた小説は、あること はあるのだが、ほとんど知られ てゐない。本書の主人公は三河 の雑兵である。時代は三河国一 向一揆の頃、舞台は西三河、家 康がまだ岡崎にゐた、ごく若い 頃のことである。しかし主人公 は植田村の人間である。植田は ウエタと訓む。現在の豊橋市植 田町である。渥美半島の根本に あたる地区である。ここの人間 ならば三河弁、それも現在の豊 橋方言あたりを使ふ。西三河と はよく似てゐるが少し違ふ方言 である。それがきちんと書かれ てゐるのか、これに興味があつ たのである。結論から言へば、 本作品の登場人物は決して三河 弁を使つてゐない。例へば、巻 頭喧嘩の前の場面、「やれるだ けやれ。駄目なら駄目でその時 だら。」「兄ィ、来たら」(8 頁)、主人公茂兵衛と弟の言で ある。この「だら」「ら」の使 ひ方がよく分からない。駄目な ら駄目でその時だといふのなら 分かるが、そこに推量の助動詞 「だら」をつけると分からなく なる。弟の「来たら」も同じ で、来ただけで分かるのに、そ こに「ら」をつけるから分から なくなる。少し先の「コケにさ れた俺が悪いんだら」(10 頁)も同様で、すぐ上に「俺も 分かってるよ。」とあるからに は、俺が悪いと断定すれば良 い。それなのに「だら」を使ふ から分からなくなる。この人の 「ら」「だら」の使い方が大体 をかしい。私達が現在普通に使 ふ意味ではなく、むしろ断定の 「だ」に近い意味になつてゐ る。「兄ィ、来ただ」と言へば 三河方言である。その前に「三 人もおるがね!?」(9頁)と ある。をるはゐるである。今も 使ふ。「がね」は西三河方言で もあるらしい。東三河では使は ない。この先、「がね」はいく つも出てくる。西三河の人間が 使ふのは良い。「たァけ!」 (10頁)もまたこちらでは使 はない。たわけは尾張方言であ らう。私達はアホは使はず、た わけも使はず、馬鹿といふ。こ こにも三河と尾張の混同が見ら れる。結局、作者井原忠政は三 河の人間でも、愛知県の人間で もないのは明らかで、そんな人 間が分かつたやうな気になつて これを書いたのかもしれない。 見事にまちがへてゐる。愛知県 でも、尾張は尾張、三河は三 河、その三河も実際には東と西 に分かれるのだが、この人にそ れは無意味、所詮まちがつた方 言もどきしか使へない人であ る、と思ふ。
・私はその昔の三河方言がどう なつてゐたかを知らない。私達 の使ふ方言と大いに違つてゐる 可能性はあるが、それでもそれ を元にして現在の三河方言がで きたはずである。wikiに は、「尾張徳川家が名古屋に入 る前には、尾張地方でも、三河 弁に近い言語が話されていた。 しかし、尾張地方の言語が江戸 時代に名古屋城下で形成された 狭義の名古屋弁に強く影響され 広義の名古屋弁として一括され るまでに至ったのに対し、三河 地方ではそれほどの影響を受け なかったため、幕末までには三 河と尾張でははっきりした差異 が形成された。」(三河弁の 項)江戸に入る前は、方言とし ては尾三未分化であつたのであ らうか。だとすれば「がね」が 東三河で使はれた可能性もあ る。ただし、wikiの極めて 曖昧な説明では何とでも理解で きる。ただ、この井原作品に関 しては、特に「だら」「ら」が 私の感覚とはあまりに違ひすぎ る。何なら「ずら」を使ふ方が 良い。「ずら」を私は使はない が、昔は推量でよく使つた。本 書中、これに置き換へるとしつ くり来るところは多い。とま あ、内容について触れる前に字 数が尽きた。本作で三河弁を考 へてほしくないといふのが私の 結論である。

23.09.16
山口仲美「日本語が消滅する」(幻冬舎新書)を読んだ。 私は金田一春彦のやうに日本語 は消滅しない(275頁)と信 じることができるわけでもな く、「あ〜あ、日本語はもうお 終いかもしれない。そんなに遠 くはない将来を思って、私は愕 然としました。」(15頁)と いふほど悲観的にもなれない。 分からないのである。私の目で 現状を見る限り、日本語の消滅 といふ事態には程遠いと思はれ る。30年以上前の金田一の言 を信じても良ささうに思はれ る。ところが、本書を読み終は つてみると本当にさう言へるの かとも思ふ。「未来を背負う子 供たちが、自国語を十分にマス ターしないうちに、英語教育を 始めることは、将来的にその国 固有の言語の衰退を招きま す。」(14頁)とある。筆者 には、現代日本の言語教育の現 状がかう見えてゐるらしい。の みならず、さういふ外国語教育 がその国固有の言語を滅ぼした 実例がいくつも見えてゐるので ある。本書は「日本語学」連載 の単行本化である。かなりの加 筆修正がある。個人的には大幅 な加筆がなされてゐるのではと 思ふのだが、それゆゑに極めて 分かり易い。私も、もしかした ら日本語は危ないかもしれない と思ふやうになつた。
・「言語消滅の原因をまとめて みると」(103頁)、その原 因は5つある。話者全滅、同化 政策、自発的乗り換へ、征服被 征服、役割終了、簡単に書けば かういふことで、例へば同化政 策はいくつかの地域で現在進行 中である。中国のウィグル、内 モンゴル、そしてチベット、そ の他にもある。現在問題になつ てよくきこえてくるのはこれく らゐであらう。ロシアではウク ライナの子供を拉致してロシア 人にする、つまりウクライナ語 を忘れさせることが行はれてゐ る。これは征服被征服でもあ る。このやうに強制的に言語を 変へさせられることの一方、自 発的に言語を変へることは現在 でも行はれてをり、それは「ア イルランドの人々が自らの意志 でアイルランド語を捨てて英語 にのりかえている」こと (276頁)などがある。これ らを踏まへて「母語の力を意識 する」(143頁)ことにな る。筆者の考へはこれに尽き る。母語とは何か、「ひらたく 言えば、幼児期に母親などの身 近な人々から自然に習い覚え、 自分の中に深く入り込んでいる 言語」(144〜145頁)、 それが母語である。日本人だか らといつて母語が日本語とは限 らない。しかし、母語には固有 の世界観や文化を作つたり、ア イデンティティを形成したりす る力がある(169頁)ゆゑに 「母語は、単なる伝達の道具で はな」く「民族の血である」 (同前)とも言へる。そこで結 論、「日本語を大切にしよう。 日本語は自分を支えている言語 なのだという意識をしっかり持 とう。そのうえで、世界共通語 を効率的に学んでいこう」 (276〜277頁)。「日本 人が日本語を守らなければ、日 本語は消滅するのです!」 (272頁)。これは考へるま でもなく当然のことである。母 語の乗り換へが消滅の一因とし てある。征服されなくとも、自 ら乗り換へれば言語は消える。 言語が消え、世界観や文化も消 え、更にはアイデンティティも 消える。中国やロシアのやらう としてゐることが正にこれだと 知りつつも、私にはこれまでど こか他人事であつた。本書から 山口氏の危機感が伝はる。「中 学校では英語の授業時間数が国 語の時間数を超えてい」 (276頁)るといふ。やはり 学校教育では国語が基本であ る。英語はせいぜいその次であ らう。かういふ考へが現在後退 しつつあるのかどうか。ただ、 私達はかういふ状況が分かつて ゐない。たぶん文化省も分かつ てゐない。これは日本語消滅へ の第一歩である。さうならない ことを祈るのみ。


23.07.22
松木武彦「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」(角 川文庫)を読んだ。私は単なる 古墳の書であらうと思つてゐ た。ところが「はじめに」には かうある。例へば「なぜ前方後 円墳なのか」等々「といつた根 本的な疑問(中略)これらの問 題にアプローチするには、歴史 学としての考古学よりもむし ろ、人類学や社会学や認知科学 としての考古学が力を発揮す る。(原文改行)この本では、 それらのうち認知科学を用いた 考古資料の解釈法=認知考古学 を加味して、古墳の成立から発 展を経て衰退にいたる道筋をさ ぐってみた。いわば、心の考古 学による古墳の理解である。」 (7〜8頁)「心の考古学」と は何かと考へてしまふのだが、 同時に「古墳の成立から発展を 経て衰退にいたる道筋」ともあ る。これはたぶんごく普通の考 古学だと思はれる。古墳時代で ある。実に多くの古墳がある。 それらの成立から衰退の過程は 普通の考古学でわかるはずであ る。だからこそ古墳に関して 様々なことが言はれてきたに違 ひない。
・古墳時代以前の九州北部、 「棺に物を入れられるような立 場の人たちが、おたがいの優劣 を、物の種類や量によって絵解 きされながら葬られてい」 (27頁)たといふ。副葬品の 質や量でその人物のその集団に 於ける位置、地位が、あたかも 絵で描いたやうに見えるといふ のである。これも初めは「墓地 を営んだ親族集団内部での位置 づけや関係を物語るものにとど まっていた。」(同前)が、や がて「九州北部一円におよぶ広 い範囲での結びつきや、そのな かで位置づけを絵解きするも の」(28頁)となつていく。 それが古墳時代に入ると、「古 墳は、生前自分たちの主であ り、リーダーであった首長を、 『神』に転化する装置」 (「神」に「ゴッド」のルビつ き、121頁)となる。本書で はここで初めて「神」が登場す るのではないか。もしかしたら これが「心の考古学」といふも のであらうか。「古墳の長は、 沖ノ島の『神』と同じ扱いを受 けている。長を『神』と同化さ せることも、弥生社会とは明確 に異なる古墳社会の特徴であ り、長をそのようにする機能こ そが、前方後円墳を冠とする古 墳の本質のひとつだった。」 (122頁)古墳のことはほと んど知らないので、そこに葬ら れる「長」を神とするなどとい ふことがあつたのかと思ふ。確 かにあの大きな古墳に祀られる のは「神」こそがふさはしい。 「古事記」以前の時代である。 記録として残されてゐなくても 沖ノ島の状況から想像できる。 たぶん、当時の列島中で行はれ たことであらう。人が神になつ たことを確認はできない。古墳 時代か、古墳以前か。いづれに しろ古い昔のことである。それ を知らうとするのが「心の考古 学」なのであらう。だから逆に 「神々のたそがれ」(276 頁)もあるし「神はどこへいっ た?」(251頁)といふ疑問 もある。この言はば理屈つぽい 説明は、「個人の記念碑から一 族の奥津城へと墳墓を変質さ せ、まもなく消滅へと追いやっ たのは、横穴式石室化の波だっ た」(279頁)といふことに なる。それはまた宗教とも関は る。日本や東アジアでは仏教 (280頁)である。これもま た「心」の問題である。宗教に 関はつて古墳、つまり墳墓が変 はる。大体、お釈迦様は紀元 前、イエス・キリストは紀元1 年に生まれたことになつてゐ る。日本への仏教伝来は6世 紀、当然さういふことも起こ る。「心の考古学」が神や仏の みで終はるはずがない。その他 にも関はつてゐる。それでもな じみないものだが、ただ、古墳 の歴史といふ点から見れば実に おもしろく刺激的であつた。な かなかかういふ書はない。私は 考古学者を単なる土掘り屋さん と思つてゐたらしい。反省であ る。

23.07.08
フランチェスカ・T・バルビニ&フランチェスコ・ヴァルソ「ギリシャ SF傑作選 ノヴァ・ヘラス」(竹 書房文庫)を読んだ。中村融に よる「訳者(代表)あとがき」 にかうある。「ギリシャSFと 聞いて、驚かれた方も多いだろ う。ギリシャにもSFがあった のか、と。じつは筆者もそのく ちだった。」(267頁、「く ち」に傍点あり。)これがギリ シャSFの状況を如実に表して ゐるらしい。ほとんど誰もが知 らないのである、ギリシャにも SFがあることを。本書自体が 英語からの重訳である。本書の 序文「はじめに」にギリシャ SFの歴史が書かれてゐるが、 これが日本語版のための書き下 ろしであるらしい。これが英語 版にも付されるやうになつたの は、英語版を読む人にとつても 事情は同じだからであらう。知 らないのである、ギリシャ SF。実際問題、ギリシャで SFが盛んになるのは21世紀 に入る頃かららしく、それ以前 もごく散発的には書かれてゐた らしい。せいぜい20年くらゐ の歴史しかないと言へさうであ る。ギリシャの国内事情がある にせよ、これは極めて珍しい事 態である。言はばギリシャSF の出発点にほとんど世界中が立 つてゐるのである。本書に表題 作はない。「ノヴァ・ヘラス」 は「はじめに」の最後で触れて あるのみ、ヴァッソ・フリスト ウ「ローズウィード」を巻頭に 計11編収録である。私の知る 作家はもちろんゐない。すべて 初めて読む作品と作家ばかりで ある。
・ディミトラ・ニコライドウ 「はじめに」にかうある。 「『α2525』が書かれた時 期の厳しい経済情勢とギリシャ の激動の歴史を考えれば、著者 の大半がディストピア的未来を 夢想し、過酷な時代の到来を描 いたのは不思議なことではな い。」(11頁)「訳者(代 表)あとがき」には「ギリシャ の現状が色濃く反映されてい る。その意味ではディストピア SF集といえる」(270頁) とある。つまり、本書は誰が読 んでもユートピアは描かれてゐ ない。描かれるのはディストピ アである。それでも「作家たち が語りに工夫をこらしているの で、陰々滅々とした話がつづい ても意外に飽きずに読める。」 (同前)とある。これが救ひで はあらう。イアニス・パパドプ ルス&スタマティス・スタマト プルス「蜜蜂の問題」は「生き ている蜜蜂の存在する場所」 (100頁)は博物館だけとな り、ドローンがその代はりとな つてゐる頃の物語、主人公はそ の壊れたドローンを買ひ集めて 修理してゐる。ある日、本物の 蜜蜂が存在すると知り……当 然、主人公は蜜蜂を見つけよう とする。さうして「火事だ!」 「アクラムとクリスティナは死 んだ。」(114頁)目的達成 である。問題はこの後、「今日 の議題はまったくの別件です」 「この子はアクラムの娘、アシ ルです」(116頁)主人公は 己が罰を覚悟する……普通はさ うなりさうなものである。とこ ろがさうならない。ある種のブ ラックユーモアのやうにも思へ るし、私達の普通の思考ができ ない時代だからかもしれないと も思ふ。しかし、これが「ディ ストピア的未来を夢想し」てゐ るものなのであらう。先に出た ニコライドウ、その「いにしえ の疾病」には「やまい」のルビ がつく。そのやまひは漏失症と いふ。要するに年を取つて衰弱 死する疾病である。70や80 は短命、人は300年以上生き るらしい。「病み衰えていくの はごめんだ」と言ふ医師、場所 は山の中、そんな時代とやまひ に抵抗する人達がゐた。これは これで桃源郷の物語かもしれな い。短編だからか、それ以上に ギリシャといふ国と時代だから か、「1984」とはずいぶん 違ふ。「華氏451度」の焚書 が好ましくさへ思はれる短編 集、これがギリシャのSFかと 思ふ。

23.06.24
南鶴渓「文字に聞く」(草思社文庫)は、「さまざまな漢 字の成り立ちをていねいに紹介 しながら、文字の魅力や書への 思いを綴」(カバー裏表紙)つ た書である。私にはいくつも共 感できるところがあつた。それ はこの人が書家であることが大 きい。書道では現在も所謂旧字 体を使ふ。所謂旧字体は正字で ある。正字を書き慣れてゐるが ゆゑに、私達が現在使つてゐる 表記には我慢できないこともあ るのであらう。さういふことが いくつも出てくる。それを表記 に於ける保守主義といふことは 易しいが、しかし、よく考へて みなくとも、明らかにをかしな ことがある。さういふことを指 摘してゐるだけである。
・他国のことゆゑあまり言はれ ないと思ふが、中国の簡体字に 触れた文章は正しい。「中国で は、簡略化に当たっても、漢字 本来の形を念頭に置いて、いく つかのルールに従って省画して いる。」(144頁)ポイント は「いくつかのルールに従っ て」である。筆者によればそれ は8つあるらしい。その1が 「発音を表す部分を共通の形に 簡略化する。」(同前)であ る。「共通の形」がポイントで ある。これに対して日本は「そ れまでに通用していた省略体の 文字を無原則に認めた」(同 前)のである。中国のやうな ルールはなく、共通させようと する意志もない。「無原則に」 である。従って、当然のことな がら、「漢字の手をもぎ足をも ぎ、勝手に点を取り払って、漢 字が本来持っていた意味を失わ せてしま」(同前)うことにな る。同じ字は同じやうにとはな らないのである。所謂常用漢字 以外は当然もとのまま、所謂旧 字体である。これも困る。そん な漢字区分をせずに、一律にこ れはかうする、あれはああする としなかつた。だからをかしな ことになる。「無原則な簡略化 は漢字の本来の形を忘れさせ、 ひいては意味をわからなくさせ てしまう。」(146頁)その 必然的な帰結として「二千年前 の古典どころかわが国でもつい 百年あまり前の明治の人たちが 書いた文献さえ読めなくさせて しまう。」(同前)といふの は、鴎外等が、この人も正字体 だとPCの「非互換文字」にさ れてしまふ、書いた見事な漢文 を私達が読めないといふことに もつながるのだらう。これは素 養の問題かもしれない。しか し、字体も関はつてゐる。ルー ルも原則もない所謂新字体では 正字体につながりやうがない。 ところが、ルールをきちんと決 めて変へたものもある。例えば 四つ仮名である。ジ、ヂ、ズ、 ヅは昔から問題になつてゐた。 現在はこの発音に差がなくなつ たので、発音通りに書くといふ なら書く時に困らないはずであ る。ところが、書くのは困らな くても違和感が残る。違和感な どを出すなと言はれさうだが、 これは書くにも必要なものであ る。よく出てくる鼻血、これは ハナジかハナヂか。所謂現代仮 名遣いからすればハナジであ る。しかしこれでは血が消えて しまふ。「発音の区別がなく なったのだから文字を区別する 必要もない、第一面倒くさい じゃないかという人が多いだろ う。」(155頁)しかしさう はいかない。をかしい。変だ。 そこで、四つ仮名も、ついでに ゐもゑも、「読めなければ『源 氏物語』や『古今集』も読めな いし」(156頁)となつてく る。筆者の場合は、これらは 「日本文化の伝統を理解するこ ともできない」(同前)ことに つながる。たぶんさうなのだら う。本書の底にはこれが流れて ゐる。文字や表記の問題は確か に文化の伝統につながる。と同 時に、この人は書家だから文字 を大切にする。さういふ、いは ばその人の属性もあるのではと も思ふ。文字、もちろん正字の 成り立ちが分かり易く書かれて ゐる。正字は塚本邦雄と思つて ゐた人間には嬉しいことであつ た。

23.06.03
劉慈欣「円 劉慈欣短篇集」(ハヤカワ文庫SF)を読ん だ。ケン・リュウのアンソロ ジーに出てゐた人であ る。といふより、「三体」の作 者といつた方が分かり易いのか もしれない。私はこれを知らな いのだが、日本では(?)これ でこの人を知つてゐる人が多い と聞く。関連の作品は最後の表 題作「円」である。これも含め て、本書には計13篇の短編が 載る。発表順に並んでゐるらし く、最初の「鯨歌」は1999 年、最後の「円」が2014 年、ほとんど21世紀の作品 集、いづれもまだ新しいと言へ る。SFに見られる様々なテー マが採り上げられてゐる。おも しろい。中国のSFがいかなる ものかを教へてくれると同時 に、中国ではどの程度まで許さ れるのかと考へながら読んでも みる。つまり、この程度ならば 中国の表現の自由には触れない ものであるらしい。
・「訳者あとがき」にある訳者 大森望の劉へのインタビュー、 本作品集の「中で、とくに印象 深い作品はありますか?」 (538頁)で始まる。答は 「『郷村教師』と『詩雲』です ね。」(同前)、なるほどであ る。個人的に面白いと思つたは 作品いくつかあるのだが、その 2つはこれであつた。ともに中 国的な、といふか中国を素材に してゐる作品である。「郷村」 について、大森は「リアルな描 写と奇想天外な発想を合体させ ること」と言ひ、劉はそれを 「意識して」やつてゐると答へ てゐる。中国の田舎教師の死の 間際の状況を描く。このままで はSFにならないではないかと 思つてゐると、別の物語が「地 球から五万光年あまり離れた天 の川銀河の中心部では」 (118頁)と始まる。更に読 んでいくと、生命探査をする ビームが田舎教師の小学校に当 たつた(146頁)のである。 ここでリアルと奇想天外が結び つく。予め計算された物語はや はりSFだつたのである。同様 の作品に「地火」がある。炭鉱 の物語である。劉は炭鉱町で育 つた。作品にはリアルに20世 紀半ば以降の状況の反映がある はずである。母は小学校教師で あつたといふから、「郷村教 師」にもその生ひ立ちが関係し てゐるのであらう。ただ、「地 火」は奇想天外にはならない、 たぶん。私にはわからないが、 ありえない状況といふよりは、 ありうる状況といふ方が当たつ てゐるやうに思ふ。ともに、初 期の様々な作品を書いた時期の ものなのであらう。「詩雲」は 李白が出てくる。ただし本物、 といふか、その昔の李白ではな い。作品の時代設定はわからな いが、人類は空洞地球に住んで ゐるらしい。「もっと正確に言 うと、人類は風船の中に住んで いる。」(253頁)のであ る。主人公は詩人である。ただ し「恐竜たちによって拉致さ れ、家畜として飼育されている 十二億の人類」(255頁)の 1人であつたし、実際には「白 鳥座に向かって航行していると ころだった。」(同前)そこに 「神」が現れる。さうして「李 白」を創るのである。言ふなら ば主人公のクローンである。主 人公も「李白」も漢詩を作る。 既存の有名作ではない漢詩ゆ ゑ、本物の李白を超える詩はで きない。この場合、この人類、 主人公の置かれた状況が奇想天 外であらう。人間が恐竜の家畜 なのである。「李白」以後、神 は漢詩にこだはる。かういふ SFに漢詩が出てくるだけでな く作られてもゐる。これは決し てリアルではない。状況からす ればリアルとは程遠い。しか し、最後はリアルに近づいてい く。これは先のリアルの一変形 であらうか。個人的にはかうい ふのをおもしろいと思ふがゆゑ に、「円」のやうな「三体」に 近い作品よりは良いと思ふ。ど ちらも劉慈欣なのであらう。読 者の好みで作者の資質は、たぶ ん、決まる。いづれにせよ、 「郷村」と「詩雲」はおもしろ い。

23.05.20
柳宗悦「民藝図鑑」第一巻(ちくま学芸文庫)を読んだ、といふより見た。柳宗悦といへば民藝、民藝と いへば柳宗悦と言つても良いく らゐの関係にある。ただ、それ 以前に、私はこの人と民藝のこ とを知らない。そこで読んで、 いや見てみようと思つたのが本 書である。全3巻のうち第一 巻、陶磁、民画、玩具等収録で ある。本書は「日本民藝館の初 めての総合的な蔵品目録」(白 土慎太郎「解説 『民藝図鑑』 と柳宗悦」249頁)であると いふ。柳の死によつて全巻完結 にはいささか時間がかかつたや うだが、「全巻を通覧すれば、 柳没後の編集となる第三巻も含 めて、造本に対して独特の見識 を持っていた柳の美意識が隅々 まで感じられる内容となってい る。」(同前250頁)らし い。文庫本にその面影があると は思へないが、それでも写真な どは当時のを復元すべく努力し てゐるはずである。それは柳 の、「この図録の第一の目的は 『民藝』の美しさ、つまりその 美的内容や価値を視覚的に人々 に示すことにある。つまり標準 的な民藝品を、一目で分かるよ うにすることにある。(中略) この図録を図鑑と題した所以で ある。鑑は鏡と同義で、手本の 意味になる。」(15〜16 頁)といふ本文冒頭の「本図鑑 について」とも呼応してゐよ う。つまり、本書は民藝品のお 手本の載る図録なのである。
・冒頭にカラー写真の頁があ る。私がいかにも民藝らしいと 思ふのは大津絵や三春人形、鴻 の巣人形である。茶碗や壺もあ る。しかし、これらにはどうし ても有銘の作を思ひ出させる。 ここにあるのはさういふものは ないらしいのだが、それでも私 には民藝といへば三春の張り子 や鴻の巣人形である。誰もがさ う思ふのではないかといふのは 単純に過ぎようか。大津絵など は作者不明の大量生産品、それ ゆゑに土産物としても売られ た。張り子や人形も同様で、作 者不詳で大量に作られたものの 一つがここに載るにすぎない。 柳はそれらで、例へば77の女 虚無僧には、「充分名もない民 画に熟し切っているのは、その 描写の自由な略化からも推察で きる。」(168頁)と書き、 無銘や「略化」を強調してゐ る。有名な86の鬼の三味線に は、「早い筆の運びを見ると、 如何に無造作にためらいなく、 沢山描き続けられたかが分 る。」(182頁)と書き、鬼 の行水には、「いつものと違っ て線は寧ろ細いが、自由でどこ にも弱いところがないのは、多 くの数を描く事によって得た美 しさだと云ってよくはない か。」(183頁)と書く。名 を売る必要がないからむしろ自 由に書きたいことを書きたいや うに書けるといふことである。 さうしてその絵に慣れてしまへ ば、迷ふことなく一気呵成に書 ける。「多くの数を描く事に よって得た美しさ」とはそのや うなものであらう。これは三春 張子でも同様で、同じものを大 量に作るからこその美であら う。94の義経と弁慶、そして 101の鴻の巣人形には、「是 等の人形を見ると、平和な楽し い一世界が、当時の家庭に社会 にあった事が分るではない か。」と書いてゐる。あくまで も一般家庭で愛用されたことが 前提である。有銘作品はさうは いかない。却つて用途が限られ てしまふ。例へば壺だと、茶壺 はもちろん、20火消壷や16 せんべい壺もある。茶会で使ふ のは別にして、かういふのは有 銘であることが邪魔になりさう である。その銘によつてその品 の値が上がつてしまふ。かうな ると一般庶民は使へない。民藝 とは言へなくなる。さういふこ となのだらうと思ふ。有銘でも 気楽に、火消し壷でも醤油壺で も、日常的に使へれば良い。し かし、さうはいかないのであ る。具体的な品々で民藝の「手 本」を見せてくれる本書はあり がたいものであつた。

23.05.06
京極夏彦「遠巷説百物語」(角川文庫)を読んだ。「巷説百物語」シリーズの文庫本最新刊であるらしい。6 冊目である。あちこちで百物語 やつてきたやうだが、これは遠 野である。ただし、書名は「遠 野」ではなく「遠」一字であ る。柳田の「遠野物語」とも関 係あるらしいが、私は確認して ゐない。京極に「遠野物語」訳 があるのだから、それくらゐは おてのものであらう。本書は 「お歯黒べったり」に始まり 「出世螺」に終はる全6編であ る。全体が緩やかにつながつて ゐる。個々の物語は独立してゐ ても、言はば悪役以外の登場人 物は共通する。しかも、その構 成は「まず冒頭に口承される 『譚』ーーいうなれば昔話が据 えられ、その元となった巷の 噂、その生まれた要因と種明か しが提示され、最後に『話』が 『譚』へと昇華する瞬間を予感 させて終わる。」(澤田瞳子 「解説」594頁)となつてゐ る。これを今少し分かり易く言 へば、「譚」の後に「咄」があ り、ここで情報提供者(?)の 乙蔵が出てきて何が起きてゐる のかを話す。次の「噺」で事件 が起き、最後の「話」で謎解き が行はれて解決する。いづれも 見事なワンパターンである。京 極の短編にかうも見事なパター ンがあつたのかどうか。ただ最 後の「出世螺」だけは全体の締 めといふ感じで終はつてゐる。 ここだけは「『話』が『譚』へ と昇華する瞬間を予感させ」る ことはなく、極めて現実的に終 はる。ただし、それ以前の部分 がそれに当たる。そんなわけ で、この物語、私には京極の偉 大なるワンパターンを確認させ てもらへた。と同時に、それが いかに心地よいものであるかも 確認できたのであつた。
・本書は例の如きの京極の文章 である。改行多し、会話文多 し。会話文はむしろ長めである のかもしれない。ところが地の 文はさうではない。1文1行も 多く、短めの文章がいくつかの 改行もある。たぶんこれで段落 なのだらう。「それは違ってい た。(改行)違うのなら、識っ ておく必要はあると祥五郎は考 えた。」(194頁)違ふとい ふ事実に続いて主人公が考へ る。普通の人はここで切らうと は考へないと思ふ。極端な話、 「それでも。」「しかし。」と いふのが次のページに見える。 これがこの人のスタイルだと言 へばそれまでだが、個人的には かういふのは好きではない。空 きが多いから見易いとは言へ る。見易ければ良いといふもの ではなからう。大江健三郎とは 逆の行き方をした文章である。 大江のは段落も文章も長すぎ る。どこまでも続いていつまで も終はらない。こちらはどう だ。すぐに終はる。一段が短 い。その方が読み易い。これが 心地よさの一因かもしれないと は思ふ。実際、大江のは徐々に 苦行に近くなつていつた。それ は絶対に心地よさにはつながら ない。文章のリズムもある。こ の人の文章とその思考もまたワ ンパターンである。それが慣れ てくると心地よいのかもしれな い。登場人物もまた同じ人物が 出てきたりする。又市とはどこ かで聞いた名前ではないか。こ れが最後に出てくる。もしかす るとこの部分だけでまた別の作 品が構想されてゐるのかもしれ ないが、とりあへず最後は又市 だけが遠野に残ることになるら しい。他は皆消える。この終は り、といふのは6番目の「話」 の後のことだが、も何かさはや かである。といふやうに、個人 的な感想を書いてきたのだが、 要するにこれは京極の見事な作 品だと言へる。更に個人的に は、悪い意味では改行が多いの は原稿料を稼ぐためではないの かと思つたりする。私は改行は 少ないほうが良いと思ふ。しか し、逆にそれがリズムを作るこ とにつながる。この後に今ひと つ「巷説百物語」があるらし い。気がつけばそれを読みたい ものだと思ふのみ。


23.04.22
後藤総一郎「神のかよい路 天竜水系の世界観」(淡交社)は新刊ではない。ヤフオクで落札した。それも私 一人の入札ではなく、他にも1 人か 2人の入札があつた。やはり「遠山 物語」があるのかと思つたりし たも のだが、同時に、この地域の民俗、 あるいは民俗芸能に対する興味 があ るのかと思つたりもした。この手の 書だと読みたい人はゐるのであ ら う。「この仕事を引き請けてしまっ たのは、この機会に、断片とし てこ れまでわたしのなかに貯えられてき た天竜水系の精神史なり世界観 を、 あらためてトータルにトレースして おきたいという、内なる強い欲 求が あったこと」(「あとがき」237 頁)とある。ならば「遠山」の 後藤 総一郎だと思つて読み始めた。
・まづ感じたのは、この人はあ くま でも冷静であるといふことであつ た。学者だから感情にとらはれ ては いけないのであらう。それでも覚め てゐる。ほとんど興奮した書き 方は ない。おまつりの様子を書く時、自 らを書かずに同行の編集、カメ ラマ ン氏のことを書く。例えば大鹿村の 地芝居、「一時の虚構のいわゆ る演 劇空間の素朴な原風景に出会った同 行のカメラマンと編集者の二人 は終 始言葉もなく、ただ芝居と酒に酔い しれていた。」(153頁)事 実さ うかもしれないが、ここはやはり自 らを書くべきところであると思 ふ。 ただ逆に、大鹿村の演し物の「半分 以上は(中略)いわゆる『源 平』物 もしくは『鎌倉』物であり、なかん ずく源氏の悲運を主題とした 『勧善 懲悪』の倫理観をベースとした演し 物であり云々」(159頁)と いふ 指摘は、言はれてみればその通りで ある。このあたりは冷静な分析 が物 を言つてゐる。ただ、私の個人的な 経験からすると、(全国の)地 芝居 の演し物のかなりの部分は源平物で ある。しかもかなり固定化され てゐ るから、必ずしも源氏の落人伝説が 必要とは思へないのだが、実際 はど うなのであらう。あるいは、新野の 盆踊り、これを「千から二千の 大輪 の踊りへと成熟させ持続させること ができたのも、柳田国男の“折 紙つ き”の紹介と指導があったからだ」 (147頁)と説明するのは正 し い。しかしこれを強調しすぎるの は、個人的には違和感がある。 柳田 の力は大きいが地元の人達がゐたか らこその盆踊りである。例の 「能 登」についても、「新盆の灯籠の群 れに立ちはだからように、くり かえ しとりかこみ、逝ってしまう新精霊 に、なごりを惜しみ、唄い踊 る」 (同前)と書く。これではあの場の 雰囲気は伝はらない。まして 「単調 でもの哀しいメロディーと唄と踊り は、祖霊を慰め、新精霊へのな ごり つきない感情を伝へていて云々」と いふのが「能登」への言だとし た ら、これも違ふやうな気がする。 「単調でもの哀しいメロ ディー」と いふのはかういふ場合の決り文句で あらう。伴奏無しで歌ふ盆踊 り、こ れだけでさうなる。これは新野だけ のものではない。天龍水系の県 境域 の大半が、現在行はれてゐれば、伴 奏なしの盆踊りである。これら は感 じ方と、そこに育つた人間か否かの 問題かもしれない。遠山に育て ば新 野は町であらう。私とは違ふ感覚で ゐるのかもしれない。ここまで きて ふと思ふのだが、副題は「天竜水系 の」とある。天龍ではないので あ る。最近はこの天竜をあまり見な い。天龍村も天竜村ではない。 後藤 総一郎がかう書いてゐるのだから、 たぶん以前は天竜が一般的だつ たの であらう。所謂常用漢字の問題であ る。芥川も龍之介である。竜に した くないと最近は思はれてゐるのであ らう。少なくとも地元では天龍 村で あり天龍川である。その天龍川、現 在はダムで寸断されてゐる (57〜 58頁)。そんなことも考へながら 読んだ。おもしろいが気になる 書で はあつた。

23.04.08
伊藤典夫編訳「吸血鬼は夜恋をする」(創元文庫)を読んだ。「SF&ファンタジイ・ショートショート傑作 選」と副題がつく。本書は創元 の SF文庫の1冊である。これくらゐ の副題がついても当然であら う。作 者には私が知らない人のほうが多 い。もしかしたらここにはSF で有 名な作家が多くゐるのかもしれな い。しかし私には分からない。 私に 分かるのは、マシスン、ブラッドベ リ、ライバー、コリアぐらゐな もの で、この23編中ではほんの一握り である。ただマシスンは本書に 多く 入つてゐる。ブラッドベリは1編し かないのに、マシスンは5編入 つて ゐる。嗜好の差であらう。SFに詳 しい人ならば、これを見て伊藤 典夫 の嗜好性を知ることができさうな気 がする。それほど多くの作品の アン ソロジーである。ただし作品は短 い。ショートショート傑作選と いふ だけのことはある。長くても10 ページ程度である。難しい作品 はほ とんどない。好みはあらうが、それ は気にしない。
・レイ・ブラッドベリ「お墓の 引越 し」はこの人らしい作品である。婆 さまがシモンズの墓を引つ越す こと にした。簡単に言へばこれだけのこ とである。その中で婆さまはい ろい ろと言ふのである。初期のブラッド ベリの嗜好がよく出てゐる作品 であ る。墓場と言ひ、婆さまと言ひ、骨 と言ひ、これらはブラッドベリ の好 きなものであらう。マシスンの最初 の作品は「死線」である。妻の 出産 をひかへた大晦日、医師のビルは急 患の電話で呼び出される。急患 の老 人の言ふことに「わしは一歳だ」 (27頁)……さうして妻は無 事出 産をした、新年の最初に。といふわ けでビルは愕然とする。つま り、 「毎週毎週二歳ずつ年をとってい」 き、一年で死を迎へる人間がゐ ると いふことである。3番目のマシス ン、「白絹のドレス」は少女の 話、 妄想とでも言つてしまへば簡単なの だが……母が死に、祖母に育て られ てゐる。メアリ・ジェーンと遊ぶが 仲違ひする。さうして閉じ込め られ る。母親思ひの娘のありがちな妄 想、たぶんそんなところなのだ が、 かういふのはショートショート向き のラストである。4番目の「わ が心 のジュリー」も同様である。最後の 「このつぎは何かもっとおもし ろい 方法を考えよう。」(207頁)で この女がいかなる女かが分か る。つ まりはすべて仕組まれていたといふ ことである。しつこいが5番目 は 「コールガールは花ざかり」であ る。この場合は、コールガール の訪 問を受け続けてゐて、それを警察等 に報告するのだが何もしてくれ ない のでいよいよ引越しかといふところ で、新たに「軽快なスポーツ・ コー トをきた、ハンサムな、口ひげのあ る若者がいた。」(301頁) もち ろん言葉は「奥さん、いる?」(同 前)である。今ならさしづめホ スト といふところであらう。女から男に 転換してまた続くのである。2 番目 は手話をする女とそれを読む女の物 語「指あと」、しばらくさうい ふ場 面が続き、「わたし」との会話にな る。さうして最後に読む女が欲 情 (?)するが、結局はもとにもど る。ただし手話をする女は「ち らり と見えた顔は興奮に上気してい た。」(71頁)といふわけ で、ど うやら見せるためにやつたらしいと 知れる。といふわけで。ショー ト ショートはラストが命である。それ がいかなるラストになつていか に意 表をつくか、これがポイントであ る。マシスンも苦労してゐるや うだ が、見え見えのもあり、苦労してゐ るらしいと知れる。

23.03.18
岡村青「世界史の中の満州国」(産経NF文庫)を読ん だ。帯に 「侵略、植民地、傀儡? 中国の嘘をあばく!」とある。いかにも産経らしい。本書は満州国を世界史の中に位置づける 試みなのであらう。少なくとも世界史の授業の中では出てこなかつたいくつもの法律等が出てくる。それ以上に 中国が列 強に侵略されていく様を詳細に述べる。世界史に出てきたこともあれば、出てこなかつたか、既に忘れてしまつたことも ある。しかし,このあたりは本書には重要なことで、それが最初の「侵略編」の概要であらう。実際、これだけ で本書の ほぼ半分を占める。「植民地編」では今少し満州国のことを具体的jに述べる。ここで例の張作霖も出てくる。彼が馬賊 の親玉で日本に面従腹背の徒であればこそ爆死する。金日成も匪賊の親玉として出てくる。彼は「みずから英雄 伝説を創 作する」(164頁)が、実態は「ほとんどは中国共産党の手足になったにすぎず、人民革命軍を率いた本格的な戦闘経 験などなかった」(165頁)らしい。これらからも分かるやうに、この部分は日本の侵略の過程とでも言はれ さうな部 分である。だから「植民地編」なのであらう。最後の「傀儡編」は満州国が傀儡ではなかつたことを述べてゐる。見方次 第では傀儡も傀儡ではなくなるといふことであらうと思ふが、筆者はもつと強い調子で傀儡ではないことを主張 してゐ る。私には本書は満州国の実態が分かるやうな気がした書であつた。見方の問題は微妙なところがあり、確かにさうも言 へるが、しかしといふところもある。難しいところである。
・本書で作者の主張の最もよく表れてゐるのが最後の「おわりに」であらう。「侵略・植民地、傀儡ーー。」と 始まる。 以下、現代中国の実態を述べる。「この三つのキーワード、じつは満州ではなくいまや、蛇蝎のごとく忌み嫌ってやまな い中国共産党政権にブーメランとなって跳ね返っているから皮肉としかいいようがありません。中国共産党政権 こそ侵 略、植民地、傀儡のすべてを体現し」(253頁)てゐるのだといふわけである。これは日本では大方の賛同を得ること ができさうに思ふ。私ももちろん賛同する。それにしてもこの3つの語が実に見事に中国共産党に当てはまるこ とに驚 く。チベットもこれで己が領土としたはずである。これは例のスリランカでも同様で、本当に気がついたら港が中国のも のとなつてゐたのである。返せないであらうだけ金を貸しておいて最後は我がものとする。帝国主義者のふるま ひ、と言 ふより、そこらの金貸しのふるまひであらう。この金貸し、遅れてきた帝国主義者はアフリカにも食ひ込み、着々と領土 を増やしてゐる、とは言へなくなつているらしい。これも野心を出しすぎたせゐであらう。近いところではアジ ア、東ア ジアには台湾や尖閣がある。少し南に行くとベトナムやフィリピン、例の九段線に関はる。この九段線、法的にはなんの 意味もないのに、それを中国古来からの領海だと主張してゐる。中国の領土的野心はとどまるところを知らな い。かうい ふことを筆者は述べてゐる。さうして最後に香港が来る。もともと中国の領土とは言つても、英国との約束がある。守る べきものである。「そうでありながら二〇二〇年6月、中国共産党は『香港国家安全維持法』を制定し、これら の自由を 奪い取り、民主派といわれる議員たちを議会から締め出し、香港政府はまはや完璧に中国共産党政権に支配された傀儡政 府と化しています。」(256〜257頁)傀儡である。現代中国の方がよほどか傀儡好きだといふことにな る。満州が 傀儡なら香港は何だといふことである。筆者が言ひたいのはさういふことであらうと思ふ。


23.03.04
ケン・リュ ウ編「金 色昔日 現代中国SFアンソロジー」(ハヤカワ文庫SF)は「折 りたたみ北京」に続 く中国SFの第2弾である。登場人物等、さすが中国である。カタカナでではなく、漢字の名前が多い。ま づこのことに感心してしまつた。それほど私が中国とは無縁の読書生活を送つてゐるといふことで ある。さ ういふ内容の作品もあればさうではない作品もある。実に様々である。「本アンソロジーには、全部で十四 名の作家による十六篇の作品が収録されて」(「序文」12頁)をり、「作品渉猟の場を拡大する 方向に目 を向けて」(同前)編まれたといふ。ただし、「本プロジェクトは、中国現代SFの代表的な作品を集める という意図は」(同13頁)持つてゐないといふ。私にはいかなる作品が「中国現代SFの代表的 な作品」 か分からない。「中国SFと呼びうる作品の多様さと中国SF作家界の雑多な構成」(同前)といふこと は、中国SFといつたところで、決して一つにくくれるものではないといふことなのであらう。
・表題作宝樹「金色昔日」はおもしろい作品であつた。私は現代中国の歴史を知つてゐるわけでは ないが、 それでもこの作品が現代中国の歴史をさかのぼつてゐることは分かる。主人公の「いちばん古い記憶はオリ ンピックの開会式だ。」(222頁)といふのが北京五輪であれば、彼は私達の同時代人であると 言へる。 「三年生のときに感染症のSARSが流行し」(226頁)た。次にサダム・フセインやビン・ラーディン が出てくる。例の9・11もある。かうして様々な出来事があり、ゴルバチョフがソ連邦を作り、 「?小平 の計画経済改革が失敗し、経済は悪化の一途をたど」(243頁)る。さうして共産党内部抗争から天安門 事件が起きる。主人公は学生側の指導部に加はるも、最後は軍隊に掃討される。……ここまで書け ば十分で あらう。この作品は歴史を改編しつつさかのぼつてゐる。従つて、最後は日独伊の三国同盟対米ソ同盟であ り、この中国側の動きとして国共内戦と国共統一戦線による抗日闘争である。この間に幼なじみの 恋人が登 場する。この女性の運命は歴史に弄ばれてゐる。最後は日中戦中に主人公に会ふことかなはず死ぬ。「ある 意味で本書の作品中最も中国的な物語であ」(ケン・リュウ解説218頁)り、「人民共和国の歴 史を知れ ば知るほど、この物語の意味もはっきりと見えてくる。」(同前)といふ。私に見えたものが宝樹の見たも のであるなら、これが中国国内で発表できるのかと思ふ。「最初の公式な出版が英語版と」(同 前)なるさ うである。原典には"No Chinese publication"とある。中国語版なし。訳者はケン・リュウである。「公式な出版が英語」であるなら、非公式な中国語もあるのであらうか。中国国 内で出せないから英語版を出したのではないのか。中国の現状を見る限り、危険を顧みずに敢へて 出版する とは思へない。宝樹はいかなる人かと思つても、フリーライターであるらしいとしか分からない。web上 にもこれ以上はなささうである。この人、中国で現役の作家としてやつてゐるのだらうか。天安門 事件や文 革を描き、?小平の経済改革を失敗といふ。かういふことが許されるのなら、中国は今少しまともな国にな つてゐさうでる。しかしさうではない。あくまで習某の中国である。かうして日本語版が出るから には、こ の人の現在を心配する必要はないのかもしれない。もちろんこれは例外的な作品である。本書は普通のSF ばかりである、とは語弊があるか。しかし、ここに様々な傾向の作品があり、様々な内容の作品が あると知 れる。おもしろい作品集であつた。

23.02.18
石井正己編 「菅江真 澄 図絵の旅」(角川文庫)は読んだといふより見たと言ふべき か。書名通り図絵中心 の書である。真澄は三河の生まれの人だが、その絵は東北のものが多い。若い頃旅立つたまま、こちらに帰 ることなく亡くなつたからである。彼の絵は独特のもので、その絵の「真澄独特の稚拙な表現は、 文人の間 に流行していた真景図とは違って、御伽草子絵に近い」(辻惟雄、331頁)ものであるらしい。風景画も 多いが、民俗的な絵も多い。個人的にはこちらに興味がある。真澄は2400点ほどの絵を残して ゐるとい ふ。それからすればここに載るのは112点、20分の1以下である。それでも色がついて細かなことまで 分かるやうになつたのはありがたい。
・真澄30歳、旅立つたばかりの頃の絵、七夕人形(26頁)、これはつるし雛である。伊那とい つても松 本に近い場所である。松本の押し絵雛のやうなものであらうか。軒端に7つの人形がぶら下がつてゐる。刀 を差す人形もあるから、子供ではなく大人なのであらう。七夕行事の人形であるといふ。これにど のやうな 行事が伴つてゐたのか、残念ながら分からない。てるてる坊主もある。一気に北海道に飛ぶ。「てろてろぼ うず」(46頁)である。これは変はつてゐて、半分に切られたのが木にぶら下がつてゐる。しか も逆さま である。「雨が晴れると、このてろてろぼうずを一つに合わせて完全な形にし、御馳走をしてお礼を申すと いう。」(同前)かういふことをする地域が今でもあるのだらうか。これはアイヌの習俗ではない といふ。 ついでにずつと後ろに飛ぶとおしらさま(258頁)がある。真澄晩年の絵である。多くの布に包まれた2 体もあるが、男女や馬、鶏もある。馬娘婚姻譚と言ふから、馬と娘が多いのかと思へばさうでもな いのであ るらしい。真澄の時代も現在も変はりなく信仰されてゐるのはさすがと言ふべきか、19世紀初めのおしら さまを見ることができるのである。珍しいものをかうして描いて残してくれたのは本当に有り難 い。関連し て恐山がある。真澄40歳の頃の絵である。見開き2枚の絵が載る。左側75頁の絵は参道から地蔵堂を描 く。地蔵堂は小さいやうな気がする。今の地蔵堂はそこらの寺の本堂くらゐはある。ところがここ のは、灯 籠や石段と比べると、そんなに大きなものとは見えない。村の地蔵堂といふ感じであらうか。恐山といつた ところで、現代のやうに人が多く行くやうな場所ではなかつた。これで良かつたのかもしれない。 手前には 温泉がいくつか、これは現代と同じである。左手には煙が出ているところがいくつもある。昔も何とか地獄 と言つたのであらうか。ここを更に行けば宇曽利湖なのだが、これは右の74頁にある。三途の川 は丸木橋 である。人の姿が見えないのは実際に人がほとんどゐなかつたのであらうか。イタコの口寄せでもと思ふの だが、「この時代にはまだ(中略)イタコの口寄せは見られない。」(73頁)さうである。あれ も人がゐ てこそ成り立つ。さういふ事情であるかどうか。とまれ、恐山が昔から荒涼とした風景であつたことが分か る。その他、112点しかなくても十分におもしろく見ることができる。これがオールカラーで全 点そろつ てゐたらと思ふ。壮観であらう。そして民俗や風景に関する多くのことを教へてくれるはずである。個人的 には、真澄が若い頃に絵を描かなかつたのが残念でならない。若書きでも習作でも、三河周辺の絵 が残つて ゐればどれほどおもしろいことか。風景であれ民俗であれ、真澄の目は確かである。真澄の目で見た江戸の 三河の風景を見てみたいと思ふ。しかし、東北の風物で我慢するしかないのが残念である。

23.02.04
ジェラルディン・マコックラ ン「世界 のはての少年」(創元推理文庫)を読んだ。所謂ファンタジーかと思つて読み始めた のだが、どうも趣が 違ふ。読んでゐるうちに、結局、ファンタジーとは全く関係のない作品だと分かつた。カバーには「YAの名手が実際の事件 をもとに描いた、勇気と成長の物語。」とある。最初にこれを読んでゐればと思ふ。たぶんYAだらうが何だらうが 買つたは ずである。ただ、ファンタジーとして読み始めるのと、「実際の事件をもとに描いた」物語を読み始めるのとでは、言はば、 意気込みが違ふ。その意味ではいささか迂闊であつた。その「実際の事件」はいつ、どこで起きたのかといふと、 1727年 に、スコットランド西岸沖のヘブリディーズ諸島、その西の果てにあるセント・キルダ諸島のヒルタ島で起きた。子供9人と 大人3人が島に取り残されて冬を越さねばならなくなつたのである。日本では享保年間、八代将軍吉宗の時代であ る。これで 分かるやうに、この物語は所謂無人島ものである。実際にはヒルタ島と呼べるやうな場所ではなかつたやうで、「こちらの舞 台は『島』ではなく、草木の一本も生えぬ『岩』であって」(「訳者あとがき」301頁)とある。その記録がある かと言へ ば、「彼らがそこで何を考え、いかにして生き残ったのかは、歴史に埋もれてしまっている。だれもそのときの記録を残さな かった。」(「著者あとがき」293頁)とある。つまり何があつたかは分かつても、具体的な記録はないのであ る。そんな 中からこの物語は作られた。「一度ページをめくったが最後、途中で本を置くことはまず無理だらうが」(「訳者あとがき」 304頁)といふのはいささか言ひすぎだが、後半はそれに近くなる。ファンタジーとは全く違ふ物語であつたが、 それとは 別のおもしろさがあつた。
・実話に基づく無人島ものであるが、この事件の記録は残つてゐない。名前が記録されてゐるのかどうか。物語の登 場人物に は名前がある。大人3人は職業を持つ。子供達に職業がないのは当然だが、その代はりそれぞれに豊かな性格が与へられてゐ る。作者としては何が起きたかを想像することも大変だつたであらうが、同時に子供や大人の性格付けもまた大変で あつたら う。これが一人一人実にくつきりと描かれてゐる。一人の大人は教会の墓掘りだつた。「牧師の代理が務まるとは、だれも 思っていない」(39頁)のに、いつの間にか牧師然とし始める。たかが墓掘りのくせにと思つても、なかなかその やうには できない。しかも火の管理をしてゐるのである。例へばこの一事だけでも11人の動きは違ふ。それだけでもおもしろい。そ して鳥、何種かの鳥が出てくる。最後にまとめてある。「セント・キルダの鳥たち」(295〜297頁)である。 これを見 ると絶滅した鳥もゐる。オオウミガラスである。飛べないし陸上では不器用、無防備だが、代はりに「水の中では敏捷に泳 ぐ。」(295頁)そんな鳥である。たまに姿を見せる。これを食ふことはなかつたらしく、人の近くに平気で行く やうであ る。その他の鳥はどうなのであらうか。フルマカモメはランプ代はりらしい。食ふのはカツオドリらしく、その幼鳥のグガは 御馳走だつた。このやうな鳥達も豊かに描かれてゐる。カツオドリの見張り役が王である。「このカツオドリさえつ かまえて しまえば、あとは」(23頁)獲り放題である。それを最初につかまへれば「カツオドリの王として仲間内で君臨できるの だ。」(同前)さうして子供達の中心になつたクイリアムが主人公となる。鳥と子供達の豊かな個性で読ませる物語 と書いて おかう。12人ゐるが11人になつた物語である。

23.01.14
神永曉「辞書編集、三十七年」(草 思社文庫)はまだ現役の辞書編集者のエッセイである。言葉の蘊蓄はあまりない。本書ではさういふものより、辞書編集者と しての 様々な体験が書かれてゐる。序章「辞書編集者になるまで」から第十一章「辞書以外の世界で『ことばの面白さを伝える』」まで、 37年間の経験が次から次へと語られる。目次を見るだけでもおもしろい。第一章「『辞書編集者』とは何者か?」は「辞書 編集者な のに明るい」(「なのに」に傍点)「辞書編集という刑罰」等々、第三章「思い出の辞書たち」にはこの人の手がけたいくつもの辞書 が並ぶ。当然その中心には「日本国語大辞典」第二版がある。といふやうに、本書は目次だけながめてゐるだけでも楽しい。 辞書編集 者が辞書とその周辺を語り、その見出しを実に分かり易くつけたからさうなつただけのこと、これも編集者の編集者たる所以がその著 作に現れたのであらう。それにしても辞書編集一筋といふ「希少な存在かもしれない私が、辞書編集者として、日本語とどの ようにか かわってきたのか書き残しておくのも、少しは意味があるのではないか。」(4頁)と考へたといふ執筆動機は正に有り難いものであ つた。それは「はじめに」できちんと各章の説明をするといふ〈几帳面さ〉にも表れてゐるやうな気がする。そんな書であつ た。
・著者は「『辞書編集者なのに明るいですね』と言われたことがある。」(38頁)といふ。一般の人は「辞書編集者とはま じめで、 黙々と仕事をするタイプの人間だと思っているのかもしれない。」(同前)とある。私はできあがつた辞書しか知らないので、辞書作 りに於いて、編集者がどのやうな仕事をしてゐるのかを知らない。原稿依頼や校正は当然のこと、しかしそれ以外は編集委員 以下の 人々がやつてゐるのかぐらゐは考へる。しかし、実際にはそこに止まらないらしい。編集者の関与がかなりあるらしい。辞書の項目選 択はほとんどやらないらしいが、執筆依頼のための執筆要領は編集者が作るといふ。原稿出来後の執筆要領違反等のチェック も行ふ (45〜46頁)。その後にゲラの洪水がある。ただ読むだけでなく「文章を整える作業を行う」(47頁)。これは読むだけで大変 さうだと思ふ。辞書の文字数は多い。「これを毎日コツコツと読んでいかなければならないわけだから、いやでも忍耐力が試 される。 (中略)とても根気があるとは思えない私が、なんとか三十七年間勤めあげられたのは、忍耐力があるというよりも、たぶんこの仕事 が体質的に合っていたからだと思う。」(同前)と書く筆者の忍耐力のすごさを思ふ。これはやはり尋常ではない。「体質的 に合」う といつても、三十七年間は並みではない。正に「希少な存在」に違ひない。ただ、その一方で創造的な仕事もある。例へば「現代国語 例解辞典」、高校学習用かといふ感じの辞書だが、売りは「類義語の差異を例文の中で示した表組」(83頁)である。これ を「類語 対比表」といふ。「これは今でも画期的なものだった」(同前)との自己評価がある。私はこれは何だと思つたものだが、慣れてくる とそれなりに便利ではあつた。「○」があれば使へる、「−」だと使へない簡単に言へばそれだけだが、迷ふ時には参考にな る。実際 には「松井栄一先生の発案」(同前)だが、筆者も大きく関与したに違ひない。他にも特徴のある辞書である。私はそれに気づくこと なく使つてゐた。知らなくても使へてしまふといふ点が編集者の〈悲劇〉かもしれない。辞書なんて皆さういふものだと言へ る。人の 苦労も知らないでと言はれさうである。実際知らなかつたのである。その意味でも本書はおもしろかつた。

23.01.01
夏 来健次 編「英国クリスマス幽霊譚傑作集」(創元推理文文庫)」を呼んだ。英国ではディケンズ以来、 毎年クリスマス近 くになるとクリスマス怪談特集を雑誌が編んだ(「編者あとがき——聖き夜、怖き宵」371頁)といふ。日本だと幽霊は夏のものと 決まつてゐるのだが、英国ではさうではないらしい。怪談と言つても国によつて違ふのだと分かるのが本書である。クリスマ ス、冬の 怪談集である。ディケンズ「クリスマス・ツリー」を巻頭に、以下計13遍を収める。ディケンズは思ひ出話かエッセイかといふ感じ で、やはり知名度で採られたのであらう、決して怖くはない作品である。日本でもクリスマスはディケンズといふことであら う。他は すべて怪談である。「13篇中12篇を本邦初訳で贈る。」とカバーにある。ディケンズだけは旧訳あり。他の怪談はすべて初訳、こ れだけでも読みたくなる。
・J・H・リデル夫人「胡桃邸の幽霊」は子供の幽霊である。日本では子供の姿形の妖怪はゐるが、子供の幽霊がゐたかどう か。物語 は買い取つた屋敷に泊まらうとする男の話である。その屋敷に幽霊が出る。「では、いったいだれの幽霊なんだ?」「それほどお知り になりたければ申しますが——どうやら子供のようなのです。」(146頁)といふわけで、男はこの謎解きに挑む。結論だ け書け ば、双子の兄妹が養はれてゐたのだが、2人は別れ別れになり、兄はその悲しみに衰弱死する。その兄が幽霊だつた。最後はめでたし めでたしで終はる。男の子の「まなざしには悲しみも物思わしさももはやなく、ただ大いなる穏やかさが溢れ、美しい光すら 放って、 眸を輝かせしめていた。」(176頁)およそ日本の会談では考へられないハッピーエンドである。かういふ怪談もあるのだと思つて しまふ。次のセオ・ギフト「メルローズ・スクエア二番地」はさすがにハッピーエンドではない。しかし謎は解決されずに残 る。怪談 も謎解きであるから、その謎は解決されるはずである。ハッピーエンドになつても謎が残つてはまづい。そこできちんと解決される。 ところがこれはさうではない。「調べはそこで行き詰まった。手がかりはもはやない。」(212頁)さうして謎は残され、 屋敷は幽 霊屋敷として有名になつて残る。その噂で借り手がゐなくなり、主人公が訴へられたのである。この物語はその訴へに対する陳述書で ある。かういふ中途半端な物語が多くあるとは思へない。やはり人は謎を解決したがるものである。謎を解決しないで残すの が良いの かどうか。個人的には解決させてほしいと思ふが、編者は「迫力ある怪異描写と読後残る謎が印象的で」(378頁)とむしろ好意的 に評価してゐる。そして、エリザベス・バーゴイン・コーベット「残酷な冗談」に幽霊は出るのかといふのが問題になる。も ちろん出 ない。しかし、その(贋の)幽霊で人が死ぬのである。だからこれも幽霊譚と言へるのだとは思ふが、かういふ物語まで許容して楽し むことのできるエリザベス朝の読書人士はなかなかなものだと思ふ。私などは幽霊は是非出てきてほしいと思つて読むので、 かういふ のだと肩すかしを食らつたやうな気分になる。せめてルイーザ・ボールドウィン「本物と偽物」ぐらゐには幽霊が出てほしいと思ふ。 個人的にはフランク・クーパー「幽霊廃船のクリスマス・イヴ」のやうなのは好きではない。いかにも見せてやるぞといふ感 じの作品 である。編者は「廃船内部の執拗な描写が圧巻。」(379頁)だといふ。さうかもしれないけれどね、と私は思ふ、とまれクリスマ スシーズンだけで吸血鬼を上回る作品を生み出してきた英国、その一端を知ることのできたアンソロジーであつた。


22.12.17
郡 司すみ 「世界の音 楽器の歴史と文化」(講談社学術文庫)もザックスとホルンボステルの分類による 1冊かと思つて読 み始めた。しかし、どうも違ふ。楽器分類がないわけではないのだが、主要楽器のみが最後の方にあるといふ程度で、筆者の本書に於 ける関心の中心はこちらにはなささうである。「はじめに」が筆者の関心の在処を端的に示してゐると思ふ。「音楽の演奏に 用いられ るものが楽器である」(11頁)、ならば「音楽とは何であろうか?」(同前)しかし、「音楽といわれるものについて、すべての 人々を納得させることのできる説明はまだないように思える。従って、音楽を演奏するための楽器とはどのようなものである かをあき らかにすることもまた不可能であると言わなければならない。」(同前)どうやらこの人に所謂楽器分類は不要であるらしい。それで もこの最後に、「あらゆる音の中のある一つが意識されて、“音”となるように、地球上のどのような物でも、ひとたび “音”を出す ために使われると、たちまち“音を出すもの”に変身してしまう(中略)そのようなものを楽器と呼んでよいのではないかと思う。」 (同前)と書いてゐる。つまり音を出せれば楽器になるのである。
・第一章は「ミンゾク楽器」である。民俗か民族か、これだけでは分からないが、それは「文字で書かれていてもその用法は 曖昧なこ とが多」(14頁)く、これは音楽でもさうだといふのである。「『音楽』というといわゆるヨーロッパの芸術音楽を意味し、その他 の音楽で馴染みのないものは、大抵ミンゾク音楽と呼ばれてゐる。」(同前)CD販売などでのジャンル分けは細かいが、一 般にはこ の通りであらう。「音楽」の時間は、基本的に西洋の所謂クラッシック系の音楽を中心に行ふ。楽器はリコーダーとか鍵盤ハーモニカ とかである。琴や三味線を習ふことはなく、また聞くこともめつたにない。我が国の音楽は、「およそ十七世紀以降に西ヨー ロッパで 確立された体系的な形をとった音楽、言い換えれば音が定量化・標準化された後の、いわゆる近代五線譜による音楽に限られてゐ る。」(15頁)五線譜といふのは便利である。だからそれが教育に採用されたのは分かる。共通の地盤や視点が必要だし、 それを提 供してくれるのはヨーロッパの音楽にしかなかつた。例へば日本にも楽譜はある。西洋の影響を受けた三味線の文化譜などは確かに分 かり易いのだが、問題はそれを使ふ人によつて基音が違ふことである。人は皆それぞれだから基音が違つて当然とは西洋では 考へなか つた。基準があるからよく分かるとも言へる。皆同じ高さの音を出せる。そのおかげでオーケストラも混声合唱もできる。だから、西 洋の楽器は「“ヨーロッパ音楽”のみが持つ和声の発達とともに完成された楽器」(17頁)であるのに対し、「日本の音楽 は唄を主 体とする旋律の音楽であ」(同前)るから、「一つの音の表情の豊かさ、微妙さが生命であつて、楽器の音にも当然それが要求され」 (同前)る。ミンゾク音楽を扱ふのだからかういふ考えは当然と言へるかもしれないが、現実には、音楽学は西洋音楽の範疇 内で行は れてゐる。その意味でこれは珍しい。大体、私は楽器学といつてもクルト・ザックスぐらゐしか知らない。そんな人間からすれば本書 は驚異の書であるとも言へる。それだからこそこれは引用しておきたい。「“ヨーロッパ音楽”に倣って、諸民族の音楽を定 量化・標 準化して普遍化を持たせようとする試みは、それがどのような形をとったとしても、これらの音楽の本質を損なう危険をはらんでいる ことに心しなければならないと思う。」(18頁)私自身の自戒でもある。

22.11.26
安 東麟「本字を知る楽しみ 甲骨文・金文」(文 字文化協会)を読んだ。「本字」には「もとの じ」と「ホンジ」のルビがついてゐる。ここでの「ホンジ」は略字に対する本字ではなく、その漢字のもとになつた 文字といふ意味である。古い文字ではあつても、さかのぼれば更に古い文字がある。それが「もとのじ」で ある。私 たちが「もとのじ」、漢字のもとになつた文字からすぐに思ひ浮かべるのは象形文字であらう。山や川といふ文字は その物の形からきた。かういふのは多いのだが、本書にもこれはいくつもある。私が最もおもしろいと思つ たのが 「歯」であつた。これには「歯(齒)」は、「口を大きく開け、その中に歯を記した象形です。歯の本数が四本と、 歯の本数を減らした超、省略形で、口の中にある歯を表してい」(62頁)るとある。正に説明通りの文字 である。 しかもこれには齲歯、つまり虫歯もある。歯が四本であつたのが、上の中央に虫歯がある。「中央にあるのが『虫 (蟲)』。『歯』と『虫』をあわせて虫歯を表す(中略)甲骨文に残っているということは、古代中国人も 虫歯に苦 しんだのでありましょう。」(同前)ともある。さうなのだと思ふと同時に、「齲」の字とのあまりの差に驚きもす る。偏はともかく、旁の「禹」はどこから来たのだと思ふが、私にはこれを確認する術はない。今一つ出 す。心臓の 象形文字の「心」である。これにも甲骨文はあるのだが古文もある。「古文とは、秦が全国を統一する以前の、直筆 の細長い竹を編んだ竹簡に書かれた文字や、石に彫られた戦国時代の文字を含むものであ」(9〜10頁) ると凡例 にある。これならば心臓と思へなくもないかといふ文字である。どちらかといふと「女」に似てゐる。これを使つた のが「粛」である。「『粛』字は、器物に文様を書き加えて聖化するすることから、つつしむ意味とな」 (64頁) るさうである。「金文では(西周金文1)では、上部には筆を持った形である『聿』の形、下部には心境を示す 『心』が記され」(同前)る。「粛」の上は「筆」のやうである。しかし下が「心」となるかどうか。これ は後の春 秋・戦国時代に「下部を淵の形で記」(同前)すやうになつたからであるらしい。なぜかういふことが起きるのかは 分からないやうで、「列国期には、淵を示す文字という理解になっ」(同前)たらしいとしか記してない。 漢字も古 いところまでさかのぼると、結構変化してゐるのだと分かる例である。「戀」にも「心」がある。「心惹かれる気持 ちを表すために『心』が付された」(66頁)。この甲骨文は「ハート型によく似てい」(同前)る。確か にこの方 が心臓らしく見える。甲骨文を書く古人は心臓の形等を知つてゐたのであらうか。篆書の「戀」の下の「心」は甲骨 文と古文の「心」の合体した感じの文字である。「心」も形を変えながら漢字につながつてゐるのである。
・本書の著者安東麟氏は古代文字書家である。甲骨文や金文の書の専門家である。甲骨文は甲骨文字である から書か れたのではなく彫られた、と思ひたいところだが、「甲骨文には筆を表す『聿』字があり、筆記材料としては、文字 を書いた竹簡などを示す『冊』」(3頁)があつたとあるやうに、やはり書かれたのであるらしい。古代文 字を書く といふ発想は普通の書家にはなかなかできないらしい。著者は古代文字の書家である。だから本書中には多くの甲骨 文や金文が(筆で)書かれてゐる。これを見るだけでも不思議な気分になれる。さうしてそれらが諸橋大漢 和の源が ここにあると教へてくれる。この「もとのじ」をながめること、これが「本字を知る楽しみ」であるらしい。絵の如 き文字である。

22.11.12
T・ キングフィッシャ−「パン焼き魔法のモーナ、街を救う」(ハ ヤカワ文庫FT)を読んだ。正に書名 通りの物語である。これ以下でもない、これ以上でもないといふ、正にそのものズバリの内容である。小説の題名となる と、作家は、あるいは訳者はその内容に添つた題名をつけるのだが、そのものズバリはあまりつけなのではない か。やは り思はせぶりな、もしかしたら関係あるやうなないやうな題名をつけるのではないか。その方が読者も食指をそそられる 可能性がある。ところが本書はそのままである。「パン焼き魔法のモーナ、街を救う」、これだけである。世に 魔法使ひ は多いから、14歳の、中学生くらゐの魔法使ひ、いや魔女がゐないことはなからう。その場合、その魔女に得意技はあ るか。ありさうな気はする。飛行が得意だとか、変身が得意だとかはあつても、しかし、基本的には何でもこな せるのが 魔女であるやうな気がする。いや、それでこそ魔女であり魔法使ひである。ところが本書の場合、14歳の少女モーナは 魔法は使へるのだが、使へるのはパンを焼く魔法に限られる。「あたしは粉だらけの手をパン種に突っ込み、そ んなに固 くなりたくないでしょ、とほのめかした。」(14頁)これが最初の魔法だと思ふ。「パン種は喜んで説得されてくれ る。」(同前)といふわけで、固い生地も普通のパンとして焼けるやうになるのである。以下、彼女が使へるの はこの類 だけである。あくまでもパンの関係だけ、「パン焼き魔法のモーナ」のモーナたる所以であつた。本書に魔法使ひはたく さん出てくる。いや、魔法使ひといつてはいけないのかもしれない。皆が皆さうではないかもしれないが、本書 の魔法使 ひにはガンダルフのやうな達人はゐないのかどうか。宮廷魔法使ひ「イーサン卿は空から風を呼び出して敵を叩きつぶせ る。(中略)稲妻を操れるらしい。」(70頁)かうなるとガンダルフに近くはなりさうである。しかし、多く はモーナ のレベルである。ならば「魔力持ち」(22頁)といふのがふさはしい。できることは皆違ふ。「木の板から節をとるだ けの魔力しかないエルウィッジ親方」(同前)、馬運びの「モリーはあたしみたいにすごく力の弱い魔法使いだ けど、そ の才能は(中略)死んだ馬を歩かせること」(63頁)等々、たいしたことではない。しかも一つの技だけである。一つ の個性といふところであらう。
・物語は一人の少女がモーナの店頭で死んでゐたことから始まる。モーナはその容疑者とされ、宮廷で裁きを受 けること になるが、女王は容疑なしとする。その後、モーナはモリーから、「春の緑の男に気をつけな」(72頁)と言はれる。 「魔力持ち」も含めて、魔法を使へる人間がモーナの王国で次々と殺されつつあつたのだ、といふところから言 はば謎解 きが始まる。これは全く難しくない。すぐ解ける。問題はそれに関わる人物である。これがこの種の物語ではあまり見ら れないやうな人間である。ヒロインはモーナである。14歳の女の子、パン焼き魔法しか使へない。女王、「タ ビサ叔母 ぐらいの年頃で、たっぷり六インチは背が低いことをのぞけば、かなり似た体格だった。」(47〜48頁),容姿にコ ンプレックスあり。あまりこの手の物語の女王には似つかわしくない。敵方も簡単にやられてしまふ。味方の老 魔法使ひ も簡単に死ぬ。戦ひの場面ではモーラのパンの魔法の技が試される。これも魔法の種類が違ふのではないかと思つてしま ふ。といふわけで、これまでかういふ魔法の物語を読んだことがないやうな気がする。ユーモアが勝つた物語で ある。 「指輪物語」とは対極にある物語である。しかし、それはそれでおもしろい。

22.10.29
松下幸子「江戸 食の歳時記」(ちくま文庫)を読んだ。書 名通りの 書である。歳時記とある通り、春夏秋冬に分けて約50の話題でできてゐる。そのものズバリの食物は少なく、「おせちの移 り変わり」に始まり、「蕎麦屋と年越し蕎麦」で終はる。その間、きんとんや鯛、鮎、瓜、サンマ等が出てくる。い づれも当 時の料理書からの紹介を中心に、著者自身がそれを作つた時の経験談等が入つてゐる。書物ゆゑに味も臭ひもしないが、そこ は想像力をたくましくして読む。しかし、分かつたような分からないやうなであるのはどうしやうもない。そんな中 でも、私 におもしろかつたのが冬であつた。冬は「江戸の飴と飴売り」から始まる。最初に飴の製法を述べ、その後にいくつかの飴売 りの紹介がある。各節の本文は大体こんな感じである。飴は今でもあるし、味もからいとか酸いとかはないはずなの で想像し やすい。飴売りの風俗は三谷一馬等でお馴染みでもある。
・「江戸時代の獣肉食」といふのがある。獣肉食は冬のものであるのかどうかは知らないが、例の広重のももんじ屋 の絵は 「びくにはし雪中」であつた。本文にも「獣肉と葱の鍋物で繁昌するももんじ屋」(301〜302頁)とあるから、やはり 獣肉は冬の食べ物であらう。問題は、江戸の人々はどんな獣の肉を食つてゐたのかである。これは知らなかつた。も ちろん江 戸期に獣肉は忌避されてゐた。しかし、現実は違ふ。牛や豚は今でも食ふ。馬や鹿も猪も少ないが食ふ。江戸時代にはもちろ ん食つた。当時の料理書に出てくる獣肉には、これら以外に、狗(犬)、狐、狸、兎、鼠、山狗、羚羊、熊、猫、更 には土竜 もある。猿も食つたらしい。といふことは、ほとんどどんな動物も、食へさうであれば見つけ次第食ふといふことであつたや うに思はれる。常にももんじ屋のやうな店で食ふとは限らない。それができる人ばかりではなかつたはずである。美 味い不味 いもあつた。しかし、そんなことを言つてはをれなかつたか、とにかく食つた。そんな人も多かったのかもしれない。これら はどれも煮たり、焼いたり、汁にしたりして食つてゐる。鳥も食つた。これは秋の「江戸の鶏卵」にある。食つたの は専ら野 鳥であつたが、その種類は多い。鶴、白鳥、雁、雉子、山鳥、ばん、けり、鷺、鶉、雲雀、鳩、鴫、水鶏、つぐみ、雀、鶏 等、これまた実の多くの鳥が食はれてゐた。「江戸時代中期頃までは鶏よりも野鳥の肉がよく用いられたらしく、人 気があっ たのは鴨で云々」(247頁)とある。現在も鴨は食ふのだが、美味いものは今も昔も美味いといふことであらうか。鳥獣に 関して言へば、現在とは比べものにならないほど豊かな食生活であつたと言ふべきか。私の想像を超える獣肉、鳥肉 の世界で ある。今一つ、意外であつたのが「氷のはなし」である。氷は氷室でといふのが伝統である。江戸時代もさうであつた。それ でも献上品として用ゐられた(318頁)らしい。そんな時代の料理書には氷の製法が載つてゐたといふ。「六月氷 拵様」 (319頁)である。これは要するに、「井戸の中に一晩おくと氷ができる」(同前)といふことである。そんなところで氷 ができるのである。6月は現在の7月、梅雨が終はつて暑い頃でもあらう。それでも作れたのである。さうでなけれ ば作る意 味もない。使ひ道は「水物などによし」(同前)とある。水物は「器の冷水の中に瓜などの食品を浮かべた料理」(同前)だ さうである。江戸の人々も涼を求めた料理を作つてゐたことが分かる。時代は違へど、寒暑に対する料理があるのは 変はらな い。さうして少しでもその季節を楽しまうとしたのであらう。さういふことも分かる書であつた。

22.10.15
桂竹 千代「落 語DE古事記」(幻冬舎文庫)を読んだ。本当はこれを落語としてききたいところだが、 たとへ上巻だけでも 古事記が落語になつてゐるのかどうか。youtubeには天孫降臨までの約20分の話があるだけのやうである。落語ききに来 てくれればみたいなことを最後に言つてゐるので、もしかしたらこの先もできてゐるのかもしれない。たとへさうであつ ても今き くことはできない。そこで本書を読まうと思つた。そして読んだ。これもやはり天孫降臨で終はる。つまり、古事記上巻を落語に して口演すれば約20分、それを文章化すれば文庫本1冊、約240頁分、といふことは落語がいかに簡潔に語られてゐ るかとい ふことである。いや、あれを簡潔といふか、走りに走つた結果といふか、見方はいろいろとあらうが、とにかく非常にコンパクト にまとめられてゐる。
・本書は第一話から第三十話まである。一は序文の落語化、といふより、稗田阿礼の説明等である。序文自体はさすがに 落語には ならない。「覚えられるか!」とあるのは、阿礼のやうに古事記本文全体を覚えられるかといふことである。昔は昔の覚え方があ つたのだとは思ふが、やはりこれは至難の業である。さう言ひたくなるのも分かる。二以下が本文で、国生みから始ま る。本書の ポイントは、それぞれで神が生まれるとその神はどこそこのお宮に祀られてゐると、きちんと書いてあることである。例へば最初 の造化三神とそれに続く二柱の神、これらの神々がどこに祀られてゐるのかといふと、私は知らなかつたのだが、「福島 県の相馬 市にある相馬中村神社や、埼玉県秩父市にある秩父神社」(24頁)だといふ。さうしてその御利益は「心願成就や延命長寿にあ るとされてい」(同前)ると記してある。これはありがたい。「はじめに」にかうある、「日本にはたくさんの神社があ ります ね。そこにまつられているのは、ほとんどが『古事記』に登場する神々です。(中略)みなさんは神様のことを何も知らずに拝ん でいませんか?(中略)神社にお願いごとをしに行くのなら、神様のことも知っておくべきだと思います。」(7〜9 頁)。だか らきちんと、ただし主な神様だけではあるが、この神はどこのお宮に祀られてをり、これこれの理由でこれこれの御利益があると 記してあるのである。古事記の訳本や解説本は多いが、本書のやうにお宮と御利益まで記したものがどれくらゐあるの か。私はさ ういふのを見たことがない。本居宣長にしたつてそんなことを知つてゐるわけではないし、注釈書も目的は別にあり、注釈に一々 それを書き込んだら分かりにくくなるといふこともある。だから基本的には無視される。ところが本書は違ふ、その意味 では本書 を読んで良かつたと思ふ。私はお宮巡りはしない人間であるが、どこにどの神様が祀られてゐるくらゐは知りたい時もある。古事 記の主要な神であれば、どこか私の知らない小さな町の小さなお宮にしか祀られてゐないなどといふことはなからう。大 きなお宮 にも祀られ、小さなお宮にも祀られてゐる、たぶんこれが神々である。最後はニニギノミコトだが、「ヤマサチがまつられている 鹿児島神宮もあり(中略)同じ霧島市には、ニニギのまつられている霧島神宮もあ」(249頁)るといふ。かういふの が面倒な らば気にしなくとも良い。個人的には「落語家という特性を生かして、わかりやすく」といふのよりはこちらの方が良かつた。何 しろこの「落語化の特性」なるもの、要するにダジャレの連発と言つて良い。初めはともかく、最後までそれが続くと嫌 になつて くる。それさへ抑へてくれたら、古事記入門として結構うまくできた本だと思ふのだが……。

22.10.01
東雅夫編 「日本鬼 文学名作選」(創元推理文庫)はいつもの通りのアンソロジーである。この書名に文豪はな い。変に文豪にこだは るより、適当な作家の適当な作品を適当に並べる方がアンソロジーとしてうまくいくのではないか。とはいふものの、最初は芥川龍之 介「桃太郎」である。以下、筒井康隆等の計11編、おもしろく読んだ。
・最初は桃太郎関連、芥川と筒井、そこに加門七海と霜島ケイの対談が加はる。鬼といへば桃太郎が相場なのかどうか。花咲 爺でも良 ささうなのだが、こちらは最後の花咲に重点があり、鬼はつけ足しなのか。たぶんさう考へる作家が多くてめぼしい作品がないのかも しれない。その点、桃太郎は鬼ヶ島である。供の三匹も居る。これを自由に動かせるから、新しい作品にし易いのかもしれな い。芥川 の桃太郎は「彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいで」「鬼ヶ島征伐を思い立っ た。」(11頁)人である。しかも、供になる三匹にきび団子一つはやらずに半分だけやるといふ倹約ぶりである。鬼ヶ島は といふ と、「絶海の孤島だった。が、(中略)美しい天然の楽土だった。」(13頁)のである。それゆゑにこの「鬼は勿論平和を愛してい た。」(同前)そこに怠け者で吝嗇らしい桃太郎が行けばどうなるか。要するに、芥川は芥川一流の皮肉を以て桃太郎を作り 直したの である。逆転の発想である。かういふ桃太郎を作り出すのは河童の世界を作り出すのと似てゐるのではないか。芥川の人となりが知れ ようといふものである。この「桃太郎」はあまり知られてゐない。芥川の作品集などでもほとんど見ないやうな気がする。実 は私は初 めて読んだ。教科書的な作品ではないが、それゆゑにごく気楽に読める。東氏の慧眼を讃へたいと書いておく。これに対して筒井康隆 「桃太郎輪廻」はその発想からして筒井康隆である。「その日、婆さんが川で洗濯をしていると、川上から、大きな尻(原文 傍点つ き)が流れてきた。」(20頁)桃ではなく尻である。「最初、婆さんには、それが巨大な桃に見えた。」(同前)ところがよく見る と尻であつた。しかも妊娠してゐる尻であつた。といふことで桃太郎誕生となる。問題はこの後である。芥川とは比べものに ならない ほど複雑にできてゐる。最後は「輪廻」である。また川から尻が流れてくるのである。鬼はもちろんゐる。鬼ヶ島もある。供の三匹も ゐる。この尻の印象が強烈で鬼を忘れさうであるが、筒井は忘れてゐない。しかもあちこちにパロディーめいたものが散りば められて ゐる。芥川は単純に逆転の発想をした。筒井となるととてもさうはいかないのである。さうしたくないのかもしれない。これもおもし ろいのだが、筒井の毒に当てられさうになることもまちがひない。桃から尻、桃尻、こんな語が発想の原点にあるのかどう か。そして 対談である。私が最もおもしろいと思つたのはこの対談であつた。この2人の作家を私は知らない。ともに鬼で出発したらしい。「鬼 神に王道なきもの」をといふ酒呑童子が討たれる時の言葉を、「庶民の愛着が、むしろ鬼の方に向けられているような印象を 受け」 (43頁)るとするのは、私のやうに酒呑童子は鬼で悪だと考えてゐる人間には鋭い指摘であつた。酒呑童子を討つた頼光の凱旋場面 を見物人は「頼光たちの凱旋をつまらないものとしか意識していない。」(44頁)ここから鬼は「権力に対する民衆の不満 を代弁し てくれる存在だった」(同前)とする。できすぎた話のやうではあつても、それなりに了解できることである。昔の鬼がさういふ存在 であつたとしたら、現代の鬼はどうなのかと思ふのだが、さて如何。


22.09.17
新 谷尚紀 編著「民俗学がわかる事典」(角川文庫)を読んだ。事典であるから言葉を調べるための辞書で はない。そのやう に使へないこともないが、何しろどの項目も3頁か4頁といふ分量である。索引はない。第1章「民俗学への招待—身近な疑問から —」から始まつて第12章「民俗学に取り組む—民俗学と民俗学者の今昔—」に終はる全12章139小項目からなる。読む ための事 典であることは容易に察しがつく。しかも、この最初と最後の小項目だけ見ても、民俗学をできるかぎり広い視点から紹介しようとい ふ意図が分かる。
・第12章は民俗学の今昔である。最初は「民俗学は国学とどのような関係があるのか」である。国学との関係である。当 然、本居宣 長と平田篤胤が出てくる。2人が民俗学にどのやうな影響を与へたか。よりはつきりといへば、「いわゆる民俗学がその直系の子孫で あるか」(474頁)といふことである。答はイエスでありノーである。「国学は江戸時代において『私たちはどうしてここ にあるの か』という問いを突き詰めるために日本人の古典としての『古事記』や『日本書紀』を対象として、読み解く作業としての古典研究を 続けていった」(同前)。儒教研究の動きに対して、宣長は「『古事記』の研究を綿密に進め」(475頁)る。それが「日 本という 国の伝統に立ち返る『やまとごころ』を強調し、漢心を排そうとして鋭く儒学と対立する」(同前)ことになる。「さうすると国学は 近世日本における『日本』ならびに『日本人』を発見する手段だったとみることができ」(同前)る。「国学はそれまでの儒 学=中国 文化=外来文化の影響から解き放たれた日本本来の姿を想定する。(中略)そのため、国学は古典研究としての側面とイデオロギーと しての側面の両面を持」ち、「国学と民俗学の両者は『私たち』は何かという問いにおいて結ばれる。」(476頁)篤胤の 系統がイ デオロギーを前面に出していたのはよく知られるところ、それでもその根底にはといふより、その根底にさういふイデオロギーがあれ ばこその古典研究であつた。「国学が明治以降の教育制度の中でやがて国文学科と国史学科を生み出す母体となった」 (476頁)の は、その研究内容からすれば当然のことであらう。ただし、民俗学に関しては、実は当時のヨーロッパの学問の影響がある。柳田国男 はフランスの影響を受けたといふ。それらと並んで「民俗学の祖先の一つは国学だと」(同前)言へる。だからイエスであり ノーなの である。国学は、現在の人文、社会科学の広い分野に影響を及ぼしてゐると思はれる。篤胤の神代文字研究は食はせ物であつたから学 問的にはほぼ消えたが、妖怪研究は今や盛んである。幽霊や妖怪は身近でもあつたが故に、篤胤以後も途切れることなく続い てきた。 さういふのは他にもあるはずである。次の小項目2はいささか長いタイトルであるが、要するに江戸時代人の民俗への関心は如何とい ふことである。この最後、「江戸という時代は都市の文化の成立によって田舎という概念ができあがり、その田舎への関心の 高まりを 見せた時代だ(中略)それは『私たちとは異なる』ものへの興味でもあったろう。」(479頁)とある。例へば「偐紫田舎源氏」は パロディーでもあるが、さういふ中から生まれた題名である。敢へて言へば、田舎への関心は昔の文物への興味、研究と同じ ことでは ないかと思つてしまふ。東京五輪以後の民俗激変期を経た現在、その基本は江戸時代かもしれない。時代の差を考へれば、私たちの興 味や関心はそれほど変はってゐないのではないか。実際のところはどうなのであらう。民俗学の成果を知りたいものである。

22.09.03
・私は本を書名で選ぶ。おもしろさうだといふ書名があれば 買つて読 む。これだけである。何がおもしろいのか。それこそ行き当たりばつたりではあつても、書物に関するものには全部惹かれるといふこ とはあるから、やはり書物関連書をおもしろいとしてゐるのだと思ふ。かういふ選び方には当たり外れがある。書名だけおも しろさう でもといふことはある。逆に、よく分からないけれど買つてみたらおもしろかつたといふこともある。私の場合は後者が多いやうな気 がするが、これも私の何でも良いかといふ考へに起因するのかもしれない。この都築 響一「圏外編集者」(ちくま文庫)もさうして選んだ1冊であ る。私はこの人を全く知らない。写真家としても名 をなしてゐる人らしいが、それも知らない。ただ、巻頭にカラーグラビア頁があり、この人の作品、写真や編著が載つてゐる。これが おもしろさうだつた。そこで読むことにしたのである。
・本書は8章からなり、それが問1から問8までとなる。問1「本作りって、なにからはじめればいいでしょう?」、答はそ の章全体 である。見出しを見ると、「知らないからできること」「指があれば本はできる」「編集会議というムダ」等々で7節ある。この人の 考へが分かるやうな気はするが、この人を知らないし、編著書も知らないのだから本当のことなど分かりはしない。それでも 編集会議 がムダだといふのは分かると思ふ。「どの出版社でも、場合によっては営業部も参加して会議で企画を決めるのが普通ではないだろう か。例えば毎週月曜の午前中、ひとり5個アイデアを出して云々」(23頁)、かういふ定例の会議はどこでも面白くないと 思ふ。私 がたまたまさうだつただけかもしれない。さうでなかつたとしても、それで生産性が上がるとも思へない。「つまらない雑誌を生むの は『編集会議』のせいだ」(同前)といふのは、案外正論かもしれないと思ふ。「読者を見るな、自分を見ろ」(31頁)と いふ見出 しもあり、そこに自らの経験で得た、「読者層は想定するな、マーケットリサーチは絶対にするな」(38頁)といふ言はば教訓があ り、更に「知らないだれかのためでなく、自分のリアルを追求しろ。」(同前)とある。こんなことを言つてゐれば編集会議 がおもし ろくなくなるのは当然であらう。読者や市場は意識せず、自分の「リアルを追求し」て書きたいことを書く。当然、読者の当たり外れ はあるが、おもしろい記事になることはまちがひない。それがたとへ本人一人のためであつても、それを書いて良かつたと思 へるのは 編集者や書き手冥利に尽きるといふものであらう。これは問5「だれのために本を作っているのですか?」(161頁)とも関はる。 最初の見出しは「東京に背を向けて」(162頁)である。「東京のレコード会社の言いなりになる必要はないし、配信や販 売のネッ トワークも自分たちで構築できる云々」(163頁)とあるのだが、これは「いま日本の地方が置かれている状況は、ほんとうにどう しようもない。」(164頁)からこそであらう。このやうな認識は東京にもあるのだらうが、現場の内と外では危機感が違 ふ。出版 関係者は東京にゐて書物を垂れ流してゐる。そこに編集会議やマーケットリサーチがあり、想定読者がゐる。現状ではそれを良しとす る人の方が多さうである。そこで食ふためにはたくさん売るしかないのである。このアンチとして出てきたのが都築氏であら うか。フ リーでずつとやつてこれたのも、この人の実力であると共に運の強さでもあらう。だからこの人は地方に移住する必要がなかつた。地 方から何かを発信する必要がなかつた。幸ひであつたと言ふべきであらう。

22.08.20
シャン ナ・スウェ ンドソン「偽のプリンセスと糸車の呪い」(創元推理文庫)は、いかにもこの人らしい作品 であつたと思ふ。これ まで魔法製作所シリーズ等、ニューヨークに妖精や魔法使ひがゐるといふことで物語を作つてきた。言はば最先端を行くニューヨーク で魔法的存在が生きることができるかで始まつた物語がどんどん大きくなつていつて、最後はそれらを飲み込んでいつてしま つた。と ころが今回のはいささか違ふ。主人公は16歳である。高校生であつて大人ではない。舞台は「テキサス州東部のこのちいさな田舎 町」(8頁)であるから、ケイティの活躍の場であるよりも生まれ故郷に近いのかもしれない。それでも米国である。主人公 達は普通 の米国の高校生として生きてゐる。それがある日突然、魔法の世界、より分かり易く言へばおとぎ話、フェアリーテイルの世界に拉致 されてしまふのである。「工場のドアが開き、ぼさぼさ頭の男が顔を出した。『うわっ、なんなんだ!』黒装束の騎士三人を 背後に引 き連れ、猛烈な勢ひで走ってくるルーシーを見て、男は言った。(中略)『まじか、じゃあ、ほんとにそこにいるんだ、幻じゃなく て』」(31頁)この世の人々の見てゐる前で拉致されるのである。この後、更に彼女の同級生男女二名がおとぎ話の世界に 行き、そ ちらでは一人の男が彼女を助けることになる。かくして二組の男女の逃げつ隠れつの旅が始まる。魔法製作所シリーズではいろいろと 面倒なことがあつたりした。しかしこれはさうではなささうである。比較的簡単に話は進んでいく。それが「糸車の呪い」で あつた。 これが物語を簡単な方に導いてくれる。
・糸車の呪ひとは何か。おとぎ話である。オーロラ姫である。ディズニーならば「眠れる森の美女」とでもならうが、ここは ディズ ニーである必要はない。ただの「眠り姫」である。おとぎ話のごく基本的な筋が分かつてゐれば良い。物語はこれに従つて進んでいく だけである。ただし、正面から何もせずに従つて行くのではない。そこはスウェンドソン、あちこちにそのパロディーめいた ものを差 し挟みながら物語を展開していく。私でも知らない話ではないから、それにつきあつていける。まして詳しい人はである。よく分かれ ば分かるほど、物語に対する思ひが出てくる。さうして偽のプリンセスである。プリンスは一人でも、プリンセスは二人ゐる らしい。 どちらかが偽者である。これは読者には最初から分かつてゐるし、登場人物にも最初から分かってゐることである。どちらが偽者だな どと考へる必要はない。作者がそれを眠り姫によりつつ、いかに物語を料理していくのかを見るだけである。しかも料理の味 付けは眠 り姫だけではない。よく知られてゐるのではヘンゼルとグレーテルがある。お菓子の家ではないやうだが、老婆が肥え太らせようとし きりに食べ物を勧める。これは物語の言はば枝葉である。面倒なことにはならない。そんなおとぎ話に支へられながら、物語 は進む。 ある意味、予定調和の世界である。収まるべき所に収まる。決して外れない。ラストでもさうなのだが、そのうへここは続編を期待さ せる。相変はらずおとぎ話世界との縁は切れないのである。かくしてまた延々と物語が続くのではと思つてしまふ。これもま たこの人 らしいところかもしれない。ケイティの話があれだけ大きくなつたのである。これもまたさうなるのかもしれない。さうなつてほしい と思ふ。「訳者あとがき」の最後の段落、「エンディングにはとっておきのデザートのようなエピローグ。続編を期待させる 粋な終わ り方だが、さて、どうなることか。訳者はひそかに期待しているのだが……。」(326頁)

22.07.30
ソフィア・サマター「図書館島」(創元推理文庫)の解説、乾 石智子「ジュートを捨てる」の冒頭にかうあつ た、「『図書館島』は、根気を要求する本だ。わたしのような凡人には、一気読みなんか到底無理。」(523頁)その理由は、 「まず改行が少ない。会話文もなかなか出てこない。それでもってこの厚さ。」(同前)とある。一々納得である。最近 の文庫本 は活字が大きい。しかも分冊が多く、本書だと本文500頁超であるから、最低でも上下2分冊にはならう。乾石の作品でも2冊 分くらゐになるはずである。厚い。改行と会話が少ないのは最近の作品には少ない。昔はかういふのが結構あつた。ほと んど現役 ではないが、大江健三郎などは最後はこれが極端になつてゐたから、読みにくいつたらありやしない。どこまでも改行なしで続い ていくのに疲れ果ててしまふことしばしばであつた。しかも晦渋な文体、読み通せずに止めてしまつたことも何度かあ る。本書は あれほどではないが改行は少ない。時間はかかつたけれども読み通すことはできた。一行あきの、内容そのものが変はるところ、 節であらうか、が意外に多いのも私にはありがたかつた。読んだら書くことにしてはゐるものの、やはり読んでも書けな いものは 多く、本書もそれかと思つたのだが、乾石の文章から何か書けるかもしれないと思つて始めたのがこの文章であつた。
・乾石は「ジュートを捨てる」と書いた。ジュートとは何か。例の如く、本書巻末にも用語集 がある。 「ジュート【キ】 『各人の外なる魂』とされる、キデティの人々が祈りを捧げる人形。」(531頁)すると、こけしとか、もしか したらオシラ様のやうなものか。よく分からない。本文を見ると、「『ヴァロンって何だかわかったわ。』と彼女は言った。 『ジュー トよ』」(456頁)とある。ではヴァロンとは何かと用語集を見る。「ヴァロン【オ】 本。『言葉を収めた部屋』という意味。」 (530頁)彼女といふのはジサヴェト、現実世界では主人公とほとんど関はりを持たない、不治の病に冒されたキデティの 娘であ る。しかし死後、彼女は天使(幽霊?)となつてから主人公につきまとふ。我がためにヴァロンを書けといふのである。つまり文字を 持つオロンドリアの人々には本が祈りの対象になるのに対して、文字を待たないキデティの人々にはより具体的に祈りの対象 が必要 で、それが人形であるといふことであらうか。ジサヴェトにとつて本の形のヴァロンは、たぶん自伝如きものであるがゆゑに、己が祈 りの対象となる。主人公に天使が見えるのは、教へられて文字を覚えはしても、基本的には文字を持たないキデティの一人で あるため なのであらう。ここに文字の宗教と伝承の宗教の戦ひがある。主人公は本来文字を持たない。しかも天使を見る者は、文字を持つ側か らすれば異端である。だから、最後は南の故郷に逃げる。その時には、主人公は己が言はば使命を全うし、それゆゑに文字の あるなし の戦ひを止揚してゐる。ヴァロンを書いた。そして焼却した。さう、これが戦ひを止揚したといふことではないのか。一見すると皆ま るく収まつた、言はばハッピーエンドである。主人公も穏やかな生活に入つた。チャヴィ、先生(「用語集」532頁)であ るらし い。チャヴィはジュートを持たない人である。かくして乾石のタイトルが思ひ出される。「ジュートを捨てる」とはこれをいふのであ らう。乾石はジュートを「価値観ではあるまいか。」(528頁)と書いた。さうかもしれない。しかし、結局、私と同じこ とを言つ てゐゐるのではないか。個人的には戦ひ等を止揚してといふ方が好きなのだが、といふ程度のことで……。

22.07.16
・杉浦日向子を読んだことがないと思つたのは、杉浦日向子「お江戸暮らし 杉浦日向子エッセンス」(ちくま文庫) を買はう かと思つた時であつた。あれだけ文章や漫画を書いた人である。だから目にはしてゐよう。しかし、全く読んでゐないのである。もち ろん読んだ記憶はない。漫画等の絵ぐらゐは見てゐるのだらうと思ふがそれだけである。どんな絵であつたかも分からない。 つまり私 は、杉浦日向子を名のみ高き作家(?)として知つてゐるだけであつた。既に故人であることは何となく知つてゐたと思ふのだが、正 確なことは分からない。そんな私にとつて、本書は正に杉浦日向子入門の書であつた。
・杉浦が時代考証家を目指してゐた(「編者解説」326頁)ことはもちろん知らなかつたが、それゆゑに彼女はあんなに江 戸のこと を知つてゐたのだつた。例へば忠臣蔵、私は歌舞伎からの知識が中心であるから本当のことはよく知らない。しかも吉良側のことは、 領地吉良が同じ三河地方にあるといつても、吉良が地元では良い殿様であつたと言はれてゐることぐらゐしか知らない。とこ ろが杉浦 は「親の代までは、ずうっと米沢人で、米沢といえば、忠臣蔵の敵役、吉良の血縁であります。」(38頁)といふ人であつた。杉浦 の「祖父や父なんかも、年末恒例の、忠臣蔵のテレビ映画は絶対に見な」(同前)かつたといふ。そんなわけで、杉浦に「忠 臣蔵は、 気持ちのよい話には思え」(同前)ないといふ。「淺野家の浪士四十七名が、吉良家主従四十名を殺傷したという事実だけが、頭に残 るのです。」(同前)さうしてできたのが、本書第一の漫画「吉良供養(上・下)」であつた。これは私には衝撃的であつ た。そのタ イトル扉の上には〈「忠臣蔵」ーー殺戮のプロセス!!〉とある。吉良を殺して仇を討つのではない。殺されるのは吉良の家臣達であ つた。例へば最初に殺されたのは足軽である。火事と偽つて門を開けさせたその足軽を切つたのである。「表門番足軽 岩田 弥惣兵衛  負傷」(47頁)「表門番足軽 森半左衛門 死亡」(48頁)。以下、かうして殺されていく吉良の家臣達が次々と記される。吉 良本人を加へていろは順の「ゆ」まで続く。「公の調書では(原文改行)死亡十六名、負傷二十三名となっているが重傷で落 命するも のが多く、検視後には死亡二十三名負傷十六名と逆転。」(74頁)といふわけで、これはむしろ「大量殺戮」(同前)ではないか。 その「斬られた側の、吉良の家臣は、埋骨の地点さえわからない。」(39頁)そして、「いちばん可哀相なのは、ついでに 斬られて 死んだ、吉良家の家臣の妻や子ではない」(38頁)か。「損な役廻りは、いつまでも損だ」(39頁)といふことで、「快挙とも義 挙とも云われる義士の討入はまぎれもない惨事だと思う。」(44頁)となる。この漫画は「まぎれもない惨事」を具体的に 描いたも ので、かういふ斬られる吉良側から描いた忠臣蔵を私は知らない。たぶんかういふのもあると思ふが、何しろ世の中、忠臣蔵=義挙と いふ見方でほとんど一色になつてゐるから、さういふのは目につかない。これとてもそれほど目立つものではなかつたのだら うが、そ れでもこれだけはつきりと義挙ではなく惨事だと言つてしまふのはなかなかできないことであらう。そんなわけで私には衝撃的であつ たのだが、これも杉浦が時代考証家を志してゐたがために、江戸に対する素養が十分にあつたからできたことであらう。通、 粋、気障 等の違ひを論じる講演も載る。私は読んでから、改めてこれを思ひ出した。さう、杉浦は気障ではない。そこが分かつてゐるから気障 ではないのだと、改めて確認したのであつた。



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