19.06.15
・
エミール・ギメ「明治日本散策 東京・日光」(角
川 文庫)は
書名の通りと言ひたいところだが、「散策」が少々違ふやうな気がする。品川、浅草、芝、銀座、ギメはこのあたりを歩いたのだが、特別
の目的もなく歩いたと
は思へない。本書とはあまり関係のないことだが、個人的には気になるのである。今風に言へば、本書は一観光客の明治日本の見聞記であ
る。ギメは明治9年来
日のフランス人である。江戸から明治に変はつた直後である。その日本を日本人の案内で見て回るのである。これはやはり散策とは違
ふ……と書いたところで原
書名を見るとpromenadesとある。散策である。ご本人のギメ氏は散策、あるいは散歩でもする程度の気持ちであつたらしい。こ
の読み易さは訳文にも
よるのだらうが、それ以上にかういふ著者の気持ちの反映もあるのだらう。軽く読める。ほとんど江戸時代とまちがへさうな絵も良い。こ
れがなかつたら画竜点 睛を欠くことになつたであらう。そんな書がおもしろくないはずがない。
・明治9年と書いた。神仏分離令は明治元年に出た。所謂廃仏毀釈が行はれたのはこの後であらうか。本書中に廃仏毀釈に関はる
記述 がい くつかある。「だ
が、なんと残念なのだろう! この地も芝と同様に、主要な伽藍が消失しているのだ。芝では六年前の不寛容主義〔神仏分離令による廃仏
毀釈〕のために、上野
では十年前の内戦〔上野戦争〕時に、その姿を消してしまったのである。」(62頁)彰義隊の戦ひの時、寛永寺は壊滅的な打撃を受け
た。芝は増上寺である。
「増上寺本堂は、自国の人々の迷信に苛立った二人の学生によって、一八七三年に鐘楼もろとも焼かれてしまった。」(150頁)これは
廃仏であつた。これに
対してギメは、「教育を受けた日本人が、自国の信仰を恥じるのは、奇妙はことである。(原文改行)これはあくまでも私の考えではある
が、日本が西洋思想に
関心を寄せるようになったとき、それを先導した日本人たちは、うわべだけをみて劣等感に駆られすぎるという誤りを犯したのではないだ
ろうか。(中略)彼ら
は、さしたる理由もなく、それらを放棄してゐるのである。」(同前)これは神仏分離の意図を理解しない言であらう。神仏分離とそれに
よる廃仏毀釈は平田国
学等の影響によるところが大きい。「自国の信仰を恥じ」てゐるのではなく、「自国の信仰を恥じ」ないからこそ伽藍に火を放つたのであ
る。フランス人のギメ
にはこのあたりは理解不能であつたのかもしれない。更に日光には、「現在の国家宗教となった神道に戻る傾向にあり、その主要部分は仏
教から完全に分離して
いる。」(291頁)とある。これは東照宮、二荒山神社と輪王寺の関係を言ふのであらう。このやうに、神仏分離直後の寺社の様子が書
かれてゐるのは珍し
い。私達は書物でしか神仏分離を知り得ないが、ギメは神仏分離を実感としたのである。同様にギメが実感したのは音であつた。日光での
夕方の勤行である。
「それにしても、大勢の人間の声による、この種のリズミカルで半音階のとどろきは、大自然の雄大なるハーモニーを彷彿とさせるもの
だ。(中略)不思議とこ
こでは、いかなる不協和音も耳障りではない。」(340頁)これは読経の様子である。私もかういふのはきいてゐる。そして不協和と感
じることなく、むしろ
心地よい響きだと思ふ。ギメもさう感じたらしい。読経や声明の響きはさういふものであると思へる記述である。ギメは音楽に造詣の深い
人であつた。いや、本
当はそれだけの人ではない。一大コレクターであつた。私財を投じて美術館や博物館を作つてしまつたのである。そんな人の日本紀行、全
国版でないのが惜し い。
19.06.01
・新興宗教の教祖にでもなるか、あれは儲かるぞといふ話しを友人としたことがあつた。
京極夏彦「ヒ トでなし 金剛界の章」(新 潮文庫)の
「『お前な、慎吾。人を救うのを仕事にしねえか?』(原文改行)宗教だよと荻野は答えた。」(240頁)といふのを読んでそんな
こと を思ひだした。物語は
そのまま私の考へる宗教家への道をたどるのかと思つたらさにあらず、そこは京極、やはり殺人事件が絡んでゐるのであつた。従つて、
あっさりと宗教家への道
などたどらない。妖怪も出てこないので京極らしくはないのかもしれない。ただ、物語はともかく、いかにも京極らしい文体と書きぶりで
ある。慎吾や荻野や荻
野の祖父が滔々と宗教論を述べる。この蘊蓄語りは京極ならではであらう。そしてその書き方、極端に言へば一文ごとに改行するその文章
である。普通ならば絶
対に改行しないであらうところでもきちんと改行してあつたりする。かういふのは字数稼ぎでやるのだと思ふ。京極には京極の必然性があ
るのだらうが、俗人に
は字数稼ぎの金稼ぎにしか思へない。そんなことを思ふ人間の考へる(新興)宗教などはたかが知れてゐる。ヒトでなしの物語は殺人事件
を絡めて、遥か遠くに 進んで行くのであつた。
・物語の主人公は尾田慎語、妻と離婚、その元妻から人でなしと言はれてそれが頭から離れない。現在は、その時いろいろと整理
した らほ とんど何も残らず、所
持金少々を持つのみ。家がないのであたりを徘徊してゐると自殺志願女を見つけ……といふところから始まる。その後、級友荻野に会つて
から物語は動き始め
る。どんな小説でもさうなのだが、これは実に都合よくできてゐる。「コマが揃ったと荻野は言った。」(242頁)さう、実に都合よく
コマが揃ふのである。
「お前と、塚本祐子と、うちのボロ寺を組み合わせれば、俺達の人生に違う道ができるかもしれねえ」(241頁)。ここに更に鍋谷が加
はりと関係者、といふ
よりコマが増えていく。寺に行けば行つたでまだ増える。増える人間皆が尾田に心酔するかの如くである。これが「宗教」であらう。そし
て、極めつけは乗り鉄
オタク日野の登場である。この寺に預けられた男である。この男は他のとは少し違ふ。しかし、この登場によつて物語は急展開する。これ
もまた極めて都合よく
できてゐる。この小説はそんなのばかりである。それだからこそおもしろくなる。さうでなければかうはいかない。作者の都合に従つて
次々とその都合にあふ人
物が出てくるからこそ物語は物語であり得る。ごく当然のことである。それでおもしろければ良い。何の問題もない。いささかご都合主義
だと思ふだけである。
思ふのは読む方の勝手だし、書く方もまたさう思つてゐるのかもしれない。さういふところで物語は成り立つてゐるのである。それが読む
者の共感を得るかどう
か。これで評価が決まる。この物語の場合、例へば「地獄とか極楽とかあるんだろ」「そんなものは方便だ」(387頁)と言つてしまふ
ところが潔い。かうい
ふ調子のところが多い。尾田の性格、志向からさうであるとも言へるし、荻野の祖父の思想からでもあると言へる。かう言ひ切つてしまふ
いささか投げやりなと
ころが、あるいは私にさう感じられるだけかもしれないが、登場人物を心酔させる尾田の魅力、そして物語の魅力であるのかもしれない。
これは金剛界の章であ
る。金剛界は大日如来を智慧の面から表した部門である。人でなしの智慧からこの物語はなつてゐる、かういふことであらうか。ならば胎
蔵界はあるのか。理性
が胎児のように慈悲に包まれて育まれてゐる世界である。文庫本になつてゐないだけで既に物語はできてゐるのであらうか。
19.05.18
・平成から令和への代替はりである。だからこんな本が出るのだらう。そしてそれを読む人間もゐる。といふことで、私も
真弓常忠「大嘗祭」(ちくま文 庫)を
読んだ。おもしろいといふより分かり易い書であつた。私は気にならなかつたのだが、この真弓先生は皇學館大学に学び、そして皇學
館大 学で教へた人である。
八坂神社等の宮司も務めてゐる。神社本庁の教学顧問でもある。神社神道、国家神道に非常に深く関係した人である。さういふのがあちこ
ちに散見される。これ
が気になる人がゐるかもしれない。しかし、これを気にしてゐたら大嘗祭のことを知ることができないのではないかと思ふのは私の思ひ込
みであらうか。そんな 神道色豊かな書であつた。
・などとえらさうなことを書いたものの、私の神道に関する知識はほとんどないといつても良い。だから、まづ大嘗祭のことを確
認せ ねば ならない。「大嘗祭
は、天皇が瑞穂の国の国魂を体現せられ、ニニギノミコトという稲の実りを象徴する存在となられる意を持つ儀礼である。」(244頁)
この後半、ニニギノミ
コト云々あたりから直ちに新嘗祭が思ひ出される。新嘗祭の一代限りの特例が大嘗祭だともいふ。「大嘗祭はそれゆえに、天皇が真に天皇
としての御資格をはじ
めて獲得される儀式であり、新嘗祭は、その年々のくり返しである。」(149頁)これでは新嘗祭が分からない。新嘗祭は「天皇が新穀
をきこしめすにあたっ
て、まずこれを神祇に供進される祭り」(53頁)であつて、しかも「いわゆる収穫感謝ではなく『皇祖より新おもの』をいただかれるこ
とを主にした祭り」
(55頁)である。この新嘗はニイナメと読むのだが、ちなみに辞書では大嘗祭はダイジョウサイでしか出てこないやうだし、新嘗祭はニ
イナメサイしか出てこ
ないやうである、この「ニイナメ儀礼は古代中国の稲の祭りである『嘗祭』の文字を借用して『新嘗祭』と記すが、稲つくりの民であるわ
が国独特の信仰に根ざ
した『ニイナヘ』の行事で、それはわれわれの生命を養う稲魂を身に体する行為を儀礼化したもの」(48頁)である。つまり、新嘗祭は
非常に土俗的、民俗的
な色彩の強い行事であると言へるのかもしれない。このやうな行事が皇室、とりわけ天皇の代替はりと結びついた時、それは大嘗祭とな
る。ごく簡単に言つてし
まへばかういふことになるのかもしれない。しかしその大嘗祭、さすがに大変である。実に多くの決まり事がある。これらをきちんと一つ
一つやつていかねばな
らない。例の阿知目の作法や様々な国振りの舞などもここに入るのだらう。こんな中にもやはり冬至が出てくる。「天皇は冬至の日の太
陽=日の神のもっとも極
まった果ての亥刻(午後十時)より」(148頁)忌み籠もり、寅刻(午前四時)には「復活する太陽=日の神の霊の憑りつくのを待たれ
た上(中略)一陽来
復、復活した太陽=日の神とともに、若々しい穀童ニニギノミコトとしてこの現世に顕現されるのである。」(同前)要するに、これは冬
の祭りの生まれ清まり
に通じることではないか。これが毎年行はれる新嘗祭であり、天皇即位後には大嘗祭となる。ごく簡単に言つてしまへばそれだけのことで
ある。それが一般庶民
の土俗的な冬の祭りではないので、その手続きが複雑になる。例の真床覆衾(まどこおぶすま)はこの生まれ清まりに決定的な役割を果た
してゐる。他にもいろ
いろとあるが、私にはこれが最も重要だと思はれた。現在もこの通りに行つてゐるのであらうか。本書は、歴史的な大嘗祭のことならばこ
れですみさうな一本で
あつた。退屈せずに読めたのはおもしろいからであつたらう。なほ、憲法との関係についての一章もあるが……。
19.05.04
・
村上春樹「騎士団長殺し」(新
潮文庫)読
了、最初に思つたのはこんなハッピ−エンドで良いのかといふことであつた。主人公と妻ユズは別れてもまたよりを戻す。よりを戻してか
ら妊娠していた妻は出
産する。生まれた女の子にはむろといふ名前をつける。常識的には自分の子ではないかもしれないのに、「生まれてきた子供が女の子であ
つたことを私は嬉しく
思った。」(第2部下361頁)といふのである。これは村上春樹にとつて新しいことだといふ。これまでの作品で子供ができることはな
かつたらしい。それ以
前に、別れた女とよりを戻すことはあり得ないらしい。正に新趣向である。時代は東北大震災の数年前であつた。その時テレビで、別れた
直後に走り回つた「岩
手県から宮城県にかけての海岸沿いの町が次々に壊滅していく様子を目にしていた。」(同358頁)が、保育園に通ふ娘には「津波の押
し寄せてくる光景を彼
女にできるだけ見せないようにした。」(同362頁)といふ。「何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことなの
だ。」(同前)直接的には幼児に対する言葉であらうが、この一文はこの作品を貫いてゐるのではないかと思ふ。
・この作品では何かを見ることが重要なのである。主人公がイデアを見ること、免色が己が肖像画を見ること、まりえが、笙子
が、そ して 主人公が免色の屋敷を
見ること、それ以上に、主人公とまりえが雨田具彦の「騎士団長殺し」や裏の洞穴(?)を見ること、このやうないくつもの見ることによ
つて作品はできてゐ
る。それがきつかけになつて物語は進む。その結果のハッピーエンドである。散々見ておいて「何かを理解することと、何かを見ることと
は、またべつのことな
のだ。」とはいかにも切ないではないか。主人公を初めとする登場人物はそこに何を見たのか。特に4枚の絵から何を見たのか。「騎士団
長殺し」からは風雲急
を告げる時代に生きた青年の思ひであらうか。それは隠し通さねばならぬものなのか。免色やまりえは己が肖像に何を見たのか。描いた主
人公はその人物に何を
見たのか。そして正しく理解できたのか。かういふのは分からない。読み手が勝手に想像するだけである。正に見ること=読むことと理解
することは別物なので
ある。そして、それが分からないのに「環は閉じるの?」(同333頁)といふまりえの疑問が解けるとは思へない。主人公も「わからな
い」と言ふ。私にも分
からない。登場人物に分からないことが読者に分かるわけがない。主人公は「たぶんまだ環は閉じきっていない。」(同前)と言ふ。たぶ
んさうなのだらう。閉
ぢたのは、もしかすると、「東北の地震の二ヶ月後に、私がかつて住んでいた小田原の家が火事で焼け落ち」(同363頁)てからであら
う。雨田具彦の家とと
もに「騎士団長殺し」も主人公のスバル・フォレスターの男の絵も焼失=消失した。その時、既に主人公はプロの肖像画家に戻つてゐた。
さうして物語は完結す
る。物語も閉ぢるのである。まりえや免色と笙子もそれぞれの道を歩き出してゐた。皆が皆新しくなつたのかもしれない。これもまたハッ
ピーエンドではない
か。といふより、この長い物語は再生の物語であつたのではないかとさへ思へるのである。主人公に関して言へば、そしてまりえにとつて
も、これは死と再生の
物語である。最後の節は「恩寵のひとつのかたちとして」と題されてゐる。恩寵である。神や君主の愛や恵み、あるいは単に神の恵みをい
ふ。かういふ言葉で片
づけて良いものかと思ふ。あるいは、かういふのは村上春樹らしいのであらうか。私には分からない。毀誉褒貶あれど、おもしろいといへ
ばおもしろい物語であ つた。
19.04.20
・
久
住 祐一郎「三河吉田藩・ お国入り道中記」(インターナ ショナル新書)を
読んだ。帯には「古文書から読み解く参勤交代のリアル」とある。「リアル」とは何か、これを知りたくて読んだ。とにかく、私の参
勤交 代の知識は教科書程度
でしかない。本書「はじめに」でも「参勤交代とは」との節が設けられ、そこに「先頭の奴子が槍を振り回しながら云々」(3頁)との説
明が載るが、私のもこ
の類であらう。大名の資金減らしの為に行ふものだとかと聞いたこともあるが、本書から確かにさうであるとも思へる。何しろ吉田は豊橋
である。新幹線こだま
でも2時間半ほどで東京に行ける。参勤交代だと6泊7日である。これでも金がかかるのだとよく分かる。これが参勤交代のリアルなのか
もしれない。帯の裏に
は「この古文書をもとに参勤交代の驚くべき実情が明らかにされる」(磯田道史)との言葉も載る。さう、実情である。真実などといふも
のではない。あくまで
リアルに実情を記す、これが本書である。だから、この時の参勤交代で若殿様が何をしてとか、本陣の構造はなどといふこともはほとんど
書いてない。そんな参
勤交代本であつた。さう言へば「はじめに」にはかうも書いてあつた、「江戸時代に何万回と繰り返された参勤交代のうちのたった一回に
焦点を当て」た「きわ めてミクロな視点の本である。」(5頁)
・私は三河吉田藩の三河吉田に住む人間なので気になることがある。これは、もしかしたら、江戸でも地方でも同じやうに関心が
ある ので はないかと思ふ。つま
り、参勤交代で移動した人間はどうなるのかといふことである。移動するのは300人程度であつたらしい。例へば吉田に行く時、吉田在
の人間はどのくらゐ
か、逆に江戸に行く時、江戸在の人間はどれくらゐか。これは書いてないのだが、しかし「御供役割帳」(60〜61頁)といふのがあつ
て、ここの「種別」が
「詰切」と「道中計」の2つに分かれてゐる。「詰切(吉田へ着いたら次の江戸参府まで滞在すること)」(62頁)は行つたら江戸に帰
れないのである。この
ツメキリに対してドウチュウバカリといふのがある。「道中計(吉田へ着いたらすぐに江戸へ戻ること)」(同前)はこの参勤交代だけの
役割で、終はれば江戸
に帰らねばならないのでる。この「役割表」を見ると圧倒的に「道中計」が多い。江戸から吉田に行くのは江戸の人間であるから、吉田に
ゐても仕事はないとい
ふことである。ただ、すぐ帰ると言つても「とんぼ返りではさすがに体力がもたないので、通常は三日間の休暇が与えられた。」(190
頁)といふ。用事有り
で五〜二〇日間の延長休暇を申請する者が多かった。」(同前)といふ。親類や知人を訪ねたらしい。三河から行く場合はこの逆になるの
であらうか。いづれに
しろ、参勤交代の問題はここにあるのではなく金の問題なのであらう。とにかく金がかかるのでる。総勢300人のうち、現在で言ふ派遣
が何人ゐるのであらう
か。それも含めて人件費が高い。これ以外に献上品も多かつた。一々返礼金を渡してゐるとばかにならない。といふわけで、一回の参勤交
代にかかる費用は、三
河吉田藩で600〜700両(119頁)であつたらしい。こんなことをしてゐれば金もかかるよなと思ふ。いくら年貢が納められても足
りない。文久三年の借
財は「総額金五万両であ」(213頁)つたといふ。大名といふ者、ああだかうだと何かと物入りであつたらしい。そんなわけで、私は参
勤交代の「リアル」を
人と金中心に見たのだが、本書にはその他が具体的に出てくる。とにかく準備と金がかかるのが参勤交代であつた。教科書には決して書い
てないことである。 おもしろい。
19.03.30
・
氏家幹人「江戸人の老い」(草
思社文庫)を
読んで思つたのは人は老いるといふことであつた。この書名からすれば当然のこと、何だ、そんなことかと思はれさうだが、しかし、やは
りさう思つたのであ
る。本書に載る3人、鈴木牧之、徳川吉宗、十方庵敬順の晩年はそれぞれである。身分が違ふ。徳川の御代、いくら平和だといつても身分
が違へば暮らしぶりも 違ふ。それでも皆老いる。本書はこの当然のことを教へてくれる。
・徳川吉宗はテレビドラマにもなつてゐる。歴史上でも有名である。老いとは無縁の人物に思へる。ドラマの年齢がいくつなのか
は知 らな いが、壮年とでもいふ
あたりであらうか。老いとは無縁である。現実の吉宗は62歳で将軍職を辞して隠居生活に入つて68歳まで生きた。現代ならそれほどの
年ではないが、当時と
しては長生きであつた。しかし、吉宗は64歳の時に中風、現代の脳卒中で倒れてゐる。死ぬまでの4年間はその戦ひの日々であつたらし
い。本書ではそれが
「吉宗公御一代記」によつて紹介されてゐる。これは最側近の小笠原石見守が書いたものであるやうで、もしかすると将軍を辞してから書
き始められたのかもし
れないが、現在残るのは吉宗最後の4年間、いや5年間といふところであるらしい。これを見ると吉宗に対する手厚い介護、看護がよく分
かる。元将軍だから当
然である。例へば現在なら医師団とでもいふべき医師が4人ゐたといふ。この4人で、初めは隔日に2人づつの当直、後に1人づつの当直
となつた(109〜
110頁)。薬には多くの薬があり、症状によつて変へた。介護では、食事や排便、入浴等で様々な配慮がなされてゐた。食事は小姓の仕
事であつたらしい。た だしこの小姓は少年ではない。「大御
所の給仕を務める小姓が三名指名されているが(中略)寛延元年(一七八四)九月一日の会食で給仕を務めたのは、宮城越
前守和忠(四十五歳)、矢部左衛門督正虎(四十歳)、岩本帯刀正久(二十八歳)で、いずれも本丸で小姓を務め三年前に西丸に移動して
きた経験豊かな人々
だった。」(114頁)これらの人々が「自分では箸を使えない大御所のために箸を口に運ぶ専属の小姓」(同前)を務めたりしたとい
ふ。1人の食事に3名の
介護者とは何とも恵まれてゐることか。それと同様に排便も大変だつたらしい。具体的にどのやうに介添へをしたのかまでは書いてない。
ただ、その環境を整へ
るのだけでも大変だつたらしい。それは吉宗がリハビリを兼ねて外出をすることが多かつたからである。普通のトイレではすまないから、
特別なのが必要にな
る。船で出ることもあり、その時は船になる。岩見守は「小型船には大御所様用の『御小用御大用所』(大小便所)を増設する十分なス
ペースがないとこぼし」
(115頁)たりもしたといふ。吉宗はすべてこのやうに看護、介護されたのである。これは当然ごく限られた人の場合、普通の人はかう
はいかない。と書きは
したものの、本書には普通の人がどのやうに看護、介護をされたかは書かれてゐない。そこに行かずに亡くなつた人ばかりではないが、さ
うならなかつたとする
と、それが幸福かどうかは当然一概には言へない。有名な「北越雪譜」の鈴木牧之と僧恵順が本書には載る。ともに吉宗のやうにはならな
かつた。特に恵順は
「游歴雑記」を表してその健脚ぶりを示してゐる。つまり元気だつたのである。牧之とて同様であらう。いづれにせよ様々な老後が、今も
昔もある。本書には最
底辺の人々の老後が出てゐない。それを書くのは無理であらうか。「この本には現代の高齢者が抱える問題がほとんどすべて登場する。」
(「文庫版あとがき」 211頁)本書は江戸の昔の老後を教へてくれる書である。
19.03.16
・
神永曉「悩ましい国語辞典」(角
川文庫)に
「しく【敷く】」とあり、そこに「布団は『しく』もの? 『ひく』もの?」」とあるのを見て、私は直ちに布団は「ひく」のだと思つ
た。理由は簡単である。
こちらでは「し」と発音できない語があるのである。その結果「し」となる。例へば「ひちや」は質屋のこと、これは「しちや」が正し
い。しかし、ここらでは
「ひちや」と大書した看板があつたりするから、だれも「しちや」と言はない。「ひちや」といふことに疑問を持たない。だから布団は
「ひく」ものなのであ
る。これは方言である。私の中学校の国語の先生は、若い頃にこの「ひちや」で笑はれたと言つてゐた。それほど「ひ」と「し」は、私達
には発音しにくいので
あるらしい。本書では少しばかりの考察、本書は辞書を気取つた軽いエッセイである、の後にかう書き始める。「考えられることは『浪花
聞書』にもあるよう
に、『ひ』と『し』の発音が交代するという現象である。」(160頁)ここに「ひちや」も出てくる。更に、「物を平らに延べ広げる動
作が云々」(同前)は
私にはむしろ不要の文章である。それほど私達に「ひ」と「し」は身近な問題である。その一方で、かういふ語も辞書編集者には問題にな
るのだと思つた次第。
・本書にはもちろんこんな語はほとんどない。多いのは揺れてゐる語であらう。意味や読み方が揺れてゐるのである。例へば「さ
んず ん 【三寸】」、この見出し
は「『舌先』か『口先』か?」である。当然、舌先三寸さと思ふ。ところがである。2011年度の文化庁の「国語に関する世論調査」で
は、「『舌先三寸』を
使う人が23.3%、『口先三寸』を使う人が56.7%という逆転した結果が出てしまっている。」(148頁)のださうである。「し
かもこの調査では、
『口先三寸』を使う人の率は年齢が上がるほど高くなるという傾向が見られる。」(同前)といふ。その理由は分からないらしい。ただ、
心がこもらないのは口
先だけだといふので口先三寸となるのではないかといふ。同じく揺れる語「しおどき【潮時】」、これには「ちょうど良い時期か、終わり
のときか?」といふ見
出しがつく。ちやうどよい時期だと皆が思ふかといふとさにあらず、文化庁の調査によると、「本来の意味である『ちょうどいい時期』で
使う人が60.0%、
従来なかった『ものごとの終わり』で使う人が36.1%」(155頁)であるといふ。逆転はしてゐないが、3分の1強は本来の意味以
外で使つてゐるらし
い。問題はその3分の1強の中身である。「20歳代から50歳代までは(中略)『ものごとの終わり』という従来なかった意味で使う人
が4割以上と、増加し
ているのである。」(同前)「潮時」に関して、他の世代と比べてこの世代は何か違ふことがあつたのであらうか。さう思ふと同時に、
10代が救世主となつて
「潮時」を守つてくれないかと思ふ。これは筆者も同じで、「10代の若者たちが、『潮時』を本来の意味のままで使い続けてくれるよう
に仕向けていくことの
方が大切だと思う」(156頁)と、いささか上から目線で言つてゐる。かういふ「仕向けていく」といふ語は辞書を作つてゐる人の言で
あらうか。言葉といふ
もの、仕向ければいくらでも仕向けていけさうではあるのだが、かう正面きつて言はれるのもなと思つてしまふ。とまれ、言葉は揺れてを
り、しかも全世代に関
はる。そんなことがよく分かる。愛嬌、合いの手、青田買い、飽かす、あくどい、これらは最初から順にあげただけである。しかし皆揺れ
てゐるのである。いか に揺れる語の多いことか。辞書編集者の気は休まるところがない、本書はそんな一冊であつた。
19.03.02
・最近は春画を目にすることが多い。以前はかうではなかつた。いつからかうなつたのであらうか。
早 川門多「ジャパノロジーコレクション 春画」(角
川文庫)を
見るとかうある。「春画といえば、人間の性交を大胆露骨に描いた日本の絵画であるが、今では広く世界的に知られている。ただ日本で春
画が公開の展覧会で鑑
賞できるようになったのは、たかだか二、三年前のことである。」(「はじめに」18頁)私は観てゐないが、確かに数年前に春画の展覧
会が話題になつたのを
覚えてゐる。あれが日本での春画の公開開始であつたらしい。それ以前は雑誌や単行本に出てゐた程度なのであらう。それが現在、例へば
ヤフオクでは、春画の
出品が実に多くある。私にはその良し悪しを判断する鑑識眼はないが、中には保存良で摺りも良く、絵も実にきれいなものがあつたりす
る。これだけあのやうな
ものが現在出てくるのは、それほど広く人びとに見られてゐたといふことであらう。本書第二章の最後に「春画の中の春画」といふ節があ
り、そこに「現代の感
覚でいえば、ポルノ風なものは男が独りでこっそり見ているイメージを抱く人が多いのではないかと思われるが(中略)女が一人で春画を
見ている図もある。そ
して意外に多いのは女同士で見ている図である。」(126頁)つまり、男性だけでなく女性もまたあれらの絵を見たのである。いや、女
性も夫や恋人とともに
見ることも多かつたらしい(127頁)。当時の大人は好んで春画を見たのである。米国美術商フランシス・ホールは「春画が日本の家庭
の中で、女性も抵抗な
く見ており、見知らぬ外国人の男の前でも何ら恥ずかしがることなく、また家の宝物と認めてゐることに深い印象を受けた」
(130〜131頁)といふ。これ
には老若貴賎は関係なかつたらしい。江戸時代は貸本屋が回つて来た。「その際対応するのは多くはその家の女性たちであった。現今のポ
ルノグラフィーと違っ
て、当時の春画本の多くはまず女性の『検閲』を経て家庭に入っていたといえよう。」(134頁)これを女性上位であつたと言つて良い
のかどうか。とまれ、
この女性も男性もともに見る春画といふのは私が知りたかつたことである。だからこそ春画には多くの<ファン>がいたので
ある。それが現代にな
り、オークションに春画が数多く出されることになつたのであらう。著者は言ふ、「当時の春画に対する見方が現代の日本人のそれと何と
違うことか。人間の性 への対し方としてどちらが幸せなのだらうか。」(131頁)
・本書で最もおもしろかつたのは数多くの浮世絵の類ではなく、その浮世絵の摺りの問題であつた。第五章は「木版画技術の粋」
と題 され てゐる。歌川国貞の
「花鳥余情 吾妻源氏」を対象にしてゐる。ここにかうある、「この毛彫を見ていると、彫師は春画の毛彫ができて初めて一人前だという
当時の職人の言葉が頷
ける。」(227頁)毛彫といふのは髪の毛も含めてであらうが、陰毛彫りを言ふのである。私は実際の春画を見ることはない。そこらの
雑誌類の写真を見るだ
けである。それだと気づかない。この毛彫の細かさは写真だとつぶれてしまふ。よほど拡大してくれないと分からない。本書にはその拡大
図が載る。解説もあ
る。だから分かる。さうでなければ気づかない。かういふのを見ると、「浮世絵版画があくまでも絵師と彫師と摺師の合作であることが」
(215頁)実感とし
て分かる。さういふことは知つてゐるつもりでも、かくも見事に三者の合作がなつてゐたのを見せられるとこれはもう驚くしかない。「本
書は木版史上最高の 技術の結集であろう。」(238頁)といふのにただうなづくばかりであつた。
19.02.16
・
塩谷七生「十字軍物語」(新 潮文庫)の
巻1、巻2読了、結構時間 がかかつた。歴史書では
なく物語、とはいふものの、世界史上の重大な出来事である十字軍をまともに採り上げてゐるのだから歴史書風にならざるをえない。い
や、もしかしたらこれは
年代記であるのかもしれない。中世頃によくあつた年代記風に十字軍をまとめたものであるのかもしれないと思ふ。考へてみれば私は塩谷
七生を読んだことが
ない。この方、ずいぶん昔からいろいろなものを書いてきた。昔のヨーロッパの歴史と言へば良いのであらうか。そんなものばかりであら
う。そこでどんな書き
方をしてきたのか知らない。あるいはこの十字軍風であつたのかもしれない。いづれにせよ、これは読み易い書である。巻1が十字軍国家
の成立までを、巻2が
サラディン登場、再びイスラエルがイスラムの手に落ちるまでを描く。先はまだ長い。巻4まである。十字軍を細かく描いていけばかうな
る。見事なものであ る。
・十字軍といふと私はヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデを思ひ出す。この人はドイツ中世の吟遊詩人、ミンネゼン
ガー であ る。晩年は第5次十字
軍のレオポルト6世の宮廷に移り、第6次十字軍にも従軍してエルサレムにまで行つたらしい。その時の感動が有名な「パレスチナの歌」
になつたといふ。いろ
いろな演奏があるが、その旋律は一つ、私はこの旋律を忘れられない。今も聴きながら書いてゐる。やはり優れた歌であると思ふ。実際に
パレスチナに行つたか
どうかは関係ない。これは第5次から第6次にかけての十字軍のこと、第1次はこんなことは言つてはをれなかつた。さすがに苦労したの
である。巻1の副題に
もなつてゐる「神がそれを望んでおられる」からと聖地イスラエルを目指す。道は長い。現在のフランスやドイツあたりから陸路で行くの
である。これだけで時
間がかかる。人びとはそれを承知で出かけた。そんな気にさせたのは誰か。「それにしても法王ウルバン二世は、アジテーターとしてもな
かなかの巧者だった
が、オーガナイザーとしても一級の才能を示すことになる。」(46頁)といふウルバン二世であつた。この法王が1095年、クレルモ
ンの公会議で演説した
のである、「東方に住み、絶えずお前たちの助けを求めている『兄弟』の許にかけつけて、この信仰上の同胞に助けの手をさしのべる」
(37頁)べきだと。そ
して、この十字軍に参加する者には完全免罪が与へられる等の決定(46〜48頁)もなされた。完全免罪とは、簡単に言ふと、「参加さ
えすれば天国行きは確
実だ」(46頁)といふことである。これほどありがたいことはない。東方の同胞を助けるべく人びとは十字軍に参加したのである。上は
大貴族から、下は貧民
十字軍と言はれた人びとまで、実に多くの人びとがゐた。本書でまづおもしろかつたのはフランク人といふ言ひ方であつた。フランス人も
ドイツ人も、もちろん
西欧の国々の人びとはイスラム教徒からかう呼ばれたといふ。その一方で「ビザンチン帝国の領民であるギリシア人に対しては、『ローマ
人』と呼んでいた」
(111頁)といふ。ビザンチン帝国が公式にはローマ帝国を名乗つてゐたからであるらしい。当時は現在で言ふ国はなかつた。もちろん
ヨーロッパもなかつ
た。貴族は政略結婚である。どこの国人と決めやうがない。だから、イスラムの見方は正しい、といふよりさう呼ぶしかなかつたのであ
る。本書には年代記風に
十字軍の歴史が書かれてゐる。それでも必要に応じてこのやうなことが出てくる。十字軍の歴史もおもしろいが、そんなのもおもしろい。
そんなわけで、本書は 時間はかかつたけれどおもしろい物語、読み物であつた。
19.01.12
・
富士松松栄太夫「新内節散歩 曲別解説」(新
宿書 房)は
新刊ではない。最近読んだ新刊で書けさうな書がないので本書である。本書は2002年に出てゐる。これ以後に新内に関する書が出たか
どうか。大体、所謂純
邦楽といふもの、CDを探しても新しいのはほとんど無い。今は昔の名人の類が多い。新内関連の書だと岡本文弥以外にないやうな気がす
る。あつてもほとんど
知られてゐないのであらう。しかも芸談の類が多い。芸談といふのは分かつてゐる人には実にありがたいものであるが、分かつてゐない人
間にはそれこそちんぷ
んかんぷん、何のことやら分からない。それでもと思つて読んでみても、やつぱり分からない。ところが本書は違ふ。分かり易い。「本書
は、今までにない特色
を備えています。それは先ず聴く人の立場で書かれていることです。鑑賞ガイドのような本はありますが、本書は、歌詞と内容を説明しな
がら、どのやうに聴い
たら面白いのか、という立場です。」(竹内道敬「新内ひとすじ」2頁)そして「ご自身で個々の浄瑠璃のゆかりの地を実地に歩いておら
れる点」(同前)もあ
る。つまり、所謂芸談とは縁遠いらしい。帯に「『何を語ってゐるのか分からない』に答えます。」とある。何をかたつてゐるのか分かつ
てゐても、その具体的
に意味するところが分からない。分からないとはかういふことであらうといふわけである。それをそのままにしておくのが所謂鑑賞ガイド
であるなら、本書はそ
れをそのままにしておかないのである。字句等の説明をし、節の説明もする。確かにかういふのはほとんどないであらう。もちろん用語の
解説もある。例へば所
謂心中物の最初は廓の解説、これが詳しい。遊女の手練手管は口説や心中だてがあり、それで万策尽きれば「『一緒に死のう』と言い出し
た」(89頁)とか。 つまり心中物は万策尽きての物語であつた。
・とはいふものの、分からないこともある。本書には「聴く人のために」といふのが各章の最後についてゐる。例へば「明烏」浦
里部 屋の 段の口説きの初めにか
うある。「上品で綺麗に、たっぷりと感極まる風情の語り口を味わいたい。」(98頁)分かるやうな分からないやうな感じである。聴け
ば「感極まる風情の語
り口」を感じることができるかもしれない。やはり本書は実際の音源があるといふ、そしてある程度新内が分かってゐる人が前提になつて
ゐるのであらう。更に
進むと、「クドキカカリであるが(中略)??取りついて』からは浦里のクドキであることを注意して聴きわけたい。」(100頁)とあ
る。クドキカカリとク
ドキの違ひは何かの説明がない。たぶんクドキの初めがクドキカカリであらうと想像する。次いで下の巻、浦里雪責めの場、亭主の後の場
面、「ここは何といっ
ても三下がりのメリヤスである。」(106頁)このメリヤスは分かる。長唄のメリヤスである。これに「太夫にとっては高いキーの連続
で、あげくに浦里のク
ドキにつなげなくてはならず云々」あたりからまた分かつたやうなである。最後になると、「アゲ節まで聴き終わったとき、まるで『見し
夢は覚めて跡なく 明
烏 のちの噂や残るらん』の如く、夢から覚めたやうなムードが期待できる。」(109〜110頁)とある。これでは知らない人間は更
に分からなくなりさう
である。この次に「蘭蝶」があるがこれも似たやうなもの、この「聴く人のために」書いたはずのところが、新内をよく知らない人間には
却つて分からなくなり
さうな気がする。本書は2002年刊、CDをつけるといふ発想はなかったのであらうか。ここは是非ともCDがほしいところであつた。
この点を除けば、本書 は確かに分かりやすい内容であつた。