・久住
祐一 郎「江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩『江戸日記』」(集
英社インターナショナル新書)は書名通りの書であ る。三河
吉田藩江戸藩邸の様々を「江戸日記」に基づいて記してゐる。これはもちろん、
例の参勤交代の書に味をしめて書かれたものであらう。「あとがき」に、「『三
河吉田藩・お国入り道中記』を執筆させていただいたのだが、出版後まもなく、
担当の云々」(250頁)といふわけで「吉田藩の江戸藩邸をテーマにした内
容」(同前)が書かれることになつた。「江戸日記」は市史資料として出てゐ
る。しかし、これは「現時点で活字化して刊行されているのが一〇年分のみとい
うこともあってか、どうも豊橋における評価は今一つ」(249頁)であるらし
い。「ストーリー性のある事件記録などは読み物としても面白いのだが、候文で
書かれていて返読文字も多いので、慣れていない人にはさっぱり意味がわからな
いのだらう。」(250頁)とその原因を記してゐる。たぶんさうなのだらう。
たとへ読めても「記録の羅列は味気ない。」(同前)それでも「約六〇年分の
データを集めればそれなりにいろいろな特徴や傾向が見えてきて楽しい。」(同
前)といふことで本書はなつた。しかし、読んでこれを楽しいと思へるかといふ
と、決して楽しいとは思へないといふのが正直な感想であつた。
・とはいへ、本書が全くおもしろくないかといふと、必ずしもさうではない。例
へば吉田藩邸の場所である。第五章「藩邸から子爵邸へ」の中に「東京駅になっ
た上屋敷」といふ節がある。「現在の東京駅のうち、新幹線ホームおよび在来線
七から一〇番ホームの北側部分が吉田藩の上屋敷があった場所に当たる。」
(235頁)江戸東京のソフトで見ると、確かに新幹線の北外れあたりに三河吉
田藩松平伊豆守信古とある。東京駅のあたりだと聞いてはゐたが、私はここを見
つけられずにゐた。もつと皇居に近い場所かと思つてゐたのである。ただし、現
在の丸の内、「当時の永楽町には広大な練兵場を含む陸軍の施設や裁判所などの
公的機関があった」(同前)といふから、既に上屋敷はなかつた。子爵は谷中下
屋敷に住んだ。ここは簡単に言へば現在の池之端3丁目、4丁目あたりになる。
「不忍池方面から動物園通りを進むと信号交差点がある。ここが表門のあった場
所である。」(246頁)先のソフトを見るとここにも松平伊豆守信古とある。
上野駅からは少し離れるが、上野公園には近い場所である。例の彰義隊の上野戦
争の時、戦ひが始まると「直ちに彰義隊士が谷中下屋敷を訪れ、密約どおりに援
軍を出すか、それとも屋敷を明け渡すかを迫ってきた。」(229頁)といふの
もうなづける。そんな位置なのである。実際、吉田藩にも彰義隊シンパはをり、
「藩の重臣の了解を得た者で結成した『三陽隊』として参加した者」(同前)と
無断で、脱藩、加勢した者とがゐたといふ。これからすれば、吉田藩は新政府に
恭順の意を表したとはいふものの、佐幕に近い立場であつたのかもしれない。だ
からこそ後日、吉田に帰国してから、藩の意に背かないといふ血判を命じられた
(232頁)のであらう。幕末の大坂城代といひ、この頃の吉田藩主はいささか
曖昧な態度であつたから、それが藩士にも影響したのかもしれない。谷中に下屋
敷がなければこんなことにはならなかつたかもしれないと思ったりもする。この
下屋敷は今では住宅地となつてゐる。いかに広大な屋敷であつたか。七万石でか
うである。他の大藩などは更に広大な屋敷を持つてゐたはずである。江戸の庶民
はその残された少しの土地に、皆で肩寄せながら生きてゐた、時には娘を大名の妾にやつて、といふことで。
・松岡
和子 「すべての季節のシェイクスピ ア」(ちくま文庫)を読
んだ。まづ書いておかねばと思ふのは、「文庫版あとが
き」のちくま文庫版=松岡版シェークスピア全集誕生に至る、言はば裏話であ
る。これを一言で言へば何と運の良い人だとでもなる。とにかく次から次へと運
に恵まれて文庫版の全集が誕生した。具体的にはかうである。この人はテネ
シー・ウィリアムズから始まつてゐるらしい。初めはさうした現代劇に関はつた
り訳したりしてゐたのだが、ある日、串田和美や東京グローブ座からシエークス
ピア翻訳の依頼が来る。続いて蜷川幸雄を紹介されたことから「ハムレット」訳
の依頼が来る。ここで筑摩書房に訳した3冊だけでも出してもらへないかと尋ね
ると、「いっそ全集にしましょうというちくま文庫からの有り難い申し出」
(346〜347頁)があり、続いて装幀の安野光雅にも関係ができ、更には蜷
川からシェークスピア全公演の訳は松岡でと言はれる。「運命としか思へな
い。」(347頁)かくして全集となつたのである。もちろんここに至るまでに
は現代劇の訳業や、演劇評論等で培つてきた人間関係が大きく物を言つてゐるで
あらうことは想像に難くない。それ以上に多くの訳業が優れてゐたからこそ、依
頼も次々とやつてきたのであらう。こんな運命によつて誕生した松岡訳シェーク
スピア、小田嶋訳はおもしろいが、それ以上に松岡訳はおもしろいとも言はれ
る。ほとんど読んでゐない人間には分からないことである。しかし、そんな人が
どのやうにシェークスピアを考へているのかには興味があると思つて読んだのが 本書であつた。
・本書には松岡のシェイクスピア観劇体験が綴られてゐると言つても過言ではな
からう。とにかく誰某の演出ではといふのが続く。観てない人間にはよく分から
ないことばかりなのだが、それでも読ませる。例へば「夏の夜の夢」、「内容が
荒唐無稽でファンタジー生が強いため、メタシアター的な枠を設定しないと今日
に舞台では成立しにくいという見方があり」(33頁)、「たとえば出口典雄演
出による」公演では云々、「木野花演出の舞台も云々」と記した後、RSC版で
は「そういう仕掛けなしでズバリと正面突破。」(同前)とくる。「ただし衣装
は現代風で、すでに陽気で華やかな音楽のバイブレーションに感染している私達
の意識は(中略)難なく眉唾の壁を飛び越えてしまう」(同前)。しかも「ヒポ
リタは見るからに不機嫌」(34頁)である。かうして妖精界と人間界で舞台は
進んでいく。その間、具体的な演出にも触れてゐるから、観たことがなくとも何
か観てゐるやうな気になつてくる。基本的にかういふ書き方である。舞台は観な
ければおもしろくない。これはまちがひない。しかし、観ていない舞台を、この
やうな演出を読むことによつて観たやうな気になるといふのもありであらう。こ
れは本当に実に残念なことなのだが、観てゐないものは観てゐないのである。イ
ンターネットでさがせば、部分的にでも舞台の様子を知ることができるかもしれ
ない。しかし、それをしない私はかうして読んでその気にならうといふのであ
る。本書のほぼ全体はこのやうになつてゐる。実に多くの舞台を観てゐる人だと
思ふ。劇評なども書いてきた人だから当然ではあらう。こんな人が訳したのであ
る。実は松岡版シェークスピアを一つだけ観たことがある。「終わりよければす
べてよし」、吉田剛太郎演出であつた。ここでは「この作品の本質的な深部を照
射するいくつもの鮮やかな解釈が見られた」(290頁)さうである。もちろん
私には分からない。松岡訳を読んで、今一度舞台を思ひ浮かべてみようかと思ふ 次第である。
・立川
志の 輔「大河への道」(河出文庫)は志の輔落語の小説化作品 である。巻末には、「本書は二〇
一一年初演の立川志の輔の新作落語『大河への道ー伊能忠敬物語ー』を小説にし
たものである。落語のスト−リーに忠実に添いつつ小説として体裁を整えた。」
(216頁)とある。こちらでもこの高座があつたらしいが、私はこれを聞いて
ない。おもしろかつたらしい。聞けば良かつたと思つたことを覚えてゐる。それ
が小説になつたのである。これは読まねばと思つて読んだ次第。そこで関連して
疑問に思つたのは、小説化を誰がしたのかは書いてないといふことである。協力
者の名前は載るが、これが小説化の作家であるかどうかは分からない。奥付には
原作者志の輔の隣に執筆協力として二名の名がある。この人達が小説化したのか
もしれない。しかし、執筆協力とはいかなることかといふと、これがわからな
い。志の輔自身が小説化を試み、その「体裁を整えた」のが二人なのか。実際、
話し言葉をそのまま文字化していけば小説になりさうな気がする。志の輔の高座
がそのまま小説になれば、これも言文一致である。しかし、それではうまくない
部分もある。それを手直しするのが執筆協力であらうか。こんなことを考へてし まふのであつた。
・「大河への道」とは何か。私はこれが分からなかつた。しかし、本書を読むと
すぐに出てくる。「大河とか……」(17頁)、「いや、大河ドラマとかどうで
すかね? NHKの大河ドラマで取り上げてもらうっていうのは」「大河ドラ
マ? 誰のですか?」「そりゃあ……わが郷土の英雄っていったら、忠敬さんし
かいないでしょう」(18頁)といふわけで、千葉県香取市が伊能忠敬を大河ド
ラマにしようといふのである。だから大河への道である。この道、言ふは易く行
ふは難しである。その苦労の過程が伊能忠敬の半生とともに語られる、これが本
書の内容である。伊能忠敬は既に井上ひさしが小説に書いてゐる。ひたすら歩く
行程を小説にしてゐる。井上ひさしは例の調子で、ユーモアを交へて長大な作品
をものした。ここではそれを大河ドラマにしようといふのである。私はきいてを
らず、読んだだけなので読んだ感想を書くしかない。本書の主要登場人物は3
人、池本、木下は市の職員、加藤は大河ドラマの粗筋を依頼された脚本家、この
3人であるが、カバーには女性がゐる。たぶん忠敬の4番目の妻らしき女性、お
えいであらう。この女性は忠敬の元を離れても結局は地図完成までつきあつたら
しい。落語だとこれを語り分ける。これが小説でも実によくできてゐる。加藤の
初めはおずおずしながら徐々にのめりこんでいく様は見事である。さうして最後
にドラマのタイトルが伊能忠敬ではなく、高橋景保であつたといふシーンあたり
からは涙なくして読めないやうになつていく。伊能忠敬は死んでゐるのに景保が
中心になつて日本全図を完成させた。そんなドラマになつたらしい。忠敬はすご
すぎる人なのであつた。たぶんこの加藤の気持ちがこの話のすべてであると思
ふ。地図を作るための資料集めだけで終はつた忠敬、地図を見ずに死んだ忠敬、
17年間歩き続けた四千万歩の男、志の輔の思ひもここにあるのではないか。す
べてはこのシーンを語るために、読むためにあつたのではないか。さういふ人に
大河は向かない。いや、忠敬は「ドラマに収まるほど、小さき人間ではなかっ
た!」(214頁)といふことである。この一文にこの物語は集約される。これ
はクリエイターとしての志の輔の創作への思ひを述べたドラマであつた。個人的
には映画化でイメージを限定されるのはまづいと思ふ。残念である。志の輔の咄が聞きたかった……。
・
殯(もがり)が気になつてゐたのだが、それが具体的にいかなるものであるのか
分からなかつた。wikiには、「死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺
して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願い
つつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終
的な『死』を確認すること。その柩を安置する場所をも指すことがある。」とあ
る。私は後の「柩を安置する場所」のやうに思つてゐた。まちがひではないが、
正確でもなからう。第一、どのやうな場所か分からない。「物理的変化を確認す
る」にしても、それがどのやうな場所で行はれるのかは重要な問題である。私
は、本当に殯とは何かが分かつてゐなかつたのである。五来重「先祖供養と
墓」(角 川文庫)は、その殯について詳しく書いてある。「今の葬式や墓のこ
とでわからないことは、古代の殯にさかのぼっていくと説明できます。」(11
頁)と五来は言ふ。実際、その通りであるらしく、現代の葬儀は殯との関連でか
なり詳しく説明される。要するに、殯といつても一つしかないわけではない。い
くつかの種類に分けられる。何しろ、私は墓といつても寺の墓等の集団墓地ぐら
ゐしか知らない。寺以外の古い集団墓地ならば殯の類があるのかも知れないのだ
が、私はさういつた場所を知らない。従つて、殯をイメージできないまま現在に
至つたのである。第二章は「殯の種類——殯の残存形態」である。ここではそれ
が5類型に分けられてゐる。青山型殯、忌垣型殯、等々である。その青山型に出
てくるのが花祭、といふより、花祭の前身たる大神楽の白山である。これは早川
孝太郎「花祭」にも出てゐた。これが青山型殯の残存だと言ふのである。「白山
の中を地獄・極楽として想定したものですが、その構造は木の枝を四角もしくは
円錐形にして囲って」(71頁)あるもので、この中で、「十念を授かって、亡
くなっても極楽往生疑いなしという証明を受けて出てくるという儀式が行われ」
(同前)るのである。所謂生まれ清まりであらう。白山の中で人は一度死ぬ。さ
うして生まれ変はつて出てくるのである。すると、あの白山は確かに殯と言へさ
うである。殯の残存形は意外に身近にあるものらしい。
・今一つ、暮露や放下についてである。「放下踊とか暮露は、念仏ですから、浄
土宗関係の人がやるものかと思うとそうではなく、放下僧や暮露は禅宗の放浪者
です。梵論師ともいいます。」(176頁)とある。この暮露、ぼろんじは徒然
草115段にも出てくる。私は梵論師が放下僧につながることを知らなかつた。
「放下僧という禅宗の放浪者に対して、芸だけをする放下がゐます。」(同前)
放下僧は僧形、放下は俗形である。しかも、「放下僧に何人か何十人の放下が付
いて、一つの興行集団をつくって歩いたようです。」(同前)放下の残された絵
は俗形である。もともとは放下だけが単独で存在したものではなく、そのまとめ
として放下僧がゐたらしい。現在の放下が団扇やヤナギを負うて何人かで行ふの
も、もともとの興行形態によるのであらうか。これも葬送の形であつた。この
「暮露は、のちには虚無僧になったりします。」(同前)ともある。現在は尺八
だけが独立して明暗寺に属するやうになつてゐるが、もとをたどれば暮露に行き
着くらしい。これも葬送から順に派生してきたものであらう。その大本には殯が
あるといふのが五来の考えであらうか。殯や葬送から考へることのできるものが
多くあるのはまちがひないらしい。「宗教の原点としての葬儀の問題」(11
頁)を述べた本書であるが、それ以外に実に多くのことを教へてくれる書であつ た。
・ 東
雅 夫編「桜 文豪怪談ライバ ルズ!」(ちくま文庫)は先日の
「鬼」に続くアンソロジーである。泉鏡花に始ま
り、加門七海に終はる計17篇が収められてゐる。例の如く文豪とついてゐるか
ら、いかなる作家が文豪なのかと思つてしまふ。漱石も鴎外も芥川も入つてゐな
い。梶井基次郎、坂口安吾、高田衛、萩原朔太郎、岡本かの子等々、文豪らしき
人もゐればさうは思はれない人もゐるといふ感じであるから、前回とさう違ひは
ない。新しいところでは石川淳、中上健次、日野啓三、倉橋由美子と続くから、
それなりに知名度と力量のある作家を揃へてゐるとは言へる。しかし、所謂文豪
に当たるかどうか。今少し時間が経たないと決められないことであらう。それで
もそこは売らんかなの出版界、かうして文豪とつけて売らうとしてゐるのであら
う。私はそれに乗つてしまつたのだが、本書は面白いアンソロジーであつたとは 思ふ。
・岡本かの子の「桜(抄)」は短歌連作である。80首余ある。たぶん全首に桜
といふ語が入つてゐる。徹底的に桜である。個人的には、作の出来は別にして、
これだけの桜の短歌を詠むことができるといふことが驚異である。これは抄出で
あるから、実際には更に多くの短歌が詠まれた。これだけ桜にこだはれる、いや
集中できる精神を私は持たない。他の歌人でもさうだが、多くの連作をものして
ゐる。一つの物事を徹底的に詠む。この緊張感は、たぶん、他の何物にも代へ難
いものがあらう。東は「編者解説」で中西進「花のかたち」を引用してゐる。そ
の一節に、「この、いわばアンニュイといったものも、憂鬱な桜の一態にすぎな
い。かの子が花を見て嘔吐したことはすでにふれたが、繊細なかの子の神経が花
の豪宕な力に堪えられなかったのであろう。」(332頁)とあるのを読むと、
かの子は繊細かつ強靱な精神を持つてゐたのだらうと感心するばかりである。同
時に中西が、「むしろ桜はかの子を圧倒し、かの子を憂鬱においやり、心をわれ
とわが身に向かわせることとなった。」(同前)と書くと、その繊細かつ強靱な
精神は、それゆゑに極めて壊れ易いものであつたのかと思つてみたりする。それ
でもこれだけの短歌を詠んだのである。精神を病む前の作品であらうか。もしか
したら桜に一平等の姿が投影されてゐるのかと思ふ。これは、それこそ私の〈幻
想〉であらうが、このやうな連作を詠めるだけの精神を持ちたいとは思ふ。それ
にしても桜といふのは、これが怪談話のアンソロジーであるからか、死と密接に
結びついてゐる。かの子はアンニュイですんだ。基次郎は「桜の樹の下には屍体
が埋まっている!」(63頁)と書いた。「俺はあの美しさが信じられないの
で、この二三日不安だった。」(同前)ともある。これらが人口に膾炙したの
は、やはり桜の本質を言ひ当ててゐるからではないか。あれは美しい。ぱつと一
斉に咲き程なく散る。それを本居宣長は大和心と言つた。しかし裏から見るとと
いふのが、近代の文人の感じ方であつたのではないか。あれだけ美しいのにはわ
けがある。さうだ屍体だ、屍体の源が桜の花なのだといふのである。このアンソ
ロジーを読んで、私はやつと分かつたやうな気がしてきた。桜は死と分かち難く
存在してゐるのである。最後の女流2編、森真沙子「人形忌」、加門七海「さく
ら桜」は全く傾向の異なる作品だが面白い。やはり死に結びついてゐる。敢へて
言へば、彼岸と此岸の人間にである。軽く、あるいは重く、これも基次郎や安吾
の作品の影響下にある作品なのであらうか。人間、いや日本人は桜の美しさだけ
でなく、その裏も見てゐるらしい。鏡花の「桜心中」もまたそんな作品に相違あ るまい。
・
私は谷川健一が民俗学の研究者であることは知つてゐた。しかし、私の関心と関
はるところがないかの如くで、谷川の文章を読んだことはほとんどなかつた。こ の谷川健一「神に追われて 沖縄の憑依民俗学」(河出文庫)もそんな1冊に違
ひはな いのだが、ただ私は書名の憑依とい ふ語にひかれた。憑依、憑霊、狐憑等々、かういふ言葉とその実体が好きなので
ある。だから買つて読んだ。おもしろかつた。かういふことを考へてきた人なの
だと思つた。解説には、「沖縄、宮古島は、谷川民俗学の背骨を形成してい
る。」(前田速夫「異様な宗教体験の記録」206頁)とある。谷川民俗学はか
ういふものであつたのだと教へられた。これがすべてではないにせよ、谷川にと つて南島は重要なものであつたのだ。
・最初に「魂の危機」といふ文章がある。序説であらうか。ここでイエスについ
て述べてゐる。「福音書を見ればイエスもしばしば悪鬼を追い出し、病人を癒し
ている。そのために彼は悪魔の頭の力を利用して悪霊を追い出していると非難さ
れ云々」(21頁)、これに対して谷川は、「正統的なキリスト教の信者には気
に入らないかもしれない。」と書きつつ、「ここではイエスは危険な巫者の姿を
衆人の前にさらしている。未開社会で悪霊を追い出し病気を治療する呪術師の医
師とイエスは寸分もちがわない」(同前)と評してゐる。かういふイエスの評価
はどのくらゐ行はれてゐるのであらうか。私はかういふ考へがあるのを初めて知
つた。同時に、これは極めて正当的な考えではないかと思ふ。イエスは巫者であ
り呪医であつた。だからこそあのやうな様々な「治療」もできたのである。この
やうなイエスが出てくるのは、「現代の南島社会の巫女が直面する神ダーリの体
験もまったく異なるところがない。」(22頁)からである。本書に登場する何
人かの巫女は皆「治療」もできるが、それ以前に「神ダーリ」を経てゐる。「神
ダーリは神によってためされる試練である。」(15頁)それは神ダーリを受け
る人間にとつての言ひ方で、一般的には「巫病と称すべきものである。」(同
前)が、語源的には「たたりの原義である顕つと関連があるかもしれない。」
(同前)といふ。そこから「神ダーリは神が顕つという意味」(同前)となるら
しい。だから、イエスの荒野での試練を南島の巫女たちも経験してゐるのであ
る。しかも、「神に追われて、逃げおおせることができなくなった時に、神に自
分の魂を譲り渡す。これが南島で神の道に入った女の原則的で典型的な姿であ
る。」(20頁、前の一文、傍点つき。)からには、結局、自分の選択の余地は
ない。逃げることは許されない。神に選ばれたら選ばれるがままに生きるしかな
い。イエスはこの点、どうであつたか知らないが、これは大変なことである。神
ダーリを乗り越えて「神の道を開いた」(24頁)ら、その先は神の意のままに
巫者として生きるしかなくなるのである。巫者と書くのは、南島には神ダーリを
受ける男性もゐるからである。この何人かの神ダーリの過程が書かれているのが
本書である。それは私には考へられないことばかりである。この信仰の在り方が
私には分からない。身近にない。東北のイタコとも違ふやうな気がする。神ダー
リがそのまま完全に受け入れられてゐる。この信仰は現在も生きてゐるのであら
うか。谷川が巫病と言つたのは、谷川もまた南島の信仰圏に入つてゐなかつた、
いや入れなかつたからであらうか。解説の最後の一文に、「健一が憧憬してやま
ない南島の『明るい冥府』、すなわち水平線のかなたの他界に死後の魂の行方を
望む」(210頁)とあつた。ニライ・カナイであらうか。
22.04.02
・私は柴田錬三郎を知
らない。いつもかういふことを書いてゐるのだが、実際に知らないのでかうとしか書けない。私は好き嫌ひが多い。
読む物も片寄つてゐる。作家も同様である。かつて私の眼中にシバレンはなかつた。ところが最近はいろいろな文庫
が出る。海外の読みたいものがないので、今は昔の日本の作家でも読まうと思つた。さうしてたまたま買つたのが柴田錬三郎「第8監房」(ちくま文庫)であつた。本書所収の短編は
昭和 30年頃の作品である。同じ頃に例の「眠狂四郎」も始まつた。本書はそれとは全く違ふ作品集で、「昭和二十年代
以前には、時代小説は数あるレパートリーのうちのひとつで、純文学から大衆小説、随筆、評論、少年少女向けの作
品まで、柴田錬三郎は才気にまかせて多種多様なジャンルを手がけていた」(日下三蔵「編者解説」361頁)らし
い。実際、本書にはフランスを舞台にした作品もある。時代小説の大家がこんなものをと思つてしまふ作品である。
他は大体時代が分かる作品、つまり、戦後が舞台になつている。本書はアンソロジーではあつても他を流用した「あ
とがき」を持ち、そこには、「小説ばかり書いていると、たまには、別の読物を書いてみたくなる衝動が起る。本書
に収めた各篇は、折々に読みちらした材料をもとにして、私の勝手な潤色を加えたものばかりである。」(359
頁)とある。本書にこれがそのまま当たるのかどうか私には分からないが、編者がさう判断して本書の「あとがき」
としたのである。たぶんそんな作品なのであらう。
・そんな中で最も出来の良いのが表題作「第8監房」であらう。ごくかいつまんで言へば、場末のキャバレーの男女
の因縁話とでもならうか。男は女の夫をルソン島で殺したのである。事情はあつても殺人は殺人といふことで、男は
復員後、上官の妻を捜して遂に見つける。それがキャバレーの女であつた。ただし、男は何もできず、ただ遠くから
見守るのみであつた。ある時、女にまとわりつく男が殺された。男は女の罪をかぶるが、その時、女は肺病で死の間
際であつた。そこで第8監房から……といふ物語である。前半の罪をかぶるまではありさうな話なのだが、後半にな
ると本当かと思つてしまひさうである。最後は「走れメロス」風でさへある。このやうな看守がゐるのも都合よすぎ
る。これを「考えてみればシバレンの作品は、異常なシチュエーションや異常な心理を描くものばかり」(「編者解
説」367頁)だといふ一例にすぎないと考へればそれまでであらう。小説といふもの、大体が極めて都合よくでき
てゐる。都合よくないと物語にならない。これも男と女は良いとしても、看守がゐないとお話にならない。物語はそ
こで終はつてしまふ。そこでいささかの〈人情味〉をといふことでこの作品ができてゐる。他の作品とは違ふところ
である。これが表題作になれる所以であらう。巻頭の「平家部落の亡霊」はその題名からしてクレームがつきさうで
ある。部落はいけない集落にせよと今なら言はれるはずである。大雨の中、バス故障により平家部落に避難した人達
の物語である。ポイントは亡霊とは何かである。それは「現世にふたつとは存在しない凄惨な形相の怪物」(54
頁)と形容される。それ以前に「二十歳になった孫息子が、ある嵐の晩に云々」(29頁)とある。ただ、物語はこ
れだけに関はることはなく、といふよりこれは添へ物で、いくつかの小さなエピソードが集まつてをり、亡霊はその
一つに過ぎない。タイトルに偽りありの如くで、何か中途半端な感じである。そんなわけで、時代や風俗が分かつて
面白いのだが、肝心の物語が今一つといふのが私の読後感であつた。
22.03.19
・服
部瑛「古文書か ら見た幕末のコレラーコロナ禍に遭遇して−」(みやま文庫)はいただき物である。た
だし、著者 からではなく、回り回つて私のもとにといふ感じで、私が手に入れるまでには何人かの方が関係してゐたらしい。こ
れも縁なのであらう。著者の服部氏は皮膚科医である。「十年程前(中略)『古文書を教えてくれる人はいません
か』とお願いしたことがあった。」(「まえがき」)とあるから、もしかすると六十の手習ひとして古文書読みを始
めた方ではないかと思ふ。書名にも「古文書から見た」とある。実際に古文書の引用が多い。その古文書の部分は読
みにくいが、それぞれの直後に現代語訳に近いものがついてゐるから、それだけで読み進めることはできる。ただ、
幕末の日記や心覚え等の文章はかなり画一的、といふか決まり切つた書き方、言ひまはしがあるので、それさへ分か
れば活字を読むだけである。読みにくくはあつてもそれほど難しくはない。だから私は読んでみた。その結果分かつ
たことは、幕末のコレラ禍の惨状とそれに対する医学の無力、そしてそれを見る筆者の、現代の医者としての見方、
この三つであらうか。
・「まえがき」に、「本書は、読者に幕末安政時代のこれらの流行の実際について古文書を通して点検、体験してい
ただく試み」とある。そのやうに多くの古文書が使はれてゐる。最初は上原元伯「暴瀉病ニ付」である。元伯は前橋
の医師の家系の人であつた。「コレラの流行に遭遇して、医師として(中略)その惨状を黙視することができなかっ
たのであろう。」(5頁)といふ、その記録である。当時の日本の医師には初めての病であつたコレラはいかなる病
かといふところから始まる。下痢、嘔吐等の症状があつてすぐに死ぬ。だから2度目の安政6年の大流行は前年に
「百倍せ」(6頁)る患者であつたらしい。元伯がこれはいかなる病かと和漢の医書を調べても分からない。これに
対する服部氏の考へは司馬遼太郎「胡蝶の夢」の一節で代へられてゐる。その中心は、漢医は「物を正確に物として
見るという精神にとぼしく、一個の観念的哲学を通して見るため、西洋医学とはまったく思想も体系も異にし云々」
(12頁)といふに尽きよう。私は漢医のことを知らないが、印象としては「物を正確に物として見るという精神に
とぼし」いやうに感じる。私が感じるのだから、元伯の文章を読んだ服部氏は、現代の医師としてより強くさういふ
ことを感じたはずである。氏は「このあたりから漢方医学用語が頻出してくるが、説明は必要なものに限定する。」
(同前)と書いてゐる。現代の医師からすれば、本書に出てくるのはとても治療と言へるやうなものではない。「疫
病に対処するとは患者を隔離することではなくて、皆で神様に病気退散をお願いすることだった。」(91頁)とい
ふのだから、全く「物を正確に物として見る」ことをしてゐない。ただ、これが当時の標準だつた。一部で西洋医学
が行はれたといつても、それは治療には違ひないが、十分といふには程遠い状態であつた。長崎出島の「ポンペの治
療はまたたくまに各地に広まり、キニーネは入手不能となったのであるが、無論効くはずもない。」(69頁)蘭医
もまた「物を正確に物として見る」ことはできても、その治療まではできなかったのである。そんな時代であつた。
だからこそ医師等は苦闘し、それを克明に記した。それを現代の医師が読み、感動したのは当然であらう。時代と医
学の内容の差はどうしやうもない。そこに思ひ至る現代の医師の姿がここにある。医師でない私にはそれもまた興味
深いものであつた。現在のコロナもまたかうして記録されるのであらうか。
22.03.12
・奥
山景布子「圓朝」(中公文庫)を読んだ。圓朝は幕末明治の偉大な
る落語家であつたといふことは知つて知る。代表作「牡丹灯籠」を初めとして、実に多くの落語を作つた。続き物だ
けでなく、三題噺からできた「鰍沢」や「芝浜」もこの人の作として有名である。しかし、その生涯は知らない。実
際、作家でも役者でもさういふ人が多いのだが、落語家となると、昔の落語家などはその名前さへ知らない。まして
その生涯をやである。圓朝の場合、これに続く人がゐないから、圓朝と言へばあの圓朝である。すぐ分かる。例へば
圓生だと、昭和の名人である6代目圓生しか思ひ出せない。ところが、当然ことながら、さうではないのである。本
書には圓朝の師匠の二代目圓生が出てくる。更に、圓朝が継がせた3代目や4代目の圓生が出てくる。それだけでな
く、現在活躍してゐる多くの落語家の名前が出てくる。圓朝の父は初代橘家圓太郎であつたし、柳橋や文治と落語家
の組合(?)作つてゐる。橘家は三遊派の音曲噺系統の名前だといふ。当代立花家橘之助が先代円歌の弟子であつた
のは正当だつたのかと思ふ。しかし、芸人の一生などは気にしない、気にするなと言はれるかもしれないが、圓朝ほ
ど有名になると、やはりさうも言つてゐられなくなる。なぜあんなに多くの噺を作つたのか、なぜ素話にもどつたの
か等々、気になることが多いのである。
・何と言つても気になるのは、本作「圓朝」がどの程度の事実に基づいてゐるかといふことである。本作には評伝と
か、伝記小説とかは付されてゐないし、事実に基づいて書いたとかのあとがき等もない。細かい部分は作者の想像力
によるのだが、基本的な流れはどうかと思ふ。インターネットで検索してみると、本作は圓朝の基本的な人生をきち
んと踏まへてゐるらしい。ここには初高座がいつで、二つ目、真打ちになつたのがいつでなどとは書いてないが、二
十歳前には真打ちになつてをり、その頃には道具噺を始めてゐたらしいとある。実際には十歳で二つ目、十六歳で真
打ちである。さすがに名人、といふより、時代の差であらう。若い。十九歳で道具噺を初めてゐる。二つ目と真打ち
の間に国芳の内弟子ともある。母親は息子を芸人にしたくはなかったらしく、その頃あちこち奉公させていたらし
い。どれもすぐにダメになるのだが、その一つが国芳、これは道具噺の道具作りに役立つた。本書巻末には参考文献
目録がある。圓朝全集はもちろん、それらしい書が並んでゐる。これだけ読んで書いたのだと思ふ。これを生かすも
殺すも作者の想像力、創造力次第である。私にはそれを判断することはできない。ただ、圓朝の若い頃は緊張があつ
たが、晩年、政府高官に出入りするやうになつてからは、それがなくなつて平穏になつたやうに思はれる。弟子に裏
切られ、二代目圓生に高座でいぢめられたりすれば、誰だつてまゐつてしまふ。それをはね返して更に大きくなつて
いつた圓朝は本当にゐたのだらうとは思ふものの、事実は小説よりも奇なりといふから、本当はこんなことではすま
なかつたのではと思つてみたりもする。私もきちんと調べれば良いのだが、そんなことをしない怠惰ゆゑに、こんな
ことを考へるのである。本書の圓朝は奥山景布子の圓朝である。「牡丹灯籠」等の成立過程もどきも書かれてゐる。
「鰍沢」があのやうな場で作られたのかと思ふと、最初の噺を聞きたくなる。それを更にふくらませて現在の噺がで
きたのであらう。それはここには関係ないけれど、やはり気になる。圓朝は落語中興の祖である。中興の祖の苦しみ
よりも喜びやうれしさを感じるやうなことはなかつたのかと思ふ。長篇だが短い。しかたない。
22.02.19
・私は能をほとんど見
ない。いや、全く見ないと言ふべきであらう。歌舞伎は観るが、能とは縁がない。そんな人間が能の本を読まうとい
ふのである。当然、買つたわけではない。いただき物、有り体に言へば、当たつたのである。懸賞などに応募して当
たつたことなどない私にしては、実に珍しいことであつた。それほど応募者が少なかつたのであらう。それが観世清和監修「観世宗家能暦」(淡交社)である。監修とあるのは、
編著者が 「編集・文=小野幸惠」の小野氏であつて、観世宗家本人はあくまで語りはしたけれど文章にはしてゐないといふこ
とであらう。「あとがき」の最後(173頁)に小野氏への感謝の意が述べられてゐる。本はさすが淡交社、凝つた
作りの本である、と素人の私は思ふ。函(?)は片方だけの差し込みではなく、両方からの差し込み式である。かう
いふのはないことはないのだが、私はほとんど知らない。大体、最近は函のない本が多い。函は基本的に黒に金文字
といふ感じで、いかにも高級感あふれると言ひたげである。本体表紙は藍色鳩羽色(?)に金文字である。書名は副
題つき、「観世清和が語る 七〇〇余年受け継がれる伝統と継承」といふ、長いがそのものズバリのタイトルであ
る。写真が多いからであらうか、本文用紙は厚い。そのせゐでいささか開きにくい。無理しなくても、少し押さへた
だけでのどが割れさうである。180頁に足りずに定価3,500円、買ふ人は限られるであらうからこれで良いの
かもしれない。それゆゑに、私が個人的に買ふことはない本ではある。
・とはいふものの内容はおもしろかつた。何といつても観世宗家伝来の鬼の写真2枚である。赤鬼と黒鬼であるが、
これを音読みでシャッキ、コクキと読む。これは、「我が家には平安時代の作とされる『翁』の面と共に大切に『赤
鬼』『黒鬼』の面が伝わり、この二つの鬼の面は桐の面箪笥の最上段に翁面と同格に安置されております。」
(124頁)といふもので、春日作、重要美術品(100〜101頁)である。修正会や修二会の追儺に使われてゐ
たものだといふ。「先祖たちはこの鬼の面を掛け、世の中の平穏と人々の来福を願い、災厄を一身に背負う儀式に臨
んでいたであらう」(同前)といふのだから、後の節分の鬼のそもそもを田楽師が勤めてゐたらしい。その鬼はかく
も精悍といふか、力強いものであつた。般若面やこのあたりの鬼とは全く違ふ風貌である。観世宗家にはこのやうな
ものがあり、しかも大切に扱はれてゐたとは、このことを私は全く知らなかつた。これらは、「本来であれば、追儺
式を終える度に災厄と一緒に面を土に還していた様ですが、恐らく先祖が追儺式のお役御免となった際に、後世へ伝
えるため」(124頁)に残したものであるらしい。とすれば、これは重要美術品といふやうな物ではなく、その年
その年の使ひ捨ての面であつたのであらう。それにこれだけの迫力がある。大したものであるとしか言へない。歌舞
伎の家が古いと言つても所詮は400年、初代市川團十郎からしたら350年程度であらう。しかも、このやうに古
い面や衣装等は残つてゐない。能とは古さが違ふ。ただ、江戸幕府により能は式楽とされたゆゑに、庶民とは縁遠い
ものとなつてしまつた。それでも町入能といふものがあつたといふ。「これは町の人達、落語でいえば熊さん、八ッ
つぁんのような庶民も観ることができ」(林望、79頁)た。だから、「武家『式楽』とは異なるかたちで、別の場
面で能は江戸の庶民文化を創り支えていった」(同80頁)といふ。歌舞伎しか観ない人間からすれば意外であつ
た。700年の伝統はだてではないと知つた書であつた。
22.02.05
・京
極夏彦「虚談」(角 川文庫)を読んだ。これは、「もしかした
ら。(原文改行)今、見聞きしているこの現実らしきものこそーー。(原文改行)嘘なのかもしれないのだし。」
(143頁)といふ「クラス」の最後の文章に集約されるのかもしれない。帯には「この現実はすべて虚構だ」とあ
り、カバー裏には「この現実と価値観を揺るがす連作選。」とある。表現は悪いが、語られる内容が現実であるのか
どうかが分からない物語といふことであらうか。例へば安部公房はとらぬ狸とかデンドロカカリヤ、S・カルマとか
を使つて「この現実と価値観を揺るがす」やうな作品を書いた。ところが京極はSF的な要素や幻想文学的な要素は
排除する。物語はあくまで生々しいのである。安部公房は労働者階級を描いた。京極にもはや労働者はゐない。階級
闘争をするわけではない。言ふならば身の上話をしてゐるだけである。ここに時代と作者の志向性、嗜好性の差があ
る。京極もここまできたかと言ふべきであらうか。
・本作は9編の連作と付録1編からなる。「クラス」は「妹が来んねん、と御木さんは言った。」(115頁)と始
まる。「俺の妹はもうおらんねん」「もうーーって御木さん」(117頁)といふことで御木さんの身の上話とな
る。その妹の制服姿、死んだ中学校の制服を着た、年取つた妹の姿を最近見たといふ。そこで郷里の石垣島へ供養に
行く、といふあたりから話は佳境に入る。いや現実から外れていく。妹はゐないはずなのに、御木さんは死んでゐる
はずなのに、同窓会名簿に名前があるはずなのに、似顔絵を描いてゐたはずなのに……結局、「存在しない男の幽霊
が、存在しない妹の幽霊に怯えていたということになる。」(142頁)これを「馬鹿馬鹿しいことこの上ない。」
(同前)と言ひ切れるかどうか、あるいは、そんなことはあり得ないなどと書くと、これは作者の掌中に捕らへられ
てしまつたことになるのであらう。だからといつて、これをそのまま受け入れるのはなと思ふ。読後に違和感が残
る。これが作者のねらひかもしれない。ならばこれは見事に成功してゐる。他のも同様である。この次に「キイロ」
が来る。「もう四十年から前の」(147頁)中学校での出来事である。その中学にはいはば裏道があつた。そこに
キンゴロー様といのふを、秘密に、祀る(まねをしてゐた?)連中がゐた。それを知つてからちよつといたづらをし
てみたら……それが現実的に祟りをなしてゐるらしい。「黄色くて。(原文改行)片足がないって。」(165頁)
さうしていろいろあつた後、最後は「まあ、嘘だこれ(中略)何もなかったんだわ最初から。」(174頁)といふ
ことになる。それが収まつてから「僕は釈然としなかった気がする。(原文改行)すぐに忘れたけれど。」(175
頁)となる。読んだ方はこれは一種の怪談話だと思つてゐるが、当の主人公、いたづらをした人間は、それゆゑに
か、却つて釈然としないのである。これは「クラス」と逆になりさうである。嘘かもしれないと釈然としないは同義
であるのかどうか。釈然としないのは裏が分かつてゐるからであらう。だからそんなをかしなことあるかといふので
ある。それが読者には一種の怪談話と思へる。もちろん裏が分かってゐるからである。黄色男は単なる噂でしかな
い。しかしそれは本当に単なる噂かといふのがこの主題であらう。嘘かもしれない。ならばここにどんな嘘が隠され
てゐるのか。「そう言われてもなあ」(174頁)といふのはいたづらをした人間の偽らざる気持ちであらう。これ
もまた「この現実はすべて虚構だ」といふことの一つであらうか。その小説はもちろん虚構で……。
22.01.22
・菊
地ひと美「江戸 衣装図絵」(ちくま文庫)は「武士と町人」「奥方と町娘た
ち」の2巻からなる。つまり男女別であるが、ごく一部の色名や小袖については共通の内容となつてゐる。男子の最
初には「衣服の歴史」があり、ここで江戸以前の衣服の歴史がごく簡単に述べられてゐる。貫頭衣以前の獣衣の男女
の絵がある。「古代は狩猟や漁労の生活で、縄文時代には、上半身の衣や、下半身の腰を覆うものがみられます。弥
生時代の男子は横幅の布を肩掛けにして結び、女子は貫頭衣に麻の細い帯紐云々」(男12頁)と説明されてゐる。
弥生時代には布があつた。「大和朝廷の時代になると、大陸の北方民族の着衣が伝わり」(同前)、ここでやつと衣
服らしくなる。この段階で「男子は筒袖で腰丈の短衣を用い、下はズボン姿。女子も同様で、下衣はスカート形でし
た。」(同前)とあるから、下衣は現代人と同じやうなものであつたらしい。このことは様々な絵画やアニメでも見
られるので一応は私も知つてゐるのだが、この差が曖昧になるのはいつかといふと、これはよく分からない。平安朝
あたりまでは一般庶民の服装にはほとんど触れてゐない。上層階級が官服としては袴をはいてゐたすると、15頁の
「平安時代の民衆」の絵では、男は袴をはいてゐたらしいのに対し、女は袴をはいてゐないやうである。ただ、左下
の収穫をしてゐるらしき女性は袴である。これも髪形から私が女と判断しただけだし、はくのは半ズボンのやうなも
のだから、これを袴と言ふのかどうかは分からない。しかし、これだけ見てゐると、一般庶民の服装は江戸とそれほ
ど違はないのではと思つてしまふ。両者の違ひは、たぶん、普段着には男も袴をはかないといふことではないか。鎌
倉時代の男は烏帽子、素襖の上着、括り袴が多かつた(男17頁)とか。ところが室町になると「烏帽子や袴を省
き、着物のみの姿も広が」(同前)つたといふから、この頃に庶民の男は普段着として袴をはかなくなつていつたら
しい。安土桃山になると男は烏帽子をかぶらなくなり、女も「”小袖(上等な着物)のみで成立”した服装とな」
(同前)り、より江戸に近づいていくのである。
・その江戸時代の衣装である。老若男女、貴賤上下の差がある。本書では初期(慶長〜貞享)、中期(元禄〜天
明)、後期(寛政〜慶応)の3期に分けてある(男20頁)から、時代的な差異もある。この中で所謂江戸文化が成
立していくのだが、その後期に至る過程は、ごく大雑把に言へば、下げ髪から結ひ髪へ(女137頁)といふことに
なる。単純から複雑へである。衣服、いや着物でも同じで、幅広で短かつたのが細身で丈長になる(男26頁)ので
ある。ただし、幕府の改革のために、柄にはそれだけではない変化があつたらしい。歌舞伎の華美な衣装への言及は
全くないが、あれも役者の髪形同様に様々な制約の中でできたものであらう。劇場が近代的な光で明るくなる前は暗
かつた。その頃はどんな衣装であつたのか。浮世絵を見ると結構華美であつたりする。しかし、観客はさうはいかな
い。武家であれ、大店であれ、長屋であれ、それらの人々の着物は大体本書で分かる。江島生島はどんな着物で密会
をしたのか。舞台上の生島はいかに華美であらうとも、芝居を離れれば単なる役者である。上質の着物や小物を使つ
てゐたのかもしれない。それはどんなものであつたか。華美にもほどがあらう。本書を見ながらいろいろ想像してみ
る。ただ、冬の庶民は寒さに耐へるために重ね着をどのくらゐしてゐたのかなどといふことは書いてない。資料的裏
付けが少ないのかもしれないが、この下層、最下層に弱いところが本書の残念な点であつた。
22.01.01
・東
雅夫編「鬼 文豪ライバルズ!」(ちくま文庫)は鬼のアンソロジーである。書名の
やうにライバルを並べてなどといふことはない。編者なりの考へに従つて泉鏡花から最後の中井英夫、手塚治虫まで
の13編が並んでゐる。手塚治虫はどうしてもここに入れたかつたとかで、1編だけの漫画である。大体はおもしろ
いのだが、中にはとつてつけたやうな鬼もゐるし、鬼かどうか分からないやうなものもある。「編者解説」には選ん
だ理由も書いてある。本書は東雅夫の選んだ鬼のアンソロジーである。
・泉鏡花「鬼の角」は正に鬼の角の物語である。地の文は擬古文である。しかし、会話文が多いので児童文学でやつ
ていける作品である。節分の夜、老隠居がふとしたことで鬼の角を手に入れ、角を失つた鬼はどうなるかといふ物語
である。鏡花最初期の作品ださうである。おもしろい。いかにもそれらしい展開は児童文学だからであらうか。最後
に教訓めいた一文がある。「幼年諸氏、諸氏また読書一遍の後は、此鬼の角を匣底に棄てて、更に机上の経典を繙
け。」(48頁)明治半ばの小学生であらう、かういふのを教訓として読むことができた時代の子供達の素養を思
ふ。いかにルビつきであつても難しい。福永武彦「鬼」は今昔物語を使つてゐるのだが、いかにもこの人らしいと言
ふべきか、端正な短編である。京極夏彦の後にかういふ作品が来るとほつとする。福永はかう書いてゐる、「どうも
この鬼は死霊というよりは、生霊の方に近いらしい。(中略)しかし更に一歩進めて、この鬼が死霊でも生霊でもな
く、人間業であったとしたならばどうであろう。」(127〜128頁)そこで最後に私の推理をといふことで物語
は締められる。これは推理される「いくつかの場合」(128頁)の一つを記したものであるが、鏡花同様、いかに
もそれらしい物語である。要するに、夫の不貞を止めさせるために仕組んだ罠と言へよう。しかし、物語はここで終
はらない。「あの仲立の女も、あの傀儡女も、またお方様も、みんな鬼よりももっと悪いのだ。」(134頁)さう
して若殿のおつきの童はどうしたか。最後がいかにも福永らしいのであらう。端正な印象は、文章そのものとかう
した物語からくるのであらう。それにしても、京極をはさむのが円地文子の上田秋成訳とこの福永武彦、「青頭巾」
関連の次の話題をといふことで福永がここに来ただけだとは思ふが、次の女流とつなげるのふさはしい作品ではない
かと思ふ。最後の3編は安達ヶ原である。中井英夫「黒塚」は、さうはいつてもどこが安達ヶ原なのだと思ふ。編者
自身が「思いきりの変化球である。異形の黒塚譚を。」(375頁)と書くほどである。物語の最後の一文、「その
上におかれた白い肌着は、そのとき香菜江に、安達ヶ原に積まれた人骨のように映った。」(304頁)これが題名
の由来に違ひないのだが、中井には、この家の様子が安達ヶ原の媼の家の様子を思はせたといふことであらうか。世
の狂気、あるいは正気に対して己が正気、あるいは狂気、澤瀉屋の黒塚はこれを彷彿とさせ、中井の黒塚も、中井の
中ではそれであつたといふことか。題名にこだはらなければ中井らしいおもしろい作品であつた。その点、最後の手
塚治虫「安達が原」は極めてまともな黒塚譚である。解毒剤で味が変はるのがポイントであらう。人工冬眠を経た人
間と経ない人間の悲劇が黒塚に至るのが見事である。編者が「この一遍だけは、どうあっても外すわけにはいかな
かった。」(376頁)と書く気持ちが分かる。他にもおもしろい作品がある。しかし、作者諸氏には失礼ながら、
誰が文豪かとも思ふ。売らんかなの書名であつた。