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ロバート キャンベル編著「日本古典と感染症」
千街晶之編「伝染る恐怖 感染ミステリー傑作選」
長友千代治 「江戸庶民のまじない集覧 創意工夫による生き方の智恵」
森岡督行「荒野の古本屋」
喜熨斗古登子述・宮内好太朗編「吉原夜話」
長田純「町かどの藝能」上下




21.05.29
・またコロナ関連である。かう いふ 時である、出版界も際物狙ひでいろいろと出す。そんな1冊(だと思ふ)、ロ バート キャンベル編著「日本古典と感染症」(角川文 庫)である。しかし、本書は単なる際物では終はらな い。編者は国文学研究資料 館の館長であつた人である。その、言 はば配下に書かせてなつたのが本書である。総論を含めて古代から近代、つまり万葉集から鴎外、漱石までを網羅する15編 を収め る。感染症は感染症である。コロナだけではない。それゆゑに、こちらのイメージといささか外れる論文もある。まとめ方もそれ ぞれ である。それでも、「生をむしばむ影に一条の光を見出す読者が一人でも多くページをめくって下されば幸いです。」(キャンベル、 27頁)と始まる。
・私が最もおもしろいと思つたのは木下華子「『方丈記』『養和の飢饉』に見る疫病と祈り」であつた。鴨長明の生きた時代 は大 変な 時代であつた。大火、辻風、飢饉、地震、長明はこれらを実際に経験した。私は気にもしなかつたのだが、実は助動詞の使ひ方に問題 があつた。過去の「き」「けり」である。「方丈記」ではこれが書き分けられてゐるといふ。「過去・回想をあらわす場合、 作品 全体 における『き』の使用量は『けり』の二倍以上に及ぶ。」(85頁)ごく大雑把に言へば、「き」は経験過去、「けり」は伝聞過去で ある。「方丈記」では経験過去の「き」が中心であつた。当然である。逆に「『けり』が用いられるのはすべて五大災厄、す なわ ち 『方丈記』執筆からおよそ三〇年前の出来事を振り返る箇所である。」(85〜86頁)これはいかなることを表すのか。すなはち、 自らの経験でないことを伝聞によつて書いたといふことである。しかも上記災厄中で「『養和の飢饉』は明らかに特殊であ る。」 (86頁)養和の飢饉では「けり」の使用が多いのである。この時、長明は飢饉の多くの情報を「直接経験ではなく、間接的に、 他者 を介して手に入れ」(同前)たのであつた。私は「方丈記」に書かれたことは長明自らが体験したことだと思つてゐた。さうではなか つた。長明はいつ果てるともしれぬ飢饉の中で自ら情報を求め、それをもとにして飢饉の様を記述したのであつた。「直接体 験に よる 見聞でないからといって、非難すべきことではない。」(87頁)とわざわざ筆者は書いてゐる。これは非難する人がゐた、あるいは ゐるといふことであらうか。個人的には、その時代に生きてゐればそんなことは言へなくなると思ふ。誰もが生きることに精 一杯 であ つたはずだからである。従つて、「方丈記」を書いてゐる時、長明の手に入れた「ふさわしい情報の取捨選択が行われたはずだ」 (88頁)といふのはありうることである。人間誰しも都合の良いことは残す。残したくないものは残さない。長明にも残し たく ない ものはあり、それが記されずに後世まで残らなかつたといふことはあらう。災厄でもあるかもしれない。それがどんなことであつたか と思ふのはいささか不謹慎かもしれない。清少納言や吉田兼好はかくも陰惨な情景を描いてはゐない。しかし、それに類する こと を経 験してゐるはずである。これはどの時代でも同じこと、現代医学も持て余す感染症はまだ多い。まして医学よりも加持祈祷の時代であ れば、感染症は不治の病であつたらう。だからこそ情報が必要だつた。飢饉の中、長明は情報を求めて走り回つた。それが 「き」 「け り」に凝縮されてゐたとは。私も迂闊であつた。過去に限らず、助動詞のことを考へながら読むと、また新しい発見があるかもしれな い。伝聞過去で最後に登場する隆暁法印は、それゆゑに長明に大きな印象を与へた人であつたわけである。

21.05.22
千街晶之編 「伝染る恐怖 感染ミステリー傑作選」(宝島社文庫) は書名通りの内容である。古くはポオ、コ ナ ン・ドイルに始まり、現在のコロナ禍を扱つた作品までの計8編を収める。海外4編、国内4編といふのはバランスを考へたものか、 この種の作品はあまりなくて必然的にかうなつたのか。後者であれば続編も期待できないことになる。個人的には、かういふ アン ソロ ジーは海外編と国内編に分けた方が良いと思ふ。更に、できることならば時代的背景にも気を配つてほしい。このアンソロジーでは海 外作品が何か違ふやうに思はれる。時代的な問題があらう。ポオ「赤死病の仮面」がいささか違ふのは当然として、とはいふ もの の、 実はこれが最もそれらしい作品と思へたりもする。マーキーは経歴不詳とある。「空室」はこの書名にはふさはしくない。これは現在 の緊迫した状況からは考へられないほどののどかな作品である。
・これに対して、国内は西村京太郎「南神威島」、皆川博子「疫病船」、梓崎優「叫び」、水生大海「二週間後の未來」の4 遍を 収め る。皆川作は復員船の物語、個人的にはおもしろくない。水生作は現在のコロナ禍の作、リモート会議が出てきたりする。その他、現 在の状況にふさはしさうな内容である。しかし、個人的にはおもしろくない。緊迫感がないといふか、青酸カリ殺人事件のや うだ が、 どこか間が抜けて見える。ところが西村作と梓崎作にそんなところはない。扱ふ内容もあらう。ともに言はば現代のゴシック小説であ らうか。隔絶された場所で起きる感染症がらみの事件である。西村の南神威島は「九州南端から沖縄へ向って弓形に伸びる神 威列 島の 中の一つの島」(132頁)であるが、「この島だけが、まるで他の島から仲間外れにされたように、南東へ二百五十キロも離れた洋 上に、ポツンと浮かんでい」(同前)る、そんな島が舞台である。その島の風俗、風習とそこに赴任する若き医師のカル チャー ショッ クが主題であらうか。物語は結果的に殺人事件だつたのであらう。血清で救ふべき人間を自分にしたのである。医師は自分以外は知ら ないと思つてゐた。しかし、知られてゐたのである。「おタキは、神さまにお仕えする巫女です。おタキは、先生が病気にか かっ たこ とを知っていました。だから、勿論、神様も」(193頁)知つてゐた。それでも何も言はなかつた。「全て神さまのおぼしめしで す。」(同前)以後2年間、島が病気から守られたのだからと言ふ。予想される結末ではあつても軽くない。1969年発 表、古 いと いへば古い。現在もかういふ島が残つてゐるとは思へないが、昔はかういふ島もあつたのだと思はせる。私はこの人を名前だけでしか 知らない。初めて読んだ。かういふ作品を書く人ならば売れるだらうと思ふ。梓崎「叫び」はアマゾン奥地の「わずか五十名 弱の 小さ な部落」(253頁)が舞台、ここでエボラ出血熱が発生する。その時、主人公と案内人の医師はいかに動くかといふ物語である。た だし、ほとんどがエボラ出血熱に感染したが、「首を掻き切られて死ん」(257頁)だ遺体もあつたことから殺人事件とな り、 これ またゴシック小説となつていく。感染症の場合、舞台を限られた範囲にするか、どこまでも広がりかねない都会にするかで内容も変は つてこよう。その意味で、ゴシック風にしてしまへば扱ひ易くなるといふことかもしれない。ポオもまたゴシックであらう。 梓崎 は今 から10年ほど前の作品である。新しくもないが古くもない。日本の推理小説の類を全く知らない私は、かういふ小説を書ける人がゐ るのだと驚いたものである。もしかしたらこれが私の最大の収穫であつたかもしれない。

21.03.06
長友千代治 「江戸庶民のまじない集覧 創意工夫による生き方の智恵」(勉 誠出版)を読みかけてゐる。専門書で本文350 頁以 上と いふのだけでも読みにくさうである。しかもその内容が書名通りである。つまり集覧である。この集覧といふ言葉、手許の辞書でさが すと、どうやら出てゐないらしい。俚言集覧や雅言集覧といふ江戸の辞書の書名として、また史籍集覧の類の史料集の書名と して も使 はれてゐるのだが、集覧そのものは辞書にはなささうである。本書もまたその辞書か資料集の類だとは言へる。序にあたる一文の最後 に「以下、庶民の日常生活に関する呪い方を中心に紹介、解説していくことにする。」(8頁)とある。確かに本書は江戸庶 民の まじ なひを集めた書なのである。ちなみに「呪い」といふ表記は「大言海」が要領よくまとめてあるといふ(3頁)が、要するに呪、まじ なひと詛、のろひの表記は近世では確定してゐないらしく、節用集を参考にして呪をまじなひと表記すると決めた(同前)と いふ こと らしい。
・本書にどのくらゐの呪ひが載るかといふと、これは目次を見れば良い。いや、帯を見れば一目瞭然である。全15章、最初 は表 記や 基本的な意味等の問題であり残りが呪ひである。実に多くの呪ひが載る。最初は十二支や日々の吉凶、暦、天気等の「吉凶だけが人々 の生活を呪縛している」(19頁)と筆者が書く事どもである。今年の恵方は云々といふ類のものであらう。もちろん毎日の 吉凶 もあ る。今日は何をするに良い日、何をすると悪い等々である。これ以外にも様々なことが分かる。さうしたことが記された雑書の「類が 明治に至るまで年々本屋から出版販売されており、一方ではこれらが購入されて各種の大店から得意先へ配り物にもされて い」 (22 頁)たといふ。現代でも暦が配られてゐるが、これと似たやうなものであらう。昔も今もこれが基本であつて、実に様々なことがこの やうな呪ひの類で決まつたりするのである。現在は「吉凶だけが人々の生活を呪縛」とはいへないまでも、それに近いことは 行は れて ゐるはずである。実際、地震、雷、火事、親父は言ふまでもなく、人間関係の様々な問題から、犬猫の動物、蚊、蝿の害虫、そして 様々な病気、ここにないのは植物関連ぐらゐであらうか。かういふ呪ひが重宝記や雑書の類に載る。これをまとめたのが本書 であ つ た。実は著者は重宝記の集成をした人である。全45巻、総索引付きといふ大部の書である。これに収められる書その他を使ひ、その 内容を項目別にして本書はできてゐる。私は重宝記といふ類の書物があるのは知つてゐる。その名の如く重宝な書なのであら うと 思つ てゐた。まちがひではなささうであるが、何に対して重宝であるのかといふ点が分からない。本書からすれば、あらゆる物事に対して の重宝な情報が載る書とでもいふべきものであらうか。実用書であり教養書であり、それゆゑに様々なジャンルの書があつた とい ふこ とか。本書はその中の呪ひである。現代でもかういふ書物は多い。呪ひや占ひの書も多い。いや、さすがに呪ひの書は少ないであらう と思ふが、思はぬところに呪ひどころか、詛ひ、のろひを含んだ書が出てゐたりするのに驚いたりもする。さうしてみると、 江戸の 人々がこのやうな多くの呪ひで毎日を過ごしたのもある意味当然のことであつた。これなくしてはやつていけないのである。病気や人 間関係、動物や害虫、これらすべてがままならない。「凡人は不安のあげく呪いに頼らなければならないのである。(原文改 行) 呪いの伝承は今に続いている。」(8頁)本書はそのための書であつた、かどうかは知らないが、多少は役に立ちさうな気はする。

21.02.20
森岡督行「荒野の古本屋」(小 学館文庫)を読んで、いや読みながら思つてゐたこ とは、この森岡さんは幸せな人だ といふことである。酒井順子の「解説」に、「開業や起業というと、幅広い好奇心を持った野心的な人が踏み切る印象がありますが、 森岡さんの場合は、好きなこと、興味あることだけに没入していった結果として、おのずと独自のやり方を発見していま す。」 (235〜236頁)とある。具体的には、古本屋を始めると次にギャラリー、スタジオと手を広げていく。最初からさうしよう と思 つたわけではなく、結果としてさうなつていつた。それは確かに「興味あることだけに没入していった結果として」そこにできたこと であらうと思ふ。普通はなかなかかうはいかない。第一に古本屋でも何でも、商売をはじめるのならばその場所を考へる。人 通り があ つてとか何とかをまづ考へるのに、この人は「茅場町で昭和初期の建築を見れば、(原文改行)『ここで古本屋をやりたいです』(原 文改行)という言葉がほとばしり出てきて、本当に独立。」(酒井、235頁)といふやうに、場所ではなく建物が先に来 る。こ れは 巻頭の「中野ハウス」でも同様であつた。この時は22歳で己が住み処を求めてであつたが、この中野ハウスもまた「かつて戦前に作 られた物件が三棟」(18頁)といふものであつた。この一部屋の「昔は石炭置場として使ってい」(19頁)た一画を「本 を収 納し ておくのに、ちょうどよい構造だ」(同前)と判断し、「ロフトの上に寝転べば、読書に最適な場所となるだろう。」(20頁)とし て借りることにする。この人は古い建築が好きな人であつた。だから、場所柄も考へずに、部屋、建物の様子だけで開業を決 めて しま ふのである。開業した当日はともかく、最初は客はほとんど来なかつた。「開業当初のころの、本を仕入れる気持ちすら萎えてしまっ たという、破れかぶれの状況」(166頁)が一本の電話で好転する。するとスタジオの話が来て……といふことでギャラ リーも 間も なく始まる。こんな調子で、店が続いていく。
・もちろんすべてがこのやうにうまくいつたはずがない。「破れかぶれの状況」があつた。個人的には、さういふ時のことも また 書い てほしかつた。世の中、誰もがうまくいくことだけで生きてゐるわけではない。どれほどの絶望に襲はれたのか、そしてそこをどう乗 り越えたのか。破れかぶれを一度は電話で乗り越えた。では、破れかぶれは1回しかなかつたのか。ならばやはり幸せな人で あ る。他 にもあるのならば……本書からはなかつたのかとも思ふが、逆に、きつと乗り越えたはずだとも思ふ。ただ、人は書きたいことは書く が書きたくないことは書かない。編集者も失敗よりは成功を望むだらう。とすれば、このやうに結局はすべてうまくいく、森 岡さ んは 幸せな人だといふところに内容が収斂するのはしかたないのかもしれない。この人のこれまでが正にさうであつた、だからこれ以上は 書けないといふことかもしれない。ならば、荒野の古本屋ならぬ、荒野を沃野に変へた古本屋とでも名を改めるべきだ。その 方が ずつ と内容を表してゐる……などと私は考へてしまふのだが、これもこの人とは違つて世の中ままならぬとしか思へない人間ゆゑの感想か もしれない。「興味あることだけに没入してい」ければ良い。それで道が開けば更に良い。本書はそんな見本のやうな人の書 であ つ た。「一冊の本を売る」(8頁)書店を私は想像できない。これでは読む本を捜す楽しみが奪はれさうだと思ふ。その一方で、書店も 様々であれば良いとも思ふ。私の周辺にそんな本屋はできさうにないのだが……。

21.02.13
喜熨斗古登子述・宮内好太朗編「吉原夜話」(井蛙房)は先の東 京五輪の後に出た。しかし、本当はもつと古い。「あとがき」はまづ、「この吉原夜話を本にすることを最初に勧められたのは長谷川 伸さんです。」(246頁)と始まる。「所は台湾の花蓮港市の公会堂の一室、昭和十五年の夏頃だと思います。」(同前) と来 るの だからますます古い。最後に「四十年前の書きものが、初めて本になる。」(248頁)といふのが昭和39年である。つまり、本書 の最初は大正のことになる。『都新聞』大正14年7月1日が第1回の演芸欄の囲み記事であつたといふ。話し手の喜熨斗古 登子 は初 代市川猿之助の妻であつた人で、文久元年(1861)に吉原の中米楼に生まれた。中米楼は中店だから特に大きいわけではない。そ れでも吉原の遊郭の娘である。しかも、「中米楼の衰運を廿歳位の女腕で盛り返した」(225頁、「追補 吉原夜話」)と ある ほど の人である。一通り以上のことは知つてゐよう。ただし、古登子は文久生まれで江戸のほとんど終はりの人、そして明治4年 (1872)には吉原の大火もあつて深川の仮宅を経験した。だから、古登子の吉原は江戸といふよりは明治になる。古登子 の話がそ のまま江戸の吉原となるのかどうかは私には分からない。聞き手の宮内もこのことには何の疑問も持つてゐないらしいから、明治 の途 中までの吉原は江戸の吉原であつたと言へさうな気がする。建物等は変はつても、明治の初めの吉原はそのまま江戸につながつてゐた のであらう。
・当然のことだが、私の吉原は単なる知識である。歌舞伎や落語での見聞、あるいは書物、かういふことが断片的にあるだけ であ る。 だから、「宝暦年間には太夫と称する遊女は姿を没した」(229頁)といふことは大体は知つてゐるのだが、「芝居でお馴染の揚 巻、玉菊も太夫ではありません。」(230頁)となると、これはよく分からない。万事が曖昧なのである。吉原の遊郭とい つた とこ ろで人が住んでゐる。これも何となく分かつてゐるやうな気はするのだが、(リアルな)映画等を見ないから詳細不明、結局、遊郭は 遊郭で人々が暮らす部分がどうなつてゐるかもまた分からない。本書でもかういふことにはあまり触れてゐない。吉原は遊郭 だか らそ れは知らないといふ意識があるからではないかと思ふのだが、逆に言ふと、それゆゑに、所謂年中行事は部分的には詳しい。終はりの あたりでは、仮宅から吉原への練り込みに始まる年末年始の吉原風景に触れてゐる。夷講をしたらしいのはさすが、といふよ り、 客商 売である、当然のことであらう。大鷲神社の酉の市も華やかである。お参りをすませると「あとを振り返らず家に帰る」(197頁) といふのも、その理由は書いてないが、盆行事に限らず、一般的にかういふことが行はれてゐたのかと思はせる。芋や簪を買 ふの は吉 原で普通に行はれてゐたことか、あるいはこの家独自のことか。「家の吉事として」(198頁)とあるだけである。また浅草の歳の 市、さすがにいろいろと買ふ。若水汲みの「手桶は、殊更に念入りに調べてよい品を買い入れて」(203頁)とあるのも時 代か 吉原 かといふところ、まだ若水汲みが行はれてゐたのである。この先も年末、年始を迎へる様々な行事がある。煤払ひの「御祝儀の胴上 げ」(208頁)いふことで、「どういうわけか胴上げを必ず行うことにきまってい」(209頁)たといふのもまた、吉原 の行 事か と思ふ。吉原がまだあつた時代の人はかういふこともよく知つてゐたのであらう。それを知らない人間は、却つて分からないことが増 えてしまふばかりである。それでもおもしろい書であつた。

21.01.30
長田純「町かどの藝能」上下(文化出版局)はおもしろい書である。歌にあふれ てゐ る。特 に上は私好みの歌にあふれてゐる。ただし楽譜があるわけではな い。たぶん、実際にこれらは復活されたらしいので、その段階では実際の歌として歌はれたのであらうと思ふ。それが最初に、といふ か、江戸時代に歌はれたと同じ歌であつたかどうかは分からない。何らかの形で現代風な味付けがなされて、たぶん復活され たの であ らうと思ふ。記録、あるいはその歌の子孫でも存在しなければ昔のやうには歌へない。とはいふものの、ここでいふ藝能とは、「生活 をかけて、生命をかけて、商人たちは芸を磨いた。まさに血のにじむような修行の日々をおくった。そしてかつての素朴な売 り声 を唄 売り声に、口上を話術から話芸といえるまでに磨きあげたのである。現在残っている伝統芸能の多くが云々」(「はじめに」11頁) とある、その物売りの歌である。当時、といふのは「江戸時代の初期から中期」(同前)といふのだから古い、文化の中心は 京に あつ た。「京の町かど、それに四条河原や有名社寺の境内ーーこれこそがそうした芸商人たちの檜舞台であった。」(同前)つまり、四条 河原の見世物の類ではなく、同じ四条河原でも物売り達の歌声、それが「町かどの藝能」であつた。
・上から適当に引く。
◯ひいなのお飾りなされましょう/たたんで折った七色の/ひいなは女子の守り神/厄除け魔除けの守り神/ひいなを流して いの り ましょう(24頁、「/」は原文改行)
流しびな売りである。「女子のきれいな唄声」(同前)とあるやうに、流しびなを売るにふさはしい若い女性の芸商人なので あら う。 「江戸中期には京だけでなく、日本各地でたいへん評判を呼んだ」(25頁)といふ。
◯なんばなんばなんばの子/ころころなんばはあかなんば/びっくりはぜのあかなんば/ころころなんばはきいなんば/びっ くり はぜ のなんばの子/白いなんばは誰にやろ/なんばなんばなんばの子(88頁)
トウモロコシ売りである。これも江戸中期、「『なんば』売りのおっさんは町の人気者だった。」(89頁)ので、この歌は 「童 唄の ように子供たちに唄われた。」(同前)といふ。しかも、この歌の子孫は女の子の歌として「明治のころまで唄われていた」(同前) らしい。次のとんがらし売り「◯やあれそうれとんがらし」も「遊び唄になっていつまでも唄われた。」(91頁)らしいの だ が、そ の「いつまでも」が分からない。ただ、歌はれたからには、歌はれるだけの魅力が歌にあつたのであらう。しかし、これらの楽譜はな い。本書に載る歌はほとんどわらべ歌と思はれる。なんばの歌などはその典型で、これを子供達が歌つたのも当然のこと、な んば の繰 り返しがいかにもわらべ歌らしい。そこで私も歌つてみる。元歌は分からないが、詞章の雰囲気からこんな歌になるかなぐらゐは見当 をつける。それで歌ふ。正直なところ、皆同じやうな歌になりさうである。そこで適当に変形をしてみると、それらしい歌に なつ たり する。二度と同じ歌は歌へない。しかし、それで良いのである。読んで楽しむのも良いが、あの詞章を試しに歌ふ。これもまた良い。 それにふさはしさうな歌は上に多い。上は芸商人を春から冬に分けて載せる。季節感にあふれてゐる。下は様々のものがあ り、中 には 例の外郎売りもある。所謂芸能に近いものも多い。私には分からないにしても、これはおもしろくない。あくまでもわらべ歌如き詞章 で歌へさうなのが良い。そんな楽しみを提供してくれる書はほとんどない。その意味で本書は貴重である。昭和50年代終は りの 書、 その後本書の歌はどうなつたのであらうか。




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